愛 河


目を閉じると
  衣を染めたような
 蒼い
が見える



 まえがき 



 あのころ心を満たしていたいろいろな空想を思い出すのは難しい。たとえ思い出せたとしても、それがまちがいなく自分が蓄えた記憶だと確信できない。しかも、それらがみな思い出だけでなつかしいというのではなく、大きく神聖なものに感じられ、深い意味に満たされているように思われる。その捉えがたい映像は、抵抗することのできない不可避的な感情そのもので、宿命のように強烈な力を持っている。そのせいで私は、特別な事件が起こって人生を彩ったいくつかの地点に、いまも亡霊のように出没し、さまよい歩きつづける。
 どうして私は、希望に欺かれるたびに、言葉を書きつけながら、時の経つにまかせてきたのだろう。なぜ、言葉の外へ歩み出して希望を信頼し直さずに、言葉に順化しながら、自分を記憶の奴隷にしてきたのだろう。その問いに答えるためには、このまま言葉の内に留まりながら、きわめて長い、渾身の愚痴を書き記すしかない。しかし、記憶を言葉の形に結晶させることに自得した私自身はともかく、少なくとも言葉に順化することなく、言葉の外で記憶を刻みつづける人びとは、この長物語の馬鹿さ加減を笑うだろう。
 まさしく、個人的な真実のために書き記される言葉は一つの無為にちがいない。ある個人に啓かれた真実には年齢がなく、かつて青春に隷属したようにも見えず、またこれから老いるということもなさそうに見える。それは個人から離脱した、どの個人の有意ともならない浮遊物である。それは普遍的な人生を教えるものではない。ひたすら虚飾に満ちて実用の伴わない、個人の美意識の篆刻(てんこく)である。しかしおそらく、そうでないかぎり、真実とは呼ばない。
 とはいえ、個人の言葉は、彼の真実を表現するために嘘をつくまいとする。嘘は彼の真実を翻転させる絶対の形だからだ。少しでもみずからの真実をゆがめる嘘は、彼にとって隠蔽のための嘘よりも罪の重さを感じさせる。ただ、言葉はたぶん、地上をあまねく照らす光ではなく、個人の頭蓋を照らす光であるがゆえに、たとえ彼独自の真実の表現に徹したとしても、虚構の陰影を残さざるをえない。しかし、その陰影は彼の不都合を隠蔽し、彼の秘密を覆い隠す作為のシートではない。個人的な真実を書き記す言葉には、いわば沈黙の影があり、必要なことのほかは口を利かない寡黙の影があり、利害のあるなしに関わらず真正の現実を拒否する美意識の影がある。しかもその陰影はおそらく、彼以外の人間を魅了するだろう。


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