第二部


一章 野辺地中学校





         一

 祖父母とくつろいでいた昼下がりに、頭の禿げちょろけた丸眼鏡の男が、ぺこぺこ土間に入ってきた。
「ごめんください、中村です」
 ばっちゃが障子を開けた。
「おいや、マサちゃんかい。上がってけへ」
「すぐ学校さ戻らねばなんねすけ、ここで」
 眼鏡のにこやかな細面が、土間に立ったまま頭を低くしている。
「えらく久しぶりでねな。きょうは何の用だべ」
 じっちゃがあごを反らして応対した。
「郷くんの転校が決まりましたので、お知らせにまいりました」
「決まったてが!」
 ばっちゃが明るい声を上げる。
「はい、ようやく決まりました」
「野辺地さきて、四十日にもなるでば。うだで待たせたニシ」
「申しわけございませんでした。向こうの中学校との交渉がギクシャクいたしまして。要するに、常軌を逸した非行少年なので、いや、野中の教師側でそう考える者は一人もおりませんが、とにかく、たいへんだろうが引き受けてほしい、ということで話が決着しました。しかし、PTAの一部が渋りましてね。郷くんの野球の活躍ぶりを示す新聞記事を見せたり、とんでもなく優秀な勉強成績などを紙に刷って配るなどして、なんとか説得いたしました。田舎の人間には、頭の固いのもおりますからね。どうか、心配なさらず、あしたから登校なさってください。あしたは十四日、土曜日、半ドンですし、顔見世としてはちょうどいいんじゃないでしょうか」
「顔見世って、オメ、役者でもあるめえし」
「教師どもはみんな、そんな気持ちでおります。送付されてきた資料を見るかぎり、秀才というより、天才少年ですからね。……ところで、英さんは元気でおりますか」
「おお、名古屋のほうの建設会社にいら。おめ、同級だったおんな」
「はい。大した出世をしたと聞いとりますが」
 ふん、とじっちゃは鼻を鳴らし、
「どんだんだが。なんも言ってこねすけ、わがらね。おめ、いま野中で先生してるのな」
「はい。弘大出て、すぐここさきて、それからずっと社会科を教えとります」
「そろそろ校長になるんだべ」
「いえ、四、五年してようやく教頭、校長になるのはそれから先の話です。なつかしいなあ、この土間」
「もう二十年になるべよ」
「はあ、二十年以上かなあ」
 三人の会話を聞いているうちに、マサちゃんという男が英夫兄さんの親しい友人で、中学生のころよくこの家に遊びにきていたことがわかった。
「キョウの事情はわがってるのな?」
 ばっちゃが尋いた。
「はあ、あらましは……。更生の具合が順調なら、三学期中にも名古屋のほうへ再転校もあるんじゃないか、と聞いとりますが」
「そたらワチャクチャなことがあるもんだってが。タライ回しもいいとこだべ」
「はあ、私もそう思います。こちらでじっくり勉強して、ちゃんと卒業すれば、受験は向こうでするという手もあるわけでして。宮中さんも、再転校を渋っておりましたし、やはりこっちの中学を卒業するということになりそうです。当校としては、ありがたいことです。三年間の成績が送られてきましたが、神無月くんはとにかく驚くほど優秀で、教育県である愛知県の五本指、愛知岐阜三重、三県総合の十本指というんですから、尋常じゃありません。この中学校で満足できるかどうか、危ぶんでおります」
 じっちゃが上機嫌に煙を噴き上げた。
「いらね心配だじゃ。あの中学もこの中学もあるもんだってが。もともと勉強というのは難しいもんでェ。上がりはねえのよ。どたらに優秀なアダマでも、学ぶ場所を馬鹿にしたら、オシャカだべ」
 煙管をはたいた。ばっちゃもうれしそうに、
「ンだ、ンだ、高校もこっちで上がればいいんだ」
 マサちゃんはさらに腰を折り、
「そうしていただければ、本校にとっても願ったり叶ったりでして。ところで神無月くんは三年一組に編入されることになりました。奥山允(まこと)先生の担任です。全校一番の山田三樹夫が級長をしておりましてね、彼は神無月くんに会うのを楽しみにしております。ひととおり教科書を持ってまいりましたので、お渡ししておきます」
 中村先生は私に紙包みを差し出した。
「奥山先生は、きょうは授業が詰まっているので、報告を頼まれました。あした職員室であらためてと申しておりました」
 じっちゃが、
「山田? 山田医者な」
「はい。縦貫タクシーの裏の山田医院です。先代が亡くなってからは、もう病院は閉じておりますが」
「そんだおんたな」
「だば、きょうはこれで失礼します。神無月くん、がんばってけんだ」
「はい」
 マサちゃんが何度も腰を屈めながら帰ると、ばっちゃは私を連れて、本町のクボタ制服店にいった。
「学生服は、名古屋から着てきたものでじゅうぶん間に合うよ」
「んだな。へば、帽子買うべ」
 野中の徽章をつけた学帽を買った。ついでに、校内用の上履きと襟章も買った。上履きは青い縁取りで、宮中のものとほとんど同じだった。
「わいはあ、三年生のいまから転校だってが! うだでだこだ」
 店の者がばっちゃの話に嘆じてみせた。
「眼鏡も買わねばなんね。いっつもマナグ細ぐして具合悪そんだ」
 やなぎや眼鏡店で三十分ほどかけて視力を測った。思った以上に悪くなっていた。しかし、鏡に映した眼鏡面があまりに間が抜けていたので、ふだんはかけないことに決めた。
 その足で、菩提寺の常光寺へ回った。十年前のお盆の夜を思い出したけれども、何の感慨もなかった。それなのになぜか涙が湧いてきたので、私は眼鏡をかけてあたりを見回すふりをした。角の丸く削れた、腰の高さほどしかない墓石を洗い、香華をたむけ、線香を立てて合掌した。
「ばっちゃ、これ何のお参り?」
「おめが中学さ入(へ)ったお礼だ」
 カズちゃんの町内めぐりに刺激を受けて、ばっちゃといっしょに、あらためて観光気分でゆっくり町並を眺めながら帰った。町役場、カクト家具店、郵便局、大湊写真館、高野薬局、五十嵐商店、石造りの青森銀行、佐藤製菓、縦貫タクシー、うさぎや文具店、平尾時計店、栃木精肉店、照井酒店、喫茶レモン、戸館医院、沼沢青果店、銀映。カズちゃんの言うように何でも揃っている。でも、平五郎ちゃんの床屋は姿を消し、銭湯の隣の野辺地東映は、このひと月気づかなかったが、近づいてよく見ると、看板が野ざらしの廃屋になっていた。
 うさぎやの並びの小さなレコード屋が目に入ったので、ばっちゃともう一度引き返し、三百三十円のEP盤を九枚も買った。西郷輝彦の君だけを、チャペルに続く白い道、星空のあいつ、涙をありがとう、十七才のこの胸に、岸洋子の夜明けの歌、弘田三枝子の砂に消えた涙、ロイ・オービソンのオー・プリティ・ウーマン、プレスリーの好きにならずにいられない。西郷輝彦をたくさん買ったのは、野球部の連中をなつかしんだからだった。ばっちゃは私の無駄遣いをにこにこ見ていた。
「思い切って買うもんだでば。無駄遣いしねで、高校さ入(へ)ってからの小遣にとっとくんで」
「うん。このあいだ、よしのりに三万円上げようと思ったけど、断られた」
「なしてやらねばなんねのよ!」
「高校にいかしてもらえないって言ってたから」
「いがなくていいじゃ、あったらの。おめも、まあ……」
 ばっちゃはいつもの口を隠してうつむく格好で、くっくっと笑った。
「お金って、あまり手にしたことないから、持ってると居心地が悪いんだ。早く手放したくなる。幼稚園のころ、じっちゃに一度五円もらったきり、小学校四年生の正月まで一円も手にしたことがなかった。いや、そりゃオーバーだな。十五円の昼めし代で貸本は借りたし、映画も観たし、かあちゃんの給料袋を落としたこともあったな。つまり、自由に使える小遣いをもらったことがなかったというだね。だから、生まれて初めて飯場の人にお年玉もらったときには驚いた。何万円もくれるんだ! ぜんぶかあちゃんに取りあげられたけどね。そういえば、抽斗の奥にへそくりを何千円か入れっぱなしで忘れてきた。かあちゃんが見つけたろうな」
 ばっちゃはうつむいて歩きながら、
「神無月さんと別れて、こっちさ帰ってきたあたりから、ジェンコ、ジェンコってへるようになったな。……おめも難儀したな」
「この何年かのあいだにぼくがかあちゃんに巻き上げられたお年玉を合計したら、きっと大した額になるよ」
「もともと、おめがめんこくて人がけだ金だべや。てめのためにけだのでねえものをふところに入れて貯めこんだら、腐れ金になるべ。飯場の給料なんてのは、涙金だべや。あれが貯めこんだ金は、お年玉ばりでねはずだ。いろんな捩じくれたことして、貯めこんだんだべ。そたら腐れ金はいつか湯水のごとく使ってしまるものだんだ。あれがこっちさ送ってくる金だば、ぜんぶそうやって貯めた腐れ金だべ。使ってしまればいんだ」
 だからばっちゃは、私から金を受け取ろうとしなかったのだ。人がぼくのために気持ちをこめてくれた金に手を出してはいけないのだ。
「取られ損だったでば。だども、だいじょぶだ。スミが悪さしねかぎり、おめはこの先金に苦労しねこった。人がおめに腐ってね金けるすけ。人がけるだげでねェ。おめも、大っきぐなったら、じっぱと稼ぐようになら」
「そうかなあ、信じられないな」
「金稼ごうとするやつは、悪さしねば稼げねんだ。おめには稼ぐ気がねすけ、悪さしねでも金がくっついてくるんだ」
         †
 ばっちゃといっしょに、下駄箱に囲まれただだっ広い玄関に入った。新品のズック靴に履き替え、廊下に踏み出した。左に曲がってすぐ左手の職員室の戸を開ける。ほんの一瞬私は敷居でためらい、暗い危険にひるんで、明るい廊下へ後戻りしそうになった。たしかに危険はあった、想像という危険が。
 敷居を跨ぐと、職員室じゅうの眼という眼が私に集まった。壁の時計の針が八時二十分になろうとしている。ばっちゃがだれにともなくお辞儀をすると、一人の中年の教師が立ち上がってお辞儀を返した。
「神無月くんですか」
「そんだす」
「私、三年一組、五十二名の担任の奥山と申します。神無月くんはうぢの組さ入ります」
「新道の佐藤(さどう)です。ガヘンバの」
「は、承知しております。手続に手間取り、転校が遅れて申しわけありませんでした」
 なんとか訛りを消そうとしている。それでも、オグヤマ、と聞こえた。彼以外の教師たちは挨拶を渋るようにしていた。その気配から私は、マサちゃんの先触れとちがって、自分の前評判が予想以上に芳しくないことを知った。ばっちゃは私を促し、遠慮がちに奥山先生の前に進み出た。私は上半身を深く傾けた。
「佐藤善吉さんのご高名は、かねがね聞いております。秀才の誉れ高いご家系ですね。ご子息はみなこの中学校の主席に君臨してきたとか。私どもも、お孫さんにお会いするのを楽しみにしておりました」
 私は奥山の姿にちらちら目を留めながら、注意深く観察した。背丈はそれほど高くないが、筋肉の引き締まった俊敏そうなからだつきで、形のいい鼻や、一文字に食いしばったような口つきに、意志の強さと度量の広さが現れていた。二重まぶたの深く切れこんだ目は、情熱にあふれて澄んでいた。
「型破りの野球選手だと聞いておりましたが、運動家というよりは、芸術家か学者といった雰囲気ですね」
 奥山はこの少年に会ったとたんに、深い哀れみを感じた。不思議に明るい静かな顔に、同情しないではいられない深い悲しみが刻まれていたからだ。かたくなで実直な人間特有の悲しみだった。
「神無月くん、こっちの学校じゃ物足りないかもしれないが、がんばってください」
「はい」
「悪たれだすけ、なにぶんよろしぐお願げします」
 それにはうなずかず、
「十年も前のことになりますか、私、新米のころ、善夫くんを教えたんですよ。彼もずっと首席でした」
「そたらのは、じっちゃの手柄だべせ。オラはなんも関わりがね。オラにしてみたら、みんな曲がらねでつつがなぐやってくれれば、それだけでなんもいらねのよ」
「なるほど。善吉さんと二人三脚、人間的薫陶のほうを担当なさったわけですか。……ところで、あわただしい転校でしたね」
「ほんだの。あっちで悪さして、送られてきたの。ワは、キョウが悪いことをしたとは思ってねよ」
「私もそう思います。あちらの担任の先生に電話でおおむね伺ったところでは、少なくとも私には郷くんの行状が、果たして悪さというものに当たるかどうか疑問です。じつはその先生も、ゆきがかり上こうなっただけで、郷くんに非はないとおっしゃっておりました」
 苦い顔をしている教師も二人、三人いる。〈不良〉として送られてきた少年がいったい何をしたのかということは、なまなましく彼らの興味をそそっていた。私は、彼らがそう思っていることを手に触れるほどはっきりと感じた。
「母親が面倒くせ女で、針を棒にして騒いで、このワラシをぶん投げたんだ。……とにかく、よろしぐお願げします」
 ばっちゃはもう一度深く腰を折った。奥山は彼女に丁寧な辞儀を返した。彼女はあたりの教師にもお辞儀をしながら職員室を出ていった。


         二

 奥山は私を廊下へ導いた。
「最初はとまどうと思うが、なに、取って食われるわけじゃないから。山田三樹夫くんという立派な統率役がいるので安心だ。山田くんはこの学校のナンバーワンでね、きみのいいライバルになるぞ」
 職員室の隣は校長室だった。ドアの小さな磨りガラスに灯りが点いていた。奥山がノックした。ハイ、と声がした。奥山は私を連れて入った。
「神無月くんです」
 私を脇に随えて、眼鏡をかけた白い口髭の男に腰を折った。釣られて私もお辞儀をした。
「私は校長の野月です。事情は聞いた。自然でありきたりで不器用な非行少年がくることを予想していたが、まったくちがった。きみは不良じゃないね。義侠の徒だ。その精神に永遠の美しさと真実がある。きみのような生徒を迎えることができて、光栄に思う。卒業まで残り四カ月しかないが、ふだんの気持ちで、のんびりと勉強と運動に励みなさい」
「はい」
「いい顔をしている。孤独感が胸に迫るね。子供は親や先祖とは顔立ちもちがえば心映えもちがう。孤独にならざるを得ない。やさしい親族に預けられて幸運だったね。長く待たせてすまなかった。PTAの頭の固さには手がつけられない」
「まことに……。では、失礼します」
 奥山に合わせてもう一度お辞儀をした。
 廊下の窓から射してくる明かりが、ヒゲの剃り跡の青い中年教師の顔をくっきり照らし出した。私はなぜかそのヒゲの濃さに安心した。奥山先生は廊下の外れから二つ目の、校長室に隣接する教室に元気よく入っていくと、私の背をそっと押して教壇に上げ、ざわめく人声を手で制した。教壇の脇に鉄製のストーブが据えてあったが、火は入っていなかった。
「このあいだおめんどに話した、神無月郷くんだ。名古屋から転校してきた」
 そう言って彼は黒板に私の姓名を丁寧に書いた。大きくて太い文字だった。私は上半身をまっすぐ伸ばして倒した。私に向けられた五十四人の目が、強い好奇心と温かさにあふれていた。奥山先生はもちろん私の転校の理由は言わなかった。
「神無月くんはいろいろ事情があって、こんな押しつまった時期に名古屋から転校してきましたが、うるさく詮索しねよに。静かに見守ってやってください」
 全員の顔を見回しながら言った。真剣な視線がこちらに向けられている。私はもう一度軽い会釈をした。教室のどこかから、季節はずれの大きな蝿が一匹、うなりを上げながら黒板にぶつかってきた。身をかわすと、ドッと笑い声が上がった。
「野中も一学年に四百人以上もいるマンモス中学校だども、神無月くんのいた名古屋の中学校もそれに輪かけたマンモスです。神無月くんはそこで首席を争う大秀才で、おめんどとはちょっとケタがちがる。野球も愛知県のホームラン記録を何度も塗り替えて、スカウトに引っぱられるほどの逸材です。ひとことで言うと、天才だな。ほんだすけ、勉強の仕方やら、スポーツやらも、いい手本にならねかもしれね。だども、見習うべき点は見習い、また神無月くんの慣れないところには、進んで手を貸してやってけろ。山田くん、ひとつ、神無月くんが早ぐこの学校のことを覚(お)べるよう、バックアップ頼むじゃ」
「はい」
 丸顔の山田という男が、後ろのほうの廊下側の窓際からにこやかな顔で返事をした。かすかな八重歯が人相を柔らかくしていた。
「神無月くん、私の希望は、これまできみが大事にしてきたことに誇りと自信を持って、明るく暮らしてくれることだ。なんも軌道修正なんかしなくていい。―山田くんの隣に座りなさい。だば、一時限目は、自習!」
 戸を引いて去ろうとしたとき、少し頭をかしげた奥山先生の様子は、まるでこの新入生にあらためてお辞儀でもしたいという様子だったが、さすがにそうもできずに、私から顔を逸らしてゆっくり出ていった。彼が廊下に去ると、私は後ろの席に歩いていき、山田に頭を下げながら座った。山田は才気走った白い顔をほころばせた。
「十年ぶりだニシ」
「……?」
「幼稚園がいっしょだったべに」
 目のぎょろりとした馬面の生徒が寄ってきて、
「文雄だ。本町の佐藤菓子。オラもおめと幼稚園が同じだったんで。覚(お)べでるな?」
 たしかに見覚えがあった。
「佐藤菓子の……ボッケ?」
「ンだ。これ、見ろ」
 文雄はわざわざ持ってきたらしいアルバムを拡げた。
「これがオラだ」
 きょとんとした幼い馬面が私の隣に立っていた。最前列に山田の顔もあった。どやどやと何人か集まってきた。にやにやしながら覗きこむ。覗きこんでいる連中はみんな幼稚園の同級生のようだ。それぞれが写真の自分を指差し、恥ずかしそうに笑う。見ているうちに、たちまち思い出した。
「あ! わかったよ」
 私は一人ひとり指差していった。
「この口の大きい子は、村上幸雄(よしのりの言ったガマだった)、このまるまると肥ってる子が岡田パン、これが材木屋の赤泊(あかどまり)、この小さいのが種畜場の中島チビタンク。これが鉄道官舎の四郎……」
「四郎!」
 ボッケが思わず叫ぶと、
「おお!」
 と応えて、タンク型の少年が進み出た。
「すげホームランだったな。ワといっしょに東奥義塾さいがねが」
 名電工のスカウトが言っていたという東奥義塾だ。ドクンと心臓が打った。
「きみはスカウトされたの?」
「夏にな。野高のグランドでホームラン打ったすけ。一年間に四本打った。おめの記録は何本だ」
「十本ぐらいだったと思う。中二のとき。今年もホームラン王だったけど、何本打ったか忘れた。七、八本、かな。小学校五年からずっとホームラン王だった」
「敵わねな」
「きみはほんとうに幸運だ。だれの妨害も受けない。プロ野球にいくつもりでがんばってね。ぼくは野球はしばらくおあずけだ」
 私はアルバムから顔を上げ、あらためて一人ひとり成長した顔を眺め回した。女子も何人か彼らの背中からこちらを見ていたが、笑っているばかりで、近づいてこなかった。中に人形のようにのっぺりと美しい子がいた。黒い細縁の眼鏡をかけ、醒めたような笑顔をしていた。私の視線に気づいて、山田が言った。
「あれは、カクト家具のイツミちゃん。うだでめんこいはんで、だれも口きけね」
 眼鏡をかけた細面が恥ずかしそうにうつむいた。隣にいたゴリラのような四角い体型の女生徒が彼女を連れてきて、
「きれいだべ?」
 と胸を反らした。そして勝手にイツミちゃんの眼鏡を外した。のっぺりとした美しさに変化はなかった。カズちゃんのような重厚さもなく、杉山啓子をただ日本風にした感じだった。イツミちゃんは恥ずかしがって逃げていった。
「奥山のことをグダヤマってへると、ぶん殴られる」
 とガマが言った。たしか彼の家は、幼稚園のそばで駄菓子屋をやっていて、そこの婆さんに一度だけトコロテンを振舞われたことがあった。
「君の家は駄菓子屋で……」
「おお、いまは店やってね」
「英語の沼宮内(ぬまくない)も、ウマグナイってへると、やっぱしぶん殴る」
 と赤泊。
「西舘セツは―」
 と岡田パンが、さっきの顔も肩も角張った女生徒を振り返り、
「一組の奉行だはんで、逆らうとぶん殴られる」
 彼らは新入りの気を引き立てようとして、勝手に笑いの波を立てた。私の耳は、すべての笑い声にわざとらしくない素朴な好意を感じた。陽の射す側の窓辺に、生徒たちの騒ぎに関心なさそうにぼんやり座っている女生徒の横顔が見えた。ふくらんだ頬が節子に似ていた。
「フォードア」
 山田が囁いた。
「え?」
「浜町の四戸(しのへ)末子。あの人も、めんこいニシ」
「そうだね」
 関心もないことに注釈を入れている山田を気の毒に思い、うれしそうにうなずいた。
 授業の進度は名古屋よりかなり遅れていた。学年が一つちがうかと思うほどだった。教師たちは私の視線を気にして、ときどき、自分の講義の進み具合と正確度を、私の顔色に照らして確かめようとした。しかし、私の真剣な表情に突き当たると、ほっとしたように教科書に目を戻した。
         †
 毎日昼休みになると、廊下に並べてある保温器から、胸の悪くなるような弁当のにおいがただよってくる。私はそのにおいを嗅ぎたくないので自分の弁当箱は温めないことにしていた。石のように硬くならないかぎり、冷飯は好物だった。ばっちゃのおかずは毎日ササゲ炒めと、タクアンと、玉子焼きだった。これも好物だった。山田三樹夫も弁当を温めない。いつも黙々と冷飯に箸を突き立てている。彼は繊弱な雰囲気の生徒だったが、仲間たちの中でひときわ大人の風貌をしていた。昼めしのあとも、教室の後ろの壁に凭れ、腕をこまねいて微笑みながら、仲間をまるで年下の子供たちのように眺め渡し、だれよりもできあがった様子をしていた。
 授業のあいだ、私はちらちらと山田を盗み見た。誇らしげな目鼻立ちや涼しい目もとはもちろんのこと、彼のどんな小さな動作も見逃さなかった。きちんと姿勢を正した座り方、教科書のめくり方、メモの取り方、坊主頭に白い手をやる仕草。彼は青みがかった顔をじっと黒板に向けたり、ときどき教科書の上に戻したりした。その静かなたたずまいが、かぎりなく私を魅了した。
 山田くん、と彼は教師から指名され、立ち上がり、滑らかに回答する。答えは信頼されたとおり、周到で適確だった。直井整四郎とちがって饒舌ではなく、いやみがない。私はじっとこの不思議な少年を見つめていた。自分とまったく同い年なのに、まるで別の世界に属しているようだ。たぶん彼は、どこの中学生に混じっても、常に頭角を現す人物にちがいない。それを知ってか知らずか、彼が努めて目立たないようにしているような気がした。そう感じると、ますます強く見つめないではいられなかった。
 山田に気後れしているのは私だけではないようだった。言葉遣いも動作も活発で、お互い教室で押し合いへし合いしているようなほかの連中も、彼に注意されるとみんなおとなしくなり、あるいは彼が立ち上がってどこかへいこうとしても、すぐに道をあけるというふうだった。教師たちも彼に一目置いて気を使っていた。
 山田はそういった周囲の反応を別に気にしている様子はなかった。傲慢だとか、見栄っ張りだとか、自分のことを特別の人間だと思っているとか、そういう感じもまったくなかった。それどころか、ほとんどの仲間たちとはちがって、口の利き方がとても丁寧で、話しかけるとかならず微笑を浮かべる。朝、みんなのいやがるコークス運びなどを率先してやる。仲間たちはそんな彼を心から尊敬しているのだった。
 何日もしないうちに、遠慮せずにしゃべり合う仲間が何人かできたが、特別な親しみを感じるというのではなかった。彼らにしても、押しつまった時期に、たぶん危ない事情でやってきたらしい〈不良〉が、案外おとなしい生徒で、むしろ模範生になろうと努力しているようだと看て取り、安心して近づく気になったようだった。しかしそれだけのことで、もっと肌のそばに寄って心臓の鼓動を聴いてみるほどの親しみはなさそうだった。
「このグラグラだば、使えね。薪にしてまる」
 登校まぎわに、ばっちゃが机を見下ろして言う。
「まだまだ使えるよ」
「もうカクトで買ったじゃ。きょうの昼間に届くこった」
 夕方学校から戻ると、机と椅子が届いていた。立派な一枚板のものだった。ニスがつやつや光っている。じっちゃと二人で部屋に運んだ。
「クルミだな。たげんだ、クルミは」
 彼は古い机を一人で抱えて、裏土間へ持っていった。鉈で叩き割る音が聞こえてきた。ばっちゃが雑巾を持って入ってきて、新しい机の足もとの埃を拭き取った。
「カクトのイツミ、おめと同じクラスらしな」
「ああ、眼鏡をかけたきれいな子」
「ただみてな値段で売ってけだ。椅子も高級だってへってらった。長持ちすべ」
 小さな本立てもついてきた。私はそれを机の上に置き、教科書と参考書を並べた。
「山田医者のカツ子は、おめのかっちゃと女学校が同じでせ。風呂敷でよ、息子自慢ばりしてらい」
「女学校って、何?」
 母が折々口にしていた言葉だった。いつかサイドさんが、私の母も椙子姉ちゃんも女学校では優秀だったと言っていた。英夫兄さんもなんだか褒めていた記憶がある。
「野辺地実科高等女学校てへるのよ。小学校卒(お)わってから、上さいきて女子(おなご)が試験受けていぐ学校だ。おめの生まれる前の年に野辺地高校と合わさって、女学校てのはなぐなった。椙子も君子も野高を出た。スミは女学校から樺太の師範さいきてってへってらったんだども、戦争で世の中が忙しくなってきたすけ、いがなかった」
 別の卓袱台で一足先にめしをすましたじっちゃは、話に耳を貸さずに炉端で煙管を吸っている。そんなことにはまったく興味がないのだ。ばっちゃはめし茶碗に注いだ白湯(さゆ)で箸を洗いながら、
「女学校のころは、カツ子がかっちゃのいい競争相手だったんだ。親子二代で競争してるわけせ」
 見つめるとうなずき返し、微笑するだけで、控えめに離れている山田のことを思い出した。
「でも、山田くんはほんとに優秀だ。勉強だけじゃない、人間的にも……」
「何語ってんだが。勉強はおめが一番だべせ」
 聞いていなかったはずのじっちゃが、煙管をはたきながら大きく笑った。
「キョウ、おめのちゃっけトランジスタな、聴がねなら、ワにけねがな。ステレオってのには、ラジオもついてるんだべ」
「うん、あげるよ。まだ真空管ラジオもあるし」
 私はこころよくうなずき、ちびたトランジスタラジオを机の抽斗から持ってきてじっちゃに進呈した。名古屋から送られてきた文具の中に鉛筆や消しゴムといっしょに混ざっていたものだった。一度も聴いた記憶のないラジオだったけれど、電池を買ってきて鳴らすとけっこういい音で聴けたので、ときどき机に置いて流していた。
「音が弱くなったら、電池を換えるといいよ。わからなかったら言って。買ってきて入れてあげる」
「強欲たかりエ」
 ばっちゃが微笑しながら呟いた。私はじっちゃにラジオのスイッチとボリュームを教え、じゃ勉強する、と言って部屋に戻った。理科の教科書を開き、比重と浮力を一時間ぐらいやってから、ステレオをつけた。ブレンダ・リーのアイ・ウォント・トゥ・ビー・ウォンティッドとウイ・スリーを、小さな音で二度聴いた。それから炬燵に入った。中原中也の詩を読みながら、この数日の疲労で充実した目を閉じた。転校の日にはいかなかったカズちゃんのところに、二十一日の土曜日と、木曜日の勤労感謝の日にはいこうと思った。



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