七

 勉強に区切りがつくと、もう一つ林檎を齧り、満ち足りた気分で蒲団にもぐりこんだ。
 しばらく目をつぶっているうちに、私の心は今夜もしつこく不安の中へさまよい出ていって、この一年間の澱んだ空気の中を怯えながら飛び回った。カズちゃんとの新しい幸福にからだが心地よく酔ってはいても、朝がきて昼になりまた夜がくるのを受け入れるようには、心がそれを信じていないのだった。
 高島易断の本に見入っている丸い背中。
 ―いっちまえ。いなくなっちまえ。
 カズちゃんではない、外股の小さな女と歩いている。
 ―いつのことだ?
 節子は私の腕をとり、ときどき見上げ、愛らしい歯を見せる。そのいっときを惜しんだために、私はいまここにいるのだった。いま私は、彼女を冷静に見つめようとする。異様に注意深く、すべてを予感しながら、何もかも見透かす眼で見据える。
 ―いっちまえ。消えてなくなれ。
 私は夢想の中で、二人の女の鼻先に向かって悪罵を浴びせた。そして閉ざしたまぶたの裏に忘れたはずのものを見ているのが苦しくなり、目を開けた。私は、カズちゃんを除いた愛する者たちをすべて失ったのだ。もしカズちゃんがここにいなければ! もしそうでなければ、私はまったくの独りぼっちだった。彼らはもともといなかったと考えてみようか。それはだめだ。記憶が鮮やかすぎる。たしかにいたけれども、死んでしまったと仮定したら?
 ―死んだということよりも、もっと悪いことじゃなかったか。生きつづけていたのに、私に忘れられた……いや、みんな単に死んだのだ。もう身動きさえしていない。だれかが死んだあとには、悲しみで頭がおかしくなるものだ。だから、不意の虚しさを理解することも、あきらめて信じることもできないのだ。そう思おう。しかし、そう思う私はどこからやってきて、なぜこんなところで、会えるはずなのに会えない人びとが、死んだの生きたのと悩んでいるのだろう。
 国際ホテル、青木小学校、飯場……。いや、どこかからここへやってきたとも思わなければいい。もともとここにいたのだ。じっちゃばっちゃの膝から一歩も出ずに、ここで育ち、小学校に上がり、ここで中学生になったのだ。このステレオも、詩集も、いのちの記録も、むかしからここにあったのだ。そう思おう。やっぱり彼らは存在しなかったと。
 しかし、カズちゃんがここにいる! いのちの記録を書けと言ったのも彼女だし、書いている私をそばで見守っているのも彼女だ。なんという奇跡だろう!
         †
 年も押し詰まって、節子から手紙が届いた。封筒には差出人の所番地が記されていなかった。私は何の感激もなく、ぼんやりとその封筒を眺めた。底のほうに小さなかさばりを感じた。封を切り、逆さにして取り出して見ると、親指のつめほどのピンク色の小さな貝殻が入っていた。青いペン字に目を走らせた。便箋はたった三枚だったが、小さな文字がびっしり書きこまれていた。

 お元気でおすごしでしょうか。寒い土地でつらい思いをしていませんか。私にはこんなおうかがいなど立てられる資格もなく、この手紙も封を切らずに捨てられてしまってあたりまえだと思っています。牛巻病院を訪ねてくれた加藤雅江さんにあなたの住所を教えてもらったので、とにかく手紙を書いて、心から謝ることに決めました。加藤さんは、あなたが青森へ送られる原因になったのが私だと、浅野先生から聞いたのだそうです。謝罪の手紙を書いてほしいと言われました。私は悪い女です。そんな女の手紙はあなたの目汚しになるだけだとわかっています。心苦しいですが、しばらくのあいだ大切な時間をいただきたいと思います。
 あの朝、私はとても不安でした。もっと前からあなたのもとを去ろうと決心していたせいです。あまりにも強烈なあなたの魅力に負けて、このままいっしょにいようと思い返した日々もあったのですが……。それなのにふらふらと宮中へ出かけていってしまいました。そしてあんなことになりました。翌日の朝、亀島町の喫茶店で、浅野先生に、もう神無月に会わないでくれ、と言われたとき、正直ホッとしました。からだの力が抜け、解放されたような、晴ればれとした気持ちになったのです。もう、私を悩ます危険な人はいない、これからはふだんどおり生きていける、正看試験のための勉強ができる、病院の患者さんとも心おきなく話ができる、買い物にも、ダンスの講習にも、どんなところへも自由に出かけていける、本当にそんな気持ちになりました。
 ごめんなさい。ひどい女でしょう。でも、ほんとうの気持ちだったのです。本心なのかと尋ねないでください。私はほんとうのことを話しているのです。人間として、とてもいけないことをしてしまったことはわかっています。あなたはなんと真剣で、やさしかったことでしょう。あなたのような人には、もう二度と会えないとわかっています。あなたを裏切った報いはかならずやってきます。あなたもそう信じて、心を安らかになさってください。
 先日、牛巻外科を辞めました。いま知多のお母さんのそばにいます。近いうちにお母さんといっしょに、名古屋で暮らす予定です。そのためには仕事も見つけなければなりません。この手紙に私の住所を書かないのは、あなたからよけいな同情をかけられたくないし、私のような女に返信など書いてほしくないからです。
 さようなら。いまではあなただけを愛していたことがわかります。もう手紙は書きません。ほんとうにさようなら。
 追伸 知多の海へいって貴方のために桜貝を拾ってきました。同封します。
   神無月郷様               滝澤節子 


 桜貝? 何の象徴だろう。後悔だろうか、それとも謝罪だろうか。どちらにせよ、手紙には滝澤節子の生身のにおいがしなかった。官能の記憶をわざと押し殺して、ただそれに前後するできごとだけを書こうとしていた。
 私は、この手紙を書いたときの彼女の心を推し量った。そして、肉体の記憶を奇妙に無視している言い回しを苦々しく思った。初めて出会ったときから彼女に向かって流れつづけたときめくようなものが、いまはひどく遠いものに感じられた。あの日のように心臓が高鳴ることが二度あるとは思えなかった。やがて彼女は消息もわからなくなるだろう。もう声も視線も交わすことはない。女とはこういう生きものなのかもしれない。それでも私は、その美しいペン字で書かれた手紙を、一字一句暗記するように、何度も読み返した。
 あなただけを愛していた? 愛しているのに、さようならだって? 私はこんな手紙を書く女のために、野球も、親友も、やさしい飯場の人たちも、みんな捨てなければならなかったのか。なんて馬鹿なやつだ! 馬鹿なくせに、心の底では、自分はそこらの人間よりずっとすぐれた人間なのだと、いまのいままで思っていた。底抜けの馬鹿だ。いや、馬鹿などというなまやさしいものではない。あらゆる人間よりも劣った何かの生きものだ。有象無象と思っていた人びとよりも、ずっとずっと劣った生きものだ。なるべくして、こうなったのだ。
 私は激しい憤りに襲われた。なぜ腹が立つのだろう。傷ついたのは、心よりもむしろ虚栄心だったのかもしれない。私は苦々しい気持ちで自分を嗤った。島流し? それさえ贅沢だ。そんな馬鹿なやつの人生など、別の場所にとって置かずに、ばらばらに裁断してしまえばよかったのだ。
 いっときは恋心を抱いた女に対する徹底的な幻滅が、すきま風のように忍び寄ってきて、か細い声で私を思い出の迷路に誘った。神宮の杜へ、明るい昼の光に照らされる宮中のグランドへ、そしてそこから暗い牛巻病院の廊下へ……。私は言いようのない挫折感に胸をえぐられた。杜も、グランドも、廊下も、病院につづく坂道の夕映えに照らされた小さな姿も、もうこの手に触れたいと思わない。この差出人はあの四月の夜、ロビーのテレビの前にいた女ではない。最初から別人だったことを私に告げたくて、彼女は手紙をよこしたのだ。
 私は、返信を拒絶する手紙と何時間か二人きりですごした。牛巻病院の急患室、亀島町の夜の道、東海橋、熱田高校、熱田駅前の旅館。しかし、みすぼらしい後悔が思い出の価値を傷つけることはない。あれもみな、人生を彩るすばらしい記憶だった。カズちゃんとの愛にあふれた人生に目覚めたいまとなっては、滝澤節子の記憶など取るに足らない。神宮の玉砂利の響きと、群青の空を憶えていればじゅうぶんだ。
 夕食のあと、本屋にいってくるとことわって外に出た。手紙を内ポケットにそのままカズちゃんの家に向かった。つんのめるようにして歩きながら、あふれるような愛情と感謝の心に満たされた。玄関の戸を開け、
「愛してる!」
 と呼びかけた。カズちゃんは走り出てきて、
「私もよ!」
 と言って抱きついた。
「節子から手紙がきた」
「あらそう? 寒いでしょ。早くお部屋にきて。フィルターコーヒーをいれるから」
 重油ストーブの効いた部屋の炬燵に落ち着き、カズちゃんに節子の手紙を見せた。カズちゃんは、フィルターに湯を落とし終えて二人分のコーヒーをつぐと、その手紙を二度、三度と繰り返し読んだ。
「感傷的で中身のない手紙だけど、キョウちゃんにとってはとても悲しい手紙ね。桜貝というのは花貝といって、西行法師が桜に見立ててたくさん詠んでるわ。海辺の砂に貼りついてるはなびらみたいな貝よ。目を和ませる美しいものの象徴で、感傷や失恋の象徴じゃないわ。ほんとに節子さんて、うわべだけで生きてる気取った人ね。心底キョウちゃんに惚れることなんかできっこないわ。自分かわいいだけで、何があってもキョウちゃんを引き受けるって気になれなかったのよ。悲しいことは忘れましょう。うんとエッチなことをして」
 カズちゃんは立ち上がると、下着を脱ぎ捨てた。スカートを腹までまくり、炬燵テーブルの縁に尻を下ろし、私に向かって開脚する。薄茶色の小陰唇に縁どられたいただきに薄白いクリトリスが光っている。
「桜貝よりきれいだ」
「節子さん、こんなことしてくれなかったでしょう?」
「しなかった」
「ほんとに、こちらの方言だと、エエカッコシイだったのね。キョウちゃんを喜ばせようとしない、親切のかけらもない女」
 たしかに滝澤節子は、こういう、男の好奇心を直接満足させるような開放的なことはしようとなかった。その一瞬だけは愛情に満ちていると思われていた彼女のオーソドックスな性の行為が、みるみる色褪せていった。私は舌でやさしく愛撫して、カズちゃんの高潮を導いた。カズちゃんはテーブルに片肘を突いたまま、私の肩に片手を置き、腰を浮かせて気をやった。やがて彼女は畳に座布団を二枚離して敷いて、そのあいだに横たわった。座布団は私の膝がすれて傷つくのを防ぐためのものだった。私はズボンを脱ぎ、濡れそぼった膣に挿入し、あわただしく動いた。そしてカズちゃんが四度、五度と達している最中に、しっかりと射精した。彼女のからだは激しくバウンドした。
 ―なんといとおしい反応だろう! 
 たしかに滝澤節子にもこれと似たような反応はあったけれども、これほど激しくはなかった。ふと妊娠という言葉がよぎった。自分の淫らな行為がカズちゃんのからだの中に喜ばしい実りをもたらすのだという自覚のせいで、私は溌溂とした気分になった。
「子供……」
「だいじょうぶよ、安全日だから。もう何度も教えたわね。妊娠しない日。ひと月のあいだに二週間ぐらいだいじょうぶな日があるの」
 カズちゃんは私の呟きを、自己愛が絡んだ怯えと受け取ったようだった。
「そういうことじゃなく、ふっと楽しい気分になったんだ」
「だめよ、とんでもないことになってしまうわ。こういうことは女の責任なの。任せておいてね」
 思索がすぐ映像に結びつく単純な頭で、私は誕生の喜ばしさよりも、どこかで記憶した受精の瞬間をイメージした。しかしその映像は、いつまでも余韻を伝えてくるカズちゃんの肉体の神秘のせいで、瞬く間に消え去った。ゆっくり引き抜き、口づけをした。
「愛してるわ、キョウちゃん。キョウちゃんのためなら、私、何でもできる。こんな命いつでもあげる。だから、安心して、つまらないことを悲しまずに、いっしょに楽しい人生を送りましょうね」
 瞳が涙でふくらんでいた。私はカズちゃんをしっかり抱きしめた。
「こんなふうにカズちゃんといっしょに生きていけるなんて、夢にも思わなかった」
「私もよ」
「長生きしようね。まだぼくたち、始まったばかりだ」
「そうね。始まったばかり。少し私のほうが早く死んでしまうけど」
 カズちゃんは畳にひざまづき、私のものを隈なく舐めた。


         八

 独りで登校し、教室では教師の質問に答え、仲間が集まって雑談をしなければならないときなどは、おっとり構え、彼らの話に耳を傾ける格好で口出しをしなかった。合船場に訪ねてくるめずらしがり屋も二、三いたけれども、土間での立ち話だけで帰した。土間に入ってきたときも、帰っていったあとも、結局彼がだれだかわからなかった。
 カズちゃんと週に一度、土曜日に欠かさず逢った。時間の許すかぎり、一週間のあいだに積もった話をし、からだのふるえを確認し合った。部屋に一つひとつ調度が増えていった。ある日、居間にソファとカラーテレビが置かれていて、二人で畳の上に姿勢を正して午後の番組を観た。月遅れで入ってくる青春ドラマだった。内容のないストーリーの合間に、三船敏郎の「飲んでますか」とか、王貞治の「ファイトでいこう、リポビタンD」といったコマーシャルが流れていた。三船も王も明るく笑っていた。適応を拒むとりとめのない世界に囲まれている恐怖を感じた。
「旅館の賄いの仕事、とってもやりがいがあるの。献立作りを任せてくれるし、味つけもほとんど私のレシピでやってくれる。昼食も作ることになったけど、来年の二月までの短い期間ですけどってことわって、喜んで引き受けたわ。夕食は地元のベテランの料理人が作るから、毎日二時には上がってくるの。そのあと、家のお掃除をして、お洗濯して、蒲団を入れて、食事の用意。食事のときだけテレビを少し観て―」
「一人で食べるのさびしくない?」
「さびしくないわ。いつもキョウちゃんといっしょだと思ってるから。それからお風呂へいって」
「毎日いくの?」
「そう。女はとても汚れるから。とくにキョウちゃんのことを一日じゅう思ってる日はダメ。わかるでしょ?」
「うん」
「お風呂から帰って、お蒲団に入り、本を読みながら寝るの。十一時くらい。五時に起きて、六時から二時までお仕事。もうすっかりリズムができちゃった」
「……ぼくは、こうやってカズちゃんがそばにいるのに、夜になるととてもさびしくなるんだ。名古屋を思い出してしまう」
「そりゃそうよ。十歳から十五歳まですごした土地だもの。いちばん思い出が積もる年齢よ。無理もないわ。少しでもそのさびしさが減るようにと思って、キョウちゃんのそばにきたの。ふふ、じつは、自分がさびしいから。……悪いことは、何度でも思い出して飽きちゃえばいいのよ。飽きるのがいちばんの薬。いいことって、ときどきしか思い出さないから、なかなか飽きないわ」
「いいこと、か。ほんとだ、あんまり思い出さないね。野球のことなんか、ほとんど思い出さなくなっちゃった」
「……つらい話ね。お母さんさえ―」
 カズちゃんは口をつぐんだ。
「西松にいたころ、おふくろのこと、どう思ってた? いっしょにいて居心地悪かったんじゃない?」
「ごめんなさい。……正直、ほんとの親子だって信じられなかった。少なくとも私がキョウちゃんのお母さんなら、キョウちゃんはいまごろ、のびのび野球やってるわ」
「……八歳、九歳、十歳。つい何年か前まで、ぼくは切実な、ぼくだけの願いを持ってたんだ。とうちゃんに会えますように、会うまではとうちゃんが生きてますように。その気持ちは、きっとおふくろにも伝わっていたはずだよ。彼女が陰湿な、ぼくを窮地に陥れるような嘘をつくようになったころだったな。それは息子をなじるという形じゃなく、自分の人生から得た教訓を人に教え諭すという体裁をとるんだ。その教訓が嘘まみれだ。そんなものを信じない息子のことで苦境に立たされると、そのもっともらしい思索や洞察はいったいどこへいったやら、すっかりうろたえて、ただのクソッたれになってしまう。妄想をたくましくして、でたらめに動きだし、そのあげくに自分の行動がもたらした結果に縮み上がってしまうという按配だ。とうとう、ぼくの心に彼女に対する軽蔑が芽生えたんだ。それがおふくろの憎しみのもとになったんだね。彼女も、きっと、そんな憎しみに心を奪われていなければ、きちんとものを考え、相手の気持ちも考えられる人だったとは思うけど……」
「やさしい子ね、キョウちゃんは。でも、怖いこと―。人間て、軽蔑されると、その相手の人生を変えてもいいってくらい夢中になっちゃうのね。プライドの高い人ほど、そんな具合に序列に敏感になるんだわ。キョウちゃんはもともと序列をつけてものを考えないような子供だったから、だからこそ、これほどいろいろな人に愛される幸運に恵まれたんだと思う」
 カズちゃんのやさしい分析と感想のせいで、胸の内に大らかな温かい思いが満ちた。この充足感は、野辺地に定住していた幼いころには、折に触れて、心の中にあふれ出していたのに、十年の流浪のうちにすっかり干上がってしまっていた。
 会話が中断すると、自然と見つめ合い、そうして口づけをする。たがいの下腹がほてりはじめ、全裸になる。カズちゃんのからだが柔らかな浮き彫りの輪郭に包まれて、植物のやさしさを湛えている。乳房の先を口に含み、表情を盗み見る。カズちゃんは目を閉じ、唇を開いている。指に暖かい湯がまとわりつく。得体の知れない空洞から下りてきて、やがて消えていく暖かい水。唇を触れる。それだけが生きがいのように反応のつづきに神経を尖らせる。カズちゃんの中に入る。カズちゃんの全身が生きいきと反応する。乳房をまさぐり、腰を振り立て、カズちゃんの急激な飛翔を確かめる。射精する。私の中にくつろいだ意識が戻ってくる。私にとって、カズちゃんとの交わりは、きちんと手順を踏んだ愛の行為であり、全生活であり、冒険だった。それを当然わかりきったものだと思っている人たちに、この想像を超えた歓びを教えてやりたかった。
 やがて五時が近づき、帰宅時間がやってくる。じっちゃやばっちゃには、小さいころから土曜日ごとに映画を観るのが習慣だったと言ってある。
「これ、いのちの記録。一冊目ができあがったから、カズちゃんにあげる。約束だったね」
「ありがとう! 一年かかると言ってたのに、三カ月もかからなかったわね。書きつづけたのね。どんなにすてきなものかしら。楽しみ。毎日これを読みながら眠るわ」
         †
 大晦日、坂本の家へばっちゃといっしょに出かけていって、ストーブにあたりながら紅白歌合戦を見た。カニを振舞われ、甲羅にくっついている味噌の食い方をあらためて教えられた。
「トゲクリガニってへんだ。花見の四月から六月が旬だども、一年じゅう味のいい蟹だ」
「ばばちゃ、おせち作ったすけ、持ってくんだ」
 ばっちゃはこれには素直にうなずいた。正月料理をする材料がないのだろう。初めて二人の男の子が二階から降りてきた。彼らは一度ペコリと挨拶したきり私を見ようともせずに、一心にテレビばかり観ていた。まるでテレビが人生の秘密を教えてくれるとでもいうようだった。刈り上げた後頭部がさびしかった。
「今年からカラー放送だたて、高くて買えねニシ。二十万もするツケ」
 女房が言った。カズちゃんはそんな高いものを買ったのかと思った。
 審査員の中に、あの神宮奉納相撲のとき、私のまわしをつかんで放り投げた北葉山がいた。なつかしかった。都はるみ、スパーク三人娘、北島三郎、岸洋子、島倉千代子、こまどり姉妹、フランク永井、弘田三枝子、青山和子、西郷輝彦、舟木一夫、橋幸夫、美空ひばり……。この数年のうちに、私の耳や目を過ぎていった人たちが勢揃いしていた。藤山一郎が唄った『長崎の鐘』のメロディが胸に沁みた。
「いい男だニシ」
 舟木一夫の剣舞に、坂本の女房が見惚れていた。子供たちは雁首揃えて、ストーブの熱に当てられながら、茶をすすったり、貝柱をかじったり、カニの甲羅に指を突っこんだりして、やっぱりテレビから眼を離さなかった。
 ―飯場の人たちはどうしてるかな。あの食堂で、私のように紅白歌合戦を観ているのかな。クマさんは? 大きくなった赤ん坊を膝に抱いて、房ちゃんといっしょに、やっぱり紅白歌合戦を観ているのかな。
 じっちゃはいまごろ囲炉裏で煙管を吹かしながら、時事雑誌を読んでいるだろう。携帯ラジオを聴いているかもしれない。私はそんなじっちゃと茶飲み話をしているほうが気楽だったけれど、ばっちゃに言わなかった。私はいつもばっちゃの自慢の種だったし、私をそばに引き連れているだけで、彼女はこの上なくうれしそうだったから。
「キョウは、高校出たら、ジジババをどうすんだ」
 坂本が馴染みの質問をした。私は落ち着いて答えた。
「もちろん面倒見るよ。ぼくは野辺地にずっといるから」
 ばっちゃが顔を皺だらけにして笑った。
「なんも面倒なんか見なくてもいがいに。キョウが高校出たら、ワがかせで、仙台の大学にでもやるべ。まんだまんだなんぼでも働げるじゃ。キョウがおがって出世したら、しょっちゅう寄せてもらうべ」
 ばっちゃは海辺へホタテ貝の紐通しに出かけたり、農家へ温室野菜をもぎにいったりして、わずかな金を稼いでいる。〈なんぼでも働げ〉たとしても、孫を養い、教育を与えられるほどの実入りではない。多少でも、母からの仕送りや、都会に出た子供たちからの仕送りがなければ、到底そんな生活など送れるはずがなかった。
 だから私は傲慢にも、将来何かの形で老人二人の面倒を見ることになるだろうと思っていた。もちろん感謝の心は反映していたけれども、世の中の常識から得た私らしくない苦しい世故だった。そのときの私の人生は、落胆するほど平穏に通り過ぎていき、荒々しいドラマに巻きこまれることもなく、激しい情熱や共感に心を冒されることもないだろうと思っていた。その思いは絶望に近いものだった。ばっちゃは瞬間的に私の絶望のにおいを嗅いで、私を解放したのだった。
 帰りの雪道に、遠く海鳴りに混じって除夜の鐘が陰々と響いてきた。踏切を渡るとき、雪に沁みたけいこちゃんの赤い血をしつこく思い出した。
「味噌屋のけいこちゃん、大晦日に、ここで死んだね」
「ほんだったな。気の毒なこった」
「ばっちゃがお水取りにいってたときだよ……」
「痛ましことだじゃ。味噌屋のアバ、あれからアダマモヂ悪ぐしてな、いっぺん三本木の脳病院さ入(へ)ったんだども、あんべいぐなんねくてせ、そのうぢ亭主が味噌屋閉めて、一家でどごだがさいってしまったじゃ」
 二人黙って踏切を渡った。きょうかぎり、けいこちゃんのことを忘れようと思った。忘れられるなら―。
         † 
 冬休みの中日の正月がやってきた。大晦日一夜こめて雪が降り、元日も一日じゅう降った。ばっちゃは浜からもらったおせち重とは別に、彼女なりの正月料理を作った。火で炙った鮭の頭を刻んで、おせち重のヒズなますに大根の千切りとみじん切りにしたネギを混ぜて炒めた〈料理〉は、酒粕の味がした。ウニとアワビを煮て青紫蘇を入れただけのいちご煮もうまかった。これはじっちゃも相伴に預かった。ホタテの殻で味噌と卵を混ぜて焼いたタマゴミソ、ほかにホタテの炊きこみめし、筑前煮とけんちん汁、それとささやかなイカの和えもの。重箱の中身は、海老、ごまめ、昆布巻、黒豆、伊達巻だった。
 カズちゃんは正月をどうやってすごしているだろう。彼女の作ったおせち料理を食べたかった。去年はクマさんが差し入れをしてくれた。西田さんのインスタントラーメン……その先は、思い出すのが億劫だ。
 ほとんど外出しない生活がつづいた。ときどきよしのりがきた。彼は私の中では知恵者に分類されるようになっていた。学校の勉強とは関わりのない知恵者だ。言葉を練りあげる頭の回転が速く、感情の中では哀しみにいちばん強く反応した。ちょっとしたことにすぐ目を潤ませた。愚鈍の印象が少しずつ消えていった。私はほかのだれよりも好んでよしのりといっしょにいるようになった。そして彼と二人きりでいると、ときどき手放しに声を上げて笑うことさえあった。
「卒業したら、十和田のほうさ稼ぎにいぐことにした」
「何するの」
「バーテンの修業よ」
「バーテン!」
「まんず、ふつうは考えつかね仕事だべ。いろいろなカクテルを発明して、全国大会で優勝するのよ。すたっきゃ東京のバーの老舗さ勤める」
 よしのりは輝かしい未来を描いて見せた。私はそれを彼の言うとおりに信じたわけではなかったけれど、うまくいきますようにと祈った。
「水泳もそうだったけど、優勝が好きだね。優勝なんかしなくたって、腕さえよければいいんじゃないの」
 もっと気の利いた言い方があるような気はしたけれども、彼の不遇を考えると、心の底ではぜひ優勝してほしいと思っていた。
「世間の人間は、どたらことでも《賞》しか認めねのよ。賞をとれね人間は、他人の台所をうろつくホイドって見られるんだず」
「それがほんとうだとしたら、世間は切ないね」
 ホームラン王にこだわっていたころのことを思い出した。やましさと、いまいましさを同時に感じた。木田ッサー……。私はホームランを打てない人を、とことん見くだしていた。自分に何か欠けているものがあったとすれば、努力しても陽の当たらない人をほんとうに認め、愛し、彼らと好んで結ぶ心の靭帯のようなものだったかもしれない。いや、そんな結論は、単純すぎる。自分が世間の人びとと雷同せずに光を目指さない人間にならなければ、日陰に棲む人間の気持ちはわからない。それが出発点だ。


         九

 横山よしのりは、自分の愚痴や見解を聞いてくれるときのエトランゼの静かな表情が好きのようだったし、いつも返す言葉に深みのあることを求めていた。
「ワのこど、こたらにわがってくれる人間に出会ったことねじゃ。いずれおめは野辺地を出ていぐんだべ。そのとぎは、オラはどごまでもついでくじゃ」
「それは無理だよ。理解を示し合いながら二人三脚で生きることなんか、恋人でもないかぎりできっこない」
「ワイには無理でね。ワが惚れたんだすけ、恋人でねくていんだ。……ナが熊谷に金沢さ呼び出された夜よ、家のめを通りかがったガマから話コ聞いて、うれしみてな、腹くくらねばなんねみてな、片輪者になったら一生引き受けてやんねばなんねみてな、何とも言えね気持ちになったず」
「腹くくったの?」
「んにゃ。ガマが助太刀の四郎の名前を出したすけ、『ンガも一枚かめ』ってへられるめに、『へたに関わらねほうがいいど』って〈せこい〉断り入れた。暴力はおっかね。ワイの性分に合わねんだ。たんだ臆病というだけのことだけんど。自分のこどはわがってら」
「気持ちに合わないことはしないほうがいい。賢明だったよ」
「……ナが校舎裏で、うすけねキミオをおけしてぶったくったこどは、ワの耳にも聞こえてらった。指何本折ったとか、鼻の骨潰したとか―おっかねがった。そたらのはすぐデマだとわがったけんど、肋骨を痛めだずのはほんとらしくてせ、うだでぐ残酷なぶったくり方をしたなと思った。すわっとなるど、うるだがねで暴れる男だずのは、おめの顔見だとぎから予想してたすけ。それもおめの魅力の一つだけんどな。だども、相手が熊谷となれば話がちがる。熊谷は素人でね。おめにはぜひ勝ってもらいたがったけんど、無理だと思った。……勝つかもしれねと、ちょぺっと期待したけどな。ただ勝ったら勝ったで、熊谷にウラミ残すおんた勝ち方すれば、うだでなしっぺ返しされるべし」
「ヤクザって、そういうものじゃないんだよ。いさぎよい人たちだ」
「後腐れねぐ勝ったんだすけ、学校はガラッと変わるど。熊谷の兄貴を仲にして、すっかど和解もしたツケ。おまげにあの東奥模試だべや。ンガはスーパーマンだこった。熊谷んど、いまはンガを拝むような眼で眺めでるじゃ。ナがたった一人で学校の秩序を変えでしまったんだ。つくづくとんでもね男だ。そんだのに、ナはえがりもしねば謙遜もしね。これまでどおり静かなもんだ。……惚れだでば」
 よしのりは、ふと机の上に開いてあったいのちの記録に目を留め、
「おめが書いたのな」
「ああ」 
 いのちの記録は二冊目に入っていた。
 よしのりは自分のことを頭がいいと繰り返し言ったけれど、その言葉に誇張はなく、とにかく並外れた記憶力を持っていて、たとえば、教科書でも文学書でも日本語の活字なら、見開き二ページをそっくり頭の中に写し取ることができた。いわゆるカメラ眼というやつで、初めて披露されたときには驚いた。一年生のときからずっと社会科の成績は、学校の一番を外したことがないと言うのも納得できた。二年生のとき、風邪で休んだ中村マサちゃんの日本史の代講をしたとも言う。
「教頭から頼まれてよ」
 もちろん講義は好評で、三年になってからも政経の代講を一度やった。
「すごいなあ。どんなふうにやったの」
「どんなふうって……中村マサちゃんよりうまくやったじゃ」
 彼はそっくり返って大笑した。
「詩が思い浮かんだ。二度言えないから、記憶してよ」
「まがせろ」
 よしのりは持ち前の記憶力で頭に収めようとしはじめた。

  悲しみが押し寄せる
  ああすればよかったのだが
  そうすることができなかったというふうに
  悲しみがうねって押し寄せる
  ああすればよかったのだが
  そうすることができなかったというふうに


「それだげか」
「いまのところはね」
「暗記するほどのこともねじゃ。……しかし、いいな。題名は、悲しみ、が?」
「希望―」
「わいはァ、希望か! なるほどそんだな、それがいじゃ。これは悲しみの形をとってる希望だけんた」
 カズちゃんのことを話したくなったが、こらえた。
「メモしなくていいのが」
「うん、ただの書き出しだし、なんだか気に入らないから、もう一度考え直すよ」
「覚べでられるのが」
「そりゃ無理だ。よしのりとはちがうよ。頭が新しくまとまれば、またちゃんとしたのが出てくるさ」
「こったらのが、もう一回出てくるってが。ま、いがべ。ワがいま書くすけ」
 彼は机の上のいのちの記録の新しいページにサラサラと書きつけた。そしてもう一度読み上げた。整ったスタンザが湧いてきた。
「形のでき上がった詩ができ上がった。メモしてくれる?」
「おう」

  それは さざ波のように
  音楽のように 押し寄せる
  ああすればよかったのだが
  そうすることができなかったというふうに
  それは 音楽の律動を覚えず
  さざ波の細かな襞を持たない
  ひたすら 日常の沈淪した首すじに
  長雨となって降り注ぐ
  四囲が心の色に染まる
  忘れられない悲しみが押し寄せる
  ああすればよかったのだが
  そうすることができなかったというふうに


 よしのりはあわただしく書きつけ、記憶を頼りに少し遅れて書き終えた。すべて平仮名だった。私は、漢字にするべき部分を手直しした。
「すげな! これがアダマの中に湧いたのな。天才だでば」
「大して悲しい経験をしたわけじゃない。悲しみとしか言えないものが生まれつき血管の中を流れてるから、それを追いかけるだけで書ける。才能じゃない」
 ホームランも才能じゃないなと思った。また木田ッサーのさびしそうな顔が浮かんだ。
「……おめんどこの爺さまも、このごろだば渋い顔をしなくなったすけ、遊びにきやすくなったじゃ」
「ガマもたまに顔を出すようになったよ。まじめな顔でステレオを聴いている」
「何考えでるがわがんね男だども、悪人ではね。もらわれっ子だすけな。オラと同じでさびしんだべ。おめに甘えてんだじゃ」
 私はつい先日、教室で起きたおもしろい場面を思い出して、よしのりに言った。
「奥山先生がこのあいだ、ガマに猛烈な平手打ちを食らわせたとき、わるいけど笑っちゃったんだ」
「ああ、オラも岡田パンから聞いた。奥山(グダヤマ)はアダマ固くて、シャレが通じねんだ」
 私は思い出してあらためて笑った。奥山先生が朝のホームルームで、
「風邪がはやってるすて、おめんども気をつけろ。どこか具合の悪い人はいねが」
 するとガマが、ハイ、と手を上げて、
「おら、アダマ悪りじゃ」
 と言ったのだ。私は思わずニヤリとしたが、奥山先生は、
「村上くん、こっちゃこい!」
 と怒鳴った。ガマがうなだれて教壇の前に進み出ると、先生は思い切り往復ビンタを張った。木下にビンタを食らわせた桑子を思い出した。
「グダヤマのビンタは効くんだ。ワも一年のとき一回(け)やられた」
 私は大声で笑い、
「冴えたシャレだったのになあ。ぼくが奥山先生なら笑っちゃうけど」
 ついこのあいだここに遊びにきたとき、ガマはカバンから西郷輝彦の十七才のこの胸にを取り出して、
「かけてけろ」
 と言う。私の膝もとに散らかったEP盤の中に、同じレコードのジャケットが覗いていた。私はクスクス笑いながら、この歌好きなんだ、と言って針を落とすと、彼はレコードに合わせて唄いだした。
「いい声してるね。NHK喉自慢に出たらどう」
「田島鉄工がとんでもなぐうめ。知ってっが?」
「うん知ってる、きみも同じくらいうまい。演歌もポップスも何でも唄える喉だ」
「すたらこど初めて言われたじゃ」
「歌手になれるよ」
 本気でそう思った。弘田三枝子の砂に消えた涙をガマはしばらく聴いていたが、
「これ、貸してけねが」
「いいよ。あげるよ」
「いらねじゃ。おめには、もの頼めねな。買うすけ、いいじゃ。ワも、こねだ、ステレオ買ったんでェ。聴きにこねが」
 私は快くうなずき、ばっちゃに言って、わざわざ城内のガマの家までいった。御幣みたいに破れた障子を開けると、東芝製の豪華なステレオが三畳間にデンと置いてあった。渋紙を壁に貼った部屋とはアンバランスで、かえってみすぼらしい感じだった。
「いい音すんだ。ポータブルだば、こったら音出さね。もう聴けたもんでねな」
 ガマのかけた曲は、バーブ佐竹の女心の唄だった。三畳に調度を詰めた狭い部屋だったので、立ったまま聴いた。すばらしい響きだった。私のステレオとは音質と圧力がまったくちがっていた。演歌程度のものでさえ、ここまで力のあるクリアな音で聴けるのだ。ガマの言ったとおり、質のいいステレオに対する認識が変わった。これよりも高級な装置なら、もっと臨場感のある鮮やかな音で聴けるにちがいない。
 遠い日、横浜港のブラスバンドにくっついて走ったことを思い出した。空に昇っていくあの音は、かぎりなく美しかった。クマさんにはなんだか悪い気がしたけれども、いつかちゃんとしたメーカーの高級ステレオを手に入れようと思った。
「ほんとにいい音だね」
「ボッケのステレオは、こんなもんでねど。うだで本格的でェ。あんべ」
 二つ返事で佐藤菓子へ回った。
「二階の部屋の壁と床をコンクリートで固めたんだツケ。五百万もかかったず」
 想像もつかない金額だった。意外な訪問客に機嫌をよくしたボッケに導かれて、二階に上がった。頑丈な革張りの一枚戸を開けると、爆発音が顔に向かってドーンとぶつかってきた。コンクリートの壁を切って埋めこまれた二つの大きなスピーカーの前に、ボッケの弟がいて、アニマルズの朝日のあたる家を聴いていた。メロディラインの単調な、つまらない曲だった。たとえどこか遠くから流れてきても耳障りな曲で、注意を傾けて聴く音楽ではなかった。部屋の縁にぐるりと溝が切ってあり、水を流してある。何の効果があるのかわからない。装飾だろうか。
「防音をしっかり効かせてらんだ」
 ステレオを埋めこんだ壁以外は、頑丈な厚い板で設えてあって、外に音はまったく洩れないと言う。アニマルズの一曲ばかりかける。あんまり音が大きくて耳がおかしくなってきたので、ガマを置いて早々に退散した。あの音は実音ではない。音量も音質もニセモノだ。ガマのステレオのほうがはるかにすぐれている。
「おめ、中野渡の家さもいったべ。人がいいでば。あったら変人、だれも相手にしねんで」
 よしのりが呆れ顔で言う。一週間ばかり前の学校帰りに、正門のところで、ニキビ顔がさびしそうな少年に声をかけられた。
「オラ、中野渡ヒロシ。ナと同じクラスだ。気づかなかったべ」
「知ってるよ。吹奏楽部の部室を通りかかったとき、きみのトランペットだけがビーンとするどく聞こえてきた。ぼくには聴く耳があるんだ。きみは将来、日本を代表するトランペッターになるよ」
 私は率直に言った。
「音楽好きだおんたな。ハリー・ジェームズのトランペット聴かせでやる。おらえさこい」
 八幡神社から農道へ下ってすぐの二階家へ連れていかれた。ちびたポータブルで、スリーピー・ラグーンというメロディアスな曲を聴かされた。音がひしゃげて、ぼんやりしていた。私は仕方なく、
「高音がきれいだね」
 と褒めた。彼は私の顔に不満を見て取り、
「だば、もったいねけんど、聴かせでやら」
 と言い、回転部だけを露出させたターンテーブルに同じレコードを載せた。それは最初から眼についていたけれども、ガラクタだと思っていた。
「こいつが真空管アンプ、あれがスピーカーだ」
 天井の二つの隅を指差した。直径二十センチほどの、コーンを剥き出したスピーカーが貼りついていた。
「トランペットの低音は、なかなか出せるもんでね。あれは出す。音量もバッチシだ」
 ガマのステレオを凌ぐ、信じられないほど澄んで快適な音が耳に刺さってきた。私はうなった。
「すごい!」
「ミュージカル・フィデリティー。イギリスのスピーカーだ。JBLが理想だけんど、高くて手が出ね」
 私は二つのスピーカーのメーカー名を暗記した。調子に乗った中野渡は、私を裏の畑に連れ出し、自慢のトランペットを聴かせた。これこそ実音で、大気をするどく貫いて昇っていく音だった。ハリー・ジェームズより素朴で、耳にさわやかに響いた。
「彼は才能がある。まちがいない」
 よしのりが目を丸くする。
「ほんだが?」
「ああ、将来きっとプロになる」
「おめは、自分にねものは、何でも褒めるな」
「自分にあるものは褒めない。四郎は高校の二番バッターか、七番バッターで少し活躍するかもしれないけど、頭打ちになる。プロにはいけない。高校になったらもう少し足が速くなって、小技の利いた選手になるだろうね。甲子園にいくかもしれない。でも、スカウトはこない」
「ほんだが……」
 三学期の初めに中野渡は、ブラバン日本一の青森山田高校にスカウトされた。学費免除ということだった。




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