十

 一月十日の日曜日にスキー大会が催されることになった。翌日が三学期の始業式だ。
 九日の土曜日にカズちゃんに逢いにいった。太陽が斜めに一戸建の屋根を照らし、片側の日陰の屋根に残っている根雪から、カズちゃんの微笑のように透き通った雫がしたたっていた。
 いつものように大喜びした彼女は、丁寧にコーヒーを入れた。居間のテーブルを見ると、山崎豊子の白い巨塔が伏せてあった。相変わらずの読書家だ。でも、彼女がベストセラーを読むのは退屈している証拠だ。
「ごめんね、なかなかこれなくて」
「何言ってるの。私も忘年会やら年始会でけっこう忙しかったのよ。気にしちゃだめ。年に一度の織姫でいいとは言わないけど、二(ふた)月、三(み)月に一度でも何ともないわ。いつもキョウちゃんは私の胸に住んでるの。生身のキョウちゃんが現れると、幸せすぎて、いつもおろおろしちゃうくらい」
 うまいコーヒーをすすった。
「お父さんやお母さんは、カズちゃんがこっちにきてること、知ってるの」
「もちろん。離婚するときに、好きな人がいるって話したのよ。十五歳も年下の中学生だって。北村家もおかあさんが四つも年上だから、それほど驚きもしないで、せいぜいうまくやれって言われた。飽きられないようにって」
 節子の母親が言ったという言葉に重なった。
「今回のキョウちゃんの青森行きのことも詳しく話して、ついていくつもりだって言ったら、二人とも、ぜひいってやれって、背中を押してくれたのよ。私、一人娘だから、どんなわがままでも聞いてもらえるの。安心した?」
「うん」
 カズちゃんもおいしそうにコーヒーをすすった。
「職場の人たちに、なぜわざわざ名古屋からこんな田舎にきたのって訊かれない?」
「しょっちゅうよ。学生のころ下北半島に旅行して、とても気に入ったから、いつかこのあたりでしばらく暮らしてみたいと思ってました、て言うと、みんなうれしそうに納得するわ。じょうずでしょ」
 カズちゃんはとても頭がいい。
「あしたはスキー大会だ。八幡神社からの農道を滑る。声をかけてね」
「もちろん! 楽しそう。何時出発?」
「八時半。スキーの滑り方を忘れてしまったから、最後尾になると思う。恥ずかしいな」
「ほんと、恥ずかしい。スポーツマンのキョウちゃんがみっともないわよ。でもかわいい。うんと応援するわ」
 いつもの口づけがあり、おたがいのからだが別の世界で生き返る時間になる。カズちゃんの唇は厚くて温かい。ソファに腰を下ろし、唇を吸い合ったまま、ワンピースの胸に掌を当てる。掌の中に収まらないのを無理に揉みしだく。声が出はじめる。下着に指を這わせる。指先に感じるいつも新鮮な湿り。きょうがすぐにあしたになってもなつかしくなる不思議な湿り。
「……待って」
 カズちゃんは立ち上がって服を脱ぎ、全裸になると、反り上がった形のいい尻を振りながら廊下へ出、トイレの中に消えた。小便の迸る音がする。私ももよおしてきて、あとを追おうとすると、すぐに戻ってきたカズちゃんが、私を立たせ、ゆっくり服を脱がせる。
「きれいな形! すごく立派になったわ。もうぜんぜん皮もたるんでない。いつからこんなになったのかしら」
「カズちゃんのせいだよ。こっちでカズちゃんとしはじめてから、しばらく経ったらこうなった。朝起きると、いつもカチカチになってる。ぼくもオシッコ」
「トイレじゃ無理ね。縁側からしなさい」
 寝室の縁側に立ち、生垣の死角を確認して放尿する。高い放物線を描く。カズちゃんはしみじみと見つめながら、
「私たち、すばらしいセックスしてるもの。……私もすごく敏感になったわ」
「カズちゃん……ぼくは、あしたも、あさっても、ただこうやって死んでいくだけの人間かもしれないよ」
「どうやって死んでいってもいいわ。キョウちゃんに遇うまでの私の人生なんて、なかったも同じだもの」
 私は十五歳だった。十五歳の心が胸に飼った静かなあきらめに、どれほどの説得力があるだろう。しかし北村和子は、全存在を賭けて私を愛している。私の背後にただよう漠然とした死のにおいさえも好ましく思っている。
 しずくを切りきらないうちに、私は振り向き、カズちゃんを蒲団に押し倒した。胸を吸い、股間を吸う。カズちゃんはふるえ、大きくからだを開き、微笑みながら、私を迎えた。
「ああ、幸せ―」
 この声を記憶しておきたかった。この柔らかい、ふくらみのある声を。
         †
 早起きをした。昨夜の吹雪で吹きつのった雪がへばりついた窓ガラスが氷紋に覆われている。底冷えがする。
「きのうの晩げ、大(おっ)きた声で唄ってな」
 朝めしのとき、ばっちゃが笑いながら言った。
「うん」
「いい声してるな。歌手になったらいがべ」
 私がガマに言ったようなことを言う。昨夜、学校の図書室から借りてきた橋幸夫のLPを聴いていたとき、あした逢う人という名曲を発見し、繰り返し聞いたあと、自分でも何度か唄ったのだった。

  エルムのこずえ 時計台
  とわに輝く北斗星  ななつ数えて
  変わらじと誓った恋よ いつまでも
  あしたは逢える あの人に

「歌手になんかなれないよ。世の中には、どんな分野にも天才がゴロゴロいるんだ。その人たちが活躍するのがほんとさ」
「歌手ってが! だあ、あったら河原乞食」
 じっちゃが片頬をゆがめて笑った。きょうはスキー大会の日だ。身が引き締まる。
「じゃ、いってくる」
「苦しぐなったら、無理しねでやめればいんだ」
 トレパンにゴム長靴を履き、土間の天井に寝ていたスキーの中でいちばん新しいやつを担いで家を出た。幅の広いものなので、競技用ではない。たぶん善夫が通学用に使っていたものだろう。
 昨夜の雨がボタン雪に変わっている。空気を吸いこむと鼻の奥が痛い。魚介の買出しに浜へ下りていく馬橇の荷台に、乾いた新しい雪が積もっている。曳き馬が鈴を鳴らしながら前のめりにダクを踏んでいく。手綱にさばかれる首が轅(ながえ)の中で上下する。やさしい目に胸がつまる。
 校庭に何百人もの生徒が集まっていた。灰色の空から底力のある爆発音が聞こえた。大会の開始を報せるドンだ。上空に、二本、三本、白いヒゲのすだれがかかった。
「準備にかがれェ!」
 立花の声だ。野辺地中学校の正門から烏帽子岳の麓まで五キロ、折り返して正門までの合計十キロの往復路を、一年生から三年生までの男子全員が滑る。参加者は全行程の完走を目指し、なるべく棄権を避けるようにと言われている。女子は応援にまわる。
 風が少し強くなってきた。雪が降りつづいている。周りを見ると、ほとんどの生徒が幅の狭いスキーを履いている。私は校庭の隅でスキーをつけ、幼いころの記憶のまま滑り出そうとしてたちまち尻餅をついた。手をついて起き上がり、もう一度やってみる。やっぱりひっくり返る。信じられない! 何度かやってみたが、どうしても転んでしまう。そっと立ち上がり、ストックだけで前へ漕ぐようにすると、なんとなく進んでいく。両手で漕ぎながら交互にスキーを上げてみる。うまくいく。だんだん要領を思い出してきた。二本のストックと片方のスキーだけに注意を集中する。さっきよりはスムーズに進む。カーブをきってみる。転んだ。方向転換ができない。これはたいへんな半日になりそうだ。
 立花の号砲一発、全員ばらばらとスタートを切った。とたん、スキーを引き上げるタイミングを誤って横倒しになった。
「四郎に離されんなや!」
 みんなで叫んでいる。先駆けは杉山四郎だ。二年連続して一位だと聞いていた。彼はスタートから飛び出したきり、もうどこにも見当たらない。立ち上がった私に、
「無理すな」
 と熊谷が一声かけて、風のように去っていった。ストックの推進力とぎこちない足使いで、どうにか後方集団の真ん中あたりにつける。山田三樹夫の真剣な背中が見えた。幅広のスキーをつけている。ほっとした。橇や車の轍の上を滑っていく達者な者もいる。私は夢中でストックを漕いだ。思ったよりも滑らかに脚が進んだ。山田に追いついた。追いつかれるのを待っていたようだった。
「二キロあたりが苦しいんで。それを越したら、あんべいぐなるすけ」
 声をかけ、私を引き離すように飛んでいった。スキーの幅とスピードは関係ないのかもしれない。
 八幡さまの門前を過ぎて、中野渡の家の前から雪野原が左右に広がる農道に出た。平たい原から吹きつける風と雪のせいで耳が痛い。白装束の烏帽子岳が右手に見える。ゴム長にもんぺ姿の女子生徒たちが、沿道のところどころに固まりながら声援を送っている。
「神無月くん、けっぱって!」
 ストックを突く腕がだるくなってきた。せっかく抜いた後方グループに追いつかれ、素早く追い越される。力をこめてダッシュしてみても、地面を蹴るスキーが空滑りして、ほとんど徒歩と同じスピードになっている。
 いつのまにかだれの背中も見えなくなった。とつぜん風がやんで、雪が真っすぐ落ちてきた。森閑とした、だだっ広い純白の絨毯が私の足もとに広がった。私は足を止め、間断なく落ちてくる雪を見上げた。空のところどころに、まるで一かけの炭のように大きな鳥が飛んでいる。不思議な気がした。何カ月か前まで私は、確固とした未来を信じて雑踏の中を歩いていた。野球―それが自分ひとりだけの未来であるようなつもりで。いまの私には、その〈つもり〉さえない。明るい未来のためではなく、人間としての完成のためのしっかりとした一本の道が据えられたからだ。北村和子。人生のたった一つの目的。
 涙があふれてきて雪にまぎれた。湿った雪が粉雪に変わりかけている。走り出す。私は雪混じりの空気を吸いながら、都会の景色を削ぎ落とした道に一生懸命スキー板をこすりつけた。山の麓に立てられた旗を独りぽっちで折り返す。いや、独りぼっちではない。ジュースを手渡すボランティアの主婦たちの中に、美しいカズちゃんがいた! 
「ほら、がんばれ! ビリッケツ、がんばれ!」
 真っ白い八重歯を剥いて笑っている。私は笑いかけた。私が笑うと主婦たちも笑い声を上げた。
「ほんとに、めんこいニシ」
「いい男だこだ!」
 ふくら脛が燃えるように熱い。野球とちがう使い方をする筋肉が限界にきている。熱い脚を励ましながら、ふたたび銀色の世界へゆっくりと引き返す。カズちゃんに背中を見られているという意識が、脚の往復運動をぶざまに乱れさせる。やっぱり前方には仲間の姿がない。なんという足の速さだ。
「ほれ、けっぱれ、もうわんつかだ!」
 ようやく民家が見えはじめた沿道から、叱りつけるような声が飛んできた。叫んだ奥山先生を中心にクラスの女生徒たちがキャーキャー声援していた。その背後に、すでに滑り終えてスキーを外した杉山四郎や、山田や、ボッケや、ガマや、チビタンクの顔がある。私は息を吹き返したように、腿を引き上げ、ストックを強く突いて走りはじめた。彼らもいっしょに走りだした。奥山先生まで走っている。
「今年も四郎くんが一番だったじゃ」
 山田三樹夫が私の脇について走りながら言った。並んで走っていた四郎が、照れくさそうに坊主頭を掻いた。たった一人のゴールが近づいてくる。門のところに長身の男が眉をひそめて立っている。野月校長だった。
「こら、こら、こら、ブッケか!」
 いっしょに走ってきた生徒たちがドッと笑った。校長の脇で、熊谷一党がニヤニヤ眺めている。力がみなぎり、私は懸命に脚を動かしながら彼らに向かって滑っていった。校長は大きくうなずき、校門を過ぎるとき、ポンと私の尻を叩いた。


         十一

 真冬がはびこりはじめた。灰色の空から絶え間なく落ちてくる水気の多い雪が横殴りのミゾレになり、車や馬車の轍(わだち)に溜まって、ぬかるみをいっそう歩きづらくした。傘を差して登校する。風に向けて斜めにした柄を握る手が痺れて痛む。それでも手袋ははめないし、オーバーも着ない。じっちゃやばっちゃがそうしろと言っても断る。できるだけがまんして、〈素〉の自然を満喫したい。
 授業の合間、みんなストーブのそばにたむろするようになった。彼らはコークスの熱気にあたりながら、私には聞き取れないような訛りで会話をしていた。西舘セツの声がひときわ高く響く。私は寒い机で詩を読んでいた。あの黒表紙の本に出会って以来、もっぱら詩の言葉が私の関心事だった。一ページ一ページ繰っていくと、詩の中に描かれている自然や、それを見つめる詩人の心が、みずみずしい色合で私の心に侵入してきて、私自身の言葉で翻訳され、私のものになった。

  
丘々は、胸に手を当て
  退けり
  落陽は、慈愛の色の
  金の色


 ―ぼくにもいつか、こんなすばらしい詩が書けるだろうか。
 宮沢賢治の詩を初めて読んだときも、こんな思いに満たされた。才能のない人間がものごとに熱中することほど恐ろしいことはない。野球に打ちこんできた私には、それがわかる。でも、才能の白黒がはっきりするときまでは、どんなことでもやりつづけるしかないのだ。
 中也の日記を読んだ。心臓から出発する、という言葉に胸を衝かれる。彼は世間にとてつもなく苦しめられている。世間がちょっと利口ぶると、もうそのてらいを見破れず、切なく自分の心臓だってすぐれているのだと説いて、冷たくあしらわれ、悶々とする。自分の恋人といっしょに去っていく男の引越しを手伝うとは!
 下校のとき、中学校のグランドから野辺地湾を眺めやると、いつも見慣れている海が雪の中に白く静かに広がっていた。美しかった。世界がまだこんなに美しくあり得るということは思いがけなかった。まるでこの世の美というものを知らずに何年も生きてきたように感じた。いま私は、すべてのものは自分の閉ざされた心のせいで埋もれ、暗い色づけをされてきたのだということに気づいた。心を開きさえすれば、世界が新しく輝くのを見たり、観察し直したりする喜びを味わうことができる。―しかしどうすれば、いつも心を開いていることができるのだろうか。
 新しい本棚が詩集で埋まっていった。ブルトン、メーテルリンク、立原道造、ヴェルレーヌ、八木重吉、北原白秋、ヴァレリー、バイロン、萩原朔太郎、パステルナーク、宮沢賢治……。私は自分で決めただけの勉強をすると、残りの時間をひたすら詩集を読み、詩を書くことに費やした。
 詩集を読み、詩を書いているあいだは、どうにか過去を処理することができた。けれども夢の中には、かならず過去の人びとの姿が現れるのだった。とりわけ寺田康男! 彼はいつも私といっしょに歩いていた。夢とわかっている道の上で彼と笑い合い、なつかしい友情を確かめ合った。
 何度も夢を見ているうちに、やがて過去の幸福を失った悲しみが消え、素直な心が訪れた。彼らがたとえどんなに遠く離れてしまったとしても、私の心が彼らの近くにありさえすれば、彼らと自分の絆が絶たれることはけっしてないだろうと信じることができた。
         †
 母が私の進路の相談をするため、わざわざ野辺地へやってくることになった。奥山先生が何度も、再転校を勧める手紙を彼女に書き送っていたからだ。彼はよく、
「もう少し待ってけんだ、神無月くん」
 と廊下で声をかけた。
「先生、むだですよ。それにぼくはもう帰りたくありません」
 と私は応えた。彼は、最後まで希望を捨てるなという表情をした。私が希望など持っていないということが理解できないようだった。
「先生、母はそんなよけいな希望を断つために、遠路はるばるやってくることに決めたんですよ」
 彼は悲しげに微笑んで、廊下を去っていった。
「なして、くる必要があるってよ。呼び出されたわげでもあるめし」
 事情を知らないばっちゃは、そう言いながらも、破れ障子をみずから小刀で切り回して貼り合わせたり、じっちゃの小便で穿(うが)たれた縁側の板にせっせと雑巾をかけたりした。じっちゃは私がもの心ついたころから、縁側で小便をしていた。チンボの先から滴り落ちた雫で木目が窪んでささくれ、キノコの胞子のように粉を吹いている薄白い汚れは、いくら拭いても取れないようだった。
 ばっちゃは母に言ってやりたいことがたっぷりあるようで、夕食が終わってからもずっと、彼女の娘時代のわがままぶりや、家が苦しかったころの非協力的な振舞いのことをしゃべりつづけた。それもこれも、私がまた連れ戻されるのではないかという不安からきていた。私はばっちゃの話を、心地よいとも、うるさいとも思わなかった。どれほど彼女が孫の私を愛していたとしても、子である娘が息子にした酷薄な行為を相殺するほどの毒舌をふるうことはできなかった。ばっちゃは娘の罪を相殺したいのではなく、もっと彼女個人の好悪を秤にして、一人の女の性格を非難しているような気がした。私は祖母の悪口を他人ごとのように無関心な耳で聞いた。母が〈進路〉相談でやってくるということ自体、わざとらしいと思った。好んでさえぎった私の進路など、どうでもいいはずだ。
 じっちゃが苦虫を噛み潰したような顔で寝間に引き揚げようとすると、ばっちゃは悪口を中途にして、彼の背中をじろりと見た。孫のことについて、老人二人の歩調が合っていないらしいと察して、少し癪な感じがしたのかもしれない。私は炉端を離れ、部屋に戻った。机でしばらくいのちの記録を書いていると、ばっちゃが炭火を持ってきて、火鉢の灰に埋めた。
「ここにいるよ。名古屋に戻る話なんか、まちがっても出ないから」
 出ていこうとするばっちゃの背中に声をかけた。
「なんも気にしてねじゃ」
 と背中が応えた。

 ……言葉を忘れて体験に没頭する期間こそ、言葉からの禊(みそ)ぎの季節だ。言葉から遠ざかり、きびしくするどく滲み出てくる感覚だけを心の器に溜め、発酵させ、上ずみを掬い取って純度の高い感覚とする。体験が体験のままに終わってしまい、高純度の感覚に結びつかないことになるかもしれないと恐れる瞬間があるかもしれない。しかしそれは、感覚の抽出が目覚ましい体験そのものによっていっとき停滞しただけのことで、着々と蓄積されてきた感覚は、いずれ稜々とした感覚として抽(ひ)き出されるはずだ。没我の体験の中で感覚は蓄積され、発酵し、純化する。その純化された感覚を保存しながら、没我の体験がさらに繰り返されるとき、〈私〉は言葉の衣装を脱ぎ落とした純然たる感覚体となる。体験の地層で高温と高圧を加えられた感覚体は、変成を重ね、高質な表現媒体へと結晶する……

 そのときこそ真の言葉が甦るときだ、と思いながらノートを閉じて、窓を開けた。雪が降っている。向かいの家の灯りのついた窓を、雪のシルエットが横切る。いつか野月校長の言った〈下積みの〉人びとのささやかな生活が、きらめいて感じられた。
 十五日。夕方、母が土間の障子を引いた。
「こんばんは」
 だれに言うともなく、大儀そうに言う。私は祖父母といっしょに囲炉裏にあたっていた。母が炉端に坐るまで、だれも長旅の労をねぎらわず、身動きもしなかった。それで、遠来の客の表情はいくらか怯えたものになった。じっちゃが声をかけた。
「わざわざこねくてもいがったでば」
 ばっちゃの言っていたことだ。母はオーバーを脱ぎ、祖父母にしゃちこばったお辞儀をした。顔を上げて居ずまいを正した。父親譲りのするどい容貌を見たとたんに、嫌悪感が回復した。野辺地を去ってから、古間木、横浜、名古屋と渡り歩いてきて、この鋭角的な顔つきにこれほど当惑したことはなかった。眼光が強く、権高だった。見ちがえるほど痩せたせいで、以前よりも冷たく力の増した視線は、十五歳の私に最上級の脅威を与えた。
「中学校側に、名古屋に返そうとする動きがありまして、それで―」
「じゃっくど見放してってが」
 ばっちゃが言う。母は遠慮がちに、じっちゃの膝に薄い風呂敷包みを差し出した。
「T電力の株券です。お礼と言ってはなんですけど、使ってください」
 どういうツテをたどり、どんな手段を使って、老人二人が株券を金に替えられるというのだろう。
「なんも、そたらこと気にしねで、キョウをここさ置けばいいんだ」
 じっちゃがやさしく言った。もとより母はそのつもりだった。
「さっそくジェンコが。ジェンコ出せば用がすむってが」
 ばっちゃがイライラした声で突っかかった。
「無理なお願いしてるんですから……」
「ほんつけなしえ。どったら変わった子だたて、親もどから離さねばならねこどがあるってが」
 祖母は手のひらで鼻をすすりながら強い調子で言った。母はそれを無視した。
「ちゃんとやってるの?」
 私に訊いた。
「こっちの学校から、細かく連絡いってるんだろ」
 ふてぶてしい口ぶりで言った。
「いつまで、こっちさ置く予定だ? ウガにも考えあるべたって」
 じっちゃの穏やかな問いかけに、母は唇を引き締めた。
「当分ご迷惑をおかけすることになると思います。理由が理由ですから」
 じっちゃは作り笑いを収めてうつむいた。ばっちゃが代わりに首を立てた。
「そたらに大それたことだってが! ウガだって身に覚えがあべに。じっぱど手焼かした口でねな。てめのことは棚に上げて、息子にばり神経たげて。放っておげば、どってこどもながったべせ!」
 ばっちゃ口の端に泡を浮かべて言いつのった。その剣幕に、じっちゃは気圧(けお)されたふうにストーブの口を開けてコークスを放りこんだ。ばっちゃは、人が憶測でしか見当をつけられないことを直観的に悟ってしまうところがあった。母はひとことも返さなかった。奥山先生に会う時間が迫っていた。私が腰を上げると、ばっちゃが声をかけた。
「ちゃんとしゃべってくるんで。なんも気使うことねんだすけ。こっちゃで高校さ上がればいいんだ」
 ばっちゃは不安そうだった。じっちゃは渋面をうなずかせた。
 踏み固められた雪の上にしきりに新しい雪が落ちてきた。私はしぶしぶ母に傘をさしかけてやった。彼女はなつかしそうにあたりを見回しながら、
「野辺地中学校は、もとは高等小学校だったんだ」
 意味のないことを私の顔を見ないで言った。それきり黙った。自分の過去を語るきっかけにしたのではなさそうだった。もとの高等小学校と母がどういう関係にあるのか、さっぱりわからない。彼女はけっして自分の過去を語らない。少なくとも脈絡のあるふうには語らない。どんな小さなことも、医者や弁護士のように秘密を遵(まも)る。だから私は、彼女の血の通った個人的なエピソードをひとつも知らない。
「なんだか、おまえ、様子が変わったね」
「ご命令どおり、忍の一字、ひたすらじっとしてるだけだから変わりようがない。目の錯覚じゃないの。中身はむかしといっしょだよ」
「皮肉ばかり言ってればいい。私はびくともするもんじゃない」
 奥山先生は宿直室に石油ストーブを用意して待っていた。深々と頭を下げる母に、彼は恐縮して座布団を勧めた。慣れない手つきで茶をいれる。
「遠いところをわざわざお越しいただいて、恐縮です」
「息子がご迷惑をおかけしております」
「迷惑なんてとんでもない。神無月くんは飛び抜けて模範的な生徒でして、勉強のできは申すまでもなく、他人の気持ちはよく汲むし、生活ぶりも穏やかで、何ごとにもまじめ一方です。猛烈な読書家であることも、授業の受け答えのはしばしから感じられます。家のほうでも、よくご老人の手伝いをしているようです。感心するほど人間ができている」
「到着早々、思いもしなかった褒め言葉をいただいて、ありがとうございます。そんなことを言われて、私よりも本人が戸惑っていると思いますよ」
 何か冷たい気配を感じたのか、奥山先生の表情がこわばった。出された茶よりも先に母は煙草に火を点けた。奥山先生がついと畳に灰皿を押した。
「……単刀直入に言わせていただくと、たしかに神無月くんは秀才というよりも、典型的な天才型の人間です。ある意味、人に支配されにくい気質ではあるんですが、しかし……ほんとうに、その、神無月くんはいわゆる、不良だったんでしょうか。……私には信じがたいんですが」
 奥山先生は母の厳しい視線に突き当たった。
「何でもないのに、わが子を手放すと思いますか」
「はあ、おっしゃるとおりだとしても、そろそろこのへんで堪忍してやるというのも、彼の更生の道を急がせる一つの手ではないかと。……どうでしょう、あちらへの復帰を考え直していただくというのは。たとえあと二カ月ほどにしても、こんなところに置いておく意味がありませんよ。手続上のことだけですし、もともとホープ的な存在だったわけですから、向こうの学校も快く受け入れるんじゃないでしょうか。仕置をするという意味なら、もうじゅうぶんだと思いますよ」
「こちらの中学校の意見としては、再転校を勧めたいということですか? 何かこの子を置いておいて、不都合があるとか?」
「や、それは曲解です。私の話はそんなふうに聞こえていないはずです。手に余るので再転校を訴えている、というわけではないんです。教員一同としましては、神無月くんにはいつまでもこちらにいていただきたいのでして。神無月くんの存在そのものが大いにほかの生徒の励みになっておりますし、彼を見守っているだけで、私ども教師にとってもいい人生経験になります。もし神無月くんにこのまま残っていただけるなら、口はばったいようですが、これ以上の喜びはないんでして、一同責任を持ってお預かりするつもりです。ただ、ほんとにもったいないと思うんです。神無月くんの将来を考えると、たとえ一時期でもこんな田舎でくすぶっているのは、なんとも。先日も模擬試験で、青森県のナンバーワンになったんです。学校じゃなく県の一番ですよ」
 訛りを気にしてとつとつと語りかける。


         十二

 こういう話向きになるのを、私は心の底では予想していた。母は奥山先生の甘さを嗤うように、畳に向かって微笑んだ。
「どんなにいい話を聞かされても、私にはこの子が信じられません。正直、恐ろしいんですよ。一筋縄ではいかない子ですから、人さまの目にどんなふうに映っても、この子をよく知る親としては―」
 母は、私の名古屋での行状や、親子の煮え切らない関係をしゃべりはじめた。かなり細かい話になった。悪行になびきやすい私の性質を生来のものだと納得させるために、別れた夫のだらしなさにしばらく話が滞った。彼女の口をついて出るのは、ほとんど辛辣な批判や皮肉だった。でなければ呪詛の叫びだった。そして横にいる息子を強く見据え、ふつうの親ならけっして言わないだろう〈色に狂った〉という言葉まで口にした。自分の創り出した生命に関わることになると、母親というものはどしどし支配権を揮って無慈悲な生きものなる。彼女の表情は醜かった。その醜さから、私は目をそむけた。
「まだ私の記憶が生なましくて、この子を信用する気になれないんです。いつまでも、というわけではありません。時期がくれば、きちんと呼び戻そうと思っています」
 奥山先生は相づちも打たずに、困惑したふうにじっと自分の手のひらを見ながら、親指と人差し指のあいだをこすっていた。彼は母から顔を逸らして言った。
「よくわかりました。神無月くん、不本意だろうけど、きみ、こっちさいろ。がまんして、いまの調子で勉強してけろじゃ。そして、青高(セイコ)さいげ」
 奥山先生は思わず訛りを迸らせて言うと、涙目で私を見つめた。セイコというのは、青森県でナンバーワンの名門校である青森高校のことだった。
「ぜんぜん不本意じゃありません。うれしいくらいです。生まれたときから、ぼくには決まった家なんてないんです。いまいるところが毎日帰る家です」
 奥山先生は母に視線を戻し、
「いやはや、神無月くんは強い人間ですよ。おそらく彼は、この数カ月を悪夢のように感じてすごしたにちがいありませんが、それが欲求不満を長引かせ、慢性的な心の傷になって、もうどんな再生もできずに暗い青春を送ってしまう、というようなヤワな性格ではありません。わかりました。根本的に受け入れるべき立場の人間がそのありさまなら、彼をここに引き止め、地元のすぐれた高校に進ませるほうが、ずっと彼の未来の展望を明るいものにするでしょう。たとえいまは意に染まない環境だとしても、それに適応し、まじめな人間同士の競い合いの中でいまよりもさらに頭角を現していけば、神無月くんの人生はもっと充実し、人格にもぐんと磨きがかかるでしょう」
 彼は涙を隠さなかった。
「先生、ぼくは青森高校へいきます。もともと、そのつもりでした」
 母の面前であえて言い放とうとしたわけではなかった。進学ごとき、大したこととも思わなかった。進学の先は……その先には何もなかった。私はだれの重荷にもならないように、だれのじゃまもしないようにと心を配っているだけで、何の望みも持っていなかった。奥山先生は感激した笑顔で応えた。
「そうか、そうか、ありがとう。野月校長も、ほかの先生も、みんな期待してる。長い目で見れば、そのほうがきみのためになると言ってる」
「受かればいいですけど」
 素直な気持ちで言った。守隋くんに出会って以来、雨滴のように貯えてきた知識のしずく。この五年間の自分の成績は、そのおかげだった。まやかしものとは思わないけれど、勉学の素質を発揮して得た当然の成果だとも言い切れなかった。この数年で私の器の中で歩留(ぶど)まりした知識が、この先増えるとも思えない。県下一の高校に合格するのに、こんな学力で通用するだろうか。
「きみが受からなければ、だれが受かるんだ。謙遜も大概にしなさい。お母さん、こうなった以上たいへんでしょうが、せいぜい仕送りのほう、よろしくお願いしますよ」
 奥山先生は威嚇するような眼で母を見つめた。母は唇を噛みしめていた。
 帰り道、母は何も言わなかった。これ以上息子といっしょにいるのが気詰まりのようだった。私も早く母と離れて自分の部屋に閉じこもりたかった。雪はやんでいた。私はすぼめた傘で道をつつきながら歩いた。
「買われたもんだね、おまえも」
「買いかぶりだね。でも、買いかぶられてもなんとかなるもんだよ。あんたの望みと同じで、みんな同じ課題しか出さないからさ。試験なら合格。人なら和合。そのうえで最高の出世形態は、統治者か学者だね。人間的な倫理の完成じゃない。そんなのはどれも、簡単なことだ。それでいいなら、これからもあんたの期待に応えてやるよ」
 それ以上私は何もしゃべらなかったし、母も語りかけてこなかった。
 話が上々吉に納まったことを知り、ばっちゃはいそいそと茶をいれ、じっちゃは母の手前、にこりともしないでストーブの炎を整えた。それでも、おのずと湧き出てくるうれしさは隠せないようだった。
「なあに、いっときの辛抱だべせ。気持ちっこ入れかえたら迎えにきてもらえばいいんだ」
 こよりを通した煙管をプーと吹いた。
「ぼくは辛抱なんかしていないよ。迎えにきてほしくもない」
「そんだ、そんだ。入れかえる気持ぢがあるもんだてが。どう入れかえるのよ。キョウ、おめ、大学も、こっちゃで上がれ。家作も、土地もある。なんも心配いらねど。オラだっきゃ、まだまだ孫の一人や二人、立派に面倒見れるすけ」
 ばっちゃは押し切ったふうに締めくくると、浮きうきと台所へ立っていった。私は冷たい空気に包まれたくなり、部屋にこもった。窓を開けて、いつまでも降りしきる雪を眺めた。母の声が切れぎれに聞こえてくる。
「大吉と同じように……生活をひっくり返してしまって……いずれ、わかり……どんな子か……。大吉もそうでしたけど……常識は……意志は弱いし、それこそ……さかりのついた……本人にその気がなくても……かならず、がっかりさせられることに……あんまり期待……」
「根性まげて、てめの子の傷ばり語ってんでねど。ウガには親心ってものがねのが!」
 ばっちゃの金属質の声が台所から飛んできた。私はやるせなかった。私の三倍も四倍も人生を知っている老人が、雛鳥の味方をしている。私はうなだれながら障子の外の会話を聞いていたが、彼らの気組みはわかっても、議論が私のようなつまらない人間の将来を中心に廻っていることが不気味だった。たとえ、きょう母が奥山に同調して、再転校を了承していたとしても、私はこの土地で進学すると言い張ったにちがいない。それだけはわかっていた。
 私は本棚から適当に外国の小説を抜いて、机の上に開いた。文字だけが目に飛びこんできた。行をたどっていくうちに、活字全体が遠くへだんだん小さく消えていき、そのとたん、急にまたごろりと大きくなって目の前に飛び出してくる。前に出たり後ろに引っこんだりしている活字が、理屈も意味も失われて死んだものになった。それでも無理に読もうとした。馬鹿げたことをしているという気持ちが起こってきた。
 いつ、どんな具合だったか定かでないけれども、私は、自分と母のつながりが、周囲の人たちの親子関係ほど深いものでないことに気づいた。もう胸の奥で風化しかかっている記憶だが、青木小学校二年生のころ、彼女は虫歯の痛みで頬を腫らしている私を傘の柄で叩いて登校を強いた。また、あるガキ大将の唾がつくと腐るから近づくなと教えた。そういう胸にわだかまりを残すような印象深いことが時おり起こり、だんだん母を愛さなくなっていった。寺田康男や滝澤節子の件がそのことに拍車をかけたのはまぎれもないとしても、母を愛せない要素を少し付け加えたにすぎなかった。実際、私はそんなことを一度も恨みがましく思ったことはなかった。ただそういうささやかなできごとは第一の原因でないにしろ、母の存在が、自分に縁のない、愛さないものの地位に転落していくきっかけにはなった。
 ごく幼いころ、私の目に、母は完全なものとして映っていた。その完全さから、庇護者らしい厳しさが生まれてくるように思っていた。いま思えば、私が信じていた母の完全さは、彼女特有のほとんど考えられないほどの対人恐怖に基づいていたようだ。それは世間常識や教訓から彼女がこしらえた知恵ではなく、もっと根の深い、たぶん拭い消すことのできない素朴な人間恐怖からだった。母が時おり見せたやさしい言動は、きっと彼女にとって自然なものである人間不信が作り上げた人工的な奥義だったにちがいない。彼女は血を分けた息子をすら信じることができなかったのだ。
 そんなふうに、まるで冬の寒気の中の水たまりに氷が張るように、私の意識に冷たい覆いができているあいだに、ひとりでに、水たまりの中にさびしい諦念が結晶した。カズちゃんや康男や西松の社員たちがいなければ、その覆いは融解することはなかったし、結晶がほぐれはじめることもなかった。
 私はスタンドの明かりを消し、部屋の中を闇にした。母は老人二人とまだ話し合っていた。彼らは仕送りについてしゃべっていた。私の部屋の明かりが消えたのを就寝のしるしと取ったのか、小声でなくなり、はっきり聞こえた。
「私の監督不行届きのせいで、郷は都会で教育を受けられない破目になってしまいましたが、どこにいても、ちゃんと勉強すれば、結果は同じです。これから高校出るまでの三年間は、たくさんお金がかかります。私にしてもいつまでも働けるというわけじゃありませんが、あと二十年はがんばるつもりですから」
「オラんどのことはなんも気にしねくていいがら、学費だけ送れ」
 じっちゃが言った。飯場の毎月の収入から私の学費や生活費を捻り出すのは、かなりの負担だろう。ふと身内らしい同情の気分が湧いた。しかし、そんな気分はたちまち消し飛んだ。彼女はあれこれの手段で金を貯めこんでいるのだ。発作的に私は呟いた。
 ―ぜんぶあんたが好きでやったことだ。大事な金をなし崩しに使えばいいさ。
 今度のことで私は、母の私に対する生理的に根強い反感をはっきりと知った。彼女と付き合うかぎり、私はその反感と戦いながら、これからもずっと自分をすり減らしていかなければならない。これまで私の生活がいっときでも、手足を動かすように自由なことがあっただろうか? 彼女は押しつけがましかった。山手のブルジョワ学校。そこの生活は楽しくはなく、心の丈にしっくり合っている感じもしなかった。ごはんよりも寝たい、という作文を一つの団体に選ばせたのも、実質的には文章の力ではなく、母の押しつけがましい奇異な疲労が私を拘束していることへの同情だったにちがいない。
 その不自由な生活も、あの夜の名古屋駅のコンコースで終わった。ぎくしゃくと噛み合わずに連続してきた日々は、あの夜を始発駅にしてなめらかに進みはじめた。いまの生活は、自分の意思が導いた結果のように見えて、じつは単に、強いられた生活をうまく捨てられたことで、タナボタで手に入った自由だった。この先は、その自由を奪われないための闘いの連続になるだろう。闘いこそ自由でありつづけようとする者の義務だ。不自由だったときには、その義務さえ望めなかったのだ。
 そんなことを考えているうちに、私は机に首を垂れてウトウトした。すぐに、じっちゃの尖った声に起こされて闇の中に目を開いた。さっきまで、腹を立てるでもなく、言い返しもしなかったじっちゃが、神経質な低い声を搾り出している。 
「口固くして、考えなしにしゃべったりしねことだ。そたら、てめかわいいだけの口は開げねほうがいい。わが子は、血まなこになって庇うのがあたりめだ。おめごときがキョウを笑い草にするなんぞ、許しがて。自分の往昔(おうせき)を考えてみろ。長生きしただけの人間が若(わ)げ心を笑うなんぞ、許せることでね。人のもの盗るのは何ほどのことでもねども、人の気持ちをいたぶるのは罪が深えど。やあや! ガキでもあるめに、おめは自分がどういうことをしたかわかってねのが。もうなんも、ふとつも取り返しがつがねんで。おめにあるのは、たんだ見栄だけよ。おめが誇り高げえ人間だってへるなら、場合によっては人に負けてやるのがあたりめだべ。ちゃんと負げることは、大したことだすけな。……神無月さんはえらい人だった。おめにとっつかまって、それこそ、人生狂ってしまったんだ。おめの手にかかって、あの人は死んだんだ」
 佐藤善吉という男は、思うところをしゃべることができたのだった。その断罪の口調は、思わず母のことが気の毒になるくらい烈しいものだった。じっちゃは神無月大吉と自分の娘との結婚のゆくたても知っていたし、また娘を侮辱したいわけでもなく、彼女が夫に捨てられた女であることを知らないわけでもなかった。ただ、彼はこの長女がどこか苦手だったせいで、彼女が若いころには放任しておいたし、自分とのあいだにある愛情の欠如を治療もしておかなかったのだった。
 私は戸を少し開けて覗いてみた。心静かなときには分別と知性をたたえているじっちゃの気品のある風貌が、いまは怒りに燃えていた。ぎっしり生えた白髪のせいか、いつもの広い額がぐっと狭くなって、鬼のようにも見えた。母の後頭部が見えた。彼女はじっちゃの難詰を馬の耳に念仏と聞き流しながら、笑いを浮かべている気配さえした。たぶん、かわいがられた娘であるという甘えから、老いた祖父母の気持ちを深く考えてみることはほとんどしないで、一見人好きのするわが子に対して彼らがまちがった判断をしたにちがいないと思いこんだようだった。
「相変わらず、叱言幸兵衛ですね。どうもこの子は、あなたがたの気受けがよかったみたいで……。あなたがたには、この子の悪辣なところがわからないんですよ。虫も殺さない顔をしてますから」
 今度は、ばっちゃが爆発した。
「勝手に送りつけといて、開けてくやしや玉手箱ってか! いいも、悪いも、なんも期待してねじゃ。この齢になって、玉手箱の中身を確かめてみる気もしね。孫かわいい、それだげだ。そたらにいやなら、ワにくれろ。ジェンコなんどいらね。ちゃんと養ってやら」
「お金はきちんと送りますよ」
 げんなりした声で母が言った。


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