十三 

 今度のことで私は、母の私に対する生理的に根強い反感をはっきりと知った。彼女と付き合うかぎり、私はその反感と戦いながら、これからもずっと自分をすり減らしていかなければならない。これまで私の生活がいっときでも、手足を動かすように自由なことがあっただろうか? 彼女は押しつけがましかった。山手のブルジョワ学校。そこの生活は楽しくはなく、心の丈にしっくり合っている感じもしなかった。ごはんよりも寝たい、という作文を一つの団体に選ばせたのも、実質的には文章の力ではなく、母の押しつけがましい奇異な疲労が私を拘束していることへの同情だったにちがいない。
 その不自由な生活も、あの夜の名古屋駅のコンコースで終わった。ぎくしゃくと噛み合わずに連続してきた日々は、あの夜を始発駅にしてなめらかに進みはじめた。いまの生活は、自分の意思が導いた結果のように見えて、じつは単に、強いられた生活をうまく捨てられたことで、タナボタで手に入った自由だった。この先は、その自由を奪われないための闘いの連続になるだろう。闘いこそ自由でありつづけようとする者の義務だ。不自由だったときには、その義務さえ望めなかったのだ。
 そんなことを考えているうちに、私は机に首を垂れてウトウトした。すぐに、じっちゃの尖った声に起こされて闇の中に目を開いた。さっきまで、腹を立てるでもなく、言い返しもしなかったじっちゃが、神経質な低い声を搾り出している。
「口固くして、考えなしにしゃべったりしねことだ。そたら、てめかわいいだけの口は開げねほうがいい。わが子は、血まなこになって庇うのがあたりめだ。おめごときがキョウを笑い草にするなんぞ、許しがて。自分の往昔(おうせき)を考えてみろ。長生きしただけの人間が若(わ)げ心を笑うなんぞ、許せることでね。人のもの盗るのは何ほどのことでもねども、人の気持ちをいたぶるのは罪が深えど。やあや! ガキでもあるめに、おめは自分がどういうことをしたかわかってねのが。もうなんも、ふとつも取り返しがつがねんで。おめにあるのは、たんだ見栄だけよ。おめが誇り高げえ人間だってへるなら、場合によっては人に負けてやるのがあたりめだべ。ちゃんと負げることは、大したことだすけな。……神無月さんはえらい人だった。おめにとっつかまって、それこそ、人生狂ってしまったんだ。おめの手にかかって、あの人は死んだんだ」
 佐藤善吉という男は、思うところをしゃべることができたのだった。その断罪の口調は、思わず母のことが気の毒になるくらい烈しいものだった。じっちゃは神無月大吉と自分の娘との結婚のゆくたても知っていたし、また娘を侮辱したいわけでもなく、彼女が夫に捨てられた女であることを知らないわけでもなかった。ただ、彼はこの長女がどこか苦手だったせいで、彼女が若いころには放任しておいたし、自分とのあいだにある愛情の欠如を治療もしておかなかったのだった。
 私は戸を少し開けて覗いてみた。心静かなときには分別と知性をたたえているじっちゃの気品のある風貌が、いまは怒りに燃えていた。ぎっしり生えた白髪のせいか、いつもの広い額がぐっと狭くなって、鬼のようにも見えた。母の後頭部が見えた。彼女はじっちゃの難詰を馬の耳に念仏と聞き流しながら、笑いを浮かべている気配さえした。たぶん、かわいがられた娘であるという甘えから、老いた祖父母の気持ちを深く考えてみることはほとんどしないで、一見人好きのするわが子に対して彼らがまちがった判断をしたにちがいないと思いこんだようだった。
「相変わらず、叱言幸兵衛ですね。どうもこの子は、あなたがたの気受けがよかったみたいで……。あなたがたには、この子の悪辣なところがわからないんですよ。虫も殺さない顔をしてますから」
 今度は、ばっちゃが爆発した。
「勝手に送りつけといて、開けてくやしや玉手箱ってか! いいも、悪いも、なんも期待してねじゃ。この齢になって、玉手箱の中身を確かめてみる気もしね。孫かわいい、それだげだ。そたらにいやなら、ワにくれろ。ジェンコなんどいらね。ちゃんと養ってやら」
「お金はきちんと送りますよ」
 げんなりした声で母が言った。
         †  
 翌朝、母はばっちゃの支度した朝めしには箸をつけず、茶ばかりすすっていた。そして露骨に不機嫌だった。怒りともちがう、憂鬱とも異なった、こういう他人の感情を足蹴にして省みない顔の衣装は、私の十五年の人生の中で何人かのエゴイストに見かけたものだけれど、人間の性癖の中でも私をいちばん憤らせるものだった。反町の崖の家の爺婆、高島台のひろゆきちゃん、浅間下の悪童たち、畠中女史のお兄さん、粟田電器店の主人、宮中の中村専修郎、担任の浅野……。こういう表情だけは、どんなに気持ちが困憊したときも、生涯にわたって、自分にはけっしてできない表情だった。
「とにかく、入学試験のことだけ考えて、自重しなさい。おまえの目標にしてる高校は、ダテや酔狂じゃ受からない学校だからね。どんなきれいごと言ったって、人が気にかけるのは成功だよ。失敗なんかする人間には目もくれない」
 私は、ふん、と言って薄く笑った。
 出発間際に訪ねてきた親戚や知人に向かって、母は息子がいかに長年の苦労の種であったかを口説いた。
「おめもよく口に戸立てねで、くだらねことばりしゃべってられるな」
 じっちゃは舌打ちし、眉を曇らせながら仏間に引っこんだ。ばっちゃは母の杞憂を嗤うようなひとことふたことを客にしゃべり、彼らの腰を上げさせると、私の弁当を作るために台所に引っこんだ。
 私は、母が囲炉裏から土間に降り、去っていくときの顔を見た。その顔の奥に針金のように頑丈な一本の線が潜んでいた。私は、学校の教師や仲間を見るのと同じように、母の顔を初めてはっきりと見たのだった。私はその頑丈な一本の線を見つめながら、これまで自分の生活に影響を与えてきた彼女の生来の対人恐怖から、とっくのむかしに関心が離れていたことを知った。

  一月十六日(土) 雪
 動物でさえ常に服従している厳しい法則がある。害を与えるものからは逃げ去れ、と命じる本能の声に従うことだ。けち臭い虚栄や恐怖から、私に害を与え、不快を与える者は、常に私の魂を凍らせる不吉な存在でありつづける。彼らは私を呪う鬼神から遣わされた使者だ。彼らの地位にどんな世間的な栄光があろうとなかろうと、彼らが世間にどんな恩恵を与えていようといまいと、私は個人として彼らと関係を断つべきだ。
 この厳とした本能への服従は、命を求めて生きる人間の摂理にかなっている。私の内部には、災難を予測する感覚がある。そういう宿命的な加害者に対して感じる嫌悪の情は、生命欲の結果なのだ。たとえ世情の倫理が生命欲を否定する徳義を私に強いるとしても、私は従わない。絶えず嫌悪の本能を信じて行動する。
 危害から免れたその私は、いったいこの暗い部屋からどこへいこうとしているのだろう。ただ机の上で、まるで消えかけた蝋燭のように、危害から免れただけの炎の量で小さくふるえているだけだ。大きな闇が四方からこのかすかな炎を消しにかかっている。でも、炎は残り少ないけれども、その蝋燭はかろうじて存在しているのだ。闇の圧力に対抗して炎を支えているのは、蝋芯を形作る生命欲だけだ。いまカズちゃんがいなければ、この生命欲は消える。彼女がいれば、ふたたび炎は大きく燃え立ち、命の目指す方向が定まるだろう。


 母が戻っていき、数日の憂鬱から回復すると、私はますます規則的な日常に身をひそめた。それは《目立たずに生きる》という一語に集約されていた。
 学校で試験があるたびに、これまで以上に全力で取り組み―全力こそ擬態の最たるものだ。シニカルな怠惰は目立つ―だれの目にもつかないよう、廊下や道の端をうなだれて歩き、祖父母とカズちゃん以外の人間となるべく視線を合わせないようにしてすごした。そして生活の中から抽出された純粋な思いだけを、いのちの記録に掬い取っていった。
 このノートは、たしかに最初はカズちゃんに与えるための日記として書きはじめたものだったけれど、書き溜め、言葉を彫琢するいまとなっては、もはやつづけて彼女に手渡そうとは思わなかった。言葉の禊など、感覚の純化など、とんでもないことだった。表現にあこがれる私にそんな悠長な時間はなかった。体験の前に、まず〈言葉の純化〉だった。
         †
 毎日雪が深かった。散歩の日課は、カズちゃんに逢いにいく土曜日だけにかぎって、ひたすら善司の書棚の本と、買い貯めた詩集を読んだ。そんな日々の中で、詩だけを収めた昭和文学全集初期編という一巻を買ってきて、坂本明子という車椅子の詩人を知った。雪崩の楽章という連作詩に涙を流した。

  …………
  愛はすべてを無視するので
  不具なわたしの体をも ひたすら音を高くしてながれる
  …………
  求めてはいけない
  わたしのなかにはなにもない
  保たれた位置のほど良さ
  一歩近づくとも
  わたしも貴方に望むものがない
  …………
  わが傷める脚は 鹿の角に似て細し
  つめたく 堅し
  傷みてひさしければ
  半人半獣の族(うから)と化したれど
  性を抹消すること かなわず
  灼けつく熱帯の太陽の思慕
  未開の粗き地肌をおもえば
  溢るる生気は恋びとの上をながれる
  褐いろの腕がひらかれ
  大気のなかに抱かれんとするとき
  鹿の角 尖りて
  肉を刺せども
  痛みは陶酔のなかにつつまれ
  醸された美酒の薫りとにおいたつ
  かなしきかな
  …………

         †
 雪が四日連続で小止みなく降っている。一月二十三日の土曜日、学校の帰りにカズちゃんの家にいき、重油ストーブをつけ、全裸になって蒲団に潜りこんで彼女を待った。思わず寝入ってしまい、性器を口に含まれている気配で目覚めた。目の前にカズちゃんの濡れた陰部があった。彼女のリズムに合わせて私も舌で愛撫した。腹がふるえはじめたので、その腹をさすりながら気をやらせた。
 私は上半身だけ起こしてあぐらをかき、小便をさせる格好で後ろから両脚を抱えて挿入した。カズちゃんはすぐに高潮を迎え、そのまま激しく痙攣をつづけた。私も強く射精した。彼女はしばらく自分の局部を覗きこむ形で痙攣していたが、私の律動に耐えられず飛び離れてうつ伏せに倒れた。抜き去ったときの刺激のせいでもう一度大きく痙攣した。私もうつ伏せに並びかけ、耳もとに囁く。
「愛してる」
 カズちゃんは目をかすかに開き、弱々しくうなずいた。
「青森高校受けることになったよ。三月三日」
 カズちゃんは懸命に起き上がって横坐りになり、目を輝かせて笑った。
「不思議。私の誕生日―」
 すぐ私のものの清掃にかかる。
「初めて知った。五月五日と三月三日、すてきだね」
「ほんと。深い因縁みたいで、うれしい。二月の末までに、青森市内に引越しをすませておくわ。今度も一戸建にする。内風呂はぜったい必要ね」
 母がやってきたことは、二人の生活にはまったく関係のないことなので話さなかった。
「スキー大会、応援ありがとう。ダントツのドベだった。ゴールしたとき、校長先生に尻をバシンとやられた」
「すごくきれいだったわ、キョウちゃん。雪よりも白かった。キラキラ輝いてるの。いい男とか、美男子とか、そんなものじゃない……絶対物」
 面映かったので、乳房を強く握った。
「イタッ……。キョウちゃんが大勢の人たちに愛されててよかった。遠くまで聞こえてきたわよ、神無月くーん、けっぱってー、って。涙が出ちゃった。……絶対物って、それ自体絶対なわけだから、学校へいったり、職に就いたり、何かの肩書きをつけたりする必要があるのかしら―私、キョウちゃんが見えた気がしたの」
 こっそりとカズちゃんは、生きてるだけでいいってことじゃないかしら、と言った。
「そんなやつの人生は、たいへんだよ。そういう存在の仕方が許されるはずはないから、ちょっかいの出されっぱなしになる」




         十四

 カズちゃんはティシュで股間を拭うと、下着をつけて仰向けに横たわり、
「そうよ。だから私、ここにいるの。キョウちゃんにちょっかいを出す人たちから護るために。キョウちゃんは生きてるだけでいい人。大好きなことをしながらね。学校とか、会社とか、競争社会はキョウちゃんにはとても不愉快なものだから、きっとストレスまみれになるでしょうね。不愉快なのは、キョウちゃんに不必要だからよ。でも野球にたどり着くまでは、そんなことでけっして挫折しないようにがんばってね。私が全力で支えるから」
「野球―」
「そう。大好きなこと。キョウちゃんが奪われたのは、野球だったのよ。キョウちゃんを心底愛してる人しか気づいてないわ。キョウちゃんにさえ強い自覚がない。野球がつまらなく思えてきたなんて口に出して、野球をしない生活を正当化してたわ。野球だけは取り戻さないとだめ。キョウちゃんは野球のヤの字も口に出さなくなった。押美さんが追い返されてからは特にそう。大好きなことに固執していないように人に見せてる。こだわりがないということは、人の目には大好きなことに見えないものだから、挫折しても当然だと思われちゃうわ」
 ワカと似たようなことを言う。胸が早鐘に打った。
「挫折って?……」
「やめてしまうということ。キョウちゃんが人生を快適にすごせる可能性がいちばん高いのは野球だけなのよ。不運が重なって中断してしまったけど、でもそれは、才能がないからということにはならないの。これまでの記録が示すとおりよ。ふつうの人が見抜けないのは、そこね。私はキョウちゃんを五年も見てきたの。この目に狂いはないわ。野球をつづけるのは晴れの場でなくてもいい。草野球でも何でもいい。かならずつづけてね。そしてどんな場所でもホームランを打ってね。そして最後には、いちばん楽しいプロ野球にいくの。天才なんだから」
 私は、思わず嗚咽した。
「泣かないで。……知ってる? キョウちゃんは歌の天才でもあるのよ。よく平畑のお風呂場で唄ってたでしょ、裕次郎の歌。私、じっと聴きながら、よく泣いてたの。キョウちゃんの声は、じっと聴いてると、涙が出てくる不思議な声なの。きっと私だけじゃないと思う。透き通ってて、深くて、力があって、肌がジーンと寒くなるの。歌もこっそりつづけてね。キョウちゃんを愛する人が聴いて驚くわ。あとは勉強。たとえば学校の勉強。英語や数学のようなもの。それから読書。芸術的なものでも学術的なものでも、他人の本を読むのは一種の勉強ね。勉強は文句なし。試験を受ければどこにでも受かるでしょう。最後に文章。キョウちゃんは正真正銘の天才よ! いのちの記録を読んではっきりわかったわ。ただ、その道を目指したら受け入れられるまで時間がかかるでしょうね。関心の基準が独特で、意識が高すぎて、ふつうの人を安心させないの。たしかに文学は真実を描かなくちゃいけないわ。でも、その時代に受け入れられるためには、流行に乗ろうとするような凡人性がないと、なかなか大勢の人に気に入られないの。大衆は真実なんてものは鼻で笑うでしょうし、出版社は大衆に売ってお金を儲けたがるから。でも、ニセモノは歴史が処分してくれる。ほんものは歴史が守ってくれる。キョウちゃんは真実しか描かないようにでき上がってる大きすぎる才能よ。歴史に守られるわ。書きつづけてね」
 カズちゃんは泣きながら私を抱き締めた。
「私は、こんなにすばらしい人を愛したの。ほんとに生まれてきた甲斐があった。愛してる。死ぬほど愛してるわ」
 カズちゃんは丸めたティシューを持ってトイレへいった。やがて、コーヒーをいれて戻ってきた。
「期待される人間像ってね、非行に走らない人って意味なの。小中高大と秀才で、大会社や官庁に入って、とんとん拍子に出世して、最後に袖の下を取るというのが理想型。キョウちゃんの対極にいる人たち。その人たちを避けて生きましょうね」
 枕もとに置いた一杯のコーヒーを、おいしい、と言いながら二人ですすり合う。
「さ、もう一度しましょ。こんなに硬くなってる」
「うん」
         † 
 一月二十九日の午前に、とつぜんアメリカから君子叔母がやってきた。すっかり大きくなったジェフリーを連れていた。豚のように太った子供だった。じっちゃがにこにこ顔で歳を尋くと、五本の指を差し出した。叔母は私の顔を見つめ、
「ますますいい男になったな。姉からテガgaミもらってね。おまえの様子を見にきた。大した悪さしたんだって?」
 じっちゃばっちゃへの挨拶もそこそこに、私に話しかける。女のくせにあぐらをかいていた。そういえば、サイドさんの家でもあぐらをかいていた。煙草を吸わないのがめずらしかった。佐藤家で煙草を吸わないのは、ばっちゃだけかと思っていた。
「自慢できるほどの悪さじゃないけどね。叔母さんはわざわざ、ぼくがどんな悪さをしたか確かめにきたの? 暇だね」
「生意気だな。おまえみたいなキチガイ、だれも手なずけられない。爺さん婆さんの荷物になる。おまえ、ここの中学出たら、アメmeリカの高校に入りなさい」
 母に頼まれてきたのかもしれない。母は私をもっと遠くへ追い払いたいのだ。
「青森の高校へいくんだ」
「だめだ、日本に置いておいたら、ロクなことにならない。おまえの頭なら、アメリカで立派にやっていける」
「なしてキョウがアメリカさいがねばなねってが!」
 ばっちゃが怒鳴った。君子叔母はじろりとばっちゃを睨み、そのまま黙った。ジェフリーはじっちゃの膝に乗って、彼のあごをさすったり頬を強くつねったりしていた。傍若無人な感じがした。
「スミの話ばり信用してるべたって、あれ、ウソシでェ。わがってるべや」
 ホッケとタクアンと味噌汁で昼めしを終えると、君子叔母とジェフリーは、ばっちゃに連れられて親戚回りに出かけることになった。ジェフリーは一口も食わなかったので、
「帰りにパンでも買ってくるべ」
 土間の戸を引きながらばっちゃがぼやいた。私はじっちゃに言った。
「封筒渡してたね、ばっちゃに」
「スミと同じだ。ジェンコければ、親孝行したと思ってんだ」
「金を渡す以外何の用もないのに、一昼夜かけてきたんだね。信じられない。郵便で送ればすむのに」
「おめを養子にでもしたかったんだべせ。あの息子はできが悪そうだすけ。しかし、スミにも困ったもんだ。なんたかた、おめを遠くさやりてんだ。どんだけ憎ぞいんだがなァ」
 じっちゃも同じように考えていたようだった。
「やっぱりおふくろのサシガネかな」
「まぢがいねべ。無視しろ」
 じっちゃが新聞の拾い読みに入ったので、私は部屋に戻って勉強にかかった。窓が雪の反射でまぶしい。夕方まで不得意な社会の問題集を解いた。
         †
 最後の東奥日報模試は、野中の卒業試験に当てられている。英・数・国、六十かける三で百八十点、理・社、四十かける二で八十点、技術家庭・美術・音楽・保健体育、三十かける四で百二十点、計三百八十点。先回一番をとったときの成績は、英語六十点、数学五十七点、国語五十九点、理科三十八点、社会二十六点、技術家庭二十一、美術二十四、音楽二十八、保健体育二十八、合計三百四十一点だった。もう一度この得点を取るのは無理な気がする。社会科の得点をもう少し上げて、合計八割三百点を目指そう。サブ教科はまったくできない予感がある。本番でその予感が当たれば、入学成績は真ん中へんになるかもしれない。なんせ県下のナンバーワン高校なのだ。たった一回の模擬試験で一番を取ったくらいで、上位で合格するのは至難だろう。
 翌日、半ドンで帰宅すると、君子叔母は私に盥と洗濯板を持たせて井戸へいき、たっぷり水を使って洗いものに精を出した。ほとんど子供服だった。当のジェフリーは、ばっちゃに連れられて町へ散歩にいった。佐藤菓子で芋饅頭でも食うのだろう。
「こんなところに骨を埋める人間はかわいそうだな。洗濯機(ウォッシャー)もなければ、冷蔵庫(フリッジ)もない。あるのは、苦しいライフだけ」
「苦しいとは思わない。単調だとは思うけど」
 もはや私を喜ばせなくなった、単調な波頭に耕されている砂と石の浜や、単調な遠鳴りを浮かべながら答えた。
「モトニーも一つのハードシップだよ。イフが単調なのと、することがあまりないのとで、チュラリー、〈アタマ〉の働きが飲み食いのほうに走る。シンス・ゼイ・アー・ラッキング・イン・エデュイション―〈アタマ〉を使うのが苦手だから、イクスクルーシブリー、所帯の細かいことにインディングするしかないんだよ。フォ・イグンプル、ッキングでしょ、ールウェイズ、ウォッシングでしょ、クリーニング・アラウンド・ザ・ウスでしょ」
 言いたいことはだいたいわかった。君子叔母も母と同じで、アタマ、アタマ、と強調した。私は、腰を屈めて洗濯板をこする叔母の姿を見守りながら、ときどき水を汲み上げて盥に足してやった。
「どうしても、アリカさいく気はないか」
 くどく打診する。
「ない。サイドさんのところからきたの?」
「イエース」
「元気だった?」
「ヤー、おまえのことを心配していた。不良だな、おまえは。女遊びなんかして、ませた野郎だ。母ちゃんも育てがいがなかっただろ」
「だろうね」
 土曜日なので、早くカズちゃんのところにいきたくてイライラしていた。母子でトーストと目玉焼きの遅い昼めしを食うと、君子叔母はじっちゃに、きのうばっちゃに渡したのより厚い封筒を膝のかたわらに置き、バッグを二つ両手に提げた。
「青森さ出て、夜行でいくから」
 杉山畳店の電話を借りて縦貫タクシーを呼んだ。
「送っていくよ。帰りに映画でも観てくる」
 祖父母にことわり、いっしょに駅まで乗っていった。ジェフリーは私と肌を接触するのをいやがり、母親の膝に避難した。
「叔母さん、わざわざ悪かったですね。すみませんでした」
 母は、こんな遠くまで、妹ばかりでなく、五歳の子供にもつらい旅を強いたのだ。自然と謝る気になった。
「高校出てからでもいいから、アリカにきなさい。学費はぜんぶ出してやる。善司もそうだけど、ジャンはおまえの器に合わないんだよ」
「もう一度、島流し食らうことがあったら、そうします」
 親子を改札に見送った帰り道、本町の坂で、仕事帰りのカズちゃんの背中に遇った。
「カズちゃーん!」
「あら!」
 追いついて、歩きながら事情を話した。
「お母さんもしつこい人ね。いつまでちょっかい出す気かしら。でも、いずれ役に立ってもらわないと困るから、がまん、がまん」
「役に立つって?」
「高校大学の入学書類や、まんいち名古屋に転校した場合とか、プロ野球に入団するときとか。ぜんぶ親の提出する書類が必要なのよ。おっと、いっしょに歩いてるところを見られたらたいへん。先にいくわね。あ、それから、旅館のほう、来月の十日で辞めることになったわ。一足先に青森へいって、青森高校のそばに家を探しとく。決まったら手紙出すわ」
 早足でいってしまった。佐藤菓子の前でボッケの母親に呼び止められ、紅茶と芋饅頭をご馳走になった。ボッケが三沢商業を目指している、菓子職人もこれからの時代、高校ぐらい出ておかないと、といった話を長々と聞かされた。
 蒲団に入って全裸で待ち構えていたカズちゃんと、いろいろ体位を変えて、いつもより長い時間をかけてセックスをした。柱に凭(よ)りかかり、前から片脚を持ち上げて挿入する立ち位というのと、両脚を揃えた股間へ挿入する伸展位というのを試した。立ち位は、神宮の又兵衛小屋の木陰で節子がして見せた体位だとわかった。伸展位というのは、クリトリスがこすれて身悶えするほど気持ちいいけれども、ふつうの女は深々としたアクメを期待できないのだとカズちゃんは言った。そして、
「私はどうやっても、死にそうなくらいイッちゃうけど」
 と恥ずかしそうに微笑んだ。こうした言葉に啓発されながら、着々と自分が性技に長けていく感覚がうれしかった。
「来月はひと月間、こもって勉強してね。わかっているようなことでも、馬鹿にしないでしっかり確かめるのよ。三月の中旬まで逢えないと思う。きょうは、ひと月半のお別れセックス。あと二回はしましょうね」




         十五

「おばんです」
 翌日、雪の上がった夜、山田三樹夫が神妙な顔をして土間に入ってきた。私は障子まで応対に出た。彼は愛想よく笑うと、土間に立ったまま囲炉裏にいた祖父母にも挨拶した。じっちゃは彼を見るのは初めてだったらしく、とまどったような笑いを返した。
「山田医者の息子さんかな」
「はい。神無月くんに頼みごとがあってきました」
「何、頼みって?」
「奥山先生がオラたち二人に、勉強のことで頼みてことがあるって、うちさ電話かけてよごした。宿直室で待ってるそんだ」
 秀才の山田を伝令にして、何かまじめな用件で奥山先生から呼び出しがかかったと知り、私ばかりでなく、老人二人も少し興奮した。
「頼まれごとは、でぎねことはきっちり断り、でぎることだら、責任を持って引き受げるんで」
「うん。じゃ、いってくる」
 彼らは上機嫌に私を送り出した。夜の凍った道は銀の鏡のように美しかった。ゴム長でもつるつる滑るので、二人でスケートの格好をしたりして楽しみながら歩いた。道の肩に泥混じりの雪がざらついて固まっていた。鈴を鳴らして浜から登ってきた荷橇が追い抜いていった。
「頼みたいことって、何? もうわかってるんだろ」
「うん。種畜場の中島くんも高校さいきてってへるすけ、オラと神無月くんとで家庭教師してやってけろって頼まれた」
「チビタンク?」
「ンだ」
 仲間の家庭教師をする―初めての経験だ。生徒として出かけていって教えを受けたことはある。あれは守随くんの〈家庭〉だったし、家庭教師は守随くんだった。加藤雅江に教えたのは、交換日記の中でだった。新しい気持ちになった。
「チビタンクは成績悪いの?」
「県立は危ね」
 母のときと同じように、奥山先生は宿直室に石油ストーブを焚き、あぐらをかいて待っていた。私たちにもあぐらを勧め、
「ごくろうさん。ちょっくら頼みごとがあってせ。山田くんからもう聞いたと思うけんど、じつは、中島くんが直前になって進学希望に変わってな、野高さいきてんだと。いまの成績だと、まず受からね。おめんどに勉強教えてほしいんだとせ。わざわざ本人がオラのところに頼みにきた」
「種畜場までいくんですか?」
 山田が尋いた。
「ンだ。申しわけねけど、きてほしいとへってらった。かっちゃが、茶いれたり、菓子出したりしてんだと。山田くんや神無月くんと、ふだんあんまり口利いたことねすけ、図々しいみてだども、どうしても頼みてと、恥ずかしそうにへってらった。中島くんが進学を言い出したのも、おめんどのいい影響だんだ。なんとか助けてやってけねが」
 山田はつづけて尋いた。
「毎日ですか」
「うんにゃ、週に一回ぐれ、日曜日に二、三時間でいい。やってけるが?」
 私たちは二つ返事で了承した。奥山先生の心の中には、チビタンクの救済そのものよりも、少しでも生活の目先を変えることで、ふつうの中学生とはあまりに隔たった経験をした私に、少年らしい日常の歓びを与えてやりたいという気持ちがあったろう。たぶんそれは、私の母親に実際会ってみて、年齢に似合わない沈思の傾向や、人を遠ざけようとする態度の原因を知り、いよいよ私の心持ちに痛々しさを覚えたからにちがいなかった。ほとんど中学過程の勉強をものにしたように見える山田に関しては、日ごろの勉強の復習に役立てばいいというくらいの考えで、あまり気にしていないようだった。そのことは山田も承知していた。
「一組から高校を受験するのは、ほかに、だれだれですか」
 私の質問に奥山は、
「野高志望のイツミさん、青森工業を受ける大野くん」
 低音の魅力の大野か。音楽の時間に、順ぐり当てられて『椰子の実』を唄ったとき、彼はまるでフランク永井のような太くて深い低音を出した。ピアノを弾いていた生まじめな男先生が、
「いい声だな。フジムラ藤村も拍手喝采すべ」
 と言ってしまって、教室を爆笑させた。一分も経って、笑われた理由に気づいた彼は、顔を真っ赤にして、ウハハハとひとり笑った。
「四郎くんは、東奥義塾に引っぱられたおんた」
「野球の名門ですね」
「ああ、東北一だ」
 あの程度でスカウトされるのか。愛知県だったらとても……。胸にさびしい翳りが差した。
「ボッケくんも、三沢商業を受けるってへってました」
 山田が言った。奥山がうなずき、
「高校卒業してから、東京さ修行にいくんだツケ」
 山田と私と中島、カクト家具のイツミちゃん、それに低音の魅力の大野と、佐藤菓子のボッケ。クラス五十三人中、たった六人しか受験しない。ガマも岡田パンも赤泊も、四戸末子も、別のクラスの熊谷も、横山よしのりも、みんな就職組だ。特待生として学費まで免除してもらえたトランペットの中野渡や、野球の四郎は、出世頭ということになる。
「山田くんも青森高校を受けるの?」
「オラは野高。汽車通学するのがたいへんだすけ」
「下宿すればいい」
 山田は困ったような顔つきをした。経済的な理由だとわかり、話の向きを変えた。
「野辺地高校なら、一番で受かるね」
「さあ、どんだんだか」
 まんざらでもなさそうな顔で笑う。
「とにかく、中島くんのことよろしぐな。来月の七日からひと月、日曜日のたんびに四回(け)教えてければ、だいぶ力がつくんでねが。再来週の十三日は最後の東奥日報模試だ。二十二日に成績表返還、三月一日は卒業式、三日は入学試験だ。あわただしいけんど、お願いするじゃ」
 奥山があぐらから立ち上がり、いっしょに立ち上がった私たちの肩を叩いた。
         †
 一月七日、日曜日の午前早く、表からおとないの声がした。学生服の胸にシャープペンを差しただけの格好で長靴を履き、土間の戸を引くと、山田三樹夫の背に太刀持ちのように杉山四郎が控えていた。四郎は私を見ずに、しばらく視線を宙に泳がせていた。大きなからだに似合わず内気だということは、初対面のときからわかっていた。
「東奥義塾合格おめでとう」
「なも、野球推薦よ」
 四郎は横を向いたまま私に応えた。
「勉強より、大したもんだよ。プロ野球にいけるといいね」
「プロはオーバーだべ」
 そのとおりだと思ったが、励ましを言った。
「それじゃ、野球推薦の意味がない」
 四郎はきょとんとしていた。二人は戸口まで出てきたばっちゃに丁寧な挨拶をした。上がってへ、と促されたのを、
「種畜場まで遠いですから」
 山田は頭を下げた。丸くて青白い顔が雪に映えた。美男子というのではないが、気高い感じがした。山田は私の凝視にくすぐったそうに目を細めると、あんべ、と言って歩きだした。
「好きなことをして高校生活を送れるなんて、羨ましいな」
 四郎はそれには応えず、少し人なつこい調子になって、
「チビタンクの妹がめんこくてよ。山田から話コ聞いて、オラも誘ってけろって頼んだんだじゃ」
「四郎くん、勉強のじゃましたらマイネよ。遊びでねんだすけ」
 山田が穏やかに釘を刺した。
「わがってるじゃ」
 海沿いの道を歩いた。空から絶え間なく粉雪が落ちてきた。海風を正面から受けるせいで頬がビリビリした。
「ホー、凍みるじゃァ!」
「さんび!」
 二人の頬は真っ赤だった。道端の雪の切れ目に枯れ草が茂り、灰色の陽を受けて心細く揺れている。四郎が雪玉の遠投を挑んだ。私はウォーミングアップをさせてくれと頼んだ。
「おめの遠投は、すげもんな」
 私は雪玉を五、六個作り、一つ、二つと海に向かってゆるく放った。だんだん肩と手首に力を入れていく。
「いいよ、やろう」
 一投目。四郎の球が二、三メートル遠くへ落ちた。二投目はだいたい同じだった。
「これで最後だ」
 ウン、と低く放った私の球が四、五メートル先に落ちた。
「たんだでねな! どんだけケッパってもとんどがね。でホームラン王だってが。もったいねな。義塾さきたら、ピッチャーで四番だべに!」
 ホームランの記憶がたちまち甦ってきた。そのときふるえたはずの心の記憶はおぼつかなかった。山田がにこにこ笑って二人を見ている。さっきよりも彼の顔色が一段と白さを増したように感じた。
 金沢海岸に出る。見慣れた廃船の腹を、ゆるい波が打っている。海にからだを向けたとたん、凍える風が頬を痺れさせた。海岸からゆるやかな坂を上っていった。踏み切りの向こうの雪原の中に、大きな長屋仕立ての建物が雪をかぶった屋根を覗かせていた。敷地の区画が板垣で囲まれている。
「あのあたり一帯が種畜場だ」
 山田について、しっとりした深い雪の中へ踏みこんだ。膝まで雪にめりこませながら歩いていく。幼稚園のころ、この場所ではないが、だれかとこうして歩いた記憶がある。いまのいままで一度も思い出さなかった。どこへいったかも思い出せない。種畜場だったのかもしれない。
「中島くんは、幼稚園は城内?」
 山田が、
「そんだよ、神無月くんを種畜場さ連れてったこどがあったってへってらったよ」
「やっぱり!」
「きたど! めんこい妹、いるが!」
 四郎が学校のように広い玄関から呼びかけた。
「四郎くん、ヨモダはやめんだ」
 山田はまじめな顔で叱った。四郎はきょろきょろとあたりを探る目つきをした。私は山田のまじめさに従う態度をとった。チビタンクが出てきた。母親といっしょだった。
「すみませーん、わんざわんざ」
 母親はまず山田と四郎にお辞儀をし、それからしみじみと私を見つめて、
「お話、ユキオから聞いてます。よくきてくださいました。ありがとうございます」
 これでユキオが二人だ。ガマとチビタンク。ほかにまだクラスに二人ほどユキオがいたような気がする。中島は頭を掻きながら、
「きょうはまんだ雪かいでねくてよ、往生したべや。おろ、四郎もきたのな。じゃまくせな」
「そう言うなじゃ。ワがいたほうが、気が楽だべ」
「まんず、上がってけんだ」
 母親が笑顔で言うと、みんなで長靴を逆さに振って雪を落とし、中島についてだだっ広い板の間に入った。鉄柵で囲った重油ストーブに青白い炎が燃えている。平屋の建物の周囲が吹きさらしのせいか、板敷きの部屋全体に強すぎる暖房を効かせている。それでも熱すぎるということはなかった。
 板部屋の真ん中に大きな角テーブルと座布団が用意されていた。そばにソファも据えてある。母親が茶とゴマ煎餅を用意して、すぐに出ていった。めいめい座布団を引き寄せて敷くと、山田がまじめな表情で中島に言った。
「英単語とか、数学の公式とか、最低限のことから始めるべ。オラぐれの頭だと、それがぜんぶかもしれね。言ったとおり、ノート用意してっか」
「おお」
「神無月くんも適当に付き合って、一人で勉強していてけんだ。あとでいっしょに、数学の問題集でもやるべ」
 山田はカバンから何冊か教科書や問題集を取り出した。中島のために考えて準備したもののようだ。テーブルに中学二年生の英語の教科書をひろげ、巻末の単語をいちいちノートに写していった。中島もそれをまねた。四郎はソファに肘をついて横たわり、少年雑誌をぺらぺらやっている。私は手持ちぶさたになり、山田や中島と同じことをした。
「神無月くん、きみは発音がいいはんで、これを一つずつ発音してけねが」
 そのとおりにやった。山田は中島に私のまねをしろと命じる。中島がぎこちなく発音するたびに、山田は追いかけるようにその意味を言っていった。三十分ほどそれをやった。
「次は、漢字の書き取りだ」
 山田は用意してきた薄手の漢字練習帳から、やっぱり中二程度の漢字を五十個ばかり読みあげ、中島に書き取らせた。チビタンクは漢字が得意のようだった。うれしそうにスラスラと書いていく。
「中三のレベルも自分でできそうだニシ。国語はやらねくてもだいじょぶだ。これから一カ月、英語と数学だけやるべ」



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