九

 横山よしのりは、自分の愚痴や見解を聞いてくれるときのエトランゼの静かな表情が好きのようだったし、いつも返す言葉に深みのあることを求めていた。
「ワのこど、こたらにわがってくれる人間に出会ったことねじゃ。いずれおめは野辺地を出ていぐんだべ。そのとぎは、オラはどごまでもついでくじゃ」
「それは無理だよ。理解を示し合いながら二人三脚で生きることなんか、恋人でもないかぎりできっこない」
「ワイには無理でね。ワが惚れたんだすけ、恋人でねくていんだ。……ナが熊谷に金沢さ呼び出された夜よ、家のめを通りかがったガマから話コ聞いて、うれしみてな、腹くくらねばなんねみてな、片輪者になったら一生引き受けてやんねばなんねみてな、何とも言えね気持ちになったず」
「腹くくったの?」
「んにゃ。ガマが助太刀の四郎の名前を出したすけ、『ンガも一枚かめ』ってへられるめに、『へたに関わらねほうがいいど』ってせこい断り入れた。暴力はおっかね。ワイの性分に合わねんだ。たんだ臆病というだけのことだけんど。自分のこどはわがってら」
「気持ちに合わないことはしないほうがいい。賢明だったよ」
「……ナが校舎裏で、うすけねキミオをおけしてぶったくったこどは、ワの耳にも聞こえてらった。指何本折ったとか、鼻の骨潰したとか―おっかねがった。そたらのはすぐデマだとわがったけんど、肋骨を痛めだずのはほんとらしくてせ、うだでぐ残酷なぶったくり方をしたなと思った。すわっとなるど、うるだがねで暴れる男だずのは、おめの顔見だとぎから予想してたすけ。それもおめの魅力の一つだけんどな。だども、相手が熊谷となれば話がちがる。熊谷は素人でね。おめにはぜひ勝ってもらいたがったけんど、無理だと思った。……勝つかもしれねと、ちょぺっと期待したけどな。ただ勝ったら勝ったで、熊谷にウラミ残すおんた勝ち方すれば、うだでなしっぺ返しされるべし」
「ヤクザって、そういうものじゃないんだよ。いさぎよい人たちだ」
「後腐れねぐ勝ったんだすけ、学校はガラッと変わるど。熊谷の兄貴を仲にして、すっかど和解もしたツケ。おまげにあの東奥模試だべや。ンガはスーパーマンだこった。熊谷んど、いまはンガを拝むような眼で眺めでるじゃ。ナがたった一人で学校の秩序を変えでしまったんだ。つくづくとんでもね男だ。そんだのに、ナはえがりもしねば謙遜もしね。これまでどおり静かなもんだ。……惚れだでば」
 よしのりは、ふと机の上に開いてあったいのちの記録に目を留め、
「おめが書いたのな」
「ああ」 
 いのちの記録は二冊目に入っていた。
 よしのりは自分のことを頭がいいと繰り返し言ったけれど、その言葉に誇張はなく、とにかく並外れた記憶力を持っていて、たとえば、教科書でも文学書でも日本語の活字なら、見開き二ページをそっくり頭の中に写し取ることができた。いわゆるカメラ眼というやつで、初めて披露されたときには驚いた。一年生のときからずっと社会科の成績は、学校の一番を外したことがないと言うのも納得できた。二年生のとき、風邪で休んだ中村マサちゃんの日本史の代講をしたとも言う。
「教頭から頼まれてよ」
 もちろん講義は好評で、三年になってからも政経の代講を一度やった。
「すごいなあ。どんなふうにやったの」
「どんなふうって……中村マサちゃんよりうまくやったじゃ」
 彼はそっくり返って大笑した。
「詩が思い浮かんだ。二度言えないから、記憶してよ」
「まがせろ」
 よしのりは持ち前の記憶力で頭に収めようとしはじめた。

  悲しみが押し寄せる
  ああすればよかったのだが
  そうすることができなかったというふうに
  悲しみがうねって押し寄せる
  ああすればよかったのだが
  そうすることができなかったというふうに

「それだげか」
「いまのところはね」
「暗記するほどのこともねじゃ。……しかし、いいな。題名は、悲しみ、が?」
「希望―」
「わいはァ、希望か! なるほどそんだな、それがいじゃ。これは悲しみの形をとってる希望だけんた」
 カズちゃんのことを話したくなったが、こらえた。
「メモしなくていいのが」
「うん、ただの書き出しだし、なんだか気に入らないから、もう一度考え直すよ」
「覚べでられるのが」
「そりゃ無理だ。よしのりとはちがうよ。頭が新しくまとまれば、またちゃんとしたのが出てくるさ」
「こったらのが、もう一回出てくるってが。ま、いがべ。ワがいま書くすけ」
 彼は机の上のいのちの記録の新しいページにサラサラと書きつけた。そしてもう一度読み上げた。整ったスタンザが湧いてきた。
「形のでき上がった詩ができ上がった。メモしてくれる?」
「おう」

  それは さざ波のように
  音楽のように 押し寄せる
  ああすればよかったのだが
  そうすることができなかったというふうに
  それは 音楽の律動を覚えず
  さざ波の細かな襞を持たない
  ひたすら 日常の沈淪した首すじに
  長雨となって降り注ぐ
  四囲が心の色に染まる
  忘れられない悲しみが押し寄せる
  ああすればよかったのだが
  そうすることができなかったというふうに

 よしのりはあわただしく書きつけ、記憶を頼りに少し遅れて書き終えた。すべて平仮名だった。私は、漢字にするべき部分を手直しした。
「すげな! これがアダマの中に湧いたのな。天才だでば」
「大して悲しい経験をしたわけじゃない。悲しみとしか言えないものが生まれつき血管の中を流れてるから、それを追いかけるだけで書ける。才能じゃない」
 ホームランも才能じゃないなと思った。また木田ッサーのさびしそうな顔が浮かんだ。
「……おめんどこの爺さまも、このごろだば渋い顔をしなくなったすけ、遊びにきやすくなったじゃ」
「ガマもたまに顔を出すようになったよ。まじめな顔でステレオを聴いている」
「何考えでるがわがんね男だども、悪人ではね。もらわれっ子だすけな。オラと同じでさびしんだべ。おめに甘えてんだじゃ」
 私はつい先日、教室で起きたおもしろい場面を思い出して、よしのりに言った。
「奥山先生がこのあいだ、ガマに猛烈な平手打ちを食らわせたとき、わるいけど笑っちゃったんだ」
「ああ、オラも岡田パンから聞いた。奥山(グダヤマ)はアダマ固くて、シャレが通じねんだ」
 私は思い出してあらためて笑った。奥山先生が朝のホームルームで、
「風邪がはやってるすて、おめんども気をつけろ。どこか具合の悪い人はいねが」
 するとガマが、ハイ、と手を上げて、
「おら、アダマ悪りじゃ」
 と言ったのだ。私は思わずニヤリとしたが、奥山先生は、
「村上くん、こっちゃこい!」
 と怒鳴った。ガマがうなだれて教壇の前に進み出ると、先生は思い切り往復ビンタを張った。木下にビンタを食らわせた桑子を思い出した。
「グダヤマのビンタは効くんだ。ワも一年のとき一回(け)やられた」
 私は大声で笑い、
「冴えたシャレだったのになあ。ぼくが奥山先生なら笑っちゃうけど」
 ついこのあいだここに遊びにきたとき、ガマはカバンから西郷輝彦の十七才のこの胸にを取り出して、
「かけてけろ」
 と言う。私の膝もとに散らかったEP盤の中に、同じレコードのジャケットが覗いていた。私はクスクス笑いながら、この歌好きなんだ、と言って針を落とすと、彼はレコードに合わせて歌いだした。
「いい声してるね。NHK喉自慢に出たらどう」
「田島鉄工がとんでもなぐうめ。知ってっが?」
「うん知ってる、きみも同じくらいうまい。演歌もポップスも何でも歌える喉だ」
「すたらこど初めて言われたじゃ」
「歌手になれるよ」
 本気でそう思った。弘田三枝子の砂に消えた涙をガマはしばらく聴いていたが、
「これ、貸してけねが」
「いいよ。あげるよ」
「いらねじゃ。おめには、もの頼めねな。買うすけ、いいじゃ。ワも、こねだ、ステレオ買ったんでェ。聴きにこねが」
 私は快くうなずき、ばっちゃに言って、わざわざ城内のガマの家までいった。御幣みたいに破れた障子を開けると、東芝製の豪華なステレオが三畳間にデンと置いてあった。渋紙を壁に貼った部屋とはアンバランスで、かえってみすぼらしい感じだった。
「いい音すんだ。ポータブルだば、こったら音出さね。もう聴けたもんでねな」
 ガマのかけた曲は、バーブ佐竹の女心の唄だった。三畳に調度を詰めた狭い部屋だったので、立ったまま聴いた。すばらしい響きだった。私のステレオとは音質と圧力がまったくちがっていた。演歌程度のものでさえ、ここまで力のあるクリアな音で聴けるのだ。ガマの言ったとおり、質のいいステレオに対する認識が変わった。これよりも高級な装置なら、もっと臨場感のある鮮やかな音で聴けるにちがいない。
 遠い日、横浜港のブラスバンドにくっついて走ったことを思い出した。空に昇っていくあの音は、かぎりなく美しかった。クマさんにはなんだか悪い気がしたけれども、いつかちゃんとしたメーカーの高級ステレオを手に入れようと思った。
「ほんとにいい音だね」
「ボッケのステレオは、こんなもんでねど。うだで本格的でェ。あんべ」
 二つ返事で佐藤菓子へ回った。
「二階の部屋の壁と床をコンクリートで固めたんだツケ。五百万もかかったず」
 想像もつかない金額だった。意外な訪問客に機嫌をよくしたボッケに導かれて、二階に上がった。頑丈な革張りの一枚戸を開けると、爆発音が顔に向かってドーンとぶつかってきた。コンクリートの壁を切って埋めこまれた二つの大きなスピーカーの前に、ボッケの弟がいて、アニマルズの朝日のあたる家を聴いていた。メロディラインの単調な、つまらない曲だった。たとえどこか遠くから流れてきても耳障りな曲で、注意を傾けて聴く音楽ではなかった。部屋の縁にぐるりと溝が切ってあり、水を流してある。何の効果があるのかわからない。装飾だろうか。
「防音をしっかり効かせてらんだ」
 ステレオを埋めこんだ壁以外は、頑丈な厚い板で設えてあって、外に音はまったく洩れないと言う。アニマルズの一曲ばかりかける。あんまり音が大きくて耳がおかしくなってきたので、ガマを置いて早々に退散した。あの音は実音ではない。音量も音質もニセモノだ。ガマのステレオのほうがはるかにすぐれている。
「おめ、中野渡の家さもいったべ。人がいいでば。あったら変人、だれも相手にしねんで」
 よしのりが呆れ顔で言う。一週間ばかり前の学校帰りに、正門のところで、ニキビ顔がさびしそうな少年に声をかけられた。
「オラ、中野渡ヒロシ。ナと同じクラスだ。気づかなかったべ」
「知ってるよ。吹奏楽部の部室を通りかかったとき、きみのトランペットだけがビーンとするどく聞こえてきた。ぼくには聴く耳があるんだ。きみは将来、日本を代表するトランペッターになるよ」
 私は率直に言った。
「音楽好きだおんたな。ハリー・ジェームズのトランペット聴かせでやる。おらえさこい」
 八幡神社から農道へ下ってすぐの二階家へ連れていかれた。ちびたポータブルで、スリーピー・ラグーンというメロディアスな曲を聴かされた。音がひしゃげて、ぼんやりしていた。私は仕方なく、
「高音がきれいだね」
 と褒めた。彼は私の顔に不満を見て取り、
「だば、もったいねけんど、聴かせでやら」
 と言い、回転部だけを露出させたターンテーブルに同じレコードを載せた。それは最初から眼についていたけれども、ガラクタだと思っていた。
「こいつが真空管アンプ、あれがスピーカーだ」
 天井の二つの隅を指差した。直径二十センチほどの、コーンを剥き出したスピーカーが貼りついていた。
「トランペットの低音は、なかなか出せるもんでね。あれは出す。音量もバッチシだ」
 ガマのステレオを凌ぐ、信じられないほど澄んで快適な音が耳に刺さってきた。私はうなった。
「すごい!」
「ミュージカル・フィデリティー。イギリスのスピーカーだ。JBLが理想だけんど、高くて手が出ね」
 私は二つのスピーカーのメーカー名を暗記した。調子に乗った中野渡は、私を裏の畑に連れ出し、自慢のトランペットを聴かせた。これこそ実音で、大気をするどく貫いて昇っていく音だった。ハリー・ジェームズより素朴で、耳にさわやかに響いた。
「彼は才能がある。まちがいない」
 よしのりが目を丸くする。
「ほんだが?」
「ああ、将来きっとプロになる」
「おめは、自分にねものは、何でも褒めるな」
「自分にあるものは褒めない。四郎は高校の二番バッターか、七番バッターで少し活躍するかもしれないけど、頭打ちになる。プロにはいけない。高校になったらもう少し足が速くなって、小技の利いた選手になるだろうね。甲子園にいくかもしれない。でも、スカウトはこない」
「ほんだが……」
 三学期の初めに中野渡は、ブラバン日本一の青森山田高校にスカウトされた。学費免除ということだった。


         十

 一月十日の日曜日にスキー大会が催されることになった。翌日が三学期の始業式だ。
 九日の土曜日にカズちゃんに逢いにいった。太陽が斜めに一戸建の屋根を照らし、片側の日陰の屋根に残っている根雪から、カズちゃんの微笑のように透き通った雫がしたたっていた。
 いつものように大喜びした彼女は、丁寧にコーヒーを入れた。居間のテーブルを見ると、山崎豊子の白い巨塔が伏せてあった。相変わらずの読書家だ。でも、彼女がベストセラーを読むのは退屈している証拠だ。
「ごめんね、なかなかこれなくて」
「何言ってるの。私も忘年会やら年始会でけっこう忙しかったのよ。気にしちゃだめ。年に一度の織姫でいいとは言わないけど、二(ふた)月、三(み)月に一度でも何ともないわ。いつもキョウちゃんは私の胸に住んでるの。生身のキョウちゃんが現れると、幸せすぎて、いつもおろおろしちゃうくらい」
 うまいコーヒーをすすった。
「お父さんやお母さんは、カズちゃんがこっちにきてること、知ってるの」
「もちろん。離婚するときに、好きな人がいるって話したのよ。十五歳も年下の中学生だって。北村家もおかあさんが四つも年上だから、それほど驚きもしないで、せいぜいうまくやれって言われた。飽きられないようにって」
 節子の母親が言ったという言葉に重なった。
「今回のキョウちゃんの青森行きのことも詳しく話して、ついていくつもりだって言ったら、二人とも、ぜひいってやれって、背中を押してくれたのよ。私、一人娘だから、どんなわがままでも聞いてもらえるの。安心した?」
「うん」
 カズちゃんもおいしそうにコーヒーをすすった。
「職場の人たちに、なぜわざわざ名古屋からこんな田舎にきたのって訊かれない?」
「しょっちゅうよ。学生のころ下北半島に旅行して、とても気に入ったから、いつかこのあたりでしばらく暮らしてみたいと思ってました、て言うと、みんなうれしそうに納得するわ。じょうずでしょ」
 カズちゃんはとても頭がいい。
「あしたはスキー大会だ。八幡神社からの農道を滑る。声をかけてね」
「もちろん! 楽しそう。何時出発?」
「八時半。スキーの滑り方を忘れてしまったから、最後尾になると思う。恥ずかしいな」
「ほんと、恥ずかしい。スポーツマンのキョウちゃんがみっともないわよ。でもかわいい。うんと応援するわ」
 いつもの口づけがあり、おたがいのからだが別の世界で生き返る時間になる。カズちゃんの唇は厚くて温かい。ソファに腰を下ろし、唇を吸い合ったまま、ワンピースの胸に掌を当てる。掌の中に収まらないのを無理に揉みしだく。声が出はじめる。下着に指を這わせる。指先に感じるいつも新鮮な湿り。きょうがすぐにあしたになってもなつかしくなる不思議な湿り。
「……待って」
 カズちゃんは立ち上がって服を脱ぎ、全裸になると、反り上がった形のいい尻を振りながら廊下へ出、トイレの中に消えた。小便の迸る音がする。私ももよおしてきて、あとを追おうとすると、すぐに戻ってきたカズちゃんが、私を立たせ、ゆっくり服を脱がせる。
「きれいな形! すごく立派になったわ。もうぜんぜん皮もたるんでない。いつからこんなになったのかしら」
「カズちゃんのせいだよ。こっちでカズちゃんとしはじめてから、しばらく経ったらこうなった。朝起きると、いつもカチカチになってる。ぼくもオシッコ」
「トイレじゃ無理ね。縁側からしなさい」
 寝室の縁側に立ち、生垣の死角を確認して放尿する。高い放物線を描く。カズちゃんはしみじみと見つめながら、
「私たち、すばらしいセックスしてるもの。……私もすごく敏感になったわ」
「カズちゃん……ぼくは、あしたも、あさっても、ただこうやって死んでいくだけの人間かもしれないよ」
「どうやって死んでいってもいいわ。キョウちゃんに遇うまでの私の人生なんて、なかったも同じだもの」
 私は十五歳だった。十五歳の心が胸に飼った静かなあきらめに、どれほどの説得力があるだろう。しかし北村和子は、全存在を賭けて私を愛した。私の背後にただよう漠然とした死のにおいさえも好ましく思っていた。
 しずくを切りきらないうちに、私は振り向き、カズちゃんを蒲団に押し倒した。胸を吸い、クリトリスを吸う。カズちゃんはふるえ、大きくからだを開き、微笑みながら、私を迎えた。
「ああ、幸せ―」
 この声を記憶しておきたかった。この柔らかい、ふくらみのある声を。
         †
 早起きをした。昨夜の吹雪で吹きつのった雪がへばりついた窓ガラスが氷紋に覆われている。底冷えがする。
「きのうの晩げ、大(おっ)きた声で歌ってな」
 朝めしのとき、ばっちゃが笑いながら言った。
「うん」
「いい声してるな。歌手になったらいがべ」
 私がガマに言ったようなことを言う。昨夜、学校の図書室から借りてきた橋幸夫のLPを聴いていたとき、あした逢う人という名曲を発見し、繰り返し聞いたあと、自分でも何度か歌ったのだった。

  エルムのこずえ 時計台
  とわに輝く北斗星  ななつ数えて
  変わらじと誓った恋よ いつまでも
  あしたは逢える あの人に

「歌手になんかなれないよ。世の中には、どんな分野にも天才がゴロゴロいるんだ。その人たちが活躍するのがほんとさ」
「歌手ってが! だあ、あったら河原乞食」
 じっちゃが片頬をゆがめて笑った。きょうはスキー大会の日だ。身が引き締まる。
「じゃ、いってくる」
「苦しぐなったら、無理しねでやめればいんだ」
 トレパンにゴム長靴を履き、土間の天井に寝ていたスキーの中でいちばん新しいやつを担いで家を出た。幅の広いものなので、競技用ではない。たぶん善夫が通学用に使っていたものだろう。
 昨夜の雨がボタン雪に変わっている。空気を吸いこむと鼻の奥が痛い。魚介の買出しに浜へ下りていく馬橇の荷台に、乾いた新しい雪が積もっている。曳き馬が鈴を鳴らしながら前のめりにダクを踏んでいく。手綱にさばかれる首が轅(ながえ)の中で上下する。やさしい目に胸がつまる。
 校庭に何百人もの生徒が集まっていた。灰色の空から底力のある爆発音が聞こえた。大会の開始を報せるドンだ。上空に、二本、三本、白いヒゲのすだれがかかった。
「準備にかがれェ!」
 立花の声だ。野辺地中学校の正門から烏帽子岳の麓まで五キロ、折り返して正門までの合計十キロの往復路を、一年生から三年生までの男子全員が滑る。参加者は全行程の完走を目指し、なるべく棄権を避けるようにと言われている。女子は応援にまわる。
 風が少し強くなってきた。雪が降りつづいている。周りを見ると、ほとんどの生徒が幅の狭いスキーを履いている。私は校庭の隅でスキーをつけ、幼いころの記憶のまま滑り出そうとしてたちまち尻餅をついた。手をついて起き上がり、もう一度やってみる。やっぱりひっくり返る。信じられない! 何度かやってみたが、どうしても転んでしまう。そっと立ち上がり、ストックだけで前へ漕ぐようにすると、なんとなく進んでいく。両手で漕ぎながら交互にスキーを上げてみる。うまくいく。だんだん要領を思い出してきた。二本のストックと片方のスキーだけに注意を集中する。さっきよりはスムーズに進む。カーブをきってみる。転んだ。方向転換ができない。これはたいへんな半日になりそうだ。
 立花の号砲一発、全員ばらばらとスタートを切った。とたん、スキーを引き上げるタイミングを誤って横倒しになった。
「四郎に離されんなや!」
 みんなで叫んでいる。先駆けは杉山四郎だ。二年連続して一位だと聞いていた。彼はスタートから飛び出したきり、もうどこにも見当たらない。立ち上がった私に、
「無理すな」
 と熊谷が一声かけて、風のように去っていった。ストックの推進力とぎこちない足使いで、どうにか後方集団の真ん中あたりにつける。山田三樹夫の真剣な背中が見えた。幅広のスキーをつけている。ほっとした。橇や車の轍の上を滑っていく達者な者もいる。私は夢中でストックを漕いだ。思ったよりも滑らかに脚が進んだ。山田に追いついた。追いつかれるのを待っていたようだった。
「二キロあたりが苦しいんで。それを越したら、あんべいぐなるすけ」
 声をかけ、私を引き離すように飛んでいった。スキーの幅とスピードは関係ないのかもしれない。
 八幡さまの門前を過ぎて、中野渡の家の前から雪野原が左右に広がる農道に出た。平たい原から吹きつける風と雪のせいで耳が痛い。白装束の烏帽子岳が右手に見える。ゴム長にもんぺ姿の女子生徒たちが、沿道のところどころに固まりながら声援を送っている。
「神無月くん、けっぱって!」
 ストックを突く腕がだるくなってきた。せっかく抜いた後方グループに追いつかれ、素早く追い越される。力をこめてダッシュしてみても、地面を蹴るスキーが空滑りして、ほとんど徒歩と同じスピードになっている。
 いつのまにかだれの背中も見えなくなった。とつぜん風がやんで、雪が真っすぐ落ちてきた。森閑とした、だだっ広い純白の絨毯が私の足もとに広がった。私は足を止め、間断なく落ちてくる雪を見上げた。空のところどころに、まるで一かけの炭のように大きな鳥が飛んでいる。不思議な気がした。何カ月か前まで私は、確固とした未来を信じて雑踏の中を歩いていた。野球―それが自分ひとりだけの未来であるようなつもりで。いまの私には、その〈つもり〉さえない。明るい未来のためではなく、人間としての完成のためのしっかりとした一本の道が据えられたからだ。北村和子。人生のたった一つの目的。
 涙があふれてきて雪にまぎれた。湿った雪が粉雪に変わりかけている。走り出す。私は雪混じりの空気を吸いながら、都会の景色を削ぎ落とした道に一生懸命スキー板をこすりつけた。山の麓に立てられた旗を独りぽっちで折り返す。いや、独りぼっちではない。ジュースを手渡すボランティアの主婦たちの中に、美しいカズちゃんがいた! 
「ほら、がんばれ! ビリッケツ、がんばれ!」
 真っ白い八重歯を剥いて笑っている。私は笑いかけた。私が笑うと主婦たちも笑い声を上げた。
「ほんとに、めんこいニシ」
「いい男だこだ!」
 ふくら脛が燃えるように熱い。野球とちがう使い方をする筋肉が限界にきている。熱い脚を励ましながら、ふたたび銀色の世界へゆっくりと引き返す。カズちゃんに背中を見られているという意識が、脚の往復運動をぶざまに乱れさせる。やっぱり前方には仲間の姿がない。なんという足の速さだ。
「ほれ、けっぱれ、もうわんつかだ!」
 ようやく民家が見えはじめた沿道から、叱りつけるような声が飛んできた。叫んだ奥山先生を中心にクラスの女生徒たちがキャーキャー声援していた。その背後に、すでに滑り終えてスキーを外した杉山四郎や、山田や、ボッケや、ガマや、チビタンクの顔がある。私は息を吹き返したように、腿を引き上げ、ストックを強く突いて走りはじめた。彼らもいっしょに走りだした。奥山先生まで走っている。
「今年も四郎くんが一番だったじゃ」
 山田三樹夫が私の脇について走りながら言った。並んで走っていた四郎が、照れくさそうに坊主頭を掻いた。たった一人のゴールが近づいてくる。門のところに長身の男が眉をひそめて立っている。野月校長だった。
「こら、こら、こら、ブッケか!」
 いっしょに走ってきた生徒たちがドッと笑った。校長の脇で、熊谷一党がニヤニヤ眺めている。力がみなぎり、私は懸命に脚を動かしながら彼らに向かって滑っていった。校長は大きくうなずき、校門を過ぎるとき、ポンと私の尻を叩いた。


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