十九

 卒業式までの残りの数日、私は悲壮な決意を持って、朝早くから夕方まで自分の計画どおりに勉強した。窓の外に雪がしんしんと降った。山田のくれた知と愛は、勉強の合間に読み終えた。いのちの記録を開いた。

 山田くんのくれた知と愛を読了。ナルチスとゴルトムントという二人の中心人物は、作者の分身にちがいなく、きっちり別人として描き分けるのは無理があると思ったけれども、読み通して非常に感動した。ナルチスに自信過剰の悪癖を与え、同性愛の瑕(きず)をつけてマイナスのイメージを持たせようとしても、彼が純潔の超人であることの価値は損なわれなかった。また、ゴルトムントにしても、むやみな肉体の人として描かれてはいたけれども、彼もまたナルチスの対極にある芸術の超人なのだった。

 たぶん山田は、長く愛読してきたこの本に書かれている人間関係を、彼の思索の花園へ闖入してきた私と、出迎えた自分自身に重ねて、直観的な投影をしたのだ。山田の心の動きが推し量られて、胸が痛んだ。書物のヒーローはけっして現実の人間には投影されない。作者独自の体験や思索の産物は、作者だけの愛玩物なので、作品の享受者の体験を重ねて眺められるものではない。同化も追体験もできない、理解と感想だけを許す別物なのだ。
         †  
 玄関の雪掻きをし、板の間や縁側の拭き掃除をしてから、朝めしを食い、一時間ばかりじっちゃの話相手をする。じっちゃは新聞を見ながら、
「青高の競争率が出てら」
 と言った。私は覗きこみ、
「一・四倍。こんな倍率ってあるんだね。ほとんど受かる」
「そうでもねでば。六百五十人採るんだば、九百人受げるってことだべ。二百五十人近く落ぢる計算になるど」
 計算が速い。
「そう考えると、恐いね」
 ばっちゃが横座から、
「ナを落どす学校があるもんだってが」
「試験会場も、青高と市役所の二箇所に分かれるおんた。まぢがねようにいぐんで」
 机に向かう。ダイナ・ショアのLPをかけっぱなしにする。スリーピー・ラグーンのときだけ耳を傾ける。遅い昼めし。夕暮にばっちゃが井戸水を汲みに出ているあいだに土間を掃く。遅い晩めし。じっちゃの話相手をする。また机に向かう。規則正しい生活の中で、名古屋を思い出す回数が極端に少なくなった。
         †
 受験票が届いた。八三○番だった。何の語呂合わせも思いつかなかった。
         † 
 台所の大甕に氷が張っている。柄杓で水が掬えない。顔を洗うためには、湯をかけて氷を融かさなければならない。このところ玄関の雪掻きが朝の日課になっている。めずらしいので苦痛ではない。
「おはようごす」
「感心だごだ」
 いろいろな人が挨拶をして通りすぎる。すっかり私の秀才ぶりが知れわたったせいで、挨拶も丁寧だ。
「三樹夫が、野辺地病院さ入院してるツケ。佐藤菓子のかっちゃがへってらった」
 ばっちゃが言った。すき焼き鍋の前で思わず目が潤んだとき、山田の母親がありがたいものを見る眼差しを私に向けたのを思い出した。山田は口数を多くして、その場の雰囲気を和やかなものにしようとしていた。私の涙は彼にとって迷惑だったかもしれない。
         † 
 二十三日。中間登校の日だ。しじみの味噌汁と玉子焼きと津軽漬で朝めしをすませ、弁当を受け取る。ばっちゃの弁当はいつもうまい。きのうは、棒たらの煮もの、糸コンと鰊の炒めもの、イカの酢味噌和え、それにタクアンだった。
 カズちゃんのおにぎり! カズちゃんはどうしているだろう。私の女神。もうひと月も逢っていない。彼女のことを思うと、居ても立ってもいられなくなる。青森高校がどこにあるのかも知らない。その青森高校の裏手。桜並木が楽しみだ。高校生になっても土曜日ごとに訪ねることしよう。
 過去問の解説をするどの教室にも山田三樹夫がいないことは、みんなをさびしがらせた。帰りのホームルームで奥山が言った。
「山田くんの病気は、少々やっかいなもので、野辺地病院さ入院して治さねばなんねぐなりました。治療のじゃまにならねように、見舞いはなるべく控えてください」
 病名は言わなかった。中島だけは心配そうな顔をしていた。
         †
 ばっちゃの茶飲み友だちのほかはだれも訪ねてこなかった。勉強は順調に進んだ。覚えることはきりがないほどあったけれども、手が回らなかったので、気に入った項目だけを勉強した。
 これまでの人生で、いちばん静かな日々が訪れた。それでも夜の机に向かっていると、習慣のように悲しみが何度も通り過ぎた。しかし、昼の光に照らされると、その悲しみはツララのように融けて消えていった。私はいつもひとつの人間的な完成を望んでいた。それがいったい何なのかはわからなかったけれども、私は人生がいつの日か特別はなやかな完成で私の足を洗ってくれるにちがいないと感じていた。
         †
 山田三樹夫が、二十七日の土曜日、教室に戻ってきた。凍てのゆるい晴れた日だった。午前の陽が校庭の雪に反射し、教室にまぶしいほどの光があふれていた。私はもちろんのこと、噂で山田の病名を知ったらしいひと握りの仲間たちもみんな彼の帰還を心から喜んだ。山田は白く引き締まった面持ちを失い、むくんだ感じだった。それは健康な肥満ではなく、治療のせいのむくみだとすぐにわかった。望まない治療を受けた後悔の現れに思われた。中島やボッケやガマたちが山田を取り囲んだ。肩を叩いたり、手を握ったりしている。西舘セツやほかの女たちも寄ってきた。
 山田はいつものとおり私の隣に座った。ひそかに握手をした。熊谷一党がいつのまにか廊下に姿を現し(よしのりも混じっていた)、窓敷居にへばりついて、感に堪えたように山田を眺めている。彼らも山田三樹夫のことを心配していたのだ。
「薬の副作用で、太ったでば」
 苦しげな笑いを浮かべている。肉付きがよくなったように見える顔の眼窩が、蒼白くこそげていた。彼が教室まで這うようにして、私に会いにやってきたことが痛いほどわかった。いま出てこなければ、きっとベッドに縛りつけられたまま私に会えなくなってしまうと思ったのにちがいない。生きているかぎり、健康な、いや、見るに耐える姿を私に見せておきたい―それは命を不要だと考える者のする行為だった。私はこぼれそうになる涙をこらえた。
「……ぼくに会いにきてくれたんだね。退院なんかできるはずがないのに」 
「ンガのこどばり思ってらった。卒業式が終わるまで、しばらく家で静養して、あんべしだいで病院さ帰ればいい」
 山田の疲労した表情から、私は、彼の生きようとする欲望や、生き延びるための理想を汲み取ろうとした。それは影のようにしか感じられなかった。彼はただ、ベッドでの無意味な延命を見かぎって、命が消えないうちに私に会いにこようとしたのだ。その心意気が感じられれば感じられるほど、私は寺田康男がなつかしくなった。山田の心意気はどこか康男のそれに似ていた。あの正月に病院を初めて見舞ったとき、白い能面が、
「神無月、神無月……」
 とうめき声を上げたのを思い出して、危うく涙がこぼれそうになった。
「きみのような人が、死んじゃいけない。死ぬはずがない」
 山田は強くうなずきながら、うれしそうに微笑んだ。そして言った。
「死ぬこどに、あんまし深い意味をつけすぎねほうがいい」
 たぶん彼は、私と行動を一つにして、受験をするにちがいない。そして、倒れて、死んでいくのだ。
 ホームルームが始まる前に、奥山が涙目で教壇から報告した。
「みんなで心配していた甲斐があったな。山田くんがようやく戻ってこれた。ほんとにいがった。あさって卒業式が終わったら、いよいよ受験だ。就職組ものんべんだらりとしてたらマイネど。東京で定時制にいぐつもりなら、受験組に負けねぐれ勉強しろ」
 いっとき止んでいた雪が、夜から吹きはじめた。私は部屋の窓を開けた。風といっしょに雪が吹きこんできた。外に出てみたくなった。窓をしっかり閉め、
「風呂にいってくる」
「なんも、こたら天気に外さ出なくてもいがべ」
 じっちゃが止めようとした。
「もう四日もいってないから、さっぱりしたいんだ」
 手拭と石鹸を洗面器に入れ、土間の戸を開けて外へ出た。待ち伏せしていたように吹雪が勢いよく吹きつけてきた。風と雪を顔に浴びながら歩いた。そうやって歩くのがなんとも言えず気持ちよかった。雪を含んだ冷たい空気を肺いっぱい吸いこみながら、凍(し)みた道や、かすんで見える軒の連なりを眺めた。雪が道の上を滑っていった。
 銭湯は客でごった返していた。洗い場に肩を並べてカランの湯でからだを洗い、ゆっくり熱い湯につかる。軽い吐き気がして気が遠くなり、脳味噌が空っぽになっていく感じがした。吹雪で凍えた手が湯にうるけ、指先の痛みがほぐれていく。浴槽の中の下腹部を見た。湯の中で陰毛がゆらゆらと動いている。その様子が、からだのほかの部分と清々しく調和している。カズちゃんの淡い三角形の翳りを思い出した。彼女に重なったときの、その繁みの反応はなぜか思い出さなかった。
         †
 三月一日月曜日。朝から湿った雪が降っている。
 教師や下級生代表たちの拍手に迎えられて卒業生が着席したあと、褐色の顔をした父親や母親が背後の空間をみっしり埋めた。その中に、小さいばっちゃの慎ましく正装した着物姿があった。山田三樹夫の母親も同じように小柄なからだに着物を着て、うっすらと化粧顔で立っていた。胸を張っていた。
 式に先立って、山田三樹夫の名前が呼び上げられた。彼は大きい返事をすると、堂々と演壇の前に進み出た。そのとき、
「ウソだァ! なして、神無月でねのな!」
 後列の一人の生徒が椅子を鳴らして立ち上がった。振り向くと、熊谷が顔面を紅潮させて、一本気な眼を校長に向けていた。山田の生還をあれほど喜んでいた熊谷が、なぜこんな馬鹿なまねをしているのかわからなかった。しかも、山田が卒業試験の主席だということはとっくに知れていることだった。
 私は胸に昇ってくる怒りを必死に鎮めようとした。有徳者の山田三樹夫があらぬ疑いをかけられている。申し合わせたように熊谷の子分たちも立ち上がり、野次を募らせた。私はドンと床を蹴って立ち上がると、熊谷に向かってこぶしを突き立てた。
「おまえら、三年間も山田くんの実力を見てきたはずだろう! ポッと出の転校生なんか足もとにもおよばないんだぞ!」
 瞬間、山田の母親がうつむいている姿が目に入った。ある感慨が私を襲った。結局、学校で教わることには大した価値はなくて、ほんとうの価値は、人に出会い、その人から影響を受けることにあるのだ。その人のおかげで、学校という集団ではなく、まったくちがった個性の群れの中へ加わる準備と覚悟ができるのだ。そういう個性的な群れはいままでの学校にも存在したし、そしてこの学校にも、これから先もどこかの集団に、何かの形で存在しつづけるにちがいなく、その代表者があの寺田康男と、いま目の前にいる山田三樹夫なのだという思いだった。
 指笛がかしましく鳴った。
「やめろ! 本気でぶち殺すぞ!」
 私は〈全力で〉叫んだ。何人かの教師が飛んでいって、熊谷たちに平手を食らわせた。
「おめんど、卒業式をつぶす気か!」
「静かにしなさい! 憶測で人の名誉を奪ってはならん!」
 演壇から校長が怒声を張り上げた。彼の声には怒りを越えた威風があった。たちまち静かなざわめきに変わった空気の中で、山田の背中が小さく縮んでいるのが見えた。残酷な光景だった。
「厳粛な思いでいらっしゃるご父兄の前で、また、希望に燃えて学窓を巣立っていく同胞たちの前で、根も葉もない抗議で晴れの日を汚すとは何ごとだ!」
 静寂がさらに深まった。
「試験に不正などなかったことは、本人たちはもちろん、私たちもよく承知しているところである。九科目、平均点でたった一点ほどの差しかなかった。全力を尽くしたデットヒートであったことは明らかである。すばらしい闘いだった。とりわけ山田くんは、かんばしくない体調をおしての奮闘だった。ご父兄のかたがたに申し上げます。こんなことになって面目次第もございませんが、しかし、いま一群の生徒の擁護の対象になった神無月くんの存在は、本校の学力の増進と風紀の向上に大いに貢献したという点で、際立ったものがあると言わねばなりません。教員の代表として感謝したい。また、一部の生徒がこれほどの反発を試みたということは、これまた神無月くんのすぐれた人徳の現われとみてよいでしょう。彼らの取り乱した行動はじつにけしからんとは思いますが、正直言って、私はこの若気の発作を非難するものではありません。神無月くんにしてみればいたたまれない気分でしょうが、しかしこれも、仲間たちにきみの更生と篤実な人格を認められた証なのだと考え直し、喜んでいただきたい。神無月くん、なかなか、恐ろしげな威嚇だった。きみの来し方を一瞬垣間見た気がして、ちょっと爽快でしたよ」
 父兄たちから静かな笑い声が上がった。
「それはさておき、きみの勤勉な生活態度ばかりでなく、周囲の温かい気持ちがすべてきみの更生に資したのだという自覚も持ってほしい。さて、それからもう一つ。ほぼ確定事項ですが、山田くんは野辺地高校に進学し、神無月くんは青森高校に進学します。できれば両雄そろって、地元の野辺地高校に進み、わが町のレベルを高めてほしかったというのが本音です。しかし、だれの未来も制約することはできません。万々歳だと思います。たまたま、こういう突発的なことから、両君の上に話題が集中しておりますが、むろん彼らばかりでなく、きょうの卒業生全員の未来をわれわれが期待し、見守っているのは当然のことであります。きみたちの将来に幸あれと願っています。災い転じて福。私にとってもまことに思い出深い卒業式になりました。熊谷! おまえは人が思う以上にいいやつだ。そのままの気持ちで、もっともっと義侠心に富んだ男になるんだぞ。―それでは、あらためて、山田三樹夫くん、おめでとう。学力ばかりでなく、きみは人間的にもすばらしい男だ。ほんとうによくがまんしたね」
 盛大な拍手が沸きあがる中で、校長は賞状を山田に厳かに差し出した。彼が死んでゆくことなど問題ではないかのようだった。彼のいまの瞬間の命だけが重要なのだった。勝利者の首はすでにまっすぐ伸びていた。
 騒ぎの火つけをした熊谷たちは、冷たく追い立てられることもなく、会場は不思議なほどの穏やかさを取り戻した。まるで荒々しい気質を持った人びとの気まぐれのように、親も、子も、教師も、この騒ぎを深く追及する気配を見せなかった。山田につづいて、二年生、一年生の首席の表彰があった。よしのりの妹の顔を初めて見た。長い面立ちに、かなりの反っ歯で(小山田さん以上だった)、目だけギョロリと大きかった。
 数少ない教師連や、二年生代表者の送辞のほかは、余分な式次第はなく、校歌と、仰げば尊しのほかは唄われなかった。卒業証書も各クラスの代表に一括して渡されただけだった。一組はもちろん山田三樹夫だった。



         二十

 全員教室に引き揚げてふだんの椅子に着席し、奥山がめいめいの名前を呼びながら丸筒といっしょに卒業証書を手渡した。みんなそれを丸筒に収めた。
 長机を積み並べた雛壇が用意されている外庭に出て(キミオの顔に蹴りを入れた庭だった)、和やかな雰囲気の中で各クラス順繰り記念写真が撮られた。それが終わると、みんな丸筒を手に、待ち構えていた親族といっしょに校門を出ていった。
 ばっちゃが門の外で待っていた。初対面の父兄たちが寄ってきて、私とばっちゃに丁寧に頭を下げた。ばっちゃは、
「なんも、なんも」
 と言いながら、うれしそうにからだを折り曲げた。熊谷が走ってきた。私の腕をとり、
「おめ、おっかねがったじゃ。ほんとに殺されるんでねがと思ったでば」
 ニヤリと笑う。子分たちも近寄ってきて握手を求めた。
「オラはいっつも野辺地にいるすけ、たまには寄ってけろ」
 彼らが去った頃合を見計らって、よしのりが妹を連れてやってきた。
「いい卒業式だったじゃ。三月に入ったら十和田さいぐ。バーテンの師匠が見つかった。おめが高校にいってるあいだに腕上げて、そのあとはおめについて歩くじゃ。たまには恵美子に勉強教えてやってけろ」
 妹がお辞儀をした。よしのりとは似ても似つかない、色の白いチンパンジーのような顔だ。目が秋波を送ってくるように感じた。私はその目を、しらじらしい気持ちで眺めた。
「ついて歩くって……」
「気になる男を、ずっと見て歩くってことせ」
「バカけのいうことだべに。あんべ」
 ばっちゃがさっさと歩きだすと、浜のほうへゆっくり並んで進んでいく母子の背中が見えた。
「山田くんだ。何しにあっちへいくのかな。謝らなくちゃ」
「オラがかっちゃさ頭下げでおいだ。なんも、気にしてねおんた」
 気にしていないはずがない。私たちの気配に気づいて二人が振り返り、母親が腰を折った。三樹夫はむくんだ顔に晴れやかな微笑を浮かべながら、じっと私を見つめた。私は大きくうなずいて近づいていった。彼は手を差し出し、
「神無月くん、オラは命がけで勉強したよ」
 強く握った。
「わかってる。きみに命がけでやられたら、ぼくは勝てっこないよ」
「ありがとう。神無月くんのあの怒鳴り声、いつまでも覚えてるよ」
「……どこへいくの」
「海見ておくべと思って。病院さ帰ったら、もう海見れね気がするすけ。入試、ケッパってけんだ」
「山田くんも」
「うん。オラ、神無月くんに会えて、ほんとにいがった。最後に神さまがボーナスをけだんだべおん。入試が終わったら、また話コすべ。―へば」
 山田は背中を向け、母親といっしょに歩き出した。私は二つの姿が踏切を越えて浜坂へ消えていくのをいつまでも見送っていた。たしかに山田三樹夫が生き延びたことは、問答無用でうれしいことだったけれども、せっかくの治療を半ばにして入試に打ちこもうとしている姿がやるせなかった。高校入試がいまの彼にとって何ほどのものでもないことはわかっている。彼は、最愛の友である私と同伴して歩む自分の姿を最後まで目撃して死にたいのだ。目撃は終わった。あとは、海と道と山の記憶の中で、母親とともに最後の感傷に浸るだけだ。それは思い出の確認ではなく、純粋な感傷の喜びだ。
「試験が終わったらまた入院するんだこって。気の毒だニシ。……奥山先生が、青森さついていぐってよ」
「ぼくの受験に?」
「おお、もう旅館を決めたツケ。いっしょに泊まるんだと。受がったら、下宿も世話するとせ。ありがてこった」
 私は少し煩わしい気がした。
「スミから手紙がきたじゃ。おめが高校さいったら、下宿先にジェンコ送るし、オラんどにも送るとよ。いらねってへってやるじゃ。てめの口ぐれどうにかなる。じっちゃはもらうべたって」
 私はそのとき、きょうにかぎって祖母がどこか若々しく見えたのは、髪を染め直したせいだと気づいた。
         †
 毛足の長い大きな襟のオーバーを着た。じっちゃが、どうしても着ていけと言う。彼が何十年も着てきたもので、かすかな獣(けもの)のにおいと、冬のすがすがしい香りがした。寒いと思わなかったけれども、素直に着た。
 ダンボ帽をかぶった奥山先生が迎えにきた。生まれて初めて革靴を履いた。靴屋で何度も確かめて、いちばんしっくりくるものをばっちゃに買ってもらった。
「いってくる」
「ケッパってこい」
 煙管を叩く音といっしょにじっちゃが言った。引き締まった微笑を浮かべている。雪下駄を履いたばっちゃが本町のバス停まで見送りにきた。ところどころ雪を払われた氷の地肌が見える。つるつると歩きにくい。だれか背後から呼ぶ声がした。振り返ると、よしのりだった。
「まだ十和田にいってなかったのか」
「おめを見送ってからと思ってよ。どこまでも、おめといっしょだすけな」 
「バカけや」
 ばっちゃが言った。わからないといえば、まったくわからない。これでは男のカズちゃんではないか。私は彼の態度にすっかり戸惑ったまま手を振った。
 バス停の前で、ヒデさんに遇った。買い物籠を提げていた。彼女は私に向かってまぶしそうに頭を下げた。私も深く頭を下げた。
「中島くんの妹さんでねが」
 そう言って奥山もからだを傾けた。ばっちゃもつられてお辞儀をした。バスがチェーンを鳴らしてやってきた。窓ぎわに奥山と座った。窓の下で手を振るばっちゃの口が何かを言った。私は聞こえたふりをしてうなずいた。相変わらずヒデさんが雪の舗道に立ってこちらを見ていた。
 野辺地駅に着くと、みぞれ雪が降りはじめた。駅の待合室のベンチでストーブにあたりながら、奥山が切符を買うのを待った。戻ってきた彼に、ばっちゃから預かってきた封筒を渡した。
「旅館代です」
「うん」
 彼は受け取って胸ポケットに収めると、
「大部屋にしないで、二人部屋を予約しておいた。気が散らねようにな」
 改札を抜けるとき、青森工業志望だと聞いていた低音の魅力の背中が見えた。彼とはまだ一度も口を利いたことがなかった。たぶんこれからも利かないだろう。
「大野くんも同じ旅館だ。いっしょにいがねがって誘ったけんど、汽車の中でしっかり勉強してってへって」
 列車が動きだすと、奥山は革のダンボ帽を脱いだ。煙草に火を点け、いがらっぽいにおいを吐きながら、走り過ぎていく杉林から目を離さないでいた。みぞれに降りこめられた林のあいだを列車が走っていく。私は雪や杉の温もりを感じたり、成功を期待している祖父母のことを思ったりした。安らかな気分だった。ふとその気分に冷気が入りこんできた。
「白血病は、万に一つも治らないんでしょうか」
「だべな。奇跡でも起ごらねかぎり」
「山田くんがそんな状況の中で受験する意味を考えたんですが、計画的な人生を最後まで貫くということでしょうか。ぼくなら、絶望してぼんやり寝て暮らすかもしれません」
「んにゃ、神無月くんも同じようにすると思うよ。……世の中うまくいがねもんだ。このまま治療して、どこまで保ちこたえるか。……考えても仕方のねことだじゃ。あしたに備えるべ」
 じつは私はきのう、海へくだっていく山田の背中と別れたあと、晩めしをそこのけにして思い切って山田を訪ねたのだった。母親は澄んだ笑顔で快く私を迎えた。山田はあの天井の高い部屋で、きちんと蒲団に横たわっていた。
「悪そうだね」
「起きられるんだども、用心して寝でる。あさっては試験だすけ」
 彼はそう言ってくぼんだ目を細めた。それから、近所の年寄りが雪道で滑って腰の骨を折っただの、今年は屋根の雪下ろしに人手を頼まなければいけないだのと、右から左の話をした。妹が茶を持ってきて、すぐに出ていった。
「あした、奥山先生といっしょに、青森にいく」
「ケッパレよ」
「きみも……。このあいだはすまなかったね」
 下を向こうとする私の眼が、山田のやさしさにあふれた視線に引っかかった。
「神無月くんは、そたらのと比べもんになんねほど、つらいことを経験してきたんだべ。しゃべらなくても、オラにはわかる。……こうして横になってると、つくづく自分がモノだって気がしてくる。人間だと思い直すとさびしいし、モノだと思うとやっぱり、さびしぐなる」
 言葉とは裏腹に、大きく微笑んだ。そのせいで、山田三樹夫の最後の印象が笑顔のまま私の目の奥に貼りついた。
「生きているとさびしくなるもんだよ。モノもそこにあるだけでさびしい。……受験が終わったら、また会おうね」
「ンだニシ。二回でも、三回でも会うべ」
 見送るために起き上がろうとする山田を押しとどめ、私は早々に別れを告げた。いたたまれないほどさびしかった。廊下に妹の部屋から細い明かりが射しているので、ふと覗いてみると、あの無表情な妹の机のかたわらに、母親のやさしい横顔が見えた。何か話し合っていたのだろうか。私は声をかけずに、その二つの顔に頭を下げた。道に出て振り返ると、玄関から洩れる灯りのせいで、雪に覆われた前庭がほんのりと明るんでいた。
「あしたも、降るな」
 車窓を見つめながら奥山先生が言った。浅虫のごつごつ曲がりくねった海岸線を夕闇が覆っていた。蒼い海におびただしい雪が降り注ぐのが見えた。
「先生、ちょっと訊きたいんですが」
「何だ、深刻な顔して」
「先生は、ぼくにとても親切ですね。先生ばかりでなく、野辺地の人たちはみんなそうです。どうしてでしょう。ぼくはこれまでも、いろいろな人たちに親切にされた経験はありますが、ここまで手放しじゃありませんでした。……いや、手放しの人たちも何人かいました。飯場の人たちと、一人の女の人です。でも、少し質がちがう。彼らは天然というやつで、努力しているのでもなければ、理屈があるわけでもありませんでした。空に光っている星みたいな自然な愛情です。……先生たちは、たまたま事情を抱えて流されてきたぼくに同情し、理解しようとし、愛そうと努力してます―」
 奥山は一瞬考えこんだが、明るく顔を上げた。
「そたら面倒くせことはしてないよ。親切にしてるつもりもね。つまらない話なら、聞きたくなくてもぜんぶ向こうの学校から聞こえてきたし、神無月くんはたぶん、普通の中学生ならしないことをしたということなんだべ。軌道から逸れたってやつか。逸れても逸れなくても、神無月くんの人格に比べれば大したことでねな。神無月くんはうだで頭がいいし、まじめだし、人間らしい。オラんども、その飯場の人たちや女の人と同じ気持ちだ。みんなそういう神無月くんのことが好きだんだ。どうしてお母さんや名古屋の学校の先生たちは、それがわからなかったのかなあ。先生にもあんなちゃっこい子がいるけんど、神無月くんみてにまっすぐ育(お)がってくれればいいと思ってる。子供ってのは恐ろしくまじめで、自分をぜんぶ賭けてしまうもんだ。大人はちがる。ぜんぶは賭げね。築き上げてきたものが大きすぎるすけ、少しでも減らすのが惜しいのよ。だども、大っきく見えるものは、心の満足とは関係ね現実の残りかすだ。大人は残りかすに執着するのせ。オラから言わせれば、そっちのほうが普通でねェ。神無月くんを追っ払ったのは、そういう人たちだ。いま流行りの期待される人間像なんてものが理想だと思ってる、夢のねェちゃっこい人たちだ。……ちょっと気取った言い方かもしれねけど、神無月くんは純粋な夢の中で生きてきたんだ。夢の中で生きてる人間は見ていて気持ちがいい。好ぎになる」
 私は、保土ヶ谷を目指して歩いたあてのない蒼ざめた時刻を思い浮かべた。あの日につづくきょうまでのできごとは、奥山先生の言うように、現実ではなく夢なのだろうか。そうであってくれればいい。願ったのが現実からかけ離れた夢で、そして私はその夢の中で生きてきたのであってくれればいい。


         二十一

 青森駅に着くころにはすっかり雪はやんでいた。蒸し暑い車内から寒気の中へ出た。空が雪に洗われて、堅く藍色に澄んでいる。小ぶりで奥ゆかしげな都会の街並を眺めた。アーケードに沿っていろいろな店が立ち並び、大通りの外れまでネオンが途切れなかった。
 港湾のそばの古びた旅館に入った。だだっ広い畳に受験生が溜まっている部屋がいくつかあった。二階の八畳のこぎれいな部屋に落ち着いた。窓から見下ろすと、突堤に寄せる海水が、投げ捨てられたゴミや油で濁っていた。ボォーッという太い汽笛が聞こえ、連絡船の円窓の灯りが通り過ぎていった。
「下宿することになってる家は、葛西さんといってね、オラの親戚だ。奥さんがオラの女房の姉さんで、野辺地高女のころ、神無月くんのお母さんの四学年下だったらしい」
「四学年下?」
「高女というのは六年制だすけ。佐藤スミさんは全校生徒のあこがれの的だったってへってらった。葛西さんの家は花園町というところにあって、青高から堤川沿いに歩って二十分ぐれだ。合浦(がっぽ)公園がすぐそばにある。春は桜がきれいだぞ」
 大部屋での夕飯を終えると、奥山は私を誘って大浴場にいった。二人で背中を流し合った。奥山の背中は、脂っこく、シミが多かった。
「ご主人は郵便局に勤めてて、じつにいい人だ。口数が少ないすけ、とっつきにくく見えるけんど、いざ話すとまじめな深いことをしゃべる」
「ぼくの祖父も、そういう人です」
「善吉さんほどの教養はねたって、神無月くんとは気持ちが合うべな」 
 風呂上りに、二人でコーヒー牛乳を飲んだ。浅間下の風呂屋で、一度だけ母にねだって飲んだことがあった。同じ味だった。その甘く人工的な味をなつかしんだ。
 その夜、私は奥山と蒲団を並べて横たわりながら、滝澤節子のことを思い出した。最後の夜の彼女の血の気のない冷たい唇と、何回もその唇を私の唇に押し当てた感触をなぞった。感覚の思い出は、まるで幻影のようでいて、単なる幻というよりは、何か温度のあるものとして肌にまとわりついた。不思議なことに、いつもと同じように、彼女との性的な交わりは思い出さなかった。
「むがしのことを思い出してるのな?」
「ええ、そうです。あれが夢なのかなって思って」
 奥山は教え子の言うことに聞き耳を立てた。そして、目を潤ませながらまじめな顔でうなずいた。
「女のことだな。神無月くんは愛情のこまやかな生まれつきだと、会ったとたんに思ったけんど、やっぱりそんだ。苦労だったね。中学生の身に余る苦労だったこだ。オラは、それはいい苦労だったと思う。―だども、過去にこだわってると、何もできなぐなる。思い切って、過去と手を切るのが利口だ」
 奥山は、私にとってピントのはずれた言葉でまとめた。過去こそ、私の大切にしているものだった。
         †
 翌朝窓を開けると、重そうなぼたん雪がまっすぐ降っていた。義一と家出をした雪の朝を思い出した。奥山と朝風呂に浸かり、歯をよく磨き、石鹸で顔を洗った。受験生と思われる少年が、いちばん端のカランの前で、天井を向いて腕組みしていた。何かを暗記しているようだった。 
 納豆と生玉子と味噌汁で、朝めしを二杯食った。アジの開きは箸を使いにくかったので残した。学生服の上にじっちゃのオーバーをしっかり着こんだ。学帽をかぶる。奥山が旅館の弁当を買い、私のカバンに詰めた。革靴を履く。
「オラはこれで帰るけんど、神無月くんはもう一晩ここさ泊まって、あしたの午前に帰ってくればいい。試験会場は青高だな」
「はい」
「だば、こっから歩くべし。青高は〈白亜のまなびや〉という校歌で有名だんだ。校舎を白ペンキで塗ったくった学校だ。きれいだど」
 奥山は堤橋から川沿いに曲がって、両側に民家の多い道を歩いた。旅館の傘を二つ並べて歩く。歩いているうちに、粉雪になった。青森高校の正門まで三十分ほどかかった。
「あの右の古い建物は、練兵舎跡だ。八甲田死の行軍。そのうち教わるべ」
 意味のわからないことを言った。私は笑ってうなずいた。
「終わったら、オラの家さ電話けろ。番号渡しとぐ」
 奥山は手帳を切り取って渡した。強くうなずき、門の前で私をしばらく見送ってから、もときた道を戻っていった。私はその背中にからだを折った。
 門を入ってすぐ、左右に展がる二つのグランドのうちの一つに、驚くほど大勢の受験生がたむろしていた。右手の空きグランドは、粗末なバックネットがあるので野球用のものだとわかった。広い。一・五メートルほどのコンクリートフェンスの上に十メートルに近い金網が延びている。網目からしばらく見つめた。胸にみなぎるものがあった。新学期が始まったら、さっそく入部の申込をしよう。
 ほとんどの学生が左のグランドに三々五々固まっていた。傘を差しかけた母親や父親と連れ立っている者もいて、奇異な感じがした。陽気さが彼らを包んでいた。私の好まない明るさだった。
 やがて雪がすっかり上がった。スピーカーが集合の合図をした。雪の掻いてある構内の一本道を彼らの背中について校舎のほうへ歩いていった。左右の敷地が厚板のようなザラ雪に覆われていた。その上に薄っすらと雪が積もっている。右手のグランドは、バックネットがあるところを見ると野球場らしかったが、もう一方はだだっ広いばかりで、何に使われている敷地なのかわからなかった。長い一本道の突き当たりに、白いペンキ塗りの古びた木造校舎がそびえていて、周囲が雪景色のせいか、白亜というよりも灰色に見えた。
 校舎内土足許可という掲示がめずらしく、革靴を履いたまま広い廊下を歩いた。試験場の教室に足を踏み入れたとたん、大きすぎる窓から射しこむきらめく陽射しを浴びた。ここでも机の周りや壁沿いに快活な受験生たちがたむろしてさざめいていた。どうして彼らはこうも仲がいいのだろう。同じ学校の知り合い同士なのだろうか。もちろん周りに私の見知った顔はなかった。彼らはいつまでも、親しげに笑ったり、おしゃべりをしたりしていた。それが試験を目前にしたときに襲われる熱病のような偽りの陽気さだとわかっていても、私はその明るい群れの中にいて、自分をひどく孤独な、人と親しくなる能力のない人間のように感じた。
 机に貼られた受験番号を追って、指定の席についた。ちらほら、自信なさそうな学生たちが、机で姿勢を正している。おそらく私と同じように、青森県の小さな町の中学校からたった一人、学校の名誉を担ってやってきたのだろう。
 試験官が入ってきて、全員に着席を促した。陽気にしていた者たちの眉が引き締まり、勉強のプロのような顔つきになった。直井整四郎の顔に似ていた。私はからだが急に小さく萎んでいくのを感じた。ほんとうに自分はこのすぐれた受験者たちの一員なのだろうか。守隋くんの家のテーブルで勉強を覚えたただの野球少年が、こんな秀才たちの一人でも追い落とすことができるのだろうか。―競争率一・四倍。六百五十人に滑りこめるか、二百五十人のほうへ弾かれるか。
 英数国の試験問題がいっぺんに配られ、何分か沈黙が教室を支配した。みな腕時計を外して机に置いた。私はいつも体内時計だ。教壇に一人、教室の両脇に一人ずつ、三人の教官が立ち、三人が順繰り注意事項を言った。
「開始の合図があったら、名前を書いたことを確認してから始めてください。どの科目から始めてもかまいません」
「鉛筆、消しゴム等、忘れた人はいませんか。忘れた場合はお貸しします」
「便所にいきたくなったときは、挙手してください。付き添っていきますが許可します」
 五分ほどのきわめて退屈な沈黙のあと、
「はじめ!」
 の号令がかかった。制限時間は百五十分。一教科六十点、百八十点満点。試験官が机のあいだを歩きはじめる。国語から取りかかった。三十分で終える。満点の自信があった。英語。長い英文に面食らった。見たことのない単語が多い。いつもの調子で解けない。一時間たっぷりかけて、八割ぐらいの自信しかなかった。数学の問題はザッと見て、どれもこれも難しいと感じた。残り一時間。
 ひととき鉛筆を置いて教室を見回した。この五十人ほどの生徒たちのうち、三十人くらいはマシな思いをするだろう。そしてそれ以外の生徒たちは、舞台の板を眺めるだけなのだ。自分もその一人かもしれない。
 ゆとりのある表情で、しっくりと落ち着いたふうに鉛筆を動かしている女生徒が目についた。微笑を浮かべている。自分の本分を愛し、それをよく理解している人間は、だれでも朗らかで落ち着いているものだ。彼女は受かるだろう。ふたたび、私は問題用紙に向かった。ゆっくり、解けるだけ解こう。そう心に決めると、不思議にすらすらと鉛筆が滑りはじめた。しかし、一問分、時間が足りなかった。
 昼休み。旅館の幕の内弁当を半分食べて、残した。十五分ほど机で仮眠した。
 午後からは、理科・社会八十分と、二十分休憩ののち、サブ四教科百分だった。理・社二科目で八十点満点。サブ教科四科目で百二十点満点。理科は万全だった。満点に近いと感じた。不得意な社会科はこの数カ月の努力のせいで九割は取れた。美術と音楽はほぼ完璧だったが、技術家庭と保健体育は半分も解けなかった。試験が終わった。
 旅館への帰り道、だいたいの得点を計算してみた。三百八十点満点中、三百二十点から四十点。八割強。模擬試験よりはかなり悪い成績だけれど、落ちることはないだろう。受かれば文句はない。公衆電話ボックスから、自宅待機している奥山先生に連絡した。
「ホウ、八割いったか。ふだんよりは、だいぶやられたな。一番で受がるのは危ねがな」
「先生、マグレというのは何度もつづきません。実力はこんなものです。野球ならもっと自信がありますけど」
「神無月くんはホームラン王だったな。野中から青高さいぐというのも、ホームラン打ってくれたみてなもんだ」
 奥山先生は心底うれしそうに、受話器の向こうで笑った。
         †
 八日の月曜日、午前の十時過ぎにあたふたと訪ねてきた奥山先生から合格を知らされた。
「合格です! おめでとうございます。いま、青高から直接学校さ連絡がありました。三百四十三点。九割ですよ、九割。二番入学だそうです。一番は三百四十七点という話でした。合格はまちがいねたって、やっぱりこういうことは緊張します。新聞の発表はあしたの朝刊です。いやあ、やきもきしたじゃア」
 思わず訛りを交えて喜びを表した。祖父母は満面の笑顔で応えた。いっしょについてきた中村マサちゃんが、
「ついに野中から青高生が出て、めでたいかぎりです。校長はじめ、教師一同感謝しております。これを機に、あとにつづく者が増えることを願っております」
 二人揃って頭を下げた。私は心底ホッとした。じつは、あの試験場の連中の知恵に長けた顔つきを思い出して、直井級がぞろぞろいるとすれば、八割程度の成績で六百人に入れるかどうかと心配していたのだった。九割も取れていたとは知らなかった。英語が案外高得点だったのか、それとも技術家庭や保健体育のあてずっぽうが中っていたのか。
「如才なぐやったでば」
 じっちゃのいつもの口癖が出た。早くカズちゃんにハガキを書こう。首を長くして待っているだろう。奥山が私と握手しながら、
「山田くんも、中島くんも、野高さ合格した。山田くんは三百一点で一番合格だ。中島くんは二百十六点でぎりぎりだった。ボッケくんは三沢商業、大野くんも青森工業さ合格した」
「山田くんの具合はどうなんですか?」
「あしたあさって、野辺地病院さ戻るという話だ。しばらく休学するんでねがな」
 お互いにがんばろうという約束を、山田三樹夫はしっかり果たした。チビタンクまで受かった。四戸末子はキューピーマヨネーズにいき、よしのりは十和田へいき、ガマはタイルの修行に東京へいく。就職組も、受験組も、みんな新しい棲み家ができた。いつか山本法子のお姉さんが言ったように、何の取り柄もない人間には、人と肩を並べて生きていくための保証が必要なのだ。とにかく、みんな〈如才なく〉その場所へ入りこんだ。
 ―死ぬために、よりよく生きる。
 山田は私のことを、「驚かない、強い人間」と言った。逆だ。まちがいなく山田自身がそういう人間なのだ。私は自分が、世の中の大勢の人たちを動かしているいろんなこだわりに対して冷淡で無関心だとわかっている。だから、自分を励まして、あえて関わろうとする。ファイトに満ちた姿勢は、冷ややかな自分を悟られないための保護色なのだ。山田はちがう。保護色などに頼らないで、周囲の攻撃に驚かずに強く対峙する。
 野月校長の前に立ったとき、彼の首筋のなんと静かだったことだろう。彼は自分の死にさえ驚かない。正真正銘の死の瀬戸際にいるときに、いったい、そんな私の保護色などどれほどの効果があるだろう。山田を愛する人間はみんな、あの熊谷でさえ、彼に生き延びてほしいと願っていた。奇跡を願っていたのだ。山田は、奇跡は夢の中でしか起こらないと言った。奇跡を願う彼らの心は、山田にとっては夢だろうか。山田三樹夫は、まちがいなく強靭な人間だ。夢の中でさえ奇跡を願わない強靭な人間だ。
「へば、これで失礼します」
 奥山は祖父母に腰を折り、
「神無月くん、これからもしっかり勉強してけんだ。名古屋のお母さんのほうには、葛西さんの住所を連絡しておぐから。合格のことはもう電話した。葛西さんのほうは、いつでも受け入れ態勢万全だ。青森に落ち着いたら手紙コけろじゃ」
 奥山は中村マサちゃんと肩を並べて帰っていった。


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