十七

 四郎は紅茶をすすりながら、
「……この家(え)のだれとも似てねな。たいした美人になるべおん。タンク、高校さいったらワイとデートさせてけろじゃ」
「だァ、ンガにデートさせるってが。三樹夫か神無月ならいがべたって」
 山田は何も言わなかった。かすかに拒絶の色だった。私は、
「杉山くんは、ひょっとしたらプロ野球の選手になるかもしれないよ」
 中島は眉をしかめて、
「なるわけねべ。なったにしても、スポーツ選手はダメだ。周りから持ち上げられてるうぢはいいたって、使い物にならねくなったら、てめで考えるアダマがねえすけ、くだらね仕事をやるだけだ。ただの馬鹿だべ」
「そう言われたら、ミもフタもねべや。ワ、もともと馬鹿だすけ」
 先ゆきに保証のある四郎は、中島の批評を明るい顔で受け流した。
「アタマなんかどうでもいいんじゃないかな。好きなことをして、才能があって、その才能が人を喜ばせるなら、最高の生き方だと思う」
「そんだ、そんだ」
 四郎が手を叩いた。中島は四郎を睨みつけた。
「スポーツは才能が枯れてしまったら、人は喜ばなくなるべ。アダマとちがって、からだは年とりやすいんだ。鍛えるのも限度があるべ。鍛えねば、すぐみったぐなくなる。アダマだったらいくらでも、死ぬまで鍛えられる。鍛えれば鍛えるほど、だんだんいいツラになっていくじゃ。そのツラ見てれば、人はいい気持ちになるじゃ。ヒデがさっきあこがれってへったのは、たぶん、そういうことだず。山田も神無月も、いいツラしてるべや。オラは馬鹿だすけ、うんと鍛えねばなんね」
 母の言うことと似ていたが、本質的なところで異なっていた。深い真実味があった。私は考えついたことを言った。
「山田くんの言ったように、たとえば、勉強の純粋な喜びは、競うことじゃなくて、知ろうとすることだと思う。勉強にかぎらず、そういうふうに考えられる人は、喜びにあふれていて、きらきらしてる。そういう考え方って、鍛えられないんだ。気質だから鍛えられない。そういう考え方をする人は、鍛えなくても、きらきらしたいい顔をしてる。勉強の成果を上げるのは簡単だ。鍛えればなんとかなる。でも、そんなものだけに人間的な成長を求めるのはへんだよ。好きなことをとことんやることだって、人間らしい成長に結びつくだろう? そうする人は、そうしているときに、もういい顔をしてるんだよ。中島くんが動物好きで、獣医になろうと一生懸命考えたとき、もうきらきらしてる。四郎くんが夢中で野球をやりつづけてさえいれば、将来有望な選手になろうと、けがをして挫折しようと、みんな彼を見て喜ばしい気持ちになると思う。だからいまも、二人とも、とてもいい顔をしてるんだよ」
「そんだ、そんだ」
 四郎が中島に甘えかかるように飛びかかった。山田が涙を浮かべて立ち上がり、しばらく私を見ていた。何かするどい勘と、年齢にふさわしくない成熟から、私の言葉に感銘を受けたようだった。
 中島母子に玄関に見送られ、雪が止んだ夕暮の浜道を三人で帰った。八幡の四郎の家のほうへ道をたどったとき、また四戸末子がいた。空地のドラム缶で焚き火をしていた。火のはぜる音が温かく聞こえた。こちらを向いたので、私は頭を下げた。
「イツミちゃんより、きれいだニシ」
 山田が言った。
「下半身デブだべや」
 私の思っていることを四郎が言った。
「フォードアさんは、東京さいぐんだっきゃ。このあたりはみんな貧しいすけ」
 四郎が皮肉っぽく笑いながら、山田に異を唱えた。
「貧乏人に見えるべたって、ジェンコあんだ。このへんのやづはみんな、ホタテで身上(しんしょう)作ってよ」
「じゃ、どうして―」
 私が訊くと、
「さあな、学校が嫌いなんだべせ」
 山田が、
「そんでね、やっぱり貧乏だすけよ。裕福なのは、網元と船持ちだけだ。神無月くんは一人っ子だべ?」
「うん」
「一人っ子は、高校さいきてってへれば、いかせでもらえる。四郎くんも、ボッケくんも、大野くんも、みんな一人っ子だず。ガマくんは一人っ子だども、高校さいきたくねすけ、いかね」
「きみも一人っ子?」
「妹がふとりいる。ワラシ二人ぐれなら、稼ぐに追いつく貧乏なしでやっていげる。オラの場合、父さんがいくらか残してけだから、みんなよりずっとらくに高校さいげる。―神無月くん、オラはきょうは疲れた。来週、種畜場からの帰りに、オラ家(え)さ遊びにきてけへ。ゆっくり話コすべ」
 四郎を八幡神社の近くの鉄道官舎に送り届け、郵便局の前から山田は手を振りながら帰っていった。彼の背中から突き出した首が、まるで大理石を磨き上げたように青白く光って見えた。
 出会ったら最後、何十年経っても、思い出すたびに戦慄を覚えないではいられない男がいる。さぶちゃん、クマさん、寺田康男……。山田三樹夫はその数少ない人間の一人だった。目に温かい輝きがあり、声にも深い真実味が感じられた。繊細な受け答えにも、どこかおおらかな趣があった。しかし、彼の抱えている事情を知らずに、ふたことみこと交わして通り過ぎただけなら、それくらいの印象で終わったかもしれない。
 一週間後の一月十四日、私は種畜場からの帰り道、約束どおり山田の家に寄り、玄関奥の居間のテーブルについた。
「残り物だけんど」
 山田は、台所からキナコ餅と、温めたナメコ汁を持ってきた。おかしな組み合わせだと思ったけれど、うまかった。
「チビタンク、きょうもやる気満々だったね」
「ンだ。計画はなんたかた守る必要はねけんど、心意気だすけ、なるべくこの計画に沿って勉強していくべ」
 私はなんだかうれしくて、笑いながらうなずいた。
「ちょっくら散歩すべ」
「うん」
 彼について居間を出ると、薄暗くてよく見えなかったけれど、廊下の外れに山田の妹らしい顔が覗いた。市場の仕事に出ていた母親がちょうど帰ってきて、玄関から初対面の私に微笑を投げた。
「すみませんね、お茶の用意もできねくて。昼間、種畜場のヒデがシャモ肉届けてくれたはんで、晩げを食ってってけんじゃ。ばばちゃはこごさ寄るのわがってらんだべ?」
「はい、言ってあります」
「ちょっと散歩さ出はってくる。帰ったら、めしにしてけんだ」
 まだ明るい夕方の町に出た。軽そうな雪が舞っている。私はもの静かな山田と並んで歩いて、少し気詰まりな気がした。それで、興味もない話をした。
「山田くんは将来、医者になるの?」
「とうさんが死んでから、病院はやめでまったんず。かあさんはオラに家を盛り返せってへるたて、オラは医者になる気はねェ。病気の人間に囲まれで忙しぐ暮らすおんた仕事は気が進まね」
 山田の声は明るく澄んでいたけれども、医者という家業についてはいささか軽蔑めいた口ぶりだった。
「高校出たら、東北大か北大さいって、最後は町役場にでも勤められればいいなって思ってら」
 私は、哲学的な雰囲気をにおわせたきのうの山田と比べてみて、何かやるせなく、小ぢんまりとした気持ちになった。私のそんな気分に関わりなく、山田の横顔には私の青臭い感想を拒むような、どこか成熟した大人の影があった。
 八幡さまから、ドロヤナギの街路樹に沿って、フェリーの船着場のほうへ歩いた。大きな船が桟橋へ横づけになっている。煙突や帆柱が黄昏の中でかすかに揺れている。
「神無月くんの気持ちは、勉強どころでねんでねの?」
 山田は海のほうを見ながら言った。
「そう見える?」
「なんとなぐ。この町さきた事情があるみたいだすけ……。まじめな格好見せで、人払いしてる感じだべ」
 そのするどい勘は、彼自身の経験から出てきたのではなく、ものごとを想像する才能からきていることがすぐにわかった。澄んだ目の力が尋常でなかったからだ。
「自分でもよくわからないんだ。格好じゃなくて、本気のような気もする。もともとまじめな人間なんだね」
 彼は何も答えず、桟橋から浜のほうへ道をたどりはじめた。紺色の夜が漁師町の石垣や路地や、海面に降りてきた。風はなく、家々の軒下に湿ったような洗濯物がだらりと垂れ下がっている。
「きれいだニシ」
 山田の視線の先に、星をちりばめた空が果てしなく広がっていた。
「ほんとだ」
 海辺の道に冷たい湿気がたちこめていた。山田はとつぜん、深い川でも泳ぎ渉(わた)るみたいに、苦しげな重い息をついて、ゆっくりした足どりになった。唇の色が黒く変わっている。
「どうしたの? 顔色が悪いよ」
「暗ぐなってくるど、あんべ悪くなる。えさ帰るが」
 それ以上の詮索をきらう様子があった。肩を貸そう、と言うと、拒んだ。
 玄関から上がりはなの居間のテーブルに、鍋の支度がしてあった。大皿に肉やネギが山と盛られている。
「神無月くんと話コするすて、めし、さぎに食ってて」
 山田は母親にぞんざいに言い、私を勉強部屋へ連れていった。廊下の途中に戸が半開きになっている部屋があった。思わず覗きこむと、スタンドだけの光に照らされた机に妹が座っていた。
「こんばんは」
 と私が声をかけると、山田とよく似た中高の白い顔がこちらを向いてかすかに頭を下げた。微笑まなかった。
「人見知りするすけ―。オラどもめったに口利がね。とうさんが死んでから、ますますしなべてまった。戸をわんつか開げておぐのは、とうさんが寝こんでから妹の習慣だ。とうさんの呼ぶ声が聞こえるようにって。いまもやめね」
 目の奥が一瞬痛んだ。私は暗い気持ちで、彼の背について大きな部屋に入った。もともと診察室か病室だった部屋を生活用に内装し直したものらしかった。妹の湿ったような部屋とは対照的に、窓が大きく、大火鉢にかんかん熾(おこ)った炭火のせいで空気も乾燥していた。壁一面の書棚に古びた背表紙がぎっしり並んでいる。一見して医学の専門書とわかるものを別にすれば、外国の文芸書が多く、善司の本棚と似ていた。ただ、量が膨大だった。山田は座布団を二つに畳み、それを枕にして天井を見上げるような格好で横たわった。
「ぜんぶ父さんの本だ。ほとんど読んでまった。好きだのあったら、持ってっていど」
「いらない。もったいないよ」
 山田を振り返ると、彼は土色の顔を枕からもたげて笑いかけた。
「……だらしなぐしてわりな。いっつも晩げになるど、ぐったりしてまって。神無月くんも、横になれじゃ」
 私は堅い板敷きの床を気にしながら、肱を枕にして寝そべった。高い天井から、大きな笠つきの電灯がぶら下がっている。本棚に視線が戻った。
「日本の本がないね」
「妹の部屋に置いである。……むがしは、立派な人がいまよりもジッパと生まれたし、もっと目立ちもしたけんど、いまはみんなで背広着て、知恵ばり深ぐして、人間が小粒になってまったな」
 思いもしなかった言葉が山田の口から飛び出してきて、私はどう返事をしたらいいのかわからなかった。
「経験もねし、心も動がねのに、寄ってたがってもの書いでる。結局なんも書ぐこどもねくせして、薄っぺらい出世欲でニシ。……神無月くん、ンガ、いづだったか教室で、中原中也の詩読んでたべ。中也の詩は、寒気がするおんた。あたらふうに表現でぎるのは、苦しぐても生きようとする人間ばりだ。死にたがりのホンツケなしには、表現でぎね」
「死にたがり?」
「世間さ背格好合わして、世間と心中すべっとしてる死にたがりせ。自分の背格好で生きようどする人間だけに、宝物がやってくんだ。宝ものがやってくるのは、そういう命が持ってる価値を伸ばして、光でいっぺにするためなんだじゃ」
 目が熱くなった。山田の言ったことが、だれにとっても争うことができない、ほんとうのことのように思われた。彼は、たしかに自分自身の考えを言ったのだった。そしてその考えは、彼の生き方から自然に出てきたものだった。


         十八

 ただ私には、知り合って間もない相手にそんなに急いで胸の内をさらけ出すのは、ふつうでないように思われた。私は、横たわった山田の瞳に底知れない絶望がたたえられているのに気づいた。山田は自嘲するように言い添えた。
「オラも生きようどしてるばって、もうすぐ死なねばなんねこどになってる」
 山田は何ということもなくサラリと言った。
「急性白血病というやつせ。骨髄を移植しても、長くもだね。抗癌剤で集中治療して、奇跡が起こるのを待つだけだ。奇跡というデタラメは、夢の中でしか起ごらね」
「白血病……」
 山田は私にくつろいだ笑顔を向けると、
「ンだ。血の癌だ。十中八、九、助からね」
「…………」
 一瞬、頬が強張り、言葉が出なかった。
「十五年も生きたはんで、もうじゅうぶんだ。本もジッパリ読んで楽しんだ。これから先の時代の傑作には出会えねけんど、いままで以上の傑作が書かれるとは思えね。小粒なものを大粒だって正当化していぐのを見たぐねしな」
 今度こそ何と言葉を返していいかわからなかった。彼の言っていることは、ほんとうのことだろう。ほんとうのことを否定するような言葉など言えるはずがない。くだらない病気のせいで、こんなにすぐれた、生きる権利をだれよりも主張していい人間が死んでしまう。死ぬべきではない人間が無理やり殺されるのを黙って眺めているような無力感が押し寄せてきた。
 私は起き直って山田を見つめた。彼は天井を向いたまま口を結んでいた。転校以来目にしてきた彼の澄みわたった態度や表情が、ひとつひとつ甦ってきて、私の目に涙があふれた。山田が不思議そうに、
「なして泣ぐの? 神無月くんは驚かね男だと思った。だからしゃべった」
「驚かない?」
「ンだ。何でも理解して、消化できる……。どんなこどにも、強ぐ立ぢ向かうこどがでぎるってことだ」
 私は、そんな人間ではない。私にはきみを救けられない。救済の言葉もかけられない。強い人間というのはきっと、自分をさておいて、他人を進んで助けようとする人間のことだ。どんなことにも強く立ち向かうというのは、自分だけを救けようとする弱い人間がすることじゃないだろうか。きみの言う驚かない男というのは、まさか弱い人間のことじゃないはずだ。
 私は無力感に浸されたまま、搾り出すように言った。
「大学を出たら、町役場に勤めたいって、きみは言っただろう。その抗癌剤というのがうまくいけば、これから先きっと―」
 山田はゆっくり、標準語を交えるようにしてしゃべりだした。
「希望にはかならず現実の助けが要るし、現実がじゃますることもある。神無月くん、ンガは驚いたり泣いたりして現実に逆らわね人だ。黙って現実をじっと見てる人だ。ほんだすけ、こごさ流されてきたんだべ。そこがいちばんの長所だ。人間が強いということなんだず。泣いたり、逆らったりしたら、厄介な現実がいくつか引っこんで、立ち向かう現実が簡単な一本道になってしまうべ。何でも驚かねで受け入れて立ち向かう―オラはそういう人が大好きだ。やっと、強い人に出会えた。その強い人が、オラのために泣いてくれたんだ。オラのために、少しのあいだでも脇道さ逸れて、立ち向かってくれたんだ。うれしくて仕方ねよ。特別扱いされたおんた。ありがとう。またあしたから、いっしょに勉強したり、話したりすべ。もうこの話はやめる」
 山田は起き上がり、ぎゅっと私の手を握った。
「この先、何があっても、自分の場所でじっとしててけろ。オラのところに駆けつけるなんてことはしねでけろ。したども、オラのことは忘れねでけろ。神無月くんが忘れね何人かの一人でいいすけ」
 私は涙を隠さないまま、何度もうなずいた。
 山田三樹夫はみんなとちがっていた。考えられないほどちがっていた。心に死のあきらめが深く巣食っているせいで、死の翳りのない場所で安楽にたたずむ人生などないと思い決めているふうだった。死を痛切に欲しているのではないかとさえ思われた。自分と同じ年ごろの少年が、そんなふうにものを考え、表現できるということが、私には信じられなかった。たぶん彼は、私に話しているのではなく、死を覚悟した時期に、たまたま自分の好みにかなった男に出会い、その男の顔を漉(す)かしてもっとよく人間を知っている架空の人物に話しかけているのにちがいなかった。母親の呼ぶ声がして、山田が立ち上がった。私は涙を拭った。
 食卓が設けられていた。大テーブルの真ん中に、すき焼きの浅い鉄鍋が煮立っている。妹が食べ終えた自分の食器を持って台所に立っていった。
「ゆっくりしてってけへ」
 母親がめしを盛って差し出したが、私は箸を持てなかった。
「うまそんだ」
 山田は勢いよく鍋に箸を突っこんだ。顔に血の色が戻っていた。
「神無月くん、けじゃ。肉がなくなってしまる」
「ほんだよ。種畜場(あそこ)のシャモはいいものだすけ、うめよ。鶏肉は牛肉よりからだにいんだ」
 私は母親の顔を見た。穏やかな、希望に輝く顔をしていた。それは山田を励ますというよりは、自分を励まそうとする表情に見えた。私は箸を取った。無理やりめしを口に詰めこんだ。
「東欧日報の模試は、完敗だったじゃ。オラはいままで県の三百何十番が最高だった。一番なんてとんでもね。そたら成績の人、もう野中からは出ねべおん。三学期の卒業試験、オラ精いっぱいやるすけ、神無月くんもけっぱれじゃ。十三日は全力で戦おう」
「もちろんだ。きみはずっと野中のトップだったんだね」
「うん、小学校からな。初めて二番になった」
「スミちゃんも、うだでぐできたばって、神無月くんはケタがちがるニシ」
「かあさん、神無月くんが人とちがるのは。神無月くんの勉強は、付録だということだんだよ」
 山田は愉快そうに笑いながら、シラタキをごっそりつまみ上げた。
         †
 私は、祖父母に山田の病気のことを言わなかった。あんなたいへんな事情はいずれ知れわたることだ。彼は私だけを信頼して、自分の病気ではなく、人格を説明したのだ。病気のような特殊な運命を告白したかったのではなく、人間としてものごとに立ち向かう気合のことを言いたかったのだ。
「シャモ肉うまかったよ」
「中島からのつけ届けだべせ。こごにも持ってきたじゃ。ワもじっちゃも肉は食わねすけ、浜さ持ってった」
 深夜、いのちの記録を開いた。

 信じられないことだが、山田三樹夫はもうすぐこの世から姿を消してしまう。彼は私のことを〈強い人〉と言った。感動を押し殺す人間―彼がそんな意味で言ったのでないことはわかっている。真剣な人間の言葉はニュアンスが気になる。命がけで吐いた言葉は気になる。
 こんなすばらしい人間に出会ったのに、いまもなお寺田康男が恋しいのはなぜだろう。私の喜びや悲しみにいつもいっしょに関心を持ち、笑ったり怒ったりしてくれた寺田康男。彼こそ永遠の友人だと思い定めた日のことを、その夜の空の色を、私は正確に思い出すことができる。超然とした誇らしげな態度、身についたニヒリズム、敵を倒すときの優雅な身のこなし、切れ味のいい共感の言葉、私はそういうきらびやかなものに無感覚でいられなかった。
 しかし、そんなものは外づらの美しさにすぎない。私がいまも思い出してふるえるのは、そんなありきたりなものではない。人間としてのきらめくほどの無垢、焼けつくような献身、完全な孤独への充足―そんな人間は、寺田康男に会うまで私のそばにはただの一人もいなかった。どんなに彼を愛していたか、私にとって彼がいつもどんなに大切だったか、私の生活をどんなに豊かにしてくれたか、いまでははっきりとわかる


 床に入って、鴎外の阿部一族を読む。漢字だらけの活字をたどりながら、わかりもしない時代背景や人間関係について、そこに書いてあるだけぜんぶ理解しようとする。文章そのものに深い嫌悪の気持ちが湧いてきて、詩人たちの生きいきしたスタンザが恋しくてたまらなくなる。すぐに中也の未刊詩編を開く。山田が言うように、寒気のするような苦悩が、高い調子で書いてある。
 天井を見つめていたときの山田の顔を思い出して、また涙が出てきた。来週、中島の家で平気な顔をしていられるだろうか。山田の心意気を考えたら、ぜったいそうしなければならない。
 翌日、私は上質の原稿用紙を買ってきて、中原中也のほとんどすべての詩篇の清書に取りかかった。悲しみの中で幸福な時間がはじまった。
         †  
 十三日の土曜の卒業試験(第四回東奥日報模試)までの五日間、山田と約束したとおりひたすら机で勉強をしてすごした。
 雪に踏み固められた道に出ると、氷に覆われた木々の枝が美しくきらめいている。中学生たちはそんなものには目もくれないで、のしのし登校していく。卒業試験と呼ばれている模擬試験まで、もう試験と名のつくものはいっさいない。二月の末日まで、ひたすらのんびりした授業がつづくことになる。
 授業が終わると、緊張した気分のまま帰宅し、水汲みや掃除の手伝いをすませ、わずかでも知識を増やすために机に向かった。その気持ちは、かならず山田への哀切な思いに掻き乱された。
 全力で戦おうと、と山田は言った。もちろんそのために、いま私は全力こめて勉強している。しかし、人の期待に応えるという価値観はもちろん、人に勝利するという価値観が空しかった。有能で、ドラマに満ちた山田が表彰される姿は、私にとってうれしい見ものだし、自分のような人間の勝利より、彼の勝利のほうがはるかに美しい絵になる。そういう光景こそ、みんながほんとうに待ち望んでいることなのだ。表彰は卒業式の日に父兄の前で行われるということになっていた。
 夜、ふとステレオのラジオをつけると、東京発信の番組で、ビートルズのロックンロール・ミュージックがかかっていた。つづけてボビー・ビントンのミスター・ロンリーが流れ出す。ヒットパレードの番組そのものがひどくなつかしく、久しぶりに何か吹きこんでみようかという気持ちになって、テープレコーダーを用意した。アンナ・マリアのひみつとディスクジョッキーが言った。録音のノブをひねったとたん、美しいカンツォーネが耳に飛びこんできた。涙が流れた。五年生のころ平畑の飯場で、クマさんにフランキー・アヴァロンのヴィーナスを聴かせてもらって以来の感動だった。ラジオのスイッチを切り、何度もテープを巻き戻して聴いた。

 負けてはいけない、と思い直したのは、試験の前日だった。彼の勝利のほうが絵になるなどと私が考えたと知ったら、山田はせっかくつらい寝床から抜け出してきたことを甲斐なく思うだろう。それは命がけの山田にとって、とんでもない侮辱だ。彼は、四、五日の努力で、自分が私に勝てる見こみはまずないと思っているだろう。だからこそ彼は、最後の試験で、ぎりぎりまで学力差を縮めてみせて、私に鮮明な奮闘の記憶を残そうとしているのだ。
         †
 悪戦苦闘しながら数学の解答を書きつけている自分に気づいた。鉛筆の滑りが緩慢なまま終始した。結局、ほとんどの科目がそのありさまだった。
 一週間後に成績表が返ってきて、山田に十二点負けたとわかった。彼は県下の十五位に躍進し、私は四十三位だった。微妙な心地よさが胸に昇ってきた。
「卒業試験、山田くんに負けちゃった」
「わんじゃとやったのな……」
 ばっちゃが悲しげな声で言った。その低い声には、なぜ全力を尽くさなかったのかという難詰の調子が含まれていた。彼女には、私がくだんのお人好しぶりを発揮して、気の毒な田舎の秀才に勝ちを譲ったとしか思えなかったのだ。彼女は私がだれよりも優秀であることを固く信じていた。その証拠に、何日か前、私が表彰される晴れの日のために、箪笥から黒い着物を引っ張り出して、いそいそと町のクリーニング屋へ糊付けに持っていったくらいだ。
「実力で負けたんだ。ばっちゃ、へんなこと言いふらさないでよ。山田くんの成績はマグレじゃない。ほんものだ」
 ばっちゃは苦々しい顔で、夕餉の支度に台所に立っていった。
「三樹夫も情っぱりだすて、必死こいたんだ」
 じっちゃがさばさばした笑顔で言い、痰を頬張ると器用に痰壺に吐き出した。
「きっと、そうだね」
 私もひどくさっぱりした気分で、じっちゃに笑い返した。
 山田三樹夫にとって、勉強をすることは、自分や他人を克服することではなく、いつも純粋な魂の高揚からきていた。私にとって勉強は他人を克服することだった。勉強に精神の高揚を感じるなどということは、一度も経験がなかった。もちろんこの先も、そんな高揚は訪れないだろう。心の高ぶりを感じるとするなら、それは勉強ではなく、人間や芸術に対してだった。情熱的な他人を肯定し、鼓舞されて生きようとする従順。思い出したときに、きらめいて甦るものに全身全霊を傾ける悦び。
 それでも、山田三樹夫の生き方は私に感動を与えた。ひょっとしたら、学者や宗教家が目指す生活は、恋愛や冒険と同じくらい豊かなものなのかもしれない。山田が首席を獲ることには、私が考える以上に重い意味があるだろう。彼にとって試験は、克己や征服や雪辱のためにあるではなく、そんないいかげんなものではなく、最後の命を燃やすためのフイゴなのだ。
                 


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