二十一

 三月一日月曜日。朝から湿った雪が降っている。
 教師や下級生代表たちの拍手に迎えられて卒業生が着席したあと、褐色の顔をした父親や母親が背後の空間をみっしり埋めた。その中に、小さいばっちゃの慎ましく正装した着物姿があった。山田三樹夫の母親も同じように小柄なからだに着物を着て、うっすらと化粧顔で立っていた。胸を張っていた。
 式に先立って、山田三樹夫の名前が呼び上げられた。彼は大きい返事をすると、堂々と演壇の前に進み出た。そのとき、
「ウソだァ! なして、神無月でねのな!」
 後列の一人の生徒が椅子を鳴らして立ち上がった。振り向くと、熊谷が顔面を紅潮させて、一本気な眼を校長に向けていた。山田の生還をあれほど喜んでいた熊谷が、なぜこんな馬鹿なまねをしているのかわからなかった。しかも、山田が卒業試験の主席だということはとっくに知れていることだった。
 私は胸に昇ってくる怒りを必死に鎮めようとした。有徳者の山田三樹夫があらぬ疑いをかけられている。申し合わせたように熊谷の子分たちも立ち上がり、野次を募らせた。私はドンと床を蹴って立ち上がると、熊谷に向かってこぶしを突き立てた。
「おまえら、三年間も山田くんの実力を見てきたはずだろう! ポッと出の転校生なんか足もとにもおよばないんだぞ!」
 瞬間、山田の母親がうつむいている姿が目に入った。ある感慨が私を襲った。結局、学校で教わることには大した価値はなくて、ほんとうの価値は、人に出会い、その人から影響を受けることにあるのだ。その人のおかげで、学校という集団ではなく、まったくちがった個性の群れの中へ加わる準備と覚悟ができるのだ。そういう個性的な群れはいままでの学校にも存在したし、そしてこの学校にも、これから先もどこかの集団に、何かの形で存在しつづけるにちがいなく、その代表者があの寺田康男と、いま目の前にいる山田三樹夫なのだという思いだった。
 指笛がかしましく鳴った。
「やめろ! 本気でぶち殺すぞ!」
 私は全力で叫んだ。何人かの教師が飛んでいって、熊谷たちに平手を食らわせた。
「おめんど、卒業式をつぶす気か!」
「静かにしなさい! 憶測で人の名誉を奪ってはならん!」
 演壇から校長が怒声を張り上げた。彼の声には怒りを越えた威風があった。たちまち静かなざわめきに変わった空気の中で、山田の背中が小さく縮んでいるのが見えた。残酷な光景だった。
「厳粛な思いでいらっしゃるご父兄の前で、また、希望に燃えて学窓を巣立っていく同胞たちの前で、根も葉もない抗議で晴れの日を汚すとは何ごとだ!」
 静寂がさらに深まった。
「試験に不正などなかったことは、本人たちはもちろん、私たちもよく承知しているところである。九科目、平均点でたった一点ほどの差しかなかった。全力を尽くしたデットヒートであったことは明らかである。すばらしい闘いだった。とりわけ山田くんは、かんばしくない体調をおしての奮闘だった。ご父兄のかたがたに申し上げます。こんなことになって面目次第もございませんが、しかし、いま一群の生徒の擁護の対象になった神無月くんの存在は、本校の学力の増進と風紀の向上に大いに貢献したという点で、際立ったものがあると言わねばなりません。教員の代表として感謝したい。また、一部の生徒がこれほどの反発を試みたということは、これまた神無月くんのすぐれた人徳の現われとみてよいでしょう。彼らの取り乱した行動はじつにけしからんとは思いますが、正直言って、私はこの若気の発作を非難するものではありません。神無月くんにしてみればいたたまれない気分でしょうが、しかしこれも、仲間たちにきみの更生と篤実な人格を認められた証なのだと考え直し、喜んでいただきたい。神無月くん、なかなか、恐ろしげな威嚇だった。きみの来し方を一瞬垣間見た気がして、ちょっと爽快でしたよ」
 父兄たちから静かな笑い声が上がった。
「それはさておき、きみの勤勉な生活態度ばかりでなく、周囲の温かい気持ちがすべてきみの更生に資したのだという自覚も持ってほしい。さて、それからもう一つ。ほぼ確定事項ですが、山田くんは野辺地高校に進学し、神無月くんは青森高校に進学します。できれば両雄そろって、地元の野辺地高校に進み、わが町のレベルを高めてほしかったというのが本音です。しかし、だれの未来も制約することはできません。万々歳だと思います。たまたま、こういう突発的なことから、両君の上に話題が集中しておりますが、むろん彼らばかりでなく、きょうの卒業生全員の未来をわれわれが期待し、見守っているのは当然のことであります。きみたちの将来に幸あれと願っています。災い転じて福。私にとってもまことに思い出深い卒業式になりました。熊谷! おまえは人が思う以上にいいやつだ。そのままの気持ちで、もっともっと義侠心に富んだ男になるんだぞ。―それでは、あらためて、山田三樹夫くん、おめでとう。学力ばかりでなく、きみは人間的にもすばらしい男だ。ほんとうによくがまんしたね」
 盛大な拍手が沸きあがる中で、校長は賞状を山田に厳かに差し出した。彼が死んでゆくことなど問題ではないかのようだった。彼のいまの瞬間の命だけが重要なのだった。勝利者の首はすでにまっすぐ伸びていた。
 騒ぎの火つけをした熊谷たちは、冷たく追い立てられることもなく、会場は不思議なほどの穏やかさを取り戻した。まるで荒々しい気質を持った人びとの気まぐれのように、親も、子も、教師も、この騒ぎを深く追及する気配を見せなかった。山田につづいて、二年生、一年生の首席の表彰があった。よしのりの妹の顔を初めて見た。長い面立ちに、かなりの反っ歯で(小山田さん以上だった)、目だけギョロリと大きかった。
 数少ない教師連や、二年生代表者の送辞のほかは、余分な式次第はなく、校歌と、仰げば尊しのほかは歌われなかった。卒業証書も各クラスの代表に一括して渡されただけだった。一組はもちろん山田三樹夫だった。
 全員教室に引き揚げてふだんの椅子に着席し、奥山がめいめいの名前を呼びながら丸筒といっしょに卒業証書を手渡した。みんなそれを丸筒に収めた。
 長机を積み並べた雛壇が用意されている外庭に出て(キミオの顔に蹴りを入れた庭だった)、和やかな雰囲気の中で各クラス順繰り記念写真が撮られた。それが終わると、みんな丸筒を手に、待ち構えていた親族といっしょに校門を出ていった。
 ばっちゃが門の外で待っていた。初対面の父兄たちが寄ってきて、私とばっちゃに丁寧に頭を下げた。ばっちゃは、
「なんも、なんも」
 と言いながら、うれしそうにからだを折り曲げた。熊谷が走ってきた。私の腕をとり、
「おめ、おっかねがったじゃ。ほんとに殺されるんでねがと思ったでば」
 ニヤリと笑う。子分たちも近寄ってきて握手を求めた。
「オラはいっつも野辺地にいるすけ、たまには寄ってけろ」
 彼らが去った頃合を見計らって、よしのりが妹を連れてやってきた。
「いい卒業式だったじゃ。三月に入ったら十和田さいぐ。バーテンの師匠が見つかった。おめが高校にいってるあいだに腕上げて、そのあとはおめについて歩くじゃ。たまには恵美子に勉強教えてやってけろ」
 妹がお辞儀をした。よしのりとは似ても似つかない、色の白いチンパンジーのような顔だ。目が秋波を送ってくるように感じた。私はその目を、しらじらしい気持ちで眺めた。
「ついて歩くって……」
「気になる男を、ずっと見て歩くってことせ」
「バカけのいうことだべに。あんべ」
 ばっちゃがさっさと歩きだすと、浜のほうへゆっくり並んで進んでいく母子の背中が見えた。
「山田くんだ。何しにあっちへいくのかな。謝らなくちゃ」
「オラがかっちゃさ頭下げでおいだ。なんも、気にしてねおんた」
 気にしていないはずがない。私たちの気配に気づいて二人が振り返り、母親が腰を折った。三樹夫はむくんだ顔に晴れやかな微笑を浮かべながら、じっと私を見つめた。私は大きくうなずいて近づいていった。彼は手を差し出し、
「神無月くん、オラは命がけで勉強したよ」
 強く握った。
「わかってる。きみに命がけでやられたら、ぼくは勝てっこないよ」
「ありがとう。神無月くんのあの怒鳴り声、いつまでも覚えてるよ」
「……どこへいくの」
「海見ておくべと思って。病院さ帰ったら、もう海見れね気がするすけ。入試、ケッパってけんだ」
「山田くんも」
「うん。オラ、神無月くんに会えて、ほんとにいがった。最後に神さまがボーナスをけだんだべおん。入試が終わったら、また話コすべ。―へば」
 山田は背中を向け、母親といっしょに歩き出した。私は二つの姿が踏切を越えて浜坂へ消えていくのをいつまでも見送っていた。たしかに山田三樹夫が生き延びたことは、問答無用でうれしいことだったけれども、せっかくの治療を半ばにして入試に打ちこもうとしている姿がやるせなかった。高校入試がいまの彼にとって何ほどのものでもないことはわかっている。彼は、最愛の友である私と同伴して歩む自分の姿を最後まで目撃して死にたいのだ。目撃は終わった。あとは、海と道と山の記憶の中で、母親とともに最後の感傷に浸るだけだ。それは思い出の確認ではなく、純粋な感傷の喜びだ。
「試験が終わったらまた入院するんだこって。気の毒だニシ。……奥山先生が、青森さついていぐってよ」
「ぼくの受験に?」
「おお、もう旅館を決めたツケ。いっしょに泊まるんだと。受がったら、下宿も世話するとせ。ありがてこった」
 私は少し煩わしい気がした。
「スミから手紙がきたじゃ。おめが高校さいったら、下宿先にジェンコ送るし、オラんどにも送るとよ。いらねってへってやるじゃ。てめの口ぐれどうにかなる。じっちゃはもらうべたって」
 私はそのとき、きょうにかぎって祖母がどこか若々しく見えたのは、髪を染め直したせいだと気づいた。


         二十二

 毛足の長い大きな襟のオーバーを着た。じっちゃが、どうしても着ていけと言う。彼が何十年も着てきたもので、かすかな獣(けもの)のにおいと、冬のすがすがしい香りがした。寒いと思わなかったけれども、素直に着た。
 ダンボ帽をかぶった奥山先生が迎えにきた。生まれて初めて革靴を履いた。靴屋で何度も確かめて、いちばんしっくりくるものをばっちゃに買ってもらった。
「いってくる」
「ケッパってこい」
 煙管を叩く音といっしょにじっちゃが言った。引き締まった微笑を浮かべている。雪下駄を履いたばっちゃが本町のバス停まで見送りにきた。ところどころ雪を払われた氷の地肌が見える。つるつると歩きにくい。だれか背後から呼ぶ声がした。振り返ると、よしのりだった。
「まだ十和田にいってなかったのか」
「おめを見送ってからと思ってよ。どこまでも、おめといっしょだすけな」 
「バカけや」
 ばっちゃが言った。わからないといえば、まったくわからない。これでは男のカズちゃんではないか。私は彼の態度にすっかり戸惑ったまま手を振った。
 バス停の前で、ヒデさんに遇った。買い物籠を提げていた。彼女は私に向かってまぶしそうに頭を下げた。私も深く頭を下げた。
「中島くんの妹さんでねが」
 そう言って奥山もからだを傾けた。ばっちゃもつられてお辞儀をした。バスがチェーンを鳴らしてやってきた。窓ぎわに奥山と座った。窓の下で手を振るばっちゃの口が何かを言った。私は聞こえたふりをしてうなずいた。相変わらずヒデさんが雪の舗道に立ってこちらを見ていた。
 野辺地駅に着くと、みぞれ雪が降りはじめた。駅の待合室のベンチでストーブにあたりながら、奥山が切符を買うのを待った。戻ってきた彼に、ばっちゃから預かってきた封筒を渡した。
「旅館代です」
「うん」
 彼は受け取って胸ポケットに収めると、
「大部屋にしないで、二人部屋を予約しておいた。気が散らねようにな」
 改札を抜けるとき、青森工業志望だと聞いていた低音の魅力の背中が見えた。彼とはまだ一度も口を利いたことがなかった。たぶんこれからも利かないだろう。
「大野くんも同じ旅館だ。いっしょにいがねがって誘ったけんど、汽車の中でしっかり勉強してってへって」
 列車が動きだすと、奥山は革のダンボ帽を脱いだ。煙草に火を点け、いがらっぽいにおいを吐きながら、走り過ぎていく杉林から目を離さないでいた。みぞれに降りこめられた林のあいだを列車が走っていく。私は雪や杉の温もりを感じたり、成功を期待している祖父母のことを思ったりした。安らかな気分だった。ふとその気分に冷気が入りこんできた。
「白血病は、万に一つも治らないんでしょうか」
「だべな。奇跡でも起ごらねかぎり」
「山田くんがそんな状況の中で受験する意味を考えたんですが、計画的な人生を最後まで貫くということでしょうか。ぼくなら、絶望してぼんやり寝て暮らすかもしれません」
「んにゃ、神無月くんも同じようにすると思うよ。……世の中うまくいがねもんだ。このまま治療して、どこまで保ちこたえるか。……考えても仕方のねことだじゃ。あしたに備えるべ」
 じつは私はきのう、海へくだっていく山田の背中と別れたあと、晩めしをそこのけにして思い切って山田を訪ねたのだった。母親は澄んだ笑顔で快く私を迎えた。山田はあの天井の高い部屋で、きちんと蒲団に横たわっていた。
「悪そうだね」
「起きられるんだども、用心して寝でる。あさっては試験だすけ」
 彼はそう言ってくぼんだ目を細めた。それから、近所の年寄りが雪道で滑って腰の骨を折っただの、今年は屋根の雪下ろしに人手を頼まなければいけないだのと、右から左の話をした。妹が茶を持ってきて、すぐに出ていった。
「あした、奥山先生といっしょに、青森にいく」
「ケッパレよ」
「きみも……。このあいだはすまなかったね」
 下を向こうとする私の眼が、山田のやさしさにあふれた視線に引っかかった。
「神無月くんは、そたらのと比べもんになんねほど、つらいことを経験してきたんだべ。しゃべらなくても、オラにはわかる。……こうして横になってると、つくづく自分がモノだって気がしてくる。人間だと思い直すとさびしいし、モノだと思うとやっぱり、さびしぐなる」
 言葉とは裏腹に、大きく微笑んだ。そのせいで、山田三樹夫の最後の印象が笑顔のまま私の目の奥に貼りついた。
「生きているとさびしくなるもんだよ。モノもそこにあるだけでさびしい。……受験が終わったら、また会おうね」
「ンだニシ。二回でも、三回でも会うべ」
 見送るために起き上がろうとする山田を押しとどめ、私は早々に別れを告げた。いたたまれないほどさびしかった。廊下に妹の部屋から細い明かりが射しているので、ふと覗いてみると、あの無表情な妹の机のかたわらに、母親のやさしい横顔が見えた。何か話し合っていたのだろうか。私は声をかけずに、その二つの顔に頭を下げた。道に出て振り返ると、玄関から洩れる灯りのせいで、雪に覆われた前庭がほんのりと明るんでいた。
「あしたも、降るな」
 奥山先生が言った。浅虫のごつごつ曲がりくねった海岸線を夕闇が覆っていた。蒼い海におびただしい雪が降り注ぐのが見えた。
「先生、ちょっと訊きたいんですが」
「何だ、深刻な顔して」
「先生は、ぼくにとても親切ですね。先生ばかりでなく、野辺地の人たちはみんなそうです。どうしてでしょう。ぼくはこれまでも、いろいろな人たちに親切にされた経験はありますが、ここまで手放しじゃありませんでした。……いや、手放しの人たちも何人かいました。飯場の人たちと、一人の女の人です。でも、少し質がちがう。彼らは天然というやつで、努力しているのでもなければ、理屈があるわけでもありませんでした。空に光っている星みたいな自然な愛情です。……先生たちは、たまたま事情を抱えて流されてきたぼくに同情し、理解しようとし、愛そうと努力してます―」
 奥山は一瞬考えこんだが、明るく顔を上げた。
「そたら面倒くせことはしてないよ。親切にしてるつもりもね。つまらない話なら、聞きたくなくてもぜんぶ向こうの学校から聞こえてきたし、神無月くんはたぶん、普通の中学生ならしないことをしたということなんだべ。軌道から逸れたってやつか。逸れても逸れなくても、神無月くんの人格に比べれば大したことでねな。神無月くんはうだで頭がいいし、まじめだし、人間らしい。オラんども、その飯場の人たちや女の人と同じ気持ちだ。みんなそういう神無月くんのことが好きだんだ。どうしてお母さんや名古屋の学校の先生たちは、それがわからなかったのかなあ。先生にもあんなちゃっこい子がいるけんど、神無月くんみてにまっすぐ育(お)がってくれればいいと思ってる。子供ってのは恐ろしくまじめで、自分をぜんぶ賭けてしまうもんだ。大人はちがる。ぜんぶは賭げね。築き上げてきたものが大きすぎるすけ、少しでも減らすのが惜しいのよ。だども、大っきく見えるものは、心の満足とは関係ね現実の残りかすだ。大人は残りかすに執着するのせ。オラから言わせれば、そっちのほうが普通でねェ。神無月くんを追っ払ったのは、そういう人たちだ。いま流行りの期待される人間像なんてものが理想だと思ってる、夢のねェちゃっこい人たちだ。……ちょっと気取った言い方かもしれねけど、神無月くんは純粋な夢の中で生きてきたんだ。夢の中で生きてる人間は見ていて気持ちがいい。好ぎになる」
 私は、保土ヶ谷を目指して歩いたあてのない蒼ざめた時刻を思い浮かべた。あの日につづくきょうまでのできごとは、奥山先生の言うように、現実ではなく夢なのだろうか。そうであってくれればいい。願ったのが現実からかけ離れた夢で、そして私はその夢の中で生きてきたのであってくれればいい。
 青森駅に着くころにはすっかり雪はやんでいた。蒸し暑い車内から寒気の中へ出た。空が雪に洗われて、堅く藍色に澄んでいる。小ぶりで奥ゆかしげな都会の街並を眺めた。アーケードに沿っていろいろな店が立ち並び、大通りの外れまでネオンが途切れなかった。
 港湾のそばの古びた旅館に入った。だだっ広い畳に受験生が溜まっている部屋がいくつかあった。二階の八畳のこぎれいな部屋に落ち着いた。窓から見下ろすと、突堤に寄せる海水が、投げ捨てられたゴミや油で濁っていた。ボォーッという太い汽笛が聞こえ、連絡船の円窓の灯りが通り過ぎていった。
「下宿することになってる家は、葛西さんといってね、オラの親戚だ。奥さんがオラの女房の姉さんで、野辺地高女のころ、神無月くんのお母さんの四学年下だったらしい」
「四学年下?」
「高女というのは六年制だすけ。佐藤スミさんは全校生徒のあこがれの的だったってへってらった。葛西さんの家は花園町というところにあって、青高から堤川沿いに歩って二十分ぐれだ。合浦(がっぽ)公園がすぐそばにある。春は桜がきれいだぞ」
 大部屋での夕飯を終えると、奥山は私を誘って大浴場にいった。二人で背中を流し合った。奥山の背中は、脂っこく、シミが多かった。
「ご主人は郵便局に勤めてて、じつにいい人だ。口数が少ないすけ、とっつきにくく見えるけんど、いざ話すとまじめな深いことをしゃべる」
「ぼくの祖父も、そういう人です」
「善吉さんほどの教養はねたって、神無月くんとは気持ちが合うべな」 
 風呂上りに、二人でコーヒー牛乳を飲んだ。浅間下の風呂屋で、一度だけ母にねだって飲んだことがあった。同じ味だった。その甘く人工的な味をなつかしんだ。
 その夜、私は奥山と蒲団を並べて横たわりながら、滝澤節子のことを思い出した。最後の夜の彼女の血の気のない冷たい唇と、何回もその唇を私の唇に押し当てた感触をなぞった。感覚の思い出は、まるで幻影のようでいて、単なる幻というよりは、何か温度のあるものとして肌にまとわりついた。不思議なことに、いつもと同じように、彼女との性的な交わりは思い出さなかった。
「むがしのことを思い出してるのな?」
「ええ、そうです。あれが夢なのかなって思って」
 奥山は教え子の言うことに聞き耳を立てた。そして、目を潤ませながらまじめな顔でうなずいた。
「女のことだな。神無月くんは愛情のこまやかな生まれつきだと、会ったとたんに思ったけんど、やっぱりそんだ。苦労だったね。中学生の身に余る苦労だったこだ。オラは、それはいい苦労だったと思う。―だども、過去にこだわってると、何もできなぐなる。思い切って、過去と手を切るのが利口だ」
 奥山は、私にとってピントのはずれた言葉でまとめた。過去こそ、私の大切にしているものだった。

(次へ)