十六

 部屋に戻り、現代詩手帖を開く。ビート・ジェネレーションというアメリカの流派を特集している。じっくり詠む。

 書物には人類の経験が凝縮されて詰まっている。豊かに生きるには、広く本を読むことが必要だ。

 その派に属する代表的な外人作家が書いていた。入学したばかりのころ、ある書店の外国書コーナーで〈反社会〉というめずらしい題目を見かけ、張り切って購入して読んだ作家だった。社会体制や社会的価値観の否定という内容なのだろうと思ったからだ。作品はその大上段の言葉を裏切っていた。反社会ではなく、社会を波切って進むただの先鋭だった。それは人類を救済する芸術ではなかった。意思疎通から逸脱しようとする衒いだけがあって、〈人類の経験が凝縮されて詰まって〉はいなかった。人間の経験のすべて、とりわけ、悲しみを忘れていた。
 彼に影響を受けた大江健三郎や安部公房の作品も抄出されていた。それも救済の芸術ではなかった。社会に足並みを揃えることのできない人間の悲しみに殉じようとしていなかった。逆に威嚇していた。彼らは安っぽい道徳的な迎合に終始し、そのくせ〈反社会の流行〉を礼賛していた。精神の華である苦悩さえ萎んでしまっていた。
 高級レストランでステーキを食っている男たちの顔が浮かんだ。風潮という器の中へ整頓されたような彼らの作り物は、社会的なしきたりの中で不本意にしか生きられない人間の悲しみを救済できない。悲しみを愛によって克服しようとするだれの思いも満たさない。
 いのちの記録を開いた。

 反社会的な創造物は社会の変革をもたらすためにあるのではない。苦悩し、悲嘆に暮れる人間のために、ただある。風潮を礼賛する作品は、おだてられるが、いずれ葬られる。風潮はかならず腐敗して、次の腐敗した風潮と交換されるからだ。
 腐敗は続行する。きりがない。きりがないものを見つめつづける作品は、かならず葬られる。風潮に背くことに悩む芸術は、往古普遍な人間の感情に基づいているので、日々新しく、腐らない。背徳のおかげで、風潮の腐敗や社会変革とは無縁だからだ。真の芸術は、生命を反道徳と普遍的感情で支配しようとする人生に忠実で、揺るがない権威をもって語りかける。
 読書を極力減らしていこう。救済の文学に近づくことを目標に、創造することだけを継続しよう。


 ノートを閉じ、入学して初めて〈漢文〉の教科書を開く。孟子。音読をしばらくつづける。ふと空しい気持ちに襲われ、テープレコーダーのスイッチを入れた。
「神無月くん―」
 赤井が戸を叩いた。返事を待たずに入ってきた。年上らしいあけすけな態度を装っている。私は目の端でそれを捕らえ、たまらなくいやな感じがした。赤井は自分が読みかけた本に人差し指を挟み、目の細い顔に人から当然の喜びを期待する微笑が抑えきれず輝いていた。
「名文を発見したど。人間はだれでも他人のために生まれでくるって内容でせ、身の周りの親しい人間のために生まれでくるのはあだりめのことで、会ったこともね人間に共感するためにも生まれでくるってよ。しかし、この、会ったこともね人間てのは、だれのことだべな」
「たまたま手に取った本の著者のことか、それとも、これからの人生で出会って、影響を与えられる人のことでしょう」
「なるほど……」
 赤井は、これまでどんな本を読んだか、と訊いた。私は、ほとんど詩しか読んだことがない、そろそろ読書そのものもやめるつもりだ、と答えた。
「そりゃまずいべ。本読まねばまいね。政治、経済、社会、哲学、評論、それから新聞や週刊誌も読まねばなんね。これからの時代はマルチプルでねば通用しねんだ」
「そんなものは、ただのくだらないおしゃべりにすぎませんよ。世界は大きくて自分は小さいということを繰り返し聞かされるだけです。聞きたくも読みたくもないですね。自分が充実するものごとに集中してるほうがいい。まわりの人間や、自分自身の生活に少しでも満足を与える小さなことや、なんとか達成できそうなことをね」
「えらぐ、ちゃっけえこと言うな。おめ、本気で言ってねべ」
 赤井は机の足もとに積んである本を見て、
「だいぶ仕入れてきたでねが。ショーペンハウエル、マックス・ウェーバー、キルケゴール、ピカート……難しそうなものばりだな。わがるのが?」
「わかりそうもないんで、買ってきたんです」
「ふん、おもしれ理屈だな。わがりそうもねものを読むのが」
「読みますけど、たぶん途中で放棄するでしょう。じゃまでないなら、どうぞ持っていってください」
「いらねじゃ」
 私が面倒くさそうに顔を机に戻し、数学の教科書をぺらぺらやりだしたので、赤井はさり気なくそちらのほうへ話題を移した。
「勉強、難しいべ」
「はあ、高校の勉強がこんなにたいへんだとは知りませんでした。できる人は、ハナからできるし……。人種がちがうんじゃないかって思うほど」
「いるんだ、そういうのが。人一倍勉強してるんだでば。勉強しねば、たンだの人よ」
「そうですか? 勉強の努力はするでしょうが、もともと、それ以上のものがあるんじゃないですかね。赤井さんも、ひたすら勉強ですか」
「あだりめだべ。〈それ以上のもの〉がねすけな。数学塾にかよってら。そこの先生、東大出なんだども、オラには京大さいげってへる。京大の理学部は、東大よりも環境がいいんだと。その塾さいがねが。月謝、安いど」
 私は直井整四郎の英語塾を思い出し、振り払うように言った。
「別に、成績は気にならないんです。勉強が難しいと感じてるだけで。ま、自分でなんとかしますよ」
 赤井は私の言葉を、まちがった自信のしるしと受け取ったようだった。
「なんともならねんでねがなァ。東大さいきたいんだべ。野球するためによ。秀才ってのは、みんな自分一人でどうにかなると思ってらんだ。ワもそんだった。勉強ってのは、コヅがあって―」
 私はあわただしく教科書をめくりはじめた。
「いいが、神無月くん。なんにせよ要領みてなものは、よげな苦しみを避げようとする工夫からできあがったもんだ。それに従ってだほうが、苦しぐねんだ」
「大ざっぱな話になりましたね。ぼくは、苦しいのが肌に合ってるんです」
「ま、聞けじゃ。なしてじたばた苦しんだり、おっかながったりすると思る? ラグになる方法がわがんねがらだべせ。おめだってその一人だべ。わがんねくて、とりあえず高校さきたんだべ。みんながどうするか見で、それと同じ道、歩こうとしたんだべ。苦しいのが好きだ人間が、そたらことするはずがねべや」
 私は自分の気持ちを整理するつもりで、赤井に向かって言った。
「高校にきたのは、新しい生活場所がほしかったからです。しかし、赤井さん、たとえラクになる方法がわかって、安全に歩いているときも、じつは苦しいままだし、恐いままじゃないんですか?」
「あん? どういうことだ」
「そうやって歩いていこうとする自分が、つまり、ラクをして安全に歩きたがる自分の気持ち自体が、また苦しみや恐怖のもとになるということです」
「ふん……だば、どうすればいんだ?」
 赤井は人のいい笑顔を向けた。私はぼんやりとした口調で言った。
「愛する、ということかなあ……。苦しみと恐怖を、愛する者と共有することで、より高度のものにするというか」
 私の言い方はすぐ赤井の反感に結びついた。
「ナこそ、大ざっぱだべ。そたらのは幻だ。幻の中でも、一級品だど。幻を見たところで、かえって苦しぐなるし、おっかねのも収まらね」
「そうです。だから、結局は苦しみながら、恐怖にまみれながら、人と愛し合って―」
「ンガ、童貞か?」
 脈絡なく赤井は訊いた。私は不機嫌にゆっくり首を振って否定した。
「やっぱしな。童貞だば、そごまで考えられね。……ンガ、ひょっとして、こっちさきたのは、女でしくじったからでねのが? それで思いどおりにならねすけ、気持ぢが暴れてるんでねが? 理屈ばり語ってるのが、その証拠だ」
 赤井の、大人のにおいのする苛立った視線に突き当たって、私は素早く妥協の心を取り戻した。このするどい目つきの根もとは知りたくない。
「かすかだんでねえ、ですか? わかりました。一度、その塾へ顔を出してみます。先輩がそこまで勧めるのは、よくよくのことでしょうから」
「いまさら調子いいことぬかすなじゃ。図星突かれで、あわてたべ。初めからわがってたじゃ。……おめとオラは同類だ。いいが、これからは、この家の外さ出だとぎしか、こたら話はしねど。こと女に関しては、ワが女を見かぎってることに関しては、おめとは似た者同士だ。や、オラは恋愛みてなめんどくせ遊びはしたことねえけんど、おめと同類だってことだけはちゃんとわがるはんでな。ちがるなんてへったって、だめだ。ちゃんとわがるんだすけ。……オラはな、オヤジの女に手を出して、叩ぎ出されたんだ。もう、この話はしね。とにかぐ、同類だってことはわがっとげ」
 意外な言葉を吐き散らして赤井が去ると、私はサンダルをつっかけて表に出、線路ぎわの小道を歩いた。冷たい風が吹いていて、白い雲が夜空をゆっくり動いていった。レールが濡れたように光っている。
 赤井は的外れなことを言った。私は女を見かぎってなどいない。しかし、彼は気になることも言った。恋愛は面倒くさい―きっとそれは結果論としては正しいだろう。好きな女に手を出して、それが父親の持ち物で、女はどちらにも大した気がないので、保身のためにいい加減な態度をとり、それですったもんだした挙句、より所有権の強い者に叩き出されたという経緯にちがいない。それで、恋愛は挫折をともなう面倒な〈遊び〉だと結論づけたのだ。彼は面倒くさい遊びをしたことがあったのだ。そして、いまも父親よりもその女を恨んでる。いまも恨むほど未練があるから、ヤケになって女を抱きにいくのだ。心のない抱き方をして、女全体に復讐した気になっているのだ。……私はカズちゃんを復讐心で抱いていない。相思相愛の想いで抱いている。ただ、人目を忍んでいるし、禁欲をしているし、そういう関係を維持しながら将来の設計を立てようと思っているので、人生の本道から離れた面倒くさい遊びごとにかまけているということにはなるだろう。
         †
 もう月曜日がやってきたのか、と落胆するような日常になった。夕方の六時に野球部の練習を終え、下校して、一時間遅れのめしを食い、すぐに机に向かう。復習に一段落つくと、テープレコーダーの音楽を聴きながら本を読み(どうしても本を読んでいる)、詩想がやってくれば、音楽を止めて詩を書く。それでも時間を忘れるわけにいかず、予習を始める。たまにテープレコーダーの吹き込みにかかりきることもあるけれど、焦りに背中を押されてやっぱり机に戻る。その繰り返しだ。何に焦っているのかわからない。どこかで何かを捨てている気もするのだが、何を捨てているのかもわからない。
 机の上に飲み物がない。カズちゃんがいれてくれるようなコーヒーがほしい。ポットのコーヒー沸かし器でも買おうか。思うだけで結局買わないだろう。ラジオをつける。くだらない歌ばかり流れてくる。つたのからまるチャペルだの、赤いグラスだの、さよならはダンスのあとにだの、手のひらを太陽にだの、涙を抱いた渡り鳥だの、まことに遺憾にぞんじますだの、星娘だの、いったいどういう精神構造で歌が作られ、唄われているのかさっぱり見当がつかない。
「口に言えない思いを歌にするんだ」
 と光夫さんは言った。そんな悲痛な思いを秘めた歌なんて、いまどき耳にしたことがない。番組を洋楽に切り替えると、たまには男が女を愛する時とか、そよ風に乗ってといった耳に馴染む曲もあるけれど、ほとんどビートルズや、アニマルズ、テンプテイションズといったロックンロール一色。この一年で耳に残った曲といえば、ゲイル・ガーネットの太陽に歌ってか、ボビー・ソロのほほにかかる涙か、ライチャス・ブラザーズのアンチェインド・メロディぐらいだ。三、四年前までは、もちろん耳が選択をしたうえでのことだけれども、浜辺に波が絶え間なく押し寄せるように名曲が流れてきた。思い出すと嘘のように思える。
 葛西さんの居間のテレビはというと、軽佻浮薄に世を送る芸人の習いで、ずいぶん陽気なことばかりやっている。モンキーダンス、勝ち抜きエレキ合戦、オバケのQ太郎、さもなければ、マイホームパパ、俺についてこい、ファイトでいこう、生物の先生が得意技にしている《シェー!》の連発。ファイティング原田がフライ級につづいてバンタム級も制覇したとか、どこかの大会社で週休二日制を採用したとか、東京の夢の島でハエが大量発生したなどという、どうでもいいニュースまで入ってくる。とにかく、聞くもの、見るもの、聞く必要も見る必要もないことばかりでやりきれない。
 きのうまでは、本だけが救いだと思っていた。すべてが本の中にある、胸を打つ本は私にとってそのたびに一つの事件だ、すぐれた本は情熱をほとばしらせながら精神の喜びや苦しみを語ってくれる、そう思っていた。たとえ私が、悦に入って自分なりに思想の楼閣を築こうとしても、ついいままで読んでいた情熱にあふれた語り口がまざまざと甦ってきて、頼りない思考を空中崩壊させる、それは快適な事件だ、そう思っていた。いまは思っていない。それは半世紀以上も前の本のことだろう。六十年代ポップスと同様、いまはもうそんな本などない。図書館に眠っているかもしれないが、書店には並んでいない。読書家のカズちゃんもほとんど本のことは語らない。むべなるかな。そう思いながら、麻薬のように本を読んでいる。
         †
 三、四、五、六月と、もう四回も母からの送金が届いた。一万二千円。彼女の給料はまだ二万円を超えていないだろう。多少痛ましい気もするけれども、要らないと言えば、どこから生活費が出るんだと訊いてくるだろう。答えたくない。答えれば母は飛んでくる。野球も、カズちゃんもすべて消し飛ぶ。
 母は金にこだわる人だった。ほとんど毎日と言っていいほど、金にまつわる細かい話をしていた。彼女の苦労は金の苦労だった。彼女にとって人生最大の悲劇は、別離や死ではなくて、金ヅルである職を失うことだった。だから、私のお年玉のようなボタ餅は、すべて奪い取った。母だけが例外なわけでなく、たぶん世の親たちというのはそうしたものなのだろう。子供を連れた生活には、金の飢餓がつきまとう。
 その母が定期的に金を送ってよこすとなると、たしかに彼女にとっては、それがあれば得られたかもしれない幸福の犠牲を意味する。彼女にとって、金は何かを得るための単なる手段であるだけでなく、彼女の生活を編み上げる命のこもった織り糸でもあるのだ。それをほぐして人にくれてやることは、想像以上の苦しみだろう。そう思うと私の心にはかえって快感のような思いが湧き上がり、反射的に金を使い尽くそうとする。そして金がなくなると、一瞬の爽快感は消え去り、言い知れない不快な気分になるのだ。現金書留にはかならず手紙が同封されていた。私はろくに読みもせず、拝眉で始まり草々敬具で終わる型どおりの礼状で応えて、自分の環境や心持ちの報告はいっさいしなかった。
 下宿代八千円を払って、カズちゃんの封筒には手をつけず、残りの四千円をポケットに入れて、新町通りの繁華街へ出かける。そして、何軒かの本屋をハシゴしながら本を買い漁る。金がものに姿を変えるとき、神秘的で安らかな思いを呼び起こす。クマさんやカズちゃんの金は、野辺地で詩集を買い、花園町で文具や参考書やユニフォームに使ったきり、手付かずといかないまでも十万円近く残っている。ほかに何を買えばいいのか思いつかない。参考書や問題集に使うか、コーヒーメーカーを兼ねた電気ポットを買うか、リールテープを買い貯めするか、それとも映画でも観るか。映画―そう言えば、青森市に出てきてから映画を一度も観ていない。カズちゃんとのデートのときにチャンスがあったけれども、散歩で反故にしてしまった。次のデートではかならず観にいこう。……これも思うだけで、きっといかないだろう。

         十七

「話がある。放課後、教務室にきなさい」
 朝のホームルームが終わったとき、西沢に声をかけられた。深刻な顔はしていなかった。たぶん、勉強のハッパをかけるつもりだろう。入学以来、私の成績は泣かず飛ばずだ。とくに数学の成績が悪い。
 六月も半ばを過ぎて、快晴の日がつづいている。気温も毎日二十度を超える。梅雨の晴れ間というわけではない。青森には六月から七月にかけて、梅雨というものがない。月に四、五日も雨が降るくらいのもので、ほとんどが晴れか曇りだ。
 窓際の席に座っている半袖の木谷千佳子が、ぼんやりと絵入りの童話のようなものを読んでいる。風がページを吹き抜け、そのたびにぺらぺらと挿絵が立ち上がった。なかなか贅沢な装丁の本だ。
 ―童話詩みたいなものも読んでみたいな。それより西洋の詩人をもっと読まなければ。また読書のことを考えている。
 じっと木谷を見つめていると、ふとこちらを振り向いた黒目の勝った瞳に真っすぐ射すくめられ、私はさりげなく顔を逸らした。
 放課後、西沢の教務室を訪れた。青高には職員室というものはなく、各教科の教師に一部屋ずつ教務室が用意されている。
「きたな、ダンディくん。きみはいい男すぎるんで、授業中に目のやり場に困っちゃうよ」
「どういうお話ですか」
 笑いながら先を急がせる。
「わかってるでしょ。きみの不勉強のことだよ」
「しっかりやってます」
「そりゃ、やってるだろうけどさ。人並にね。相馬さんがきみに天才の折り紙をつけてたよ。すぐに一番になれるのに、なろうとしない、野球も大のつく天才だ、顧問としてはありがたいが、力を余して生活しているような態度が気になる、確実に東大にいける人材なのに、とこうだ。いまの成績はまあまあだから、不勉強と決めつけるのは酷だが、このままだと、百番、二百番と落ちていきそうでね。転落なんて、あっという間だよ。きみを見てると、どうもその気配があるんだ。きみ、入学成績よりいい成績をとったことがないだろ」
「……がんばります。でも、ぼくが天才なら、ほかのすごい連中はどう呼べばいいんですか。どの科目にもとんでもないやつがいます。古山、奥田、小田切、小川、そうだ、一戸なんかまぎれもない……」
「わかった、わかった、謙虚なんだな、きみは。人に驚くのは天才の特徴だと聞いたことはあるがね。彼らは、いわゆる知識人なんだよ。小さいころから勉強が命だ。運動するやつは、運動だけ。どちらも天才じゃない。きみは天才だ。天然というやつだね。二番という入学成績だって、一種の転落だろうけど、何の不満も抱いてない。……野辺地中学校の奥山先生という人に問い合わせて、アラアラ事情は聞いた。破天荒だねえ。私はそういう人間、好きだよ。そんな事情を抱えていながら、きみは転校してきたとたんに、全県の一番になったそうじゃないか。野球も、愛知県のホームラン記録保持者なんだってね。おまけにとんでもない美男子だ。漫画みたいだな。何をどう説教していいのか、戸惑っちまうよ。まあ、とにかく、もう少し勉強してくれ。面倒がらずにな」
「数学が苦手なんですよ」
 西沢の機嫌をとりたくて、思わず言った。
「言語に論理性のあるやつは、必ず数学も伸びる。それはいいんだ。私は自分の科目にエゴになってるわけじゃない。一回でも総合得点で一番を取って見せてくれ。一発逆転ホームラン。それで、どの先生も溜飲を下げると思うんだ。きみも東大にいく決意だそうじゃないか。そのくらいのスタンドプレイはしてくれ」
 はい、と元気のいい返事をした。
「じゃ、もういっていいぞ。トーナメントの一回戦は観にいくからな。このところ青高は一回戦ボーイなんだ。勝たせてやってくれ」
 鍛錬の成果が顕著に現れはじめた。とりわけ素振りの成果が目覚しいものになってきたので、六月末に一回、七月の初めに一回、紅白戦をすることに決まった。相手チームは二年生の来期レギュラー候補、と言っても三年生の控えも含めてほぼ全員が参加する。私はレギュラーチームの四番で出場する。
 きょうから遠投の代わりに、五十メートルキャッチボール三十本に切り替えた。十組でやる。
「ショートバウンドになってもいいから、低いボールを!」
 バッティング練習は、全員センター前へ低い打球を打つ練習をした。掬い上げてレフトやライトへ飛ばすのは、みんなかなりの確率でできるようになった。速球ピッチャーに当たったとき、センターへ打ち返せれば、二、三塁のランナーを返せる。右中間や左中間を抜けば、一塁のランナーまで返せる。基本はホームラン狙いなので、みんな高く打ち上げるレフトフライやライトフライも何本か打った。ほとんどの打球がフェンスか金網に当たった。練習の終わりに阿部が部員を集め、
「神無月はバッティングばり目立ってるように見えるばって、守備力もすげど。打球の落下点まで走っていくスピードはナンバーワンだ。背走しながら捕球することは、まずね。見習えじゃ」
「ウース!」
「それから神無月、ユニフォーム洗え。おめだけドロドロだ」
「はい! 今週中に洗っときます」
 みんないつもの大声で笑った。ほぼ、ひと月間、革袋を持ち帰っていないことに気づいた。
         †
 六月二十一日月曜日。するべきことの優先順位が決まったという気持ちや、私を重要な人間と考えてくれる人びとの親切と励ましに応えようという気持ちや、いろいろな意味でカズちゃんを喜ばせたいという気持ちが、そしていずれその気持ちも憂鬱の中へなし崩しに消えていくかもしれないという不安が、そういったすべてのものが、ただ漠然とした希望の中に溶け合っている。道端の電話ボックスから、カズちゃんに電話をかける。
「ユニフォームを持ってくから、洗濯しといてくれる?」
「いいわよ。いま学校の帰り?」
「うん。じゃ、ゆっくりできないわね。五分ぐらいでしちゃおうか」
「しよう、しよう」
 駆けつけると、カズちゃんは式台でキスをしたあと、台所で下着を下ろし、キッチンテーブルに仰向いて、両脚を垂らすように股を開いた。
「オマメちゃんを舐めたら、すぐイッちゃうから、そしたら入れて。それもすぐイッちゃうから、イッてるうちに出して。たくさん出してね」
 さっそくクリトリスにかぶりついた。十秒もしないうちに達した。ズボンを下ろし、あわただしく挿入する。そのとたんにカズちゃんは一度気をやった。二度、三度と昇りつめる。ひさしぶりなのでたちまち私にも迫った。
「あああ、大きくなった、いっしょにイッて!」
 尻を引き寄せ、激しく突き入れる。
「カズちゃん、イク!」
「好き、好き、イク!」
 たがいに痙攣し合いながら両手を結び合わせる。固く凝った乳首を吸う。引き抜くと、カズちゃんはもう一度痙攣してから股に掌をやり、流れ出る精液を受けとめた。口に持っていって舐める。それから床に降りて屈みこみ、その口で私のものを清潔にする。
「やっぱり、ひと月が限界だね」
「私もそう。都合のいいときに、学校帰りに寄ってね」
「もちろん。二週間にいっぺん」
「だめだめ、ひと月にいっぺんぐらいにしましょ。油断は禁物よ。大学に入って落ち着くまでは、とにかく慎重に行動しなくちゃいけないわ」
「そうだね、調子に乗っちゃいけないね」
「そうよ。ユニフォームとストッキング置いてって。いまから新町に出かけて、同じものを買っておくわ」
 下着をつけた。
「スポーツ用品店がどこかわからないんだけど」
「尋いて回るからだいじょうぶよ。このユニフォームは洗って、アイロンかけとく。あしたの朝、学校にいくとき新しいユニフォーム持っていってね。じゃ、急いで帰って。送らないわよ」
「うん、じゃね。ときどき見にきてくれてるね、ありがとう。先輩たちが勘のいいこと言うんで、はぐらかしておいた。二十五、六歳に見えるらしいよ」
「それでもキョウちゃんと十歳もちがうわ。残念」
「ぼくには何歳にも見えない。平畑のときからずっと同じ」
「キョウちゃん……」
 長い口づけを交わして、玄関を出た。
 人通りの少ない土手道に出て、幸福感にあふれた大気を深く吸いこむと、カバンから小説の単行本を取り出した。卍。暮れていく道を歩きながら活字を顔に近づける。このところ、学校の往き帰りの道で、あるいは授業の合間に、そして部屋の蒲団に潜りこむまでのあいだも、ショーペンハウエルと谷崎潤一郎を読んでいる。ビート・ジェネレーションの肥溜(ケルアック、バロウズ、キンズバーグ―飛ばし読みするのも難行だった)に嵌まったあとだったので、独創に満ちあふれた文章に触れて、心が高く舞い上がる。ショーペンハウエルを読書論から人生論へと読み進み、谷崎潤一郎は刺青、蓼(たで)喰ふ虫、春琴抄、痴人の愛と読んでいった。痴人の愛を読んだときの冴えざえとした戦慄が、いま卍を読みながら歩いているときもつづいている。
 葛西家に帰り着いて、奥さんとミヨちゃんのおさんどんで、夕食のテーブルに着く。サングラスはきょうはすでに部屋にさがっていた。主人は風呂。
 カレイの煮つけと香の物と味噌汁。二杯お替りする。奥さんが私の顔を見つめ、
「顔が赤いですよ。少し焼けたのかしら。かわいらしい。神無月さんには惚れぼれしちゃいます。あら、こっちを見ると恥ずかしいですよ」
「おかあさんたら」
 ミヨちゃんが私をじっと見つめる。目が潤んでいる。
「ソフトボールはどうなってるの」
「野球って、難しいですね。ゴロとか、フライとか、どうしてもうまく取れない」
「それはね、才能がないからだよ」
 ミヨちゃんは噴き出し、
「だから、補欠なんですよ」
「さ、ミヨ子、もう神無月さんを部屋に帰してあげましょ。勉強、勉強。あしたは赤井さんのリクエストで、石狩鍋にしますからね」
 部屋に戻り、いのちの記録を開いた。
 
 哲学も(学術的でない随想にかぎるが)、小説も、詩や音楽に匹敵する力を持っていると痛感する。
 ショーペンハウアー。疲れることなく思考することから生まれる彼の透徹した人格や、底知れない知性は私を粉々に打ちひしぐ。そして、その人格と知性から搾り出される〈怒り〉は、私を骨の髄から感動させる。どんな人も、つねに内心では、考えたい、表現したいという永遠の衝動に駆られているけれども、それに純粋な人格とすぐれた知性が加わったショーペンハウアーのような者との交感となると、これはひどく難しい。私は、心のあり方も、倫理的な願いもこの思想家ほどは澄んでいないので、快哉を叫ぶよりも胸が苦しくなることのほうが多い。その品行の正しさや知恵の偉大さは、自分には手の届かない思索の高みに達した人間の証に思われる。ただ、彼のあまりにも過剰な自信から出てくる刃のような言葉は、私みたいな自信のない人間にとって、ひどく残酷なものに感じられる。
 たとえば―
 『みずから考えることが精神におよぼす作用と、読書が精神におよぼす作用とは同じではない。しかも、両者のあいだの相違は、信じられないほど大きい。これら両者のあいだの相違は、私たちのうちのある者をしてみずから考えることへ、また他の者をして読書へと向かわせるそれぞれの生まれながらの相違を、さらにますます増大させることになる。読書は、精神がその瞬間に持っている方向や気分からは著しく質を異にする思想を、強制的に精神に押しつける。何の衝動も興味も持っていないことに対して考えるように、全的な強制をする。これに反して、みずから考える場合には、精神はおのずから湧き起こる自分自身の衝動に従う。それゆえ、あまり多くの書物を読むならば、精神の弾力性を失うようになる。長い期間にわたって重いものを載せておいたバネの弾力がなくなるのと同じように。だから、自由な時間がありさえすればいつでもすぐに書物を手にとることは、自分自身の思想を持たないようにする最も確実な方法であると言える。博学多識が多くの人びとを、彼らが先天的にそうであったよりも、さらに気概のない単調な俗物と化し、また彼らの著述からいっさいの効果を失わせる理由は、まさしくその方法を実行したからである。学者とは、さまざまな書物を読んだ人のことである。思想家、天才、世界の啓発者、そして人類を進歩させた者は、直接に、世界という本を読んだ人たちである』
 私は心の底で深い反省を強いられながら、うなだれることしかできない。
 谷崎潤一郎! 表現の華麗さ、思索の深さ、ユーモア、文体、どの点から見ても、すばらしい作家だ。彼は師にもつかず、学問の道にも進まず、自分の魂の中に美の規律を発見し、ひたすら芸術美の達成だけに専念した。自分でも理由の知れない動機から、ただ感性の赴くままに進んだ独歩の作家だ。女の肉体の神秘に強く関心を抱きつづけたので、有象無象からは《無学》という見当ちがいのレッテルを貼られたけれども、そういう本質から外れた誹謗にもめげず、かえって筆力をいや増し、高齢になっても精力的に書きつづけ、無学どころか、ほかの群小作家たちの精神性からずっとかけ離れた域に達してしまった。彼こそ人間世界の法則をひそかに定める者たちの一人だった。
 こういうとてつもない容量を持った思想家や芸術家たちを、国家が法制を整えて面倒見てやれば、商売一本槍の人びとに保護されている芸術家気取りの小物どもは、たちまちいき場を失い、こそこそ姿をくらますだろう。すぐれた思想家や芸術家という、しっかり火を入れられ打ち鍛えられた刃は、国が砥石(といし)になってやればいよいよするどさを増すだろう。彼らがいるからこそ一国の文化が絢爛と花開き、歴史に記憶されるのだ。力強い思想、人間社会の怠惰やゆがみに対する怒り、大いなる想像力、そして誤解のない伝達を旨とする高貴な文体。
 時代に恵まれなかった彼らの文章は、今日に生き延びた。当然だ。だれも本物を殺すことはできない。彼らの肉体が大地に還り、灰となって風に吹き散らされようと、彼らの信念は時代を越えて生きつづける。彼らが不遇の時代に花を散らしても、彼らの思想と芸術の種子は別の時代に芽生える。



         十八

 ドアがノックされた。
「勉強の途中だったが?」
「いえ、だいじょうぶです」
 うまくまとまったと思える文章だったので、いさぎよく鉛筆を置いた。
 赤井は半袖のシャツを着ていた。魚の腹のような白い腕が露わになっている。たしかに彼は押しが強くて、一見扱いづらそうな男だが、ここしばらく見てきて、玄関周りの掃除や、草むしり、ちょっとした買い物の使いなどじつに快く引き受けるし、口の利き方や人当たりも丁寧で、案外できた人間であることがわかってきた。
「あしたあだり、もしいがったら連れてくど」
「どこへ?」
「塾だ」
「いきましょう」
 気持ちよく了承する。
「数Tの教科書と、ノートと鉛筆、それだけ持ってげ。……帰りに寄りてとごあるすけ、付き合ってけろ」
「わかりました」
 予測はついたけれども、いやな顔をしないで快諾した。
         †
 翌日二十二日火曜日。登校のとき、カズちゃんのところに寄った。新品のユニフォームとシャツとストッキングが用意してあった。革製の用具袋までもう一つ買い整えてあった。
「よく店を見つけたねェ」
「青高の御用達(たっし)の店はどこですかって、グローブとバットを買った最初のスポーツ店に聞いたら、すぐ教えてくれたわ。このあいだの港の神社のそばだった」
「はあん、それでやつら、マセてるんだ」
「野球部の人たち?」
「そう。さばけてて、付き合いやすいよ」
「青森の土地柄かもしれないわよ。料理学校にきてる七十歳ぐらいのお婆ちゃんが、いい男とエレベーター乗ると、あそこがバックバックするって言ってたわ。洗ったユニフォームはあさっての朝渡すわね」
 唇だけのキスをして登校する。
         †
 一家が夕飯の食卓でテレビを観ながら待っていた。奥村チヨの歌声が弾んでいる。NHKのチコちゃん日記。十七歳の夜間高校生か。柴田美保子。目が細くて好きではない。味噌のにおい。約束どおり石狩鍋だ。
 まずシャワーを浴びて、奥さんの用意した下着を穿き、ジャージを着る。きょう使ったユニフォームを部屋に持って帰ってダッフルバッグに入れる。
 奥さんとミヨちゃんが自分たちの食事を後回しにして、男四人におさんどんをする。
「鍋の季節じゃないんですけどね」
 奥さんが言うと、
「オラは石狩鍋なら一年じゅう歓迎です」
 赤井の応答にミヨちゃんが鼻に皺を寄せた。赤井はすぐに土鍋に箸を入れはじめた。
「赤井さん、いま取ってあげますから、鍋に箸はつけないの」
 ミヨちゃんが菜箸で四人に具を盛り分ける。それを吹き冷ましながら、サングラスの言ったように〈しゃきしゃき〉食う。皿がさびしくなるとすぐに足される。私は人の手を見るのが癖だけれども、ミヨちゃんのそれはじつにすべすべしていて、目も覚めるような白さだ。先細りの長い指をしていて、その端にバラ色の爪が生えている。カズちゃんの手にまさるとも劣らない美しさだ。私の視線に彼女が気づいたようだったので、テレビの画面に目を移した。チャンネルがザ・ヒットパレードに切り替わる。ザ・ピーナッツ、飯田久彦、中尾ミエ、木の実ナナ。現代の歌謡曲に興味なし。主人が、
「お義兄さん、熱いから気をつけで」
 サングラスの前に小さなフォークが用意してある。それで具を突き刺し、息を吹きかけて冷まして食うのだ。私は、
「不便ですね。具に刺さらなかったら終わりだ」
「なも、ゆっくり食うすけ、心配ねんだ」
 赤井が、
「神無月くん、早く食ってしまれ。間に合わねど」
「はい」
 赤井に合わせて最後の一口を食い終わると、箸を置き、食後の茶を飲んだ。奥さんが、
「どこへいくの。だめですよ、夜出歩いたら。私はあんたがたに責任があるんですから」
「塾さ連れてくべと思って」
「あなたとは、学年がちがうでしょ」
「学年別の授業でねえんです。数T、数U、数Vて、曜日ごとに科目が決まってで、何年生でも、どの授業さ出てもいいんです。きょうは数Tの日です。一年生でつまずぐと、あどあどきびしくなるはんで、早いうちに手をつけだほうがいいんですよ。小学部、中学部もありますよ」
「高いんでしょ、月謝」
 私は湯呑を置いた。とつぜん盲人がフォークを天に向けて吟じはじめた。
「少年、老いやすくゥ、学ゥ成りがたしィ」
 見えない目でヒョイとこちらを向いた。黒い眼鏡に蛍光灯が映っている。
「教育のためなら、家産を吹き上げでもかまわね。金がねえなら、軍刀軍服を質に曲げでもオラが出してける。投機でねど。こういうのは投資ってへるんだ」
「何言ってるの、にいさん。投資もなにも、年に四回の恩給ぐらいじゃ、煙草代にもならないでしょう。それに、刀も軍服も、もううちにはありませんよ」
 サングラスは奥さんの言葉を無視して、ひとりうなずきながら私から顔を逸らさない。主人がその横顔を見て微笑した。赤井が、
「月謝はたいしたことねえんです。二時間で五百円。数Tだけだったら、月四回の二千円です」
「やっぱり、高いわねえ。とてもミヨ子はかよわせられない」
「ミヨもいがせろ。ダテに傷痍軍人やってんでねど。だいぶ恩給貯まったべ」
「だから、それはにいさんの生活費に充ててるじゃないですか。……そうだ、マコトちゃんから電話があって」
 奥さんは眉を曇らせて私にまじめな視線を当てた。
「山田さんていう人が、かなり悪いんだとか」
 主人がテレビを消した。ミヨちゃんが食卓を片づけはじめる。主人とサングラスが煙草に火を点けた。
「……そうですか。とうとう」
 深い喪失感がきた。山田三樹夫は、きっと水のように淡々とした表情をたたえながら死んでいくだろう。私は羽化しなかった蝶をイメージした。山田三樹夫は何の目的も遂げないうちに、サナギの中で窒息してしまった。彼の目的? 彼は大学を出たら町役場にでも勤めて平穏な生活を送りたいと言っていた。なんと慎ましい目的だろう。そんなささやかな希望も手に入れられずに、彼は墓場へ逃げていく。
「中学校の大秀才で、同じクラスの学級委員長でした……。奥山先生は、ぼくに帰るように言ったんですね」
「いいえ、ただ伝えてくれって。神無月くんとは死に目にこねようにきびしく約束したと山田さんが言ってるらしくて」
 こんなときにも、主人は新聞を読んでいた。食事がすんだあとで読む新聞だ。新聞を拡げている彼の姿が、ブラウン管に映っているのを見て、私は世の中の習慣に身震いした。赤井が神妙にうなだれている。
「白血病だったんです。一度持ち直して受験して、野辺地高校一番合格。……やっぱりだめだったんですね。夏休みにでも彼の家に顔を出します。いま帰れば、生きた彼の顔を見ることはできるけど、山田くんとの約束は守りたいし、彼なりに会いたい人の順番があるでしょうから」
 山田は、何が起きても自分の場所でじっとしていろ、いつまでも忘れないでいてくれればそれでいい、と言った。そのことも告げた。
「なんだか、冷ゃっこい気持ちになりますね……」
 奥さんの声は穏やかな調子だったけれど、私の耳には山田と私を難詰しているように聞こえた。赤井がかばうように言った。
「いや、オラは冷ゃっこい気持ちにはなんねな。よぐわがります。神無月くんを自分の都合で引っ張り回したぐねっていう友だち思いの言葉だべ。神無月くんはそれに従う。神無月くんのことが、よっぽど好きだったこだ」
「都合といったって、命の問題ですよ」
「そこが男らしいとごです。男が大事にするのは、基本的に命ではねェんです、おばさん」
 じっとテーブルの上を見つめていたミヨちゃんが、驚いたような表情で赤井のほうを見たが、そのうちに声を立てずに鼻をすすりはじめた。長い睫毛が、頬に美しい影を落としている。
 私は不意に、山田三樹夫をうらやましいと感じた。死という魔法のおかげで、彼を知らない人からも関心を持たれ、案じられ、いままでより愛情に満ちた世界で暮らしていけることへの羨望だった。でもその感情はすぐに鎮まった。私も彼を愛していたからだ。
「その山田って人は、従容と死んでいぐべ。人が死ぬのは、自然の決まりごどだんだ。死ぬ者がいて生き残る者がいるのは、仕方のねこどだ。生き延びた人間がせいぜい励めばいんだ。そうわがっていでも、目の前で死なれねど、たしかに死んだとわがんねし、行方不明の人間はまだ生きてるもんだと思ってしまる。人が死ぬなんてのは、あたりめみてなもんだども、しっかりてめの目で確かめねど納得がいがね。目に焼きつけておがねど、なかなか生きていぐ励みにならね。死に際に駆けつけるのも、そったら意味からだべ。……神無月くんに納得がいってるんだすけ、駆けつけることもながべ」
 サングラスが遠くを見つめた。鳥が見栄を張るように、頭を真っすぐ持ち上げる。顔の下に、長いあいだの徒食のために脂肪のついた首がつづいていた。目が見えなくても、彼は暗闇の中の人ではなかった。見えない目の奥に多くの死を記憶し、生き延びた喜びを噛みしめていた。
 主人の自転車を借りて、赤井と並んで走った。線路ぎわから、デコボコした畦道に入った。田の表面が夜露の細かいしずくで白く光っている。土がゆるいので脚に力をこめて走った。山田三樹夫の微笑にずっとつきまとわれていた。どうしても涙が湧いてきて、何度も頬を拭った。
「親友だったんだべ」
「尊敬してました」
「おめが尊敬するくれなら、大した人間だべ。そういうのは、早ぐ死ぬんだ」
 塾の入口の下駄箱の壁に、マドンナの複製写真が掛かっていた。写真の隅にエステルハージィの聖母と小さく記してある。背景に山並と城があり、マドンナが二人の子供を見下ろしている図だった。私は、ラファエロのマドンナの絵はほとんど宮中の図書室の画集で見て知っていて、中一のころ『中学生の勉強室』のグラビア写真を切り取って、しばらく机の前に貼っていたくらいだった。たしかあれは大公の聖母だった。子供を抱いたマドンナの大きな手が好きだった。しかし、塾の壁に掛かっているマドンナは、ラファエロにしてはひどくごつごつした大雑把なもので、私の好まない一枚だった。すぐにきょうのノートに書きこむ文章を考えた。
 マドンナと子供の配置、またそれぞれのポーズも整っているが、マドンナの手の置き方や、子供の首の据え方がありきたりで、着物の裾の皺までが旧套に堕している。筆づかいも躍動感がなく、一つの型にはまっていて、彼のほかの絵とはちがって、情熱の弱さが描写の正確さに傷をつけている。因習的な定石が筆の勢いをくじき、その運びを渋らせているからだ。
 
「何、ボーッと見てんだ。あんべ」
 私はいま考えたことを忘れないように頭の中で繰り返しながら、赤井にくっついて式台に上がった。ガラス戸を引くと、だだっ広い板敷きに十列ほども長机が置いてある。白髪の教師がすでに教卓に座って、生徒たちに穏やかな微笑を向けていた。五十年配の知的な雰囲気の男で、西沢のような熱のある感じはしない。赤井が私に耳打ちした。
「キレるんだ、あの人は」
 席についた私たち二人を教師が見やった。彼はおもむろに立ち上がり、オヤと思うほどのんびりした口調で講義を始めた。背の高い男だ。口調に反して、説明の歯切れはよかった。微に入り細をうがつというわけではなく、ひどく簡潔に要点を言う。西沢の説明よりすんなり頭に入ってきた。運のいいことに、この日の講義はちょうどいま学校でやっている《根(こん)と係数》のところだった。二次方程式を解いていく手順がまるで学校で教わったやり方とちがっていて、手品を見ているようだ。私は少し興奮しながらノートに解法を書き写した。ときどき赤井の横顔を見た。じつにいい顔をしていた。この男は心底勉強が好きなのだ。
 講義は途中で雑談に流れた。赤井をはじめとする生徒たちが、うなずいたり、笑ったりしているところを見ると、それはこの数学教師の常套のようだった。彼は、徹夜麻雀をしたり、酔っ払って仲間と深夜の街をほっつき歩いたり、怪しい場所にくり出したりした大学時代の思い出を語りながら、消え去った青春を回顧していた。その青春には玄関の壁の絵と似たような平凡なにおいがしたけれども、少なくとも彼は東大までいって自分なりの人生をまっとうしてきた秀才だったし、何の隠し立てもなく思い出を語っても嫌悪されない人物だった。


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