十六

 父とすれちがいに、二階の手すりから、姿勢のいい太った女が身を乗り出した。彼女は私から眼差しを逸らさなかった。そうして、父をやりすごす格好で小走りに階段を降りてきた。
「キョウちゃんね!」
「はい」
「お父さんからお手紙でも」
「ううん」
「そう。ごめんなさいね、せっかくきてくれたのに」
「ぼく、なんともないよ」
「……出ましょう」
 私が父の音信によって呼び寄せられたのではないとわかると、女は少し安心したふうに手を引いて外へいざなった。私は女に手を引かれながら、地面に吸われるように落胆していた。未来を思って楽しかった子供の空想が、何もかもこの女の手のぬくもりといっしょに反故になったように感じた。
 下宿から少し離れた道に出ると、女は私の手を離し、先に立って歩いた。私は夜の道にはっきりと目を見開き、あこがれていた男に愛を与えられなかった絶望を噛みしめていた。
「これ、いらないや。かあちゃんに叱られるから」
 女は振り向き、心底困ったという表情をした。
「ほんとに、いけないお父さんだ。どうしたらいいかわからなかったのね。……でもおばちゃん、受け取るわけにはいかないわ」
 私の差し出した手を包みこんで、やわらかく押し戻した。不思議にも、父をおとしめる感情は湧いてこなかった。それどころか、いつの間にか、彼がつまらない男かもしれないと一瞬疑った心は消え失せ、そうして、彼の静かな立ち居を、ひっそりと暗がりに息づく美しい昆虫に重ねて思い返した。すると、急に、もう二度と父に会えないだろうというさびしさが、からだじゅうに沁みわたった。
「よくわかったわね、ここの家」
「かあちゃんに聞いた」
「……キョウちゃんのお母さんには、どうしても住所を知らせなくちゃいけないことになってたから。ここ何カ月か、いろいろとあってね……。てっきりお父さんが手紙を出したのかと思っちゃった」
「とうちゃんは、手紙なんかくれないよ」
「ごめんなさいね……。そうだ、キョウちゃんはご本が好きなんだって? お母さんが言ってたわ。すぐそこに本屋さんがあるから、買ってあげる」
「かあちゃん、よくくるの?」
「何度か、きたわ」
 父が自分につれなく当たったのは、母から約束ごとを申し渡されていたからではないかと閃いた。すると、とつぜん、その約束ごとを中心に結束している大人たちの思惑がうとましいものに思われてきた。
「本なんていいよ。ぼく、帰るから」
「それじゃ、おばちゃんの気がすまないわ。そのつもりで出てきたのよ。お願いだから本を買わせてちょうだい」
 女がまた背を向けて歩きはじめた。私は不機嫌な声で彼女の背中に言った。
「おばちゃんは、サトコっていうの?」
 彼女は背中のまま答えた。
「そうよ。ひどい女だって、教えられてるんでしょう」
「うん」
 豊かな尻がスカートの下で交互に揺れている。母の気丈なイメージがサトコのたっぷりとした肉づきに押しつぶされて、心もとなく消えていくようだった。彼らが陰で母と意を通じているなどということはどうでもよくなり、私はわけもなく母の味方をしたくなった。そこで、耳に記憶していたことを隠さずに、あてこするような調子で彼女の背中に言った。
「とうちゃんは、おばちゃんのお金が目当てだったんだって」
「そう、お金が。ふふ……」
 サトコは足どりをゆるめながら、清潔な笑顔を振り向けた。
「おばちゃんにお金があれば、お父さんも、もう少し元気になってくれるかもしれないわ。キョウちゃんには、元気なお父さんに会ってほしかったのにね」
 そう言って、私の先に立ち、川沿いの道を生きいきと歩いていく。サトコは全身で自分自身の思想を語っていた。しかもそれは、その場かぎりの成りゆきから取ってつけたようにひねり出したものではなくて、おそらく父との長く苦しい逃避行の中で培った切ない想いから滲み出てくるもののように思われた。私は、この下心のなさそうな太った女に心から親しみを感じた。
「とうちゃんは、そんな人じゃないよね」
「もちろんよ。それに、おばちゃん、貧乏だもの」
「よかった。ぼく、ぜったい、ちがうって思ってたんだ」
 大人びた受け答えにサトコは驚いたふうに足を止め、私の肩に両手を置いた。
「お父さんを怨まないでね。弱い人だから……」
「弱いって?」
「いい人なの」
 サトコは父をかばおうとしていた。
「ぼく、とうちゃんのこと、好きだよ」
「まあ―」
 サトコの目からみるみる涙が流れ落ちた。私の胸に、階段を平然と戻っていった父の背中が甦った。母に軽蔑されようと、息子に憎まれようと、そんなことは知ったことではなく、だれの思惑も気にしないで突き放したように戻っていった背中が、意外なほど父の人格を練り上げて見せた。それは強い生きかたにあこがれる私の目にはほとんど人間の理想像とまで思われた。
 サトコは涙を拭いながら、出店を黄色く照らしている本屋の前に立った。何種類もの新刊雑誌が私の目にきらびやかに映った。厚手の増刊号も混じっている。私はサトコの後ろに立ち、もの欲しそうな表情をしないように努めた。
「どれが欲しい? 何冊でもいいのよ。おばちゃん、奮発しちゃおう」
 玩具や小間物を雑然と置いてある店の奥から、眼鏡をかけたおやじが揉み手をしながら出てきた。私は『ぼくら』と『幼年ブック』を指さした。おやじはサトコの表情を覗いながら、それを丁寧に厚い紙袋に入れた。
 サトコは別れがたい様子で、私が最初に渡った橋のたもとまで送ってきた。
「ひとりで帰れるよ」
 彼女は私の頭を撫でた。
「残酷なことを言うようだけど、もうきちゃだめよ。キョウちゃんの名前は、もうすぐお母さんの苗字になってしまうんだから」
 そう言って、そっと私の手を握った。
「苗字はぼくが決めていいって、かあちゃんが言ってた」
 サトコはそれには何も応えなかった。
「気をつけてお帰りなさい。おばちゃんも、ここから帰る。遅くなると、大ちゃんに、お父さんに叱られるから」
 紙袋を胸に抱え直し、深くお辞儀をした。サトコは何度か小刻みにうなずいた。
「キョウちゃんのこといつまでも忘れないわ。きれいなお顔。お父さんもびっくりしたと思うわ。……さようなら」
「さよなら」
 私は彼女の後ろ姿が最初の辻を曲がって見えなくなるまで、サンダルの立てる音に耳を澄ましていた。
 橋を渡りはじめた足もとに寒さが回復してきた。いつか工場に母を迎えにいったとき、ボルトを洗いながら輝くように笑いかけた彼女の白い顔を思い出した。抱えている紙袋の重みが、母に対するひどい裏切りに思えてきた。私は橋の途中で立ち止まり、黒い川面を見下ろした。
 ―捨ててしまおうか。
 いくら後ろめたいとはいえ、買ってもらったばかりの雑誌を捨てるのは忍びなかった。おまけに、その袋には、父を愛する女の言葉と真剣な眼差しがしまいこまれていた。
 たしかに、ついさっきまで私の心の中には、父やサトコが教えようとする課題よりももっと単純で差し迫った課題があった。
 ―母の憎しみの種に、母よりも高い価値を与えること。
 しかし、その課題のための一日が運んできた結果と、いまとなっては苦しく戦うしかなかった。
 私は橋の欄干から紙袋を暗い川面に差し出した。そうして、サトコの大きなからだを思い出しながら、そっと手を放した。浅い水を打つ音が聞こえた。
 帰り道がもどかしかった。父を訪ねた証拠の一つは捨ててしまった。百円銀貨の始末が問題だった。なぜだろう、階段の暗がりの中で見た実際の父の顔は、ひきだしの写真と重ならなかった。あのときの父の面差しには特長がまったくなかった。しゃがれた声と、暗くうつむいた目だけが思い出された。
 ―そうだ、裕次郎の映画を観て帰ろう。残ったお金はメンコの抽斗に隠しておいて、貸本と支那そばにぜんぶ使ってしまおう。きょうからはとうちゃんのことを、秘密の思い出として記憶の宝箱に閉じこめてしまうのだ。もうかあちゃんではない人のことを考えながら、まじめ腐って悲しんだりする遊びは許されないのだ。
 保土谷日活の青みがかったネオンが見えてきた。私は走っていった。息を切らしながら看板を見上げると、裕次郎の顔はさっき見たときよりもずっと溌溂とした、天真爛漫な表情を浮かべていた。呼吸を整えて切符売場の前に立った。指でポケット探ると、空しい穴に突き当たった。鳳凰の銀貨はなくなっていた。
 それを掌に載せたときに、一瞬触れた父の手のぬくもりを思い出した。私は胸を締めつけられるような思いで、売場の前を離れた。
 灯りを落とした浅間下の商店街を歩いていった。三ツ沢の坂下から左へ折れると、砂利道の向こうに宮谷小学校の正門の常夜灯が点っていた。髪を上げた特徴のある輪郭が灯りをよぎって、こちらの道の暗がりに溶けこんでくる。シルエットが私に気づいて立ち止まり、何かを待つように動かなくなった。やがてゆっくり私のほうへ近づいてきた。
「どこへいってたの」
 問題の核心に触れようとする息づかいが顔に触れた。
「映画……」
「嘘言いなさい。映画ならこんなに早く帰ってくるはずないじゃないの。とうちゃんのとこだろ。手紙は置いてないし、こりゃ映画じゃない、てっきりあいつが連れ出すかなにかして―」
「ちがうよ」
「……自分から会いにいったのかい」
 私は小さくうなずいた。歩きはじめると、母が並びかけてきた。私は少し道の肩に寄った。息苦しい沈黙があって、砂利を踏む母の足音に悲しみがこもった。
「そう……。元気だったかい、とうちゃん」
「女の人しかいなかった」
 私は嘘をついた。母の足音がますますこまやかになった。
「かあちゃんより大きくてね、太ってて。……お金くれようとしたけど、いらないって言ったら、すぐ帰りなさいって。ぼくの苗字は、もうすぐ変わるからって」
 お腹がすいた、と言いかけて、私は口をつぐんだ。ひどくわざとらしいと思ったし、母が泣いているようだったからだ。
「ほんとによかった。連れてかれて、もう、これっきり戻ってこないんじゃないかと思ったよ。でも、親権はかあちゃんにあるんだし、そんなことになったら、ただじゃおかなかったけどね」
 私は、シンケンという言葉を口にするときの母の毅然とした顔を見上げて、わざと明るくうなずいた。
 常夜灯の前を通りかかるとき、母の影法師と私のそれが並んだ。さっきまで心の片隅に捉えていた母の小さなかたちが、水っぽい光に拡げられ、すっぽり私を包みこんだ。


         十七

 一万円札が発行され、チキンラーメンが出回り、南極基地に置き去りにされたタローとジローが生きていたとか、日本人がミスユニバースになったとか、そんな世間のざわめきとは何の関係もなく、私たち母子の生活はきのうと変わらなかった。
 四年生なった四月、皇太子殿下と正田美智子という人が結婚し、馬車で街中をパレードするのを支那そば屋のテレビで観た。史上初の平民出身の皇太子妃、とアナウンサーが言っていた。平民出身の意味がわからなかった。ミッチーブームとみんなが言ったけれど、何のブームなのかもわからなかった。その話を母にすると、
「神がかりみたいにきれいな人だね」
 ひび割れた姿見を覗きこみながらため息をついた。母の目尻にこのごろ皺が増えた。そのことを彼女はひどく気にしているようだ。
 いつだったか、隣部屋のおばさんが貸してくれた雑誌に、島津なんとかと婚約した皇女貴子という女性の写真が大きく載っていて、私はその厚い下唇がとても気に入り、画用紙にスケッチして枕もとの壁に貼っておいた。それをあらためて眺めながら、正田美智子よりもやっぱりきれいだと思った。
         †  
 しとしと雨が降りつづくころ、野辺地の善夫から米粒のようにこまかいペン字の手紙が届いた。もちろん母は読み聞かせてなどくれないので、彼女のいないときに封筒から引き出して読んだ。

 スミ姉、その後いかがお過ごしですか。親子つつがなく暮らしていることと察します。おととし遊びにきたとき二年生だった郷は、いまはもう四年生ですね。少し引いたところのある子なので、兄のわたくしとしては、ときどき彼の社会生活を不安に思うことがあります。義一は、いっとき田名部の善太郎兄に引き取られていましたが、逃げ戻ってきて、いまでは殊勝に家の手伝いなどして、心健やかに暮らしています。そうなるとやはり気にかかるのは、スミ姉たち親子のこと、父母も二人のことをいつも心配しております。
 わたくし、この春、野辺地高校を卒業し、弘前大学を受けるも不合格。知り合いの紹介で、八戸の書店でアルバイトをしながら、三カ月ほどかけて五、六社の追募試験を受けまくりました。二社合格し、最終的に愛知県豊田市のトヨタ自動車に秋期就職することに決めました。豊田市は名古屋市郊外の新設都市で、新たな出発をするには最適の土地と考えます。いわゆるオートメーション工場の現場勤務ですが、張り切って働く所存です。しばらく名古屋市昭和区の英夫兄のところに居候してから、豊田市に向かいます。取り急ぎ報告まで。

 英夫兄さん一家はもう青梅にはおらず、いまは名古屋という都会にいることがわかった。
 その夜、とぼけて母に尋いた。
「善夫の手紙になんて書いてあったの?」
「高校出て、トヨタ自動車に就職したって。三千円、祝い金を送ってやった」
「ふうん。その会社はどこにあるの?」
「豊田市。名古屋のそばだよ。英夫が名古屋にいるから、しばらく居候するって」
「郁子や法子も、名古屋にいるの?」
「今年の春、一家で移ったみたいだね」
「カズや善司のこと書いてなかった?」
「義一は合船場に戻ったって。おまえより二つ上だから、まだ六年生だね。中学出たら善夫みたいに都会に出て働くんじゃないの。善司のことは書いてなかった。あの子は正真正銘の変人。ストレートで岩大(がんだい)に受かったのに、自分の頭のレベルを試したかっただけだなんてわけのわからないこと言って、山形のバス会社に勤めちゃったんだよ。君子が学費を出してやるって言ったんだけど、耳貸そうとしなくてね。いったい、何考えてんだか」
 夜、福原さんの家に夕食に呼ばれて、巨人阪神戦を観た。この試合を天皇皇后両陛下がごらんになっています、とアナウンサーが興奮した声で言っている。野球など好まない母は、早々に腰を上げて、ぐずる私を促した。
 翌日学校で、さぶちゃんから、長嶋がサヨナラホームランを打ったと聞いた。母のせいでその場面を見られなかったのが残念だった。
 
「長嶋と坂崎が五回裏に連続ホームランを打ったところまでは観てたんだけど」
「すごかったぜ。三宅のヒットと藤本のソロで逆転されたけど、すぐに王のツーランで同点。もうすぐ天皇陛下が帰っちゃうっていうぎりぎりのとこで、長嶋が村山からレフト上段に叩きこんだんだ」
「すごすぎるね」
「だろ? キョウちゃんもきっと、いつかプロ野球選手になって、長嶋みたいにホームランを打つんだね」
「そうなれるかなあ」
「なれるさ。天才しかなれないっていつか言ったろう? あんなにすごいバッティングできるやつなんかいないぜ。うんと練習して、野球の名門高校に入って、スカウトされればいいんだよ。契約金、何千万だぜ」
 夏休みに入ったころ、さぶちゃんは私をソフトボール部に正式に入るよう誘った。すぐに入部した私は、最初、サーちゃんたちとやったときと同じように九番を打たされ、五打席で四本のホームランを打った。監督の高辻先生が仰天し、帰りぎわに、
「やっぱりきみは天才だな」
 と言って、ふざけた調子で私の腹にパンチを入れた。まともにみぞおちに食らって少し痛かったけれど、私はうれしくて、ただ笑っていた。
 私はそれから夏のクラス対抗トーナメント大会に出場し、四番を打たされた。打撃成績は、十八打数十七安打、十一ホームランで、もちろん私のクラスは優勝した。打ちそこないの一本は、ライトライナーだった。
         †
 伊勢湾台風がやってくる一月ほど前、
「もう、かあちゃん、横浜にいたくないよ」
 と母が言った。夏休みの宿題帳に顔を埋めていた私はなんとも応えなかった。でもこの四年間を思い返して、横浜を去りたい母の気持ちは痛いほどわかった。
「英夫に手紙を書いたら、名古屋で働いたらどうかって言ってきてね。いつまでもボルト洗いなんかしてられないもの」
 私にしても、いまでもときどきター坊やテルちゃんが、物陰から執念深い眼で見ているのに気づいたりするとうんざりする。サーちゃんの店に近づけなくなって以来、浅間下の商店街までわざわざお使いにいかなければならなくなったし、たまに風呂屋でサーちゃんの一家と顔を合わせるのも心苦しかった。もちろん青木小学校の仲間たちには未練があったけれど、いじめっ子のいない土地へいけるのは魅力的だった。
「かあちゃんは、名古屋にいきたいの?」
「おまえさえよければね」
「ぼくもあんまり、ここにいたくないな」
「だよねェ、いやなことばかりだものねえ。今度も炊事婦(おさんどん)だけど、慣れた仕事だし、気楽にできるからね。大きな浄水場の工事が立つんだってさ。五年は働けるって、英夫が言ってたよ」
「向こうへいったら、ぼくの苗字、変わる?」
「おまえの好きにすればいいよ」
「神無月郷、佐藤郷、カンナヅキキョウ、サトウキョウ……。やっぱり、いまのままがいいなあ」
「そう。じゃ、そうしなさい。いつだって変えられるんだから」
 母は鷹揚に笑った。
「映画観にいこう。いつもおまえがいく映画館に」
「うん!」
 保土ヶ谷日活までゆっくり歩いていった。石原裕次郎の『陽のあたる坂道』がかかっていた。満員で、しばらくロビーで待ったあと、壁ぎわの通路に立って三時間半の映画を観た。いつもの裕次郎らしさがなく、主題歌もないのでひどく退屈だった。母はかすかに微笑んだりして真剣に観ていた。私はこれが横浜で最後の映画になると思い、裕次郎の姿をシッカリ目に焼きつけた。
 
         †
 二学期早々、運動会があり、全員が徒競走に参加させられた。私は去年と同様四着だった。クラスに内田由紀子という少し痩せ型の女の子がいて、男女混合五十メートル競走に出場して、断然トップでテープを切った。胸を張り、爪先を伸ばして、ひとりだけみんなとちがった弾むような走り方をしていた。
 このあいだ彼女と放課後の週番がいっしょになり、校舎裏の便所掃除をした。コンクリートの小便溜めにブラシをかけ、外周りを竹箒で掃く。汲み取り口のそばの潅木の茂みにゴミが吹きだまっているゴミは特に丁寧に取る。
 そのとき内田由紀子が、汲み取り蓋のそばの土に埋まった笛を発見した。彼女はそれを小枝でほじくり出し、水道の水で洗った。グリコのおまけのようなセルロイドの小笛だった。彼女は口を当ててピーと吹いた。不潔な女だな、と思った。
「神無月くんにあげる」
 彼女はその笛を私に差し出した。少し腰が引けた。
「吹いてみて」
 たじろぐ気持ちを顔に出さずに、私はかすかに唇を接するようにして吹いた。
「ちゃんと吹いて」
 しっかりくわえて吹きなおした。彼女は首をかしげ、一重まぶたを細めて愛しいものを見る眼つきをした。やせた頬に薄っすらとそばかすが浮いている。上品な目鼻立ちだけれども、好みの顔ではなかった。
「うちにこない?」
 掃除道具を物置小屋にしまうとき、内田由紀子は私を誘った。
「いいよ」
 ごはんの支度が気にかかったけれども、ついていくことにした。一日ぐらいサボっても、このごろ機嫌のいい母は許してくれるだろう。
 青木小学校から線路沿いを反町へ下り、ガードをくぐってから、前川くんの写真館のある泉町へ折れずに、道幅の広い松本町へ真っすぐ歩いていった。泉町へ左折すれば、ときどき気まぐれに選ぶ帰り道だった。内田由紀子は広い国道の途中から高台の方へ石段を登っていった。
「きみの家も高いところにあるのか。金持ちなんだね」
「……金持ちというほどじゃないけど」
「金持ちは好きじゃない。でも、内田さんは気取ってないからいいや」
「気取ってるって?」
「ツンと威張ってるんだ。お金と関係なく気取ってる人はいるけど、でもやっぱり気取ってる人は金持ちのほうが多い。一年生のときに住んでた高島台の人たちがそうだった」
「ツンと威張ってるって、顔つきのこと?」
「それもある。でも、それだけじゃないな。うまく言えないけど、自分が人よりすぐれた人間だと思うせいで、人を見下してる感じ。それとも、自分はおまえを見下してるんだって人に知らせようとする感じ。自分を他人となんか比べないで、ほんとに人を見下してる人は、気取ってるように見えない。そんな気持ちを人に知らせないからね。だから、もっと堂々として怖い感じがする」
「うわあ、難しい! でも、それって神無月くんじゃないの。私を見下してる?」
「ぼくは人を見下さない。好きか嫌いかだ」
 階段のいただきに、芝の庭に揺り椅子を置いた小ぎれいな平屋の家があった。やさしそうな家族に紹介され、おとなしい弟の野球盤に付き合い、一家で近所の公園を散歩したあと、夕飯を振舞われた。何を食べているのかわからないほど、味が薄かった。ひろゆきちゃんの家のときと同様、一膳のめしでやめた。
 紹介から夕飯までの間、私はだれにも語りかけられなかったので、こちらからも一言も話しかけなかった。内田由紀子さえ話しかけてこなかった。彼女は父親や母親と何かを話し、笑い合いながら歩き、食べ、私のことを話題にしなかった。何のために内田由紀子が私を誘ったのかわからなかった。
 夕飯のあとで、紅茶というものを初めて飲んだ。うまいものではなかった。


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