二十二 

「聞きしにまさる男だね、神無月は。くどいようだが、勉強でも一番取ってくれよ。取れるんだから」
 背の低い相馬が私を振り仰ぎながら言う。
「先生、その話は夏の大会が終わってからにしましょう。いまは、六試合でホームランを何本打てるかしか頭にありませんから。でも、一年生のあいだに一回は一番を取ると約束します。勉強は向いてないので、たいへんなんですよ」
「そりゃねえべ。神無月は勉強もすげって聞いてら」
 野球部一の秀才の瀬川が言う。今西が、
「野球、勉強、それに女。スーパーマンだべせ。ネット裏に、またあのきれいだ女がいだじゃ。神無月の練習を見にきてた女よ。次の試合にもかならずいるべおん」
 相馬が、
「私も見た。人形みたいだった。神無月、とぼけないで教えろ。だれだ、あいつは」
 私は今回も、塩と胡椒のように仲のよいチームメイトたちにシラを切った。
「ほんとに知らないんですよ。きっと、青高の近所のファンでしょう。三塁側にいたきれいな女の子は、下宿の娘さんです」
 阿部がその話は無視して、
「おめの言うとおり、あと五試合やる可能性が出できたな。決勝はまぢがいなぐ東奥義塾だべ」
 気の早いことを言う。
「青高新聞もたいへんだども、一般の新聞もあしたはうるせべなあ。なんせ、四年ぶりの二回戦進出だ」
 藤沢が言った。
「でも、阿部さんはもともと騒がれてたんでしょう。ぼくはその噂に惹かれて金網から見てたんですから」
「中学までな。青高さきたら、注目されなぐなった。勉強して野球してだば、オーラみてなものが消えてまるんだ」
 一筋の道で有名になろうとする人間しか、世間は引き上げてくれない。それがこの世の仕組みだ。彼はこのまま消えていくだろう。
「……神無月、おめは別だど。進学を希望しねかぎり、二年生ぐれからプロの誘いがどんどんくる。したども、こねだのおめの話だば、断らねばなんねな」
 相馬がうなずき、
「西沢先生もここまで神無月の事情が複雑だと思わなかったと嘆いてたよ。結論は、神無月は文武完全両道だから、放っておこうということになった」
 三上が私の尻に回し蹴りを食らわせ、
「東大でもプロでもかまわねすけ、おらんどを勝たせろじゃ」
 そんだ、そんだ、とほかの連中も背中を叩いたり、横腹にこぶしを入れたりした。
「阿部、青森西はよく知ってるんだろう」
 相馬の問いかけに、
「弱いす。ふつうにやればコールドす。ピッチャーの球が遅げいども、大振りしたらまいね。長打は神無月だげにまがして、オラんどはこつこつ叩いていぎます。いいな、おめんど!」
「ウィース!」
 意気揚々と裏門に凱旋する。四時に近い。コールドゲームは時間がかかる。
「よーし、あしたからまた練習だ。何時間もやりすぎないようにしろよ。十六日はここに十二時集合。新聞記者やテレビがきてもへらへらするんじゃないぞ。とにかく一回戦突破おめでとう」
「オェース!」
 相馬は白亜の校舎へ戻っていった。みんなばらばらと解散した。私はなぜかひどく疲れていた。こんな疲れている日に訪ねたら、きっとカズちゃんは叱るだろうと思って、真っすぐ花園町へ帰った。
         † 
 夕食は赤飯だった。もっぱら主人が口をきわめて私を褒めるのを、みんなにこにこ聞いていた。赤井は要領を得ない顔で、ただニヤついていた。主人が、
「ベンチ上にはプロや社会人や大学のスカウト席もありましてね、神無月くんが打ったり守ったりするたンびに、しきりに手帳やノートに書きこんでましたよ。どんです? スカウトが騒ぐようになったら、プロさいぎますか」
「無理ですね。風まかせでも無理でしょう。ホームランを何本打っても関係ない。アマからプロになるには時間がかかります」
 主人はうなずき、
「そういう段階的な問題は神無月さんにはないと思うけんどね……。ひどい親もいるもんだでば。中商の誘いを断るなんてなあ。ばって、プロに誘われたとなったら別物だ。さすがに反対はでぎねべおん」
「表立って反対はしなくても、陰に回っての妨害ということがありますから。なにせ、母はスポーツ選手をノータリンだと思ってるんで。……ぼくはプロを拒否しているんじゃなくて、しばらく辞退してるんです。……ぼくは根本的に自由じゃない。スポーツのタイトルなど、自由がなければ何の意味もないですよ」
 奥さんが、
「かわいそうに。好きなように生きられないなんてねェ」
 ミヨちゃんが涙ぐみ、
「そういうのって、どうにかならないんですか」
「あのスミちゃんが……。自分もスポーツ選手だったのに。スキーの大回転で、国体の二位だったんですよ」
「幼いころ祖父から聞いたことがあります。母はあるときスポーツという目的に飽きたんでしょう。動物にも植物にも、それを育てる太陽にも目的があります。人間にもある。目的に飽きたらもう人間でなくなる。ぼくの目的は、野球で自分も人びとも慰め助けることです。だいじょうぶですよ。ぼくは野球に飽きることはぜったいないし、ぼくには野球しかないですからね。なんとしてもプロへいきます」
 どれほど哲学が立派でも、要は結果だ。赤井が、
「そたらに神無月くんの野球はすごいのが」
 赤井を睨みつけるように主人が、
「度肝を抜く名選手だよ。四ホームラン。一本は場外、一本はバックスクリーン。観客は神無月くんのことを知らなかったみたいで、とにかく大騒ぎだったな」
 そう言って、新聞の試合日程を見ながら、
「二回戦から満員になりますよ。十六日か。たしか青森西だね。またコールドだべ。観なくてよしと。この先、役所を休めるのは、十七日の土曜日の三回戦だげだな。三回戦突破すれば、準々決勝は二十日が。それは観にいげねな。準決勝は二十一日、決勝は二十三日が。ぜんぶいげねじゃ。よし、二十一日と二十三日は休むべ」
 奥さんが胸の前で手を叩いた。
「そうしましょ!」
 ミヨちゃんの目がきらきら光った。
「私はぜんぶ観にいく。いいでしょ。どうせもうすぐ夏休みだから」
「いげ、いげ。歴史の目撃者だ。学校の授業と比べものになんね」
 赤井は、そっと席を立った。私は奥さんに背番号7のミシン掛けを頼んだ。
         †
 翌朝七時過ぎにジョギングから戻ると一家がガヤガヤやっている。赤井もまだ登校しないで騒ぎの仲間に加わっている。主人に東奥日報を見せられた。スポーツ欄に黒地に白抜きの大見出しが躍っていた。
「とにかく読んでけへ」

   
県大会史上初一試合四ホーマー!
    
怪物出現 青高五年ぶり甲子園なるか    
   
 青森高校一年生スラッガー十得点叩き出す。とんでもないやつが現れた! 
 ライトブルーの旋風。まさに完勝だった。一回、三番阿部のレフト上段に打ちこむスリーランで先制すると、四番神無月、六番神山がそれぞれ、ライト場外、レフト前段へソロホームラン。さらに三回、五回には、神無月がライト最上段へ二号スリーラン、レフト中段へ三号ツーランと立てつづけ。これで十点。六回には、送りバントと適時打、スクイズなどで二点を追加、とどめは神無月のセンタースコアボードに打ち当てるスリーラン。七回には三年生一枝のソロホームランのおまけまでつけた。これに対して、大湊は六回裏の四番花山のツーランホームラン一本にとどまった。
 打ち勝ったことは事実だが、緻密さも発揮しての圧勝だった。打力で圧倒し、小技で揺すぶり、相手に休む暇を与えず、もちろんつけ入る隙も見せず。そして気がつけば大差をつけてしまっている。七回コールド、十六対二はそんな戦いぶりの結果だった。
 花山のツーランのみで敗れた大湊高校。二回に野間がデッドボールで出塁しただけでほかに一本のヒットも打てなかった。時田、白川、守屋とタイプの異なる三投手を繰り出され、ボールに慣れる機会を与えられなかった。それ以前に、長い守備時間にバッティングへの集中力を削がれてしまったのかもしれない。
 大湊石村投手のデキは悪くはなかった。右腕力投型。気合とともに投げこむボールは低目に集まっていた。そこから落ちるカーブのコントロールもよかった。そのカーブで五回に三番阿部を三振に打ち取ったときには、ネット裏に感嘆の声が漏れたのだ。初回の阿部への顔の高さのボールは失投ではなかった。阿部の技ありだ。さらに低目に集めたボールをことごとく神無月に打たれた。すべて失投ではない。低目の鬼神無月。相手が悪すぎた。
 怪物出現。六打数六安打、第一打席ライト場外へソロホームラン、第二打席ライト最上段へ二号スリーラン、第三打席センターオーバーの三塁打、第四打席レフト中段へ三号ツーラン、第五打席ライト前へ適時打、第六打席、相馬監督に、もう一発打ってこいと送り出された。そして打った。スコアボードへ四号スリーラン。一人で十打点を叩き出した。
 神無月は個人記録に興味がなさそうに見える。一本ツーベースが出ればサイクルヒット達成という状況で、初球を一振り、打球はスコアボードに突き刺さった。サイクルヒットなど眼中にない。ひたすらチャンスボールは見逃さない打撃の神だ。初戦にして四ホーマー。打率十割。前評判の高かった大湊打線を二点に押さえこんだ三人の投手陣の快投の影が薄くなった。とは言え、待望の三本柱誕生は喜ばしいできごとだ。それもしっかりと記者の目に焼きつけられた。
 夏の聖地を目標に、一戦一戦、目の前の敵を全力で叩き潰す。それが新生青森高校の今年のスローガンのようだ。この怪物を擁する強力打線の壁を打ち破るチームが現れるだろうか。
 青森県の代表決定戦は、七月二十三日、青森高校が勝ち残れば、きょうと同じ青森市営球場で行なわれる。


「空騒ぎは信じないので―。これ、洗濯お願いします」
 式台でジャージとシャツを丸めて奥さんに渡し、タオルを絞ってもらう。ミヨちゃんと二人で二本のタオルを持ってきた。パンツ一丁でからだを拭く。奥さんは胸もとをしみじみ見つめ、ミヨちゃんは顔を逸らす。居間から首を伸ばした主人が、
「立派なからだになってきたなあ。身長も少し伸びたかな」
「はあ、まだまだです」
 三畳で学生服を着て居間に出ていく。赤井がまだ登校しないで新聞を見ている。主人が覗きこむ。赤井がボソリと呟いた。
「神無月くん、すげじゃ」
 主人が赤井から新聞を受け取って切り抜き、真新しいアルバムに挿した。奥さんとミヨちゃんが身を乗り出してアルバムを見た。赤井はあわててめしを掻きこんだ。
「読んで聞かせろじゃ」
 サングラスが言う。主人が読みあげた。赤井が箸を置き、マンズすげな、ともう一度呟いた。それから、学生服の上から私の二の腕をぎゅっと握った。
「かで!」
 ミヨちゃんも両手で握った。奥さんは、背番号7にミシン掛けをしたユニフォームを満面の笑みを浮かべながら差し出した。
「ありがとうございます」
 ミヨちゃんが、感に堪えない表情で背番号7を撫ぜた。


         二十三

 朝から教室は大騒ぎだった。女生徒たちがノートを持ってサインを求めに押し寄せてきた。中に木谷がいた。男はだれもこなかった。不細工な楷書で名前を書いた。木谷は明るく笑って言った。
「男がこねのは嫉妬せ、嫉妬。気にしねで」
 放課後、廊下に期末試験の結果が掲示された。首席だった。英語百、現国百、古文八十三、漢文九十五、数学六十九(それでも二番だった)、生物九十一、地学九十八、地理八十八(今回も一番だった)。総点で二位の梅田を二十点離した。もうこれでいい。面目は立った。あさっての二回戦から、思い切り野球に打ちこめる。
 廊下を通りかかった西沢に教務室へ呼ばれた。
「ダンディくん、シャッポ脱いだよ。まいりました。相馬さんも満足してた。これからは好きにやんなさい。黙って見ていて安心な男だとわかった。八科目中五科目トップか。まるでおとといのホームランだな。数学の一番は見てのとおり奥田だったよ。二十一日の準決勝からは応援にいくからね。ほとんどの先生がたが応援にいくと思うよ」
「勉強は、常に五十番以内を目指します」
「ああ、何番でもいいよ。もう何も言わない」
 グランドではレギュラー全員がゴルフスィングの練習をしていた。相馬が叫んだ。
「ようし、神無月がきたぞ! レギュラーは一本ずつ打って走れ。準レギュラーは守備につけ。補欠はファールグランドに六人、残りは金網の外へいけ。レギュラーは凡ゴロでも全力疾走で一周してこい。目標ベストフォー!」
「チェストー!」
 レギュラーのシートバッティングが十逡し、準レギュラーが五逡して、阿部のノックで合同の守備練習に入った。肩の力が増したみんなは溌溂としていた。ベーランは全員二塁まで走って滑りこんだ。
 練習の帰りにカズちゃんの家に寄った。私は、アイロンがけした無番のユニフォームを受け取り、きのうの背番号7のユニフォームを預けた。もう一着の背番号7は試合用として部室に置いてきた。
「胸がスカッとしたわ。ほんとうのキョウちゃんを見てもらえて、もう青森の仕事は終わったって感じ。私の周りにたくさん専門家みたいな人たちがいて、顔寄せ合いながらメモ取ってた」
「……押美さんが風の噂で聞いて、中商に引き抜きにきてくれればいいけど。でも、そうなったら、おふくろが暗躍するな」
「腰を据えて、先のことを考えずにがんばりましょう」
「うん」
         †     
 翌日、母から手紙がきた。健康と勉強の進み具合を尋ねる形ばかりの挨拶のあと、次のように書いてあった。

 最近ようやく心持ちが落ち着きましたよ。いまでは、おまえの気持ちがわからないでもありません。西松の人たちもあのとき、それはおまえをかばって、私に転校を思いとどまるように言ってくれたのです。私も依怙地にすぎました。いまさらながら後悔しております。これからは、できるだけおまえの望む母親像に近づくことができたらいいと願っております。私なりに失地回復の心地ですよ。
 浅野先生が寺田さんをおまえに会わせたいそうです。日時は、七月三十一日土曜日のお昼です。木曜の夜行できて土曜の夜行で帰ればいいでしょう。おまえと一夕すごせるほどの暇は私にはありません。とんぼ返りのようでおまえには気の毒ですが、一応往復の旅費として一万円を同封しますから、それで帰ってきてください。名古屋駅に着いたら、タクシーに乗って、岩塚町の飛島建設と言えば連れてきてくれますよ。
  郷殿                            母より


 これを最後に、後腐れをなくしたいという母と浅野の意図が強くにおった。母はそれ以上の説明をせず、皮肉なコメントもつけ加えていなかった。私は黙然とその手紙を読んだ。康男への強い思慕が立ち返ってきた。私も、嘘くさいハガキを書いた。

 前略。もう寺田には関心がなくなったので、あまり気は進みませんが、この機会にきちんと会って、気持ちのけじめをつけたいと思います。母上へ 郷

 母は私に嘘をつかせる人間だった。嘘をつくことで、彼女との人間関係の均衡をとることができていると言ってよかった。康男を慕い、愛することは、母から長く禁じられてきたことだ。観察したり、考えたり、判断したりできない人間は、世間相場に照らして禁令を発布する。私のような相場を持たない馬鹿は、自分の掟に反する禁制を布(し)かれたら、〈正気〉を取り戻して、自力で打破しなければならない。
 人間として正しいと信じることを重く考え、世間の判断に惑わされない習慣―相場を持った人たちにとっては、そういう習慣は許しがたい罪悪なのだ。相場に反することはすべて、彼らを傷つけ、苛立てる。私が生み出されて、迷いこんだこの情けない世界では、自前の相場を持つことはけっして認められない。認めるための直観を彼らが持っていないからだ。
 康男の消息が気がかりだ。ワカの勧めを入れて高校へ進んだ可能性はかぎりなく低いだろう。幼いころからヤクザになることを夢見た男だったから。
 私はよく康男について回ったものだった。いつしか磁石の両極のように吸い寄せられ、親友であることを喜びながらいっしょに夜道を歩き、ときに悪い遊びをした。
 彼には人間として際立った美点がいくつかあった。彼の近くにいていつも思ったのは、まず、彼が人を遠ざけないということだった。いつもだれかといっしょにいた。彼はだれも嫌悪しなかった。人に共感し、人を喜ばせる術を持っていた。重要なことだが、彼が他人を思いやるのは、私に対してばかりではなかった。
 彼の最大の美点は、危険を恐れない勇ましい心があったということだ。貧乏で、名誉もなく、孤立した生きづらい環境の中で、あの姿勢、あの個性を貫くことは苦しかったはずだ。―思い出の中にいつも彼がいる。人生のほんの一部でも、彼といっしょにすごせたことがうれしく、誉れに思う。

 夕食のときもずっと康男のことを考えていた。
「どうしたんですか、神無月さん、食欲ないんですか」
 奥さんの言葉に、ミヨちゃんも心配そうに覗きこむ。私は箸を動かしながら、大げさにならないように注意しながら、寺田康男との出会いから別れまでを手短に話した。
「その先生の罪滅ぼしの気持ちからでねが」
 赤井が言った。ミヨちゃんが、
「わざわざ二人を呼ばなくてもいいのに。寺田さんにだって神無月さんにだって都合があるんだから。神無月さん宛てに、その寺田さんに自分の消息を知らせる手紙を書かせるだけで、じゅうぶんじゃないかしら」
「それとも、ぼくに彼の住所を教えて手紙を書かせるか……」
 主人が、
「それがネックなんだべね。住所を知らせて、連絡を取り合う結果にしたくねんだな。目の前で検閲でぎねはんでな。検閲だよ、検閲。根性の曲がったふとたちだ。神無月くんはどうしたいですか?」
「野球の日程をすべて終えたら、いってくるつもりです。検閲を受けながらでも、何か将来へつながる交友のヒントが見つかるかもしれませんから」
 奥さんがまぶたを拭った。ミヨちゃんも涙を浮かべながら、母親の手を握った。
 二日つづけてカズちゃんのところに寄った。そして、母の手紙のことを言い、いっしょに名古屋へいかないかと誘った。
「もちろん、いくわ! 大将さん、元気かしら。ぜんぶあのいけ好かない男の演出ね。大将さんがそんなドラマじみたことを望むはずがないもの。じゃ、三十日はお母さんのところに泊まるのね。三十一日から三日ぐらいゆっくりしましょう。ホテルをとって。私の実家にもチラッと顔を出してもらおうっと。だいじょうぶよ、気が置けない人たちだから」
「あしたは二回戦だ。応援にきてくれる?」
「はい、午後二時試合開始ね。これから先の試合もずっと同じ場所で観てます」
         †
 青森西戦十一対零コールド、七戸高校戦十三対一コールドと勝ち進み、二十日の準々決勝になった。相手は八戸高専。強豪という噂だが、開校三年目で実績はない。これに勝てば、ベストフォーだ。まだ夏休みではないので、正規の授業は行なわれているけれども、試合のある日はサボっても出席扱いされる。いい気になって甘えている。来年は、午後から試合があるときは、午前の授業には出るようにしよう。部室にいきダッフルにヘルメットを詰める。バットケースにタイガーバットを二本。
 十時試合開始なので、八時半にチーム全員青高のグランドを出る。九時に合浦公園に着いた。
 ジャンケンに勝っても負けても先攻になる。きょうは一塁側ベンチだ。そのベンチで阿部が言った。
「初めて左ピッチャーに当たるど。上からドロンとくるカーブだ。飛ばね。なしてもゴロになる。いままでみてに掬い上げろ」
 すべてコールドゲームでベストエイトに残ったとあって、青高内外は騒然となっていた。四本、二本、二本と打ちつづけた私の八本のホームランは、青森県のシーズン記録を三本超えて新記録を樹立し、どこまで伸びるかが人びとの興味の的だった。
 青高グランドにも新聞記者やカメラマンが押しかけ、ストロボやフラッシュを焚きまくったが、私たちはこの二日間、カメラの寄ってくるバッティング練習を中止して、黙々と守備練習とランニングをした。それでもあまりにうるさくまとわりつくので、阿部がインタビューを買って出た。
「神無月のワンマンチームみてに言われてるけんど、そんでね。神無月は謙虚な男で、いっつも目立たねようにしてるし、指揮権なんがもふるったことね。自分で率先して練習して、オラんどに模範を示してるだげだ。オラんどが勝手に刺激受げでるんです。神無月は青森高校野球部を助けるためにフラッとやってきた月光仮面みてなもんだ。そのうぢ、フッとハヤテのようにいなぐなるんでねがと心配です。小中学生のころは名古屋のホームラン王だったず。今度はどごさいぐんだが」
 インタビューアーが、
「そのとおりです。神無月選手は名古屋市の小中学校のホームラン記録保持者です。中三の秋に、とつぜん名古屋から姿を消したんですよ。誘いをかけた学校も、かけなかった学校も、等しく残念がったという話を伝え聞いています」
「とにかぐ、神無月はむがしのことは言いたがらねし、野球をやってるとぎ以外は黙ってるすけ、オラんどには謎のまんまだ。謎の美男子のスーパーマンだ。ハハハ……。ランニングのスタミナがねのが愛嬌だども、いや、最近スタミナついできたな、バッティングはまねでぎね。球に当てる瞬間の手首の動きが速すぎで、よく見えねんだ。バッティングは模範にならね男です。ちなみに神無月は、勉強も一番です」
 このインタビューは、翌日、つまりきょうの朝刊に、そっくりそのまま載った。もしカズちゃんに、野球をやりつづけましょうと励まされなかったら、たぶん青高のグランドにも姿を現すことがなかったし、八本のホームランを打つこともなかっただろう。いずれにせよ、マスコミの力のおかげで、きょうのスタンドはぎっしり満員だった。ベンチで満足げにふんぞり返って相馬が言った。
「私はもう何も望むことはないよ。自分が監督のときにベストエイトまで進む幸運にめぐり合えてよかった。阿部、今朝の新聞記事、すてきだったよ。神無月はこれまでの五本の記録を塗り替えて八本、阿部は三本、神山二本、一枝一本、藤沢一本、都合十五本のホームランをたった三試合で叩き出したんだ。神無月はまだ一年生だからスカウトは押しかけてこないが、来年以降たいへんなことになるだろうな。押しかけてもどうにもならないんだけどね。そういえば、阿部、明治からお誘いがあったらしいじゃないか」
「はい、電話がきたじゃ。ふつうに受験しても受がる大学でねし、ありがだくお受げしました。明治蹴って、浪人して、難しい国立さ進んでプラカラ野球をすんのもあべし、高校出て地元の会社さ就職してプラカラ野球すんのもあべし、どうせプロにならねオラんどみてなふつうの野球選手は、どうとでもなるべたって、心配なのは神無月の将来よ。野球するにはなんたかった東大さいがねばなんねべ。並の大学いったんでは、二十歳まで妨害されるんだべ。東大さ受がるのはラグでね。そのうぢほとほと疲れでしまって、面倒くさぐなって、勉強も野球もいまぐいがねぐなって、ドッと崩れるんでねがって。なんだが不吉な感じがしてよ。先生、天才ってやつは、うまぐいがねぐなると、ドッと崩れることが多いんだべ。……神無月がうまぐいぐよう、見守ってやってけろじゃ」
 私はボロリと涙をこぼした。みんなシュンとなり、私の肩に手を置いたり、腕を握ったりした。相馬は充血した目を私に向けた。
「神無月。きみはなにか人目に薄幸な感じがするんだろう。私も同じ気持ちだ。きみは人にせっせと運んできて、自分は何もほしがらないという雰囲気を持ってるからね。見守るなと言われても、どうしても見守りたくなる人間だ。そんな人間には、がんばって好きなように生きろと言うしかないんだよ。東大も、プロ野球も、私たち凡人が口出ししてもどうにもできないし、何の方針も与えられない。とにかく精いっぱいがんばってくれとしか言えない。何か転機がきたら、できるかぎりの手助けをさせてもらう。そのつもりでいるからね」
「……はい。全力を尽くします」
「こればっかしだ、神無月は」
 藤沢が私にヘッドロックをかけた。
「イグゼ、イグゼ、イグゼー!」
 神山が目をこすりながら叫んだ。今西も洟をすすり、
「神無月、またあの女がいるど! ホームラン見せでやれ」
「ようし、守備練習!」
 きょうの相馬は内野を重点的に微妙に逸れたノックをし、外野には一本ずつ、正確にライナーのワンバウンドを打った。阿部も今西も私もその一本を渾身の力でバックホームした。相馬はきっとかなりの野球経験者にちがいないと思った。


         二十四

 ベンチ前の円陣で私は言った。
「みなさん、きょうはホームランを狙ってくれませんか。その結果は三通りです。ホームラン、ヒット、アウト。ランナーが溜まったときも次の人がホームランで返そうとしてください。結果は三通りです。ホームラン、ヒット、アウト。この繰り返しで得点を重ねましょう。阿部さんの言ったとおり、アッパースイングをしてください。ヘッドアップせずに。ボールを最後まで見定めないとヘッドアップになります。時田さんは四試合目になるので、少し研究されてきたと思います。一試合ずつ、肩も疲労してきます。それでもあのナチュラルシュートはなかなか打てません。三振よりも、内野ゴロが多くなると思います。それが相馬先生のきのうのノックの意味です。守屋さんと白川さんは、七、八回の裏を投げるつもりで、肩を作っておいてください。きょうもコールドで勝ちましょう」
「オェース!」
 そのとおりの結果になった。六人が九本のホームランを打ち、十九対六で七回コールド勝ちをおさめた。私が三本、神山が二本、阿部、藤沢、一枝、非力な今西までが一本打った。六回に時田が打ちこまれて四点を奪われ、リリーフの守屋と白川が一点ずつ取られた。時田の肩を休めるために、準決勝はコントロールのいい白川が先発することになった。
 試合後はまるで決勝戦のあとのように、フラッシュとインタビューの嵐になった。相馬が引っ張り出され、阿部が引っ張り出された。私はベンチ裏に仲間といっしょに逃げこんだが、二、三人のテレビレポーターに捕まった。私は振り払うように言った。
「奇跡的にこの場にいられるのは、仲間たちの友情のおかげです。もし来年もこういうチャンスがあったら、自分の記録を塗り替えたいと思います」
 最終打席でレフトポールぎわにホームランを打ちこんだ今西にマイクが向けられ、
「この一本は一生の記念です。これまでは外野フライもログに打でながった。わたくた努力することでしか自分を変えられね。神無月に教わった」
「神無月選手は救いの神ですね」
「そたらもんでね。それ以上だ。みんな神無月の愛情を感じてら。神無月からあふれる純粋な愛情だ」
 二時間半の試合を終え、昼下がりの道をみんな寡黙に歩いた。涙を流している者が多かった。相馬も泣いていた。阿部が問いかけた。
「神無月、おめ、何者だ」
「ちょっと不運を経験した、幸運なセンチメンタリストです」
 きょう三本目のホームランを打ってホームインしたとき、胸を両手で抱えて真から幸福そうに笑ったカズちゃんの顔を思い浮かべた。
「不運で、幸運て……矛盾してねが」
「はい、矛盾のかたまりです。幸福のくせに悩み癖があるといったほうが正確かもしれません。愛情と友情に満たされているのに、なんだか悩ましいんです。悩んで生きるしかできないので、そのまま生きようと思ってます」
 相馬が笑いながら言った。
「神無月の言うことを理解しようと思うな。聞き流せ」
 相馬は、部員たちとこの新参者とでは経験と感覚があまりにもちがいすぎていることを、そして、この先どんなに年数を経ても、ほんのわずかでもこの男ほどの危険な魅力を持つことはできないことを、強く感じないわけにはいかなかった。秀才の藤沢が、
「神無月郷が何者か説明することはだァもでぎねよ。言葉では表現でぎね。感情と精神が到達したものだべ」
「イグゼー!」
 と神山が叫んだ。
「もう、こったらこど、人生で二度ねえべ。二度ねえことが、あしたもあるんでェ。なあ神無月、十年後、三十年後も、ンガに会えるがな」
「忘れないかぎり、会えます」
 瀬川が、青高健児! と張り上げた。上級生たちは一年生部員がうろ覚えのその歌を高らかに唄いはじめた。相馬も右手を振り上げて声を合わせた。
         † 
 翌二十一日の準決勝の相手は、驚いたことに野辺地高校と決まった。帰宅したとたんに赤井が知らせてくれた。
「赤井さん、野球に興味が出てきたんですか」
「こごまでンガが騒がれれば、気になるべせ。ラジオで聞いだ」
 一家で一人だけ応援にきて、いち早く帰宅して遅い昼食を用意していたミヨちゃんが、
「とにかく、ごはん、ごはん。お腹、ぺこぺこでしょう」
「オラも、待ってたんでェ。だれもいねんだもの。きょうで三度目だ」
「文句言わないの。結局は食べれるんだから。神無月さん、ごめんなさい、作る時間がなくて、お肉屋さんで買ってきちゃった。メンチとコロッケとポテトサラダ」
「大好物だ!」
「ワも!」
「おじさん、ごはんよォ、お待たせ」
 すぐにサングラスが出てきた。
「神無月くん、よぐやったでねが。ラジオ聞いでで、涙止まらなぐなってしまって。こったら目でも、涙は出るんで」
 冷めしが絶品だった。みんな二杯おかわりした。ミヨちゃんが後片づけに立つと、奥さんが帰ってきて、
「神無月さん、おめでとう!」
 と笑いかけ、有無を言わさず抱き締めた。ミヨちゃんが目を光らせた。あんぐり口を開けていた赤井が、
「おばさん、ワも頼むじゃ」
「だめよ、京大に受かったときにしてあげる」
 やがて主人が荒々しく玄関を開けて、居間にどしどし入ってくると、私と固く握手をした。
「神無月くん、不滅の十一本、おめでとう! じつは、役所に届を出して、ネット裏さ観にいったんだ。いま、もう一度戻って、残務整理してきた」
「なんだ、おとうさん、ずるい。私も近くで神無月さんを見たかった」
「私もですよ、抜け駆けなんかしちゃって」
「すまん、すまん、矢も楯もたまらなくなってよ。百七十五センチのからだのどごに、あったらパワーがあるんだろうね。あしたは一家で応援さいぐよ。奥山先生もくると連絡があった。野辺地高校か。たまげるような因縁だな」
「野辺地を忘れるなという意味だと思います。名古屋から戻ったら、一週間ぐらい祖父母の顔を見にいってきます」
「それはいいことね。お祖父さんお祖母さん、泣いて喜びますよ」
 赤井が、
「あしたがら夏休みだ。函館さ二週間いってくる。帰ってこいって、おふくろがうるせんだ」
「毎年、一度ぐらいは帰ってあげないとね」
 まさか、〈オヤジの女〉が帰ってこいと言っているのではないだろう。
「おばさん、下宿代半分回してください。旅費と小遣いだ」
「はいはい、承知してますよ。それも毎年のことですからね」
 赤井のことにはかまわず、主人が、
「どうせ勝ち進むんだべと思ったがら、八時にレストランの予約を取ってあるんず」
「レストランたら、三年間で初めてだっきゃ。贔屓だでば」
「歴史だよ。歴史達成のお祝いだ。こったらこどがしょっちゅうあったら破産するべ」
 ひさしぶりにテープレコーダーを回した。十歳から十五歳の日々。ついこのあいだのことなのに、遥かな時間の隔たりを感じる。愛に満ちていた人びと。にじり寄り、騒ぎ回り、大切な時間をかき乱した連中のせいで、幻になってしまった人びと。
 八時までこの一週間の数学と古文の復習をした。三角関数の公式が作られる手順の勉強が楽しかった。古文は砂を噛むように味気ない文法の勉強をした。勉強の合間にどうしてもカズちゃんのことを思い出す。名古屋にいても、野辺地にいても、青森にいてもまったくちがわない。常にカリスマ性があり、人を楽しませて微笑ませ、笑わせる。意識して人を和ませるわけではない。もののわからない人の前でときにエスカレートすることはあっても、すぐ独特のユーモアに紛らせる。そしてそれが常にカズちゃんなのだ。
 タクシーを二台呼んで、青森国際ホテルまでいった。一階レストランのテーブルに六つの顔が向かい合う。ミヨちゃんはサングラスの隣についた。隣に奥さんの顔。細かいところがミヨちゃんに似ていてハッとする。
「こういう正式なとごは、堅っ苦しぐてまいねな」
 赤井が主人に言う。サングラスが、
「フォークとスプーンで適当に食えばいいんだじゃ」
 ビールが出てきたので、
「ぼく、小四のときに親戚の叔父に初めてビールを飲まされました。後味のいい飲み物ですね」
 思っていることの逆を言った。
「それ、催促ですか? 未成年にはやらね」
「おじさん、オラ十八になったすけ、一杯ください」
「日本の成人は明治九年太政官布告以来九十年、二十歳だど」
「婚姻可能年齢、男十八、女十六、性行為同意年齢、男女とも十三歳」
「馬鹿なこど言わねんだ」
 主人は笑いながら赤井のグラスについでやった。
「赤井のグラスは、赤いグラスってが」
 おもしろくもない赤井のシャレに、みんな笑った。主人が、
「キャプテンのインタビュー記事、いがったなァ。ジンときた。あんなふうにみんなに愛されて神無月くんが野球をしてるとは知らねがった。神無月くんがどんな人間か見たくなって、あったらにお客さんがつめかげたんだおん。期待を裏切らねがった。神秘的で、輝いてだ。バットがブンと回って、ホームランが三本もスタンドさ飛びこんでった。そのたんびに、神無月くんが魔法みてにきらきら光るんだ」
 ミヨちゃんが野菜サラダにフォークを刺してサングラスに持たせる。オジサンは野菜を噛みしめながら、
「常に周りとちがってる。偉大になるために生まれたんだ」
 目が潤む。奥さんがミヨちゃんに目をやり、
「神無月さんはほんとに人とちがいますね。私もときどき、神無月さんをじっと見つめてしまうことがありますよ。……こう、人間離れしてて。ねえ、美代子」
「そう、胸がギューってなるの」
 主人が、
「もちろん外見も美しく生まれたんだろうが、しかし、神無月くんは内側から光ってるんだよ。内が伴わねと、外の美しさもくすんでしまる」
 赤井がうなずき、
「神無月は期末試験で全校の一番になったじゃ」
「私の言う内側というのは、そういうことでね。そたら内側なら、役所にいくらでもいるすけ」
 野菜サラダを食べているうちに、ビーフシチューとライスが出てきた。
「さ、食うべ。ここの〈めぇもん〉だ」
 カズちゃんは、私が魚肉以外は肉というものを好まないことを知っているので、まず料理のメニューに入れない。噛んでみた。くさみはないが気持ちが引ける。思い切って飲みこむ。
「おいしいですね」
「うめなあ」
 赤井が頬をふくらまし、ミヨちゃん母子もうなずき合っている。サングラスも上を向いてあごを動かしている。主人は得意そうにみんなを見回しながらナイフとフォークを使う。
「神無月くん、どした、ぼんやりしてしまって。きょうは疲れたんだべさ。さ、あしたの準決勝は一時からだ。デザート食ンべで、タクシーで帰るべ」 
 テーブルが片づくと、チョコレートパフェが出てきた。一度だけクマさんに平畑の喫茶店で食わせてもらったことがある。クマさんはうまそうに食う私の顔を見つめて笑い、曲がった鼻に皺を寄せた。甘物はサングラスのオジサンの大好物のようで、ミヨちゃんに長いスプーンを渡されるやいなや、悠然とひと匙ひと匙掻き取りながら、跡形なく底まで浚い切った。



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