二十五

 七月二十一日水曜日。薄曇。気温十九度。主人の新聞切抜きの行事。

  
怪物日々記録更新 ただいま十一本! 
   
野球の神降臨! 野辺地出身の天童野辺地高校と準決勝へ
 ここに私がいるのは友情の賜物。チームメイトを見やりながら怪物が微笑んだ。ここまで四試合、すべてコールド勝ち。初戦大湊戦十六対二、二回戦青森西戦十一対ゼロ、三回戦七戸戦十三対一、四回戦八戸高専戦十九対六。神無月のホームランはそれぞれの試合で、四本、二本、二本、三本。
 チーム全員で、まるで校庭のソフトボールみたいに、うれしそうに白球を弾き飛ばし、得点を叩き出す。奇妙なことにベンチはほとんど声を出さない。監督以下真剣な眼差しで試合を見守っている。ところが神無月の打席になると、みんなで声を振り絞る。盗塁はここまでゼロ。ひたすら打ちまくって、神無月の打順を待つ。神無月がホームランを打って戻ると、全員で抱きつく。神無月は慈母神のような微笑みで応える。
 五年前の甲子園大会出場以来、この四年間、予選一回戦ボーイの汚名に甘んじてきた県下第一の受験名門校青高(セイコ)の大変身だ。その核となっている神無月郷とは何者なのか。阿部主将は訥々と語る。
「神無月のワンマンチームのように言われていますが、そうではありません。神無月は謙虚な男で、いつも目立たないようにしてますし、指揮権などもふるったことはありません。ぼくたちが勝手に刺激を受けているんです。ある日、とつぜん、青森にフラッとやってきた月光仮面です。そのうち、フッといなくなるのではないかと心配です。小中学生のころは名古屋のホームラン王だったと聞いています。今度はどこにいくんでしょうか。とにかく、神無月はむかしのことは語りたがらないし、野球をやってるとき以外は寡黙ですから、ぼくたちには謎のままです。謎の美男子のスーパーマンというところですね。(高らかに笑い)ランニングのスタミナがないのが愛嬌ですが、バッティングはだれもまねできません。球に当てる瞬間の手首の動きが速すぎて、よく見えないんです。模範にならない男です。ちなみに神無月は、勉強も一番です」
 まことに神秘的である。月光仮面、スーパーマンとしか表現できないのだ。相馬監督いわく、
「神無月はこうして野球をやるまでに、苦難の谷を渡ってきました。どういう苦難だったかは、いずれ彼がプロ野球選手になったときに明らかとなるでしょう。一つだけ、いちばん小さな苦難を申し上げておきましょう。彼は左肘の手術の失敗から立ち直って、中学一年のときに刻苦して右投げに換えています。その余の精神的苦難は、人びとが推しても知ることができないでしょう。私は語りません。それは彼がプロ野球チームにめでたく入団するまで、これからもつづきます。彼がバッターボックスに立っているのは奇跡です。私たちは彼を抱き締めることしかできないんです」
 その推し量れない内容は、われわれ新聞人は愛知県のある専門筋から仄聞している。神無月の親族の意向に関わることなので、紙面にはつまびらかにしない。簡単に言うと、野球選手としての進路に多大な障害が横たわっているということだ。神無月の一打席一打席が奇跡だという所以である。


 十一時。グランドに集合したとたんに阿部が言った。
「神無月、野辺地だ!」
「はい!」
「めぼしいのはいるが? なんの噂もねど」
「野辺地高校に野球部があるということだけは、むかしから知ってました。叔父が野辺地高校の野球部員でしたから。きょうは、野辺地中学校の担任だった先生が観にくるそうです。いま下宿している大家さんの親戚なんですよ。彼の目の前で一本打ちたいなあ」
 一人だけ洗濯のきいたユニフォームを着た相馬が、
「きょうから夏休みだ。青高もほとんどの先生が観にくるぞ。七回には応援団がエール交換するらしい。一本と言わず、二本でも三本でも打ってくれ。準決勝からコールドがないのは知ってるな」
「はい。中学校と同じですね」
 相馬に率いられ、みんなきのうの泥まみれのユニフォームで歩きだす。白川が緊張した面持ちで歩きながら、道の両側で揺れる稲穂に目をやっている。
「白川、守屋、時田の順でいくからな。時田、肘と肩はだいじょうぶか」
「なんもよ。いつでもいげら」
「白川さん、直球を外のコースに投げておけば、まず打たれませんよ。引っ張れっこないんで、一、二塁間と二遊間を狭く守ればほとんど引っかかります。ヒットになるなら、ポテンです」
 阿部が、
「だば、外野は前進守備でオッケーだな。抜がれで点を取られだら、すぐ取り返してやるはんで、安心して投げろ」
 相馬が、
「交代の目安は、三者連続安打だ。あくまでも目安で、代えるわけじゃない。投げたいなら、一人で投げ切ってもいい」
「おいおい、先生、守屋と俺にも出番を回してけろじゃ」
 時田が相馬の尻をこぶしで突いた。
「おまえは決勝の主役だよ。たぶん東奥義塾だろう。義塾はピッチャーがいいから、接戦になると思うぞ」
 神山が、
「決勝がァ! 夢なら醒めるなじゃ」
 相馬が、
「神無月の話はどんどん実現していくから、恐くなるね」
 その名のとおり顔もからだも細い一枝が、
「神無月、きょうのバッティングの指導はねのが」
「きのう言ったとおり、ヘッドアップなしのアッパースイングです。ただし強く振る。強くヒッティングしたボールは、打ち損なって外野のライナーや内野ゴロになっても、エラーしてくれる確率が高いんです。エラーや内野安打でランナーが貯まったら、次のバッターで根こそぎいきます。外野フライの延長がホームランですから、常に外野に打とうとしてください。初戦で神山さんがチョコンと打ったホームランがそうでした。どこかで集中攻撃ができて、大量得点でもできれば、それで試合は決まりです」
 試合前の守備練習のときに、野辺地高校チームのメンバーの顔を見渡したが、知った顔は一つもなかった。選手はほとんど二、三年生なので、あたりまえと言えばあたりまえだが、町なかでも見かけたことがないのは不思議な気がした。みんな垢抜けないだぶだぶのユニフォームを着て、胸や尻に歴戦の泥がこびりついている。背番号はぺらぺらした真新しい角巾だった。
 球場が一万人の観客でびっしり埋まっている。立ち見の客を数えるともっといるだろう。スコアボードの旗が強く左にたなびいている。右打者のホームラン風だ。
 守備練習につく。きょうもバックネットの中段にカズちゃんの顔があり、おたがいそれと知らずに、三列ぐらい前方へ離れたところに葛西さん一家の顔があった。西沢はじめ、青高の見知った教師たちの顔が三塁ベンチの上に並んでいる。勢揃いした生徒連中のあいだに木谷千佳子や鈴木睦子や古山の顔も見えた。
 三塁ベンチの上の応援団の陰に、奥山先生の丸い顔が見え隠れしていた。彼の隣に、ヒデさんと山田三樹夫の妹がいた。二人は仲よさそうに語り合いながら、絶えず私を見つめていた。レフトから手を振ると、すぐに気づいて振り返した。彼女たちに教えられて奥山先生が立ち上がり、大きく両手を振った。いったい彼らはどちらを応援しているのだろう。 
 ふと、奥山先生の隣に野月校長が坐っているのが見えた。私は驚き、守備位置から三塁ベンチに向かって深々と一礼した。気づかないようだったので、ベンチ前まで駆けていって、からだを折った。フラッシュがいくつも光った。校長が立ち上がると、ぞろぞろと何人もの夏服の教師が立ち上がり、礼儀正しく辞儀をした。中村のマサちゃんや、立花先生や、フジムラ藤村や、そのほかもろもろの顔があった。
「神無月くん、がんばりなさい!」
 校長が叫んだ。私はもう一度礼をした。
 練習を見るかぎり、野辺地高校の守備は堅実だった。ピッチャーは軟投型で、担ぐような投げ方が肩の弱さを示している。カーブを武器にしているようだ。待ちきれずに手を出すと、内野ゴロを打たされてアウトを重ねそうだ。ほかのチームはそれにやられたのだろう。阿部が、
「おい神無月、野辺地の守備、よさそうだでば」
「きょうもホームランを狙いましょう。ホームランは守備と関係ありませんから」
「ンだな。おめんど、はなっから長打狙いでドンドンいぐべ!」
「ヨシャ!」
 試合開始のサイレンがなった。頭上で応援団の太鼓が打ち鳴らされる。
「プレイボール!」
「でっけえやづ打ってくるじゃ」
 三上がバットをブンブン振り回しながらバッターボックスに向かった。
「三上さーん!」
「三上ィ!」
 スタンドから声援が上がる。この四戦ですでにみんな人気者になっているのだ。初球アウトコースへ暴投。カチカチになっている。こちらはとにかく大振りだ。三上は二球目の内角球を思い切り掬い上げた。ボールは高く舞い上がり、レフトの中段まで飛んでいった。割れんばかりの歓声の中、三上はゆったりとダイヤモンドを回る。
「泣いでら、あれ」
 一枝が自分も目を潤ませながら指差す。
「コールドはねけんど、十点は取るべ!」
 瀬川がベンチの中を駆け回る。三上が腕で目をこすりながらベンチに走りこんできた。全員と握手していく。キン、という音にグランドへ目をやると、今西が一塁を回ろうとしていた。センターオーバーの二塁打。阿部、三塁線を破る二塁打。二点目。きょうもまたとんでもないことが起こるのかと、場内が騒然としている。私が打席に向かうと、歓声がピークになった。
「神無月ィ! 頼むどう」
「神無月くーん、ホームラン!」
「いろおどこォ!」
 阿部が二塁上で、ライトスタンドを指差している。私はうなずいた。初球からぜんぶいこう。野辺地高校のピッチャーはいっちょまえに、外野にバックの指示をしている。青高はそんなむだなことはいっさいやらない。自分で勝手に守備位置を変える。シートバッティングに真剣に励めば、するどい勘が養われるのだ。五月の末から二カ月間、青高野球部は体力増進ばかりでなく、しっかり野球そのものの鍛練にも励んできた。
 初球高目のカーブ。目が離れてとんでもない空振り。ヘルメットがずれた。笑いの混じった歓声がドッと上がる。ホームランを打とうと気持ちが急(せ)いている。二球目、顔のあたりのクソボールをバックネットへファールチップ。同じようにウオーという歓声。振り返るついでにカズちゃんと葛西一家を見る。カズちゃんは愛らしく右こぶしを突き上げ、ミヨちゃんは祈るように手を握り合わせている。だれも笑っていなかった。気持ちを落ち着かせる。三球目、ほんの少し外角へ流れた低目のボールを踏みこんでしっかり叩いた。センター目がけて真っすぐ伸びていく。ダウンドライブして左中間のフェンスに当たるかもしれない。二塁打を想定して一塁を大きくカーブしながら曲がろうとしたとき、センター左の観客席の中へボールが飛びこむのが見えた。
 大きな喚声がまとまって空に昇った。キャーというするどい声が混じる。ブラバンの金管の音がグランドを切り裂く。二塁を回り、三塁を回る。フラッシュがあちこちで光る。観客が総立ちになって拍手している。野辺地ベンチの監督も拍手している。私が野辺地出身であることを知っているのだ。三塁を回るとき、また瀬川が虎のようにベンチを右往左往している姿が見えた。ホームインしてベンチへ駆け戻る。これで四点。相馬が、
「ナイスバッティング、十二号おめでとう!」
 と興奮しきった声を上げた。ブラスバンドが新曲の鉄腕アトムを華々しく演奏する。神山は高いレフトフライ。藤沢右中間三塁打。一枝レフトオーバーの二塁打。五点。瀬川センター前ヒット。六点。時田セカンドゴロ。一番に戻って、三上浅いセンターフライ。ようやく一回の攻撃が終わった。6という数字がスコアボードで回転した。
「白川さん、直球ですよ。外角よろしく」
「オー!」
 一塁ベンチの上で突撃ラッパの音が響きわたった。あの張りのある音は中野渡だ。野辺地高校のためにわざわざ応援に駆けつけたのだろう。相馬に、
「あれは、野辺地中学校から山田高校にスカウトされた中野渡というやつのトランペットです」
「そうか、力のある音だね」
「……先生、横国では野球部でしたか?」
「うん、一応レギュラーだった。セカンド、百六十三センチのチビだからね。それでも三番を打ってた。バッティングの難しさと、センスの先天性はわかってる。神無月は天才だよ。いますぐプロで通用する。さ、守備につけ!」
         †
 小さい先頭打者がバッターボックスに入る。からだを低くしてストライクゾーンを狭めるようにする。いらぬ細工だ。白川は手首を効かせた直球を外角へ投げこんだ。うまくミートして強いセカンドゴロ。三上が華麗に処理する。野辺地高校の残念太鼓が連打される。大柄な二番打者。鈍くさそうだ。脇を広く開けているので、内角に投げれば百パーセント詰まる。白川は内角に気持ちを切り替えてくれるだろうか。以心伝心、神山が内角に寄った。ドン詰まりの三塁フライ。
「よし、よし、よーし!」
 センターから阿部の声が飛んでくる。三番は細身の左バッター。ミートがうまそうだ。外角低目を二球見逃し、三球目の真ん中高目を三塁の頭上へ流し打った。早い打球が白線を噛み、レフトのファールフェンスにツーバウンドで当たる。クッションボールを素早く捕まえ、セカンドベース目がけて全力で低いボールを返す。二塁寸前タッチアウト。一塁側の観客席がお祭り騒ぎになった。私はなぜか照れくさく、うつむいてベンチへ走り戻った。
 試合は初回の表裏で決したようなものだった。それでも青高は攻撃の手を緩めず、二回から九回表まで、二、二、三、一、四、一、一、五、と毎回得点を重ね、二十五対三で大勝した。きょうもホームランが乱れ飛んだ。私が三本、阿部が一本、神山が一本、なんと三上が二本、合計七本。観衆はたぶん、プロ野球の一方的な打撃戦を見ているような感じを抱いただろう。
 白川は六回を零点に抑え切り、七回のエール交換の直後に、クローザーで出た守屋が三者連続フォアボールで満塁にして、下位バッターの連打で三点を取られた。あわててリリーフした時田が、九回までの後続をすべて内野ゴロと三振に切って取った。
 試合終了。守備位置から駆け戻る。整列。礼。尊敬に満ちた視線がくすぐったい。握手をし合う。全員野辺地出身者だ。胸もとに吸いついてくる者もある。
「合船場だツケ。オラ、浜の工藤だ」
 そう言われてもわからない。
「岡田の長男だ。話聞いてら」
「パン屋の?」
「おお」
 岡田パンに兄がいて野球をしているとは知らなかった。私はホームベースから、あらためて三塁ベンチ上方の人びとに深々と礼をした。彼らも拍手しながら立ち上がり、丁寧な礼を返した。ベンチに入ると、小さな安西マネージャーが飛びついてきた。フラッシュの瞬きがいつまでもやまない。呆気にとられたといった空気が、試合後いつまでも場内を支配しつづけた。両校のブラバン演奏が延々とつづく。
 審判団が引き揚げ、野辺地高校の青年監督がやってきて相馬と握手した。
「やあ、戦いを忘れて堪能してしまいました。プロと幼稚園ほどのちがいがありましたね」
「野辺地から神無月をいただいちゃって申しわけありません」
「そのことですよ。十四号ホームラン。人間業じゃない。神無月くんが野中から野高にきてくれていたらと思うと、あきらめ切れません。しかし、たとえ神無月くんが野辺地高校にきてくれていたとしても、うちの選手たちでは彼をバックアップし切れなかったでしょう。結局彼一人に頼ってメロメロです。青高チームには基本的に彼を生かすような打線の強さがあります。うちにはありません」
「その強さは神無月が育てました。彼の主導する日々の鍛練でね」
「そうですか。やはり野高にきてほしかったな。決勝は東奥義塾でしょう。強敵です。油断せずにがんばってください。かならず甲子園へいってくださいよ。上品に十点ぐらいでやめとかないで、バンバン取ってください。来年からは連続優勝校ですね。うらやましいな」
 相馬は返す言葉を思いつかず、ただにこにこ笑っていた。青年監督は私とも握手した。
「きみはいま、北の怪物と中央のマスコミでは言われているそうです。尾崎のように高校二年で中退してプロにいくかもしれませんね。奥山先生がくれぐれもよろしくとおっしゃってました。今朝、かわいらしい女の子二人と、宿舎の旅館を訪ねてくれたんですよ。頭もスーパーマンだから、選択肢が多すぎて、気持ちの集中しない人生を送るんじゃないかって心配してました」
「は?」
 私が首をかしげると、相馬は少し気分を害したふうに早口で呟くように言った。
「神無月、気にするな。おまえの選択肢はたった一つだ。たくさんの選択肢なんか目に入らないし、頭かスポーツかなんて選択もしないし、その一つの集中度もすごい。人から気が散る性格に思われるように生まれついたんだから、そんなのは無視して好きなように生きればいいんだ。かならず思ったようになる」
 ここまで出番のなかったキャッチャーの室井が、そっと私の肩を抱いた。彼だけはまだ二年生だった。来年も私とプレイできるという親しみが強かった。相馬は青年監督に、
「野球は神無月の情熱です。情熱を注げるものがあるのは幸せなことです。つらいことがあっても野球をやめないのは、情熱があるからです」
「そのとおりですね。神無月くんはまちがいなくプロ野球にいきますよ。プロ野球で活躍する姿を早く見たいなあ。じゃ相馬さん、チャンスがあったら、また胸をお借りします」
 新聞記者が青高のベンチ前に入り乱れた。だれかれとなくつかまえてはインタビューする。カズちゃんが大きく笑いながら手を振って去っていく。私も応えて手を振った。ミヨちゃんと主人が勘ちがいして手を振った。奥さんも胸もとで小さく手を振った。奥山先生とヒデさんと山田の妹も手を振って去っていった。野月校長たちも恥ずかしそうに手を振った。私は記者たちを掻き分けて、もう一度深くお辞儀をした。
 三時間に届くゲームだった。西の空の裾が薄赤い。みんな夕餉の食卓へこぞって帰っていく頃合だ。一人の記者につかまった。三人、五人と寄ってくる。
「決勝戦の意気ごみは」
「ありません」
「これまでのトーナメント記録を九本も上回ったわけですが、ご感想は」
「ホームランの爽快さを、ぼくだけでなく、みんなに味わってもらえたことがうれしいです。この記録はたぶん破られないと思います。記録を作るだけの運があったんでしょう。青森高校の野球部に入らなければ、記録は作れませんでした。それも運です」
「甲子園にいったら、何を目標にしますか、やっぱり優勝ですか」
「ホームランです。野球は個人技ですから」
「チームプレイじゃないんですか」
「チームのためを思ってやるプレイなど、邪道です」
 記者たちがざわついた。私は苛立った。
「打てばチームのためになります。ファインプレーをすればチームのためになります。三振を取ればチームのためになります。野球はサッカーやラグビーのように集団で押し寄せたり退いたりして連携を図るゲームじゃありません。マウンドに一人きり、バッターボックスに一人きり、守備位置に一人きりの孤独なゲームです。以上」
 私はすたすたと記者たちの輪から離れた。
「阿部キャプテン、円陣を組みましょう!」
「オー、おめんど、円陣!」
 がっしりと円陣を組む。
「決勝も勝つぞー! イグゼー、イグゼー、イグゼー!」
「イグゼー、イグゼー、イグゼー!」
 決勝戦の相手校は東奥義塾だと相馬から知らされた。
「神無月、きみのいまの言葉で、チームというものの本質がはっきりわかったよ。ありがとう。勝っても負けても個人が充実感を覚えなくちゃ、スポーツじゃないね」
「はい。メンバー同士愛し合っていれば、残るのは個人プレーだけです。個人は技を磨かなければなりません」
「みんな、あしたは一日ゆっくり休んでくれ。自主練習は止めないが、なるべく休め。じゃ、あさって、青高グランド十一時集合。人員が多いので、バスで球場までいく」
 球場の外へ出たとたん、今西が叫び上げた。
「合浦ゲントウ、斉唱!」


         二十六

 シャワーを浴びてサッパリした。脱衣所に下着を置きにきた奥さんにうなずきかけると、
「はい―」
 小さく返事をし、こぼれるような笑みを浮かべてうなずいた。 
 ビフテキの夕食になった。帰郷した赤井の姿はない。いつのまにか奥さんが、それと気づかれないような薄化粧をしている。
「決勝進出、おめでとう!」
 主人がビールのコップを掲げる。サングラスと奥さんがつづき、私とミヨちゃんもジュースのコップを掲げた。打ち合わせる。
「ありがとうございます」
「神無月くん、まずお礼を言わせでもらうじゃ。きょうまで生ぎてきていがったとつくづく思った。こごにいるみんなも同じだと思る。それから、前人未到の十四号ホームランおめでとう。オラは後人未到だとも思る。二本目のスコアボードに当たったホームラン、推定百四十メートルだそうです」
「収穫は一本目でした。ああいうバットの押し出しをしてもホームランになるんだってわかりましたから。会心の当たりは、三本目の右翼ポールに当てたやつです。ああいう軌道がいちばん気持ちいいんです」
 サングラスがアハハと笑い、
「神無月くんは、野球だげだな。一途で、心が洗われるじゃ」
「……遠大な目標のない人間ですから、目先のことに一途になれるんです」
「野球は遠大な目標じゃないの?」
 奥さんが訊く。
「もう目標に達してます。大好きなことをいまやってるんですから。目標というのは、いましていることに満足しないで、遠く眺めるものでしょう。そういう意味の目標はぼくにはないんです」
「プロ野球が目標じゃないの?」
「うんにゃ。そたらのは、なんも目標にしねくても、とぎの流れで、好ぎだこどやってるうぢにおのずと手にへるものだべ。高校野球もプロ野球も、大好きだ野球には変わりねべ。同じこどしてて、金けるようになるだげだべ。神無月くんは正しいこどへってるでば。ずーっと先でねば手に入らねおんた遠大なものがアダマにあったら、いづまでもおもしろぐ暮らせねべおん。神無月くんのへるように、目標ってのは目先の好きだこどだんだ」
 サングラスがうなずきながら言った。
「そのとおりだと思います。野球をしたり、勉強したり、そして、人を愛したり……」
「そういう考え方するふとこそ、理想的なふとだ。あんたみてな理想的なふとも、いづか死んでまると思うと、もったいねな」
「また、お兄さん、縁起の悪いことを。神無月さんはまだ十六歳ですよ。死ぬの生きるのって年じゃありませんよ」
「ンだな、オラは棺桶が近いすけ、くだらねこどばりしゃべってしまる」
 彼は私の感覚にいちばん近いことをしゃべった。目標とは目先にすでにあるもののことだ。人が手中にできるのは目先のものだけだから。しかし、私は座を白けさせたくなかったので、黙って笑っていた。主人が、
「義兄さんはワと同い年だ。言いてこど、よぐわがる。神無月くんには、でぎるだげ長生ぎしてほしい。いつか別れていぐ人だすけ、よげいそう思る」
 目が潤み、ミヨちゃんに伝染する。
「さあ、食べて食べて。肉が苦手だって神無月さんが言うから、最高級の新鮮な柔らかい肉を買ったんですよ」
「叔父さん、切ってあげる」
 ミヨちゃんがサングラスの肉を切りはじめると、みんな自分の肉をナイフで切り分け、フォークで突き刺して頬ばった。よく焼いてあるので、香ばしくてうまい。初めてうまいと感じた。
「きのうの国際ホテルのビーフシチューもうまかったけど、これは格別だ。肉が食えるようになりそうだ」
「よかった! 奮発して」
 主人はサングラスにビールをつぎ、自分もグイと飲み干した。
「マコトちゃん、泣いてらった。さっき駅まで見送りにいってきたんです。神無月くんの将来が不安でしょうがねってへるんですよ。周りの人間が神無月くんを有名にするのはいいたって、有名にするだげして、結局ホッポリ出すんでねがって。名古屋から神無月くんが送られてきたとぎ、そういう宿命みたいなものを感じたって」
 奥さんが、
「神無月さんはとても繊細でやさしい人です。いまの状態を考えると涙が出ます」
 私は笑いながら、
「ホッポリ出されるのは、有名になろうとする情熱のない人間だけです。奥山先生の予感は正しいです。ぼくは有名になりたくありません。だからホッポリ出されます。それをぼくは怖いと思わないんですから、周りの人も怖がってほしくないんです。ホッポリ出されないと、日々思索の時間が減っていって、充実感が消えてしまいます」
 ミヨちゃんが、
「神無月さんには怖いことってないんですか」
「ある。想像の上でのことだけど、ある朝母に起こされて、おまえの人生はすべて夢だったと言われることだね。ぼくは毎日、しっかりとした現実の中で、好きなことを懸命にやったり、ぼんやり考えたりして生きていたいんだ。それをじゃまされないで生きていければ、生まれてきた甲斐がある。そういう願いを夢だと決めつけられると、怖い」
 主人は感銘を受けたような眼を私に注いだ。
「神無月くんは……オラんどには推し量れね」
 サングラスがカラカラと笑った。
「あさっての決勝は東奥義塾がァ。強敵だな」
「五分五分だと思います」
「むごもコールドを二っつもしてるチームだすけな。ピッチャーは青森県ナンバーワンの技巧派前田啓一。小さな大投手て呼ばれでら。フォークまで投げるらしじゃ」
「そうですか。フォークは、次がフォークだとわかっていても打てないものだと、阿部キャプテンから聞いたことがあります。きっと要所要所で、それを使って押さえにくると思います。ぼくたちの基本は大物狙いですからね。ストレートは打ち返すとわかってるでしょうから」
         †
 食後の茶になった。
「あしたは青森テレビで全中継だそんだ。夕刊さ載ってる」
 主人は届いたばかりの夕刊の大見出しを示した。

   
テレビで北の怪物が観れるど!
     
地元青森テレビ決勝戦全生中継
 全国高校野球夏の予選も大詰めになった。大会記録の五本を大幅に塗り替えて、すでに十四本のホームランを放っている超高校級スラッガー・神無月郷外野手(十六・一年)を擁する県立青森高校対東奥義塾の決勝戦(二十三日午後一時)が、一試合まるまるテレビ中継されることが昨二十一日、青森テレビ放送番組制作会議で決定した。地元青森テレビが高校野球青森大会を一試合まるごと中継するのは初のこと。中央の各局もビデオ録画獲得に乗り出している。日本じゅうの野球ファンにはまさしく朗報だ。彼らにとって未知の存在と言える〈北の怪物〉神無月郷がどんな打球を放つのか、どこまで飛ばすのか、テレビを観ることによって一目でわかる。東奥義塾戦で優勝した場合の甲子園球場での試合は、注目の全国中継となり、いよいよその快打を広く世に示すことになる。


 主人が、
「とうとう一試合まるごとが。神無月さんのやったこと考えれば、あだりめだべたって、おンどろいたな」
「テレビだば、まいね。現場で観ねば」
 サングラスが言う。
「もちろんそンです。あのスイングと打球はテレビではわがんねもの。すかし、大したもんだでば」
 それからは、主人とサングラスは今年のプロ野球の話に移っていった。ラジオの人であるサングラスはその種の話題によく通じていて、同い年同士で話が弾んだ。女二人と私はツンボ桟敷に置かれたのを幸い、食事にいそしんだ。
         †
 二十二日の午前、ジャージ姿で自主練習に出た。ほぼ全員いたので驚いた。生徒や近隣の人びとの見物もかなりいる。相馬はいなかった。
 周回から始めて一連の練習をこなす。フリーバッティングに力をこめた。レギュラーたちの打球がするどいので、見物が喜んだ。私はもっぱら、外野フェンス沿いに走ったり歩いたりした。
 胸に希望が満ちあふれる。―時おりめぐり会えることがある。可能性の意味を変えてくれるものに。六年前、川や池ばかりの世界で、私は海をやっと見つけた。海は希望と同義語だった。それから一度も希望を見かぎることなく浸っている。陸に戻りかけた足をそっと海に棲む神が引き留めた。それから海神は私の同伴者となった。
 昼過ぎに切り上げ、解散。
 花園に帰り、机に向かう。英単語熟語の復習。主人は出勤、奥さんはパート、ミヨちゃんはソフトボールの練習、赤井は部屋で勉強、オジサンは部屋でラジオ。昼めしをどうしようか。彼らはどうするのだろう。二時を過ぎて赤井の部屋を訪ねる。
「水屋にイナリ寿司が握ってあら。オラとオジサンは食った」
 ジャージとシャツを洗濯機に放りこみ、水屋からイナリ寿司を出して食う。しみじみする。六つペロリと食った。腹がくちて机に戻る。数学の教科書の章末問題を解いていて、どうにかひねり出した答えが心もとなかったので、新町の成田本店へ虎の巻(教科書ガイド)を買いに出る。ついでに古文の虎の巻も買うことにした。
 アーケードの並木を眺めながら下駄を鳴らして歩く。ナナカマド、ライラック、マロニエ、コブシ、カエデ……。こんもりと葉を繁らせるナナカマド白い花が目にやさしい。秋には真赤に紅葉して、赤い粒々の実をつける。いろいろな鳥が啄(ついば)ばみにくる。マロニエもコブシも可憐な白い花を咲かせている。ライラックだけは薄紫だ。カエデにも花が咲くことを知らない人が多いが、五月のころにほんのり赤い小さな花を咲かせる。こういう知識を植えつけたばっちゃの笑顔を思い出す。
 書店を出た辻を曲がってすぐの風車という喫茶店に入る。落ち着いた小店。コーヒーを一杯。カップをつかむ手が大きくなっている。下駄を履いた足の踵が出ている。大男になりつつある。
         †
 七月二十三日金曜日。曇り。十九度。微風。まだ本格的な夏はこない。青森駅前まで早朝ランニング。玉子かけめしどんぶり一杯、キャベツとタマネギの油炒め、ヒジキと油揚げの煮物、豆腐とワカメの味噌汁。万全。
 十一時。二十人以上の教師と、監督・選手たち、応援団、ブラスバンド、そして百五十人に余る生徒たちが、青高グランドに集合した。古山、木谷千佳子、鈴木睦子、小田切、藤田など、五組の連中が半数近くいる。とつぜんブラスバンドの校歌演奏、つづけて応援団のエール。団長が野球部員たちに向かって何か檄を飛ばしているが、聞き取れない。
 応援の生徒たちは三々五々裏門から徒歩で球場に向かった。残りの五十人ほどは、正門に待機していた大型バス三台に分乗して合浦公園に向かう。一台目に控えを含めた選手とマネージャーと監督、二台目に教師たち、三台目に応援団とブラバン。窓から見る松原通の街並が蒸し暑そうだ。
 革袋を担ぎ、二本のタイガーバットを手に、公園口の広い駐車場でバスを降る。スパイクを鳴らしてぞろぞろと歩く。入口前に何千人もの人びとがたむろし、入場口へ急いだり、係員からバックネット席の整理券をもらったり、歓声を上げたりしている。内野席は一律五十円、外野席は無料と書いてある。
「神無月さーん!」
「阿部ェ!」
「義塾を叩き潰せ!」
 三塁側の選手通用口へ入ろうとしたとき、呼び止められた。
「神無月くん!」
 振り向いて、飛び上がるほど驚いた。忘れもしない顔。
「押美さん!」
「おお、名前を憶えていてくれましたか、ありがとう。期待どおり大物になったね。こんな北国で野球をつづけていたとはね! 《北の怪物》という記事を見たときには、泣いてしまったよ」
 立ち尽くしている相馬や選手たちに気づいて、
「あ、すみません。監督、どうぞ先を急いで。打ち合わせや練習があるでしょう。神無月くんは、十分ほどであとを追わせますから」
 相馬に深々と礼をする。
「名古屋の中商の押美さんです。小学中学のときにスカウトにきてくれた人です」
 阿部たちが顔を輝かせた。
「おふくろさんが追い返した人が!」
 相馬はにっこり笑い、
「きみの将来だ。よくお話を聞いてからきなさい」
 監督はチームメイトたちといっしょに、青々とした松並木のあいだを球場の通用口へ歩いていった。押美は私の手を取って握り締めると、
「あんな形できみと別れることになってしまって、ずっと気にかかっていたんだ。元気だったかい」
「はい」
 私も強く握り返した。
「こちらにきた事情は知らないし、聞く時間もないけれど、どうせあのお母さんの決断だろう。彼女にしてみれば、よくせきのことだったかもしれないが、きみは不本意だったろうね。受験校に入学したことも含めてね。でも私はうれしいよ、きみが野球をやりつづけていてくれたことがうれしい。すまない、きょうは、ゆっくり話ができないんだ。きみにこちらの意向を伝えたら、とんぼ返りすることになってる。私もいろいろ忙しくてね」
 押美は公園内の木陰のベンチに並んで坐ると、
「こちらの意向というのは……二年生から、あるいは三年生からでもいい、愛知県の野球名門校へ、たとえば中商、名電工、東邦あたりへ転校してほしいということだ。むろんお母さんの意見を無視してこの話は進められないが、たぶん今回はだいじょうぶだろうと思うんだ。ここまで全国レベルになったきみの名声と実力を認めないわけにいかないでしょう。あのイヤミな所長さんもね」
「母は職場を替えました。ぼくが全国レベルになったことは知らないし、知りたくもないでしょう。野球で高校を変わることにも同意しないでしょうし、高卒でプロにいくことにも同意しないでしょう。ぼくはこのまま公立高校で目立たず野球をするしかありません。その方法でしか将来は見えてきません」
「……そうか。きみの人生の方針が変わってきちんと将来の抱負を持ったというなら、強いて転校しろとは言わないし、勧めても無理な状況のようだね。うまく大学野球や社会人野球をつづけられることになったら、プロへの橋渡しのときには私を頼ってほしい。私はいま、どこの教育団体にも属さずに、いろいろなスポーツの有力選手獲得を仲介する仕事をしている」
「野球のスカウトをやめたんですね」
「うん、でもかえって仕事柄、顔が広くなった。こうやって金を出してもらって青森にも飛んでこれる。きみは野球以外の道でも立派に一家を成す人間だとはわかっている。しかし、野球の才能は飛び抜けている。その天賦の才能を日本中に知らしめ、国民を喜ばせる義務があると思う。この名刺を渡しておきます。いつでも心が決まったときに、どこからでもいいから、連絡をください。きょう勝っても、負けても、きみは話題の人としてさまざまなコンタクトを受けるでしょう。きみが中商や平安や広商に属していたら、騒ぎはこんなものじゃすみませんでしたよ。青森県の受験校で野球をしているので、関係者も半信半疑なところがあるんです。実力のないピッチャーばかりを相手にしているからじゃないかってね。私はもちろん、そうは思っていません。きみはどこにいても、どんなチームに属していても、まったく同じです。いずれにせよ、青森で野球をしていては、あまり未来は明るくないように思います。野球をやりつづけるなら、かならずそれなりの進路を選択してください。これからも、ずっと見守っています。じゃ、決勝がんばって。一本でも多くホームランを打ってください」
 まじめな顔で微笑し、握手をして去っていった。飯場から出ていったときと同じ背中だった。私は、五年ぶりにようやく会えた虹の使者から渡された名刺を、ダッフルの底にしまい、関係者通用口に向かった。
「何の話だった」
 ロッカールームに入ると、相馬とチームメイトたちが心配顔で寄ってきた。
「名古屋の野球校に転校するなら、橋渡しをするという話でした」
「転校するのか」
「しません。プロ野球に入る前の段階で、むだに野球をやりたくないんです。このまま青高に在籍して勉学をつづけ、三年生まで野球の実績を築き、プロ野球関係者に強い印象を与えてから、一流大学に、なるべくなら東大に進学して、数年、プロの勧誘を待ちながら野球をつづけます。先日も言いましたが、最終的に母の承認がないかぎり、プロ球団は手を出せません。二十歳になれば、母の反対があってもぼくの意思で契約することができます。そう考えると、詮ずるところ二年間をすごす大学は東大でなくてもいいことになりますが、ただの一流大学だと野球そのものをやらせてもらえない恐れがじゅうぶんありますし、やらせてもらえたとしても、中退するときに神経をずたずたにされるほどのすったもんだが予想されます。その程度の大学を中退してどうする、卒業しておけとね。それでも中退を主張したら、押しかけてきて皮肉やら罵倒やらの日々がつづくことになるでしょう。……自分の性格を考えると、もうやめちまおうということになりそうなんです」
 部員たちが神妙な顔になった。私はつづけた。
「来年、投手力が落ちたら、バッティングではチーム力を埋め合わせできません。一回戦ボーイに逆戻りするでしょう。そうなると当然、プロの勧誘はきませんし、専門筋の注目も浴びないことになります。彼はそのことも見越して、ぼくに転校を勧めたんです。でもぼくは、そのほうがいいんです。青高で野球の基礎鍛練が積めれば満点です。中央の新聞も大々的に採り上げないでしょうし、母に知られることもないでしょう」
 相馬が腕組みをして考えこみ、吐き出すように言った。
「神無月、大学進学も頭の片隅にあるのなら、名古屋に野球の名門校で、しかも受験校というのはないのか。そういう学校があるなら、きみを失うのは悲しいけど、ぜひ転校すべきだと思う」
「ありません。野球部の伝統があるのは旭丘と時習館ですが、一回戦ボーイです。勉強は優秀です。野球は、中商と東邦しかありませんね。名電工もこれから強くなるかもしれませんが、その二校の足もとにもおよびません。野球校は、勉強はオシャカです。文武両道など現代には存在しません。野球か勉強かの選択肢しかないんです。母が勉強の選択肢しか許さないとするなら、中商か東邦にいくことはできないし、受験校に転校したとしても野球をすることは許されないので、わざわざ名古屋にいっても、状況は青高にいるよりも悪化します」
 阿部が、
「簡単に考えたら、どんだ? おめがいちばん幸せになるのはどっちかということだべ」
「もちろん野球です。かならず一度プロのグランドに立ちたい。自分の中で確信の持てる能力はそれだけですから。しかし、くどいようですが、プロになるには、二十歳まで母の判子が必要です」


         二十七 

 相馬がギョッとするほどの大声を上げた。
「青高で野球やって、東大へいけ! スポーツをそこまで軽蔑しているお母さんに、おまえのこっちの活躍の噂は耳に入らないだろう。青高にいれば野球に妨害は入らない。東大に合格する学力も確保できる。心配するな。なるようになる」
 控えキャッチャーの室井が、このあいだと同じように私の肩を抱いた。
「来年も、ふつうに野球やるべ。オラんどもふつうにやる。オラんどは、どんだけがんばってもふつうだすけ安心だ」
「そんだ!」
 と阿部が叫んだ。
「ぜって、中央のマスコミには採り上げられね。神無月ふとり、青森県で騒がれで、ザッツエンドだ。おふくろさんの耳には入らね。野球の専門家が目つけるだげだ。たんだ、東大・早稲田・慶應は全国区だ。そごで活躍したら、当然おふくろさんの知るとごろとなるべ。そごから先は、どうやって切り抜ければいいがオラにもわがんね。とにかく死んだ気でケッパルしかながべ。野球と心中するつもりで命懸げろ。さあ、いぐど。天下の東奥義塾か何か知らねけんど、一点でも取んねば、いままでのがフロックだと思われてまる。みっともねど」
「よっしゃあ!」
 三塁側ベンチ。この五試合で住み慣れた巣になった。グランドが曇り空の下に白っぽく輝いている。ジャンケンで先攻に決まる。二十分ずつの守備練習。バックホーム三本、ノーバウンドで返球するスタンドプレイをやめ、すべて低いワンバウンドで返した。それでもワッと歓声が沸いた。きょうの相馬は内外野に丁寧に低いライナーを打った。そういう打球が多くなると踏んでいるのだろう。
 東奥義塾の守備練習は華麗そのものだった。とりわけゲッツーの連繋プレイは高校生離れしていた。ピッチャーのボールは予想以上に速かった。勝てないだろうと思った。義塾ベンチに杉山四郎の顔はなかった。まだベンチ入りもできない下っ端補欠なのだろう。
 私を愛する人びとを眺めた。いつもの席にカズちゃんと葛西一家が陣取っていた。青森放送のテレビカメラが入っていた。球団関係者やスカウトらしき人たちの顔が、ネット裏の前列に居並んでいた。ブラスバンドの演奏がなぜか秩序立って聞こえる。応援団の乾いた声が空に昇る。
 試合開始十五分前、女性アナウンサーのメンバー発表。正一時にプレイボールの声が上がった。サイレンが鳴る。応援がかしましくなった。
「神無月、振り回すんだべ!」
 三上が訊く。
「はい、短打は通用しません」
「オシ!」
 意気盛んにバッターボックスに入った三上は、県下ナンバーワンのピッチャー前田に三球三振に切って取られ、走って戻ってきた。
「おっそろしぐ曲がるカーブだ!」
 今西、キャッチャーフライ、阿部、セカンドライナー。あっというまにチェンジになった。ストレートとフォークは一球もなし。カーブとシュートのみ。
 一回裏、時田は初回から東奥打線に打ちこまれた。小笠原・高木の四・五番コンビのツーランホームランとソロホームランを含む六安打を打たれて四点を奪われた。時田のナチュラルシュートはじゅうぶん研究されていた。彼がだめなら、あとはだれが投げても同じだ。観客の興味は私のホームランだけに絞られた。
 二回表、先頭打者でバッターボックスに入る。歓声が耳に入らない。極端に緊張している。ほとんどフォークでくると確信していたので、目に見えるボールの高さよりも少し低い位置をゴルフスイングすることに決めた。二球つづけてショートバウンド。あまりにも早く落ちたので手を出さなかった。三球目イメージどおりの高さできた。ゴルフスイング。打球はセカンドの頭を一直線に越えていき、右中間まで伸びてコンクリートフェンスに当たった。センターがクッションボールの処理を誤っているあいだに三塁へ足から滑りこんだ。三塁側ベンチの雄たけび、スタンドの歓声。しかし、神山はショートゴロに倒れ、藤沢三振、一枝三振。犠牲フライも打てない。
 二回裏、時田は前田から始まる九番、一番、二番打者を三者凡退に抑える。青高スタンドが希望に揺れる。
 三回表、瀬川、時田、三上、三者連続三振。自慢の打線が、まともにバットに当てられない。
 三回裏、三、四、五番の連続二塁打で二点追加。ゼロ対六。一方的な試合になった。
 四回表、今西三振。阿部サードへのイレギュラーヒットで出塁。一死一塁。ふたたびスタンドの大歓声、ベンチの雄たけび、太鼓の連打、合浦ゲントウ吹奏。初球のフォークをゴルフスイング。芯を食った! 高く舞い上がる。
「いったー!」
 ベンチの声を背にゆっくり走り出す。ボールがライト場外の森へ消えていくのが見えた。十五号ツーランホームラン。歓声が爆発する。拍手、喝采の波。サードを回るとき、カズちゃんが真っ白い歯を輝かせ、ミヨちゃんが顔を覆って泣いているのが見えた。主人は立ち上がって手も破れんばかりに拍手していた。神山、レフト前ヒット。藤沢、6・4・3のダブルプレー! 一度盛り上がった場内の喚声が耳の中で静まっていく。二対六。
 四回裏時田ランナーを二人出すも零点に抑える。ふたたび青高スタンドが希望に揺れる。
 五回表、一枝サードゴロ、瀬川サードゴロ。時田三振。応援団の演舞と吹奏楽が失望の中に静まる。
 五回裏、時田またランナーを二人出すも抑える。抑えている時田自身が信じられないという顔をしている。三塁スタンドの賞賛の喝采がしばらくつづいた。相馬が、
「時田、まだいけるか?」
「いけます」
「よし、いけ!」
 トンボが入り、グランド整備。バッターボックスの白線の引き直し。
 六回表、三上、足首にデッドボール、今西、三遊間ヒット。始まったか? 阿部、ライトオーバーの二塁打。三上生還。一点入って三対六。始まった。ノーアウト二塁、三塁。
 私の打席だ。うなるような歓声、割れんばかりの拍手。神無月! 神無月! のシュプレヒコール。しかし、敬遠気味のフォアボール。
「ホオォォ」
 という失望のざわめきが球場じゅうに蔓延する。ノーアウト満塁。神山センター奥に犠牲フライ。今西還って四対六。ワンアウト一塁、三塁。藤沢ショートゴロ、ゲッツー崩れの間に阿部還って一点。五対六。一枝三振。
 いけるかもしれないと胸をふくらませた六回裏、時田がヒットとフォアボールでランナーを溜めたツーアウト満塁から、四番の小笠原に右中間へ三塁打を打たれて三点追加された。五対九。強いチームというのはこういうものなのだろう。白川投入。五番高木をツースリーからどうにかセカンドゴロに打ち取った。
 エール交換。東奥義塾のスタンドにチアガールが勢揃いして派手に踊っている。初めて見た。浮薄な見世物だ。野球に似合わない。プロ野球にこんなものはない。心なしか青高スタンド側の演奏に悲壮感が混じっている。
 七回表、頭の中で遠くから聞こえる応援歌演奏の中、瀬川センター前ヒット。渾身の力を振り絞って、スタンドが拍手をする。応援団が暴れるように舞う。白川三振。三上ファースト強襲ヒット。ワンアウト一、二塁。今西いい当たりの三遊間ヒット。瀬川自重して還らず。阿部レフト深いところへ犠牲フライ。瀬川還って六対九。ツーアウト一、二塁。
 四度目の打席に立つ。祈るような大喚声にまぎれて、
「神無月さーん!」
 という女の声が耳に届いた。振り向くと、葛西さんの奥さんとミヨちゃんが立ち上がってハンカチを振っていた。主人も口メガホンをしている。ベンチに戻ったばかりの阿部がタイムを取って走ってきて、
「フォークの落ちが悪くなってるど。直球に切り換えてきたでば。狙えじゃ」
 阿部は全速でベンチへ駆け戻った。ストレートは前評判以上の速さだけれども、百三十キロを超えるか超えないかだ。フォークよりはるかに打ちやすい。
 初球外角高目のフォーク。遠く外れてボールワン。二球目、内角胸もとのストレート。ボールツー。なんだ? また敬遠か? 三球目、足首のあたりへワンバウンドしそうなボール。体のいい敬遠だ。
 ―何がなんでも次は打つ。
 四球目。外角低目のストレート、地面スレスレのクソボールを大きく踏みこんでジャストミートする。センターへ低い弾道のまま飛んでいくが、ほとんど真芯なので舞い上がらない。胸を不安に轟かせながら一塁へ向かって走る。
 ―伸びろ! 伸びてくれ!
「いけー! 入れー!」
 私とベンチの祈りだ。センターが懸命にバックする。グローブをかすめるように121の数字の真上、フェンスぎりぎりの芝生に落ちた。
「ウオー!」
 地面を揺するほどのどよめきが上がった。第十六号スリーランホームラン。九対九。同点。三塁側スタンドの生徒たちがバンザイの格好で飛び跳ねている。教師たちも総立ちだ。カズちゃんが両手を交差させるように大きく手を振った。太鼓の乱打。ブラバンなしの青高健児合唱。神山ショートフライ。チェンジ。
 白川がランナー二人を出しながら、七回裏も抑えた。
 八回表、藤沢レフトオーバーの二塁打。一枝、力のないセンターフライ。
 八回裏、白川先頭打者の小笠原にソロホームランを打たれる。守屋投入。肩も抜けよとばかりの力投で、残りの打者三人を内野ゴロに抑える。九対十。
 九回表、ここまで甲子園と言い出すものは一人もいなかったが、ついに阿部が、
「甲子園さいぐべ!」
 と叫んだ。神山が、
「なんたかた、いぐべ!」
「ドリャアァァ!」
 全員雄叫びを上げた。相馬が円陣を組む。涙でくしゃくしゃの顔だ。三塁側スタンド老若全員起立して、青高校歌が荘重に唄い出される。
「きみたちはなんてすばらしいやつらなんだ。見てみろ、スタンドのみんなも泣いてるぞ。希望を捨てずに、悔いのないバッターボックスにしてくれ」
 瀬川ライト前ヒット。守屋レフト前ポテンヒット。太鼓の乱打、応援団の狂騒、ブラバンのアップテンポのマーチ。三上三振。
「ホオォォ!」
 今西前打席につづいて痛烈なレフト前ヒット。ランナー還れずワンアウト満塁。
「阿部ェェ!」
「イゲエ!」
 阿部期待に応えられずショートライナー。ツーアウト満塁。五度目の打席が巡ってきた。東奥義塾の内野陣がマウンドに集まる。ベンチ前に立った監督がしきりにサインを出している。ピッチャーが小刻みにうなずき、全員守備に戻る。
 太鼓ドンドンドンドン、応援団の乱舞、ブラバンのマーチ。敬遠! 
「ウワアア!」
 喜びの混じった驚愕のどよめき。瀬川ホームイン。十対十。またもや同点。この作戦に球場じゅうが騒然となった。もう私の打席はない。正しい作戦だったかもしれない。相馬が腕組みをしている。神山サードベースに当たってファールグランドに転々とする二塁打。どよめき! 悲鳴! 絶叫! 二人生還して十二対十。逆転! 私は三塁へ。
「甲子園!」
「いぐど!」
「甲子園、いぐど!」
 目の前の三塁ベンチでみんな抱き合って叫んでいる。義塾左ピッチャー森本に交代。まったく当たっていない一枝の顔面が蒼白だ。私は三塁ベースから叫んだ。
「一枝さん! ホームラン! 全球狙っていこォ!」
 彼はにっこり笑い、バットを高く構えた。ブラバン。太鼓。初球一閃、ボールはレフトへ高く舞い上がった。力が足りない! しかしフェンスまで飛んでいった。チェンジ。
 九回裏。守屋にすべてを託す。球場の音量が下がらない。フラッシュやシャッターの音がかしましい。なぜか甲子園のイメージが湧かない。
 ―甲子園の土を踏めば、そしてテレビに映ってマスコミに騒がれれば、母にも認められ、これまでのちぐはぐな人生からも解放されるかもしれない。
 独りよがりな当てずっぽうの希望が湧いた。すぐに消えた。
 八番バッター三浦、じっくり選んでフォアボール。チアガールのダンス、壮麗なブラバンの響き、応援団の突き。九番前田、三塁藤沢の前へセーフティバント、成功。ノーアウト一、二塁。相馬が激しく手を拍って守屋を励ましている。一番福士、初球を打ってライト前ヒット、三浦生還、十二対十一。ノーアウト一、三塁。三番小山内、セカンドライナー。ワンアウト一、三塁。
 ―小笠原か。外野フライで一点。同点になって五番高木……。守屋さん、頼む、ゲッツー。外角低目。
 小笠原は真ん中低目のカーブを打って、センターの阿部へ深いフライを打ち上げた。タッチアップして前田生還。十二対十二、同点。球場の歓声が騒音に聞こえてくる。ツーアウト一塁。ピッチャー、二年生の三田に交代。相馬に尻を叩かれて送り出される。投球練習五球、ショートバウンド三球。ボールはけっこう速い。一塁スタンドの華やかな応援。チアリーダーズのラインダンス。
 五番高木、ノーワンから左中間芝生席へ一直線のホームランを叩きこんだ。へたにスピードがあるのが災いした。喚声のボルテージが最高潮に達した。頭の中で場内の音が静まった。打球の飛びこんだスタンドの上空を見上げた。涙が流れてきた。十二対十四。サヨナラ。試合終了。サイレンが鳴る。アンパイアが、
「ゲームセット!」
 をコールし、集合の合図をかける。ダッシュして、ホームベースを挟んで整列。三上が手の甲で涙を拭っている。観客席のところどころにも、顔にハンカチを押し当てている人が目立つ。カズちゃんは微笑んでいたが、葛西一家は泣いていた。アンパイアの号令。
「礼!」
 怒涛のようなフラッシュ。報道陣が乱入してくる。
「ありがとうございました!」
「ありがとうございました!」
 握手。みんな泣いている。味方も敵も泣いている。私の腕が四、五人の手に握られた。
「おめ、すげじゃ!」
「プロさいったら、一生応援するじゃ」
 私はピッチャーの前田に、
「甲子園、がんばってください」
「こったら試合、甲子園でもでぎねべ」
 彼らはダッシュして、凱歌を贈られるために自軍ベンチ前へ去った。東奥義塾の演奏が終わるのを待ち、三塁ベンチ横に整列して帽子を取り、青高の校歌斉唱を聞く。私は顔を上げ、スタンドで唄う人びとを見つめた。西沢が泣いている。古山も木谷も鈴木も、みんなみんな泣いている。選手もみんな泣いているが、悔し泣きしているやつはいない。スタンドに礼をし、ベンチへ戻る。



(次へ)