二十五

 夕食のときもずっと康男のことを考えていた。
「どうしたんですか、神無月さん、食欲ないんですか」
 奥さんの言葉に、ミヨちゃんも心配そうに覗きこむ。私は箸を動かしながら、大げさにならないように注意しながら、寺田康男との出会いから別れまでを手短に話した。
「その先生の罪滅ぼしの気持ちからでねが」
 赤井が言った。ミヨちゃんが、
「わざわざ二人を呼ばなくてもいいのに。寺田さんにだって神無月さんにだって都合があるんだから。神無月さん宛てに、その寺田さんに自分の消息を知らせる手紙を書かせるだけで、じゅうぶんじゃないかしら」
「それとも、ぼくに彼の住所を教えて手紙を書かせるか……」
 亭主が、
「それがネックなんだべね。住所を知らせて、連絡を取り合う結果にしたくねんだな。目の前で検閲でぎねはんでな。検閲だよ、検閲。根性の曲がったふとたちだ。神無月くんはどうしたいですか?」
 この精力的な主人が、どうしてこんなにすばらしい女房を五年間も抱く気にならないのだろう。奥さんの反応はあんなに健康なのに。性的な好奇心や欲望は、年齢とともに消え失せてしまうものなのだろうか。
「野球の日程をすべて終えたら、いってくるつもりです。検閲を受けながらでも、何か将来へつながる交友のヒントが見つかるかもしれませんから」
 奥さんがまぶたを拭った。ミヨちゃんも涙を浮かべながら、母親の手を握った。
 二日つづけてカズちゃんのところに寄った。そして、母の手紙のことを言い、いっしょに名古屋へいかないかと誘った。
「もちろん、いくわ! 大将さん、元気かしら。ぜんぶあのいけ好かない男の演出ね。大将さんがそんなドラマじみたことを望むはずがないもの。じゃ、三十日はお母さんのところに泊まるのね。三十一日から三日ぐらいゆっくりしましょう。ホテルをとって。私の実家にもチラッと顔を出してもらおうっと。だいじょうぶよ、気が置けない人たちだから」
「あしたは二回戦だ。応援にきてくれる?」
「はい、午後二時試合開始ね。これから先の試合もずっと同じ場所で観てます」
         †
 青森西戦十一対零コールド、七戸高校戦十三対一コールドと勝ち進み、二十日の準々決勝になった。相手は八戸高専。強豪という噂だが、開校三年目で実績はない。これに勝てば、ベストフォーだ。まだ夏休みではないので、正規の授業は行なわれているけれども、試合のある日はサボっても出席扱いされる。いい気になって甘えている。来年は、午後から試合があるときは、午前の授業には出るようにしよう。部室にいきダッフルにヘルメットを詰める。バットケースにタイガーバットを二本。
 十時試合開始なので、八時半にチーム全員青高のグランドを出る。九時に合浦公園に着いた。
 ジャンケンに勝っても負けても先攻になる。きょうは一塁側ベンチだ。そのベンチで阿部が言った。
「初めて左ピッチャーに当たるど。上からドロンとくるカーブだ。飛ばね。なしてもゴロになる。いままでみてに掬い上げろ」
 すべてコールドゲームでベストエイトに残ったとあって、青高内外は騒然となっていた。四本、二本、二本と打ちつづけた私の八本のホームランは、青森県のシーズン記録を三本超えて新記録を樹立し、どこまで伸びるかが人びとの興味の的だった。
 青高グランドにも新聞記者やカメラマンが押しかけ、ストロボやフラッシュを焚きまくったが、私たちはこの二日間、カメラの寄ってくるバッティング練習を中止して、黙々と守備練習とランニングをした。それでもあまりにうるさくまとわりつくので、阿部がインタビューを買って出た。
「神無月のワンマンチームみてに言われてるけんど、そんでね。神無月は謙虚な男で、いっつも目立たねようにしてるし、指揮権なんがもふるったことね。自分で率先して練習して、オラんどに模範を示してるだげだ。オラんどが勝手に刺激受げでるんです。神無月は青森高校野球部を助けるためにフラッとやってきた月光仮面みてなもんだ。そのうぢ、フッとハヤテのようにいなぐなるんでねがと心配です。小中学生のころは名古屋のホームラン王だったず。今度はどごさいぐんだが」
 インタビューアーが、
「そのとおりです。神無月選手は名古屋市の小中学校のホームラン記録保持者です。中三の秋に、とつぜん名古屋から姿を消したんですよ。誘いをかけた学校も、かけなかった学校も、等しく残念がったという話を伝え聞いています」
「とにかぐ、神無月はむがしのことは言いたがらねし、野球をやってるとぎ以外は黙ってるすけ、オラんどには謎のまんまだ。謎の美男子のスーパーマンだ。ハハハ……。ランニングのスタミナがねのが愛嬌だども、いや、最近スタミナついできたな、バッティングはまねでぎね。球に当てる瞬間の手首の動きが速すぎで、よく見えねんだ。バッティングは模範にならね男です。ちなみに神無月は、勉強も一番です」
 このインタビューは、翌日、つまりきょうの朝刊に、そっくりそのまま載った。もしカズちゃんに、野球をやりつづけましょうと励まされなかったら、たぶん青高のグランドにも姿を現すことがなかったし、八本のホームランを打つこともなかっただろう。いずれにせよ、マスコミの力のおかげで、きょうのスタンドはぎっしり満員だった。ベンチで満足げにふんぞり返って相馬が言った。
「私はもう何も望むことはないよ。自分が監督のときにベストエイトまで進む幸運にめぐり合えてよかった。阿部、今朝の新聞記事、すてきだったよ。神無月はこれまでの五本の記録を塗り替えて八本、阿部は三本、神山二本、一枝一本、藤沢一本、都合十五本のホームランをたった三試合で叩き出したんだ。神無月はまだ一年生だからスカウトは押しかけてこないが、来年以降たいへんなことになるだろうな。押しかけてもどうにもならないんだけどね。そういえば、阿部、明治からお誘いがあったらしいじゃないか」
「はい、電話がきたじゃ。ふつうに受験しても受がる大学でねし、ありがだくお受げしました。明治蹴って、浪人して、難しい国立さ進んでプラカラ野球をすんのもあべし、高校出て地元の会社さ就職してプラカラ野球すんのもあべし、どうせプロにならねオラんどみてなふつうの野球選手は、どうとでもなるべたって、心配なのは神無月の将来よ。野球するにはなんたかった東大さいがねばなんねべ。並の大学いったんでは、二十歳まで妨害されるんだべ。東大さ受がるのはラグでね。そのうぢほとほと疲れでしまって、面倒くさぐなって、勉強も野球もいまぐいがねぐなって、ドッと崩れるんでねがって。なんだが不吉な感じがしてよ。先生、天才ってやつは、うまぐいがねぐなると、ドッと崩れることが多いんだべ。……神無月がうまぐいぐよう、見守ってやってけろじゃ」
 私はボロリと涙をこぼした。みんなシュンとなり、私の肩に手を置いたり、腕を握ったりした。相馬は充血した目を私に向けた。
「神無月。きみはなにか人目に薄幸な感じがするんだろう。私も同じ気持ちだ。きみは人にせっせと運んできて、自分は何もほしがらないという雰囲気を持ってるからね。見守るなと言われても、どうしても見守りたくなる人間だ。そんな人間には、がんばって好きなように生きろと言うしかないんだよ。東大も、プロ野球も、私たち凡人が口出ししてもどうにもできないし、何の方針も与えられない。とにかく精いっぱいがんばってくれとしか言えない。何か転機がきたら、できるかぎりの手助けをさせてもらう。そのつもりでいるからね」
「……はい。全力を尽くします」
「こればっかしだ、神無月は」
 藤沢が私にヘッドロックをかけた。
「イグゼ、イグゼ、イグゼー!」
 神山が目をこすりながら叫んだ。今西も洟をすすり、
「神無月、またあの女がいるど! ホームラン見せでやれ」
「ようし、守備練習!」
 きょうの相馬は内野を重点的に微妙に逸れたノックをし、外野には一本ずつ、正確にライナーのワンバウンドを打った。阿部も今西も私もその一本を渾身の力でバックホームした。相馬はきっとかなりの野球経験者にちがいないと思った。
         †
 ベンチ前の円陣で私は言った。
「みなさん、きょうはホームランを狙ってくれませんか。その結果は三通りです。ホームラン、ヒット、アウト。ランナーが溜まったときも次の人がホームランで返そうとしてください。結果は三通りです。ホームラン、ヒット、アウト。この繰り返しで得点を重ねましょう。阿部さんの言ったとおり、アッパースイングをしてください。ヘッドアップせずに。ボールを最後まで見定めないとヘッドアップになります。時田さんは四試合目になるので、少し研究されてきたと思います。一試合ずつ、肩も疲労してきます。それでもあのナチュラルシュートはなかなか打てません。三振よりも、内野ゴロが多くなると思います。それが相馬先生のきのうのノックの意味です。守屋さんと白川さんは、七、八回の裏を投げるつもりで、肩を作っておいてください。きょうもコールドで勝ちましょう」
「オェース!」
 そのとおりの結果になった。六人が九本のホームランを打ち、十九対六で七回コールド勝ちをおさめた。私が三本、神山が二本、阿部、藤沢、一枝、非力な今西までが一本打った。六回に時田が打ちこまれて四点を奪われ、リリーフの守屋と白川が一点ずつ取られた。時田の肩を休めるために、準決勝はコントロールのいい白川が先発することになった。
 試合後はまるで決勝戦のあとのように、フラッシュとインタビューの嵐になった。相馬が引っ張り出され、阿部が引っ張り出された。私はベンチ裏に仲間といっしょに逃げこんだが、二、三人のテレビレポーターに捕まった。私は振り払うように言った。
「奇跡的にこの場にいられるのは、仲間たちの友情のおかげです。もし来年もこういうチャンスがあったら、自分の記録を塗り替えたいと思います」
 最終打席でレフトポールぎわにホームランを打ちこんだ今西にマイクが向けられ、
「この一本は一生の記念です。これまでは外野フライもログに打でながった。わたくた努力することでしか自分を変えられね。神無月に教わった」
「神無月選手は救いの神ですね」
「そたらもんでね。それ以上だ。みんな神無月の愛情を感じてら。神無月からあふれる純粋な愛情だ」
 二時間半の試合を終え、昼下がりの道をみんな寡黙に歩いた。涙を流している者が多かった。相馬も泣いていた。阿部が問いかけた。
「神無月、おめ、何者だ」
「ちょっと不運を経験した、幸運なセンチメンタリストです」
 きょう三本目のホームランを打ってホームインしたとき、胸を両手で抱えて真から幸福そうに笑ったカズちゃんの顔を思い浮かべた。
「不運で、幸運て……矛盾してねが」
「はい、矛盾のかたまりです。幸福のくせに悩み癖があるといったほうが正確かもしれません。愛情と友情に満たされているのに、なんだか悩ましいんです。悩んで生きるしかできないので、そのまま生きようと思ってます」
 相馬が笑いながら言った。
「神無月の言うことを理解しようと思うな。聞き流せ」
 相馬は、部員たちとこの新参者とでは経験と感覚があまりにもちがいすぎていることを、そして、この先どんなに年数を経ても、ほんのわずかでもこの男ほどの危険な魅力を持つことはできないことを、強く感じないわけにはいかなかった。秀才の藤沢が、
「神無月郷が何者か説明することはだァもでぎねよ。言葉では表現でぎね。感情と精神が到達したものだべ」
「イグゼー!」
 と神山が叫んだ。
「もう、こったらこど、人生で二度ねえべ。二度ねえことが、あしたもあるんでェ。なあ神無月、十年後、三十年後も、ンガに会えるがな」
「忘れないかぎり、会えます」
 瀬川が、青高健児! と張り上げた。上級生たちは一年生部員がうろ覚えのその歌を高らかに唄いはじめた。相馬も右手を振り上げて声を合わせた。


         二十六
 
 翌二十一日の準決勝の相手は、驚いたことに野辺地高校と決まった。帰宅したとたんに赤井が知らせてくれた。
「赤井さん、野球に興味が出てきたんですか」
「こごまでンガが騒がれれば、気になるべせ。ラジオで聞いだ」
 一家で一人だけ応援にきて、いち早く帰宅して遅い昼食を用意していたミヨちゃんが、
「とにかく、ごはん、ごはん。お腹、ぺこぺこでしょう」
「オラも、待ってたんでェ。だれもいねんだもの。きょうで三度目だ」
「文句言わないの。結局は食べれるんだから。神無月さん、ごめんなさい、作る時間がなくて、お肉屋さんで買ってきちゃった。メンチとコロッケとポテトサラダ」
「大好物だ!」
「ワも!」
「おじさん、ごはんよォ、お待たせ」
 すぐにサングラスが出てきた。
「神無月くん、よぐやったでねが。ラジオ聞いでで、涙止まらなぐなってしまって。こったら目でも、涙は出るんで」
 冷めしが絶品だった。みんな二杯おかわりした。ミヨちゃんが後片づけに立つと、奥さんが帰ってきて、
「神無月さん、おめでとう!」
 と笑いかけ、有無を言わさず抱き締めた。ミヨちゃんが目を光らせた。あんぐり口を開けていた赤井が、
「おばさん、ワも頼むじゃ」
「だめよ、京大に受かったときにしてあげる」
 やがて主人が荒々しく玄関を開けて、居間にどしどし入ってくると、私と固く握手をした。
「神無月くん、不滅の十一本、おめでとう! じつは、役所に届を出して、ネット裏さ観にいったんだ。いま、もう一度戻って、残務整理してきた」
「なんだ、おとうさん、ずるい。私も近くで神無月さんを見たかった」
「私もですよ、抜け駆けなんかしちゃって」
「すまん、すまん、矢も楯もたまらなくなってよ。百七十五センチのからだのどごに、あったらパワーがあるんだろうね。あしたは一家で応援さいぐよ。奥山先生もくると連絡があった。野辺地高校か。たまげるような因縁だな」
「野辺地を忘れるなという意味だと思います。名古屋から戻ったら、一週間ぐらい祖父母の顔を見にいってきます」
「それはいいことね。お祖父さんお祖母さん、泣いて喜びますよ」
 赤井が、
「あしたがら夏休みだ。函館さ二週間いってくる。帰ってこいって、おふくろがうるせんだ」
「毎年、一度ぐらいは帰ってあげないとね」
 まさか、〈オヤジの女〉が帰ってこいと言っているのではないだろう。
「おばさん、下宿代半分回してください。旅費と小遣いだ」
「はいはい、承知してますよ。それも毎年のことですからね」
 赤井のことにはかまわず、主人が、
「どうせ勝ち進むんだべと思ったがら、八時にレストランの予約を取ってあるんず」
「レストランたら、三年間で初めてだっきゃ。贔屓だでば」
「歴史だよ。歴史達成のお祝いだ。こったらこどがしょっちゅうあったら破産するべ」
 ひさしぶりにテープレコーダーを回した。十歳から十五歳の日々。ついこのあいだのことなのに、遥かな時間の隔たりを感じる。愛に満ちていた人びと。にじり寄り、騒ぎ回り、大切な時間をかき乱した連中のせいで、幻になってしまった人びと。
 八時までこの一週間の数学と古文の復習をした。三角関数の公式が作られる手順の勉強が楽しかった。古文は砂を噛むように味気ない文法の勉強をした。勉強の合間にどうしてもカズちゃんのことを思い出す。名古屋にいても、野辺地にいても、青森にいてもまったくちがわない。常にカリスマ性があり、人を楽しませて微笑ませ、笑わせる。意識して人を和ませるわけではない。もののわからない人の前でときにエスカレートすることはあっても、すぐ独特のユーモアに紛らせる。そしてそれが常にカズちゃんなのだ。
 タクシーを二台呼んで、青森国際ホテルまでいった。一階レストランのテーブルに六つの顔が向かい合う。ミヨちゃんはサングラスの隣についた。生きる張り合いの出た奥さんの顔。細かいところがミヨちゃんに似ていてハッとする。
「こういう正式なとごは、堅っ苦しぐてまいねな」
 赤井が亭主に言う。サングラスが、
「フォークとスプーンで適当に食えばいいんだじゃ」
 ビールが出てきたので、
「ぼく、小四のときに親戚の叔父に初めてビールを飲まされました。後味のいい飲み物ですね」
 思っていることの逆を言った。
「それ、催促ですか? 未成年にはやらね」
「おじさん、オラ十八になったすけ、一杯ください」
「日本の成人は明治九年太政官布告以来九十年、二十歳だど」
「婚姻可能年齢、男十八、女十六、性行為同意年齢、男女とも十三歳」
「馬鹿なこど言わねんだ」
 亭主は笑いながら赤井のグラスについでやった。
「赤井のグラスは、赤いグラスってが」
 おもしろくもない赤井のシャレに、みんな笑った。主人が、          
「キャプテンのインタビュー記事、いがったなァ。ジンときた。あんなふうにみんなに愛されて神無月くんが野球をしてるとは知らねがった。神無月くんがどんな人間か見たくなって、あったらにお客さんがつめかげたんだおん。期待を裏切らねがった。神秘的で、輝いてだ。バットがブンと回って、ホームランが三本もスタンドさ飛びこんでった。そのたんびに、神無月くんが魔法みてにきらきら光るんだ」
 ミヨちゃんが野菜サラダにフォークを刺してサングラスに持たせる。オジサンは野菜を噛みしめながら、
「常に周りとちがってる。偉大になるために生まれたんだ」
 目が潤む。奥さんがミヨちゃんに目をやり、
「神無月さんはほんとに人とちがいますね。私もときどき、神無月さんをじっと見つめてしまうことがありますよ。……こう、人間離れしてて。ねえ、美代子」
「そう、胸がギューってなるの」
 亭主が、
「もちろん外見も美しく生まれたんだろうが、しかし、神無月くんは内側から光ってるんだよ。内が伴わねと、外の美しさもくすんでしまる」
 赤井がうなずき、
「神無月は期末試験で全校の一番になったじゃ」
「私の言う内側というのは、そういうことでね。そたら内側なら、役所にいくらでもいるすけ」
 野菜サラダを食べているうちに、ビーフシチューとライスが出てきた。
「さ、食うべ。ここの〈めぇもん〉だ」
 カズちゃんは、私が魚肉以外は肉というものを好まないことを知っているので、まず料理のメニューに入れない。噛んでみた。くさみはないが気持ちが引ける。思い切って飲みこむ。
「おいしいですね」
「うめなあ」
 赤井が頬をふくらまし、ミヨちゃん母子もうなずき合っている。サングラスも上を向いてあごを動かしている。亭主は得意そうにみんなを見回しながらナイフとフォークを使う。カズちゃんにせっかく説き伏せられていた罪悪感が頭をもたげてくる。どう理屈をつけても、このやさしいご主人に対する罪悪感が消えない。
 カズちゃんは挑んでくる女を道徳など考えずに受け入れなさいと言った。ところが彼女は、私と関係を結ぶためにそれまでの男との関係を清算した。世間的な道徳から解放された自分を私に与えて、私を罪悪感から遠ざけた。ぜったい自分と私の関係については、私に社会的な悩みを与えないようにした。度量という代物が罪悪感をともなった経験によって鍛えられるとするなら、カズちゃんは自分を与えたときだけは私を度量の涵養から遠ざけたことになる。
 カズちゃんは、もともと道徳に枷をされない私を慈しみたいのであって、道徳に悩む度量など涵養するつもりはない。カズちゃんだって私の不道徳な行為には胸が痛むのだ。しかし、そんなものでチマチマ悩むなら、思い切って不道徳に生きてしまえ、どう生きようと私はキョウちゃんを愛しているのだから、ということだろう。でも、カズちゃんは私を悩ませないために、私の不徳義な相手の幸福のことを口にする。私以外の人間の幸福のことなど気にしていないのに。
「神無月くん、どした、ぼんやりしてしまって。きょうは疲れたんだべさ。さ、あしたの準決勝は一時からだ。デザート食って、タクシーで帰るべ」
 テーブルが片づくと、チョコレートパフェが出てきた。一度だけクマさんに平畑の喫茶店で食わせてもらったことがある。クマさんはうまそうに食う私の顔を見つめて笑い、曲がった鼻に皺を寄せた。甘物はサングラスのオジサンの大好物のようで、ミヨちゃんに長いスプーンを渡されるやいなや、悠然とひと匙ひと匙掻き取りながら、跡形なく底まで浚い切った。
         †
 七月二十一日水曜日。薄曇。気温十九度。亭主の新聞切抜きの行事。

   
怪物日々記録更新 ただいま十一本! 
      
野球の神降臨! 野辺地出身の天童野辺地高校と準決勝へ
 ここに私がいるのは友情の賜物。チームメイトを見やりながら怪物が微笑んだ。ここまで四試合、すべてコールド勝ち。初戦大湊戦十六対二、二回戦青森西戦十一対ゼロ、三回戦七戸戦十三対一、四回戦八戸高専戦十九対六。神無月のホームランはそれぞれの試合で、四本、二本、二本、三本。
 チーム全員で、まるで校庭のソフトボールみたいに、うれしそうに白球を弾き飛ばし、得点を叩き出す。奇妙なことにベンチはほとんど声を出さない。監督以下真剣な眼差しで試合を見守っている。ところが神無月の打席になると、みんなで声を振り絞る。盗塁はここまでゼロ。ひたすら打ちまくって、神無月の打順を待つ。神無月がホームランを打って戻ると、全員で抱きつく。神無月は慈母神のような微笑みで応える。
 五年前の甲子園大会出場以来、この四年間、予選一回戦ボーイの汚名に甘んじてきた県下第一の受験名門校青高(セイコ)の大変身だ。その核となっている神無月郷とは何者なのか。阿部主将は訥々と語る。
「神無月のワンマンチームのように言われていますが、そうではありません。神無月は謙虚な男で、いつも目立たないようにしてますし、指揮権などもふるったことはありません。ぼくたちが勝手に刺激を受けているんです。ある日、とつぜん、青森にフラッとやってきた月光仮面です。そのうち、フッといなくなるのではないかと心配です。小中学生のころは名古屋のホームラン王だったと聞いています。今度はどこにいくんでしょうか。とにかく、神無月はむかしのことは語りたがらないし、野球をやってるとき以外は寡黙ですから、ぼくたちには謎のままです。謎の美男子のスーパーマンというところですね。(高らかに笑い)ランニングのスタミナがないのが愛嬌ですが、バッティングはだれもまねできません。球に当てる瞬間の手首の動きが速すぎて、よく見えないんです。模範にならない男です。ちなみに神無月は、勉強も一番です」
  まことに神秘的である。月光仮面、スーパーマンとしか表現できないのだ。相馬監督いわく、
「神無月はこうして野球をやるまでに、苦難の谷を渡ってきました。どういう苦難だったかは、いずれ彼がプロ野球選手になったときに明らかとなるでしょう。一つだけ、いちばん小さな苦難を申し上げておきましょう。彼は左肘の手術の失敗から立ち直って、中学一年のときに刻苦して右投げに換えています。その余の精神的苦難は、人びとが推しても知ることができないでしょう。私は語りません。それは彼がプロ野球チームにめでたく入団するまで、これからもつづきます。彼がバッターボックスに立っているのは奇跡です。私たちは彼を抱き締めることしかできないんです」
 その推し量れない内容は、われわれ新聞人は愛知県のある専門筋から仄聞している。神無月の親族の意向に関わることなので、紙面にはつまびらかにしない。簡単に言うと、野球選手としての進路に多大な障害が横たわっているということだ。神無月の一打席一打席が奇跡だという所以である。



         二十七

 十一時。グランドに集合したとたんに阿部が言った。
「神無月、野辺地だ!」
「はい!」
「めぼしいのはいるが? なんの噂もねど」
「野辺地高校に野球部があるということだけは、むかしから知ってました。叔父が野辺地高校の野球部員でしたから。きょうは、野辺地中学校の担任だった先生が観にくるそうです。いま下宿している大家さんの親戚なんですよ。彼の目の前で一本打ちたいなあ」
 一人だけ洗濯のきいたユニフォームを着た相馬が、
「きょうから夏休みだ。青高もほとんどの先生が観にくるぞ。七回には応援団がエール交換するらしい。一本と言わず、二本でも三本でも打ってくれ。準決勝からコールドがないのは知ってるな」
「はい。中学校と同じですね」
 相馬に率いられ、みんなきのうの泥まみれのユニフォームで歩きだす。白川が緊張した面持ちで歩きながら、道の両側で揺れる稲穂に目をやっている。
「白川、守屋、時田の順でいくからな。時田、肘と肩はだいじょうぶか」
「なんもよ。いつでもいげら」
「白川さん、直球を外のコースに投げておけば、まず打たれませんよ。引っ張れっこないんで、一、二塁間と二遊間を狭く守ればほとんど引っかかります。ヒットになるなら、ポテンです」
 阿部が、
「だば、外野は前進守備でオッケーだな。抜がれで点を取られだら、すぐ取り返してやるはんで、安心して投げろ」
 相馬が、
「交代の目安は、三者連続安打だ。あくまでも目安で、代えるわけじゃない。投げたいなら、一人で投げ切ってもいい」
「おいおい、先生、守屋と俺にも出番を回してけろじゃ」
 時田が相馬の尻をこぶしで突いた。
「おまえは決勝の主役だよ。たぶん東奥義塾だろう。義塾はピッチャーがいいから、接戦になると思うぞ」
 神山が、
「決勝がァ! 夢なら醒めるなじゃ」
 相馬が、
「神無月の話はどんどん実現していくから、恐くなるね」
 その名のとおり顔もからだも細い一枝が、
「神無月、きょうのバッティングの指導はねのが」
「きのう言ったとおり、ヘッドアップなしのアッパースイングです。ただし強く振る。強くヒッティングしたボールは、打ち損なって外野のライナーや内野ゴロになっても、エラーしてくれる確率が高いんです。エラーや内野安打でランナーが貯まったら、次のバッターで根こそぎいきます。外野フライの延長がホームランですから、常に外野に打とうとしてください。初戦で神山さんがチョコンと打ったホームランがそうでした。どこかで集中攻撃ができて、大量得点でもできれば、それで試合は決まりです」
 試合前の守備練習のときに、野辺地高校チームのメンバーの顔を見渡したが、知った顔は一つもなかった。選手はほとんど二、三年生なので、あたりまえと言えばあたりまえだが、町なかでも見かけたことがないのは不思議な気がした。みんな垢抜けないだぶだぶのユニフォームを着て、胸や尻に歴戦の泥がこびりついている。背番号はぺらぺらした真新しい角巾だった。
 球場が一万人の観客でびっしり埋まっている。立ち見の客を数えるともっといるだろう。スコアボードの旗が強く左にたなびいている。右打者のホームラン風だ。
 守備練習につく。きょうもバックネットの中段にカズちゃんの顔があり、おたがいそれと知らずに、三列ぐらい前方へ離れたところに葛西さん一家の顔があった。西沢はじめ、青高の見知った教師たちの顔が三塁ベンチの上に並んでいる。勢揃いした生徒連中のあいだに木谷千佳子や鈴木睦子や古山の顔も見えた。
 三塁ベンチの上の応援団の陰に、奥山先生の丸い顔が見え隠れしていた。彼の隣に、ヒデさんと山田三樹夫の妹がいた。二人は仲よさそうに語り合いながら、絶えず私を見つめていた。レフトから手を振ると、すぐに気づいて振り返した。彼女たちに教えられて奥山先生が立ち上がり、大きく両手を振った。いったい彼らはどちらを応援しているのだろう。 
 ふと、奥山先生の隣に野月校長が坐っているのが見えた。私は驚き、守備位置から三塁ベンチに向かって深々と一礼した。気づかないようだったので、ベンチ前まで駆けていって、からだを折った。フラッシュがいくつも光った。校長が立ち上がると、ぞろぞろと何人もの夏服の教師が立ち上がり、礼儀正しく辞儀をした。中村のマサちゃんや、立花先生や、フジムラ藤村や、そのほかもろもろの顔があった。
「神無月くん、がんばりなさい!」
 校長が叫んだ。私はもう一度礼をした。
 練習を見るかぎり、野辺地高校の守備は堅実だった。ピッチャーは軟投型で、担ぐような投げ方が肩の弱さを示している。カーブを武器にしているようだ。待ちきれずに手を出すと、内野ゴロを打たされてアウトを重ねそうだ。ほかのチームはそれにやられたのだろう。阿部が、
「おい神無月、野辺地の守備、よさそうだでば」
「きょうもホームランを狙いましょう。ホームランは守備と関係ありませんから」
「ンだな。おめんど、はなっから長打狙いでドンドンいぐべ!」
「ヨシャ!」
 試合開始のサイレンがなった。頭上で応援団の太鼓が打ち鳴らされる。
「プレイボール!」
「でっけえやづ打ってくるじゃ」
 三上がバットをブンブン振り回しながらバッターボックスに向かった。
「三上さーん!」
「三上ィ!」
 スタンドから声援が上がる。この四戦ですでにみんな人気者になっているのだ。初球アウトコースへ暴投。カチカチになっている。こちらはとにかく大振りだ。三上は二球目の内角球を思い切り掬い上げた。ボールは高く舞い上がり、レフトの中段まで飛んでいった。割れんばかりの歓声の中、三上はゆったりとダイヤモンドを回る。
「泣いでら、あれ」
 一枝が自分も目を潤ませながら指差す。
「コールドはねけんど、十点は取るべ!」
 瀬川がベンチの中を駆け回る。三上が腕で目をこすりながらベンチに走りこんできた。全員と握手していく。キン、という音にグランドへ目をやると、今西が一塁を回ろうとしていた。センターオーバーの二塁打。阿部、三塁線を破る二塁打。二点目。きょうもまたとんでもないことが起こるのかと、場内が騒然としている。私が打席に向かうと、歓声がピークになった。
「神無月ィ! 頼むどう」
「神無月くーん、ホームラン!」
「いろおどこォ!」
 阿部が二塁上で、ライトスタンドを指差している。私はうなずいた。初球からぜんぶいこう。野辺地高校のピッチャーはいっちょまえに、外野にバックの指示をしている。青高はそんなむだなことはいっさいやらない。自分で勝手に守備位置を変える。シートバッティングに真剣に励めば、するどい勘が養われるのだ。五月の末から二カ月間、青高野球部は体力増進ばかりでなく、しっかり野球そのものの鍛練にも励んできた。
 初球高目のカーブ。目が離れてとんでもない空振り。ヘルメットがずれた。笑いの混じった歓声がドッと上がる。ホームランを打とうと気持ちが急(せ)いている。二球目、顔のあたりのクソボールをバックネットへファールチップ。同じようにウオーという歓声。振り返るついでにカズちゃんと葛西一家を見る。カズちゃんは愛らしく右こぶしを突き上げ、ミヨちゃんは祈るように手を握り合わせている。だれも笑っていなかった。気持ちを落ち着かせる。三球目、ほんの少し外角へ流れた低目のボールを踏みこんでしっかり叩いた。センター目がけて真っすぐ伸びていく。ダウンドライブして左中間のフェンスに当たるかもしれない。二塁打を想定して一塁を大きくカーブしながら曲がろうとしたとき、センター左の観客席の中へボールが飛びこむのが見えた。
 大きな喚声がまとまって空に昇った。キャーというするどい声が混じる。ブラバンの金管の音がグランドを切り裂く。二塁を回り、三塁を回る。フラッシュがあちこちで光る。観客が総立ちになって拍手している。野辺地ベンチの監督も拍手している。私が野辺地出身であることを知っているのだ。三塁を回るとき、また瀬川が虎のようにベンチを右往左往している姿が見えた。ホームインしてベンチへ駆け戻る。これで四点。相馬が、
「ナイスバッティング、十二号おめでとう!」
 と興奮しきった声を上げた。ブラスバンドが新曲の鉄腕アトムを華々しく演奏する。神山は高いレフトフライ。藤沢右中間三塁打。一枝レフトオーバーの二塁打。五点。瀬川センター前ヒット。六点。時田セカンドゴロ。一番に戻って、三上浅いセンターフライ。ようやく一回の攻撃が終わった。6という数字がスコアボードで回転した。
「白川さん、直球ですよ。外角よろしく」
「オー!」
 一塁ベンチの上で突撃ラッパの音が響きわたった。あの張りのある音は中野渡だ。野辺地高校のためにわざわざ応援に駆けつけたのだろう。相馬に、
「あれは、野辺地中学校から山田高校にスカウトされた中野渡というやつのトランペットです」
「そうか、力のある音だね」
「……先生、横国では野球部でしたか?」
「うん、一応レギュラーだった。セカンド、百六十三センチのチビだからね。それでも三番を打ってた。バッティングの難しさと、センスの先天性はわかってる。神無月は天才だよ。いますぐプロで通用する。さ、守備につけ!」
 小さい先頭打者がバッターボックスに入る。からだを低くしてストライクゾーンを狭めるようにする。いらぬ細工だ。白川は手首を効かせた直球を外角へ投げこんだ。うまくミートして強いセカンドゴロ。三上が華麗に処理する。野辺地高校の残念太鼓が連打される。大柄な二番打者。鈍くさそうだ。脇を広く開けているので、内角に投げれば百パーセント詰まる。白川は内角に気持ちを切り替えてくれるだろうか。以心伝心、神山が内角に寄った。ドン詰まりの三塁フライ。
「よし、よし、よーし!」
 センターから阿部の声が飛んでくる。三番は細身の左バッター。ミートがうまそうだ。外角低目を二球見逃し、三球目の真ん中高目を三塁の頭上へ流し打った。早い打球が白線を噛み、レフトのファールフェンスにツーバウンドで当たる。クッションボールを素早く捕まえ、セカンドベース目がけて全力で低いボールを返す。二塁寸前タッチアウト。一塁側の観客席がお祭り騒ぎになった。私はなぜか照れくさく、うつむいてベンチへ走り戻った。
 試合は初回の表裏で決したようなものだった。それでも青高は攻撃の手を緩めず、二回から九回表まで、二、二、三、一、四、一、一、五、と毎回得点を重ね、二十五対三で大勝した。きょうもホームランが乱れ飛んだ。私が三本、阿部が一本、神山が一本、なんと三上が二本、合計七本。観衆はたぶん、プロ野球の一方的な打撃戦を見ているような感じを抱いただろう。
 白川は六回を零点に抑え切り、七回のエール交換の直後に、クローザーで出た守屋が三者連続フォアボールで満塁にして、下位バッターの連打で三点を取られた。あわててリリーフした時田が、九回までの後続をすべて内野ゴロと三振に切って取った。
 試合終了。守備位置から駆け戻る。整列。礼。尊敬に満ちた視線がくすぐったい。握手をし合う。全員野辺地出身者だ。胸もとに吸いついてくる者もある。
「合船場だツケ。オラ、浜の工藤だ」
 そう言われてもわからない。
「岡田の長男だ。話聞いてら」
「パン屋の?」
「おお」
 岡田パンに兄がいて野球をしているとは知らなかった。私はホームベースから、あらためて三塁ベンチ上方の人びとに深々と礼をした。彼らも拍手しながら立ち上がり、丁寧な礼を返した。ベンチに入ると、小さな安西マネージャーが飛びついてきた。フラッシュの瞬きがいつまでもやまない。呆気にとられたといった空気が、試合後いつまでも場内を支配しつづけた。両校のブラバン演奏が延々とつづく。
         †
 審判団が引き揚げ、野辺地高校の青年監督がやってきて相馬と握手した。
「やあ、戦いを忘れて堪能してしまいました。プロと幼稚園ほどのちがいがありましたね」
「野辺地から神無月をいただいちゃって申しわけありません」
「そのことですよ。十四号ホームラン。人間業じゃない。神無月くんが野中から野高にきてくれていたらと思うと、あきらめ切れません。しかし、たとえ神無月くんが野辺地高校にきてくれていたとしても、うちの選手たちでは彼をバックアップし切れなかったでしょう。結局彼一人に頼ってメロメロです。青高チームには基本的に彼を生かすような打線の強さがあります。うちにはありません」
「その強さは神無月が育てました。彼の主導する日々の鍛練でね」
「そうですか。やはり野高にきてほしかったな。決勝は東奥義塾でしょう。強敵です。油断せずにがんばってください。かならず甲子園へいってくださいよ。上品に十点ぐらいでやめとかないで、バンバン取ってください。来年からは連続優勝校ですね。うらやましいな」
 相馬は返す言葉を思いつかず、ただにこにこ笑っていた。青年監督は私とも握手した。
「きみはいま、北の怪物と中央のマスコミでは言われているそうです。尾崎のように高校二年で中退してプロにいくかもしれませんね。奥山先生がくれぐれもよろしくとおっしゃってました。今朝、かわいらしい女の子二人と、宿舎の旅館を訪ねてくれたんですよ。頭もスーパーマンだから、選択肢が多すぎて、気持ちの集中しない人生を送るんじゃないかって心配してました」
「は?」
 私が首をかしげると、相馬は少し気分を害したふうに早口で呟くように言った。
「神無月、気にするな。おまえの選択肢はたった一つだ。たくさんの選択肢なんか目に入らないし、頭かスポーツかなんて選択もしないし、その一つの集中度もすごい。人から気が散る性格に思われるように生まれついたんだから、そんなのは無視して好きなように生きればいいんだ。かならず思ったようになる」
 ここまで出番のなかったキャッチャーの室井が、そっと私の肩を抱いた。彼だけはまだ二年生だった。来年も私とプレイできるという親しみが強かった。相馬は青年監督に、
「野球は神無月の情熱です。情熱を注げるものがあるのは幸せなことです。つらいことがあっても野球をやめないのは、情熱があるからです」
「そのとおりですね。神無月くんはまちがいなくプロ野球にいきますよ。プロ野球で活躍する姿を早く見たいなあ。じゃ相馬さん、チャンスがあったら、また胸をお借りします」
 新聞記者が青高のベンチ前に入り乱れた。だれかれとなくつかまえてはインタビューする。カズちゃんが大きく笑いながら手を振って去っていく。私も応えて手を振った。ミヨちゃんと主人が勘ちがいして手を振った。奥さんも胸もとで小さく手を振った。奥山先生とヒデさんと山田の妹も手を振って去っていった。野月校長たちも恥ずかしそうに手を振った。私は記者たちを掻き分けて、もう一度深くお辞儀をした。
 三時間に届くゲームだった。西の空の裾が薄赤い。みんな夕餉の食卓へこぞって帰っていく頃合だ。一人の記者につかまった。三人、五人と寄ってくる。
「決勝戦の意気ごみは」
「ありません」
「これまでのトーナメント記録を九本も上回ったわけですが、ご感想は」
「ホームランの爽快さを、ぼくだけでなく、みんなに味わってもらえたことがうれしいです。この記録はたぶん破られないと思います。記録を作るだけの運があったんでしょう。青森高校の野球部に入らなければ、記録は作れませんでした。それも運です」
「甲子園にいったら、何を目標にしますか、やっぱり優勝ですか」
「ホームランです。野球は個人技ですから」
「チームプレイじゃないんですか」
「チームのためを思ってやるプレイなど、邪道です」
 記者たちがざわついた。私は苛立った。
「打てばチームのためになります。ファインプレーをすればチームのためになります。三振を取ればチームのためになります。野球はサッカーやラグビーのように集団で押し寄せたり退いたりして連携を図るゲームじゃありません。マウンドに一人きり、バッターボックスに一人きり、守備位置に一人きりの孤独なゲームです。以上」
 私はすたすたと記者たちの輪から離れた。
「阿部キャプテン、円陣を組みましょう!」
「オー、おめんど、円陣!」
 がっしりと円陣を組む。
「決勝も勝つぞー! イグゼー、イグゼー、イグゼー!」
「イグゼー、イグゼー、イグゼー!」
 決勝戦の相手校は東奥義塾だと相馬から知らされた。
「神無月、きみのいまの言葉で、チームというものの本質がはっきりわかったよ。ありがとう。勝っても負けても個人が充実感を覚えなくちゃ、スポーツじゃないね」
「はい。メンバー同士愛し合っていれば、残るのは個人プレーだけです。個人は技を磨かなければなりません」
「みんな、あしたは一日ゆっくり休んでくれ。自主練習は止めないが、なるべく休め。じゃ、あさって、青高グランド十一時集合。人員が多いので、バスで球場までいく」
 球場の外へ出たとたん、今西が叫び上げた。
「合浦ゲントウ、斉唱!」
         †
 シャワーを浴びてサッパリした。脱衣所に下着を置きにきた奥さんにうなずきかけると、
「はい―」
 小さく返事をし、こぼれるような笑みを浮かべてうなずいた。 
 ビフテキの夕食になった。帰郷した赤井の姿はない。いつのまにか奥さんが、それと気づかれないような薄化粧をしている。
「決勝進出、おめでとう!」
 主人がビールのコップを掲げる。サングラスと奥さんがつづき、私とミヨちゃんもジュースのコップを掲げた。打ち合わせる。
「ありがとうございます」
「神無月くん、まずお礼を言わせでもらうじゃ。きょうまで生ぎてきていがったとつくづく思った。こごにいるみんなも同じだと思る。それから、前人未到の十四号ホームランおめでとう。オラは後人未到だとも思る。二本目のスコアボードに当たったホームラン、推定百四十メートルだそうです」
「収穫は一本目でした。ああいうバットの押し出しをしてもホームランになるんだってわかりましたから。会心の当たりは、三本目の右翼ポールに当てたやつです。ああいう軌道がいちばん気持ちいいんです」
 サングラスがアハハと笑い、
「神無月くんは、野球だげだな。一途で、心が洗われるじゃ」
「……遠大な目標のない人間ですから、目先のことに一途になれるんです」
「野球は遠大な目標じゃないの?」
 奥さんが訊く。
「もう目標に達してます。大好きなことをいまやってるんですから。目標というのは、いましていることに満足しないで、遠く眺めるものでしょう。そういう意味の目標はぼくにはないんです」
「プロ野球が目標じゃないの?」
「うんにゃ。そたらのは、なんも目標にしねくても、とぎの流れで、好ぎだこどやってるうぢにおのずと手にへるものだべ。高校野球もプロ野球も、大好きだ野球には変わりねべ。同じこどしてて、金けるようになるだげだべ。神無月くんは正しいこどへってるでば。ずーっと先でねば手に入らねおんた遠大なものがアダマにあったら、いづまでもおもしろぐ暮らせねべおん。神無月くんのへるように、目標ってのは目先の好きだこどだんだ」
 サングラスがうなずきながら言った。
「そのとおりだと思います。野球をしたり、勉強したり、そして、人を愛したり……」
「そういう考え方するふとこそ、理想的なふとだ。あんたみてな理想的なふとも、いづか死んでまると思うと、もったいねな」
「また、お兄さん、縁起の悪いことを。神無月さんはまだ十六歳ですよ。死ぬの生きるのって年じゃありませんよ」
「ンだな、オラは棺桶が近いすけ、くだらねこどばりしゃべってしまる」
 彼は私の感覚にいちばん近いことをしゃべった。目標とは目先にすでにあるもののことだ。人が手中にできるのは目先のものだけだから。しかし、私は座を白けさせたくなかったので、黙って笑っていた。亭主が、
「義兄さんはワと同い年だ。言いてこど、よぐわがる。神無月くんには、でぎるだげ長生ぎしてほしい。いつか別れていぐ人だすけ、よげいそう思る」
 目が潤み、ミヨちゃんに伝染する。
「さあ、食べて食べて。肉が苦手だって神無月さんが言うから、最高級の新鮮な柔らかい肉を買ったんですよ」
「叔父さん、切ってあげる」
 ミヨちゃんがサングラスの肉を切りはじめると、みんな自分の肉をナイフで切り分け、フォークで突き刺して頬ばった。よく焼いてあるので、香ばしくてうまい。初めてうまいと感じた。
「きのうの国際ホテルのビーフシチューもうまかったけど、これは格別だ。肉が食えるようになりそうだ」
「よかった! 奮発して」
 亭主はサングラスにビールをつぎ、自分もグイと飲み干した。
「マコトちゃん、泣いてらった。さっき駅まで見送りにいってきたんです。神無月くんの将来が不安でしょうがねってへるんですよ。周りの人間が神無月くんを有名にするのはいいたって、有名にするだげして、結局ホッポリ出すんでねがって。名古屋から神無月くんが送られてきたとぎ、そういう宿命みたいなものを感じたって」
 奥さんが、
「神無月さんはとても繊細でやさしい人です。いまの状態を考えると涙が出ます」
 私は笑いながら、
「ホッポリ出されるのは、有名になろうとする情熱のない人間だけです。奥山先生の予感は正しいです。ぼくは有名になりたくありません。だからホッポリ出されます。それをぼくは怖いと思わないんですから、周りの人も怖がってほしくないんです。ホッポリ出されないと、日々思索の時間が減っていって、充実感が消えてしまいます」
 ミヨちゃんが、
「神無月さんには怖いことってないんですか」
「ある。想像の上でのことだけど、ある朝母に起こされて、おまえの人生はすべて夢だったと言われることだね。ぼくは毎日、しっかりとした現実の中で、好きなことを懸命にやったり、ぼんやり考えたりして生きていたいんだ。それをじゃまされないで生きていければ、生まれてきた甲斐がある。そういう願いを夢だと決めつけられると、怖い」
 亭主は感銘を受けたような眼を私に注いだ。
「神無月くんは……オラんどには推し量れね」
 サングラスがカラカラと笑った。
「あさっての決勝は東奥義塾が。強敵だな」
「五分五分だと思います」
 亭主は気を取り直して、
「むごもコールドを二っつもしてるチームだすけな。ピッチャーは青森県ナンバーワンの技巧派前田啓一。小さな大投手て呼ばれでら。フォークまで投げるらしじゃ」
「そうですか。フォークは、次がフォークだとわかっていても打てないものだと、阿部キャプテンから聞いたことがあります。きっと要所要所で、それを使って押さえにくると思います。ぼくたちの基本は大物狙いですからね。ストレートは打ち返すとわかってるでしょうから」
 食後の茶になった。
「あしたは青森テレビで全中継だそんだ。夕刊さ載ってる」
 主人は届いたばかりの夕刊の大見出しを示した。

   
テレビで北の怪物が観れるど!
          
地元青森テレビ決勝戦全生中継

 全国高校野球夏の予選も大詰めになった。大会記録の五本を大幅に塗り替えて、すでに十四本のホームランを放っている超高校級スラッガー・神無月郷外野手(十六・一年)を擁する県立青森高校対東奥義塾の決勝戦(二十三日午後一時)が、一試合まるまるテレビ中継されることが昨二十一日、青森テレビ放送番組制作会議で決定した。地元青森テレビが高校野球青森大会を一試合まるごと中継するのは初のこと。中央の各局もビデオ録画獲得に乗り出している。日本じゅうの野球ファンにはまさしく朗報だ。彼らにとって未知の存在と言える〈北の怪物〉神無月郷がどんな打球を放つのか、どこまで飛ばすのか、テレビを観ることによって一目でわかる。東奥義塾戦で優勝した場合の甲子園球場での試合は、注目の全国中継となり、いよいよその快打を広く世に示すことになる。

 亭主が、
「とうとう一試合まるごとが。神無月さんのやったこと考えれば、あだりめだべたって、おンどろいたな」
「テレビだば、まいね。現場で観ねば」
 サングラスが言う。
「もちろんそンです。あのスイングと打球はテレビではわがんねもの。すかし、大したもんだでば」
 それからは、主人とサングラスは今年のプロ野球の話に移っていった。ラジオの人であるサングラスはその種の話題によく通じていて、同い年同士で話が弾んだ。女二人と私はツンボ桟敷に置かれたのを幸い、食事にいそしんだ。

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