二十八

 勝利者に報道関係者が集まっている。二本ホームランを打った四番バッターが写真を撮られている。阿部ほどの選手には見えなかったが、彼には幸運のレールが先々まで敷かれるだろう。記者たちの一部がこちらに駆けてくる。相馬が待ち受ける。
「インタビューは晴れの日の義務だよ。みんな受けなさい」
 私はネットに向かって歩いていった。カズちゃん! しきりにハンカチで目を拭いながら手を振っている。微笑は一瞬のものだったのだ。葛西さん一家も手を振った。みんな泣いていた。
「すばらしかったよ、神無月くん! 一生の思い出ありがとう!」
 主人が叫んだ。周りで拍手が起こった。私は帽子を取ってお辞儀した。デンスケを抱えた記者が寄ってきた。ベンチに向かって歩きだす私に、横からマイクを差し出す。
「残念でしたね。この口惜しさをバネに、来年こそは優勝ですね」
「運がよければ―。口惜しくありません。力差が歴然としてましたから。かえってすがすがしいです。小学校以来やってきた野球が、いろいろな意味でここにきて実を結んだ感じです」
「記録の三倍以上のホームランを打ちましたからね。今夏の県大会の三冠王ですよ。文字どおり、北の怪物。全国区に知れわたりました。青森県の誇りです」
「ありがとうございます。人に誇りに思われるのは気持ちのいいことです。ぼくにかぎらず、好きなことに打ちこんでいる人間がもらえるご褒美は、きっとそれでしょう。でもぼくは、ただの野球選手です。ほかの人とまったくちがいません。できれば〈誇り〉の肩書を外してください」
「学業も優秀だと聞いてますが」
「素人です。野球しかできない人間です。運命のいたずらで青高にきただけですから。以上。失礼します」
 相馬がインタビューを受けていた。私はダッフルを担ぎ、インタビューを終えたばかりの阿部に、じゃ、また練習で、と声をかけた。夏から秋にかけて、練習以外にもうすることはない。宮中時代と同じだ。
「先に帰ります。報告したい人がいるんです。バットをお願いします」
「おお、運んどぐ。ははァ、わがった。いげ。みんなさちゃんと言っとぐ。……神無月」
「何ですか?」
「一生、友だちでいてけろじゃ」
「もちろんです。それじゃ」
「へば」
 公園口からタクシーを拾った。
「桜川の公民館前」
「ほい、公民館。ん? いまの試合のかた? ラジオで聞いてましたよ。すごい試合でしたね」
 私のユニフォーム姿をバックミラーで見つめる。
「はい、すばらしい試合でした。東奥義塾には甲子園で活躍してほしいです」
「あら、標準語だね。あなた、青高の神無月選手?」
「はい」
「こりゃ、ラッキーだ! 放送じゃ都会からきた絶世の美男子って言ってたけど、なるほど、グッとくるね。へえ、驚くほど大きくはないんですね。そのからだで十六本!」
 話したくない様子で私が黙ったので、運転手は気を差しながら、
「自慢話の種ができましたよ。神無月選手を乗せたって、同僚にさっそく言わなくちゃ。将来プロにいく人ですからね。すみません、この手帳にサインをください」
 肩越しに後ろ手で差し出した手帳に、私は、青森高校・神無月郷と書いた。
 タクシーを降り、革袋を揺らして走った。カズちゃんはもう家にいて、ユニフォーム姿の私を玄関で抱き締めた。やっぱり泣き腫らした顔をしていた。
「何日も応援ありがとう。励みになった」
「私の心臓さん。愛してるわ。キョウちゃんをみんなに見てもらえて、うれしくてしょうがないの。これから先、いろんな苦労があるでしょうけど、二人で乗り越えていきましょうね」
「うん。きょうはすぐ帰る。あした、朝からくるからね」
「ええ、待ってるわ。あしたは、うんとかわいがってね」
「うん」
 いっしょに歩きだす。新興住宅地の清新な家並が目に涼しい。ひと曲がり、ふた曲がり、どこまでも送ってくる。私も別れたくない。
「中商の押美さんがきたよ」
「ほんと!」
「合浦公園の球場のゲートまで会いにきた。ぼくはもう全国レベルの選手になったから、愛知県の野球校に転校したらどうかって。その気がないなら、将来大学野球や社会人野球をするとき、橋渡しをするって。そういう仕事をしてるみたいで、もう中商のスカウトじゃなかった」
「キョウちゃんのことが転機になったのね。ありがたいお話だけど、断るしかないわね」
「うん」
「せっかく出てきたプロ野球への芽を摘んじゃうことになるから。いつも、お母さんがスカウトを追っ払ったときのことを思い出して、油断せずに万全の構えをしておかないといけないわ。あれから、すっかりキョウちゃんの人生が狂ってしまって、キョウちゃんに思索グセがついてしまったのは一つの危機だったのよ。ほんとうにやりたいのは、野球しかないことを忘れないでね。キョウちゃん、いつか言ってたわね、野球が単純で、つまらなく見えてきたって。思索グセがつくと、自分を輝かせるものをそんなふうに考えるようになってしまうのよ。それなら本質的にお母さんと同じ考えよ。人間はアタマだって。キョウちゃんを溌溂と輝かせる野球が単純でつまらないはずがないじゃないの。野球をしつづけて、プロ野球へいき、それこそ挫折するまでやりつづけて、それからゆっくりと静かな別の人生を考えること。それがキャンセルできない天の神さまとの約束事よ。野球をしましょう。思い切りしましょう。お母さんは野球をするだけの高校にいくことは決して許さない。妨害する気があるかぎり、お母さんの妨害はことごとく成功するわ。周りの人は甘く見てる。こうして野球ができることは、幸運以外の何ものでもないのよ。偶然の幸運だったけど、野球をやりつづけられるのは、この青森高校しかないの。ここにいましょう。ここから野球の世界へ引き上げてもらいましょう。もちろん、うんとものを考え、勉強をして、才能のあることには何でもかんでも挑戦しましょう。そういう生活がほとほといやになって、死にたくなったら、私もいっしょに死ぬから」
「うん!」
 私は心からうなずいた。生き埋めにされていた土の中から蘇生させてくれた女の言うことに、心からうなずいたのだった。全能の女神は、私の魂の底からほんとうの希望を浚い出した。私は一瞬のうちに、視界をさえぎるもののない晴天の下を歩いているような気持ちになった。自分以外の人間を信頼する情熱が、これほど逆らいがたく私を捉えたことはなかった。私の想いはどこへ迷っていくにせよ、いつもかならず、カズちゃんが私に抱く愛情を信頼する心に戻ってくるのだった。
 どこの町とも知れない辻で二人は足を止め、小鳥のキスをし合った。
「じゃ、帰る。あしたね」
「あしたね」
 カズちゃんは大きな胸に私を抱き締めて、もう一度唇を吸った。
         †
 町の写真屋がきて、汚れたユニフォームのまま一家に囲まれて、居間で記念写真を撮った。額に入れて飾るのだと主人が言う。もうだれも泣いていなかった。抑えきれない笑いに満ちていた。奥さんが、
「青森市長から祝電が届いてます。野中の野月校長と、マコトさんからも」
「そうですか。うれしいですね」
 主人が、
「ほらほら、ぜんぜんうれしそでねんだから」
 私は奥さんに、
「このユニフォーム、洗濯に出しておいてください。七月二十六日から八月の十四日まで夏期補習の期間なので、三週間野球部の練習はありません。ぼくの補習は数学だけで、八月九日からです」
「クリーニングなんて、そんなむだなことはしなくていいですよ。シャツもストッキングも、私がぜんぶ洗濯してパリッとしておきます。ささ、お風呂に入って、さっぱりして」
 風呂のあと、ハンバーグとクリームシチューの食事になった。祝い事は肉と決まっているようだ。ビールをコップ一杯だけ振舞われた。ミヨちゃんを除いた全員が飲んだ。
「ミヨちゃん、ぼくのホームラン、どうだった」
「十六本、ぜんぶ見ました。みんな美しかった。……芸術です」
「ワも見だかったな。どたら芸術だ、ミヨ子、どたらふうに飛んでいぐんだ?」
 サングラスが訊いた。
「ガシッてバットに当たって、真っすぐ空に昇っていくの。どこまでも」
「そら、芸術だ。神無月くんは芸術家だな」
 サングラスは上機嫌にグラスを傾けた。ミヨちゃんがハンバーグを切り分けてやる。
「どこからが、誘いはきましたか」
「まだ一年生ですから。来年から、もっと青高が強くなれば、何かの話はくるかもしれません」
「さっきがた、青森放送からトーク番組出演以来の電話がありましたよ」
「断っておいてください」
「役所でも、会わせろって言うやづが多くて困ってしまるんですよ」
 ミヨちゃんが、
「そんなものに振り回されちゃだめよ。神無月さんは、野球に、勉強に、とても忙しい時期なんだから」
 ミヨちゃんの言葉にうなずきながら、主人はうまそうにハンバーグを齧り、ビールをすする。
「しかし、義塾は強がったな。長打単打で十点も取った。守備もいい。オールマイティ。さすが伝統校だじゃ。こどごとぐコールドで勝ち抜いてきた青高を、鼻差で打ち負かすなんて芸当、なかなかできるもんでね」
 ミヨちゃんは私に二膳目のめしを盛りながら、
「でもおとうさん、神無月さんが二度敬遠されてなかったらどうなったかわからないわ。鼻差で打ち負かしたんじゃなくて、こすい作戦とラッキーで勝ったのよ」
「ウンだ。敬遠されねば、青高は勝ったべおん。そうさせねで鼻差で勝つところが伝統というものなんだでば」
「おとうさん、どっちの味方なの」
「そりゃ青高に決まってるべや。青高が優勝するには、鼻差をひっくり返す細げ野球が必要だんだ。六試合、一回もバントしねがった。監督も、選手たぢみんなも神無月さんにあごがれでるからだじゃ。義塾の四番バッターみてに、大砲は神無月さんふとりでいい。しがも、神無月さんはプロ向きの魅力を兼ね備えだ大スターだ。そたらのはふとりでいんだ。神無月さんにあごがれだらまいね。まねでぎるもんでね。まねしねで、ふとりふとりが細げ野球をするようにせねばまいねよ。神無月さんみでな野球選手は、青森県からは二度と現れねべおん。スターの神無月さんに魅かれて、来年はいい選手が集まるべよ。これがらの二年で青高は大変身するこった」
「神無月くんにあこがれるすけ、大変身もでぎるのせ。ミヨのへるとおり、敬遠がながったら五点は差つけで勝ってだ」
 サングラスはとつぜんそう言って、何やら詩吟をうなりだした。
         †
 部屋に戻り、いのちの記録を開いた。

 カズちゃんがいなければ、私の心は常に揺れ動きながら、あてどなくさまよう。私ばかりでなく、だれもがあてのない人生をさまよっているにちがいない。しかし、彼らは大人だ。さまよい方を知っている。灯点(ひとも)し役の道案内を頼りに歩いていく私は子供だ。

 ひさしぶりに教科書を開く。八月九日から始まる補習授業の準備だ。それに合わせて赤井も帰ってくる。まじめな気分で数学と英語をやる。
 九時ごろになって、眠気が襲ってきたので、蒲団に入る。一シーズンをつつがなく終えた満足感と、ホームランをコンスタントに打てる能力にまだ見捨てられていないという安堵感が押し寄せる。全身の筋肉がほぐれて、骨から分離していくようだ。
         † 
 二十四日土曜日。朝食の時間に寝坊し、主人が出勤したあと、奥さんとミヨちゃんのおさんどんで、ハムエッグとトーストを食べた。二人もいっしょに食べた。
「あんなすごい試合したから、疲れたんですね」
 ミヨちゃんも炎天下の懸命な応援に疲れてぐっすり眠ったのだろう、美しく上気した顔でトーストを齧る。奥さんが、
「補習まで、二週間の骨休めですね」
「三十日から一週間ほど名古屋に帰ってきますから、ゆっくりできるのは三日か四日です。名古屋から帰ったらもう赤井さんがいるし、野辺地にも里帰りしなくちゃいけないし、いろいろ忙しくなります」
 ミヨちゃんが、
「私はあさってから一週間、ソフトのトーナメント。合浦小はかなり強いので、二回戦ぐらいまではいけると思う。ピンチヒッターぐらいの出番はあるかなァ」
「補欠って縁の下の力持ちだから、なかなか華やかなところには出られないね。でも、いつお呼びがかかってもいいように、しっかり練習しておかなくちゃ」
「はい!」


         二十九 

 奥さんが、
「新聞、見ます? 見出しだけでも」
「残念賞ですね。中身も読みます」

    
青森高校散る 
     
怪物二ホームランも
 数々の熱戦の記憶を残して、夏の甲子園予選高校野球大会が終了した。東奥義塾高校が頂点に立った。
 十六号ホームラン。これまでの記録を十一本も上回る本塁打レコードを樹立した怪物、神無月郷の率いる〈青森高校一家〉の夏が終わった。六試合、青森高校のメンバーはご本尊神無月と肩を抱き合い、励まし合いながら、黙々と戦い抜いた。圧倒的な打力を誇った一家の勢いをもってしても、やはり県下の伝統校東奥義塾は厚い壁だった。さすがの猛禽たちもツバメの優雅な身のかわしには敵わなかった。とりわけ、神無月二敬遠。この策で義塾は接戦を凌ぎ切った。接戦のゆえに、スタンドから不満の声は上がらなかった。試合終了。両チーム涙の握手。ベンチもスタンドも泣いた。
 百六十八センチの小さな大投手、前田啓一は実に慎重だった。今大会随一の強力打線を誇る青森高校を変化球の多投でねじ伏せた。とりわけカーブとシュートのコンビネーションがよかった。注目の的であった神無月には二ホームランを打たれたものの、要所では敬遠して攻撃のチャンスの芽を摘んだ。真っ向勝負を挑むだけが野球ではない。
「五点ぐらいくれてやろう、うちはそれ以上取る、と思って投げた。神無月くんともしっかり勝負して二本打たれた。敬遠も勝負の技術です。でも、崖っぷちスレスレの決勝戦でした。正直、来年神無月くんと戦うピッチャーを気の毒に思います。でも、また決勝で当たれば、かならずうちが勝ちます」
 リンゴ園を経営する両親が観にきていないことに、ちょっぴり不満を漏らした。
「この時期は暇なはずなんですよ。ぼくが神無月くんに滅多打ちされるのを見たくなかったんでしょうね」
 一方、青森県の誇りです、とマイクを向けられた神無月は、
「ありがとうございます。人に誇りに思われるのは気持ちのいいことです。ぼくにかぎらず、好きなことに打ちこんでいる人間がもらえるご褒美は、きっとそれでしょう」
 と答えた。そして、ダッフルバッグを担ぎ、すたすたとベンチの奥へ姿を消した。青高チームもみな何の悔いもない表情で、爽やかに引き揚げていった。相馬監督は、
「来年は、いまの打力を維持しつつ、細かな野球も身につけます」
 と約束した。いまや青高は、受験だけの名門校と侮ることのできないトップチームに変貌した。来年も鬼神のごとき怪物を擁して出陣し、勇躍優勝戦線に乗りこんでくるだろう。そしてキッチリ今年の借りを返してくれるだろう。
 怪物に率いられて快進撃をつづけてきた青森高校を降(くだ)して、甲子園へと乗りこんでいく東奥義塾の活躍を県民こぞって心から期待している。甲子園に重圧は付きものである。しかし、鬼ヶ島で怪物退治をするときほどの重圧ではないだろう。二回戦突破は一昨年果たした。今年は三回戦突破だ。そしてできれば、ベストエイト、ベストフォー、決勝と勝ち進んでほしい。


 九時からランニングを兼ねて桜川に出かけた。いつものように、一日散策してくると告げて、土手道を走っていった。
 きょうはカズちゃんと何をしようか。どこへ出かけようか。そんなことを浮きうきと考えながら、桜川の家に着いて驚いた。庭が大改造されている。石灯籠や庭石が竹垣に接するように置き換えられ、広くなった跡地に潅木が植えられている。
「きのうキョウちゃんが帰ってから、大家さんに言って、植木屋さんに模様替えしてもらったの」
「ここに落ち着くって決まったからね。このいろいろな潅木は?」
 指差しながら、
「沈丁花、アセビ、サツキ、シャクナゲ、常緑ツツジ、クチナシ、ヒイラギ、南天。花の種もたくさん植えてもらった。一年じゅう、キョウちゃんの好きな花がたくさん咲くわよ」
「散歩しようか」
「ええ」
 青高の裏門から構内を横切って正門に出る。そのまま真っすぐ家並を突っ切り、堤川の支流の玉川沿いに歩く。どんなところにも家並は埋まっている。遊具の整った保育園の庭で、かわいらしい子供たちが遊んでいる。
「少し、やつれたわ。……心配」
「こんなに野球をやりつづけたの、生まれて初めてだからね。体力が足りないな」
「そうそう、三十日の午前に着くって、実家に連絡したわ。両親がすごく楽しみにしてる。キョウちゃんの新聞記事も送っといた。ビックリするだろうけど」
「野球の話題に終始するのはイヤだな」
「おとうさんは野球キチガイよ。テレビのクイズ番組に出てもいいくらい詳しいわ。でもキョウちゃんの身の上を知ってるから、かえってそういう話はあまりしないんじゃないかしら。無口な人だからって書いといたし」
「サンキュー。ぼくが無口だってわかる人はカズちゃんしかいないからね。小さいころ口から生まれたのかって叱られたことがあったけど」
「無口になったのね……。明るくていい子だったのに」
 平屋がポツポツとしかない区域から、本流の堤川に出た。
「景色のない道ね。川ばかり。お腹すいたでしょ。戻りましょう。お昼はタコのスパゲティよ」
「大盛り!」
「はいはい」
「名古屋の一週間の計画立てといてね」
「はい。どこかいきたいところある?」
「東山動物園と、犬山城。いったことがないから。食べ歩きは好きじゃない。毎日きしめんでいいや」
「ふふ、そうもいかないでしょ」
 フライパンを操るカズちゃんの揺れるスカートを見ていた。なんと形のいい後ろ姿だろう。街を歩いていてもこんな形のいい後ろ姿を見たことがない。
「さ、できた。オリーブ油で炒めたタコとグリーンアスパラのスパゲティ。塩、胡椒、ニンニク、刻み赤唐辛子。タコの足は、塩とレモン汁を入れて茹でました。おいしいわよ」
 ほかにナスのチーズ焼き、ホウレンソウと玉ねぎとソーセージの入ったインゲン豆のスープも並んだ。
「うまい! 飯場でこんなものを出したら、予算がぶっ飛んじゃうよ」
「飯場は、予算よりも、炒めたり焼いたり煮たりする手間がたいへんなの。人数がすごいから。あの当時で、毎年十五人はいたんじゃないかしら」
「そんなに! ぼくは五、六人しか知らないや」
「変人ばかりね。変人には変人が寄る。きょうは、映画でも観ましょうか」
「観たい映画あるの?」
「東京オリンピック」
「そういえば、加藤雅江が写真を送ってくれたっけ。学校代表で見にいったって。あの手紙、どこいっちゃったんだろ」
「すてきな子……」
「節子にもぼくの住所教えて、お節介なやつだよ」
「あの子を悪く言っちゃいけないわ」
 強い口調と目つきで言う。
 食事が終わって寝室に入った。カズちゃんは私の服を脱がせると、胴巻のような奇妙なブラジャーを外して、パンティを脱いだ。
「ヴィーナスだ! 貝殻に乗ってるあの絵と同じだ」
「そう? いまのうちだから、よく見といてね」
 滞りなく抱き合う。
 快楽に満ちた〈動物〉の時間の余韻の中に、幸福に満ちた〈人間〉の時間が訪れる。長い口づけをする。見つめ合う。カズちゃんの目に神性を見る。輝く瞳が深い魂を持っている。私は感動して言葉を失い、涙を浮かべる。その涙を見て、カズちゃんも涙を浮かべながら私を抱き締める。


         三十

 映画が燃える太陽から始まる。背後に流れる解説は無視した。美術的に凝った表現も退屈なので無視した。陸上百メートル競走、アメリカのヘイズ。彼のみが印象に残った。太腿を高く上げ、跳ね上がって猛進するブルドーザーのような真っ黒いからだが、ダントツの先頭で駆け抜ける。
「あれだけがよかったね」
「ほんと、早いうちにやっちゃうんだもの、三時間がつらかった。でも似てたわよ、どっかキョウちゃんに。からだの大きさも雰囲気もちがうけど、飛び抜けたスポーツ選手独特のオーラみたいなものが……ふつうじゃない感じ。ヘイズっていう人も、ふだんは静かな人じゃないかしら」
 新町の書店を二軒ばかり覗く。カズちゃんは山本周五郎全集全七巻というのを買いこんだ。私は、本は買わず、レコード屋に寄り、リールテープを五本買った。
 夕暮れの奥州街道を歩く。
「この国道4号線は、野辺地まで通じてる。道って不思議だね、歩きつづければ日本中どこへでもいける」
 カズちゃんも不思議そうに地面を見てから、遠く堤橋のほうを見やった。
「あの稲荷神社のそばの町並みがなつかしくて、もう一度いってみたの。そのとき、小ぎれいな寿司屋があって、思わず入ってみたらおいしかった。そこへいきましょ」
「カズちゃんはよく歩くね。野辺地も征服しちゃったんだよね」
「うん。野辺地はどこもかしこもきれいだった。幼いキョウちゃんを育てた町」
 港のほうへ入りこんで、すぐ稲荷神社に出た。そこから二分ほど先に、五井と染め出した暖簾の脇に、寿司屋にはめずらしいランタンを垂らしている店があった。小振りな店なのにカウンターが広くて目に快適だ。並んで腰を下ろし、大きな下駄を履いている職人に、おまかせ、とカズちゃんが言った。
「ここぼくが払うね。ぼく、まだ封筒のお金使い切れてないんだ。半分以上残ってる」
「使い切りなさい。私も張り合いがないじゃないの」
「いったいカズちゃんは、どれほどお金を持ってるの? 野辺地にきてから使った金額を想像すると、空恐ろしくなる」
「ぜんぜんだいじょうぶよ。いくらぐらいかなあ。何百万も持ってるわ。それが減らないどころか、増えてっちゃうの。私、一人娘だから、お父さん、月に二十万も送ってよこすのよ。ときどき、五十万ぐらい送ってくることもある。西松にいたときからよ」
「カズちゃんにテープレコーダー買ってもらったね」
「ええ。大好きです、って録音したの。あんなもの買うのは何でもないことよ。おとうさんたち、女の生き血を搾り取って資産を作ったんでしょう。そのお金をいま罪滅ぼしのつもりで、娘に小出しに分けてるってところかな。罪滅ぼしの方向がちがうっての。店のこたちに分けてあげなくちゃ。このごろは余裕ができたから、そんなあくどいことはしてないみたいだけど、何億も財産があるんじゃないかしら。お金に汚い人たちじゃないんだけど、この手の商売には、搾取がふつうだった悪い時代があったってことね」
 私は思わず笑い出し、
「ぼく、幼稚園のころ、じっちゃにたった一回、五円もらったきりだよ。貼り絵とメンコを買った。小学校二年から四年の秋までは、一日十五円の昼めし代。それで貸本を借りたり映画を観たりした。千年に転校してからは一円ももらったことがない。それでもなんだか贅沢をして暮らしてきたって感じがする。飯場のみんなが、寄ってたかって貢いでくれたから」
「かわいくて仕方がなかったからよ。キョウちゃんを見てるだけで、生きる力になるんだもの。貢物をしても何の不思議もないわ。私も捧げものをしてるのよ。命をね」
 私にはミル貝とトリ貝の握り、カズちゃんにはボタンエビの味噌和えが出てきた。
「うまい! とんでもなくうまい」
「ね、何軒か歩いたけど、ここがいちばん」
「シャコください」
「私はヒラメの昆布締め、それとキャベツのお漬物」
「へい」
 大下駄を履き、清潔な職人服を着た中年が応える。客は三組ほど。相当値の張る店のようだ。コハダ、イカ、赤身、赤貝、アナゴ、と食べていく。カズちゃんは、中トロ、岩牡蠣、子持ち昆布、ウニを挟んだナス揚げ、煮ハマグリ、アナゴ、と食べた。最後に飲んだジュンサイの味噌汁は絶品だった。二人で一万円近い値段だった。暖簾の外に出たときの満足感が並でなく、うまいものを食ったと感じた。
「またきましょう。一人でこないでね」
 堤橋で右と左に別れた。全集の重たい紙袋を両手に提げて帰っていく溌溂とした背中が目に残った。
         †
 三十日金曜日。堤川沿いに河口の青森漁協まで早朝ランニング。並木の緑に励まされるすばらしい道。往復一時間余り。
 朝食のときに、帰名の理由をもう一度大雑把に一家に話した。主人はいつもの食い入るような目つきで聞き、ミヨちゃんはきょうも鼻水をすすった。奥さんは康男の存在がただショックなだけで、私のかつての素行の話には耳を傾けていなかった。サングラスは窓からの陽光に焙られて、最初(はな)からこっくりしていた。深夜までラジオを聴きすぎたせいで寝不足なのだろう。
 半袖の開襟シャツに学生ズボンを穿き、学帽をかぶった。小型のボストンバッグに、いのちの記録とワイシャツの替えを二組入れた。本と下着の替えは持っていかないことにした。下着は汚れたら買い替えればいいし、本は机以外の場所では読めないタチだった。メモ用の手帳を胸のポケットに入れた。金はカズちゃんの封筒と、先月ばっちゃが送ってくれた三万円(彼女はそういう人だ。他人の金を預かることはネコババだと思っている)を持った。
「じゃ、いってきます。九日から補習なので、五日までには帰ります」
 きのうの別れぎわに約束していたとおり、堤橋でカズちゃんと八時半に待ち合わせ、タクシーを拾って青森空港に向かった。十時過ぎの便に乗った。狭い座席で、奥さんが作ってくれたシラスの握りめしを二人で食べた。
 プロペラの音を聞きながら、康男のことを思いつづけた。これまで何度も彼のことを思い出したけれども、もう一度会えるとは思わなかった。牛巻病院に寄ろうか? 何のために? もうあそこには康男も節子もいないのだ。
「私も大将さんに会いたいけど、無理よね」
 そう言ってカズちゃんは微笑んだ。
 十二時過ぎに小牧空港に着き、キョロキョロ名古屋の気配を嗅ごうとしたが、滑走路と空と、遠くの市街地と山並しか見えなかった。荷物を手に、大きな待合所、売店、レストラン、喫茶店のある豪華なロビーに出る。
「気もそぞろね。大将さんに会うのは、あしたよ」
 公衆電話から戻ってきたカズちゃんが言う。
「うん」
「三十四度ですって。名古屋は相変わらず暑いわねえ」
 リムジンバスに乗り換えて三十分、一時少し前に名古屋駅に着いた。駅名を告げるアナウンスがバスの中に流れたときから、あの夜のホームの発車のベルが、まるで鐘の音のように胸に鳴り響いていた。
 バスを降りると、なつかしい街並が目の前に展がった。暑い。でもカラリとしている。そびえるビルディングの群れを背景にして車が走り、大勢の人が歩いている。一年のあいだ思いつづけてきた場所だった。
「いきましょ。おとうさん、おかあさんが待ってるわ」
 人の多いコンコースを通って駅の裏口に出る。右手は背の低いビルディングの群れ。河合塾の建物がひときわ目立つ。あの向こうに浅野の炭屋がある。左手一帯は入り組んだ道筋にバラックふうの家がびっしり平伏している。
「蜘蛛の素通りか」
「そう。ああ、ひさしぶり」
 カズちゃんはバスロータリーを横切り、蜘蛛の巣通りへどんどん入っていった。バラック仕立ての一階家や、丈の低い二階家がつづき、その前で一般の主婦と変わらない平服の女たちが、土の路に打ち水をしたり、竿やロープに洗濯物を干したり、立ち話をしたりしている。ほとんどの女がゆるいスカートを穿き、下半身が豊かだ。痩せた女はほとんどいない。生活を彩る子供たちの姿もない。明るい陽の下に淫靡な雰囲気がただよっている。カズちゃんは黙って歩く。かすかにお辞儀をしてくる女もいるが、カズちゃんは無視する。百メートルも歩かないうちに、平たいバラックの群れから離れた広い敷地に、異様に大きい堂々とした屋敷がそびているのが見えた。
「あそこよ、私の家」
 高橋弓子の家を三回りも五回りも大きくした二階建ての屋敷だった。周囲の雑草地から浮き上がった、古色蒼然とした蜃気楼のような建物だった。数寄屋門を入り、バカッ広い芝庭を貫く飛び石を伝って歩いていく。四枚戸の大きな玄関前に枇杷の古木が二本立っていて、その下で一組の男女が待っている。遠くから頭を下げた。何人か下働きのような女たちが控えている。
「ただいま! この人がキョウちゃんよ」
「神無月です。初めまして」
「いらっしゃい。ほう、ええ男やなあ! 和子が言っとったとおりや」
 外人のような顔をした太った男が言う。私よりほんの少し低いぐらいの背丈だ。小学校の校長を思わせる黒っぽいスーツを着ていた。カズちゃんに似た目に哀愁があった。
「どうしたの、おとうさん、その格好」
「いや、失礼のないようにな。わざわざ仕立てたんだ」
 これまた小太りの、顔容の整った中背の女が笑いかける。
「ほんとに。惚れぼれしてまうわ。よういらっしゃいました」
 女神をこの世にもたらした美男美女だ。玄関の外壁に取りつけられた袖看板に《北村席》と書かれていた。控えていた女の一人が私たちの荷物を奪って、広々とした玄関土間に導いた。式台に二十人ほどの女たちが膝を突いて居並び、
「お帰りなさいませ、お嬢さん」
 といっせいに叩頭した。顔を上げて、みんなで私に笑いかける。女中頭のような小作りの年増が、
「お腹すいたでしょう、用意できてますよ」
 と応接セットのある十畳の茶の間を掌で指した。カズちゃんが、
「ひさしぶりね、おトキさん」
 と言った。夫婦が式台に上がると、女たちはそれぞれ一階の厨房や、廊下の反対側の座敷へ戻っていった。見渡すと松葉会の二倍もある広さだ。部屋数は想像もできなかった。カズちゃんは勝手知ったふうに、さっきの小柄の美人に、
「おトキさん、麦茶ちょうだい」
 年増は快い返事をし、半白の髪を掻き揚げると厨房へいった。母親が、
「どやった、飛行機は疲れんかった?」
「だいじょうぶ。プロペラの音がいい子守唄になったわ」
 そう言えば、飛行機の中で二人とも最初から最後まで眠りこけていた。
「神無月さん、いつも和子がご迷惑かけております」
 夫婦並んで頭を畳につけた。
「とんでもない、百パーセント迷惑をかけているのはぼくのほうで、どれほど感謝しているかわかりません」
 夫婦は顔を上げ、心からホッとしたように大きく笑った。半白髪の美人が麦茶と茶菓子を持ってきた。
「食事の用意はできてますからね。いつでも言ってください」
 と快活に言って、また台所に去った。茶の間から一部屋と幅広の廊下を隔てた厨房に下働きが七、八人いる気配だ。
「さっきいた、ほかの女の人たちは?」
「うちの〈女の子〉」
 意味するところはすぐにわかった。
「キョウちゃん、これがわが家。むだに大きいでしょ。小さいころの遊園地。私のふるさとね。外の環境はあのとおり殺風景だから、この家が私の遊び場だったの。友だちは、さっきの人たち」
 夫婦がにこにこしている。主人が、
「お恥ずかしい話で。商売柄、和子には不便な思いをさせました。その分、やさしい子に育ちましたわ」
「やんちゃなころもありましたけどね、ホホホ」
「おかあさんたちも、お昼まだでしょ。おトキさん、ご飯にして」
 女中の一人に学帽を預け、夫婦とカズちゃんといっしょに廊下を隔てた座敷へ移る。襖が開け放たれ、前後左右の廊下やいくつかの部屋が見渡された。各部屋二十畳もある空間に、それぞれ和テーブルが二列に五脚ずつつなげてある。食膳がずらりと用意され、壁沿いに布張りのソファも何脚か置いてあった。広縁の外に、屋敷の周囲の草地とちがって手入れの効いた庭が見えた。どの部屋もまるで旅館の大座敷そのものだった。私たちが腰を下ろすと、そこへしずしずと女たちが寄り添った。ここに定住している顔ぶれなのだろう。あらためて私たちににこやかに挨拶する。どこか潤っている感じで、青森の港の〈刺身〉とは容姿も品もちがう。


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