二十一

 十六対二、七回コールド勝ち。全員安打。私は七打席四ホームラン、三塁打一本、シングルヒット二本、七の七。そのうちの一本はライナーでスコアボードの裾に打ち当てた。阿部一本、神山一本、一枝まで人生初のホームランを打った。
 審判がゲームセットを告げる前に、球場じゅうが大騒ぎになった。試合中目立たなかった応援団が飛び跳ね、ブラバンが青高校歌の合唱をあおっている。新聞記者やカメラマンが続々走り寄ってきて、興奮気味に相馬にマイクを差し出す。
「おめでとうございます!」
「ありがとうございます!」
「青高、初戦突破、ひさしぶりですね。しかもシード校にコールドで」
「打線の爆発は信じられません。神無月のおかげです」
「一試合四人のホームランもすばらしいですが、一人で一試合四本のホームランは全国高校野球記録ですよ」
「紅白戦でも神無月は四本打ちました。彼はどんな試合でもバッティングは一定のペースなんです」
「神無月選手の前評判は何も聞こえてこなかったので、その存在を私どもは知りませんでした。他県からの野球留学か何かですか」
「いや、ただの転校生です」
 私にマイクが向けられる。苦手だ。何をしゃべっていいかわからない。
「他県からの島流しです。野球部には五月に入ったばかりです」
「島流し?」
「素行の悪さで野辺地へ追い払われ、更生して、がんばって勉強し、やっと青高に受かった不良です」
 相馬が、
「露悪家ですから気にしないでください。神無月は文武両道の天才です。とつぜんわがチームに天から降ってきたんですよ。この夏、青森高校は嵐を起こしますよ」
 ほかのレポーターが監督に、
「一回戦ボーイがマグレ勝ちしたというレベルの勝ち方じゃないですね。相当練習なさったんですか」
「いや、マグレでしょう。練習は一時間半から二時間です。二回戦の結果がよければ、もっと褒めてください。大湊のピッチャーは強敵でした。彼を打ち崩せたことはこれからの自信につながります」
 別の記者が阿部にマイクを向ける。
「二回戦に向けての抱負は?」 
「ありません。まンだそんなものを持でるほどの実力じゃありません。一けでも多く勝ちたいです」
 相馬が、
「じゃ、初勝利に浮き足立たないためのミーティングをしなくちゃいけませんので、これで失礼します」
 浪打からの一本道を青高までぞろぞろ帰った。みんなヒーローの気分を引きずりながらふわふわ歩く。相馬が、
「次の対戦相手は、青森西高と決まった。十六日、二時だ。おい、名ファースト、ホームランの味はどんなものだ」
 一枝に尋く。
「夢みてです。神無月が掬い上げろってへったんで、ゴルフみてに掬ったんです。驚いたじゃ! 左中間抜げるかって思ったら、へってまった」
「ワは、上から叩くの専門だすけ、低目は掬えね」
 阿部の発言に神山が、
「オラは低目を片手一本でチョンて合わせだら、ふらふらって入ってしまったじゃ」
「低目は視線が下に向くんで捕まえやすいんです。高目を打つにはセンスがいります。時田さん、ナチュラルシュートは外角からストライクゾーンに入ってくると、右バッターの餌食になるんですよ。時田さんぐらい切れるシュートなら、ど真ん中に投げてれば、みんなどん詰まりです。今度こそ、零封しましょう。決勝までは確実にいけます」
「よし、わがった。ヘタに外角を狙わねようにすべ」
「信じられね。いつ死んでもいいじゃ」
 三上が言った。トップバッターの彼も二塁打一本を含む五安打を放っていた。一番少ないヒット数は、時田の一本だった。
「聞きしにまさる男だね、神無月は。くどいようだが、勉強でも一番取ってくれよ、取れるんだから」
 背の低い相馬が私を振り仰ぎながら言う。
「先生、その話は夏の大会が終わってからにしましょう。いまは、八試合でホームランを何本打てるかしか頭にありませんから。でも、一年生のあいだに一回は一番を取ると約束します。勉強は向いてないので、たいへんなんですよ」
「神無月は勉強もすげな」
 野球部一の秀才の瀬川が言う。今西が、
「野球、勉強、それに女。スーパーマンだべや。ネット裏に、またあのきれいだ女がいたど。神無月の練習を見にきてた女せ。次の試合にもかならずいるべおん」
 相馬が、
「神無月、とぼけないで教えろ。だれだ、そいつは」
 私は今回もシラを切った。
「ほんとに知らないんですよ。きっと、青高の近所のファンでしょう。三塁側にいたきれいな女の子は、下宿の娘さんです」
 阿部がその話は無視して、
「おめの言うとおり、八試合やる可能性が出できたな。決勝は東奥義塾だべな」
 気の早いことを言う。
「青高新聞もたいへんだども、一般の新聞もあしたはうるせべなあ。なんせ、四年ぶりの二回戦進出だ」
 藤沢が言った。
「でも、阿部さんはもともと騒がれてたんでしょう。ぼくはその噂に興味持って、いつも金網から見てたんですから」
「中学までな。青高さきたら、注目されなぐなった。勉強して、野球してだば、オーラみてなものが消えてまるんだ」
 一筋の道で有名になろうとする人間しか、世間は有名にしてくれない。それが世間の仕組みだ。彼はこのまま消えていくだろう。
「……神無月、おめは別だど。進学を希望しねかぎり、二年生ぐれからプロの誘いがどんどんくる。したども、こねだのおめの話だば、断らねばなんねな」
 相馬がうなずき、
「複雑な気持ちだろう。東大にいかなければ、プロになるのが絶望的だとはね。西沢先生もここまで神無月の事情が複雑だと思わなかったと嘆いてたよ。結論は、神無月は文武完全両道だから、放っておこうということになった」
 三上が私の尻に回し蹴りを食らわせ、
「東大でもプロでもかまわねすけ、おらんどを勝たせろじゃ」
 そんだ、そんだ、とほかの連中も背中を叩いたり、横腹にこぶしを入れたりした。
「阿部、青森西はよく知ってるんだろう」
 相馬の問いかけに、
「弱いす。ふつうにやればコールドす。ピッチャーの球が遅いけんど、大振りしたらまいね。長打は神無月だげにまがして、オラんどはこつこつ叩いていぎます。いいな、おめんど!」
「ウィース!」
 意気揚々と裏門に凱旋する。四時に近い。コールドゲームは時間がかかる。
「よーし、あしたからまた練習だ。何時間もやりすぎないようにしろよ。十六日はここに十二時集合。新聞がきても浮き足立つんじゃないぞ。とにかく一回戦突破おめでとう」
「ウィース!」
 相馬は白亜の校舎へ戻っていった。みんなばらばらと解散した。私はなぜかひどく疲れていた。こんな疲れている日に訪ねたら、きっとカズちゃんは叱るだろうと思って、真っすぐ花園町へ帰った。
         † 
 夕食は赤飯だった。もっぱら主人が口をきわめて私を褒めるのを、みんなにこにこ聞いていた。赤井は要領を得ない顔で、ただニヤついていた。
「ベンチ上にはスカウト席もありましてね、神無月くんが打ったり守ったりするたびに、盛んに手帳やノートに書きこんでましたよ。どんです? プロにいくんですか」
「無理ですね。風まかせでも無理でしょう」
「ひどい親もいるもんだでば。中商の誘いを断るなんてなあ。プロは別物だ。さすがに反対はできんでしょう」
「さあ、表立って反対はしなくても、陰に回っての妨害ということがありますから。なにせ、スポーツ選手を脳タリンだと思ってるんで」
 ミヨちゃんが涙ぐみ、
「そういうのって、どうにかならないんですか」
「あのスミちゃんがねえ……。自分もスポーツ選手だったのに。スキーの大回転で、国体の二位だったんですよ」
「幼いころ祖父から聞いたことがあります。だいじょうぶですよ、ぼくには野球しかないんで、いざとなったら親子の縁を切ってでもプロへいきます」
 赤井が、
「そたらに神無月くんの野球はすごいのが」
 赤井を睨みつけるように主人が、
「度肝を抜く名選手だよ。四ホームラン。一本は場外、一本はバックスクリーン。観客は神無月くんのことを知らなかったみたいで、とにかく大騒ぎだったな」
 そう言って、新聞の試合日程を見ながら、
「二回戦から満員になりますよ。十六日か。たしか青森西だね。またコールドだべ。観なくてよしと。この先、役所を休めるのは、十七日の土曜日の三回戦だげだな。三回戦突破すれば、準々決勝は二十日が。それは観にいげねな。準決勝は二十一日、決勝は二十三日が。ぜんぶいげねじゃ。よし、二十一日と二十三日は休むべ」
 奥さんが胸の前で手を叩いた。
「そうしましょ!」
 ミヨちゃんの目がきらきら光った。
「私はぜんぶ観にいく。いいでしょ。どうせもうすぐ夏休みだから」
「いげ、いげ。歴史の目撃者だ。学校の授業と比べものになんね」
 赤井は、そっと席を立った。私は奥さんに背番号7のミシン掛けを頼んだ。
         †
 夜中に、ごそごそ蒲団が動く気配で目が覚めた。人が隣に横たわって私の胸をさすっている。瞬間、煩わしい人間関係がやってきたと思った。
「だれ? ミヨちゃん?」
 押しつけてくる素肌の質感から大人であることがわかった。蛍光灯の紐を引くために立ち上がろうとすると、強い力で腕を引き戻され、口を口で塞がれた。カズちゃんと似たようなかおりがする。淡く窓から射してくる路燈の灯りで奥さんだとわかった。寝巻が蒲団の傍らに置いてある。
「奥さん?―」
 彼女はもう一度私の口を塞ぎ、性器を握ってくる。唇を離し、耳もとに切ない声で囁く。
「奥さんはやめて。びっくりしたでしょう? ごめんなさいね。……どうしようもなくて。ミヨ子でなくてすみません。私でがまんしてください」
 カズちゃんの言ったことが現実のものになった。予想していたとおり、胸は躍らなかった。性処理というカズちゃんの熱い教訓が頭をめぐり、冷えた空しさが胸を満たした。〈健康〉のためにこの空しさを乗り越えろということなのだろうか。奥さんは自分の陰部に私の手を持っていった。指が熱い襞に触れる。肉厚な感じの小陰唇がグッショリ濡れている。奥さんは大きく開いた。
「好きなようにしてください。神無月さんは女の人のことで問題を起こしてこちらに送られたって聞きました。もう、八カ月になるでしょう? からだが限界だと思うの。たくさん出して」
 一瞬主人の顔が浮かんだ。空しさの体積が増した。
「旦那さんが……」
「ミヨ子を産んでから、うちの人とは十二年のあいだに数えるほどしかしてません。この五年はぜんぜんしてません。もう、私は主人にとって女としては用なしなんです。安心してくださいね。ですから、恥ずかしいけど、こんな年になってセックスをほとんど知らないんです。でも、きちんと濡れますから、神無月さんに喜んでもらえると思います」
 私は素直にうなずいた。心の中でカズちゃんにもうなずきかけた。カズちゃんは微笑みながらうなずき返した。


         二十二

 おそるおそる襞をなぞり、温かい膣に指を入れてみる。狭い感じがする。私の耳を舐める奥さんの唇に力がこもり、苦しげに息を詰める。クリトリスに触れると尻を引いた。尻がゆっくり戻ってくる。唇を離し、からだの向きを変えると私の顔に跨り、陰茎にむしゃぶりついた。
 肛門の窪みが目の前にあり、クリトリスの包皮がかすかに見えた。自然に舌が動いた。すぐに硬くなってきた。舌先にはっきり確かめられるほど大きい。舐めては吸い、吸っては舐めた。罪深いことをしているという思いが胸を満たし、なかなか怒張しない。カズちゃんの笑顔をもう一度無理に思い浮かべる。
「あ、気持ちいい、神無月さん、もうイキます、イッ……ク!」
 腹の筋肉が幾度か収縮し、心地よく達した気配だった。その瞬間、屹立した。奥さんはからだの向きを変え、私に正対して覆いかぶさった。小便をするように脚を拡げ、
「入れますね……」
 三本の指でつまんでゆっくり挿し入れる。広くゆるやかな感触だった。性を知らないと言ったことは嘘ではなかったようだ。
「あ、きつい……ああ、神無月さんと、神無月さんとしてる、うれしい、好きです―」
 浅い膣口のあたりに戻して不器用に腰を往復させている。何の反応もない。
「気持ちいいですか?」
「はい」
「気持ちよくなったら出してくださいね、ああ、だいじょうぶですから、安心して出してくださいね」
 結び合い、男がすぐ果てることが自分に対する深い愛情の印だと学習しているようだ。
「……ああ、気持ちいいですか、神無月さん、私、とっても気持ちいい、がまんしないでイッてください、ほんとにだいじょうぶですから、イッてください、ああ、なんかお腹の奥が熱い―」
 彼女は何かを準備するように私の腹に強く手を突いた。クク、クク、と声を殺している。
「お、お願い、神無月さん、イッて、イ……」
 膣の締まり具合で高潮がすぐそこに迫っているのが感じられた。感情が高揚しきっているのだろう、思わぬ快感に襲われたようだ。
「あ、うそ、イッちゃう!」
 押し殺した声で言い、激しく陰阜を往復させた。固く目をつぶり、局部を深く押しつけた。
「あああ、イクイク、お願い、神無月さん、イッて、イッて!」
 ハア! と危うい声が上がる。腰を止め、ふたたび腹を押す。意外に肌理の細かい額がぼんやり見えた。汗ばんだ眉間に深い皺を寄せている。あの平凡な面持ちの奥さんがこんな美しい表情をするとは知らなかった。カズちゃんだと思いながら、私は射精を引き寄せるためにようやく腰を動かした。
「う、う、おかしくなりそう。声が出てしまいます。お願い、イッてください……私はもうこれ以上……」
 腹を押しつけながらうめく。
「ああ、あああ、神無月さん、だめえ、イックウウウ! うーん、イク! あああ、イク! まっ、またイクッ! 苦しい、もうだめ、神無月さん、助けて、あ、イク!」
 膣壁が猛烈に狭まってきたので、私は射精を準備した。数回往復して押しこむように吐き出した。彼女の腰が跳ね上がり、倒れこんできた胸に圧迫され、首を太い腕にがっしり巻き取られた。何度も激しく恥骨を打ちつけてくる。私の胸に押しつけられる乳房が異様に大きい。膣が間断なく締めつける。
「ああ、信じられない、うれしい! 神無月さん!」
 私は抱き締めてやり、しばらくその姿勢のままでいた。彼女にとって生まれて初めてのアクメだったようだ。蠕動が少しずつ治まっていく。薄闇の中でとまどったように私に微笑みかけているのがわかる。脂汗をかいている頬を撫ぜてやった。カズちゃん以外の女との交渉に深い罪悪感があるのに、ある種の解放感に満たされている自分が新鮮だった。カズちゃんの微笑んでいる顔がまた浮かんだ。
「怖い……こんなふうになって。神無月さんがイッてくれて、うれしかった。うんと出してくれました?」
 囁くように言う。
「はい」
 彼女はもう一度強く唇を吸い、からだを離すと、私の脇へ横たわった。覆いかぶさっていた肉襦袢のようなものが取り除かれたような気がした。奥さんは、机の上にあったティシュの箱に気づき、立ち上がって、多量に引き抜いて股間に当て、寝巻をはおった。枕もとで正座をして言う。
「ありがとうございました。……年甲斐もなく、すみませんでした」
「よかったですね。おたがい気持ちよくなれて」
「気持ちいいというより……信じられない……こんなふうになったの、初めてでした。神無月さんは、静かなんですね」
「夢中でした」
「……ときどき、きてもいいでしょうか」
「妊娠したらたいへんなことになります。もうこないほうが……」
「ぜったいだいじょうぶです。危険日はきちんと避けますから。きょうはなかなか決心がつかなくて、こんな遅い時間にきてしまいましたけど、これからは迷惑にならないように一時ごろにきます。ちょうどお勉強が終わるぐらいの時間でしょう?」
「そうですね。でも、赤井さんが心配です」
「じゃ、やっぱり二時ごろにします。翌日学校がお休みの日に。……かわいがってくださいね。主人は寝入ったら朝まで起きませんから、安心して。……ミヨ子がきたら……」
「ミヨちゃんはきませんよ。……そんなこと、たいへんなことだ。その気配があったら彼女を止めてください」
「きます、きっと。あの子、神無月さんのこと好きで好きで苦しいって、このあいだ私に言ったんです。私もよって応えられませんでした。……私、神無月さんがきてから、何カ月も悶々としてたんです。こんなこととっくに忘れていたのに、どうしても神無月さんに抱いてほしくなって……美代子には申しわけないと思ったんですけど。……性欲からじゃないとわかってください。だって、こんなに気持ちよくなったことなんて、いままで一度もなかったんですから」
 終始小声なのがいじらしく、齢を感じさせない。
「よかったですね」
「……女のものは男の人を入れて喜ばせる道具だと思ってました。信じられません、あんなふうになるなんて。……もう一度舐めさせてください」
 奥さんは屈みこんで私のものを含んだ。
「あら、また大きくなりました。不思議な形……もう一度……いいですか? もう一度あの感じを確かめてみたいんです」
「はい」
「うれしい!」
 奥さんは股間に挟んでいたティシュを枕もとに置いた。それから私のものに屈みこむと、口いっぱいに頬ばった。好奇心にあふれた表情で顔を上下させる。愛のない好色な女なのだ。それなりに対応すればいい。主婦という制約があるので、暴走することはないだろう。
「もういいですよ。四つん這いになって、ぼくに尻を向けて」
 そのほうが女の快感の強いことを知っていたので、これで終わらせたいと思った。
「はい。こんな格好、初めてです。怖い」
 私は彼女の尻を抱え、ゆっくり往復を始めた。たちまち膣が脈動を始め、強烈に締めつけてきた。
「あ、だめです、すぐイキます……」
 あわただしく腰を振って果ててしまった。結び合ったまま蒲団に両手を突いてぶるぶる痙攣している。後ろから両乳房を握った。うっすらと汗をかいている。
「あ、ああ、信じられないくらい気持ちいい!」
 私は射精しないことにした。
「これ以上すると、奥さんの声がもっと大きくなってしまうから、もうやめましょう。じゅうぶん満足したでしょう?」
「はい、何もかも初めてのことで、からだが火のようになってます」
 私は抜いて、奥さんと並んで横たわった。彼女は唇を強く吸ってきた。
「……うちの人にぜったいわからないようにします。神無月さんの立場を危うくするようなことはしません。私は夜中に一度トイレに起きるので、疑われることはないんです」
「……はっきり言います。とても心臓に悪いので、二、三カ月にいっぺんにしてください」
「はい……」
 奥さんは名残惜しげに起き上がると、枕もとに脱ぎ捨ててあった寝巻をまとって、ゆるゆると腰紐を締めた。うっとりと私を見つめ、
「きれいな人……」
 うつむいて涙を拭った。
「……ほんとにありがとうございました。……じゃ私、帰ります、お休みなさい」
 枕もとのティシュを拾い、寝巻きのふところに入れた。
「トイレに捨てて帰ります。お休みなさい……」
「お休みなさい」
 夫のいる女の願いにこうして応えたことに、あらためて深い後悔の念に襲われた。女は幸福そうだった。後悔を女に伝えてはならない。女は決意してやってきたのだ。カズちゃんの言ったとおり、女がみずから欲望を湛えて臨んできたときは、ためらわず応えるべきだということをしみじみ実感した。
 ただ、娘のことを考える親心と、自分の欲望を満たそうとする利己的な気持ちに、彼女がどう折り合いをつけているのか理解に苦しんだ。不気味なものさえ感じた。しかし、苦しんだり嫌悪したりすれば、教訓を与えたカズちゃんも、勇を鼓して忍んできた女も冒涜することになる。考え及ばないことを考えることはない。もうすぐカズちゃんが笑顔で理の通った説明をしてくれるだろう。その日を待つしかない。
         †
 七時にジョギングから戻ると一家がガヤガヤやっている。主人に新聞の見出しを見せられた。

   
県大会史上初一試合四ホーマー!
            怪物出現 青高五年ぶり甲子園なるか

    
「空騒ぎは信じていないので―。これ、洗濯お願いします」
 式台でトレパンとシャツを丸めて奥さんに渡し、タオルを絞ってもらう。ミヨちゃんと二人で二本のタオルを持ってきた。パンツ一丁でからだを拭く。奥さんは胸もとをしみじみ見つめ、ミヨちゃんは顔を逸らす。居間から首を伸ばした主人が、
「立派なからだになってきたなあ。身長も少し伸びたかな」
「はあ、まだまだです」
 三畳で学生服を着て居間に出ていく。赤井がまだ登校しないで新聞を見ている。主人が覗きこむ。赤井が、
「神無月くん、すげど」
 新聞のスポーツ欄に《ライトブルーの旋風・青高一年生スラッガー十得点叩き出す》という、黒地に白抜きの大見出しが躍っていた。小見出しに《とんでもないやつが現れた!》とあった。
 主人が赤井から新聞を受け取って切り抜き、真新しいアルバムに挿した。奥さんとミヨちゃんが身を乗り出してアルバムを見た。赤井はもりもりとめしを食っている。
「読んで聞かせろじゃ」
 サングラスが言う。主人が読みあげた。
「ライト最上段へ第四号。神無月は個人記録に興味がなかった。ここまで本塁打(ライト場外)、右中間二塁打、右飛、本塁打(ライト中段)、本塁打(バックスクリーン)、センターオーバーの三塁打。六打数五安打三ホームランで迎えた六回表の第七打席目だった。相馬監督に、もう一発打ってこいと声をかけられた。そして打った。一本シングルヒットが出ればサイクルヒット達成という状況で、初球を一振り、打球はライト最上段に突き刺さった。サイクルヒットなど眼中にない。チャンスボールは見逃さない。
 初戦にして四本。打率八割六分。前評判の高かった大湊打線を二点に押さえこんだ時田の快投の影が薄くなった。とは言え、待望のエース誕生は喜ばしいできごとだ。それもしっかりと記者の目に焼きつけられた。夏の聖地を目標に、一戦一戦、目の前の敵を全力で叩き潰す。それが新生青森高校の今年のスローガンのようだ」
 赤井が箸を止めて、マンズすげな、とひとこと呟いた。それから、学生服の上から私の二の腕をぎゅっと握った。
「かで!」
 ミヨちゃんも両手で握った。奥さんが微笑している。昨夜のことについては、これといった後ろめたさも恐怖心も残っていない顔だ。奥さんは、背番号7にミシン掛けをしたユニフォームを満面の笑みを浮かべながら差し出した。
「おお、格好いい。ありがとうございます」                 

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