二十五

   
怪物日々記録更新 ただいま十一本! 
     野球の神降臨! 野辺地出身の天童野辺地高校と準決勝へ

 ここに私がいるのは友情の賜物。チームメイトを見やりながら怪物が微笑んだ。ここまで四試合、すべてコールド勝ち。初戦大湊戦十六対二、二回戦青森西戦十一対ゼロ、三回戦七戸戦十三対一、四回戦八戸高専戦十九対六。神無月のホームランはそれぞれの試合で、四本、二本、二本、三本。
 チーム全員で、まるで校庭のソフトボールみたいにうれしそうに得点を叩き出す。奇妙なことにベンチはほとんど声を出さない。監督以下真剣な目で試合を見守っている。ところが神無月の打席になると、みんなで声を振り絞る。盗塁はここまでゼロ。ひたすら打ちまくって、神無月の打順を待つ。神無月がホームランを打って戻ると、全員で抱きつく。神無月は仏のように神秘的な微笑みで応える。
 五年前の甲子園出場以来、この四年間、予選一回戦ボーイの汚名に甘んじてきた県下第一の受験名門校青森高校の大変身だ。その核となっている神無月郷とは何者なのか。阿部主将は訥々と語る。
「神無月のワンマンチームのように言われていますが、そうではありません。神無月は謙虚な男で、いつも目立たないようにしてますし、指揮権なども揮ったことはありません。ぼくたちが勝手に刺激を受けているんです。ある日、とつぜん、青森にフラッとやってきた月光仮面です。そのうち、フッといなくなるのではないかと心配です。小中学生のころは名古屋のホームラン王だったと聞いています。今度はどこにいくんでしょうか。とにかく、神無月はむかしのことは語りたがらないし、野球をやってるとき以外は寡黙ですから、ぼくたちには謎のままです。謎の美男子のスーパーマンというところですね。(高らかに笑い)ランニングのスタミナがないのが愛嬌ですが、バッティングはだれもまねできません。球に当てる瞬間の手首の動きが速すぎて、よく見えないんです。模範にならない男です。ちなみに神無月は、勉強も一番です」
 まことに神秘的である。月光仮面、スーパーマンとしか表現できないのだ。相馬監督いわく、
「神無月はこうして野球をやるまでに、苦難の谷を渡ってきました。どういう苦難だったかは、いずれ彼がプロ野球選手になったときに明らかとなるでしょう。一つだけ、いちばん小さな苦難を申し上げておきましょう。彼は左肘の手術の失敗から立ち直って、中学一年のときに刻苦して右投げに換えています。その余の精神的苦難は、人びとが推しても知ることができないでしょう。私は語りません。それは彼がプロ野球チームにめでたく入団するまで、これからもつづきます。彼がバッターボックスに立っているのは奇跡です。私たちは彼を抱き締めることしかできないんです」
 その推し量れない内容は、われわれ新聞人は愛知県のある野球専門家筋から仄聞している。神無月の親族の意向に関わることなので、紙面にはつまびらかにしない。簡単に言うと、野球選手としての進路に多大な障害が横たわっているということだ。神無月の一打席一打席が奇跡だという所以である。

         †
「神無月、野辺地だとせ!」
 青高のグランドに集合したとたんに阿部が言った。
「もちろん知ってます」
「めぼしいのいるが? なんの噂もねど」
「野辺地高校に野球部があるということだけは、むかしから知っていました。叔父が野辺地高校の野球部員でしたから。野辺地中学校の担任だった人が観にくるそうです。いま下宿している大家さんの親戚なんですよ。彼の目の前で一本打ちたいなあ」
 一人だけ洗濯のきいたユニフォームを着た相馬が、
「きょうから夏休みだ。青高もほとんどの先生が観にくるぞ。七回には応援団がエール交換するらしい。一本と言わず、二本でも三本でも打ってくれ。準決勝からコールドがないのは知ってるな」
「はい。中学校と同じですね」
 相馬に率いられ、みんなきのうの泥まみれのユニフォームで歩きだす。白川が緊張した面持ちで道の両側で揺れる稲穂に目をやっている。
「白川、守屋、時田の順でいくからな。時田、肘と肩はだいじょうぶか」
「なんもよ。いつでもいげら」
「白川さん、直球を外のコースに投げておけば、まず打たれませんよ。引っ張れっこないんで、三遊間と一、二塁間を狭く守ればほとんど引っかかります。ヒットになるなら、ポテンです」
 阿部が、
「だば、外野は前進守備でオッケーだな。抜がれで点を取られだら、すぐ取り返してやるすけ、安心して投げろ」
 相馬が、
「交代の目安は、三者連続安打だ。あくまでも目安で、代えるわけじゃない。投げたいなら、一人で投げ切ってもいい」
「おいおい、先生、守屋と俺にも出番を回してけろじゃ」
 時田が相馬の尻をこぶしで突いた。
「おまえは決勝の主役だよ。たぶん東奥義塾だろう。義塾はピッチャーがいいから、接戦になると思うぞ」
 神山が、
「決勝がァ! 夢なら醒めるなじゃ」
「神無月の話はどんどん実現していくから、恐くなるね」
 藤沢が、
「神無月、きょうのバッティングの指導はねのが」
「きのう言ったとおり、アッパースイングです。ただし強く振る。強くヒッティングしたボールは、打ち損なって外野のライナーや内野ゴロになっても、エラーしてくれる確率が高いんです。エラーや内野安打でランナーが貯まったら、次のバッターで根こそぎいきます。外野フライの延長がホームランですから、常に外野に打とうとすることです。初戦で神山さんがチョコンと打ったホームランがそうでした。どこかで集中攻撃ができて、大量得点でもできれば、それで試合は決まりです」
 試合前の守備練習のときに、野辺地高校チームのメンバーの顔を見渡したが、知った顔は一つもなかった。選手はほとんど二、三年生なので、あたりまえと言えばあたりまえだが、町なかでも見かけたことがないのは不思議な気がした。みんな垢抜けないだぶだぶのユニフォームを着て、胸や尻に歴戦の泥がこびりついている。背番号はぺらぺらした真新しい角巾だった。
 球場が一万人の観客でびっしり埋まっている。守備練習につく。きょうもバックネットの中段にカズちゃんの顔があり、おたがいそれと知らずに、三列ぐらい前方へ離れたところに葛西さん一家の顔があった。西沢はじめ、青高の見知った教師たちの顔が三塁ベンチの上に並んでいる。勢揃いした生徒連中のあいだに木谷千佳子や鈴木睦子や古山の顔も見えた。
 一塁ベンチの上の応援団の陰に、奥山先生の丸い顔が見え隠れしていた。彼の隣に、ヒデさんと山田三樹夫の妹がいた。二人は仲よさそうに語り合いながら、絶えず私を見つめていた。レフトから手を振ると、すぐに気づいて振り返した。彼女たちに教えられて奥山先生が立ち上がり、大きく両手を振った。いったい彼らはどちらを応援しているのだろう。 
 ふと、奥山先生の隣に野月校長が坐っているのが見えた。私は驚き、守備位置から一塁ベンチに向かって深々と一礼した。気づかないようだったので、ベンチ前まで駆けていって、からだを折った。フラッシュがいくつも光った。校長が立ち上がると、ぞろぞろと何人もの夏服が立ち上がり、礼儀正しく辞儀をした。中村のマサちゃんや、立花先生や、フジムラ藤村や、そのほかもろもろの教師たちだった。
「神無月くん、がんばりなさい!」
 校長が叫んだ。私はもう一度礼をした。
 練習を見るかぎり、野辺地高校の守備は堅実だった。ピッチャーは軟投型で、担ぐような投げ方が肩の弱さを示している。カーブを武器にしているようだ。待ちきれずに手を出すと、内野ゴロを打たされてアウトを重ねそうだ。ほかのチームはそれにやられたのだろう。阿部が、
「おい神無月、守備よさそうだでば」
「きょうもホームランを狙いましょう。ホームランは守備と関係ありませんから」
「ンだな。おめんど、はなっから長打狙いでドンドンいぐべ!」
「ウィース!」
 試合開始のサイレンがなった。頭上で応援団の太鼓が打ち鳴らされる。
「プレイボール!」
「でっけえやづ打ってくるじゃ」
 三上がバットをブンブン振り回しながらバッターボックスに向かった。
「三上さーん!」
「三上ィ!」
 スタンドから声援が上がる。この四戦ですでにみんな人気者になっているのだ。初球アウトコースへ暴投。カチカチになっている。こちらはとにかく大振りだ。三上は二球目の内角球を思い切り掬い上げた。ボールは高く舞い上がり、レフトの中段まで飛んでいった。割れんばかりの歓声の中、三上はゆったりとダイヤモンドを回る。
「泣いでら、あれ」
 一枝が自分も目を潤ませながら指差す。
「コールドはねけんど、十点は取るべ!」
 瀬川がベンチの中を駆け回る。三上が腕で目をこすりながらベンチに走りこんできた。全員と握手していく。キン、という音にグランドへ目をやると、今西が一塁を回ろうとしていた。センターオーバーの二塁打。阿部、三塁線を破る二塁打。二点目。きょうもまたとんでもないことが起こるのかと、場内が騒然としている。私が打席に向かうと、歓声がピークになった。
「神無月ィ! 頼むどう」
「神無月くーん、ホームラン!」
「いろおどこォ!」
 阿部が二塁上で、ライトスタンドを指差している。私はうなずいた。初球からぜんぶいこう。野辺地高校のピッチャーはいっちょまえに、外野にバックの指示をしている。青高はそんなむだなことはいっさいやらない。自分で勝手に守備位置を変える。
 初球高目のカーブ。目が離れてとんでもない空振り。笑いの混じった歓声がドッと上がる。二球目、顔のあたりのクソボールをバックネットへファールチップ。同じようにウオーという歓声。振り返るついでにカズちゃんと葛西一家を見る。カズちゃんは愛らしく右こぶしを突き上げ、ミヨちゃんは祈るように手を握り合わせている。だれも笑っていなかった。三球目、ほんの少し外角へ流れた低目のボールを踏みこんでしっかり叩いた。センター目がけて真っすぐ伸びていく。ダウンドライブして左中間のフェンスに当たるかもしれない。二塁打を想定して一塁を大きくカーブしながら曲がろうとしたとき、センター左の観客席の中へボールが飛びこむのが見えた。
 大きな喚声がまとまって空に昇った。キャーというするどい声が混じる。ブラバンの金管の音がグランドを切り裂く。二塁を回り、三塁を回る。フラッシュがあちこちで光る。観客が総立ちになって拍手している。野辺地ベンチの監督も拍手している。私が野辺地出身であることを知っているのだ。三塁を回るとき、また瀬川が虎のようにベンチを右往左往している姿が見えた。ホームインしてベンチへ駆け戻る。これで四点。相馬が、
「ナイスバッティング、十二号おめでとう!」
 と興奮しきった声を上げた。ブラスバンドが新曲の鉄腕アトムを華々しく演奏する。神山は高いレフトフライ。藤沢右中間三塁打。一枝レフトオーバーの二塁打。五点。瀬川センター前ヒット。六点。時田セカンドゴロ。三上浅いセンターフライ。ようやく一回の攻撃が終わった。6という数字がスコアボードで回転した。
「白川さん、直球ですよ。外角よろしく」
「オー!」
 一塁ベンチの上で突撃ラッパの音が響きわたった。あの張りのある音は中野渡だ。野辺地高校のためにわざわざ応援に駆けつけたのだろう。相馬に、
「あれは、野辺地中学校から山田高校にスカウトされた中野渡というやつのトランペットです」
「そうか、力のある音だね」
「……先生、横国では野球部でしたか?」
「うん、一応レギュラーだった。セカンド、百六十三センチのチビだからね。三番を打ってた。バッティングの難しさと、センスの先天性はわかってる。神無月は天才だよ。いますぐプロでできる。さ、守備につけ!」
 小さい先頭打者がバッターボックスに入る。からだを低くしてストライクゾーンを狭めるようにする。いらぬ細工だ。白川は手首を効かせた直球を外角へ投げこんだ。うまくミートして強いセカンドゴロ。三上が華麗に処理する。野辺地高校の残念太鼓が連打される。大柄な二番打者。鈍くさそうだ。脇を広く開けているので、内角に投げれば百パーセント詰まる。以心伝心、神山が内角に寄った。ドン詰まりの三塁フライ。
「よし、よし、よーし!」
 センターから阿部の声が飛んでくる。三番は細身の左バッター。ミートがうまそうだ。低目を二球見逃し、三球目の真ん中高目を三塁の頭上へ流し打った。早い打球が白線を噛み、レフトのファールフェンスにツーバウンドで当たる。クッションボールを素早く捕まえ、セカンドベース目がけて全力で低いボールを返す。二塁寸前タッチアウト。三塁側の観客席がお祭り騒ぎになった。私はなぜか照れくさく、うつむいてベンチへ走り戻った。


         二十六

 試合は初回の表裏で決したようなものだった。それでも青高は攻撃の手を緩めず、二回から九回表まで、二、二、三、一、四、一、一、五、と毎回得点を重ね、二十五対三で大勝した。きょうもホームランが乱れ飛んだ。私が三本、阿部が一本、神山が一本、なんと三上が二本、合計七本。観衆はたぶん、プロ野球の一方的な打撃戦を見ているような感じだったろう。
 白川は六回を零点に抑え切り、七回のエール交換の直後に、クローザーで出た守屋が三者連続フォアボールで満塁にして、下位バッターの連打で三点を取られた。あわててリリーフした時田が、九回までの後続をすべて内野ゴロと三振に切って取った。
 試合終了。守備位置から駆け戻る。整列。礼。尊敬に満ちた視線がくすぐったい。握手をし合う。全員野辺地出身者だ。胸もとに吸いついてくる者もある。
「合船場だツケ。オラ、浜の工藤だ」
 そう言われてもわからない。
「岡田の長男だ。話聞いてら」
「パン屋の?」
「おお」
 岡田パンに兄がいて野球をしているとは知らなかった。私はホームベースから、あらためて一塁ベンチ上の人びとに最敬礼をした。彼らも拍手しながら立ち上がり、丁寧な礼を返した。ベンチに入ると、小さな安西マネージャーが飛びついてきた。フラッシュの瞬きがいつまでもやまない。呆気にとられたといった空気が、試合後いつまでも場内を支配しつづけた。両校のブラバン演奏が延々とつづく。
 審判団が引き揚げ、野辺地高校の青年監督がやってきて相馬と握手した。
「やあ、戦いを忘れて堪能してしまいました。プロと幼稚園ほどのちがいがありましたね」
「野辺地から神無月をいただいちゃって申しわけありません」
「そのことですよ。十四号ホームラン。人間業じゃない。神無月くんが野中から野高にきてくれていたらと思うと、あきらめ切れません。しかし、たとえ神無月くんが野辺地高校にきてくれていたとしても、うちの選手たちでは彼をバックアップし切れなかったでしょう。結局彼一人に頼ってメロメロです。青高チームには基本的に彼を生かすような打線の強さがあります。うちにはありません。決勝は東奥義塾でしょう。強敵です。油断せずにがんばってください。かならず甲子園へいってくださいよ。上品に十点ぐらいでやめとかないで、バンバン取ってください。来年からは連続優勝校ですね。うらやましいな」
 相馬は返す言葉を思いつかず、ただにこにこ笑っていた。青年監督は私とも握手した。
「きみはいま、北の怪物と中央のマスコミでは言われているそうです。尾崎のように高校二年で中退してプロにいくかもしれませんね。奥山先生がくれぐれもよろしくとおっしゃってました。今朝、かわいらしい女の子二人と、宿舎の旅館を訪ねてくれたんですよ。頭もスーパーマンだから、選択肢が多すぎて、気持ちの集中しない人生を送るんじゃないかって心配してました」
「は?」
 私が首をかしげると、相馬は少し気分を害したふうに、
「神無月、気にするな。そういうふうに生まれついたんだから、好きなように生きればいいんだ。なるようになる」
 ここまで出番のなかったキャッチャーの室井が、そっと私の肩を抱いた。彼だけはまだ二年生だった。来年も私とプレイできるという親しみがあった。
「なるべくならプロにいってほしいですね。プロ野球で活躍する姿を見てみたい。じゃ相馬さん、チャンスがあったら、また胸をお借りします」
 新聞記者が青高のベンチ前に入り乱れた。だれかれとなくつかまえてはインタビューする。カズちゃんが大きく笑いながら手を振って去っていく。私も応えて手を振った。ミヨちゃんと主人が勘ちがいして手を振った。奥さんも胸もとで小さく手を振った。奥山先生とヒデさんと山田の妹も手を振って去っていった。野月校長たちも恥ずかしそうに手を振った。私は記者たちを掻き分けて、もう一度深くお辞儀をした。
 三時間に届くゲームだった。西の空の裾が薄赤い。みんな夕餉の食卓へこぞって帰っていく頃合だ。一人の記者につかまった。三人、五人と寄ってくる。
「決勝戦の意気ごみは」
「ありません」
「これまでのトーナメント記録を九本も上回ったわけですが、ご感想は」
「ホームランの爽快さを、ぼくだけでなく、みんなに味わってもらったことがうれしいです。記録はたぶん破られないと思います。記録を作るだけの運があったんでしょう。阿部キャプテンに入部勧誘の声をかけられなければ、記録は作れませんでした。それも運です」
「甲子園にいったら、何を目標にしますか、やっぱり優勝ですか」
「ホームランです。野球は個人技ですから」
「チームプレイじゃないんですか」
「チームのためを思ってやるプレイなど、邪道です」
 記者たちがざわついた。私は苛立った。
「打てばチームのためになります。ファインプレーをすればチームのためになります。三振を取ればチームのためになります。野球はサッカーやラグビーのように集団で押し寄せたり退いたりして連携を図るゲームじゃありません。マウンドに一人きり、バッターボックスに一人きり、守備位置に一人きりの孤独なゲームです。以上」
 私はすたすたと記者たちの輪から離れた。
「阿部キャプテン、円陣を組みましょう!」
「オー、おめんど、円陣!」
 がっしりと円陣を組む。
「決勝も勝つぞー! イグゼー、イグゼー、イグゼー!」
「イグゼー、イグゼー、イグゼー!」
 決勝戦の相手校は東奥義塾だと相馬から知らされた。
「神無月、きみのいまの言葉で、チームというものの本質がはっきりわかったよ。ありがとう。勝っても負けても個人が充実感を覚えなくちゃ、スポーツじゃないね」
「はい。メンバー同士愛し合っていれば、残るのは個人プレーだけです。個人は技を磨かなければなりません」
 球場の外へ出たとたん、今西が叫び上げた。
「合浦ゲントウ、斉唱!」
         †
 ビフテキの夕食になった。帰郷した赤井の姿はない。奥さんがそれと気づかないような薄化粧をしている。
「決勝進出、おめでとう!」
 主人がビールのコップを掲げる。サングラスと奥さんがつづき、私とミヨちゃんもジュースのコップを掲げた。打ち合わせる。
「ありがとうございます」
「神無月くん、まずお礼を言わせでもらうじゃ。きょうまで生ぎてきていがったとつくづく思った。こごにいるみんなも同じだと思る。それから、前人未到の十四号ホームランおめでとう。オラは後人未到だとも思る。二本目のスコアボードに当たったホームラン、推定百四十メートルだそうです」
「収穫は一本目でした。ああいうバットの押し出しをしてもホームランになるんだってわかりましたから。会心の当たりは、三本目の右翼ポールに当てたやつです。ああいう軌道がいちばん気持ちいいんです」
 サングラスがアハハと笑い、
「神無月くんは、野球ばりだな。一途で、心が洗われるじゃ」
「……遠大な目標のない人間だから、目先のことに一途になれるんですよ」
「野球は遠大な目標じゃないの?」
 奥さんが訊く。
「もう目標に達してます。大好きなことをいまやってるんですから。目標というのは、いましていることに満足しないで、遠く眺めるものでしょう。そういう目標はぼくにはないんです」
「プロ野球が目標じゃないの?」
「うんにゃ。そたらのは、とぎの流れで、好ぎだこどやってるうぢにおのずと手にへるもんだ。高校野球もプロ野球も、大好きだ野球には変わりねべ。同じこどしてて、金けるようになるだげだべ。神無月くんは正しいこどへってるでば。ずーっと先でねば手に入らねおんた遠大なものがアダマにいだら、いづまでもおもしろぐ暮らせねべおん。神無月くんのへるように、目標ってのは目先の好きだこどだんだ」
 サングラスがうなずきながら言った。
「そのとおりだと思います。野球をしたり、勉強したり、そして、人を愛したり……」
「そういう考え方するふとこそ、理想的なふとだ。あんたみてな理想的なふとも、いづか死んでまると思うと、もったいねな」
「また、お兄さん、縁起の悪いことを。神無月さんはまだ十六歳ですよ。死ぬの生きるのって年じゃありませんよ」
「ンだな、オラは棺桶が近いすけ、くだらねこどばりしゃべってしまる」
 彼は私の感覚にいちばん近いことをしゃべった。目標とは目先のことだ。人が手中にできるのは目先だけだから。しかし私は座を白けさせたくなかったので、黙って笑っていた。
「義兄さんはワと同い年だ。言いてこど、よぐわがる。神無月くんには、でぎるだげ長生ぎしてほしい。いつか別れていぐ人だすけ、よげそう思る」
 目が潤み、ミヨちゃんに伝染する。
「さあ、食べて食べて。肉が苦手だって神無月さんが言うから、最高級の新鮮な柔らかい肉を買ったんですよ」
「叔父さん、切ってあげる」
 ミヨちゃんがサングラスの肉を切りはじめると、みんな自分の肉をナイフで切り分け、フォークで突き刺して頬ばった。よく焼いてあるので、香ばしくてうまい。初めてうまいと感じた。
「きのうの国際ホテルのビーフシチューもうまかったけど、これは格別だ。肉が食えるようになりそうだ」
「よかった! 奮発して」
 主人はサングラスにビールをつぎ、自分もグイと飲み干した。
「マコトちゃん、泣いてらった。さっき駅まで見送りにいってきたんです。神無月くんの将来が不安でしょうがねってへるんですよ。周りの人間が神無月くんを有名にするのはいいたって、有名にするだげして、結局ホッポリ出すんでねがって。名古屋から神無月くんが送られてきたとぎ、そういう宿命みたいなものを感じたって」
 私は笑いながら、
「ホッポリ出されるのは、有名になろうとする情熱のない人間だけです。奥山先生の予感は正しいです。ぼくは有名になりたくありません。だからホッポリ出されます。それをぼくは悲しいと思わないんですから、周りの人も悲しんでほしくないんです。ホッポリ出されないと、日々思索の時間が減っていって、充実感が消えてしまいます。ぼくは毎日、ぼんやり考えて生きていたいんですよ。かといって哲学じみた学問がしたいわけでもありません。一つ二つの好きなことをして、じゃまされないで生きていければ、生まれてきた甲斐があります」
 ミヨちゃんが、
「それで神無月さん、野球をしないときは、いつも本を読んだり、何か書いたりしてるんですね」
「机に向かえば叶うことですから、目先の最たるものでしょう? 有名になる必要もないし、有名になる戦いじゃないので、ホッポリ出されても少しも気にならない」
 奥さんが、
「でも、一生そうやっては暮らしていけないでしょう。プロ野球選手になれなかったら、お金が入ってきませんよ」
「じゃ、養ってくれますか」
「それは……」
「冗談です。ちゃんと野球以外の賃取り仕事をしますよ。だれにもご迷惑はおかけしません」
 主人は感銘を受けたような眼を私に注いだ。
「神無月くんは……オラんどには推し量れね」
 サングラスがカラカラと笑った。
「決勝は東奥義塾が。強敵だな」
「五分五分だと思います」
 主人は気を取り直して、
「むごもコールドを二っつもしてるチームだすけな。ピッチャーは青森県ナンバーワンの技巧派前田啓一。小さな大投手て呼ばれでら。フォークまで投げるらしじゃ」
「そうですか。フォークは、次がフォークだとわかっていても打てないものだと、阿部キャプテンから聞いたことがあります。きっと要所要所で、それを使って押さえにくると思います。ぼくたちの基本は大物狙いですからね。ストレートは打ち返すとわかってるでしょうから」
「あしたは青森テレビで全中継だそんだ。夕刊さ載ってる」
 主人は新聞の大見出しを示した。

   
テレビで北の怪物が見れるど!
        地元青森テレビ決勝戦全生中継

 全国高校野球夏の予選も大詰めになった。大会記録の五本を大幅に塗り替えて、すでに十四本のホームランを放っている超高校級スラッガー・神無月郷外野手(一年)を擁する県立青森高校対東奥義塾の決勝戦(二十三日午後一時)が、一試合まるまるテレビ中継されることが昨二十一日決定した。地元青森放送が高校野球青森大会を一試合まるごと中継するのは初のこと。中央の各局もビデオ録画獲得に乗り出している。日本じゅうの野球ファンにはまさしく朗報だ。彼らにとって未知の存在と言える〈北の怪物〉神無月郷(一六)がどんな打球を放つのか、どこまで飛ばすのか、テレビを観ることによって一目でわかる。東奥義塾戦で優勝した場合の甲子園球場での試合は、注目の全国中継となり、いよいよその快打を広く世に示すことになる。


 と書いてあった。主人が、
「とうとうテレビまで変えでしまったが。神無月さんのやったこど考えれば、あだりめだべたって、おんどろいたな」
「テレビだばまいね。現場で観ねば」
 サングラスが言う。
「もちろんそんです。あのスイングと打球はテレビではわがんねもの。すかし、大したもんだでば」
 それからは、主人とサングラスは今年のプロ野球の話に移っていった。ラジオの人であるサングラスはその種の話題によく通じていて、同い年同士で話が弾んだ。女二人と私はツンボ桟敷に置かれたのを幸い、食事にいそしんだ。      

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