二十九

 七月二十三日金曜日。曇り。十時。十人以上の教師と百五十人に余る生徒が、青高グランドに集合した。古山、小田切、藤田、木谷千佳子、鈴木睦子、五組の連中が半数近くいる。ブラスバンドの校歌演奏、つづけて応援団のエール。野球部員たちに向かって何か怒鳴っているが、聞き取れない。正門に待っていた大型バス三台に分乗して、合浦公園に向かう。窓から見る街並が蒸し暑そうだ。
 公園の入口前に人がたむろして係員から整理券をもらっている。革袋を担ぎ、二本のタイガーバットを手にバスを降り、公園へ入ろうとしたとき、呼び止められた。
「神無月くん!」
 飛び上がるほど驚いた。忘れもしない顔。
「押美さん!」
「おお、名前を憶えていてくれましたか、ありがとう。期待どおり大物になったね。こんな北国で野球をつづけていたとはね! 《北の怪物》という記事を見たときには、泣いてしまったよ」
 立ち尽くしている相馬や選手たちに気づいて、
「あ、すみません。監督、どうぞ先を急いで。打ち合わせや練習があるでしょう。神無月くんは、十分ほどであとを追わせますから」
 相馬に深々と礼をする。
「名古屋の中商の押美さんです。小学中学のときにスカウトにきてくれた人です」
 阿部たちが顔を輝かせた。
「おふくろさんが追い返した人が!」
 相馬はにっこり笑い、
「きみの将来だ。よくお話を聞いてからきなさい」
 監督はチームメイトたちといっしょに、青々とした松並木のあいだを球場のゲートへ歩いていった。押美は私の手を取って握り締めると、
「あんな形できみと別れることになってしまって、ずっと気にかかっていたんだ。元気だったかい」
「はい」
 私も強く握り返した。
「こちらにきた事情は知らないし、聞く時間もないけれど、どうせあのお母さんの決断だろう。彼女にしてみれば、よくせきのことだったかもしれないが、きみは不本意だったろうね。受験校に入学したことも含めてね。でも私はうれしいよ、きみが野球をやりつづけていてくれたことがうれしい。すまない、きょうは、ゆっくり話ができないんだ。きみにこちらの意向を伝えたら、とんぼ返りすることになってる。私もいろいろ忙しくてね」
 押美は公園内の木陰のベンチに並んで坐ると、
「こちらの意向というのは……二年生から、あるいは三年生からでもいい、愛知県の野球名門校へ、たとえば中商、名電工、東邦あたりへ転校してほしいということだ。むろんお母さんの意見を無視してこの話は進められないが、たぶん今回はだいじょうぶだろうと思うんだ。ここまで全国レベルになったきみの名声と実力を認めないわけにいかないでしょう。あのイヤミな所長さんもね」
「母は職場を変えました。ぼくが全国レベルになったことは知らないし、知りたくもないでしょう。高校を変わることにも同意しないでしょうし、高卒でプロにいくことにも同意しないでしょう。ぼくは東大にいく以外、野球はつづけられません」
「……そうか。きみの人生の方針が変わったというなら、強いて転校しろとは言わないし、勧めても無理な状況のようだ。大学野球、社会人野球への橋渡しのときに、私を頼ってほしい。私はいま、どこの教育団体にも属さずに、いろいろなスポーツの有力選手獲得を仲介する仕事をしている」
「野球のスカウトをやめたんですね」
「うん、でもかえって仕事柄、顔が広くなった。こうやって金を出してもらって青森にも飛んでこれる。きみは野球以外の道でも立派に一家を成す人間だとはわかっている。しかし、野球の才能は飛び抜けている。その天賦の才能を日本中に知らしめ、国民を喜ばせる義務があると思う。この名刺を渡しておきます。いつでも心が決まったときに、どこからでもいいから、連絡をください。きょう勝っても、負けても、きみは話題の人としてさまざまなコンタクトを受けるでしょう。きみが中商や平安や広商に属していたら、騒ぎはこんなものじゃすみませんでしたよ。青森県の受験校で野球をしているので、関係者も半信半疑なところがあるんです。実力のないピッチャーばかりを相手にしているからじゃないかってね。私はもちろん、そうは思っていません。きみはどこにいても、どんなチームに属していても、まったく同じですよ。いずれにせよ、青森で野球をしていては、あまり未来は明るくないように思います。野球をやりつづけるなら、かならずそれなりの進路を選択してください。これからも、ずっと見守っています。じゃ、決勝がんばって。一本でも多くホームランを打ってください」
 まじめな顔で微笑し、握手をして去っていった。飯場から出ていったときと同じ背中だった。私は、五年ぶりにようやく会えた虹の使者から渡された名刺を、ダッフルの底にしまい、球場の出入口に向かった。
 先攻、三塁側ベンチ。住み慣れた巣のようだ。グランドがカンカン照りになっている。
「何の話だった」
 相馬とチームメイトたちが心配顔で寄ってきた。
「名古屋の野球校に転校するなら、橋渡しをするという話でした」
「転校するのか」
「しません。プロ野球に入る前の段階で、むだに野球をやりたくないんです。このまま青高にいて、二年生か三年生になって、プロ野球の勧誘がきたとしても、まちがいなく母に反対されます。東大に進学して母の口を塞ぎ、数年、プロの勧誘を待ちながら野球をつづけます。先日も言いましたが、最終的に母の承認がないかぎり、プロ球団は手を出せないんです。二十歳になれば、母の反対があってもぼくの意思で契約することができます」
 部員たちが神妙な顔になった。私はつづけた。
「来年、投手力が落ちたら、バッティングではチーム力を埋め合わせできません。一回戦ボーイに逆戻りするでしょう。そうなると当然、プロの勧誘はきませんし、専門筋の注目も浴びないことになります。彼はそのことも見越して、ぼくに転校を勧めたんです。でもぼくは、それでいいんです」
 相馬が腕組みをして考えこみ、吐き出すように言った。
「神無月、大学進学も頭の片隅にあるのなら、名古屋に野球の名門校で、しかも受験校というのはないのか。そういう学校があるなら、きみを失うのは悲しいけど、ぜひ転校すべきだと思う」
「ありません。野球部の伝統があるのは旭丘と時習館ですが、一回戦ボーイです。勉強は優秀です。野球は、中商と東邦しかありませんね。名電工もこれから強くなるかもしれませんが、その二校の足もとにもおよびません。野球校は、勉強はオシャカです。文武両道など現代には存在しません。野球か勉強かの選択肢しかないんです。母が勉強の選択肢しか許さないとするなら、中商か東邦にいくことはできないので、わざわざ名古屋にいっても、状況は青高にいるのとまったく同じです」
 阿部が、
「簡単に考えたら、どんだ? おめがいちばん幸せになるのはどっちかということだべ」
「もちろん野球です。かならず一度プロのグランドに立ちたい。自分の中で確信の持てる能力はそれだけですから。しかし、くどいようですが、プロになるには、母の判子が必要です」
 相馬は必要以上の大声を上げた。
「青高で野球やって、東大へいけ! 今年から野球の名門校になるかもしれないぞ。心配するな。なるようになるだろう」
 控えキャッチャーの室井が、このあいだと同じように私の肩を抱いた。
「来年、オラんどもがんばるすけ。おめのおかげで優秀な選手が集まるかもわがんねべ」
「そんだ!」
 と阿部が叫んだ。
「ぜって、そうなる。文武両道になる。さあ、いぐど。天下の東奥義塾か何か知らねけんど、一点でも取んねば、いままでのがフロックだと思われてまる。みっともねど」
「よっしゃあ!」
 二十分ずつの守備練習。バックホーム三本、ノーバウンドで返球するスタンドプレイをやめ、すべて低いワンバウンドで返した。それでもワッと歓声が沸いた。相馬はきょうは内外野に丁寧に低いライナーを打った。そういう打球が多くなると踏んでいるのだろう。
 東奥義塾の守備練習は華麗だった。とりわけゲッツーの連繋プレイは高校生離れしていた。ピッチャーのボールは予想以上に速かった。勝てないだろうと思った。義塾ベンチに杉山四郎の顔はなかった。まだベンチ入りもできない下っ端補欠なのだろう。
 私を愛する人びとを眺めた。いつもの席にカズちゃんと葛西一家が陣取っていた。青森放送のテレビカメラが入っていた。球団関係者やスカウトらしき人たちの顔が、ネット裏の前列に見えた。ブラスバンドの演奏がなぜか秩序立って聞こえる。緊張しているのだろう。応援団の乾いた声が空に昇る。
 試合開始十五分前、女性アナウンサーのメンバー発表。正一時にプレイボールの声が上がった。サイレンが鳴る。応援がかしましくなった。
「神無月、振り回すんだべ!」
 三上が訊く。
「はい、短打は通用しません」
「よっしゃ!」
 意気盛んにバッターボックスに入った三上は、県下ナンバーワンのピッチャー前田に三球三振に切って取られ、走って戻ってきた。
「おっそろしぐ曲がるカーブだ!」
 今西、キャッチャーフライ、阿部、セカンドライナー。あっというまにチェンジになった。ストレートとフォークは一球もなし。カーブとシュートのみ。
 時田は初回から東奥打線に打ちこまれた。小笠原・高木の四・五番コンビのツーランホームランとソロホームランを含む六安打を打たれて四点を奪われた。時田のナチュラルシュートはじゅうぶん研究されていた。彼がだめなら、あとはだれが投げても同じだ。観客の興味は私のホームランだけに絞られた。
 二回表、先頭打者。ほとんどフォークでくると確信していたので、目に見えるボールの高さよりも少し低い位置をゴルフスイングすることに決めた。二球つづけてショートバウンド。あまりにも早く落ちたので手を出さなかった。三球目イメージどおりの高さできた。ゴルフスイング。打球はセカンドの頭を一直線に越えていき、右中間まで伸びてコンクリートフェンスに当たった。センターがクッションボールの処理を誤っているあいだに三塁へ滑りこんだ。三塁側ベンチの雄たけび、スタンドの歓声。しかし、神山はショートゴロに倒れ、藤沢三振、一枝三振。犠牲フライも打てない。
 二回裏、時田は前田から始まる九番、一番、二番打者を三者凡退に抑える。
 三回表、瀬川、時田、三上、三者連続三振。
 三回裏、東奥、三、四、五番の連続二塁打で二点追加。ゼロ対六。一方的な試合になった。
 四回表、今西三振。阿部サードへのイレギュラーヒットで出塁。一死一塁。ふたたびスタンドの大歓声、ベンチの雄たけび、太鼓の連打、合浦ゲントウ吹奏。
 初球のフォークをゴルフスイング。芯を食った! 高く舞い上がる。
「いったー!」
 ベンチの声を背に、ゆっくり走り出す。ボールがライト場外に消えていくのが見えた。歓声の爆発、拍手の波、波、喝采の嵐。サードを回るとき、カズちゃんが真っ白い歯を輝かせ、ミヨちゃんが顔を覆って泣いているのが見えた。主人は立ち上がって手も破れんばかりに拍手していた。神山、レフト前ヒット。藤沢、6・4・3のダブルプレー。場内の喚声が耳の中で静まっていく。二対六。
 四回裏時田ランナーを二人出すも零点に抑える。
 五回表、一枝サードゴロ、瀬川サードゴロ。時田三振。
 五回裏、時田またランナーを二人出すも抑える。抑えている時田自身が信じられないという顔をしている。
 六回表、三上足首にデッドボール、今西三遊間ヒット。阿部、ライトオーバーの二塁打。一点入って三対六。ノーアウト二塁、三塁。私の打席だ。うなるような歓声、割れんばかりの拍手。神無月、神無月、のシュプレヒコール。敬遠気味のフォアボール。オー、というガッカリしたざわめきがただよう。ノーアウト満塁。神山センター奥に犠牲フライ。今西還って四対六。ワンアウト一塁、三塁。藤沢ショートゴロ二塁封殺の間に阿部還って一点。五対六。一枝三振。
 六回裏、時田満塁から小笠原に右中間へ三塁打を打たれて三点追加される。五対九。ツーアウトから白川投入。高木以下をどうにか抑える。
 七回表、エール交換。東奥義塾のスタンドにチアガールが勢揃いして派手に踊っている。心なしか青高スタンド側の演奏に悲壮感が混じっている。
 七回表、頭の中で遠くから聞こえる応援歌演奏の中、今西センター前ヒット。渾身の力を振り絞って、スタンドが拍手をする。応援団が暴れるように舞う。阿部ファースト強襲ヒット。ノーアウト一、二塁。四度目の打席に立つ。


         三十

 祈るような喚声にまぎれて、
「神無月さーん!」
 という女の声が耳に届いた。振り向くと、葛西さんの奥さんが立ち上がってハンカチを振っていた。主人も口メガホンをしている。一塁走者の阿部が、タイムを取って走ってきて、
「フォークの落ちが悪くなってるど。直球に切り換えてきたでば。狙え」
 阿部は全速でファーストへ駆け戻った。直球は大したスピードではない。フォークよりはるかに打ちやすい。初球フォーク。遠く外れるボール。なんだ? また敬遠か? 二球目、高目胸もとのストレート。ボール。敬遠だ。膝もとに狙いを定める。ノーツーから三球目、真ん中低目のストレート、地面スレスレの糞ボールをジャストミートする。センターへ低い弾道のまま飛んでいくが舞い上がらない。胸を不安に轟かせながら一塁へ向かって走る。
 ―伸びろ! 伸びてくれ!
「いけー! 入れー!」
 私とベンチの祈りだ。センターが懸命にバックする。グローブをかすめるように121の数字の真上、フェンスぎりぎりの芝生に落ちた。
「ウオー!」
 地面を揺するほどの観衆のどよめき。第十六号スリーランホームラン。八対九。三塁側スタンドの生徒たちがバンザイの格好で飛び跳ねている。教師たちも総立ちだ。カズちゃんが両手を交差させるように大きく手を振った。太鼓の乱打。ブラバンなしの青高健児合唱。神山ショートフライ。藤沢レフトオーバーの二塁打。一枝、力のないセンターフライ。瀬川三振。
 白川がランナー二人を出しながら、七回裏も抑える。
 八回表、白川三振。三上三振。今西レフト前ヒット。阿部レフト前ヒット。五度目の打席が巡ってきた。敬遠! 驚愕の混じった絶望のどよめき。もう私の打席はない。神山サードライナー。
 八回裏、白川先頭打者の小笠原にソロホームランを打たれる。守屋投入。肩も抜けよとばかりの力投で、残りの打者三人を内野ゴロに抑える。八対十。
 九回表、相馬が円陣を組む。涙でくしゃくしゃの顔だ。三塁側スタンド老若全員起立して、青高校歌が荘重に歌い出される。
「きみたちはなんてすばらしいやつらなんだ。見てみろ、スタンドのみんなも泣いてるぞ。希望を捨てずに、悔いのないバッターボックスにしてくれ」
 藤沢サードベースに当たってファールグランドに転々とする二塁打。どよめき! 悲鳴! 絶叫! 義塾左ピッチャー森本に交代。一枝深いライトフライ。ランナータッチアップ、三塁へ。まったく当たっていない瀬川の顔面が蒼白だ。私は叫んだ。
「瀬川さん! ホームラン! 全球狙っていこー!」
 彼はにっこり笑い、バットを高く構えた。初球一閃、ボールはレフトへ高く舞い上がった。力が足りない! しかしフェンスまで飛んでいった。立派な犠牲フライだ。藤沢が右手を高々と上げてホームインする。九対十。拍手喝采のこだま。ブラバン。太鼓。白川に代打守屋が出る。
「守屋さん! 高校最後の打席ですよ。三球三振、ぜんぶ振りましょう!」
「オッケー、三球三振!」
 守屋は初球からブンブン振った。三球目の内角高目を振りぬくと、詰まった当たりがライト前にポトンと落ちた。イレギュラーしてファールラインのほうへ逸れた。それを見て彼は一塁を蹴ってセカンドへ走った。彼は俊足だ。頭から二塁に滑りこむ。強肩のライトからの返球は間一髪間に合わず、セーフ。
 大歓声の中、三上が手の甲で涙を拭いながらバッターボックスに入った。観客席のところどころにも、顔にハンカチを押し当てている人が目立つ。頭の中で場内の音が静まった。空を見上げた。涙が流れてきた。
「いったー!」
 視線を戻すと、右中間目指してセンターとライトが疾走していくところだった。ライトがジャンピングキャッチして転がった。アウト! 試合終了。サイレンが鳴る。アンパイアが集合の合図をする。ダッシュして整列。礼。怒涛のようなフラッシュ。報道陣が乱入してくる。
「ありがとうございました!」
「ありがとうございました!」
 握手。みんな泣いている。味方も敵も泣いている。私の腕が四、五人の手に握られる。
「おめ、すげじゃ!」
「プロさいったら、一生応援するじゃ」
「甲子園、がんばってください」
「こったら試合、甲子園でもでぎねべ」
 彼らはダッシュして、凱歌を贈られるために自軍ベンチ前へ去った。東奥義塾の演奏が終わるのを待ち、三塁ベンチ横に整列して帽子を取り、青高の校歌斉唱を聞く。私は顔を上げ、スタンドで歌う人びとを見つめた。西沢が泣いている。古山も木谷も泣いている。選手もみんな泣いているが、悔し泣きしているやつはいない。礼をし、ベンチへ戻る。
 勝利者に報道関係者が集まっている。二本ホームランを打った四番バッターが写真を撮られている。阿部ほどの選手には見えなかったが、先々彼には幸運のレールが敷かれるだろう。記者たちの一部がこちらに駆けてくる。相馬が待ち受ける。
「インタビューは晴れの日の義務だよ。みんな受けなさい」
 私はネットに向かって歩いていった。カズちゃん! 涙が止まらないのだろう、しきりにハンカチで目を拭いながら手を振っている。葛西さん一家も手を振った。みんな泣いていた。
「すばらしかったよ、神無月くん! 一生の思い出ありがとう!」
 主人が叫んだ。周りで拍手が起こった。私は帽子を取ってお辞儀した。デンスケを抱えた記者が寄ってきた。ベンチに向かって歩きだす私に、横からマイクを差し出す。
「残念でしたね。この口惜しさをバネに、来年こそは優勝ですね」
「運がよければ。口惜しくありません。力差が歴然としてましたから。かえってすがすがしいです。小学校以来やってきた野球が、いろいろな意味でここにきて完成した感じです」
「記録の三倍以上のホームランを打ちましたからね。今夏の県大会の三冠王ですよ。文字どおり、北の怪物。全国区に知れわたりました。青森県の誇りです」
「ありがとうございます。人に誇りに思われるのは気持ちのいいことです。ぼくにかぎらず、好きなことに打ちこんでいる人間がもらえるご褒美は、きっとそれでしょう」
「学業も優秀だと聞いてますが」
「素人です。野球しかできない人間です。運命のいたずらで青高にきただけですから。以上。失礼します」
 相馬がインタビューを受けていた。私は革袋を担ぎ、インタビューを終えたばかりの阿部に、じゃ、また練習で、と声をかけた。夏から秋にかけて、練習以外にもうすることはない。宮中時代と同じだ。
「先に帰ります。報告したい人がいるんです。バットをお願いします」
「おお、運んどぐ。あはー、わがった。いげ。みんなさちゃんと言っとぐ。……神無月」
「何ですか?」
「一生、友だちだすけな」
「もちろんです。それじゃ」
「へば」
 公園口からタクシーを拾った。
「桜川の公民館前」
「ほい、公民館。ん? いまの試合のかた? ラジオで聞いてましたよ。すごい試合でしたね」
 私のユニフォーム姿をバックミラーで見つめる。
「はい、すばらしい試合でした。東奥義塾には甲子園で活躍してほしいですね」
「あら、標準語だね。あなた、青高の神無月選手?」
「はい」
「こりゃ、ラッキーだ! 放送じゃ都会からきた絶世の美男子って言ってたけど、なるほど、グッとくるね。へえ、大きくないんですね。そのからだで十六本!」
 話したくない様子で私が黙ったので、運転手は気を差しながら、
「自慢話の種ができましたよ。神無月選手を乗せたって、同僚にさっそく言わなくちゃ。将来プロにいく人ですからね。すみません、この手帳にサインをください」
 肩越しに後ろ手で差し出した手帳に、私は、青森高校・神無月郷と書いた。
 タクシーを降り、革袋を揺らして走った。カズちゃんはもう家にいて、ユニフォーム姿の私を玄関で抱き締めた。やっぱり泣き腫らした顔をしていた。
「何日も応援ありがとう。励みになった」
「私の心臓さん。愛してるわ。キョウちゃんをみんなに見てもらえて、うれしくてしょうがないの。これから先、いろんな苦労があるでしょうけど、二人で乗り越えていきましょうね」
「うん。きょうはすぐ帰る。あした、朝からくるからね」
「ええ、待ってるわ。あしたは、うんとかわいがってね」
「うん」
 いっしょに歩きだす。新興住宅地の清新な家並が目に涼しい。
「準決勝が終わった日、一晩のうちに奥さんと娘さんが部屋に忍んできたんだ。精を使い果たした」
「やっぱりキョウちゃんのコンディションを考えてくれてなかったのね。決勝戦までは大事なからだだったのに。……でも、だいじょうぶよ、一晩に三回や四回、からだを痛めることはないわ。ただ、それを連日しちゃだめ。腎虚っていう病気になっちゃうわ」
「ジンキョ?」
「セックスのしすぎで、インポになっちゃうの。これからはじゅうぶん気をつけてね。断るべきときは、きっぱり断るのよ」
「うん、カズちゃんとするときのような感動がないんだ。清潔感が……」
「愛し合ってないからよ」
「カズちゃんみたいないいにおいもしないし、形もきれいじゃない。娘さんはきれいだけど……」
「処女だったんでしょう。ひさしぶりに気に入った顔よ。いい子なのね。その子はしつこくしないわ。これからよ。奥さんがあまりしつこく迫るようだったら、下宿を変えましょう。それでときどき抱いてあげればいいのよ。からだの気持ちよさと愛情を混同してる女はダメ」
「うん」
 ひと曲がり、ふた曲がり、どこまでも送ってくる。私も別れたくない。
「中商の押美さんがきたよ」
「ほんと!」
「合浦公園の球場のゲートまで会いにきた。ぼくはもう全国レベルの選手になったから、愛知県の野球校に転校したらどうかって。その気がないなら、将来大学野球や社会人野球をするとき、橋渡しをするって。そういう仕事をしてるみたいで、もう中商のスカウトじゃなかった」
「キョウちゃんのことが転機になったのね。ありがたいお話だけど、断るしかないわよね」
「うん」
「せっかく出てきたプロ野球への芽を摘んじゃうことになるから。いつも、お母さんがスカウトを追っ払ったときのことを思い出して、油断せずに万全の構えをしておかないと。あれから、すっかりキョウちゃんの人生が狂ってしまって、キョウちゃんに思索グセがついてしまったのは一つの危機だったわ。ほんとうにやりたいのは、野球しかないのに。キョウちゃん、電話で言ってたわね、野球が単純で、つまらなく見えてきたって。自分を輝かせるものをそんなふうに考えるようになってしまうのよ。それなら本質的にお母さんと同じ考えよ。人間はアタマだって。キョウちゃんを溌溂と輝かせる野球が単純でつまらないはずがないじゃないの。野球をしつづけて、プロ野球へいき、それこそ挫折するまでやりつづけて、それからゆっくりと静かな別の人生を求めること。それがキャンセルできない天の神さまとの約束事よ。野球をしましょう。思い切りしましょう。お母さんは野球をするだけの高校にいくことは決して許さない。妨害する気があるかぎり、お母さんの妨害はことごとく成功するわ。周りの人は甘く見てる。こうして野球ができることは、幸運以外の何ものでもないのよ。偶然の幸運だったけど、野球をやりつづけられるのは、この青森高校しかないの。ここにいましょう。ここから野球の世界へ引き上げてもらいましょう。もちろん、うんとものを考え、勉強をして、才能のあることには何でもかんでも挑戦しましょう。そういう生活がほとほといやになって、死にたくなったら、私もいっしょに死ぬから」
「うん!」
 私は心からうなずいたのだった。生き埋めにされていた土の中から蘇生させてくれた女の言うことに、心からうなずいたのだった。全能の女神は、私の魂の底からほんとうの希望を浚い出した。私は一瞬のうちに、視界をさえぎるもののない晴天の下を歩いているような気持ちになった。自分以外の人間を信頼する情熱が、これほど逆らいがたく私を捉えたことはなかった。私の想いはどこへ迷っていくにせよ、いつもかならず、カズちゃんが私に抱く愛情を信頼する心に戻ってくるのだった。
 どこの町とも知れない辻で二人は足を止め、小鳥のキスをし合った。
「じゃ、帰る。あしたね」
「あしたね」
 カズちゃんは大きな胸に私を抱き締めて、もう一度深く唇を吸った。

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