四十三

 さわやかな晩夏がやってきた。まだ八月の中旬にかかったばかりだと言うのに、終日、補習教室の開け放した窓を乾いた風が通りすぎていく。
 早朝ランニング再開。コースは青森漁協までと定まった。
 有志だけが参加する授業が始まって何日かして、校舎の玄関で小笠原照芳と遭った。浪打駅へつづく一本道を歩いた。二人とも下駄だ。
 テルヨシは自転車を牽いて歩く。花園へは遠回りだったが気にならなかった。真っ青な稲田が揺れている。松森の交差点まできて、テルヨシは左後方を指差し、
「あれが青森放送のアンテナ塔だ」
「ふうん、阿部主将が予選抽選会をしたところか」
「決勝戦をまるまる放送したテレビ局よ」
「そうだったね。それにしても、まじめに講習出てるね」
「奥田や小田切に追っつきたくてよ。一番のおめには追っつけねたって」
 小笠原も奥田や小田切と肩を並べる数学の好成績者で、よく西沢から、
「東北大、確実!」
 と言われている男だ。数学をのぞけば、成績は下のほうだった。
「ぼくの数学トップは一回だけのマグレだよ。本能でできてしまう奥田や小田切とはちがう」
「マグレでねべ。英・国もすげし」
 小笠原とは下校の道筋は同じでない。それでも私は、遠慮がちに声をかけてくる彼にくつろいだものを感じて、これまでも何度か連れ立って裏門から帰った。
 自転車を押しながら、彼はいつも言葉少なだった。しかしその少ない言葉の朴訥な響きを耳にするたびに、におい立つ人柄のよさに心が一新されるような気がした。物静かで礼儀正しい小笠原は、勉強も、その存在も目立たなかったけれども、クラスの連中からはテルヨシと呼び捨てにされ、かわいがられていた。つんつるてんのズボンを穿き、二重と一重の片チンバの目がいつもにこやかに仲間たちを見つめていた。
「プロさいぐのな?」
「うまくいけばね。ただ青森県のホームラン王じゃ弱い。記録を塗り替えたといっても、野球レベルの低い青森県の記録だからね。プロから注目されるには、もう一踏ん張りしないと」
「おめ、名古屋の野球の名門高校さ転校するんでねがって、みんなへってら」
「しないね。スカウトがきてもいかない。いや、いけない。……事情がある」
 テルヨシは疑わしい目を向けながら、鼻先を摘んで引っ張る。涙腺が露わになるほど目の縁が伸び、狐のような顔になる。
「やめろ、その癖。気持ちが悪いよ」
「へへ、今度遊びにきてけんだ。稲山の麓の桑原って村だ。青高まで七キロもあるすけ、自転車でねばうだでかかるけんど」
 痒くもない頭を掻きながら言う。これも癖だ。
「七キロぐらい、遠足だよ」
「甘め、甘め。体育祭の六キロマラソンも、走るととんでもね距離だでば」
「ふうん、青高にはそんなものもあるんだ」
「十月な。一年生全員走らねばまいね」
「二年生と三年生は?」
「一年生だげだ。伝統だんだ。正門前から左へ四十号線をズッと走って、幸畑の陸軍墓地で折り返す。八甲田山、死の雪中行軍。覚べでらべ」
「うん、入学式のとき、教頭先生が言ってたね」
「その兵隊さんたぢが祀られてる墓だ」
「蕎麦食うか、コーヒーにするか。おごるよ」
「ほんだってな! コーラがいじゃ」
 四号線に出る直前に小さな喫茶店があったので、鈴を鳴らして入る。二つのテーブルの奥に座る。学生アルバイトのような男が水を出す。
「ホットコーヒーとコーラ」
「……神無月は、いつもポツンとふとりでいるな」
「仲間に入っても、なんだか浮き上がっちゃってね」
「時のふとだもんな。都会と比べたら、こっちの人間は退屈だべ」
「退屈とは思わない。ただ、あんまりみんな仲がよすぎて……。しんねりむっつりはもちろんいやだけど、明るすぎるのもね」
「オラも寄り合いは好きでね。たいていのふとは、一人コいるほうが耐えられねんだ。じゃっぱ汁みてな、いっしょの生活が楽しいんだでば。周りがうるせのも、耳に煩わしぐねのよ。オラも兄弟が多いすけ、よぐわがる。みんなさカダルほうがラグだんだ。だども楽しぐラグに生ぎるのが人間らしいかってへると、そうとも思えね。みんなさカダルことしねで、気になるふとと話コしてるほうがもっとおもしれ。生まれできた甲斐があるってものだべ」
 さわやかな弁舌だ。成績とは関係なく頭が冴えている。
「そのとおりだね。その〈話コ〉は、本に向かってもできるよ」
「ンだ。本も大事な話し相手だでば」
 テルヨシはコーラをうまそうに飲んだ。
         †
 七月二十六日に始まった補習が八月十四日に終わり、十五日の日曜日から野球部の練習が始まった。
 ダッフルにグローブとスパイクとタオルを詰め、ユニフォームを着て出て、着たまま帰る。練習時間は午前の九時から十二時まで。ふだんより長めだが、ほかの高校よりはるかに少ない。気温は二十六度から三十度まで上がる。
 練習の種類も単純だ。柔軟、腕立て腹筋背筋、四角いグランドを金網に沿って速めに五周、キャッチボール五十球、遠投三十球、素振り各自自由、トスバッティング五十本。フリーバッティング二十本。時田、白川、守屋が順に五球ずつ投げるのをレギュラーが一人あて二十球打つ。それだけ。
 新しいユニフォームでからだも軽くスイングする。ひさしぶりなのでポップフライが多い。球拾いが増えているのに気づいた。
「神無月のおかげだ。この中に掘り出しものがいるかもしれねど。来年もわったわったへってくるべしな」
 阿部が言う。
「阿部さんは十月で引退ですね」
「十二月だな。雪で練習でぎなくなるまで出る」
「夏以降はマスコミはきませんよね」
「毎日くる。ほれ、いまもあすこにいら。ンガがマスコミにひゃっこいって噂だすけ、そばに寄ってこね。オラんども助かる」
 正門から少し入ったところの金網で、カメラを構えている男が二人いる。よく見ると、金網沿いにポツポツ、手帳を開いたり、顔を突き合わせて話をしたりしている男たちがいる。プロの野球関係者かもしれない。野球選手が目立つべきなのは、練習グランドではなく試合グランドだ。私はグランドの仲間たちから離れ、練兵舎の生垣沿いを何往復もランニングをした。守備練習はどうしても記者たちの間近に姿を見せることになる。ノックの打球を追いかけるあいだ、捕球の瞬間、返球する瞬間、シャッターの音が聞こえてくる。
 桜川幼稚園の前を通りかかる。庭にカズちゃんの姿はない。彼女はきょうからここに勤めたはずだ。木柵に凭(よ)る。園児たちがユニフォームを着た男をめずらしそうに眺めている。おかしな男とまちがわれたら、カズちゃんに迷惑がかかる。すみやかに柵を離れる。
 カズちゃんと名古屋ですごした濃密な時間が、奇異な体験としてではなく、しっくりと勤勉な日常の中に溶けこみ、気分が躍動して勉強をはかどらせる。補習をきっかけにこれまでに倍する勉強をしているせいか、性欲はまったく湧いてこない。
 ある日、学校の帰りにカズちゃんのいない家に立ち寄ると、電話の下に手紙が挟んであった。いつか私が目にすることを願って挟んでおいたものだろう。

 きょうは萩原朔太郎を読みましたが、気に入りませんでした。そのお弟子さんの嵯峨信之という人の詩に感銘を受けました。―生まれることも死ぬこともなにか人間への遠い復讐かもしれない―というものです。ふるえて、涙が出てきました。
 幼稚園の給食係の副主任になり、献立計画やら味見やら、残業が増えて暇なしになりました。毎日くたびれて、夜はぐっすり眠ります。練習の始まったキョウちゃんもきっと同じでしょう。でもキョウちゃんは若者らしく、くたびれたなどと弱音を吐かずにしっかり野球に励みなさいね。秋の練習試合が楽しみです。
 ステレオ、奥の間に置いてあります。プリメインアンプは山水AU111、スピーカーはJBLランサー101、レコードプレーヤーは電音DL103です。接続はしっかりしてあります。キョウちゃんの好きなポップスは、メインどころの歌手五十人ほどのLPを揃えてあります。時間があるときに好きなだけ聴いて帰ってください。
  和子より                           郷さまへ

  
 神経のこまやかな、目に沁みる文章だった。奥の間に入ると、ピカピカの三点セットが置いてあった。スイッチを入れ、ブレンダ・リーのジャケットからレコードを取り出してターンテーブルに載せる。アイ・ウォント・トゥ・ビー・ウォンティッド。信じられないほど上質な音が飛び出してきた。
         †
 二十二日の日曜日に、自由参加の第二回東奥日報模試があり、私は志望校を東大文科三類にして英語と国語だけ受験した。五月の第一回は、一年生のだれも参加しなかったと試験会場の連中が言っていた。英数国のどれか一科目だけの参加者、理科か社会科だけの参加者、全科目参加者といろいろいるけれども、要するに、一年生でありながら東北地区の数万人の高校三年生と闘い、成績優秀者のランク表に自分の名前を載せられるかどうかという、功名心を求めるだけの参加に過ぎない。物好きが多いので、まだ名前もうろ覚えのクラスメイトのほとんどと試験会場で顔を合わせた。どの顔も生白かった。水泳部の丸顔ノッポの武藤と、ラグビー部の奥田、それに野球部の私、日焼けしているのはその三人だけだった。
 一週間後に返された成績は、英語が十三番で国語が二番だった。その二科目に関するかぎり、合格可能性は百%となっていた。小田切の地学は一番だった。古山と奥田の噂は聞こえてこなかった。こんな暇つぶしは一度きりでやめることにした。
         †  
 九月一日の水曜日から二学期に入った。青森には残暑というものがない。すぐに涼しい風が吹きはじめる。
 秋が立つ中で体育の授業がもっぱら水泳中心になった。初回に点呼をとったきり、体育の教官は顔を出さず、ただみんなで勝手に五十メートルプールを泳ぎ回っている。学科の授業にしても、教師はまじめに出てくるが、学生のほうは遅刻あり、早退あり、雲隠れありで、すっかり拘束性が弱まり大雑把になってきた。しかし、そんなふうに自由に振舞っている連中は一部のできそこないだけで、ほとんどの学生はまじめに学科の授業に出ていた。
 仲間たちに対する私の気持ちのありようも、こだわりのないものに変わってきた。自分が思うほど、成績に執着する卑しい人間などいないと感じられるようになった。彼らは打ち解けた中にも、案外お高くとまった鷹揚さをひけらかすところがあったけれど、それも苦にならなくなってきった。
 秋の光がプールの生垣を濃い緑に染めあげ、草木のさわやかな香りがそこかしこから立ち昇っている。恒例のクラス対抗水泳大会が十三日の月曜日にあると、ひさしぶりにプールサイドに顔を出した体育教師から告げられた。私はクラス推薦で、五十メートル平泳ぎの選手として出場することになった。平泳ぎに選ばれたのは、競泳はできるかと訊かれたとき〈クロールは〉できないと言ってしまったからだった。どの競泳にも出たくないと言うべきところを、意識しないで誤解を招くような言い方をしてしまった。
 百メートル背泳は、靴屋の藤田が、百メートル平泳ぎと百メートルクロールは、それぞれ水泳部の武藤と小笠原が選ばれた。武藤は選ばれて当然としても、私を含むほかの連中は不満顔をしていた。競泳が初めての経験だったからだ。彼らは初めてを嫌う。慣れたことしかやりたがらない。私も競泳などもちろん初めてのことで、ドキドキしたが、とにかく選ばれた以上はやってみようと思った。自分の器を知ることは一抹のさびしさも伴うけれども、うれしいことでもある。これもカズちゃんが啓発した心だ。武藤が辞退をにおわせながら、
「カエル飛びのしすぎで、膝に水がたまるようになってせ。しょっちゅう水抜きに病院さかよってるんず」
「おめは水棲動物だすけ、からだじゅう水浸しでちょんどいいんでねが。金払って水抜く必要ねべ」
 古山がからかった。プールサイドが爆笑になった。


         四十四

 野球部の練習を六時前後に終えると、たいてい校舎の裏手に出て、駒込川沿いを散策してから帰った。ときどきカズちゃんの家に寄り、メモを残した。
 通りすがりの民家の生垣に、見覚えのある花が咲き遅れていて、その香りが一年前の初夏を思い出させた。牛巻病院の花壇に咲いていた漏斗型の花だ。金色のうてなの深々とした色合いが目に浮かんだ。花の名前はわからなかった。
 勉強部屋の戸の隙から、ビフテキのにおいがただよってくる。主人が肉好きなので、ひと月に一度はビフテキになる。最近、奥さんの言う〈育ち盛り〉のせいか、肉が抵抗なく食える。赤井がクラシックの針を途中で上げて居間にいく足音がした。
「ビフテキですか! 待ってました」
 主人と奥さんの明るい笑い声が響いてきた。サングラスのくぐもった声も雑じった。すぐに足音が戻ってきて、戸をノックする。
「はい」
「貼り出してあったな、東奥日報模試。やったでねが。英国はおめに負げだ」
「英国しか受けてませんよ」
「威張るなじゃ。おーいミヨちゃん、コーヒーいれてけろじゃ」
「もう、ごはんですよ」
 奥さんの声が聞こえてきた。
「あ、わがりました」
 赤井は、利子つきだ、と言って、千円札を二枚、机の上に置いた。私は遠慮なく受け取った。
「もうあそごさ、しばらぐいがね。若げのはほとんどお相手願ったすけ。―めしのあとで、散歩すべ」
 小さな目を細めて笑った。
 ビフテキが焼き上がって、じゃがいもとグリーンピースを盛った皿をミヨちゃんが卓の上に並べた。奥さんがめしを盛る。ミヨちゃんはうれしくてしかたがないという笑いを浮かべて私を見つめた。それは赤井の言うようなコケティッシュな笑いではなかった。カズちゃんと同じ愛のある笑いだった。赤井にはわけの知れないものだった。奥さんも湿った眼で私を見つめ頬を紅潮させた。
 とつぜん、この家を退散したほうがいいかもしれないという気持ちが動いた。奥さんやミヨちゃんの視線と、解放的な性のありように目覚めた自分のからだを考えると、このままこの家にいつづければ、いずれ厄介ごとが持ち上がって、心身ともに二進(にっち)も三進(さっち)もいかなくなるだろうという予感があった。わけても野球と勉強に支障をきたすことでも出来(しゅったい)したら一大事だと思った。
「食べて、食べて。うんと精をつけて、赤井さんは勉強に、神無月さんは野球に、思う存分精力を注いでください」
 いつもの賑やかな食卓になった。ミヨちゃんがサングラスに肉を切り分ける。ビールを飲んでいた主人が、
「東奥日報模試の結果が新聞に載ってらったよ。赤井さん、全県の三番て、うだでだね」
「全県の一番二番を八戸高校に持ってがれました。腑甲斐ね。それより神無月くんは、一年生なのに、国語二番、英語十三番ですよ」
「総合成績欄には載ってなかったね」
「はい、英・国だけを受けました」
「二科目でも、すげんだでば。何万人の中でその成績なんですじゃ。オラは一年のときの英・国は三千番にも入らねがった」
 赤井はビフテキにかぶりついた。
「うめ! やわらげじゃ」
「でしょ、さ、みんな食べて、食べて」
 心の動きを悟られないように、肉を平らげ、めしも二膳平らげた。
「神無月くん、腹ごなしに散歩にいぐか」
「いきましょう」
 奥さんが赤井を睨んだ。
「いや、ほんとの散歩ですよ。神無月くんをそたらとごさ連れていがねすよ。きょうは土曜日でねし」
 赤井は奥さんに請け合った。
「堤川の上流のほうさ歩ってきます」
 赤井と土手道を歩いた。川風が強い。初秋の月が水面に落ちている。
「京都大学、確実ですね」
「くだらね。ンガの生ぎ方に比べたらちゃっけェ。ンガが青森さ島流しになったユクタテが、ねじ曲げで新聞さ書がれでらった。……不良だったず話はでたらめだ。原因は女よ。何が不良だってが。そたら単純なもんでねんだ。あの書き方だば、単なるチンピラが島流し食らったようなもんだべや。馬鹿にすてらじゃ」
 口角の吊り上がった微笑を浮かべる。学生生活の習慣や形式を仮面にしてかぶっている顔だ。ほんとうの顔は仮面の下に隠れている。彼の仮面には深みがある。青高の正門をすぎて、さらに山手に向かって歩いた。
「オラは高校さきてがら、ずっと秀才だった。勉強してれば、いい点が取れる。だはんで勉強で悩んだこどはね。京都大学、か。いずれオラは出世街道を驀進するんだべ。ちゃっけ。ンガに比べたら、あの塾教師もちゃっけな。……おめと会えでふんとにいがったじゃ」
「赤井さんは、有為の人間です」
「有為? 皮肉言うなじゃ。為すこと有るにしても、為(ため)に有るにしても、てめの存在そのもののが価値としてそびえでるってこどより、他人の役に立づ価値しかねってことだべや。おめの口ぶりだと、そったらふうに聞こえるど」
「有為の解釈がまちがってますよ。才能があって、それが他人のために役立つ人間のことですよ。そうやって生きるのは最高の生き方です」
「ンガもそうやって生ぎてるべ」
「そう信じて生きてます。自分も有為の人間だと」
 意外に早く山あいに入り、小さな谷間に達した。街道の土手の下を一条の水が流れている。道の片側に、ほとんど黒色に見える濃緑の木立ちがあった。水を隔てた岸辺には、遠くまでその黒緑が丘づたいに不規則に延びていた。丘そのものは牧場になっているようだった。何頭かの牛のシルエットがのんびりとからだを横たえていた。
「赤井さんは、効力のない有為ってものを考えたことはありませんか」
「なんだ、それ。また難しい話するんでねが?」
「わかりやすい話ですよ。他人の役に立たないということです。ある人間の知性がどんなにすぐれていても、名望や権力の助けがなければ、他人の上に実効力を働かせることはできないんです。名誉や権威を断ち切って、有為だけで存在する。助けを借りた有為は、威力を増しているので猛々しく見えますが、それ自体、けちくさくて、卑しいものです。その賎しさを知って、あえて名誉や権力を求めない人びとは、俗世間の晴れ舞台から身を退いたまま、この世が与える喝采を名誉と権威ある連中のものだけにしておくわけです。連中がわがもの顔にのさばることができるのは、大衆の水準より優れているからということもありますが、それ以上に、世に出ようとしないほんのひと握りの、選ばれた美しき有為者に比べて無限に劣っているからです」
「……わがる。じつはオラも、権力や名誉には興味がねんだ。勉強はウサ晴らしだ。神さまには選ばれていねはんで、美しき有為者にはなれねたって、権力者にもなりたくね。たんだ勉強して、夢中でいてだげだ」
「夢中になれること自体、幸福ですものね。効力なき有為の人間が求めているのも、心の幸福ですから」
 心の不幸のほうが、名誉や権力にたどりつこうとする努力よりもはるかにつらいものだということを、私は知っていた。赤井の考え方は好ましかった。でも、彼が神という言葉を吐いたのは意外だった。人を選ぶのは神だろうか? 幸い、私は神などという正体の知れないものを信じていなかった。
 ―ぼくは、選ばれた、と言ったけれど、実際だれに選ばれたのだろう。神にも人にも選ばれるわけではない。簡単な話だ。自分に選ばれたのだ。
「ンガのへってるこどは、下手すると、負げ犬の遠吠えに聞こえるど。ンガを散歩に連れ出したのは、そったら話するためでね。神無月くんよ、きれいさっぱり、打ち明けてしまれじゃ」
「何をですか」
「それこそ、おめが効力なき有為になった原因をよ」
「ぼくは、有為の青高生ですよ。名誉と権力こそ、最大の関心事です」
「嘘つけじゃ!」
 赤井は、有為の人間になりきれない私の憾(うら)みを知らなかった。効力なき有為―なんという響きのよさだろう。真の有為者だけが言える言葉だ。私はただ、才能を恃(たの)んで見世物になることを夢見、ただがむしゃらに勉強している人間にすぎない。他人のために役立とうなどと考えたこともない。
「ま、いがべ。オラも自分のこどはしゃべりたくねすけ。ンガもオラも、女で苦労したってことで、話はオワリにすべ。人の気持ちをごしょごしょほじくってると、藪から蛇が飛び出でくるこどがよぐあるすけ。たンだ、一つ言いてのは、ワはンガとちがって、上昇志向の人間に悪意を持ってねということよ」
 どうして、私が上昇にも下降にも無関心だと気づいてくれないのだろう。
「女の苦労話を聞かせてください。いつか、恋愛みたいな面倒くさいことはしたことがないと言ってましたが、あれ、嘘ですね」
「……野菊の墓だ。オワリ!」
 一言ですべてわかったような気がした。その小説なら、何年か前、宮中の図書室で読んだことがあった。感傷に走りすぎていて、タミという女のあきらめも、政夫という男の悲嘆も中途半端なので、しゃにむに苛立った覚えがある。
「その人は、死んだんですか」
「オヤジの妾が死ぬわけねべ。オラの中で死んだんだ。ウェルテルふうな悲劇にならなくていがった。戻るべ」
「はい」
「合浦さいくべ」
「何もないですよ」
「それがいいんでねが。あんべ」
 とっぷり日が暮れ、藤田靴店の出店にポッと灯が点っている。
「ここ、同じクラスのやつの家なんです」
「ンだが」
 覗きこんだが藤田の姿は見えなかった。赤井が店の者を呼んで、拡げた露店に並べてあった下駄を買ったので、私も白い鼻緒の大ぶりなやつを買い、脱ぎ捨てた古下駄は処分してもらうことにした。新品の下駄をカラカラ響かせてアスファルトの道を歩いていく。
 夜の合浦公園に入った。松原が風に揺れている。目の前に黒い海が広がる。時化る手前らしく、波が砕けるたびに白い泡が騒ぎまわっている。秋の海のにおいがした。
「下宿を出ようと思ってます。いつとは決めてませんが」
「葛西家に不満があるのな?」
「不満はありません。ただ、他人の生活習慣の中で暮らしているのが、なんだか窮屈なんですよ。もっと、のんびり出歩いたり、ものを考えたいというか」
 奥さんとミヨちゃんに対する危惧を打ち明けるつもりはなかった。
「どごさいっても、他人の習慣の中で暮らすんでェ。窮屈だど」
「アパートみたいなところなら、自由になります。散歩も、めしの時間も」
「ま、好ぎなようにしたらいがべ。ンガが考えで決めるこどに、オラは口出しでぎね。わんつかさびしぐなるたって、学校で会えるしな」
「さびしいですか」
「まんずな」
 赤井は照れくさそうに笑うと、石を拾って寄せてくる波に投げつけた。
 暗い帰り道を歩きながら、ふと思い出した。ふだんの日はつい忘れていたのだが、あの稲荷神社のそばの裏通りの家々は、こんな時間に明かりを灯しているはずだということだった。あの通りにただよう〈気品〉は、私には畏怖の対象だった。照明の乏しい萎れた家並に深い香気があった。少しやつれて品のある女たち。彼女たちは客と接するときは伏し目になり、思慮深い沈黙を守り、いろいろな客の秘めた欲望を個別に嗅ぎ分ける知恵をじゅうぶんに持ち合わせているように見えた。少なくとも私にはそう感じられた。私の計算では、ここから二つ三つの十字路を越えさえすれば、あの夜の家が開いている通りに出るはずだった。
「へんなことを訊くようですが、商売女はイキますか」
「イガね。オヤジの妾はイッたども、やつらはイガね。声は出すけんどもな」
 何ということもなく答えた。やはり気品の裏づけはそこにあった。彼女たちはトモヨさんのように、だれかに操を立ててきたのだ。トモヨさんがあの夜だけ操を捨てたのは、若い私に積年の依怙地を通して恥をかかせたくなかったからだ。彼女たちの気品に近づいて汚してはならない。トモヨさんには? 彼女はもう、一人のいきずりの若者のために気品を捨てた。
「今度連れてぐが?」
「いえ、ぜったいいきません」


         四十五
 
 よほどズル休みをしようかと思ったけれど、参加を強いられた仲間に悪くて、水泳大会に出かけていった。きょうだけ野球部を休んだ。
 きのうは日曜日だったので、カズちゃんを誘い、わざわざ新町通りの百貨店までいって水泳パンツを買ってきた。股上の深いものにした。
 帰りにカズちゃんの家に寄り、心ゆくまでセックスをした。ひと月以上禁欲していたので、疼痛を覚えるほどの快感だった。カズちゃんも激しく達しすぎて、枕もとに少し吐いた。ようやくカズちゃんが落ち着くと、下宿を出ようと思っている話をした。危険なことが起こりそうだと話した。
「そうしたほうがいいかもしれないわね。ぐずぐずしてたら、夜に忍んでくるなんてことが起こりそう。愛情が湧いたら愛してあげるのがいちばんいいとは思うけど、たしかに面倒なことになりそうね。キョウちゃんには生まれつき、人を包みこむ大きな愛がからだに湛えられてるの。私はその愛のいちばん多いおこぼれをもらっただけ。最高の栄誉よ。天にも昇るほど幸せ。ほかの人のおこぼれなんかぜんぜん気にならない。でも、いまは大事なときだから自重しましょう」
 プール脇の茂みで着替えをしていると、うさぎ跳びの武藤が寄ってきて、
「やかんみてに、白れな」
 と言った。かならず色の白さに目を留められるのがやるせない。埼玉の入間川公園へ泳ぎにいったときも、入園所のモギリの女たちに指を差されてクスクス笑われたし、幼稚園のころにも、海辺で義一に何か揶揄された気がする。カズちゃんは彫刻のようだと褒めてくれる。
「顔と腕は黒いだろ」
「赤げ。そたら日焼げ、すぐ抜げるべ」
 私は自分の番がくるまで、プールぎわにはいかずに、仮設便所の陰の草むらで寝転んでいた。五十メートル平泳ぎは最終の種目だった。
 順番がきて、顔と腕だけピンク色のからだを曝しながらスタート台に立った。サファイア色の水に飛びこむ。五十メートルを無我夢中で泳いだ。十メートルも引き離した一着だったので、どよめくような喝采になった。私はプールから這い上がると、潅木の陰へよろよろ走っていって思い切り吐いた。朝めしがすべて飛び出した。水着姿の古山が飛んできて背中をさすった。
「おめ、どごか悪りのが?」
「スタミナがないんだ。小さいころから」
「ホームラン王がか! たまげだな」
「五組の結果はどうなったの」
「武藤が一着、藤田が二着、小笠原が三着、ナが一着で、オラんど五組が優勝だじゃ」
「きみも泳いだのか」
「うんにゃ、試合の合間にプールに浸かってたのよ。水泳パンツ穿いてれば、選手だと思われるべ。おかげで涼しい思いをしたじゃ」
 小笠原が寄ってきて、
「日曜日に、えさ遊びにこねが」
「ああ、いいよ。どうやっていくの」
「栄町二丁目からバスに乗って、県立中央病院通りで降りれば、迎えに出てる」
「わかった。午前十時ぐらいのバスに乗るよ」
         †
 その日、いやに早い夕食をすませたあと、葛西さんの主人が、
「映画を観にいぐべし」
 と、赤井と私を誘った。夕食を早めた理由がわかった。奥さんとサングラスは留守をすると言う。ミヨちゃんはしばらく思案してから、私もいく、と言った。
 着物を着てハンチングをかぶると、主人はすっかり別人になった。ミヨちゃんはかわいらしい白のワンピースだった。日焼けした丈夫そうな両腕が袖から垂れ、薄っすらと金色の産毛が生えていた。滝澤節子のうなじを思い出した。
「映画観にいぐの、何年ぶりだべ」
 さわやかな夜気に頬をなぶられながら、赤井がうれしそうに言う。浪打駅のほうまで歩いて、合浦公園のそばのスバル座というひなびたリバイバル館に入った。小林正樹監督の『怪談』をやっていた。一本立てというのがめずらしかった。
 三時間にわたるオムニバスで、黒髪という一話が印象に残った。上昇志向にこりかたまった貧しい農夫が、苦楽をともにした妻を捨てて都に出る。めでたく立身を果たし、身分の高い妻を娶る。その妻の性悪な仕打ちに蹂躙されながら、もとの妻への愛を痛切に悟る。彼はこっそり帰郷し、草に埋もれた旧宅を訪れる。旧妻は機織りなどしながら健気に生きていて、男の帰還を心から喜ぶ。一夜をともにして目覚めると、四囲の壁は崩れ落ち、朽ちて抜けた屋根から空が覗いている。かたわらに髪の長い髑髏が寝ている。驚愕して逃げまどう男を黒髪が宙を飛びながら追いかける。男の額に青筋が立ち、すさまじい形相に変わっていく。塀の外に転がり出た男の首に黒髪が飛んできて巻きつき、締め上げ、ついに絶命させてしまう。私は暗い座席で涙を流した。手のひらで頬を拭う私をミヨちゃんがじっと見つめていた。
 私は帰り道で主人に言った。
「黒髪……よかったですね。別れがドラマだなんて、とんでもないまちがいです。人は一度出遭ったら、けっして別れちゃいけない」
「ああ、そンだね。出会いというのは、奇跡だがらね」
「はい。せっかくの奇跡をふいにするのは愚かです。ひょっとしたら、愛する人間にめぐり会うチャンスはゼロかもしれない」
「そたら複雑な話なのが。単なる出世欲のなれの果てってことでねのが。女の復讐はいぎすぎだでば。オラは茶碗の中がいがった」
「人の魂を飲んだ者は―ですか。あれは、赤井さん、わけのわからない話ですよ。意味を殺して、不満感を残す。それも一種のインパクトですが、つまらないやり口です」
「作者の意図がわがるとごろまで、こっちの感性が達してねってこどもあるべ。一刀両断はいぐねよ、神無月くん」
「いいものは、いろいろ解釈がでぎで、楽しいね。三時間がいっとまがだった。連れてきていがったじゃ」
 主人が仲を取り持った。
「私は、雪女と耳無し芳一がこわかった」
 ミヨちゃんが言った。
「ンだな? 結局、どっちもハッピーエンドだべ。岸恵子がきれいだった。あんな女と結婚でぎだらいいべな」
 ハハハハ、と主人が笑った。ミヨちゃんもすました表情で笑った。
「葛西さんは、どれがいがったんすか?」
「やっぱし黒髪かな。女が幽霊だどいうのは見えでだども、女の髪に締め殺されるのは意外だったな。それはさでおいで、この映画はふとをおっかながらせるこどより、映像美が狙いだべ。つまり幻想性ずのよ。色彩的な効果を狙ったと思るんだ。雪女は画面が美しがったべ? 小林正樹の新境地だべな。『切腹』の倫理性とはぜんぜんちがる」
「ふうん。葛西さんは芸術家ハダシだニシ」
「小さいころから映画が好きだったどいうだげせ」
「へば、いままで観できた中で、いぢばんいがった映画は何ですか」
「うーん、うってあるたって、いぢばんとなると、『くたばれヤンキース』かな。青春の後悔と、老いの不安と、夫婦愛がしっかり描けでいで、文句なしの名作だでば」
 私はその映画を観たことがなかった。ただ、葛西さんの映画通ぶりが快適で、聞き耳を立てながらほのぼのとした気分になった。赤井がすがるような顔で、
「葛西さんにも、青春の後悔があるんすか」
「そりゃあるべよ。公務員や役人なんかやっでる人間は、後悔のかだまりよ。勉強も中途半端だったし、恋愛も、仕事も、とくに野球が中途半端だった」
 私は主人の横顔を見つめた。
「高校二年のときに、肩やられでせ。甲子園とがプロとがいうレベルでねたって、一生野球やっていぎたがったすけ、残念だったじゃ」
 思いを噛みしめるように言う。私は目を輝かせ、
「名門高校ですか?」
「三本木農業という目立たね高校ですよ。そこでピッチャーやってだ。けっこう速球派だった」
 百六十七、八センチ。小さな名ピッチャーだったのだろう。男のほとんどが〈思い出の野球時代〉を持っている。
「まんだ八時半が―さあ、別腹、別腹」
 主人は街道筋の大きな喫茶店に立ち寄った。ミヨちゃんは白玉ぜんざいと小どんぶりのうどん、赤井は気取ってレモンティーとチーズケーキ、私と主人はブレンドコーヒーを注文した。和気藹々とした雰囲気の中で、下宿を出る話は言い出せなかった。
「七月のオールスターゲーム、神無月さん、ちょこっとも観ねがったでしょう。あったら大した記録作ったふとが、なして将来を心配して塞いでんだべなあ、気の毒な身の上だすけ、それもあだりめがなって思ったばって。で、まあ、いづれ映画でも観に連れでって気分転換でもさせてなあと思ってたのせ」
 北国の片隅でちやほやされながら野球をしている自分を、華々しい成功者たちと引き比べて考えるとき、私はひしひしと無力感を覚えた。そんな英雄たちをテレビで観たら、きっと私の表情は思いもしない苦痛にゆがんだだろう。かりにも天才などという言葉がアナウンサーの口から流れてきたら、耳は風馬牛を決めこんだにちがいない。彼らのプレーを盗み見る私の目つき、感想を言わない張りのない唇。そのときだけは、ただくだらない挫折感と、その反動の大望だけの低俗な男になってしまっただろう。
「ありがとうございます。いい気分転換になりました。可能性はあるとしても、決定していない自分を決定している人たちに重ねて眺めるのはつらいんです。ぼくはいつも希望という重荷を背負ってますから」
 赤井が、
「希望は重荷だずの……痛でほどわがるじゃ」
 うつむいていたミヨちゃんが、
「神無月さんはかならずプロ野球選手になります。あんな美しいホームランを打つ人をプロ野球が放っておくもんですか」
 ひそかな希望を抱いて、スパイクを鳴らしながら帰った宮中からのアスファルト道が思い出された。いまもこうして野球をひそかに同伴者にしている自分がさびしく、物悲しい。金田、杉浦、尾崎、村山、長嶋、王、野村、山内、張本……成功者たちの群れ。彼らの顔に表れている自信のなんという神々しさ! 神は好機を逸しなかった者たちだけを選ぶ。 
「尾崎は活躍してますか」
「ああ、第一戦で、シメで投げでました。いやあ、ボールが速え! 今年は最多勝でしょう」
「ペナントレースは、どうなってます?」
「巨人と南海が独走してます。個人タイトルも王と野村で独占だべなァ。二人とも三冠王を獲るんでねがな。長嶋も影が薄くなったじゃ」
「打てなくなったんですか」
「可もなぐ、不可もなぐ。相変わらずチャンスにはめっぽう強いんだども、三割は危ねんでねがな」
「日本シリーズとなったら、やっぱし長嶋が活躍するんでねすか。なんせシリーズ男だすけ。今年から巨人に金田がきたはんで、鬼に金棒だべ。日本シリーズは巨人だべな」
 野球などあまり知らなかったはずの赤井までが野球の話題に食いついてくる。この夏、目と耳に私の騒ぎを聞きつけて以来、おのずと野球に興味が湧いたのだろう。いよいよ私はさびしさを感じた。


         


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