四十六

 二十六日。九月の最後の日曜日。水泳大会のときにした約束を守って、午後から小笠原の家に出かけていった。涼しい風の吹く曇り空の下を白鼻緒の下駄でいった。栄二丁目から十分ほどバスに乗った。五個目の停留所だった。約束の時間に合わせて県立中央病院通りのバス停に出迎えたテルヨシは、相変わらずつんつるてんの学生ズボンに、黒鼻緒のちびた下駄を履いていた。
「待った?」
「十五分ほどな」
「ありがとう」
「神無月も足大(で)けな。何センチだ?」
「二十六・五センチ」
「オラは二十七」
 二人とも下駄から足の踵が出ていた。小笠原のほうが私より三センチほど背が高いので、ガタイと足のバランスがとれて見えた。
「身長はどれくれだ」
「百七十五か、六。この半年で少し伸びた。七ぐらいあるかな。もう少しほしいな」
「あど二、三センチいぐべ。おめの平泳ぎ、すごかったな。五人分離してたど」
「自分でも驚いた。吐いちゃったけど」
「びっくりしたでば、ゲーゲーやってるすけ」
「スタミナがないんだね。瞬発力だけなんだ。これでもだいぶマシになったほうだ。テルヨシのクロールもすごかったよ」
「なんも、三着だ」
 一キロほど歩いて道路を横断し、林道へ入った。緑の木陰が涼しい。エメラルド色の蜥蜴が草の下へ素早く逃げこんだ。葉群れの間から見上げる空が青く澄んでいる。球場が現れた。
「青商の野球場だ。強豪だ」
 山の麓と言っていたが、田圃と林に挟まれた長い坂道をかなり登っていった。左手に神社の杜がある。
「稲荷神社。いったことね」
 坂のいただきに、林に囲まれた、どっしりした大ぶりの農家があった。あたりにほかの家は見当たらなかった。林の中にほとんど日が射してこないので、敗走武士か何かの隠れ家のように見えた。うっすらとかいた汗が木陰の下で冷やされていく。林を透かして畑の畝が見えた。稲作や畑作がこの山の人たちの生業なのだろう、道を登ってくるあいだも、木の間から山の斜面に美しい棚田が見えていた。
 赤ら顔の母親が出てきた。ばっちゃのようなもんぺを穿いている。青森市内ではあまり見かけないいでたちだ。
「主人は畑さ出はってるすけ、挨拶でぎねくてすみません。夕方には帰ってくるこった。花園からだツケ」
「はい」
「品のいい顔してるニシ。色が白いごだ。野球選手に見えねでば」
「小笠原くんは、黒いですね」
「百姓の子だおん。野球ばり好きだったのが、急に青高さいぐって言いだして、びっくりしたじゃ」
 小笠原は母親の言葉に顔をほころばせた。
「跡継ぎは、じっぱといべせ。オラは大学さいって、エンジニアになりてんだ」
「大っきたことばりしゃべって。まぐれで青高さ受かったくせして、いい気になってるのせ。からだはでっかくても、気のちゃっけ子なんですよ。今後とも仲良ぐしてやってください。よろしぐお願げします」
 小笠原は土間から狭い階段を上って屋根裏部屋へ昇り、ハイカラな扇風機をかけた。
「神無月がくるってへって、買ってもらったんだ」
 部屋の壁や戸は厚く頑丈そうで、床には目のこまかいゴザを敷いていた。手造りの机の上の本箱に、教科書や参考書が並んでいた。数学の問題集が多かった。小さな窓から外を見ると、汽車が煙を吐きながら遠く平野の中を通り過ぎた。階段を上ってきた母親が、西瓜と南部煎餅を載せた盆を畳に置いた。
「ゆっくりしてってけんだ」
「はい」
 別の部屋で子供たちが騒ぐ物音がした。母親はそちらへ立っていった。
「天井が高くて、いい部屋だなあ。この部屋で勉強してるんだね。でも冬は寒くてたいへんだろう」
「毛布で脚くるめば、なんてこどね」
 彼はすぼめた手のひらに西瓜の種を吐き出した。
「テルヨシも野球やってたんだね」
「造道(つくりみち)中学じゃ、期待の星だったすけな。エースで四番だ」
「ぼくも四番だった。名古屋市のホームラン記録を作ったんだよ」
 私にはこれしかないのだろうか。たぶんそうだろう。生涯、ことあるごとにこれをしゃべりつづけるのだ。
「新聞に書いてらった。名古屋ってへれば、愛知県だべ。うだで野球の強い県だべや。そこで記録作ったんだすけ、大したもんだでば。したばって、青森県でとんでもね記録作って、その記録も霞んだべ」
「特別な記録だから、ぼくの中では霞まない」
 ふと小笠原の二重のほうの目に情熱的な色が宿った。
「プロさいげよ」
「そのつもりでがんばってる」
 自然とたがいに手を差し伸べて握手を交わし合った。
「キャッチボールしないか」
「やるべ。軟式ボールしかねど」
「ああ。肩のよさを見てやる」
「ここらあたりの野球なんて、草野球みてなもんだ。神無月とは比べものになんね」
「東奥義塾の甲子園は、どうなったの」
「二回戦敗退だ」
「エー!」
「全国レベルだと、そうなるのよ」
 小笠原は押入れからグローブを二つ取り出した。二人で階段を降りて表の道に出た。久しぶりに握る軟式ボールが小さく感じる。からだが大きくなったせいだろう。ゆるゆるとキャッチボールを始める。肩が軽い。
「いくど!」
「こい!」
 小笠原のボールは速かった。私も少しずつ力をこめて投げた。するとさらに強いボールを投げ返してくる。愉快だった。五回も往復しないうちに、小笠原がグローブを脱いで手を激しく振った。
「テテテ、まいったじゃ。速くて、重で。セイコの野球部の連中も、こったら球は投げられねべや」
「右投げに替えてから、肩がグンと強くなった」
 小笠原は、どうして右投げに、と訊かなかった。訊けば、私が苦しい事情を話さなければならなくなると感じたようだ。深入りしてあまり親しくなるのを恐れているのかもしれない。
「……左、使えねのが」
「投げることは無理だね。バッティングには支障がない」
「よぐ替えれだな。おめ、やっぱり人間でねでば。バット振って見せてけろ」
「うん」
 小笠原は納屋から軟式用のバットを持ってきた。手に取ると、玩具のような握り具合と軽さだった。手首を痛めないように七部程度の力で振った。ブッと風切り音が立つ。小笠原は飛びだしそうな目で見ていた。
「速すぎるじゃ。スイングが見えね」
 寄ってきて、前腕を見た。
「ふてえ! 二の腕はオラんどと変わらねたて」
 左肘の傷跡を見せる。
「……ふつう、これで野球終わりだべ」
「うどん食ってけへ」
 母親が玄関に出てきて声をかけた。頬や額についたうどん粉を拭いもしないで、丸いモンペ姿が立っている。上唇に小さな汗粒が噴いている。小山田さんや吉冨さんが夕方飯場に帰ってくると、たいがい頬が白っぽい埃にまみれ、鼻の下に汗を吹いていたことを思い出した。弟妹たちが二階の窓から身を乗り出してこっちを見下ろしている。
 一家そろって、居間の大きなテーブルでうどんを食べた。山菜のてんぷらが載っていた。
「うまい!」
 母親がうれしそうにからだを屈めて笑った。ばっちゃとそっくりだ。一種の恥じらいの表現なのだろうが、青森にはこの格好で笑う女が多い。冷やめしと、ミョウガの漬物も出た。これもうまくて、二杯もお替りした。小笠原もつられて山盛りのめしを食った。
「大食(ぐ)れだ」
 じっと私の動作を見守っていた女の子が笑った。
「とてもおいしいからね。ふだんはこんなに食べないんだよ」
 ほかの子たちが、おおぐれ、おおぐれ、と囃し立てた。母親が満足そうに銀歯を見せた。小笠原は箸を置くと、
「おめんど、遊びにいげ。これからあんちゃんたちは、勉強だすけ」
 みんな不満らしく表へ出ていった。母親も台所へ去った。これ以上何を話すこともないと思った。階段を上ろうとする小笠原に声をかけた。
「帰るよ。駅へ本を買いにいくつもりだったから。テルヨシの家にきてみたかったんだ。山菜うどん、うまかった」
 台所の母親にごちそうさまでしたと挨拶し、下駄を履いた。
「もう帰るってが。晩げも食へべと思ってらったのに」
 物足りなさそうな母親といっしょに小笠原が玄関まで見送った。
「オラも、本を読まねばな。馬鹿になってしまる」
「あの肩は、野球をやったほうがいい」
「野球やりながら大学受がるほど、アダマいぐねじゃ」
 玄関前の道で手を振って別れた。弟妹たちが、バイバイ、バイバイと叫んでいた。
 坂道を帰っていった。樹木を渡ってくる風がにおった。それが呼び水にでもなったように、滝澤節子といっしょに夜の神宮の参道を歩いたことや、浅野に罵られて職員室を飛び出し神宮の大楠の下で憤りをこらえたことや、康男と出かけた金井との決闘や、伊藤正義の胸を凍らせるような死が、次つぎに甦ってきた。
 くだってきた道を振り返ると、夕暮れの中でいっそう黒々と見える尾根のつづきからぼんやりいく筋か丘が伸び、そのはざまに民家が固まっていた。
 過去が急速に遠のいていこうとした。再会した康男の腕の温もりも遠のいていこうとした。けっして忘れられないいくつかの光景が、心に架かった虹が、一年にも満たないあいだに消えていこうとしていた。
         †
 机で目覚めた。読書に疲れ、腕に顔を埋めてうとうとしているうちに眠りに落ちたようだ。一家は寝静まっている。まだ十時を回ったところだ。
 机を離れ、窓を開けた。線路の向こうに黒い空があり、近視の目に家々の明かりが点々と滲んで見えた。赤井が強く鼻をかむ音がする。窓を閉めて蒲団に仰向けになった。汽笛が聞こえ、車輪の響きが近づいてきて、部屋がガタガタ揺れた。
 思いがけなく過去の割れ目が口を開けた。浅間下! それは人生のいちばんすばらしいときで、冒険や勇気や希望が、酔うような空気の中で呼吸していた。漫画、映画、ブラスバンドの響き、野球―しかしそれは、母の目の届かない場所での一秒間のきらめき、友情や愛情も知らずに未来を夢想する目に映る一コマ一コマにすぎなかった。そして、私は何かになろうと思うことがなかった!
 母の鏡台の抽斗の中にメモを見つけた日のことを憶えている。母がその日やろうと思い、頭に入れておこうと思っていることが書き留めてあった。

 郷のズボンがほころびている。家賃。四宮米店へ支払い。洗濯たまってる。モッキン買ってあげること。

 追憶の流れ、血の重み! 縛り上げられ、繋がれて、私はあの三帖の小部屋にひそんでいた。メモを抽斗に戻し、戸の隙間から共同炊事場を覗いた。ねずみ色のズボンを穿いた母が米を研いでいた。何一つ見落とさない人のように、細心に、落ち着いて、炊き汁の量を測っていた。
 思い出は、消えない悲しみの領域入っていく。見覚えのあるいろいろのものが私を見つめる。私は吸いなれた空気を吸っている。どこだったか、そうだ、私はもうボールを投げることもホームランを打つこともできない肘のリハビリのために、名古屋港に通じる市電道を労災病院に向かっている。低い空の夕焼け! 私は心配に包まれ、息づまるような絶望に苛まれながら歩いている。右腕がある。あの日、私はかすかな希望に胸をふくらませながら、病院の廊下をいったりきたりした。私は大切なものを探り当てた喜びで、胸がいっぱいだった。希望に輝く廊下が、とつぜん牛巻病院の廊下に重なる。滝澤節子は静かに私に歩み寄ってきた。私は母に向かってこう言っていた。
 ―ほっておいてくれ! ぼくがどんな気持ちでいるか、おまえにはわからない。だからほっておいてくれ!
 私はそれまでも母とたびたび諍いをした。それがどういう種類のものだったか、なぜ彼女が私を苦しめ、絶えずじゃまをするのかわからなかった。私が気づいたのは、私の世界が変わりはじめたということだけだった。
 牛巻病院の立ち木が風に揉まれていた。大部屋の開け放した窓の夜が深く見えた。風と湿気、苦い木の葉のにおい。夏。一瞬のあいだ、私は私自身でなくなり、自分を肖像画のように見つめた。私は燃える目をした、蒼ざめて痩せ細った中学生だった。
 胸苦しくなり、机に戻った。思い浮かべたのはカズちゃんではなかった。滝澤節子が私を夜の病院から送って出るときの、ひたむきな眼だった。二人で神宮の森を目指していく。対話がよどみ、さながら深い水の中を歩いていくようだ……。


         四十七

 練習に向かう廊下で、西沢に呼び止められた。
「こないだ新聞記者に、きみの成績とか勉強態度とか、いろいろ訊かれたよ。文句のつけようがないと言っておいた。本人に訊けばいいものを、きみがマスコミ嫌いなもんだから相馬さんも苦労してるぞ。その記者が言うには、どうも春の選抜の出場候補に上がりそうもないらしい。きみ一人がいくら目立った活躍をして、たとえ優勝したとしても、なかなか春の選抜には選ばれない。社会的にプラスの話題性がないと、結局強豪校に決まってしまう。また来年、夏の甲子園を目指すしかないな」
「はい、がんばります」
「きみはそればかりだな。はい、がんばります、はい、がんばります。才能が輝くほどあるのに、下心がないんだよ。きみは大魚のくせに小さな池が好きだ。しかし、まあ、きみのおかげで青高はいま県下でいちばん注目される高校になった。来年は競争率が上がるぞ。お、そういえば、学校のそばにアパートはないかって相馬さんに相談したそうだな。花園はかようのに遠いもんな。手ごろなのがあるよ。正門の目の前に。青高生しか入ってない個人経営のアパートだ。経営者も青高出身と聞いてる。下宿よりずっと安上がりだ。二食付き、月五千円。いままで二人紹介した。これ、住所だ」
 思いもよらない報告だった。私はメモを見ながら、
「ありがとうございます!」
 と大声で言った。西沢は口をポカンと開けた。勉強しか念頭にない学生たちが隠れ住んでいる場所のほうが、カズちゃん以外の人付き合いをまとめて断ち切ることができるし、そのぶん張りつめた孤独が戻ってきて、カズちゃんに一途な気持ちを捧げながら、野球に専念し、本や思索と気ままに戯れることができるかもしれない。メモをポケットにしまうと、西沢に頭を下げ、グランドへ早足でいった。
 練習のあと、相馬にアパートが決まったことの礼を言い、帰宅してすぐ、ばっちゃに宛てて、引越しすることにした、左記の住所に私から連絡ありしだい机と蛍光灯スタンドを送ってください、とハガキを書いた。
 夕餉の食卓に向かいながら、私は葛西家の人たちに言った。
「とつぜんですけど、十月から、青高の正門前のアパートに入ろうと思ってます。野球部の監督に勧められて―。住んでるやつのほとんどが野球部の連中なんで、行動をともにするのが便利なんです。二食の賄い付きです」
 主人がさして動揺のない顔で、
「いよいよ来年に向けて、野球に打ちこみますか。そりゃ、登下校にしても、食事にしても、連帯行動のほうがいいです。きっと、勉強も落ち着いてできるんじゃないかな。がんばってくださいよ。残念だけど、神無月くんの野球生活改善のためだからね」
 まじめな口調で言った。サングラスは、あごを反り上げ磊落に笑ったが、頬のあたりのさびしい影は隠せなかった。
「軍隊生活だな。若げうぢしかでぎね。心機一転、けっぱれじゃ」
 先刻承知の赤井は黙々とめしを食い、奥さんとミヨちゃんは茶の用意に立った。
「ここからだと、学校まで三十分近くかかりますものね」
 台所から奥さんの背中が言った。主人が、
「そういう問題でねよ。連帯行動の問題だ」
「そうですね。マコトちゃんには電話で連絡しておきます。彼からお爺ちゃんお婆ちゃんにも事情が伝わるでしょう。あとで住所を教えてくださいね」
「メモしときました。これです。雪の季節になったら、ときどき遊びにきます。赤飯を食いに」
 メモを覗きこみながらミヨちゃんが、
「くるたびに赤飯を炊いてるわけにいかないわ。けっこう手間がかかるんだから」
 無理に茶目っ気を出して笑った。
「このアパートは、女子禁制ですか?」
 奥さんが言う。
「入居してるのは男ばかりだって話だけど、お客さんなら関係ないんじゃないかな」
「たまに差し入れしてやれ。アパートのめしはまずいど」
 サングラスがミヨちゃんに向かって言う。
「おかずを差し入れするには遠すぎるわ」
 赤井が、
「和菓子屋で赤飯買って、学校の帰りに届けてけるじゃ」
「ありがとう。でも男の客はあまりありがたくないな」
 主人が噴き出した。赤井が、
「港の女でも連れてぐが?」
「赤井さん、不謹慎ですよ!」
 それほど不謹慎に思っていないような声色で奥さんが叱る。ミヨちゃんが赤くなってうつむいた。葛西さんから連絡を受けた奥山先生は驚くだろうが、野球部がらみという事情を聞けば納得するだろう。
 私が机に向かっている部屋にコーヒーを持ってやってきたミヨちゃんに、
「ミヨちゃんの気持ちはわかってるんだ。いまのままだとかならず危険なことが起こると思う。さっき渡した住所のアパートにときどき遊びにくればいい。気軽に折々の話をしよう」
 と言った。ミヨちゃんは明るくうなずき、
「はい、いつか、単に好きだという以上の気持ちを打ち明けようと思ってました。そうなってたらほんとに危なかったですね。でもわかってくれてたんですね。うれしい。……私には神無月さんしかいません」
「ぼくには好きな人がいる」
「中島さんですね。わかってます。お二人の仲を割こうなんて思ってません」
 誤解されるまま黙っていた。
「……中学生になったら、デートしてください」
 指切りをした。
「高校は?」
「青高にいきます。そのあとは、勉強のアタマがあるなら大学にいって、将来は神無月さんのそばで暮らします」
「ミヨちゃんが高校を出るのは、六年後だよ。ぼくは大学で野球をやってるか、プロで野球をやってる。たぶん、名古屋の中日ドラゴンズ」
「おそばにいきます。こちらの高校を出て、東京でも名古屋でも、仕事に就くか、大学生になって」
 唇をしっかり結んだ。
         †
 めっきり朝夕冷えこむようになった。十月三日、日曜日。曇り空。十一時、運送屋のトラックに蒲団袋と、衣類と、本と文具とテープレコーダーを積んだ。荷物はそれだけだった。蒲団は奥さんがしっかり天日に干して、新しい綿を入れ直したものだった。
 トラックは青高の正門の真向かいにある関野商店の脇道を入っていった。助手席に私と並んで赤井が座っている。奥さんとミヨちゃんにアパートの場所の確認を頼まれたのにちがいない。一家が玄関で手を振ったとき、サングラスもひょうきんに手を振っていた。
「オジサンは印象深い人だった。まる七カ月か。長いようで短かったなあ」
「決まり文句言うなじゃ。長げも短けも、だれといるかで決まるんだ。みんないい人ばりだはんで、短かぐ感じたんだじゃ。オラだっきゃ、あっという間に三年だ」
「受験勉強、追いこみですね」
「三年みっちりやったすけ、追いこまねくてもだいじょぶだ」
 突き当りを曲がった袋小路の一画に、モルタルの二階家が建っていた。玄関の戸口の厚板に『健児荘』と墨字で書いてある。裏手は田圃で、刈り入れ前の稲穂が鮮やかな金色に揺れていた。
 式台に、目尻の垂れた冴えない雰囲気の中年男が現れ、自分の姓を名乗ったが、よく聞き取れなかった。季節に早い丹前を着ていた。茶色く枯れた土筆みたいな感じの男で、青高出身者には見えなかった。男は、赤井と私が一階奥の四畳半に荷物を運ぶのをなおざりに手伝った。すでにばっちゃから机と大スタンドが届いていて、部屋に杜撰に入れてあった。荷物を運び終わると赤井は、
「男くせアパートだな。葛西さんとごが、すぐなつかしぐなるど」
「たぶん、そうでしょうね」
「ま、けっぱって野球やれじゃ。たまに葛西さんとごさも帰ってこい。みんなあれで、かなりショック受けてんで」
「はい」
 赤井は一帖の靴脱ぎから帰っていった。
 小柄な、顔だけ太った女がさっそく部屋代を要求しにきた。健児荘の生徒の支払いは彼女がすべて管理していて、各自一冊ずつ通帳を持つことになっていると言う。とげとげしくはなかったが、事務的だった。さっきの男と夫婦なのだろうと思った。五十あと先で、髪や顔に化粧っ気がなく、ずっと以前から男女のことに思いを馳せなくなっていることを示していた。ただ、目もとに細かいシワがあることを除けば、目鼻立ちは整っていて、むかしはかなり美しかったろうと察せられた。
「学校に出ているときに荷物が届いたら、部屋に入れておきます」
 用意していた封筒入りの五千円を手渡すと、彼女は真新しい通帳に受取の判を捺して返した。
「あなた、新聞で騒がれてる神無月さんですね。名古屋からいらしたそうですけど、私どもも東京からのUターン組です。主人も青高出身でしてね、そのツテで、青高さんからお声がかりの生徒さんばかりが入るようになりまして。主人は働いて一家を養うようなタイプじゃないし、子供もいませんし、そういうわけでアパートをね」
 人に聞かせる必要もないことを、ぺらぺらとしゃべる。私は手持ち無沙汰のまま部屋の戸口に立っていたが、思わずサービス精神を発揮した。
「ご主人は、からだがだるそうでしたね。ご病気か何か」
「そう見えるでしょう。ほんとにねェ。ふだんもあんなふうなんですよ。若いころから物書きを目指してましてね、いつも机に向かいっぱなし」
 話が長くなりそうだった。私はあわてて、
「食事はどうなってますか」
 女は主人が引っこんだ奥部屋の並びの大きなガラス戸を指差し、
「そこが食堂になってます。朝七時からと、夜六時からです。遅れたら一人で食べてください。一時間ほどはおかずをテーブルに載せておきますから。食べないときは、前もって食堂の壁に吊るしてあるノートに×をつけといてくれれば用意しません。食べなくても食費はいただきますので悪しからず。ただ、ひと月まるまる食べないなら、家賃は三千円でけっこうです。弁当が必要なら別費で作ります。家賃は月末にいただきに参ります。ここで食事をしないで、定食屋ですましている学生さんもいますけど、かえって割高になると思いますよ。いま主人が入っていったのはテレビ部屋。テレビは、日曜日だけなら観にきていいです。学生さんたちはたいてい、夜八時の『逃亡者』を観にきます。食堂の勝手口を出た庭の一戸建は、私ども夫婦が生活している場所なので、よほど緊急のとき以外は訪ねないでください」
 私はこの突き放したような言い方に満足した。逃亡者という番組の名に聞き覚えがあった。タケオさんの顔が浮かんだ。
「落ち着いたか!」
 玄関から、眼鏡をかけた浅黒い顔が呼びかけた。西沢だった。
「あ、西沢先生。このたびはありがとうございました」
「どうだ、猛勉できそうだろ。野球グランドへいくのも教室からいくより近い」
 それは大げさだった。女は西沢にぺこりとお辞儀をして食堂へ去った。猛勉というのは西沢の口癖で、ホームルームでも、教務室でも、彼はのべつその単語を口にする。だから彼は〈猛勉〉というあだ名で呼ばれていた。
「ここもむかしは大所帯だったんだが、いまはめっきり入居者が少なくなってな、一部取り壊して縮小してしまった。下に四部屋、上に五部屋。男子本懐をとぐるに居をボクするあたわず―そうはいっても腰が落ち着かないと、ろくに猛勉ができない。目と鼻の先に学校があるのがストロングポイントだ。居を論ぜずといえども、利便にしくはなし。せいぜい精を出せ。山口もここにいる。挨拶ぐらいしとけ」
「山口? ああ、あの懸垂男ですか」
 西沢は解せない顔で、
「しっかり親交を結んでおけ。やつはおまえと同じ都会派だし、性格もまじめだから、仲よくやれるだろう」
 都会派という意味がわからなかった。筋骨タイプは苦手なので、挨拶は遠慮しておこうと思った。
「山口くんの部屋はどこですか」
「二階は上級生と決まってるから、一階のどこかだな。学生の集合場所はいろいろ誘惑が多い。麻雀、酒、煙草、徹夜の議論、エトセトラ、エトセトラ。先輩連中には気つけろ。受験を捨ててるやつもいるからな。巻き添えを食わされる。野球部から帰ったら、とにかく猛勉だ。つまらない本を読みすぎるんじゃないぞ。若さというやつはバカ正直だから、ろくでもない言葉の力を信じてしまう」
 西沢は眼鏡を押し上げると、様子ぶりながら私を一睨みし、玄関を出ていった。


         四十八
 
 部屋の窓を開けると、田圃がいっそう広く見渡せた。刈田が遠くかすんで尽きるあたりに山並が見えた。くっきりと姿のいい八甲田山が姿よく平伏している。山頂にかかる動かない長大な雲を眺めた。
「甲田山頭、雲高く、わが軍勝ァてり、ああ勝てり……」
 うろ覚えの青高凱歌が唇に出た。机の正面を山に向け、小さな本立てを置く。リンゴ箱を二段に積んだ応急の本棚には、日本と外国の本を上下に分けて並べた。テープレコーダーを押入にしまった。ばっちゃがタオルに包んでリンゴ箱に入れてよこした白磁の一輪挿しを机の上に載せる。野辺地でこの机に置いてあったやつだ。リンゴ箱には鯨ベーコンとリンゴのほかに、鉛筆書きの手紙も入っていた。

 りんご、さらしくじら、入れておきました。くじらは、からしつけて、早めにくってください。キョウが、せいこさいって、ほーむらん打ったおかげで、町でも、はまでも、しょっちゅほめられます。わらってばりです。しゅちくじょさいって、ひでと、かっちゃと、おめのはなしこしてきました。ひではないてました。おく山せんせと、中村せんせが、じっちゃとはなしこしてかえりました。しょうらいは野辺地町のメイシになってほしいとへってました。おらはほねみをけずってはたらきます。おめも、どったにつらくても、まけねよに。こんどは、ほたてのこばしら、おくります。

 ボロッと涙が落ちた。
 リンゴと晒しクジラを食堂に届けた。管理人の女が昼食の仕度をしていた。日曜日は住人に食事を出すようだ。
「みなさんで食べてください。リンゴは食い飽きてますから」
「あら、晒しクジラは夕食に出しますね。ごちそうさま」
 関野商店を過ぎてカズちゃんの家のほうへいったところに、ポツンと花屋があったことを思い出し、出かけていく。正門のほうから、日曜練習をしているラグビー部のかけ声が聞こえてくる。彼らはああやって年がら年中練習ばかりしている。声を出せと強いられ、蛙の潰れたような声を張り上げる。春先までは野球部もやっていたが、私が入部してからはやらなくなった。私がけっして彼らの声出しに呼応しなかったので、部員たちも自然と倣った。あれを毎日やらされると思うと首筋が冷える。きょうは自主練習を休んだ。
 アイリスという名の花が気に入り、一茎買って帰った。花を買うのは生まれて初めてだったので少し恥ずかしかった。この花を牛巻病院の受付カウンターで一度見かけたことがあったが、春か夏か季節を忘れた。関野商店前の公衆電話からカズちゃんに、すぐそばに引っ越したことを告げ、夜の十時ごろいくと連絡を入れた。
「夜食を用意して待ってる。いっしょに食べましょ」
「うん」 
 紫のつぼみを眺めながら、ひさしぶりにゆったりした気分で勉強をした。一学期分の英単語を暗記し直し、熟語をノートに書き出した。数学は得意な円と接線をやった。じっちゃが、野辺地中学校の東奥日報模試で首席をとったとき、はなやいだ顔で、
「おめなら、アガモンさいげるべ」
 と言ったことがあった。
「アガモンて?」
「東京帝国大学よ」
 むかしから耳に馴染んだ〈東大〉のことだった。この大学の名前が学生や教師たちの口から出ない日は、一日としてない。遠くはひろゆきちゃん、岡本所長、母、原田さん、守随くんを褒め称えた教師たち、直井整四郎、近くは青高教頭、学生たち、相馬、西沢、赤井。じっちゃのような権威志向と無縁に見える人までも口にする。私には何の価値も感じられない名前だ。小学校以来長いあいだ毛嫌いしてきたその名前が、好ましいものとして思い直されることもない。それなのに入学早々、仲間のうるさい口を封じるためにその名前を出した。いまは、是が非でもアガモンにいかなければならないと思っている。
 定食屋というものも一度試しておきたくて、さっそく食堂にいって、配食ノートの夕食の欄に×印をつけた。二、三人の学生たちが昼めしを食っていて、神無月だ、三冠王、というひそひそ声がテーブルから聞こえた。一人の学生が、
「いいんですか?」
「一日だけ、定食屋というものを経験してみます」 
 下駄を履いて出た。実際に健児荘から校舎までの通学時間を計ってみた。七分かかった。野球グランドを通りかかるとき、金網越しに二年生たちから声をかけられた。
「きょう、三年生は?」
「ンガがこねとぎは、チャッチャと引ぎ揚げる。きょうは休みな」
「引越しです。正門前の健児荘」
「おお、あそごが」
「遊びにこないでくださいよ。勉強が忙しいから」
「いかね、いがね、オラんども練習で忙しい」
 日が暮れかかってから、正門の斜向かいのさびれた食堂にいった。焼きサバとシラスおろしの定食を食った。カズちゃんとこれからする食事を考えて、めしは小盛りにした。うまかったが、三百五十円もした。管理人の女が言うとおり、やっぱりアパートで食べたほうが安上がりだとわかった。店を出て目を挙げると、紺色の空におびただしい数の星が見えた。
 ふたたび机に向かい、古文の勉強にとりかかった。いっとき辞書と首っ引きになる。
 窓の外を見上げて目を休める。星が瞬いている。隣部屋から、骨まで愛してほしいのよという歌謡曲が聞こえてきた。どやどやとテレビ部屋に向かう足音がする。一時間もしてふたたびどやどやという足音が響き、やがて二階から麻雀牌を掻き混ぜる音が落ちてきた。飯場の娯楽部屋から聞こえてきたなつかしい響きだった。
 物音が不意に消え、青白い静かな時間がやってくる。勉強を中断し、詩想を練る。

  目をとじると
  ころもを染めたような海がみえる
 

 つづけてスタンザを書きだそうとしたとき、とつぜん、いままでにないほどはっきりと死の予感が閃いた。そして一瞬のうちに理解した。その予感は、もの心ついて人に遇う以前から、からだの中に沈積していたような気がした。この沈殿物を費やさなければ詩は書けないとハッキリ理解した。これほど喜ばしい恐怖を糧に、この先何年も詩を書きつづけていけるだろうか。喜ばしい死の予感が自分に何度も訪れるだろうか。
 ―何度でも訪れるだろう。
 すると、死の予感だけを喜びながら旅先で死ぬ漂泊者のイメージが胸に迫った。私はいつの日か山田三樹夫と同じように希望のない死に方をするように感じた。少なくとも自然な死に方と画然と区別された死に方をするだろうと思った。それなのに私はまるで目の前の霧が晴れたように、自分にはいつでも自由な死への道が開かれている、希望などなくてもいつだって思いどおりに死ねるのだ、という明るい気分に満たされた。
 いつのまにかラジオの音が止み、いびきが聞こえてきた。アイリスを眺めた。夕方にはまだ、若々しい濃い紫がぎゅっと巻いて、鏃(やじり)に似た細い先端を覗かせながらじっとこちらを見つめていたのに、いまは青い花びらがだらしなく湾曲して垂れ下がっていた。
 十時を回ってから、下駄を履いてカズちゃんを訪ねていった。十分も歩かなかった。玄関を開けると、サンマの焼けるにおいがした。台所からカズちゃんが走り出てきた。
「いらっしゃい!」
 手を引かれて台所のテーブルに着いた。
「すぐそばって、どこ?」
「正門前の関野商店を入った突き当たりの、健児荘というアパート」
「行動早い! ごはん食べたら、あとで見にいきましょ。じゃ、きょうは泊まれるのね」
「これからは、しょっちゅうね」
「うれしい! きょうは生理。残念。でも、やさしくし抱いて寝てね」
「うん」
「ようやくこれからは、わが家の机も活躍できるわね。ステレオ聴いた?」
「あれはすごい。超絶な音だった。高かっただろう」
「六十万円。大きな専門店で、十年は壊れないものって注文出したの。ぜんぶ取り寄せになって、JBLはアメリカから直輸入よ。アンプは真空管を交換していけば半永久的ですって。これからいろいろ住む場所が変わるでしょうし、引越しや、きびしい気候に耐えられるものでないとね。音楽好きのキョウちゃんのために、最高のプレゼントをしたかったの」
「ありがとう。これでどこにいっても音楽を絶やさなくてすむ。野辺地のレコードをぜんぶ送ってもらおう」
「野辺地は野辺地で置いといて。少しずつレコード買い集めましょ。前が空地だから、窓を閉めてれば大きな音で聴けるわ」
 カズちゃんは私に焼きたてのサンマとどんぶりめし、アサリの味噌汁を出し、自分もゆっくりサンマ一本で大盛りの一膳めしを食べた。シンクに食器を下げ、茶色い液体で口を漱(すす)いだ。
「何、それ」
「枇杷酒。焼酎に枇杷の葉っぱを入れたもの。口の中を殺菌するの。小さいころからこれでうがいをしてるのよ。おトキさんが庭の枇杷の葉で作って、こっちにもときどき送ってくれるの。完全な虫歯予防よ」
 寒くなったわね、と言って、シャツの上に濃緑のセーターを着た。
「野辺地の借家と同じように重油ストーブを取り付けてもらったわ。この家一軒ぐらいすぐ暖まるスグレもの。これで冬越しはだいじょうぶ」
 健児荘を見に出かける。正門の通りはすでにどの店も灯りを落とし、民家の窓明かりだけが連なっている。
「来年の春からは野球一本ね」
「そうなる。春の選抜は、青高がもう少し強豪になるか、社会的に好ましい話題性がないとだめらしい。ぼくのホームランだけで目立ったチームだからね」
「選抜って?」
「県の優勝校でなくても選ばれる春の甲子園。地域に貢献したとか、県の模範校だとか。選ばれさえすればプロから注目されるんだけどね」
「そうね……でも、お母さんのことを考えたら、選ばれないほうが安全ね。プロには注目してほしいけど、それも騒ぎだしたら怖いわ。とにかく勉強をがんばりながら、のんびりいきましょう」
「うん」
 健児荘の前にきた。
「ここ。一階のいちばん奥の部屋。青高生だけのアパートだ。二食付き、月五千円」
「ただみたいなアパートね」
「アパートの持ち主夫婦が管理人を兼ねていて、あまりうるさくなさそう」
「花園のほうには、うまく話をつけたの?」
「うん。野球部の監督に勧められて、部員のほとんどが入ってるアパートに引っ越すって言った。このままだと厄介なことが起きそうだから引越しするってわかってるのは、ミヨちゃんだけ。母親も薄々感じてたかもしれない。遊びにくるように言ったけど、うかつに訪ねてこれないと思う。男ばかり十人も入ってるアパートだし、管理人までいるから。そうだ、タイガーバットを五本ぐらい買っといて。九百十グラム、握りの細い、ふつうの長さ」
「はい。二、三日中に買っとく」
 ひさしぶりに風呂に浸かった。頭の先から足の先まで洗ってもらった。
 風呂から上がると、カズちゃんはじっくりとフィルターコーヒーをいれ、ホットケーキを焼いた。二人で食べながらペトラ・クラークのダウンタウンを聴いた。それからいっしょに洗面所で歯を磨いた。枇杷酒でうがいをして蒲団に入った。カズちゃんの胸にくるまれて朝まで一度も目覚めず熟睡した。


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