四十九

 十月四日月曜日。明け方の六時に帰り、部屋に入ろうとすると、食堂の戸が開いて、
「お早いお散歩ね」
 と管理人の女が声をかけた。
「はい、習慣です。週に一回ぐらい早起きして、歩き回りたくなります」
 彼女の目が意地悪く光った。
 食堂で朝めし。塩鮭、板海苔、豆腐と油揚げの味噌汁。おさんどんはない。
 早朝ランニング再開。コースは関野商店前から駒込川上流の駒込川橋まで。筒井通りを往復六キロ。少し速度を上げて走る。民家の平伏する古びた町並。ときどき青森銀行や胃腸科のクリニックなどが散見される。たぶんこれが秋のマラソンコースだ。十五分で駒込川橋。息切れしている。駒込川の茶色い細流を見下ろし、しばしの休憩。なんという貧しい体力だ。復路。もう少しスピードを上げる。ゼイゼイ。二度歩いた。
 充実した一日の授業を終え、充実した練習をして帰った。青森に〈居ついた〉という感じがした。食堂で晩めしを食った。ケチャップ炒めごはんと味噌汁だった。じつにまずかった。
 夜遅く、廊下からギターの音が聞こえてきた。戸を開けて耳を澄ますと、すぐにアンナ・マリアの『ひみつ』だとわかった。旋律に惹かれて廊下を音のほうへ歩いていった。玄関の上がりはなの部屋から聞こえる。ゆっくり近づき、戸口に立ち止まって耳を傾けた。光夫さんに似た、粘りのある指使いだ。悩むような、祈るような―技巧というものは私はまったくわからないけれども、こうした芸術的な表現のきらめきは子供のころから本能的に嗅ぎ当てることができる。何か明白な思想として自分の中に感じられるのだ。一級品だった。私は戸板にぴったり耳を寄せた。曲が止んだ。もっと聴きたいと思った。ガラッと戸が開いて、背高の丸顔が覗いた。電気ポットを手にしている。
「うわ、おどかすなよ。だれ?」
 髪の強(こわ)そうな坊主頭、不精髭ひとつない白皙の顔、長身を真っすぐ保って立っている。
「ここが懸垂男の部屋だったのか! 失礼。あんまりすばらしいから、つい……」
 たちまち表情をゆるめ、
「神無月だよな! きのう引っ越してきたのはおまえか」
「うん。西沢先生から山口に挨拶しとっけって言われてたんだけど、山口って懸垂男だとしか知らないし、教室でわざわざ声かけるのもなんだし、部屋もわからなかったしね。こんな形で悪い」
「そうか。ちょっと待ってろよ、水汲んでくるから」
 ポットを手に食堂へ素足で歩いていく。背中に声をかけた。
「懸垂四十回、すごかったよ」
 振り向いて、
「それだけの印象か。ま、いいだろ。おまえのような有名人に憶えていてもらっただけでもありがたいってもんだ」
 水を汲んでまたべたべた戻ってきた。
「ホームラン王、どうしてここにきたんだ」
「前の下宿が、なんだか窮屈で」
「そういうこともあるだろうな。ここはかぎりなく自由だぞ。ずぼらと言っていいくらいだ。猛勉の紹介だろ。俺もやつの斡旋で合浦から越してきたばかりだ。まあ、入れよ」
 山口はポットの電源を入れ、ガリガリ豆を挽いた。それから、カズちゃんと同じようにフィルターを使ってコーヒーをいれた。焦げつくような芳香が拡がる。
「深煎(い)りだ。うまいぞ」
 私は差し出されたコーヒーをすすった。カズちゃんのよりも濃くて甘いコーヒーだった。
「ギター、堪能させてもらった。すばらしい表現だった。音の粘りもすごい」
「そうか? 小学校のころからの独学だ。人に聴かせたことはない」
「アンナ・マリアのひみつ。血が冷たくなるほど悲しくなる。ぼくもテープで原曲を持ってるよ」
「神無月は野辺地中学校だったな。都会からきたって、猛勉に聞いたがな」
「名古屋から、去年の秋……」
 山口はギターを抱え直し、聞き覚えのない曲を弾きはじめた。光夫さんとちがって爪は長く伸びていなかった。柔らかい音がした。
「それ、なんて曲?」
「グルックの精霊の踊り。ほんとはフルートの曲なんだが、ギターで弾いてもけっこうオツだろ? ピアノがいちばんいいけどな」
 指を動かしつづけながら言った。
「美しい……」
「ふん、美しい曲だって思うんだな。おまえは耳がいい。音楽のよしあしは、もっぱら聴く人間の天賦によるからな」
「天賦?」
「そう。聴きわける力を持って、一瞬のうちに生きながらえるものを掬い取り、ほかのものをぜんぶ消し去ってしまう才能のことだ。つまらん音楽は、音の傷とか糸くずみたいチャラチャラしたものを耳に響かせる。たいてい新しいものはそうだ」
 理屈っぽい男だ。しかし私の好みだ。横顔を見つめた。睫毛が長い。
「本物の音楽家がガン首そろえて議論を始めたら、きっと真剣に伝統を踏まえた音楽の話をするだろうな。それは理想だからだよ。理想に反旗を揚げる新しいものは、たいてい醜い。こけおどしを目指してるから、鑑賞に耐えられないものが多い。古いものには完璧を目指す理想がある。理想は鑑賞に耐える。むかしの音楽のほうがすぐれていた、と言いたいわけじゃない。すぐれたものだけが保存されてきたってことだ。あとのものはぜんぶ忘れられたんだ。すぐれたものは、生き延びた伝統を模倣することから生まれてくる。すぐれたものは、どれもこれも、伝統を模倣しながら創造されたものだ。伝統を軽視したつまらない音楽が、啓発されなければいけない人たちの趣味を堕落させる。いつの時代もこうだったんじゃないかな。バカたちが発明しているあいだに、利口たちがせっせと模倣して―」
 私は感心して何度もうなずいた。
「うなりたいくらい、頭がいいね」
 山口はギロッと横目を使い、
「おまえ、悪い病気持ってるなあ。すぐ人を持ち上げる」
「ほんとうの気持ちだよ」
「いま俺が言ったのは、ほとんど、アランの芸術論の引き写しだ」
 私は山口が何か周知のもののように言い出したその名前さえ知らなかったので、恥ずかしくなってうなだれた。しかし、アランとはだれかは知らないが、強い興味を持って耳を傾けることができたのは、山口の話しようがいかにも上手だったからだ。活字で書かれたことをここまで記憶できるはずがない。彼の言葉は、おそらく引き写しのようなものでない。そのことは、考え考えしゃべる様子から知れた。
「合浦公園から青高までは遠い。ぼくも花園だったけど遠かった。でも、何か理由がなければ、たかだか三十分の登校時間を嫌って引っ越す必要がないんじゃない?」
「おまえの、窮屈だって理由をまず話せ」
 洗いざらい話せる男だと皮膚感覚が囁いた。
「端的に言うと、惚れられちゃったんだよ」
「わかった。漱石の『こころ』の逆パターンだな」
「逆だ。下宿の奥さんと娘さんの視線に危険を感じた」
「とっとっと! うーん、その世之介も顔負けの美男子ぶりだとそうなるか。そりゃ、煩わしいや」
「ここにときどき訪ねてくるかもしれない」
「うーん。ま、ここは女人禁制でないからだいじょうぶだが、あまり頻繁だとやっぱり窮屈になるだろな」
 私は思い切って訊いた。
「あっちの処理はどうしてる」
「ん? そういうことを訊くということは、わが身の生理に後ろめたさを感じてるってことだな。溜まったものを出すのは自然なことだ。後ろめたくなる必要などない。俺はその手の町へ、月一回か二回出かけていって、機械的に処理する。あそこの女たちは、乙女心なんて面倒なものを発揮しないからな。おまえはたいへんそうだ。同情するよ」
「山口が合浦からここにきたのはどうして?」
「おまえのようなツヤっぽい話じゃない。俺は東京の生まれでさ、中一のときオヤジの転勤で札幌にいった。それがまた今度は東京へ転勤てことで、みんなオヤジについていってしまった。これ以上転校はまっぴらだったんで、俺は残留した。猛勉に相談したら、すぐここを教えてくれたよ」
「それで、都会派か。西沢先生は、きみにもぼくのことを都会派って言っただろ」
「言った、言った。ここに越してくるという情報は聞かなかったけどな。……もちろん俺は野球選手として有名人のおまえのことを知ってたが、いつも本ばかり読んでいるおまえは知らなかった。俺の席はおまえの斜め後ろだよ。野球の合間にせっせと隠れ読書か。野球を捨てて物書きにでもなるつもりか」
 私は青森高校にきて初めて親しく口を利き合う男の顔を、ぼんやり見つめた。
「物書き?」
「おお、猛勉が言ってたぞ、神無月には作家の素質があるって」
「そんなものは目指してない。文章に興味があるだけで、小説家になりたいわけじゃない」
「納得。おまえぐらいホームランが似合わないホームラン王もいないな。勉強一番も、小説家も似合わない。つまり、何かの範疇に嵌まらない。そこにただ美しい男が存在している、という感じだな。おまえの正体は、探ってみれば意外にグロいのかもしれないが、まあ、それを含めて、そのままで完結してるって感じだ。上昇とか下降とか、進歩とか退歩とか、おまえにはすべて似合わない。確固たる存在物と言っておこう。それがこの半年でくだした俺の結論だ」
 この男のしゃべり方は快適だ。
「西沢先生と親しいんだね」
「ああ、しょっちゅう執務室にいってダベる。迷惑そうだけどな。クラスの連中に話せるやつがいないからな。何ものも似合わないやつは、何ものかにされてしまう。東大へいって野球をやるしかない、てなふうにな」
「聞いたんだね」
「聞いた。たぶんおまえの完結性は、何もしないことだ。そういう完結してる姿は人の癇にさわる。いじりたくなる。木や岩や山のように放っておくべきなのにな。……猛勉、結核で片方の肺を摘(と)ってるんだ。それまでは県下で名の売れたスキー選手だったらしい」
「へえ!」
 そろそろビンに白髪が生えてきているあの西沢が、かつてはスキーで名を売るほど頑健なからだを持っていて、いまは残った肺で呼吸しながら数学を教えている―なんだか哀しかったが、あの数学塾の教師とはちがう曲折した道を歩んだ人間の重厚さも感じた。山口はだしぬけに訊いた。
「太宰治、知ってるか?」
「名前は聞いたことがあるけど……」
「青高の先輩だよ」
「ふうん」
「驚かないな。寺山修司は?」
「さあ」
「なにが、さあだ。それでも物書きか。その様子だと、ドストエフスキーもトルストイもチェホフも、バルザックもフローベールも、ひょっとしたらゲーテさえ知らないな」
「名前だけは、一応……。本屋にいって、手当たりしだいに、背表紙の名前が気に入ったものを読んでる。なんせ、小学校からの野球漬けで、ちゃんと読書をしだしたのは一年前からなんだ」
「言いわけするな。しかし、たしかに読書も似合わないな。……無知というんじゃない。学習する必要がないというのか、きっと学習される側なんだな。おまえがすばらしい芸術家なら、手当たりしだいでも、すぐれた直観で手本を選んでるはずだ。その手本を単純化したり、純化したりして、自分の創作の種にしようとしてるはずだ。ゆるぎない自分に気づくためにな」
 創作などしたことのない私は無力だった。こんなめずらしい考えを聞かされると、まるきり反応できないのだった。


         五十 

 私は山口の大上段な言葉に刺激されながら、予想さえしなかった言葉の海にただよっているうちに、とつぜん、自分が幼いころから求めてきた自由は〈ゆるぎない自分〉だったことを、彼らは不気味なやり方で私からゆるぎない自分を奪ったことを、その彼らはもう私と何の関係もないことを、いや、私自身がもともと彼らに何の関係もなかったことに思い当たった。彼らは私から何も奪わなかった、私はきっときょうまでゆるぎない自分だったのだ。山口の雄弁で真摯な言葉には、いままで経験したことのない魅力たっぷりの説得力があふれていた。
「ゆるぎない自分というのは、……もともと奪われていない自分ということだね。そういう自分である自由は、もの心ついたころから手に入れっぱなしだったということだね。それを奪われたと錯覚したせいで、憂鬱ばかりが増えた。……ゆるぎない自分は幻の憂鬱を抱えた素っ頓狂な存在だということになる。手本というきみの言葉に、何かふっと安らかなものを感じた。素っ頓狂な人間はゆるぎない自分を苦労して創りあげるんじゃなく、なんとかすぐれた手本を見つけ、それに頭を垂れて、どしどし模倣していかなくちゃいけないんじゃないかなってね。それでゆるぎない自分を確認するしかないって―内部革命が起きた感じだ」
「オーバーなやつだ。……しかし、おまえ、頭がいいな。たしかに、幻の憂鬱に冒された素っ頓狂な人間には、すぐれた手本が必要だ。一人相撲が招いてしまった幻の憂鬱を払拭して、真の憂鬱としてつかみ直すには、模範に学ぶ透徹した精神が要る。心配するな。孤独で自由な、しかも真の憂鬱を抱いた手本に学べばかならず救済される。おまえはこれまでもそういう模範に救われてきたはずだ」
 ルイズ・ド・ラ・ラメーと中原中也が浮かんだ。
「……それにしても、ピカピカの頭脳(あたま)だね」
「そのへんにしとけ」
「言わせてよ。言わないと、嘘つきになる。まちがいのない感動を口にできない人間なんて、嘘つきだ」
「おっと、本性が見えてきたぞ。岩や山の自己完結性ってやつがな。おまえの存在自体が揺るぎない自己否定ででき上がってる。そこはだれもチョッカイを出さない。自分以外を否定したくて生きてる人間社会では大歓迎の人間だからな。ちょっかいを出さないのは一種の爪弾きだ。融通の利かない悲観主義者は、俺のような柔軟な楽観主義者にしか理解されない」
 無頓着で、陽性で、おまけに考え方の独立不羈、抽象的思考への興味、表現の機転、とにかく山口は驚くべき男だった。
「きみは、教室のどこにいたんだ」
「おいおい、哀しいことを言うなよ。巡らす視線をよぎるだけの存在というやつか? 後ろにいたと言ったろ。おまえが新聞に載りはじめたころから、おまえのすぐ後ろに移動しておまえを眺めてたよ。寄ってたかって連中がおまえのことを褒めちぎってたときも、やっぱり後ろから眺めてた。本も野球も似合わないやつだなと思いながらな」
 山口の言葉は山田三樹夫のそれに似ていたが、もっと滾(たぎ)るように溌溂としていた。彼の言葉に耳を傾けているうちに、私は、自分が青春の真っただ中にいることを、いや、そんなありきたりなものの中にはいないことを感じはじめた。山口の大時代な言葉遣いは、きっと的確な表現のための彼独自のもので、私が真剣にそれに耳を傾けなければ、だれにも知られずにこの世から消え失せてしまうものにちがいないと思った。
「最愛の女が、すぐそこの桜川にいる。三十一歳。北村和子という名前だ。どうしてそんなに齢の離れた恋人が、こんなにそばで暮らしているのかの事情は、今度その家に連れていくから彼女から聞いてくれ」
「承知した」
         †
「これ、全員参加だべが」
「ンだ。けっぱるのは陸上部だけだべおん。適当に走ればいんだじゃ」
「歩ってもいんだべが」
「袴の見張りが目光らしてるこった」
 十月十一日月曜日。九時。十一度。体育祭の一環として、男子一年生だけで往復十二キロマラソンが行なわれた。号砲も何もなく、
「いげ!」
 という袴たちの一声で、バラバラと正門から飛び出し、筒井通りのアスファルト道を山手に向かう。やはりこのコースだった。先頭でダッシュしていったのは山口だった。陸上部のような裾の割れた短パンを穿いていた。テルヨシも突進していった。私は真ん中あたりでスタートした。意外なことに、先行する一群の中に古山の姿があった。私は自分のスタミナのないことを知っているので、規則正しく呼吸しながら完走を目指すことにした。二百人以上の生徒が私の後ろを走っていた。
 平坦路から登りへ入ったときには、さすがに棄権したくなるほどつらくなった。先行グループの中に、とぼとぼ歩いている連中がいる。腹を押さえて道端にしゃがみこんでいるやつもいる。藪を抜けて近道をしようとする者さえいたが、すぐに袴たちに見つかって蹴りを入れられた。
 五キロあたりで脚が上がらなくなり、摺り足になった。スキー大会のときと同じだった。沿道に一年担当の教師たちのきびしい目がある。カメラを持った相馬の笑顔もあった。
「三冠王! だらしねど!」
 彼は笑いながら声をかけた。私は顔の前に手刀を掲げ謝罪のサインを出した。後ろのグループがどんどん追い抜いていく。
 たぶん復路を引き返してきた山口とすれちがったにちがいないが、息をするのが精いっぱいで気づかなかった。しかし私は、まじめに山路を登って折り返し、どうにか完走した。結果は、脱落しなかった者の中のブービーだった。何より吐き気がこなかったのがうれしかった。確実に体力は増している。春からの継続的なランニングと、筋トレと、野球部の練習のおかげだと思った。
 校庭で紅白饅頭が振舞われていたが、食う気にならなかった。古山は十五位、テルヨシは七位、山口はトップだった。マラソンに参加しないことになっている女子は、男どもとグループを異にして、午前の日の高いうちから野球グランドで行われる徒競走に回っていた。マラソンから戻った男たちは金網にへばりついた。百メートルのクラス代表は木谷千佳子で、五十メートルは鈴木睦子だった。鈴木はドタドタと四着に終わったが、木谷は長い脚を器用に繰り出して、見事に一着でテープを切った。そのまま余力で跳びはねるように二十メートルほど走り、晴れやかに笑いながら、応援する女たちに手を振った。男のほうは見向きもしなかった。成長した内田由紀子を見る思いだった。
 放課後の練習のとき、私のマラソンがあまりにもだらしなかったので(野球部では歴代ワーストということだった)、阿部キャプテンが、
「神無月の塀沿いのチンタラすたランニングは五十メートルダッシュ五本に切り替える」
 と発表した。これを機に、私は徹底的に体質改造を図ろうと心に決め、仲間たちが守備練習をしているあいだも、数分の間隔を置きながら五十メートルダッシュを繰り返した。最低でも十本やった。そのおかげで、全身運動のための足腰のさまざまな筋肉が弱っていたことを発見できた。投げて打つだけでは、あるいは、腕立て腹筋背筋だけでは、バランスよく全身を鍛えられないとわかった。不思議なことに、これを数日つづけただけで、かえって疲労の残らないからだになっていった。
 阿部キャプテンに、
「なんだ、この背中は!」
 と、呆れ顔で叩かれていた猫背がしだいに真っすぐになっていき、足の運びも高く大きく規則正しくなり、呼吸もまったく乱れなくなっていくのを自覚できた。
         †
 十月も半ばにさしかかったが、春と同様、どの高校も秋の練習試合を申しこんでこなかった。相馬が言うには、うちと戦ってもピッチャーが自信を失うだけなので、春まで鍛えてかかってくるつもりだろう、ということだった。
 二日ほどいい天気がつづいたあと、急に暑さが遠のき、雲の形が薄っぺらくなって、秋がやってきた。一日だけの雨が上がると、夜の虫がにぎやかに鳴きはじめた。きょうも夕めしのあと、山口の部屋でコーヒーをご馳走になっている。
「カズちゃんという女と、おまえがここにいるのは、驚くほどの巡り合わせだが、必然でもあるな。カズちゃんも自己完結した山だ。したがって、自分は神無月と一心同体だという彼女の静かな言葉に一点の疑いも挿し挟めない。人間を感じさせる女に初めて遇った。しかも、彼女は博愛主義者ではない。いい意味で狭量だ。世に博愛主義者なるやつがいるな。俺には、万人の福利のために尽力する能力というものをすぐれた資質と思えない。それは社会の求めに応じて作り出された欺瞞だ。無数の人間の中からただ一人の人間を選び出し、それに専従するインセンティブに欠けている。そんなやつは、だれも愛せない。つまり、彼は万人の福利という途方もない夢を見る熱情に打ち負かされているんじゃなくて、そうすることがよいことだと冷静に判断し、その判断に殉死しているにすぎない。そうだろ?」
 前置きもなく迸り出る彼の口説(くぜつ)が耳に快い。彼は文章を書かないけれど、そのかわり自分の心にある考えを論理的に整った形で表現してみせる。その欲求は尽きないので、いつも聞き手をほしがる。ただし、いまのところ聞き手は私とカズちゃんの二人だ。
「カズちゃんを気に入ってくれたんだね」
「彼女の人間のすばらしさはだれもが気に入る。俺が気に入ったのは、神無月郷しか愛さないという狭量だ。神無月の大地にしか根を張らないという狭量さだ」
 先日山口は、カズちゃんと私と三人で三十分ぐらいしか話をしなかった。ただ、ほとんど山口がしゃべりつづけた。彼は教室や廊下ではいっさい無駄口を叩かない。だから彼は小笠原と同じくらい目立たない。勉強も同じだ。たまに地理で十傑に載ることはあるが、あとの科目は少なくとも廊下に貼り出される五十傑にはいない。かえってそれが彼の天才性を際立たせているように感じられる。なんせ、懸垂四十回で、マラソントップで、ギターの達人で、雄弁家なのだ。天才以外の何であろうか。
 私は山口の言葉に熱心に耳を傾けた。興味を惹くのは、彼がこの世の現象に並々ならぬ関心を持ち、それを的確に批評できることだった。私自身は、社会に対して進んで関心を持つことは爪の先ほどもなかった。私はまた、山口がものごとを深く考え、正確に理解する能力を持っているために、しかもめったに見られない弁舌の能力を備えているせいで、この男は将来きわだって社会的に有為な人物になるだろうと確信した。私は自分の無能力を恥じながらも、誇らしい気持ちになった。
「なんだ、何か意見はないのか」
「完璧な見解に付け足す意見なんかないよ。いや、見解じゃない、すでに思想だ。オリジナルなものに対峙するには、オリジナルしかない。ぼくはそんなもの持ってない。山口は年齢を偽っているんじゃないか? 十六歳じゃないだろ」
 私は新しい友に感服しきって答えた。
「お、別の角度で褒めてきたな。ふん。俺は子供なんだよ。偽善というのは何ごとにかぎらず、怜悧な洞察力のある大人も欺くものだが、子供ばかりは、どんな知恵の足りない子供でも、その偽善がどれほど巧みに隠されていたって、すぐに感知して排斥する」
 私は本気で拍手した。山口は頭を掻きながら、
「ぶらぶら散歩してみるか。まだこの川沿いを歩いたことがないんだ」
「荒川と駒込川が合流して堤川になってる。この付近だと、どちらの川へも同じくらいの距離だ」
「ほう、詳しいんだな」
「花園に下宿してたころ、何度か歩いたからね。でも、もう一度、ちゃんと歩いてみようかな。荒川の上流へいっても、何もないよ。昼はすてきな場所があるけど、でもあれは偶然の発見だったから、もう見つけられない。駒込川を遡ってみよう。同じように何もないと思うけど」
「そうするか。下流なんてのは、見慣れた景色に近づくだけだからな」
 二人、下駄をつっかけ、校庭の一本道を突っ切って、裏手の校門から駒込川の土手に出た。川上さして歩く。団地が等間隔に、まばらに並んでいるだけで何もない。
「たしかに殺風景だな」
「森や林があればそれなりに趣があるんだけど、堤防と団地と、せいぜい緑地帯じゃ、見どころがないよね」
「あそこに森があるぞ」
 二百メートルほど先にこんもりと樹木のかたまりが見える。目の利きにくい私にはかすんで見えた。鬱蒼とつづく木立の中に、三軒、五軒とかたまって点在する農家がある。森も家も背中に陽射しを背負っているせいで暗く見えた。土手の途中に架かった橋の下を細い支流が泡立って流れていた。
「こんな恐ろしげな場所があったんだな」
 向こう岸の山手を眺めると、麓の林の白っぽい夕闇に何軒かの農家が沈んでいる。そこから川岸に通じている長いポプラの並木道の上空に夕暮れの月が浮かんでいた。並木道の後方に黒々と盛り上がっている丘の稜線が見えた。
「ぼくはいつも、いま見ている景色がいつか見られなくなると思って、目を凝らして記憶しようとする癖があるんだ」
「だれにも語らずに、自分が抱えていくだけの記憶だな」
「うん、死ぬまでときどき自分で思い出すだけのものだ」
 山口はニッコリと笑った。風景を区切る極端な光の濃淡に、季節の移り変わる気配が現れていた。川に砂洲ができている。水はそれを避けるように蛇行し、砂洲の縁に露出している小石を洗って涼しい水音を立てていた。斜陽が細かくちぎれながら目に飛びこんできた。まぶしかった。山口は、
「これ以上いくと、帰ってこられなくなりそうだ。ついでだから、この道を下流にもいってみよう」
 歩いているあいだに陽は少しずつ沈んで、筒井小学校のあたりまでくると、まばらな家並も駒込川の水面も、歩いている二人も、薄赤い陽射しに覆われた。夏に比べて水かさがいくらか増えた川面に、虫を捕える魚が跳ね、緑地公園に蝉がしぐれていた。大気はまだ暖かいのに、水辺を歩く人びとの姿は見えなかった。


         五十一

 とつぜん顔の正面から残照がぶつかってきた。そこはふたつの川が大きく曲がって東西から合流する場所で、田と畑が広がっている野原だった。太陽は市街地のほうから一直線に照りつけ、疎らな木立や大きな病院の白壁を克明に浮き上がらせた。刈田が一面の赤い海になった。あまりの美しさに私たちは驚き、無言で立ち尽くした。堤川が国道の下へ潜りこみ、方向を青森湾へ変えてくだっていく。
 私たちは流れといっしょに歩きはじめた。ふたたび水が姿を現すと、川幅は広くなり、それとともに道も広くなって、風景がモダンで退屈な感じがしてきた。
「花園の下宿は、もう目と鼻の先だ。会いにいきたいけど、やめとこう」
「そうそう、寝た子を起こさないほうがいい。このまま合浦へ泳ぎ納めにいこう。水が冷たすぎるかもしれないが、凍え死ぬことはないだろう」
「寒い夜の海か。ゾッとしないな。新町の本屋へなら付き合ってもいい」
「街なんぞへいっても、それこそゾッとしない。こんな北の最果てにも、急進的な時代が生んだ化け物がはびこってる。経済のメカニズムという寄生虫が、容赦なく食い意地の張った管を突っこんでるんだ。それに下剤もかけないで、トンマに腹を下しているような連中のたむろする界隈に出かけていって、いったい何のおもしろ味がある」
「なるほど。腹を下した連中は、腹が気になって、頭が回らない。そりゃもう人間じゃなくなる。つまり、文明の進歩とやらは、人間の思考力や想像力ばかりでなく、感覚まで奪うということだね」
「さすが、いい理解力だ。じつは進歩と見えて、悪質な退歩だからだよ。急いで何かをするときに必要なのは、進歩の幻と機械の説明書だけで、人間的な要素は邪魔者になる。進歩という名の寄生虫にチュウチュウ栄養を吸われて、血を失う。そんなやつのたむろする街の風景は、白黒写真みたいにいっさい血の気のない灰色だ」
 私は笑いながら、
「わかった、わかった。ただ本屋にいきたかっただけだよ。水着、どうしようかな」
「そんなしゃれたもの要らん。パンツ一丁でいい。このまま直行! 目ん玉が日焼けしそうな真夏の海より、秋の夜の海だ。すさまじい趣があるぞ。合ァッ浦、原ェン頭、朔風ゥすさびィ―」
 声を放って唄いだした。
「雄姿堂々、渾身の血湧きィ、たけり立つおのこらァ、虎嘯(こしょう)睥睨す、踏めよ踏まれよ、われらが選手―」
 私は何か古典的な青春の交歓を満喫する思いで、遠慮がちに、ソリャ、などと合いの手を入れながら唄った。
「ソリャー!」
 山口がさらに大きく声を重ねた。
「われらが選手、か。野球は楽しいか?」
 この頭のいいスポーツマンになら、ぜんぶ話せる。自分の命であるものを語って、しみじみと安心できる。
「全人生を賭けてると言っていいな。勝ち負けに賭けてるんじゃない。野球そのものの華麗さ、美しさだ。中でもホームランを打つことにはかぎりないあこがれがある。野球は人間を好きだと意識して生きる毎日の同伴者になってくれる」
「ふーん、おまえは均整がとれた人間だ。めったにいない。俺も器械体操をしていたんだが、たしかに人生賭けてたな。運動していた時代はよき思い出だ。おまえにしたらまだまだ過ぎた時代として思い出すわけにはいかないだろうけどな。思い出が滅びないのは、とりもなおさず、時間直線上のある一点に意識が濃密に偏在しているからにほかならない」
「なんだか、あたりまえだね」
「あたりまえのことを難しそうに言うのが高度な雄弁術だ。その逆は、最高度だがな。俺はね、おまえみたいに芸術家気質の人間として生きたいと思ったこともあるが、どうも根本的なアンニュイに欠ける体質だと悟った。それがなければ芸術家になれっこない。まあ適当に大学生にでもなって、天下国家の経綸を語るか。脱亜入欧何するものぞ、日本はもう一度鎖国し直して、ひっそり商売でも何でもしたほうがいい、そうすれば美風良俗を取り戻せる、なんて唱えながらさ。語るだけなら、いまの世の中、世間の片隅で安全に暮らせる」
「安全に暮らさずに、その雄弁を活かして、政治家になったらどうだ」
「政治家にはなりたくない。やつらは人倫の掣肘を受けない。心の底から真剣で、自分の主義のためには、いざとなったら一身をなげうってでもこれに殉ずる、というほどの人物は一人もいない。国を毒するような罪を犯しておいて、こうむるべき悪名を免れようとするなんざ、高潔な俺の性に合わない」
 そう言って彼は尻を突き出し、プーと一発吹かした。二人で大笑いする。
「山口……」
「ん?」
「ぼくにとって、野球は単なる楽しい趣味じゃなくて、将来の充実した人生に血を送る心臓なんだ」
「おいおい、おまえは野球をなくしたら心臓をなくした抜け殻か」
「いまは抜け殻じゃない。ごらんのとおり、野球オンリーの古い利己的な心臓の脇に、カズちゃんという新鮮なメインの心臓を血液つきで接合した。別の種類の人生に新しい血を送るものとしてね。カズちゃんの血が野球オンリーの血液に紛れこんできた。心臓を接合したことを、早計だ、それは他力本願の人生だと人が言うなら、人生に必要なのは他力がもたらしてくれる幸福だと言い返したい。神さまが他人との和合の幸福を満喫させるために、カズちゃんをぼくに選んで贈ったんだ。……ぼくは思いのままにならない生活設計の中で、希望を持ちながら野球をやってきた。でも、もうだいじょうぶ」
「いまでも、古いサブの心臓もちゃんと拍ってるんだろう?」
「うん、野球心臓。おかげで有望選手だ。将来プロ野球へ進むだろうと、自分も他人も信じてる。それだけの野球の技量があるし、記録も何度か塗り替えてきたしね。回り道なんかする必要がなかった。―簡単に言えばそういうことだけど、もっとくだらない複雑な原因がからんでる。自分の作った原因だ。友情と恋情。新しい心臓の礎だ。ただ、その二つをすべて忘れて能天気に野球に没頭するとき、その没頭は悲しくなるほどホンモノなんだ。忘れずに調整してきたサブの心臓がフル稼働するから」
「……友情と恋情か。おまえがいま、ここにいる原因だな」
 疑いもなく私は、あの非日常的な気分に浸りだした。相手とのあいだを仕切っている垣根が消えて、いつもならがまんして黙っていることも話してしまいたくなる、あの気分だった。
「簡単に説明できないんだ。その二つは野球をやるのを面倒くさくさせたり、人間を根本的に疑わせるようにさせたりした原因だから」
 山口は土手の石を拾って遠く川面に向かって投げた。
「こりゃ、大した高校生活になりそうだぞ」
 川沿いの林檎園の細道を抜け、国道を横切って合浦公園に入った。東の空に低くラグビーボールのような月が出ている。磯くさい汐風が松林に吹いている。月の光をかすかに拾う海面に細かい波頭が立っていた。それを見るだけで寒くなった。海鳴りが耳をおびやかす。野辺地でよしのりと聴いた死の響きだ。
「ほら、あそこが前にいた借家だよ」
 山口は公園のへりにある古びた二階家を指差した。春にヒデさんときたときにも、ちらと目に留まった家だった。
「あんな大きな家に、ひとりぽっちだったのか。こりゃ出たくなるね」
「みんな出ていったからな。勉強部屋からいつもこの海を眺めてた。昼間はロマンチックな海も、夜はやっぱりおっかない」
 私たちは桟橋のほうへ進んでいった。夜の海面にブイがかすかに光っている。少し沖合に黒く短い防波堤が延びている。板の桟橋の突端にくると、山口は下駄を脱いで腰を下ろし、ぶつぶつとしゃべりはじめた。小声で演説しているようにも聞こえる。
「やっぱり、少し腰が引けるぜ。―ジェフリーズいわく、環境はいつのまにか生活の周囲に安全な壁を築き、そして、心は絶えず狭まっていく円周の中を旅しはじめる。そんなふうに人間の能力が安全性の中に束縛されると、人は現在の事物や知識を到達しうるすべてだと思うようになる。これが一切だ、もうこれ以上何もない、現状にとどまれ、ただ一筋にぐるぐる廻れ。食い物と、睡眠と、他人の昔語りの聞きかじりと、老いと死を得よ」
 一戸以上だ。異国の言い回しのまま翻訳してあるせいで、かえって暗記しづらいはずだ。私はまた異能の人間を一人見ている。
「もうこのうえできることはないという迷信に匹敵する力を持つものは見つからない。すでにいっさいのものを持っている、これ以上何もないから進捗は不可能だという印象がいったん心に食い入ったが最後、人は地中深く打ちこまれた杭に鉄鎖でつながれる。ついに円周の半径が決定的なものとなったのだ。これこそ、安全ではあるが、心にとって最も恐ろしい、最も致命的な室内監禁である。型どおりの家庭生活の行事や行楽、同じ仕事、仕事にまつわる同じ考えや、きちんと繰り返される茶飯事、そういうものの中に閉じこめられたとき、私たちはどんなに先鋭な着想や発見の光から見放されることだろう。人は安穏とした生命の維持を超えた貴重な光を味わうために生まれた。だからこそ、日常の室内行脚の安全な鎖を解き、わがままに、陽射しの強い危険な野の領域へ帰っていかなければならない。―さあ、跳びこむぞ!」
 山口はたちまち服を脱ぎ捨てると、パンツ一枚で奇声を上げながら水へ飛びこんでいった。きらびやかな言葉の印象が残り、私はしばらく身動きできないでいた。
 山口が沖に向かって抜き手を切っていく。私はワイシャツをむしるように脱ぎ、ズボンから足を引き抜いて、桟橋の端に立った。足の裏に砂でざらついた板が感じられた。海面が思ったよりも下にある。私は夜風に向かって口を開き、桟橋から飛びこむ姿勢で両手を伸ばすと、うねり寄る波に向かってからだを屈めた。
「よし、いくぞ!」
 頭から跳びこみ、全身をぎゅっと引きしめた瞬間、なめらかに、深く、水中に潜っていった。水の温度は感じなかった。水の中だという意識もなかった。いったん水面に浮かび上がり、深く息を吸いこんで、また潜り、目をつぶったままどこまでも水中を進んでいった。それからもう一度水面に浮かび出た。ぐるりと仰向けになって、目を開く。月が圧(お)してくる。
「おおい、楽しんでるかあ!」
 夜の海面を遠くから声が滑ってきた。山口は泳いでいた。私は、百メートルほど沖の黒い海面に浮き沈みする頭と、抜き手を切っているらしい肩を見つけた。
「おー、楽しんでるぞォ!」
 私は勢いよく腕をこいだ。冷えた海水がなんともいえず快い。手足を動かすだけでもじつに快適だ。私は強くゆったりとした動きで水をかいた。また潜った。ようやく水温を感じはじめた。沈むにつれてひんやり冷たくなっていく。目と耳に水圧を感じながら水底に近づくと、かなり冷たかった。からだを伸ばし、底を蹴って浮上した。闇の中に浮かび出るのは奇妙な感じだった。わずかに足で掻きながら、温(ぬく)い水の表面でゆったりと休んだ。
「だめだァ、冷たすぎる。上がるぞ!」
 山口がこちらに向かって抜き手を切ってくる。私も平泳ぎで桟橋から逸れた砂浜へ向かった。砂の上に立ち上がると、からだがぽかぽかした。山口は唇をふるわせている。
「いやに寒そうだね」
「沖は水温がちがう。こんなのは一回きりのお楽しみだ」
 ふと見ると、二人ともパンツに陰毛が透けていた。おたがいに指差して、大声で笑い合った。やがて私のからだも、氷に冷やされたように芯まで冷えてきた。
「服はどこだ!」
「あそこに脱ぎっぱなしだ」
 二人で桟橋まで走った。
 帰り道、山口は私に問いかけた。
「おまえの書いたものを見せてくれないか? 自信のあるものだけでいい」
「一つもない。推敲の効かない駄作ばかりだ」
「徹底した自己否定だな。打診しただけだよ。時機を待つさ。何かを感じさせる人間てものが確実にいるんだ。クラスの連中を見てみろ。どいつもこいつも、記憶力がよくて、頭が回って、つまりそれは、感覚的なものを必要とする仕事よりは、むしろ知識を使い回す仕事のほうに向いているということだ。おまえはちがう。見たところ、ヤケになって宗旨替えをして、英数国理社に打ちこんでるのが見えみえだ。とにかく、いつか書いたものを見せてもらう」
「このあいだ言ったように、でたらめな幻を書いてるだけだ。わざわざ心の底から原始的な悲しみを浚いだすような……だから、嘘っぱちの詩だ」
「詩を書いてるのか! そうか、詩か……。俺は、その、原始的な詩人の悲しみに興味がある。どういう種類の悲しみか知らないが、おまえの心にいい作用はおよぼしてない。おまえの詩は、その悲しみを礼賛するようには表現してないはずだ。攻撃の対象にしてるだろ。怒らせ悩ませるものすべて、攻撃の対象になるからな。見せたくないのは、そのせいじゃないのか」
「礼賛と攻撃なら、攻撃のほうがラクだ」
「ふん、頑固岩がラクなんて考えたこともないだろう。おまえは攻撃の詩なんか書いてないな。書いてるのはたぶん生命讃歌だ。俺の機嫌をとるように答えようとするな。礼賛するのはおためごかしじゃできない。まるまる人格一つの寛恕が必要だ。おまえはがんらいそういう人格の人間だよ。岩のようにどっしりしたおまえの人格は、草木に慕われて縁取られてきたんだ。そしてその上に人を憩わせるようになった」
 すぐれた直観が、救済の意見を紡ぎ出した。寺田康男と山田三樹夫のあとに彼がやってきた。
「……親友になってくれないか」
「もうなってるよ。ドアの外で立ち聞きされてたときからな」



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