三十三

 映画が燃える太陽から始まる。背後に流れる解説は無視した。美術的に凝った表現も退屈なので無視した。陸上百メートル、アメリカのヘイズ。彼のみが印象に残った。太腿を高く上げ跳ね上がって猛進するブルドーザーのような真っ黒いからだが、ダントツの先頭で駆け抜ける。
「あれだけがよかったね」
「ほんと、早いうちにやっちゃうんだもの、三時間がつらかった。でも似てたわよ、どっかキョウちゃんに。からだの大きさも雰囲気もちがうけど、飛び抜けたスポーツ選手独特のオーラみたいなものが……ふつうじゃない感じ。ヘイズっていう人も、ふだんは静かな人じゃないかしら」


 
 新町の書店を二軒ばかり覗く。カズちゃんは山本周五郎全集全七巻というのを買いこんだ。私は、本は買わず、レコード屋に寄り、リールテープを五本買った。
「貝を食べたくなった。食べたばかりだけど」
「まあ! そういう下品なシャレはキョウちゃんに似合わないわ。シャレじゃなく、直接その名前を呼ぶときは、ゾクッてなるけど。そういうのは、ふつうの男じゃ、ぜったいだめね」
 夕暮れの奥州街道を歩く。
「この国道4号線は、野辺地まで通じてる。道って不思議だね、歩きつづければ日本中どこへでもいける」
 カズちゃんも不思議そうに地面を見てから、遠く堤橋のほうを見やった。
「あの稲荷神社のそばの町並みがなつかしくて、もう一度いってみたの。そのとき、小ぎれいな寿司屋があって、思わず入ってみたらおいしかった。そこへいきましょ」
「カズちゃんはよく歩くね。野辺地も征服しちゃったんだよね」
「うん。野辺地はどこもかしこもきれいだった。幼いキョウちゃんを育てた町」
 港のほうへ入りこんで、すぐ稲荷神社に出た。そこから二分ほど先に、五井と染め出した暖簾の脇に、寿司屋にはめずらしいランタンを垂らしている店があった。小振りな店なのにカウンターが広くて目に快適だ。並んで腰を下ろし、大きな下駄を履いている職人に、おまかせ、とカズちゃんが言った。
「ここぼくが払うね。ぼく、まだ封筒のお金使い切れてないんだ。半分以上残ってる」
「使い切りなさい。私も張り合いがないじゃないの」
「いったいカズちゃんは、どれほどお金を持ってるの? 野辺地にきてから使った金額を想像すると、空恐ろしくなる」
「ぜんぜんだいじょうぶよ。いくらぐらいかなあ。何百万も持ってるわ。それが減らないどころか、増えてっちゃうの。私、一人娘だから、お父さんたち、月に二十万も送ってよこすのよ。ときどき、五十万ぐらい送ってくることもある。西松にいたときからよ」
「カズちゃんにテープレコーダー買ってもらったね」
「ええ、憶えてるわ。大好きです、って録音したの。あんなもの買うのは何でもないことよ。おとうさんたち、女の生き血を搾り取って資産を作ったんでしょう。そのお金をいま罪滅ぼしに、娘に小出しに分けてるってところかな。罪滅ぼしの方向がちがうっての。このごろは余裕ができたから、そんなあくどいことはしてないみたいだけど、何億も財産があるんじゃないかしら。お金に汚い人たちじゃないんだけど、この手の商売には、搾取がふつうだった悪い時代があったってことね」
 私は思わず笑い出し、
「ぼく、幼稚園のころ、じっちゃにたった一回、五円もらったきりだよ。貼り絵とメンコを買った。小学校二年から四年の秋までは、一日十五円の昼めし代。それで貸本を借りたり映画を観たりした。千年に転校してからは一円ももらったことがない。それでもなんだか贅沢をして暮らしてきたって感じがする。飯場のみんなが、寄ってたかって貢いでくれたから」
「かわいくて仕方がなかったからよ。キョウちゃんを見てるだけで、生きる力になるんだもの。貢物をしても何の不思議もないわ。私も捧げものをしてるのよ。命をね」
 私にはミル貝とトリ貝の握り、カズちゃんにはボタンエビの味噌和えが出てきた。
「うまい! とんでもなくうまい」
「ね、何軒か歩いたけど、ここがいちばん」
「シャコください」
「私はヒラメの昆布締め、それとキャベツのお漬物」
「へい」
 清潔な職人服を着た大下駄が応える。客は三組ほど。相当値の張る店のようだ。
 コハダ、イカ、赤身、ウニ、赤貝、アナゴ、と食べていく。カズちゃんは、中トロ、岩牡蠣、子持ち昆布、ウニを挟んだナス揚げ、煮ハマグリ、アナゴ、と食べた。最後に飲んだジュンサイの味噌汁は絶品だった。二人で一万円近い値段だった。暖簾の外に出たときの満足感が並でない。うまいものを食ったと感じた。
「またきましょう。一人でこないでね」
「うん。秋にやめていく野球部の仲間たちにおごりたいな」
「それならいいわ」
 堤橋で右と左に別れた。キスはできなかった。全集の重たい紙袋を両手に提げて帰っていく溌溂とした背中が目に残った。
         †
 私はこの半月のあいだに、カズちゃんの教えによってではなく、自力で、相手に合わせて素早く射精する感覚の集め方を修得した。女の存在意義は肉体に尽きるのかものかもしれないという考えが、ふと心によぎった。
 ―いや、それは真実めいたものかもしれないけれど、たぶん真実ではないだろう。
 そう思い直したとたんに戦慄した。女の肉体への失望を、一瞬予感したからだった。しかし、愛する心があるかぎり、その失望はずっと遅れてやってくるだろうと思った。
 名古屋へ旅立つ二日前の深夜に、ミヨちゃんが訪れた。私はホッとした。母親が身も心も撤退したことを告げたのだ。ミヨちゃんほとんど口を利かずに柔らかい表情で私を眺めている。抱き寄せると、なぜか遠慮がちにからだを開いた。口づけをしながら、私が射精するまで気をやりつづけた。そして、痙攣の名残が消えるまでずっと唇を離さなかった。それから、私に乞われないうちに、その口で私のものを清潔にした。
「私、母のように神無月さんを苦しめません。私、神無月さんを信じてます。神無月さんが私を愛してくれることをじゃありません。私のいやらしいものを愛撫してくれるダイアの心を。あの夜からずっと信じてます……。私、ダイアを載せるプラチナの台になります」
 ミヨちゃんの言葉は、とつぜん、きらめくような一対の完成した男と女のイメージを私に与えた。ゆくてが見えた。女神と歩きつづける道の向こうから、生身の〈人間の〉女たちが近づいてきて、感化と、透明な言葉を放射しながら同伴した。私とカズちゃんの完成した道行きだった。
         †
 朝食のときに、帰名の理由をもう一度大雑把に一家に話した。主人はいつもの食い入るような目つきで聞き、ミヨちゃんはきょうも鼻水をすすった。奥さんは康男の存在がただショックなだけで、私のかつての素行の話には耳を傾けていなかった。サングラスは窓からの陽光に焙られて、最初(はな)からこっくりこっくりしていた。深夜までラジオを聴きすぎたせいで寝不足なのだろう。
 半袖の開襟シャツに学生ズボンを穿き、学帽をかぶった。小型のボストンバッグに、いのちの記録とワイシャツの替えを二組入れた。本と下着の替えは持っていかないことにした。下着は汚れたら買い替えればいいし、本は机以外の場所では読めないタチだった。メモ用の手帳を胸のポケットに入れた。金はカズちゃんの封筒と、先月ばっちゃが送ってくれた三万円(彼女はそういう人だ。他人の金を預かることはネコババだと思っている)を持った。
「じゃ、いってきます。九日から補習なので、五日までには帰ります」
 前日の別れぎわに約束していたとおり、堤橋でカズちゃんと八時半に待ち合わせ、タクシーを拾って青森空港に向かった。十時過ぎの便に乗った。狭い座席で、奥さんが作ってくれたシラスの握り飯を二人で食べた。
「ミヨちゃんが、舐めてお掃除してくれた」
「あたりまえのことよ。でも、ちゃんと忍んできてくれてよかった。愛は独りよがりの美学に勝つの」
 見透かしたように言う。カズちゃんは持ち前の千里眼で、私が一瞬、女の存在意義を肉体だと看破した気になったことを見抜いたのにちがいない。そんなくだらない〈美学〉をミヨちゃんのやさしさが打ち砕いたということだろう。
 プロペラの音を聞きながら、康男のことを思いつづけた。これまで何度も彼のことを思い出したけれども、もう一度会えるとは思わなかった。牛巻病院に寄ろうか? 何のために? もう康男も節子もいないのだ。
「私も大将さんに会いたいけど、無理よね」
 そう言ってカズちゃんは笑った。
 十二時過ぎに名古屋空港に着き、高速バスに乗り換えて、一時少し前に名古屋駅に着いた。駅名を告げるアナウンスがバスの中に流れたときから、あの夜のホームの発車のベルが、まるでラッパの音のように胸に鳴り響いていた。
 バスを降りると、なつかしい街並が目の前に展けた。そびえるビルの群れを背景にして車が走り、大勢の人が歩いている。一年のあいだ思いつづけた場所だ。
「気もそぞろね。大将さんに会うのは、あしたよ」
 電話ボックスから戻ってきたカズちゃんが言う。
「うん」
「いきましょ。おとうさん、おかあさんが待ってるわ」
 人の多いコンコースを通って駅の裏口に出る。右手は背の低いビルディングの群れ。河合塾の建物が目立つ。あの向こうに浅野の炭屋がある。左手一帯は入り組んだ道筋にバラックふうの家がびっしり平伏している。
「蜘蛛の素通りか」
「いわゆるね。ああ、ひさしぶり」
 カズちゃんはバスロータリーを横切り、その一筋に入っていった。バラック仕立ての一階家や、丈の低い二階家がつづき、その前で一般の主婦と変わらない平服の女たちが、土の路に打ち水をしたり、竿やロープに洗濯物を干したり、立ち話をしたりしている。ほとんどの女がゆるいスカートを穿き、下半身が豊かだ。痩せた女はほとんどいない。生活を彩る子供たちの姿もない。明るい陽の下に淫靡な雰囲気がただよっている。カズちゃんは黙って歩く。かすかにお辞儀をしてくる女もいるが、カズちゃんは無視する。五十メートルも歩かないうちに、平たいバラックの群れから離れた広い敷地に、異様に大きい堂々とした屋敷がそびているのが見えた。
「あそこよ、私の家」
 高橋弓子の家を二回りも三回りも大きくした二階建ての屋敷だった。周囲の雑草地から浮き上がった、古色蒼然とした蜃気楼のような建物だった。数寄屋門を入り、バカッ広い芝庭を貫く飛び石を伝って歩いていく。四枚戸の大きな玄関前に枇杷の古木が二本立っていて、その下で一組の男女が待っている。遠くから頭を下げた。何人か下働きのような女たちが控えている。
「ただいま! この人がキョウちゃんよ」
「神無月です。初めまして」
「いらっしゃい。ほう、ええ男やなあ! 和子が言っとったとおりや」
 外人のような顔をした太った男が言う。私ぐらいの背丈だ。小学校の校長を思わせる黒っぽいスーツを着ていた。カズちゃんに似た目に哀愁があった。
「どうしたの、おとうさん、その格好」
「いや、失礼のないようにな。わざわざ仕立てたんだ」
 これまた小太りの、顔容の整った中背の女が笑いかける。
「ほんとに。惚れぼれしてまうわ。よういらっしゃいました」
 女神をこの世にもたらした美男美女だ。玄関の外壁に取りつけられた袖看板に《北村席》と書かれていた。控えていた女の一人が私たちの荷物を奪って、広々とした玄関土間に導いた。式台に二十人ほどの女たちが膝を突いて居並び、
「お帰りなさいませ、お嬢さん」
 といっせいに叩頭した。顔を上げて、みんなで私に笑いかける。女中頭のような小作りの美人が、
「お腹すいたでしょう、用意できてますよ」
 と応接セットのある八畳の茶の間を掌で指した。夫婦が式台に上がると、女たちはそれぞれ厨房や自分の部屋へ戻っていった。松葉会の二倍もある広さだ。部屋数は想像もできなかった。カズちゃんは勝手知ったふうに、さっきの小柄の美人に、
「おトキさん、麦茶ちょうだい」
 と言った。女は快い返事をし、半白の髪を掻き揚げると厨房へいった。母親が、
「どやった、飛行機は疲れんかった?」
「だいじょうぶ。プロペラの音がいい子守唄になったわ」
 そう言えば、飛行機の中で二人とも最初から最後まで眠りこけていた。父親が、
「神無月さん、いつも和子がご迷惑かけております」
 夫婦並んで頭を畳につけた。
「とんでもない、百パーセント迷惑をかけているのはぼくのほうで、どれほど感謝しているかわかりません」
 夫婦は顔を上げ、心からホッとしたように大きく笑った。半白髪の美人が麦茶と茶菓子を持ってきた。
「食事の用意はできてますからね。いつでも言ってください」
 と快活に言って、また台所に去った。茶の間から一部屋と幅広の廊下を隔てた厨房に下働きが七、八人いる気配だ。
「さっきいた、ほかの女の人たちは?」
「うちの〈女の子〉」
 意味するところはすぐにわかった。
「キョウちゃん、これがわが家。むだに大きいでしょ。小さいころの遊園地。私のふるさとね。外の環境はあのとおり殺風景だから、この家が私の遊び場だったの。友だちは、さっきの人たち」
 夫婦がにこにこしている。主人が、
「お恥ずかしい話で。商売柄、和子には不便な思いをさせました。その分、やさしい子に育ちましたわ」
「やんちゃなころもありましたけどね、ホホホ」
「おかあさんたちも、お昼まだでしょ。おトキさん、ご飯にして」


         三十四

 賄いの女たちにオーバーとブレザーを剥ぎ取られ、反対の廊下を隔てた座敷へ移る。襖が開け放たれ、前後左右の廊下やいくつかの部屋が見渡された。各部屋二十畳もある空間に、それぞれ和テーブルが二列に五脚ずつつなげてある。食膳がずらりと用意され、壁沿いに布張りのソファも何脚か置いてあった。広縁の外に、屋敷の周囲の草地とちがった、手入れの効いた庭が見えた。どの部屋もまるで旅館の大座敷そのものだった。そこへしずしずと女たちが入ってきた。さっきの顔ぶれだ。私たちににこやかに挨拶する。青森の港の〈刺身〉とは容姿も品もちがう。
 父親に酒とつまみが、母親と私たち二人には膳が用意された。ひやむぎ、サラダ、チャーシュー、鯛の尾の切り身焼き、ごはん、味噌汁、ビールがどんどん運びこまれる。主従とも同じ食事だ。賄いたちは食卓につかない。てんでに乾杯の声や、いただきますの声が上がり、食事になる。
「本格的にご恩返しを始めたみたいね」
 カズちゃんが耳打ちする。箸を取って食べると、どれもこれも、舌がとろけるようにうまい。カズちゃんの料理のルーツがわかった。茶の間と厨房に挟まった帳場部屋にも、座敷にも、おさんどんが控える。少女みたいな女たちからかなりの年増までいる。帳場部屋では、手の空いた賄いたちが順繰り食事をするようだ。東映の時代劇だな、と思った。
「きょうは、お母さんの家にお泊りですか」
「ええ、岩塚の、飛島という建設会社の飯場に」
「たいへんですな。事情は聞いとります」
「えらい不幸な目に遭ったというのに、ピカピカしとりゃあすが」
 父親がワイシャツの上から私の腕をつかみ、
「この腕で十六本もホームランをなあ。太い腕しとる」
 と言った。カズちゃんは笑ってその様子を見ていた。私は父親に語りかけた。
「ざっくばらんに訊きますが、この種の仕事は、ヤクザと関係が深いんですか」
「新しい店のなかにはそういうのもありますが、うちらのように、ヤクザよりも歴史が古い店になると、複数の組にミカジメだけを払って―」
「ミカジメ?」
「はあ、商売をさせてもらう上納金ですわ、そういうのを払って、あとは疎遠にしとる店がほとんどです。まんいち騒ぎが持ち上がったときに取り締まってやる、などとあちらさんは言っとりますが、騒ぎ自体が起こりませんよ。こういう仕事は、正直、素人さんにしてみれば怖いところがあるでしょうな」
「いえ、そんな気持ちで訊いたわけじゃありません。ぼくの親友が松葉会にいて、ひょっとしてその会のことをご存知かなと思って」
「たしか松葉会にも、上納していたような気はするが、ほんとに深い付き合いはないんですよ」
 彼は上着を脱いでくつろいだ。
「将来は、プロ野球のほうにいきゃあすの?」
 母親が尋く。
「はい。一生、カズちゃんのヒモをしてるほうが、ずっとラクなんですが、プロへいく可能性が高いと思います。一つ、難関がありますが」
「何です、それは」
「東大に受かることです」
「東大! またなんで」
「おふくろが、東大信者なんで、そこに受からないと野球をさせてもらえないからです」
「冗談でしょ。それなら、おっしゃるとおり、和子のヒモをしてたほうがずっとラクですよ。生活は永久に保証します」
 夫婦が愉快そうに笑うと、〈女の子〉たちからも明るい笑い声が上がった。
「ワシらの仕事も、考えてみたら、太いヒモみたいなもんですな」
 父親がツルリと顔を撫ぜて言う。座敷から声が飛んでくる。
「ちがいないわよ、旦那さん。ほとんど火鉢の前で、茶を飲んだり、テレビを観たりして一日暮らしてますもん。稼ぐのは私ら」
 また笑い声が上がる。母親が、
「ねえ、神無月さん、プロ野球にいけんようになったら、よかったらこの仕事、引き継ぎませんか」
「ちょっと、退屈すぎるような……」
 一同ドッと笑う。父親も、ふんぞり返って笑った。
「噂にたがわぬお人ですな」 
「和子も、いいお人に見こまれて、よかったがね」
「私が見こんだのよ。飯場の食堂に、スッと立ってたの。空から降ってきたみたいに。初めて見たときのことは一生忘れないわ」
 一時間もかけて食事が終わり、カズちゃんが母親に言った。
「これから、熱田神宮に参拝して、そこから、岩塚の飯場までキョウちゃんを送り届けてくる」
「いっといで。この一週間、ずっと三十五度を超えとるから気ィつけてな。帽子買っていきなさい。あしたは神無月さん、こちらに泊まってくれるんやろ?」
 カズちゃんが、
「駅のそばのホテルに、二人一週間の予約を入れてるの。名鉄グランドホテル、十二階の一号室。用があったらきて。ここから十分もないでしょう。私もちょくちょく顔を出すから。ここに泊まったら、姐(ねえ)さんたちに立ち聞きされて、安心して抱いてもらえないじゃないの」
 またドッと笑い声が上がった。
         †
 名鉄百貨店で日除けの野球帽を買った。タクシーで熱田神宮へ向かう。窓を開けると蒸し暑い空気が入ってきた。金山から熱田にかけて、見慣れた景色に目を凝らす。小山田さんたちと中日球場へいくときに通った道だ。
「北村の連中は大づかみな人たちだけど、キョウちゃんはホッとするでしょう。どうしても会わせたかったの。熊沢さんたちを思い出してくれるかと思って」
「女ばかりの飯場にいる感じだった」
「そう言ってもらえてうれしいわ。キョウちゃんはものごとの本質的に美しいところがすぐわかるのね。私はキョウちゃんに会って、キョウちゃんがなついてる人たちを見て、ようやくわかったのよ」
 神宮前でタクシーを降りて、信号を渡り、粟田電器店の前に二人でたたずんだ。店構えがよほど大きくなっている。あの父親がカウンターで店の外に目を配っていた。カズちゃんが、ふふ、と笑った。
「よっぽど繁盛したのね」
 東門を入る。ホンザンがかよったはずの神宮学院が左手の林の奥に見える。参道の緑が濃い。砂利の上に葉影がくっきり映っている。思い出の中にしか存在しなかった景色が目の前にある。
「牛巻病院を見ておきたいな。きっともう見ることはないと思うから」
「そうね、いってみましょう。私は初めてよ」
 参道を引き返し、バスロータリーの広場から山本法子の小路を見やった。こんなに寂れていたのかと思った。あかずの踏切を渡り、商店の連なる道を歩く。失われた喜びが道の上に残っている。
「この坂を毎日かよったのね……」
 私は駆けだすように坂道を登っていった。カズちゃんも早足でついてきた。坂のいただきから病院の屋上が見えた。三階建ての病院が思い出と同じ場所に立っている。坂を上り下りした運動靴は、いまは革靴に変わっていた。胸が塞がった。
 玄関の前に立った。あのときと同じ桜の古木が立っている。短い石段を上る。ガラス戸を押し開け、玄関框に並べられた緑色のスリッパを履いて受付の前に立つ。ロビーを見回す。外来患者がたむろしている。大きな黒革のベンチ、大窓から射してくる明かり、リノリウムの床板、大時計。なつかしく溶け合っている思い出を、薬品のにおいといっしょに吸った。カズちゃんと空いているベンチに腰を下ろす。彼女は目頭を拭っていた。
 看護婦や医師が通りすぎる。やさしそうな顔、威厳を保とうとする尊大な顔、にこやかな顔、私は彼らの顔を憶えていない。彼らの顔は私の記憶の中では重要でないものとして記憶の彼方に追いやられている。
 廊下を歩いて見舞通用口へいった。姿見の鏡、狭い靴脱ぎ。仲間とラムネを飲んでいる滝澤節子を見上げた場所だ。表にかすかな葉ずれの音が聞こえた。私は薄暗い靴脱ぎにしゃがみこみ、身動きしなかった。カズちゃんが肩口から見下ろしている。ゆっくり立ち上がり、受付まで戻っていく。階段を上った。階段の幅も、手すりも、踊り場も、すべてが一年のあいだに小さく縮んでしまったように感じた。
 大部屋の前で、深く息を吸った。寺田康男の包帯のにおいがする。肩に巻いた彼の腕の感触、三吉一家、マンボズボン……。私は戸の陰に隠れて大部屋の中を覗きこんだ。昼下がりの和やかなひとときだった。リューマチ先生の横顔が目に入った。私はからだを引いた。首から上がするどい感覚器になっている元高校教師は、目の端に一瞬私の影を捉えようとした。私はカズちゃんの手を引き、廊下を戻った。
「つらくなる。かならず会いにくると約束した人だ」
「いかないの?」
「長く不義理をしすぎた。取り返しがつかない。嘘をついたのと同じだ。不義理の説明はしたくないし、したら彼を驚かせる」
 私の心は、とつぜん強烈な郷愁の中に嵌まりこんだ。私の人生のひび割れは、あのなつかしい日々にこの人たちに馴れ親しむことから始まったのだ。カズちゃんと汗ばんだ手を握り合いながら階段を降りた。
 牛巻の坂道を引き返す。
「平畑へいってみよう。これもきっと最後だね」
 神宮前で乗りこんだタクシーにカズちゃんは、
「大瀬子橋から千年小学校へ」
 と告げた。
「鶴田荘は?」
「頭の中だけにとっておきたいの。大切な思い出の場所だから。いまごろ、飯場の人たちはみんな現場に出てるわね。そろそろ地下鉄工事に移るんじゃないかしら」
「飯場だけ見ていく。とってもクマさんたちに会いたいけど、短い時間で会う心準備ができてないんだ」
「会えたら、みんな泣くでしょうね」
 内田橋から宮の渡しを通り、大瀬子橋を渡る。
「加藤雅江の家だ」
 大楠がたちまち過ぎた。
「雅江さん……」
 カズちゃんが呟いた。クマさんの社宅―古ぼけた戸口に生活の気配はなかった。カズちゃんもチラリと見た。杉山薬局。出店だけの大判焼屋。
「ア!」
 西松建設の事務所と飯場は広い空地になっていた。
「飯場がないよ!」
「ほんとだ……」
「一年も経っていないのに……」
 カズちゃんが私の肩を抱いた。
「もとのままでいられるのは、心だけよ」
 二人の大時代な様子に、運転手がバックミラーを見上げた。
 千年小学校の裏門にタクシーがつけた。このまま乗り継ぐと運転手に言い、金網越しに校庭を眺めた。校庭も、背の低いバックネットも、三階建ての校舎も、鉄筋の二階建て校舎も、高橋弓子に告白した渡り廊下もそのままだった。休み時間ではないらしく、下級生らしい子供たちがトレパン姿の教師の笛に合わせて、マットの上で前方回転をしていた。
「東海橋へお願いします」
「大将さんのアパートね」
「うん、あした会えるんだけど、そのアパートも飯場みたいになくなってる気がして。運転手さん、堀酒店の向かいの西松建設の事務所がなくなりましたね」
「はあ、もう二カ月になりますかね。今度は名駅のほうで地下鉄工事らしいね。西松の人たちは、神宮前までよく利用してくれましたよ」
「事務所がどこに移ったか知りませんか」
「さあ、わかりませんねェ」
 東海橋のしだれ柳のそばで降りた。タクシーが戻っていった。私はしばらくのあいだ運河を見つめていた。むかしと同じ光景が別の景色に見えた。陽は当たっているのに、暗くて、重苦しい景色だった。運河を見やりながら、ゆっくり橋を渡り、土手道を下っていった。見覚えのある辻を二つ三つ曲がって、目当ての道に出た。康男のアパートがあったとおぼしい土地が駐車場に変わり、何台も車が停まっていた。
「やっぱり……」
「ここだったの?」
 道路の前後を見渡した。このへんは似たような家並がつづいているので、ひょっとして一本まちがえたのかもしれない。落ち着かない気分になった。足を早め、見覚えのある界隈に出たい一心で裏通りへ入った。アスファルトを敷いた広い通りから海のにおいがにわかに吹きつけた。やっぱりあの場所だった。引き返し、駐車場の前に立つ。私はその狭い空間から目を離さなかった。
「どんなものも、もとのままでいられないのね」
 東海橋のたもとで拾い直したタクシーに、
「中村区、岩塚の飛島建設寮」
 と告げた。
「岩塚ですか、ちょっと不案内ですけど、中村公園あたりから入りこんでみましょう。岩塚近辺は市の外れで、庄内川の堤防沿いなんですよ」
 カズちゃんはいつまでもハンカチで目を拭っていた。
「参拝できなかったね」
「予定が変わっちゃったもの。またいつかくればいいわ。キョウちゃんのことはいつも祈ってるから、だいじょうぶ。あした大将さんに会うのは何時?」
「十二時半」
「じゃ、一時にはチェックインしてるから。ゆっくりしてきてね。十二階、一号室よ。キョウちゃんの予約はちゃんと入れてあるから、フロントを通さないで直接きて」
「わかった」
 いったん名古屋駅に戻り、笹島から左折して、太閤通をひたすら市電道をたどって中村公園に出る。もう一度左折して、さびしい家並を眺めながら庄内川の堤まで真っすぐ走った。飯場の構えのバラックがフロントガラスから見えた。カズちゃんはそこで運転手に車を停めるように言い、私を降ろすと、窓から手を振りながらそのまま引き返していった。

(次へ)