四十二

 ウイロウを夕食のテーブルに差し出すとき、赤井もいた。
「名古屋さいってきたのな。おばさんから話聞いだ。泣がせるでば」
「永遠の別れをしてきました。山田三樹夫と、寺田康男、大切な友人を二人失ってしまった」
「なぐして、また得るのせ」
 サングラスが見えない目を私に当てて言った。奥さんが、
「お母さんは元気でした?」
「ピンピンしてました。この先野球をする場合、彼女が確実にぼくを阻害する意思のあることがわかったので、心の中でスッパリ縁を切りました。彼女が許すのは勉学の道のみです。というより、名門大学に進学することのみです。それ以外の道を認めません。赤井さんのような人が息子だったら、彼女は生涯幸福だったでしょう。ぼくは、日本に同態復讐法があれば、母から何かを奪い取って復讐したいくらいですが、彼女には金のほかにぼくの野球のような愛着物はありません。金を奪い取るという方法を思いつかないので、どうやってみても復讐はかなわない。こういう状況は単なる不幸として、いさぎよくあきらめます。そして、二十歳を待ちます」
 赤井が、
「ドウタイフクシュウ?」
「ものでも命でも、奪われたら奪い返すという習慣です。勉学の道は、親の同意を必要としません。自由な活動です。プロ野球の契約には、未成年や大学生のうちは親の同意が必要です。つまり、彼女と親子関係にあるかぎり、ぼくは大学生二年生までは野球の道に進めないということになります。こうなったら、自分なりの努力を最大限にしようと思います。野球をやりつづけながら、親の同意を必要としない年齢まで待ちます。むろん勉学活動もします」
「つまり、あれだ、こういうことだべ。勉強をしっかりやりながら、野球部の練習もすると。練習までは親がじゃましねがら、一所懸命やって勘をなくさねようにして、成人越えたらプロと契約すると。そのあとは、ワタクタやると」
 赤井の要領いいまとめに私はうなずいた。
「社会人野球でも、プロ野球でも、東大に関係をつけておきさえすれば、母は契約の際に同意するでしょう」
「いがったなあ、神無月くん、こうしてお母さんから離れでいで。ずっとお母さんのそばにいたら、野球の練習もじゃまされていたんでねえの」
 主人の言葉に奥さんは首をひねり、
「スミちゃんも、どうしてそこまで依怙地になってるんでしょうね」
 ミヨちゃんが唇をふるわし、
「神無月さんを自分の持ち物だと思ってるのよ。とにかく好きにしたいのよ。いつなんどき、勝手に名古屋に呼び寄せるか知れたもんじゃないわ。おとうさん、おかあさん、そのときはぜったい反対してね」
 主人はミヨちゃんから目を逸らし、
「そういうわげには……。まあ、そのときはがんばってみるけンどな。そう簡単にいく問題でねんでねがな。親がわが子をそばに置いておきてどいうのは、あたりまえのことだすけな」
 赤井がフンと笑い、
「神無月くんは、厄介者扱いされてんだべ。呼び寄せることはねんでねの」
 奥さんが、
「でも、どう気持ちが変わるか。神無月さんは勉強も優秀だから、青森高校以上の名古屋の名門校に転校させて、東大を目指させるとか……」
「そばに置いてが?」
「下宿なんかさせでよ。とにかぐそばさ置いで監視するのよ」
 サングラスが、
「そごまで考えたら、きりがねべ。何も先のこどは考えねのがいんだ」
「神無月くん、ワみてに、たまには〈息抜ぎ〉しろ。なんもかも忘れでよ」
 ミヨちゃんが真剣な顔でバシッと赤井の肩を叩いた。それでみんな笑い、場の空気が和んだ。
「赤井さん、あなたの息抜きに神無月さんを巻きこまないでくださいよ。まだ十八歳じゃないんですから」
 主人はいま気づいたとでもいうふうに、にやにやしながら、
「ははあ、赤井くんの散歩は浜町のほうが?」
「ま、あなたまで」
 サングラスがガハハと笑い、
「いい若げ者がいぐら息抜ぎしても、なんも悪いこどでねべ。勉強も優秀だんだし。オラも若げころは、大した遊び人で―」
「はい、そこまでにして、ごはんにしましょ」
 それぞれが身に覚えのあることに話題が流れたせいで、私の将来への関心は笑いの中にまぎれた。奥さんとミヨちゃんは笑わなかった。
「トーナメントはどうなったの」
 ミヨちゃんに訊いた。
「一回戦負けでした。三対二。私の小学校時代のスポーツ活動は、これでオワリ。これからは勉強をしたり、おうちのお手伝いをしたりしなくちゃ」
「中学へいったら、どんなスポーツするの」
「やっぱりソフトボール。野球の楽しさがわかってきたから」
「どんなところが楽しい?」
「チームプレイに見えるけど、結局、ピッチャーとバッター二人っきりの対決からすべてが始まって、その二人の力の差が勝ち負けになるところ。ただ、どんなにピッチャーがよくても、打てないチームは勝てないわ。いちばん大事なのはバッターですね」
「つまり、野球は、バッティングにすぐれることが勝ちにつながるということだね」
「そう。だから私、強いバッターになるように練習するつもり」
「よく野球の本質がわかったね。でも野球の楽しさには気づいてない。本質と楽しさはちがう。野球の楽しさは、ピッチャーとバッターの勝負、そのときに生まれる臨機応変の守備や走塁、その総体にあるんだよ。勝ち負けじゃない。いいピッチャーといいバッターが戦ってこそ、守備や走塁が華麗になり、野球が楽しくなる。だからピッチャーはピッチング技術を磨き、バッターはバッティング技術を磨き、その勝負をすばらしい環境で行なわせるために野手は守備技術を磨き、ランナーは走塁技術を磨く。でも、ふつうは、ずっと出ずっぱりのピッチャーに関心がいきがちなので、ピッチャーがいちばん重要だと思ってしまう。ドラフトもピッチャーばかり注目する。ミヨちゃんがバッターの重要さに気づいたのは並の観察力じゃない。そのことがわかっている人は、あまりいない。ピッチャーが敵を零点に抑えたとしても、スクイズでもホームランでもいいから、バッターが一点取ってやらなければ、ぜったい勝てないものね。ただ、プロ野球界だけは、総体的な野球を見せて観客を喜ばせる方向で発展してほしいね」
 主人が感心したふうにうなずいた。赤井が、
「プロスポーツは、企業利益ってのがあって、勝ち負けが眼目になるんでねが? 楽しぐやってられねと思るど」
「楽しくやって勝てば、一石二鳥でしょう。少なくとも選手は楽しんでやるという一石だけを重視しなければ、ファンは楽しくない。楽しくないファンは離れます。企業利益どころじゃなくなる」
         †
 八月五日から八日までの予定で野辺地に帰った。半年のあいだ一本も手紙を出さない不義理をしたあとの帰省だった。それでもじっちゃばっちゃは大喜びした。
「おめの話で持ちきりだ。日本中に知れ渡ったツケ。この新聞さも載ってら。横山のハナちゃんが持ってきでけだ。合船場さも新聞記者がきたんで。ちょこっとオラんどの話聞いて、野中の先生さ話聞ぎにいった。来年は何度もくるとよ」
 ばっちゃが誇らしげに言うと、じっちゃもこれ以上ないほど相好を崩した。
「どたらにいろんなものもらって生まれてきたんだが、おっかねじゃ。かっちゃにも知らせたのな」
「知らせないよ。野球が大嫌いだから。じっちゃ、勉強も青高の一番取ったよ、マグレで」
「マグレだてが!」
 じっちゃは上機嫌に煙管を吹かした。彼らが喜ぶのがとにかくうれしかった。すぐにホタテの刺身と、七輪で焼いた殻焼きが出た。
「うまい! やっと帰ってきたって気になる」
「音、よごさねもな。たまにはハガキぐれ書げじゃ」
「うん。野球と勉強で忙しくてさ」
「三樹夫の葬式、人が集まらねがったツケよ」
 話の途切れに、ばっちゃが唐突に言った。結局のところ、人間はほかの人間に一目逢って、また姿を消すために生まれてくるだけだ―言うのはたやすい。死ぬ者がいて生き残る者がいるのは仕方がない、死んだ者の記憶を励みにして残った者が生きつづければいい。
 そうサングラスは言った。山田の笑顔の記憶に比べれば、神話か百物語のように空しい言葉だ。卒業式のときの曲がり落ちた首筋も、短かった命の顛末も、いつかはみんな忘れられる。私は忘れない。なぜ? 忘れたくないからだ。
「死んだ顔を見るの、いやだったんだ。……帰る都合もつかなかったし」
「仕方ながべ。だれだって、他人の都合に合わせて死ねねんだ」
 しんみりとばっちゃが言う。
「山田くんは、みんなの見舞いをうるさく思ってたんじゃないかな。すごく気を使う人だったし、それでなくても重病だったんだから」
 そんなことを知ったようにしゃべっている私は、実際、山田の何に当たるのだ? 山田にとって何者なのだ? 要するに赤の他人じゃないか。ほんとうに彼の何を知っていたのか。何も知らなかった。秀才で、驚くほど弁が立ち、気の毒なことに白血病だったということのほかには。
 ―神無月くんは驚かね男だ、だからしゃべった。
 耳に残っている山田の低音に、高い調子のばっちゃの声が重なった。
「病院さ見舞いにいったとぎ、おめのことばりしゃべってらった。うだで痩せで、ちゃっこくなってまってよ。……おめの名前で、大っきた花輪コ一つ出しておいた」
 花輪。生き延びた申しわけなさのしるし。
「……あした、山田くんのところへいってくるよ」
「おお、線香上げてこい」
「きょうは、いまから野辺地川に泳ぎにいってくる。そろそろ水が冷たくなるから」
「あっちゃこっちゃ歩がねほうがいいど。やがましすけ。おめは有名だんだ」
「うん、泳いだらすぐ帰る」
 海水浴客で混雑する金沢海岸を嫌って、わざわざ野辺地川の上流を目指した。海を避けたのは、ばっちゃが日除けの頬かむりして、老人仲間と砂利浜に尻を落としながらホタテの紐通しをする姿に出遭いたくないという理由もあった。いまからばっちゃは海浜に出るはずだ。半年ぶりに孫が戻ってきて、彼女はたしかに天にも昇るほどうれしいにちがいないけれども、たとえ三、四日でも、食い扶持が一人増えた暮らしの算段をこまごまと考えなければいけないのだ。清廉な彼女に金を差し出すことはできない。差し出しても受け取らない。
 埃っぽい交差点を抜け、八幡さまの前から左折して坂を下っていくと、見渡すかぎりの稲穂になった。穂を揺らしながら風が渡ってくる。一本の畦道の外れまで歩き、森の中の山路に入る。ひんやりとした湿気に包まれた。蝉が鳴きたてる。木の香りが刺激的だ。水の音がかすかに聞こえる。濶葉樹に覆われた路を歩いているあいだじゅう、その涼しい音が絶えなかった。やがて川が姿を現し、連れだって歩きはじめた。川幅が増していき、ゆるやかに水草をなびかせながら流れていく。路が登りになり、川が離れていった。眼の下に石橋が架かっている。
 私は橋を目指して下っていき、石の河原で素っ裸になった。からだは引き締まって青白かった。縮んで頭だけ覗かせた性器が薄い陰毛のあいだから見える。浅瀬に入る。思ったよりも冷たい。水中の石はたまらなくぬるぬるした。バランスをとるのに苦労する。深みに入り、上流に向かって抜き手を切った。青空が迫ってくる。できるかぎり顔を反らせて空を見上げ、青い色彩に心を染めようとする。
 ―山田三樹夫はもうこの空を見上げられないのだ!
 若い男女のハイカーの一行が土手道から見えた。彼らはみんなで歌いながら歩いてきた。歌声が高くなる。私は彼らの視線を避けるように、大急ぎで葦の群れへ泳いでいった。
「くまさんの、いうことにゃ、スタコラサッサ、お逃げなさい」
 口笛も混じっている。彼らの性欲まみれの喜びが轟きながら飛びかかってきた。そのわざとらしい親和が私をつかみ、浸かっている水をつかみ、岸の草をつかみ、脱ぎっ放しにしてある私の服をつかんだ。
「おい、あれ、服じゃないか」
「だれか泳いでるんでしょう。私たちも泳ごっか」
 私は葦の葉陰で硬直した。
「やめとこうや。まだ先が長いし」
 話しぶりから、都会からきた若いハイカーたちだとわかった。どうせ駅に自家用車でも駐(と)めていて、ここを一歩きしたら、恐山か十和田湖のほうへでも廻っていくのだろう。
 小魚が影のようにからだのまわりをかすめていく。からだが底冷えしはじめた。一行が歌声をこだまさせながら遠ざかり、やがてそれも聞こえなくなった。私は河原に泳ぎ戻り、急いで身支度を整えると、冷えたからだを山気で温め戻しながら家路をたどった。
 蛙が鳴いている。畦道のところどころに積まれた乾草が、午後の陽を受けて黄金色に輝いている。


         四十三 

 帰宅を急がずに、うさぎやのほうから海岸通りへ回った。金沢海岸沿いの道を歩く。天秤を担いだぼてふりが歌うような売り声を上げて通り過ぎる。けいこちゃんと歩いたころよりは、だいぶ町並が変わった。幅の広いアスファルト道が直線に貫き、道の肩に民家が密集している。あのころは、家など数十メートル間隔にポツンポツンとしか建っていなかった。
 道の向こうから見覚えのある顔が近づいてきた。中学生の夏服を着ている。蚊柱が立ちはじめた電信柱の下で、はっきり顔がわかった。
「神無月さん―」
 切れ上がった大きな目が遠慮がちに呼びかけた。
「ああ、山田くんの……」
 山田三樹夫の妹だった。妹はまぶしそうな表情で微笑みかけた。ホタテの直売所へでもいった帰りなのだろう、貝殻を盛ったバケツを提げていた。足を止めた雰囲気から、私と話したいのだとわかった。
「急いでますか」 
「いや、ぜんぜん。ただの散歩ですから。わざわざ応援にきてくれて、ありがとうございました」
「いいえ。秀子さんに誘っていただいて、野中の先生がたも応援にいくとおっしゃるので、付録みたいにくっついていきました」
「あした線香をあげにいくつもりだったんですが、いまからいきます。ちょっと話でもしましょうか」
 私は道をそれ、妹の先に立って渚へ下りていった。浜辺はしんとしていた。干からびた藻のそばにくらげが転がって蒸発している。漁船のタールのにおいと、陽に炙られた砂の熱気にむせる。二人で流木に腰を下ろし、広々とした水平線のほうへ眼を向けた。遠くぼんやりと下北半島の突端が見える。
「ホームラン記録、おめでとうございます」
「ありがとう」
「神無月さんの才能、兄も知らなかったと思います」
「じつはぼく、これしかないんです」
「そんな……。青高は、勉強たいへんですか」
「すごくね、ぼくには」
 人見知りする堅苦しい女だという印象しか残っていなかったので、意外な気がした。
「私、兄さんと同じ野高にいきます」
「そう。しっかり勉強して、死んだ兄さんの分も高校生活を充実させなくちゃ……」
「はい。兄さん、病院でいつも神無月さんのことばかり話してました。あの男は大した人間になるって。一人だけ眼がちがうって」
「眼が? ふうん……誤解でしょうね。きっと情熱的に見えたんでしょう。情熱が眼を作りますから。でも、情熱というのは、山田くんのようなすぐれた人間の心の内にしか芽生えない。ぼくはすぐれた人間じゃない。山田くんの感じた〈眼〉は、彼の希望が錯覚させた眼ですよ。こんなことを言うと、謙虚なやつだと思うかもしれないけど、謙虚というものはすぐれた人間の特徴です。ぼくはちがう。慎み深く見えるのは、何も考えずに、植物みたいにじっとしているからです」
「やっぱり、兄さんの認めた人ですね。言葉の持ってる世界がちがいます」
「―そうですか。どうしても、お兄さんみたいにぼくを褒めたいんですね。じゃ、そうしときましょう。ただ、言っときますが、ぼくは世間で出世しませんよ」
 こんなときにしゃべる言葉ではないだろう。しかし、偽りのない本音だった。一途に褒められて、私は心の中にいつも忍ばせている無条件に人間らしい素直な内省と、それを示す微笑をこめて海を眺めた。蒼い夕暮れが波の上にさびしく拡がりはじめた。
「神無月さん、きれい……」
 妹が鼻にかかった声で言った。川で洗い流したはずの肌に、いつのまにか砂混じりの汗がへばりついている。
「きみの名前は何というんですか」
「一子、数字の一です」
「ふうん、変わった名前だな。妹が一で、兄が三か。意味のないのがいいところだね。いきましょう。お母さんが心配する。あした、線香をあげにいきます」
 妹は、ハイ、と返事をして立ち上がった。私は妹に笑いながら手を振ると、踵を返して合船場へ向かった。
         † 
 じっちゃやばっちゃといっしょにいて、共通の話題は一つもなかった。いや、もの心ついたころからそんなものはなく、ヒエラルキーがあるだけだった。祖父母と孫。彼らの血の末端に存在する私。彼らは絶対的な上位者だった。その伝でいけば、母もそうだった。しかし私は、祖父母には服従するが、母には服従しなかった。だから、祖父母と母は私に対する支配権をめぐって上位者同士永遠に対立するのだ。
「かっちゃ、なんも言ってこねが」
 じっちゃが尋く。
「言ってくる必要なんか感じてないよ。野球なんかバカの遊びだと信じてるから。二年でも三年でも金を送りつづけて、大学に入るまで親の義務を果たすことで頭がいっぱいなんだ。高卒でプロにいこうとしても、ぜったいおふくろは承諾しないだろうから、大学にいくしかない。その大学は中退してプロにいくつもりだけど、世間に名の知れない大学を中退するのでは、これまた承諾しない。たとえその大学を卒業したってプロ入りの同意はしないと思う。世間に出て働けと言うにちがいないんだ。そのときはとっくに成人してるから、とぼけるか逆らうかすれば何とかなるとは思うけど、それもスッタモンダの時間を食いそうで、そのあいだにプロ入りのチャンスを潰されるかもしれない。つまり、最低限の障害でとどめて早くプロになるには、東大へいくことで機嫌をとって、二年生で中退して、渋々プロ入りを認めさせるしかないんだ。考えてみてね、その条件、東大にいかないかぎり野球をやるなという意味と同じだよ」
「鬼だな、スミは。だども、キョウ、なも東大さいがねくたって、高校出て就職して親の養育を離れれば、自力で契約でぎるんだべ」
「理屈ではそのとおりだよ。十八歳は大人だからね。でも、日本の法律が成人と定めてる二十歳になるまでは、親が大反対の横槍を入れた場合は、球団は交渉をゴリ押しできないんだ」
 二人の老人はうなだれた。
「とにかく、いまはその方針だけど、もっともっと有名になれば、高卒だろうと、並の大学だろうと、プロ入りを反対するおふくろのわがままを世論が打ち砕いてくれると思うんだ。来年一年でぼくはもっと全国的に有名になるよう努力する。応援してね」
「あだりめだでば。つれくても、がんばんでェ」
「うん」
 夕食のあとでばっちゃと浜にくだった。マンネリ。まったく気が進まないけれども、野辺地に帰省した以上、しばらくばっちゃの自慢の種を演じなければならない。坂本家、分家の佐藤家、引き返して、田島鉄工、横山家と回る。私はただぼんやりばっちゃの肩口に立って、人びとの賞賛の言葉を聴いている。どの家の者たちもばっちゃと私を玄関から居間へ上げる気配はない。居間の敷居のあたりで社交辞令を投げてよこすだけだ。ばっちゃには、なぜ仲のよかった人たちがそんなふうになってしまったのかわかっていない。彼女の孫は、近隣の人たちには思いがけない分野で有名になってしまったのだ。贔屓筋でもないかぎり、煙たいだけの有名人のために進んで飲み食いさせる人間などいない。勝手に有名になってくれ、俺たちの生活には関わるなということだ。けっして嫉妬ではない。敬遠なのだ。帰り道で私はばっちゃに言った。
「ばっちゃ、自慢する相手がいなくなってさびしいだろうけど、これは、中学校の勉強で一番をとったというのとはちがうんだ。ぼくはもう近所の自慢の種じゃなくて、日本の新聞種なんだよ。よほど好意的な親族か、恋人か、親友にしか愛されない人間になってしまったんだ。いくらばっちゃが謙虚に振舞ってもむだだよ。彼らは手の届かないものには手を伸ばしたくないんだ。そうだな、種畜場なら、いつでもいい時間をすごせるよ。ヒデさんもお母さんも、ぼくのファンだから。奥山先生のところもいいな。ほかの家は、遊びにいっても自慢しないで黙ってれば、むこうから自然と褒めはじめるよ。そんな家にはいかないほうがいい」
「自慢してわげでねたって」
「自慢すればいいんだよ。ばっちゃに自慢されて、ぼくはもっとがんばろうっていう気になるんだから」
 合船場に戻り、じっちゃの軍隊話を彼が眠くなるまで聞いた。机のない、がらんとした部屋の蒲団にもぐり、善司の書棚からアンネの日記という本を引き出して、眠気が襲ってくるまで読んだ。一人のユダヤ人少女の十三歳から十五歳にかけての日記。余儀ない閉所生活で、死の恐怖と戦いながら、読書をし、日記を書き、食べ、排泄し、恋愛もする。
 人はどんな極限状況でも習慣を崩さない。そのことが印象に残ったくらいで、死に対する恐怖のない私は、何の感懐も催さなかった。ガスを吸って死ぬのは苦しかったろう。死そのものよりも、死ぬ過程の苦しさに同情した。山田三樹夫は苦しんで死ななかっただろうか。
         †
 山田医院の玄関のガラス戸に朱色の夕映えが射していた。
「ごめんください」
「はーい」
 一子が玄関に出た。
「あ、神無月さん、いらっしゃい」
「線香をあげにきました」
 母親が奥の部屋から浮かない様子で現れ、廊下の外れの陰々とした六畳間へ案内した。仏壇の白木の位牌の背後に、小さな山田のカラー写真が飾ってあった。眼鏡をかけて眺めた。パジャマ姿がベッドに腰かけて笑っている。首を差し伸べてじっくり見ると、死ぬ直前の病床で撮ったものらしく、卒業式の日に最後に見たときよりも茶色い顔が不気味に腫れ上がっていた。相変わらずやさしい目をして、坊主頭の鉢が大きかった。この笑顔も、すぐれた脳味噌も、もう火に焼かれて消えてしまった。目が熱くなった。背中から母親が言った。
「うまく長生きできたら、やっぱり父さんの跡継いで医者になろうかな、なんてへってらったんですよ」
 むかし酒井頭領の家にいったとき、リサちゃんの妹がやった作法を思い出しながら、香炉に線香を立て、リンを叩き、写真の前に掌を合わせた。写真の表情には、彼と四郎と三人で歩いた日に、雪に照らされて輝いた矜持は見えず、気弱な、他人の愛を強要する甘えのようなものが窺えた。でも私は、彼に対する尊敬の心を失うことはなかった。もっと生きていてほしかったし、生きていればもっと深い友情を結べただろうと思った。そのことを母親に言おうとした。しかし、振り向いて、和まない母親の顔にぶつかったとたん、不思議な反発が湧いてきて、言葉が唇の先で変わった。
「ぼくが山田くんから聞いた話では、彼は医者になりたがっていませんでした。……ぼくは山田くんを、なんだか気の毒に思っていました」
 母親は主張の激しそうなきつい眼差しで私を見ると、
「はあ、どういうことですぺ」
 と、静かに言った。
「お母さんに対する批判じゃありません。……山田くんはひどく変わった人間で、人からどう見られるかなんて、ぜんぜん気にならないようでした。敏感で、察しがよくて、でもそれは自分のためじゃない。どうしても人に気を使ってしまうから、たった一つのことも自分のために言わないんです。なんていうか、生まれつき引いてしまう気持ちがあるというか、それはぼくにとっては強い驚きです。訓練したってできっこありません。だから山田くんの性格はぼくの理想でした。……一度も見舞いにいかなかったのも、彼が病院のベッドでもぼくに気を使う姿を見たくなかったからです。手紙も書きませんでした。手紙を受け取れば、からだに鞭打って返事を書こうとするでしょう。そんなことは彼にとって残り少ない時間のむだです」
 私が話しているあいだ、母親は手の甲をさすりながら、不機嫌そうにあらぬほうを見ていた。スカウトに接したときの私の母の態度だった。
「あんたより、親の私のほうが三樹夫のことはわがってるつもりです。気を配るというよりは、気持ちコのこまい、ふつうのワラシだったんです。卒業試験も、あんなふうにみんなに言われて、立つ瀬がなかったべ」
 やはり恨みに思っていたのだ。
「ほんとに申しわけありませんでした」
「あんたが謝ることはねえのせ。……三樹夫は親孝行でニシ。父さんを尊敬してらった。父さんみてに医者になれたらいいなあってへってらった。……あんたには、いいふりこいて大きく見せてたんだべ。男同士だもの。……あんたが何やさしことしゃべっても、いまさら遅いべおん。三樹夫はとっくに三途の川を渡ってしまって、もうだれの声も届がね」
 彼女は、最初の物静かで知的な印象とちがって、何かの後悔や屈辱を胸の奥に養う性質の人のようだった。私の母によく似ていた。母とライバルだったとばっちゃが言った意味もわかるような気がした。
 たぶん彼女は、いつも山田を自分のそばから離さず、無意識に自分を甘やかすモノローグを果てしなく彼にぶつけてきたのだろう。母子だけの生活の中で、彼女は自分の夢のすべてを息子である山田に託し、彼の出世を夢み、彼がすでに大きくなって、立派な地位に収まっている姿を思い描いただろう。やさしい山田は母の願いに応えようとして、教室ではまじめに聴き、休み時間には遊び、夜は熟睡し、食卓ではよく食べようとしたのだ。いくら自分がそれだけの小心な人間だと示そうとしても、ほかの連中にはわかってもらえなかった。集団の中での〈デキ〉があまりにもちがいすぎていたからだ。山田はけっしていい医者にも、有能な役人にもなれなかっただろう。あんなふうな情熱的な魂の持ち主は、芸術家にでもなるしかなかったのだ。
 そう思うと、いよいよ、その正体を理解されないまま死んでいった山田の身の上が哀れに思われてならなかった。私は畳に視線を落とした。そうして、一時的な反発からつまらない理屈を言ったことを後悔しながら、立ち上がって深く一礼した。
「お気を悪くさせてすみませんでした。折がありましたら、また寄らせていただきます」
 母親はうつむいたまま、形ばかりに頭を下げた。妹が切り揃えた西瓜を盆に載せて入ってきた。私は手ぶりで断ると、玄関に下りた。戸を引いて出るとき、彼女は外までついてきて、
「ありがとうございました。ぜんぶ聞いてました。兄さんは泣きたいほど喜んだろうと思います。ほんとうにありがとうございました」
 と静かな声で言った。私は精いっぱい笑い、同じように静かな声で言った。
「何年後になるかわかりませんが、今度野辺地に帰ってくるときは、たぶん雪の季節だと思います。またそのとき、線香をあげにきます」
「はい、お待ちしてます。野球、がんばってください。いつも応援しています」
「ありがとう。さよなら」
「さようなら」

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