六十四

 マイクが一巡していくうちに、樹木の密集した林道を抜け、今別駅を過ぎ、ふたたび林道を走って三厩(みんまや)という寒村に出た。海が現れた。松岡が叫ぶ。
「三厩湾です!」
 みんなの視線が集中する。西沢が、
「いちいち湾の名前がついてるが、青森市から津軽半島先端までは外ヶ浜と言うんだよ。古来、このあたりは国の辺境とされてたから、外が浜は北海道と並んで流刑の地だった」
 松岡が、
「いまや辺境の地にもアスファルトが敷かれている、したがって俺たちも観光の旅ができる、と」
 頓狂なことを言う。山口が私に、
「野辺地のあたりも流刑地だったんじゃないのか」
 と言って、ニヤリと笑った。すぐに海が隠れ、広大な畑を左右に見渡す一本道になった。単線の線路のように細い道だ。海が隠見し、片側の崖に民家がチラホラ建っている。道肩にかなり深い雪がある。遠くの山並のいただきを新雪が縁どっている。
 海沿いの美しい並木路に出ると、みんながごそごそ弁当を使いはじめた。山口と顔を見合わせる。健児荘の朝めしを完全に消化した胃袋が空腹を訴えている。山口が小声で言う。
「やっぱり関野商店でパンでも買ってくればよかったな」 
「おばさんに弁当を頼めばよかったね」
「弁当は別費ってのがしゃくだ。ああ、腹へった……」
 そう言って山口は、鉄道員を弾きはじめた。
「いい曲だ」
 猛勉がぽつりと言った。あれ以来おばさんは、何ごともなかったように台所で食事の支度をし、適当におさんどんをして、離れへ去っていく。不機嫌でも上機嫌でもない。ふだんとまったく変わらない。丹前を着た亭主も同じだ。彼は学生の前にはほとんど顔を出さず、夜中に食堂でごそごそめしを食っていたりする。
 私は村の景色に目を戻した。ひどく古めかしい面影をとどめているその一帯は、海と畑と遠山の調和がなんとも言いようのないほど美しかった。雪をまだらに載せた畑と海に挟まれたどの一隅にも、都会のにおいが紛れこんできていなかった。
「食べてけんだ。余りものだけんど」
 木谷千佳子がやってきて、恥ずかしそうに山口に新聞紙の包みを差し出した。笑顔のまま私に眼を合わせた。
「ゴッツォ!」
 山口は礼を言って受け取った。
「お、二つ入ってる」
 山口は、仲間の女生徒たちの中へ去っていく木谷の後ろ姿を眺めながら、
「木谷はおまえに食ってほしかったんだよ。目がそう言っていただろ。ああいう目はいいなあ。コンチクショウだけど、一つおこぼれにあずかるぞ」
 大きな握り飯だった。塩鮭が入っていた。
「神無月、これ、一人分の余りものじゃないぜ。女ってのはたしかによく食うんだが、これはでかすぎる。最初から俺たちのために用意してたんだな。ありがたいね」
「どうして弁当を持ってこないってわかったんだろう」
「見回してみろ。食い気と関係なさそうなやつは、俺たちぐらいしかいないだろ」
「しょってるな。カスミでも食うか」
 また西沢が後ろの席から大声で笑った。私は、席についた木谷のボーイッシュな後頭部を見つめながら、その素朴な握り飯の味を噛みしめた。窓の外に寒々とした海。係留されている漁船。切り通しの崖すそに貼りついている貧しげな板小屋仕立ての家。自転車がポツンと置いてあったりするが、大人も子供も見かけない。ゴーストタウンのようにも見える。
 アスファルト道の両側に積雪が目立ちはじめた。車が往来する轍(わだち)の部分だけは雪がなく、乾いている。家々の造りと建材の質が多少いまふうに変わり、建てこみ具合が稠密になった。枯れ草の原にバスが停まった。
「着きました! 龍飛岬です。本州の端っこです。西沢先生からスナック菓子の差し入れがあります。おーい、佐久間、この段ボール箱運んでくれ」
 松岡が立ち上がって言った。目立たないようにいちばん後ろの隅に座っていた佐久間が無愛想にうなずいた。腹に箱を抱えた佐久間につづいて、どすどすとみんなバスから降りた。鈴木睦子は手にポータブルプレーヤーを提げ、眉の濃いギョロ目の女はバレーボールを持っていた。みんな海を見下ろす崖をめざして駆けていった。雪をまだらに残す枯れ草の原に、セーラー服のスカートが揺れる。山口と私も冷たい風を顔に受けながら早足で歩いた。
 岬一面に強い陽射しが降り注ぎ、荒涼とした景色が拡がっている。岩を散りばめた薄茶色の原にはツヤがなく、寒そうに毛羽立っていた。崖に近づくにつれ、低く浮かんでいたトンビが舞い上がり、素早くはばたいてから、なめらかに海のほうへ滑空していった。
 見晴らしのいい岬の突端に立った。出発のときには青く澄みわたっていた空が灰色に変わり、鉛のような雲が低くかかっている。いまにも雨か雪が降り出しそうだ。絶壁のはるか下から遠くぼやけた沖合の水平線まで、雲間から真冬の近いことを知らせる太陽が淡く隈なく照らし、黒灰色の海は見渡すかぎり広がっていた。岬の下の岩の群れに向かって静かな波が打ち寄せている。
 山口と崖沿いの雪の小径を下っていった。切り通しから突き出して宙吊りになっている名の知れない花を見上げながら、なおも下りていくと、大きな岩の隙間をチョークのように白い波が往復していた。
「なんだかよくわからん場所だな。こんなところへくるのは、パーだけじゃないか。神無月は好きなんだろ、こういうとこ」
「まさか。自然の単調なリフレインには永遠を感じない」
「じゃ、何に感じるんだ」
「静止しているものか、急激な変化だ。たとえば樹、星空、道、花火、不機嫌……」
「最後のやつは、無理やりだな。生臭い。人間、でいいんじゃないか」
 崖の上に戻ると、白ブナの密集した林が枯草の向こうに迫っていた。西沢が一人林に向かって草はらの中央に立ち、両手を広げて深呼吸している。彼が片肺しかないことを思い出した。山口が私の心を察したように呟いた。
「猛勉の義侠的精神も、案外、肺が一個しかないことと関係があるのかもしれないな」
「長生きを予測してないってこと?」
「ああ、麗わしきエゴだ」
 山口は西沢に背を向けると、小石を拾い上げ、断崖の空へ放った。私は西沢を見つめたまま、背後に海を意識しながら、風と波の音を感じて立っていた。出会って、知り、別れる。愛さないかぎり、それしかない。
 山口といっしょにブナの林へ入っていった。風のない暖かい空気に包まれた。雪を踏んで短い林を抜け、切り株の畑に出た。畑の端までくると、澄みきった小川が速く流れていた。幅の狭い、深い流れだった。湿った岸辺に沿って、足をとられないよう慎重に歩いていく。流れのゆるやかなところで小川を渡り、細い坂を上っていった。別の畑の柵にぶつかった。柵をくぐり畦道に入る。牧場らしい窪地に建っている大きな納屋が見えた。その先にはアスファルトの道路が走っていて、密生した森が道路の向こう側に広がっていた。
「ここで行き止まりだ。前も後ろも、ほんとに何もないところだな。引き返そう」
 足もとに泉が湧いている。私はしゃがんで泉の底を見つめた。山口もしゃがんだ。もこもこと水が隆起するたびに、砂が吹き上がってくる。透明な湧き水は小川をめざして砂礫の上を流れていた。涙の核、という言葉が浮かんだ。
 岬へ戻っていくと、歓声に混じってボールの弾む音が聞こえてきた。西沢が両脚を大きく拡げたおどけた格好で跳び上がりながら、自分に回ってくるボールを突いていた。運転手も仲間に加わっている。
「どれどれ、俺もからだを暖めてくるか」
 山口は小走りにバレーボールの輪に入っていった。
 枯草と林の境にある小岩に腰を下ろした。ときどき強い風が吹いて、冷えびえとした潮の香を連れてきた。マツムシソウに似た草の花が、地面すれすれにヒュウと吹く風に健気に靡いた。ブナの葉がいっせいに揺れ動きながらざわめいた。冷たい風の中でわけもなく首筋に戦慄が走り、涙が流れた。涙は止まりそうもなかった。
 いつのまにかバレーボールは終わっていた。聞き慣れたフォークダンスの音楽が風の音の切れ間をやってくる。学生帽や、坊主頭や、お下げ髪が不器用に輪をめぐっている。醜くもなく、厚かましくもなく、そして妙に自分の様子を気にしている生徒たちが、ぎこちなく手を握り合ったり、手のひらを打ち合わせたりしている。涙が止まらない。涙に揺れる景色の中で、女たちのスカートが風に激しくはためいた。女たちはまくれ上がったスカートを懸命に押さえた。小田切がしきりにカメラのシャッターを切っている。西沢もごついカメラでパチパチやっている。
 仲間に加わらずに、平たい岩にもたれている古山の姿が目に入った。岩の上に佐久間が寝そべっている。古山は風に逆らって文庫本のページをめくっていた。そしてときどき本を下ろし、中空を見つめていた。いつもの笑いはその顔から消えていた。私は涙を拭って微笑んだ。途中で輪を抜けて戻ってきた山口が、私の視線の先を確かめて言った。
「古山の下手な鉄砲は、撃っても、撃っても中(あた)らん。梅津だろ(媚びのある女だ)、花田だろ(太眉のギョロ目)、それから木谷もだ。鈴木は勉強のライバルだし、それでなくてもあの味噌っ歯じゃ、さすがに撃つ気にはならないんだろう。柄にもなく詩人気取りでな、手紙にかならず詩を入れるそうだ」
「だれがそんなことを言うんだ?」
「梅津だ。みんなにしゃべりまくってる。彼女の話だと、手紙自体は噴飯ものだが、詩のほうは西脇順三郎ばりで、けっこういけるとよ」
 フォークダンスの輪の中に、めぐってくる男たちに媚びを振りまきながら踊っている女生徒が見えた。媚態が仮面だとすぐわかった。警戒心がからだ全体にみなぎっていて、熱くもない湯から手を引っこめるような怯懦が仮面の下に隠れていた。
「あの女だな」
 私が指を差すと、山口は、ああ、と答えた。私は言った。
「あの女は、世間体を整えた男が現れるまでは、どんな男にでもいい顔をしつづけるだろうね。将来性のない高校生や大学生には振り向きもしない。恋愛もしない。結婚相手は近所の伊藤さんでも吉田さんでもいいけど、職業は医者か弁護士だな。いや、事業家か政治家か役人かもしれない」
「なるほど、しかし、女はだいだいそういうものじゃないのか」
 私は舌打ちした。山口に対してではなかった。
「男だって、ほとんどそうだ。安定した権力志向にまみれた他人。そんな恐ろしい他人に恋心を打ち明けるなんてことは、討ち死にする勇気がなければできないことだよ」
 古山は相変わらず宙を見つめながら、あたりにさびしげな空気を拡げていた。
「英語野郎は見どころある男ってことか―」
「うん、正直な男だってことさ。正直なんてものは哀れな美徳にすぎないけど、少なくとも討ち死にという冒険を経験できる。写真を切り刻んで冒険を回避するような女々しい男とは人間のスケールがちがう。古山はぼくのおやつのパンと貝柱を食いまくったけどね」
 山口は腹の底から笑いを吐き出した。
 フォークダンスが終わると、女たちは申し合わせてバスケットから手製のクッキーを取り出し、表情たっぷりに男どもに配りはじめた。木谷が近づいてきた。ショールに頬を包んでいる。
「いらねが?」
 白い顔を寒風に染めた木谷は、私と山口にハート型のクッキーをごっそり手づかみで差し出した。山口はヤニさがりながらそれを受け取った。この白い顔に見覚えがある。便所の笛。内田由紀子―足の速い内田由紀子。気づいたとたん、私の心は打ち解け、郷愁に満たされた。
「キャ!」
 強い風がきて、木谷はとっさにスカートを押さえた。押さえた点を中心にスカートがはたはたと巻き上がった。形のいい二本の太腿が目を射った。郷愁の女はスカートを押さえながら、すっかりどぎまぎして、顔をますますまだらに染めた。
「やあ、くるぞ、これは」
 山口が空を見上げた。とつぜんあたりが濃い灰色に閉ざされ、風よりも冷たい大粒の雨が落ちてきた。古山と佐久間が一目散にバスに向かって駆けていく。
「戻れ!」
 西沢の号令がかかった。私は、林に夕暮れの雨が斜めに落ちているのを、名残惜しく目に納めた。
         †
 帰宅すると、玄関でおばさんが、半月早い現金封筒を手渡した。それを見て山口は舌打ちしながら部屋に引っこんだ。母の送金を気持ちの悪いものに感じたのだろう。
 ―不良息子を見捨てないケナゲな母親てか? いい気なもんだ。
 そんなふうに感じたにちがいない。その場で開封すると、おそらく冬支度の足しにしろという意味なのだろう、いつもより一万円余分に入っていた。恐怖の便箋は同封されていなかった。
「きょうはお昼どうしました?」
「クラスメートがおにぎりを差し入れてくれました」
「ごめんなさいね。日曜日に学校の行事があるなんて思わなくて」
 部屋代を渡そうとすると、
「きちんと月末にいただきます」
 と言って食堂へ戻っていった。
 ばっちゃからの荷物が部屋の前の廊下に置いてあった。乾物や下着類を詰めた箱の中にばっちゃの手紙はなく、じっちゃのくずし文字の短いメモが入っていた。

 前省。婆は相変わらず健康なり。爺は先日郵便局の帰りに転んで腰を打ち、この数日寝込んでおったが、漸次快復せり。勉学精励のこと。油断すべからず。草々。

 老人が腰を痛めるといずれ長患いする、といつか坂本の女房が言っていたことを思い出し、チラと不安がよぎった。


         六十五

 十五日の水曜日に、修学旅行で留守をしている二年生の二階教室を使って、年に一度の実力試験が行なわれた。数学を除いて上出来だった。
 十二月十八日土曜日。雪。日中も零下一度。下旬からという天気予報がはずれて、この一週間ずっと雪が小止みなく降りつづいている。積もるほどではないけれども、雪掻きをした雪がどの家の玄関前にもコンモリと積んである。
 幼稚園で忙しくしているカズちゃんとはしばらく逢っていない。葛西家の二人も、おばさんも訪ねてこない。山口とは、ときどき彼の部屋でコーヒーを飲んだり、雪に傘差して長靴を履いて散歩したりする。規律正しい生活だ。小学校のころの清新な気分に戻った気がする。
 今朝七時に、カズちゃんから電話があった。玄関部屋の山口が取り次いだ。
「ありがとう。へんな仕事引き受けちゃってるな」
「玄関住人なんだから電話番ぐらいしてやらないとな。せいぜい二、三件だし」
 と笑った。
「お正月は、山口さんも連れてきて」
「うん! 雑煮が楽しみだ」
「オセチも期待して」
 それだけの電話だった。脇に立っていた山口に伝えた。
「ほんとか! イソベを五個は食うぞ」
「ぼくは雑煮だ。好物なんだ」
「俺のおふくろの雑煮は絶品だぞ。しかし食うチャンスがないな」
「ないね」
 玄関から外を眺めた。細かい雪が降りつづいている。亭主がおばさんといっしょに、昨夜積もった分の雪を掻いていた。亭主はこちらの顔も見ずに頭だけ下げる。おばさんは、
「あしたから年末まで、四時のおやつに、アパートのみんなにキツネうどん作りますから、学校から帰ったら食べにきてくださいね。夕食は六時半からです」
 と笑顔を向けた。山口とうなずき合い、たがいの部屋に戻って登校の準備にかかった。朝めしを食って、八時に登校。この時期三年生がほとんど出てきていないので、廊下の風通しがいい。ホームルームまで講堂でランニング。ほとんどのクラブ活動が休止しているせいで、ガラガラ。放課後、健児荘に戻って、キツネうどん。裏庭で素振り。晩めし。授業の復習。十二時就寝。
         †
 十九日の日曜日から冬休みに入った。その日に自由参加の東奥日報模試があった。もうこういう試験に参加するのはやめようと思っていたのに、英語と国語だけ受けた。案の定ボロボロのできだった。この時期の高三対象の模試には太刀打ちできない。
         †
 二十六日に東奥日報模試の成績表の返却があり、各科目と総合得点の県下の五十傑までの順位が玄関廊下にも貼り出された。どの紙にも数人から十数人しか載っていなかった。
「どうした、英・国、五十番にも載ってなかったな。俺は地理だけ受けて五百番にも入らなかったけどな」
 ギターを弾きながら、山口が心配顔で訊く。
「どちらも二、三百番台だった。……受験レベルの模試になる時期だからね、高一の力じゃおぼつかない。マグレは利かない。あと二年、必死でやらないとね。敵は東大だから」
「つくづく、厄介な荷を背負っちゃったなあ」
「ああ、気が遠くなるよ。いくら勉強をしてもこれだもの」
「冬期講習出るんだろ」
「出る。あしたの二十七日から二十九日、一月の五日から七日だったね。数Tと英文法と古典文法に出る」
「俺は数Tと現国と地理だ」
 私は自分の器を知っている。競争のための勉強はするけれども、勉強しようとする自分の忍耐力は軽蔑する。そういう器の窓から外を覗くと、仲間のだれもかれもが才知と持久力にあふれた才人に見え、豊かな未来を約束されているように思われる。そのくせ私はどこかで、自分を卑下する心のありようを肯定している。仲間たちの能力に驚くことはあっても、彼らのような能力を持ちたいとは思わない。
 北国に流れ着き、野球に入れこんでからは、奇妙に達観しながら彼らの勤勉を横目で窺ってきた。彼らの努力には、学生らしい生活の素朴な必然があったし、正しい目標があった。しかし私には、本を読み、詩を書くことさえ、素朴な必然ではなかった。私は、木の葉が揺れたり、頬を風が撫ぜて過ぎたり、道をいく人びとが一人ひとり生きていると感じたりするとき、肌が粟立って感動する自分をときどき大した詩人だと思ったけれども、そんなことにしか感覚の動かないノータリンだとも見なしていた。
 そんなわけで、成績の下降はたぶん、頭の悪さに見合った簡単な比例法則のようなもので、勉強量を増やせば回復できると高をくくれるものではないと確信していた。しかしそんな確信をして自得などしている余裕はないのだった。東大が遠のくということは、野球が遠のくということにほかならない。母の危惧に倍する危惧を私は背負っている。いつもの堂々巡りの考えがやってくる。
 ―母は私が東大以外の大学にいくことは、不満に苛まれながらでも結局は許すだろう。私の能力の問題なのだから、許さないわけにはいかない。しかしそうなったら、野球をすることはけっして許さないだろう。二流三流の大学に属したにせよ、学生の〈本分〉を尽くして学問し、卒業後の社会的地位を向上させるように生きることを願うからだ。野球は学生の本分ではないし、成功失敗に関わらず社会的地位は劣等だ。そんなことをするなどもってのほか。
 考えるのが面倒くさいし、考えているうちに恐怖のどん底に落ちる。東大にいくしかないのだ。東大にいきさえすれば、何かの僥倖が起きる。しかし、なぜ東大に? いまさらながら、深い疑問が湧いてくる。
 ―おめの頭ならアガモンさもいげるこった。
 ―自分がいきたいだけだろう。
 じっちゃとテルヨシの言葉が浮かんだ。それはちがう。けっしてそうじゃない。
「親と縁を切る法的な手段て、ないものかな」
「……ない。法的に戸籍上の親子の縁を切る方法はない。対処法はある。この数年、引越しやら転校やら、何やかやで振り回され、つくづく家族と縁を切って独りになりたいと思ったことがあってな、図書館にこもっていろいろその種の本を読み漁った。長い話になるが参考に聞いてくれ。おまえの場合、いくつになっても親が干渉してくる、支配的な態度をとってくるということだろ。子供というのは独自にちゃんと社会生活を送ってる。人生というのはどんなことでも自分で決めて進むことに意義があるし、そこに子供のオリジナルな人生が広がっていきもするんだ。親自身、自分の意思に従って生きてるのに、子供が自由に生きることを否定するというのなら、もうそれは〈親心〉という正常な感情とは言えない。縁を切りたくなるはずだ。しかし、成人しようと、だれかの養子に入ろうと、分籍しようと、法的な手続で親子関係を解消することはできないんだ。しかし〈事実上〉縁を切ることはできる。法的に〈義務がない〉とされてることを実行することなんだ。ただし成人した場合しか実行できないことになってる。残念だが二十歳までだめだ。一つ、親との同居義務はない、二つ、親に会わなければならない義務はない、三つ、仲良くする義務も感謝する義務もない、四つ、親の言うことを聞かなければいけない義務はない。この四つだ。……親を否定する一方で、心のどこかで親の言うことを聞かなければいけないと思ってないか? しかし成人したら、親の言いなりになる必要はないんだ。経済的援助を断る個ともできる。親だから尊重し、大切にすべきだという考え方は、立派だし、常識にも叶ってる。ただその常識は、親も常識的な場合に用いるべきものだ。親が常識を破った接し方をしてくるなら、子供だけが譲歩する必要はない。しかし、いま言ったことは、すべて成人してからじゃないと、おおっぴらには行動に移せないんだよ」
「……二十歳までは親の言いなりってことだね」
「そうだ。反抗すれば島流しを喰らう」
「野球をしてるのがバレれば」
「島流しを喰らう」
「恐ろしいね」
「恐ろしい」
「二十歳まで、こっそり野球をやるしかないんだね。東大にいけば、たぶんエリートのクラブ活動として看過するだろうから、一年でも多く野球をつづけて、一年でも早くプロ野球にいくためには、東大に受かるしかないね」
「悲愴だが、そういうことになる。まず、青高で野球をやるにも細心の注意が要る。プロ野球にいくつもりはないと常に言いつづけなければいけない。そうしないと、いまみたいな超人的活躍をしていれば、プロに食指を動かされて、全国的な話題として盛り上がってしまう」
「全力で野球をやっていてもかまわないんだね」
「プロ志望がないと打ち出してればな。プロ球団が動かないから、マスコミも動きようがない。中央の新聞にはコラム欄に書かれるくらいですむだろう」
「よくわかった。……ぼくは小五からこのかた、マグレを起こしながら勉強をつづけてきた。ボールのコースを見定めるのと同じように、勉強に集中することで勘が働く。むだだと判断したことは蓄積しようとしない。東大合格はその勘に賭けてる。今回の模試の成績が悪かったのは、集中を怠っただけだ。引越し以来いろいろ忙しかったからね。ぼくの頭の悪さを補ってきたのは集中力だけだったから、それを取り戻せば成績は上がる」
「そういうことを言いたい気分なんだな。少し、散歩でもするか」
「うん……」
 二人で下駄を履いて表に出た。星のない夜空が深い。青高の裏門から駒込川沿いに出て、ぽつりぽつり路灯の点っている土手道を歩いた。夜の川は泡を浮かべながら冷えびえと流れていた。丈高い草が流れのままになぎ倒され、揃って河口のほうへなびいている。岸の途中に石段があって水辺まで下りていける場所があった。下りていって草の斜面に腰を下ろした。水音のする川面を近くから眺めた。
「忙しくても詩はきちんと書いていたということだな」
「ときどきね。センチメンタルな駄作ばかりだ」
「またそれか。評論を読みすぎて、詩というものに失望したんじゃないのか? せっせと買いこんでたろ。騙されちまったな。教室でも、本を読んでる姿をあまり見かけなくなった……。それって、ただの間抜けじゃないか。体のいい詐欺セールスに遭ったようなもんだ」
「詩には失望していない。詩人という集団に失望した。詩人は生まれながらに〈ある〉んじゃなくて、学習の不気味な階段を登って〈なる〉ものだとわかって、未来の展望を失った。そんなあたりまえのことに気づいてガッカリした―アホだ」
 山口はよく私の本棚の詩集を借りていって、熟読し、その多くに冴えた評価を下してみせた。それは的確だった。世間の話をするとなると無理やりの毒舌を吐く彼も、芸術に対する感覚は鋭く、ほんとうのものや、すぐれたものに対する判断に狂いがなかった。詩は最高の表現形式だ、と彼は言った。そして、まだ読んだこともない私の詩に、彼なりに意味づけし、共鳴しようとした。
「すぐれた詩は、ひたすら芸術であって、学問じゃないぞ」
「学問は、詐欺セールスか」
「ああ、詐欺を働くのは学者だ。さもなければ学者詩人だ。芸術家は詐欺を働かない。詐欺集団からは常に落ちこぼれてる」
「くどいけど、詩に失望なんかしていない。詩を学究的に極めようとする学術を煩わしく感じるだけだ。ぼくは、学術的でない、つまり学究的に研究されることのない下手くそなものしか書けないけど、詩を書くことは生甲斐でさえあるんだ。ただぼくには、山口のような芸術に対する鑑識眼がないし、寸鉄の人にもなれない。野球以外は何をやっても一人前になれない。小さいころからとっくに落ちこぼれてたんだよ」
「おまえというやつは! いらいらするな。それでいいんだ! 俺は落ちこぼれじゃないと芸術家じゃないと言ってるんだ。才能以外の勲章はいらない。ほんものの芸術家は〈ただ〉の落ちこぼれでいい。本来的に人間として落ちこぼれてはいないんだが、それはわかりきってることだから措いておこう。どうのこうの言ってもおまえは、野球は一番だからな。〈ただ〉の落ちこぼれじゃない。いずれ野球の才能を極めて落ち着けば〈ただ〉の落ちこぼれになるだろう。だからいまはきちんと詩を書き貯めて、きちんと詐欺集団から落ちこぼれていればいいんだ。何も詐欺集団に属せないことに絶望する必要はない」
 山口の言いたいことはよくわかった。彼は友に人間的な箔を求めているのだった。
「でも、詐欺集団に属さなければ、作品の発表が……」
「その集団の中で発表できなければ、人生の落ちこぼれか? 科学的精神がたどり着いた最後の安息の信条だな。そういう自己放棄というのは、だれの胸にもストンと入りやすいもんだ。しかしな、そういう考えは、一般の人間の信頼する休息の思想というやつで、死が必然であるのと同じくらい頼りになる考え方なんだ。ほんものの詩人は、そんな安息の思想は偽りの御託だと断定しなくちゃいけない。そのうえで、数多い一般のためではなく、数少ない真の人間のために活動するんだ。じゃないと、真の少数を啓発しないまま、偽りの多数の通念に巻きこまれ、絶望して死ななくちゃいけないことになるぞ。……いいかげんに、おまえの詩を一つだけ聴かせろ。俺の直観を確かめさせろよ」
「……聴くに値するものかどうか。いちばん新しいものなら暗誦できる」
「ああ、聴かせてくれ」


         六十六

 山口は膝に両手を置き、構えるようにうなだれた。私は、数日前に書いたばかりの詩を暗誦した。

  もっといい子でいられたろうに!
  すなおに背骨をただし 野心もなく
  いまでは緘黙(かんもく)の腐った水だ
  その澱んだ水の上を
  さまざまな人びとの哀歌や情熱歌が
  楚々と運ばれていくばかりだ
  この景観を どの瞳に納めて
  ぼくは祈ろうというのか?

  あせを ひとよ
  そんなさびしい寝顔をやめて
  もう ぼくは唄わない
  ぼくは 見つめる人になるだろう
  埴生の庭のみどりはわらい
  青空をよるべと 花を落とした葉は揺れ
  この日 高とぶ鳥もはるけく
  空は澄みわたっている

   私はあなたを信じています
   心をもとめる心は
   愛ののぼりをかかげたのです
   私は あの夜のしとねから
   とりとめて たづきもなく
   ものうい記憶の迷路を脱けはじめました
   恋に牽かれたしこめが
   涸川(ワジ)に似た愛を唄うように

  いまぼくは さめた頬をして
  木々の戦ぎを青い眼で迎えられる
  再生したぼくは
  うすみどりの大気と蒼い埃から成り
  微風にもおぼつかないでいる
  ぼくも あなたの歌を信じている


 山口はごろりと草に仰向いた。涙で頬が光っていた。
「……しばらく泣かせてくれ」
 私も草に寝転んだ。山口の涙はヨードチンキように私の心に沁みた。世界が新しい彩りに燃え上がった。
 やがて山口はボソボソ言いはじめた。
「一生の仕事になるな。神無月、おまえはこれからも何も言わずに、ただ生きていればいい。おまえが生きていることが、そのまま、詩だ」
 山口は藍色の空をしばらく見つめてから、手のひらで頬を拭って立ち上がった。
「あなたの歌を信じるか……すばらしい。女神に贈る願いの詩だな。いこう。おまえは人のいかないところへ向かってる。もう、詩を見せろなんて言わない。見せたいときに見せればいい」
「ありがとう」
「礼は自分に言え。馬鹿やろう……」
 小さな声で言った。
「意味もなく悩むのは、おまえの宿命みたいだな。病気かもしれないな。おまえを悩ましたり苦しめたりする考えは、ときどき強くなったり、弱くなったりするんだろうが、おまえから離れることはないんだ。せっかく宿命としていただいたものに、夾雑物を交えないほうがいい。読書やそれから引き起こされる思索は、たしかに励みになるとは思うが、読めば読むほど、考えれば考えるほど、ますます自分の追求している目的から遠ざかる」
「どういうこと?」
「他人の経験や思索の跡をたどる努力をするより、自分のそれをたどる努力をしたほうがいいってことだよ。〈自分〉から遠ざからないためにな。自分で〈ある〉ことが人生の目的だろう? ……ショーペンハウエルをすばらしいと言ってたな。そいつはプラトンとかカントとかスピノザの仲間で、非唯物論な哲学者だから、たしかに読み応えはあるだろう。しかし、おまえの現実の苦悩の救いにはならなかったはずだ。やつらのあいまいな言葉の定義で理解する何ごとかよりも、実際の人生のほうが、人工的な理性以上に重要だし、温かみがあるし、複雑だからだよ」
「たしかにそうだね。でも、愛を感じたな」
「それは、やつらの自分に対する愛だよ。哲学者が他人を愛して、自己を滅ぼしたって話は聞いたことがない。学者の書く本は学者肌の人間の宝石で、芸術家にとっては一文の値打ちもない」
 二人、とっぷり暮れた土手道を引き返した。遠く八甲田の連峰が希望の峰のように白く浮き上がって見えた。
「……クラスの連中の名前は覚えたか?」
「何人かはね」
「女は?」
「うん、やっぱり何人か。木谷、鈴木、梅津……。藤田が福島って女に振られたことは古山から聞いたけど、円卓で見たはずなのに顔は覚えられない。なぜか木谷の顔は隅々までしっかり記憶できる。男は気に入った女の顔しか記憶できないんじゃないのかな。男のメカニズム」
「それもまた極端な話だ。たった九人しかいないのに……」
「山口は、人を憎いと思ったことはない?」
「ない……な。煩わしいと思ったことはあるが」
「じゃ、人のことを思って、幸せを感じたことは」
「幸せ、か。よくわからんな。幸せなんて、網で引っぱった水みたいなもんで、引っぱれば一瞬ふくれあがるけど、たぐり寄せてみると何もない―。カタラーエフがピエールにそう言ったんだった。幸せなんて幻だとね。トルストイの戦争と平和だ」
「何に書いてあったか知らないけど、そんな比喩で人間の感情はくくれないよ。幸せというのはまちがいなくある。それは、だれにもじゃまをされずに思いを遂げることさ。引っぱり上げて、何もなくてもいいんだ」
 私は宙に向かって〈北村和子〉と唇だけで唱えた。その実体のない名前は、幸福という名で何百回も予感され、たぶん声に出しても何十回もつぶやいたものだったけれども、呼びかける歓びをからだに感じたのは初めてだった。目が潤んできた。山口は立ち止まって私の顔を覗きこんだ。
「女神はおまえの幸福という〈悪〉の元凶だな。おまえは幸福を身に合わない贅沢品と思ってる男だからな。ある意味、重荷だろう」
「そうかもしれない。ぼくは幸福に慣れてない。いつも分不相応なものを感じてる。でもぼくは、それをありがたくいただいて幸福になるつもりだし、彼女に向けて感謝を捧げるつもりだ」
「……わかったわかった。しかし、そんなに一途にならずに、もっと気持ちをクールダウンしたほうがいい。神経がくたびれちまうぞ」
 山口も私に感染して、目を潤ませた。
 そんなことがあってからは、山口がそばにいると、どうしてこんなにと思うほど、明るい気分になってくるのだった。そのせいで、私は何も考えずにランニングや素振りにも勉強にも励むことができるようになったし、読書や詩作の精力も回復させていった。山口は寺田康男とまったく同じように急速に私に近づいてきて、私の心に棲みついたのだった。
         † 
 二十七日月曜日。雪のち晴。気温マイナス二・五度。九時からの講習に出る。教室をたがえてさまざまな科目が四コマ組まれている。一時間授業。四コマ組み合わせて取っても二時には終わることになっている。山口も私も二時終了だ。
 私は九時から山口といっしょに数T、一コマ空いて、十一時二十分から英文法、四十分の昼休みを挟んで、一時から古典文法。二時過ぎに山口といっしょに帰って、学生服のまますぐ復習。三科目でだいたい一時間半。
 ジャージに着替え、雪の裏庭に出て裸足でバットを振っていると、山口が誘いにきたので足を洗って食堂へいった。おやつのキツネうどん。これが意外にうまくて毎日の楽しみになっている。
「このごろパンツ一丁はやめたのか」
「ユニフォームの抵抗を忘れないようにね」
 五、六人集まっていた。みんないつものように私と視線を合わせないようにしている。ものを言えばおかしなことを言うし、シーズンオフの野球バカに話しかける話題などないと考えればあたりまえのことだ。
「相変わらずうまい!」
 山口が褒めると、おばさんは身をくねらせるようにして喜んだ。お替りをするよう強要された。二人でお替りをした。ほかの連中は、寡黙を通していた。
 山口の部屋でコーヒーを飲む。
「おまえは、一般のやつらには居心地の悪い男なんだな。気の毒だ。気にするんじゃないぞ。畏怖は悪意じゃないからな」
「こういうのがスターなら、けっこう暮らしやすいな。プロでもやっていけそうだ」
「いや、プロとなったらこうはいかない。匿名のやつらが安心して群がってくる」
 少女の訪(おとな)いの声に山口といっしょに出た。ミヨちゃんだった。
「どうしたの、ミヨちゃん! とつぜんだね」
 ミヨちゃんは深々と頭を下げた。ウールの格子縞のシャツの上に白いセーターと紺色のオーバーを着こみ、灰色のスラックスを穿いていた。清楚な身なりだ。雪まみれの赤い長靴も愛らしい。カールした髪を垂らした白い顔が妖しく輝いている。山口もしばらくぽかんとしていた。大きな紙袋を差し出し、
「母からです。南部煎餅と干柿。お二人でどうぞ。津軽漬は管理人の方にあげてくださいとのことでした」
「ありがとう」
 山口が、
「同席していいかな?」
「もちろん。ぜひそうしてください」
 山口は満足そうに笑い、
「じゃ、俺、コーヒーいれていくから」
「うん。まず津軽漬を届けてから部屋に戻るよ」
 ミヨちゃんといっしょに食堂の勝手口から管理人夫婦の離れへいく。玄関で丁寧な挨拶を交わす。おばさんは、先回会っていなかったミヨちゃんの顔をじっと見つめながら、丁寧に頭を下げて津軽漬を受け取った。
「母ともども、お世話をおかけしています」
 ミヨちゃんの言葉におばさんは意味深長な笑い方をし、ちらりと横目で私を見た。亭主は出てこなかった。
 部屋に入ると、きょうのミヨちゃんは私の生活環境に対する観察気分が横溢していているようで、まず机の周囲を見回し、りんご箱の本立てを見つめ、折り畳んだ万年布団を見つめ、それからガラス窓の向こうの八甲田山を眺めた。
「クルミの机、大きなスタンド、山の眺め……郷さんにぴったり」
 スラックスの尻が大きく、どうしても小学六年生に見えない。
「暖房がないんで、少し冷えると思うけど、適当に坐って」
「はい」
 横坐りになった。山口が小さな盆に載せてコーヒーを運んできた。
「うまいですよ。飲んでください」
 いつもと変わらない濃厚な味だった。ミヨちゃんは、おいしい、と素直に声に出した。山口はうれしそうにうなずき、
「神無月は無愛想な男でしょ。これで喜んでるんですよ。ギターでもお聴かせしましょうか?」
「わあ、うれしいです。ぜひ聴かせてください」
「じゃ持ってくるか」
 山口が去ったとたんに、ミヨちゃんは私に抱きついてキスをした。舌で舌を探る。すぐに離れ、
「赤井さんは、神無月さんを学校の廊下で何回か見たけど、声をかけられない雰囲気だったって言ってました。何か考えこんでるみたいだったって」
「そう見える顔のようだね。カラッポなのに」
「入るぞォ」
 山口が戸を開けた。手にギターを提げている。ミヨちゃんがにっこり笑った。
「山口、グルックの精霊の踊り、頼む」
「オッケー」
 山口の指が動きだすと、たちまち世界が自然界のものとはちがった静謐に満たされ、人間の静かな魂以外のものが存在しなくなった。ミヨちゃんの目が潤みはじめる。たぶん彼女が初めて経験する音の世界だ。
「悲しい……」
「芸術家ってすごいね。山口とグルックが同化してるんだよ」
 山口はにこにこしながら、
「気にしないほうがいいよ。芸術家はグルックのほうだけだからね」
 ミヨちゃんの頬からぽろりと涙がこぼれ落ちた。山口は干柿を一つ舐め齧ると、
「よし、青高を見せてやろうや」
「うん、そうしよう」
 長靴を履いた。


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