六十七

 山口はカズちゃんをじっと見た。そして語を継いだ。
「……落ちたら神無月はどうなるんですか」
「高三の十月の初旬までにプロ志望届を出せば、その秋にドラフトにかけられるでしょうね。もちろん出さないから、東大を落ちたら高校を卒業した年の十月にプロ志望届を出して、その年のドラフトということになるわ。一年間体力作りで野球浪人ということね。それだけ見れば、とても希望がある状態よ」
「もちろん中日ドラゴンズに指名される。そして、それを母親が了承しない、と。―希望がある状態とはとても言えないですね」
 カズちゃんは悲しそうな顔でうなずき、
「そう、お母さんはまた東大を受けろと言うでしょうね。プロ志望届を出したうえで、一度ドラフトを拒否した場合、高卒の場合三年間、その他の場合二年間、拒否されたチームのドラフトにかけられない規則があるの」
「うへ、たいへんだ!」
「だから、プロ志望届を出さなければどこからも指名されないから、そうするしか手はないの。ぜんぶお母さんの仕打ちを怖がってのことよ」
「ふう……その恐怖は正しいんです。俺、神無月に訊かれたんですよ、親子の縁を切ることはできないかって。法的には戸籍上の縁は永遠に切れないって教えました。問題は親子の縁じゃなくて、成人なんですよ。成人に達するまでは、プロ球団は親の意見を無視すれば違法です。ただ二十歳を過ぎると子が親の妨害を無視しても法的に問題なくなるとも教えました。神無月が二十歳になるまでは母親の天下です。なんせプロが手を出せないんですから、何をやってもむだです」
「馬鹿みたいね」
「そうです。現役で東大に受かるのがプロへのいちばんの近道です。神無月と和子さんの考えは正解なんです―地獄だな」
「落ちたら、二度と東大は受けない。二十歳になるまでどこか野球部のある小さな会社で労働する。マスコミやおふくろの目の届かないところで体力作りをしながらね。そして二十歳になる年に、ちゃんとした野球部のある会社に転職してきちんと活躍し、プロ志望届を出さずに辞職する。ドラフトにかからないためだよ。そのうえで中日ドラゴンズと自由交渉する」
「東大に落ちるとえらく面倒くさいことになるな。俺は東大に落ちても、ギターに専念すればいいだけだからラクだ。二十歳まで待つ必要もない。神無月は綱渡りだな」
「まんいち落ちたら、キョウちゃん、北村席に隠れなさい。キョウちゃんは〈狂気〉で動いているところがあるわ。打ちのめされても気づかないという狂気よ。打ちのめされている感覚がないからかならず立ち直るの。とにかくあと二年、現役で東大に受かるようにがんばってね。好きなものに向かって遠回りするなんて許されないわよ」
「よし、山口、二人でがんばって東大現役合格を狙おう。ぼくも山口とだけは離れたくない。同行者ができて、こんなうれしいことはないよ。ただ山口、もし受かってもぼくは二年生でやめちゃうよ」
「わかってる。そのときは俺もやめる。ギターに専念。いやあ、ハハハハ、受かりもしないうちからこんな話をするのは、それこそ狂気の沙汰だな。俺は別に来し方を清算する必要なんかないから、受かろうと受かるまいとどうでもいいんだけど、おまえとの新しい出発という意味で、東大受験はいい区切りになるんだよ。俺みたいに取り柄のない人間は、まず区切りというもので気持ちの足場を作っておかないと何ごとも始められない」
「山口よりぼくが落ちる可能性のほうが高い。マグレを起こさないとね。しっかり勉強しないとマグレも起こらない」
「ふつうに、まじめにやろう。神無月がプロにいくころまでには、俺もギターでめしを食えるようになっていたいなあ」
 ドン! と机を叩き、
「ちくしょう、だれが聞いても信じられない選択肢だ。その選択肢だって、将来いざこざの不安を抱えてる。つくづく哀れな野郎だ」
 山口は二杯目のコップをグイとやった。
「小笠原は、そんな親がこの世にいるはずがないと言った」
「おまえが少しでもわが身に近い話をすると、虚言を吐いていると忖度されてしまう。おまえは〈目撃者だけが信じる〉という枠の中で暮らしているからな」
「その小笠原さんという人の考え方がふつうよ。お母さんは異常だわ。あの人に追いつめられて、キョウちゃんは捨てなくていいものを捨てなくちゃいけなくなった。わざわざ自分を追いこまなくちゃいけなくなったの。野球以外の人生にマグレを期待する気持ちが痛いほどわかる。でも、きっとキョウちゃんのいうマグレは起こりつづけるわ。私はそれを信じてる」
「たとえ首尾よく東大に入っても、この型破りの性格だから、また波乱万丈になりますね。俺はそれを期待してるところがあります。神無月は奇人ですから。稀有のね」
「でも、そばでしっかり見守っていないと、どんどん病気みたいな悩みにはまって、死神に持っていかれてしまうわ。キョウちゃんを明るく、自由に、伸びのびさせて、ぜったい殺さないこと」
「……きょうの神無月は明るいなあ。こういう神無月を見ると泣けてくる」
「もともと明るい人なの。単純に、明るく生きられる人だったのに、へし折られて、さびしいところに流されてしまって……。もしキョウちゃんが、これほど明るい人でなかったら、ただの流木のままだれにも愛されなかったかもしれない。そう考えると、地団太踏みたくなるわ」
 もう一杯ずつビールをつぎ合った。私は一気に空け、
「苦い。こんなもの、お世辞にもうまいと言えない」
「ああ、神無月はいいな! ふつうの人間は、マズさの先の酔いを求めてるんだよ。だから酒をうまいと言って気取ってみせる。マズイなんてそいつらに言ったら、やいのやいのと言い返される。波風立てたくないときは、苦いものもうまいと言うんだぞ」
 山口はおせち料理に猛然と取りかかる。
「イソベ、もういいの?」
「は、けっこうです。雑煮を一杯、餅三つ入れてください。……で、その、神無月の人生歴の立役者みたいなおふくろさんは、このごろは静かにしてるんですか」
「名門高校で勉強してることだし、まさか野球でこんなに有名になってるなんて知らないから、何も言ってこないわ。でも、また一悶着起きるんじゃないかしら。どういう悶着かわからないけど、そんな予感がするの」
 山口は表情が一変するほどの憂い顔をした。先日私から母の話を聞いたばかりだったからだ。カズちゃんは山口の不安を吹き払うように微笑み、
「キョウちゃんも利口になったのよ。これからは、大切にしている人や、なくしたくないものをお母さんに踏み潰されないようにって、細心の注意を払って秘密にしてるの。どういう悶着かわからないけど、今度悶着が起きるとすれば、野球をするための最後の峠を越えるときね。すっぱりお母さんとお別れすればいいんでしょうけど、親は捨てられないものだから」
「どんな親でもね―」
 山口は憂い顔を無理やり収めた。箪笥の上の置時計を見て、
「お、恋路のじゃまだ。そろそろ退散するかな」
「キョウちゃんはそういうことは節度を守る人よ。親友とすごす楽しい時間に、恋路なんか考えもしないわ。私はこれからいくらでもかわいがってもらえる。きょうは、三人で過ごすのよ。まず、初詣にいかなくちゃ」
「おお、そうだ。早すぎるが合格祈願でもするか」
「みんなでいきましょ。いま、お重を詰め直しとくから、帰りに持って帰ってね」
 県庁通りの善知鳥(うとう)神社にいくことになった。
「何だい、ウトウって」
 博識の山口が言う。
「ウトウというのは、ハトほどの大きさの海鳥の名前で、善を知る鳥と書く。実際いる鳥だ。神社内に剥製があるそうだ。神社の名前の由来はわからない。ただ、青森市は大むかし善知鳥村と呼ばれていて、そのころから海上安全をその神社で願ってきたらしい。棟方志功は善知鳥神社で結婚式を挙げたとき、ウトウの絵を奉納したって話だ」
 電話でタクシーを呼ぶ。カズちゃんは、紺のタイトスカートを穿き、白地の半オーバーをはおった。黒長靴二つ、黄色長靴一つ。
「春は桜の名所ですよ」
 タクシー運転手が言う。十本でも植わっていれば、どこも名所だ。観光バスガイドの話と同じで、五秒もすれば忘れる風景。
 熱田神宮ほど大きな杜には囲まれていないが、緑の多い広くて静かな神社だった。人出のピークを過ぎた雪の参道が美しい。大鳥居の下に国旗が交差して架け渡してある。踏み固めた雪の沿道を貫く提灯の列。大きな賽銭箱に十円玉を放り、手を拍ち、合掌する。社殿の奥に、白の上衣と紅の袴を穿いた巫女たちが何十人も立ち動いている。
「新春祈祷の女たちだ。予約制だから入れない」
「山口さんて、何でも知ってるんですね」
「山口は社会科が学校のトップだ。博覧強記だよ。僕の本棚の詩集もほとんど暗記してるんじゃないかな。野辺地にも横山よしのりというカメラ眼を持ってるやつがいるけど、山口はそいつと双璧だね。よしのりはいま、十和田でバーテンの修業をしてる。いずれぼくのあとを追うって言ってたけど、なんだか気が重い」
「慕ってくれる人をそんなふうに言わないの。将来会うの楽しみだわ」
「楽しみにしなくていい。カメラ眼だけだから。質量は山口の十分の一もない」
 裏に回ると、大きな沼があり、鯉が泳ぎ、亀が岩の上で動かなかった。
 喫茶店に寄り、みんなでアップルパイを食べた。
「飯場にいたころ、いつもアップルパイをおごってくれた人がいてね」
 語り残していたクマさんの話を山口に聞かせた。カズちゃんもうなずきながら、私とクマさんとの親密な関係を詳しく語った。山口は聴き入っていた。
「幸福な時代だな。おまえは片隅でこっそり愛される。その意味では、おまえの幸福に限度はない」
 また目が潤んでいた。
         † 
 カズちゃんの家から戻った日曜日の午後、蒲団にくるまり窓の外を見ていた。空は一日一日灰ずんで冷たくなっていく。蒲団から出るのが億劫だ。庭の立ち木を透かして八甲田の山並が見える。雪嶺の連なりが清潔に輝いている。
 枕もとに母の手紙がある。

 寮生活には慣れましたか。寮母さんや学生仲間と協調してやっていくようにしなければいけませんよ。爪弾きにされると集団生活はうまくいきません。おまえには社会性に欠けるところがあるので、くれぐれも心して暮らすように。寮宛てには、名古屋名物のういろうと鬼饅頭を送っておきました。おまえが規律を乱すようなところがあったら遠慮なく連絡してくれるようにも頼んでおきました。
 さて、担任の先生の連絡によると、おまえが順調に勉学生活を送り、成績もトップクラスであると知り、よくぞ立ち直ったと母も満足し、そして深く考えました。これまでのきびしい懲罰とそれによっておまえに与えられた困難な境遇を振り返り、親の義務としてもっとよい環境を与えるべきだと反省したのです。野辺地中学校の進路相談のときおまえを泣く泣く見放したのは、お前がこれほどの更生を果たす人間だとは信じられなかったからです。いまは心から信じられます。おまえを全面的に庇護しようと決意しました。おまえも喜んでくれるでしょう。
 青森高校よりもすぐれた名古屋の高校で勉強するよう計画を立てています。欠員のあるなし、転入試験の時期等じゅうぶん調べるのはこれからですが、旭丘高校あるいは明和高校の、春か夏の転入試験を考えています。旭丘高校は毎年東大合格者を五十人から七十人出す県下一の名門校です。明和高校は六人から八人ですが、毎年三人から六人の青森高校よりは優秀と言えるでしょう。どちらかの高校を受験する心構えをしておいてください。
 転入試験は難関です。精々青森高校で学力研鑽に励んでおくように。まだ青森高校側にはこの旨連絡していないので、先走りして打ち明けないようにしてください。暖かくなってきたら、いずれ詳しいことを連絡いたします。あらあらかしこ。
   郷どのへ                           母より


 何もかも終わったと思った。この展開は考えていなかった。名古屋にまちがいなく連れ戻される。これまでは、同じ連れ戻されるにしても、野球をしていることがバレたせいで連れ戻されるものと思っていた。バレなければ、そこまでのときを稼げると思っていた。甘かった。いま連れ戻されれば、ただちに野球が停止する。少なくとも二年間は野球から遠ざかる。そのあいだに、私は野球関係者に忘れられていくだろう。青高で野球をやっていさえすれば、それはない。母が動き出せば、それまで私に味方していた人びとは確実に無力になる。賛同する人間まで出てくるかもしれない。何よりも、彼女と暮らすことなどまっぴらだ。心がずたずたになる。私はあなたに何かしたのだろうか? もしそうならば許してほしい。許して、もうしばらくここで野球をやらせてほしい。
 雲間から陽が射しはじめたので、山口を誘わずに散歩に出た。一月の空気は冷たかったけれども、風がないせいで身を切るほどではなかった。堤川の土手の雪の斜面に腰を下ろす。底冷えのする陽だまりに坐っていると、頭もからだも引き締まり、寝床から抜け出たばかりのときは糸のようにもつれていた思考が快くまとまっていく。
 ―流されよう。
 どこへ流されていこうと、私は私のままだ。野球選手を目指す私のままだ。野球選手を目指さない私に変わることはない。流されながら、私であって、他者ではない人生を送ろう。立ち上がるとズボンの尻がびっしょり濡れていた。


         六十八

 机についた。不等式の証明問題をしばらくやっていたが、自然とヴェルレーヌの詩集に手が伸びた。訳者の日本語をさらに自分の言葉に翻訳しながら読む。詩の作法と題する奇妙な詩だった。

 何にもまして音楽を!
 そのために大気に融解する言葉を選べ
 模糊として空中に溶けこみ
 重圧を感じさせない言葉を
 ただ言葉を選ぶとき
 いささかも油断するな
 茫漠とした言葉こそ確たる意味を実現する
 それはヴェールに隠れた美しい瞳
 真昼にふるえる太陽の光
 夜の奥に青く散らばる
 星々のきらめきだ

  …………

 もう一つ、言葉なき恋歌という詩も読んだ。

  物憂い恍惚
  けだるき愛
  木々はふるえ
  灰色の枝に響く
  ひめやかな声
   …………
  嘆きの心は いままさに
  嘆きのうちに眠ろうとする
  それは私たちの心
  私の そしてあなたの心
  祈りの調べが きれぎれに
  暖かな黄昏に響く 


 バイロンよりもヴェルレーヌをと中原中也が言った理由がわかった。
 暮れるにつれて冷えこんできて、窓ガラスに霜がつきはじめた。がまんできないほどの寒さになった。ストーブを買いに出かけることにした。堤橋のたもとの雑貨屋で筒型のものを見かけたことを思い出した。
 長靴を履いて表に出ると、いつのまにか風まじりの乾いた雪が降りはじめている。グラニュー糖のような雪が固く締まった雪道の上を転がっていく。かすかに聞こえてくる歌のメロディのように過去が思い出される。過去、現在、未来、か……。たまさかに生み出され、その三つの時を経験していく。経験の先に何かを希望しながら―希望が挫かれないかぎりそれは可能だ。
 規則正しく前方に振り出され、後方に去る長靴の先。雪道の轍。寒さに耐え切れず、ストーブを買うために歩いている。快適に生きるために歩いている。どうして人びとは、そして私は、これほどまでして生きたいのだろう? 死ぬ危険もない人間が、生きたいなどと思うのは、不自然な感情ではないだろうか。
 張り詰めていた気分が崩れ、憂鬱が萌(きざ)してきた。主観の明るい喜びを取り戻さなければならない。まだ野球を奪われていない。松原通りを歩いていく。
 堤橋につづく坂道にさしかかったとき、道の反対側の出店を展げた靴屋の戸口から坊主頭の眼鏡がこちらを見ていた。藤田だ。
「こったら天気の中を、どこさいぐのよゥ」
「ストーブを買いにね」
「運ぶの、うだでだでば」
 藤田は笑いかけようとしたが、私に反応のないのに気づき、背を向けて、出店に青いビニールをかけはじめた。粉雪が冷たいみぞれに変わってきた。いちばん廉い小型の筒ストーブを買った。
「灯油を一缶、ポンプもください」
 轍の埋まりはじめた風まじりの雪道を、片手にストーブ、片手に十五リットルのブリキ缶を提げて帰る。ブリキ缶の把手が小さいので指が痺れてくる。折悪しく風が強まり、横殴りの雪になってきた。手が痛い。何度も持ち替えた。睫毛に雪が貼りつき、視界が利かなくなる。
 ―こうまでして、少しばかり冷えた部屋を暖めたかったのか。暖まって何をしたいのだ。計画と達成、精励と休息、娯楽と見聞、快楽と充足。そして、ああ、感謝と献身。私ごときの感謝と献身? 私がそれを行なうに値する人間だと!
 山田三樹夫―きみが振り絞った清潔な命に申しわけがない。あれほどきみに啓発されたのに、ぼくの命はナマクラのままだ。苦悩の人を演じつつ、人に褒められながら、ヤニ下がって生きてるんだよ。
 ようやくアパートの玄関に帰りつくと、丹前着た亭主が便所から出てくるところに出会った。彼に対して何の罪悪感も覚えない。健やかで清潔な神経の磨耗。救いがたい背徳。亭主は、早く夕食を食べなさい、と言い、のっそりテレビ部屋のほうへ戻っていった。朝からものを食っていないことをあえて思い出そうとする。
 ―食って生き延びるわけか。勝手にスケジュールを組んで崩れ落ちた心細い未来のために。
 ドラフト? 東大? プロ野球選手? たかが十六歳の野球小僧が、よくぞまあ強欲にも希望したものだ。厚顔無恥とはまさにこのことだ。
 タンクに石油を入れ、芯に染みわたったところで火を点ける。手をかざすと、凍えていた指に血が回復してきて、転げ回りたくなるほど痛んだ。しばらくうずくまって手を握り合わせながら痛みをこらえた。
 ―この痛みが生きている証だとでも言いたいのか。
 キンピカ? 天才? 芸術家の憂鬱?
「おまえのオヤジは小さい人だったんだよ」
「男は頭だ」
「一隅を照らす」
 とつぜん、何もかもがおそろしく空しくなった。空しさの中で立ち上がり、りんご箱の本を並べ替えたり、押入の下に積んである要らない本を紐で縛ったり、机の中身を整理したりした。
 指の痛みが落ち着くと、ストーブを買ったことを山口に知らせにいった。
「小さい筒型にしたろうな。部屋が狭いから大きいとのぼせるぞ」
「うん、小さいのにした」
 彼はやってきて、手をかざし、あたってみせる。
 ―山口! おまえはなんていいやつなんだ。
「ときどき窓を開けて換気しろよ。めし、食おう」
 冷えたサトイモの煮転がしと、肉野菜炒めが置いてあった。空しい。これも未来の一部だ。食堂の椅子に二人だけで座って、一膳めしを食った。
「荷物届いてたな。爺さん婆さんに不義理してるんだろ」
「ああ、そうだね。やさしい人たちだけど、あえて彼らとする話もないんだ。ぼくは興味のない人事に徹底して関心の薄い男だからね。養い甲斐のない孫だろうな。彼らにかぎらない……不義理のせいでたくさんの人と疎遠になっていく。手紙も書かないし、返事も書かない。……エイ! と踏ん張って、あえて何かをしようしないとだめだね」
「右に同じ。義理というのは、発奮しないとなかなか果たせないもんだ」
 正体の知れない空しさが去らない。コーヒーの誘いを断った。山口の去った部屋。ストーブの前にゴロリと横たわる。
 ……………………
 足の冷たさに驚いて目が覚めた。ストーブの火が消えている。頭痛がする。机の上のスタンドの周りだけが白く明るい。たまらなく寒い。ストーブに灯油を注ぎ足し、火を点けた。赤く反映する天井を見上げながら、素振りのことを思い出したとたん、からだが硬直し縮み上がった。
 ―ぼくは野球をしたいんだな。こんな虚ろな気持ちで。
 何日か前、図書室で異様な光景を目にしたことを思い出した。何気なく手に取ったヘッセの『ガラス玉演戯』に頭を悩ませていたとき、別のテーブルにいた一人の生徒がとつぜん立ち上がり、天井に向かって片手を差し出すと、
「引っぱってケー、引っぱってケー!」
 と叫んで、真後ろに昏倒した。静かだった室内がざわめき立った。何人かの生徒があわてて駆け寄り、彼の頭と脚を支えて廊下へ運んでいった。彼はだれに、どこへ、引っぱっていってほしかったのだろう。その悲惨なできごとは、私に不意の充実した思いをもたらした。
 ―ぼくは〈独自〉の孤独の中で生きている。それはだれにも知れないものだ。どこへも引っぱっていってほしくない。しかし、独自? 人は引っ張っていってもらわなければ何もできない。独自などとえらそうに。
 私は鬱々と楽しまない心で、閉館まで読書して帰った。ガラス玉演戯は意味のわからないまま、当分読みさすことにした。
 窓を開けると頭痛が薄らいできたので、抽斗からいのちの記録を取り出した。何を書きたいというのでもない。ゆっくりページをめくっていく。そこには難しい漢字や気取った言い回しを織り交ぜた、まじめで独りよがりの感想とか、甘い感傷とか、これからの長い人生、それこそ墓に入るまで一人の女を愛していく決意などが書いてあった。生きている目的と意味についての深刻な疑問もあったし、記憶の中に棲む大勢の人びとを愛するために、強く、まじめに生きなければならないという、陽光が射してくるような純真な解答もあった。しかし私は、これまで敵意に満ちた視線に囲まれて雑踏の中にいたことなど一度もなく、敵意どころか、だれにも注目されずに、いつも自分の部屋の机にたった独りきりでいたのだと感じた。絶対的な孤独―希望を持ったことなど一度もないと感じた。
 明るい気分がやってきた。その気持ちのまま、最後のページに書きつけた。

  残された日々の方針
  ほとばしり 落ち合い
  たゆとう心のままに
  うつつ世のみおつくしを渉れ 悲しまずに

         †
 翌日からは、すべてが以前とちがって見えはじめた。絶対的な孤独を確信した目に、道の上を大勢の人びとが目的に向かって歩いているのが、家々やビルが希望の中で雑然と建ち並んでいるのが、車が思い思いに計画に向かって走っているのが輝いて見えた。山口が何か言いかけると、私は浮きうきと返事をした。彼の計画が喜ばしい! 道を歩き、ビルを眺め、雪もよいの空を見上げるとき、私だけの孤独が存在する事実に胸が弾んだ。
 数日休んでいたランニングと素振りをやった。山口も楽しそうに手伝った。彼には母の手紙のことは話せない。カズちゃんにも話せない。あまりにも唐突で、何の明るい未来も見えないから。
 やがて、徹底的な冷却がやってきた。孤独の確認に大そうな意義を感じた感情操作に疑問を抱きはじめた。人が孤独であることなど、あたりまえではないか。だからこそ人は肌を合わせようとして近づき合うのだ。そこに生きる意味があるのだ。思索の共有、感情の共有、思い出の共有、体液の共有。……しかし、道を転がっていく風混じりの雪の絶対的な孤独。それをじっと見つめる目が常に私に貼りついている。
 人恋しいあたりまえの相対的な孤独を抱いている人びとと、自分だけの孤独を混ぜ合わせたくなくて、朝めしと昼めしに同席しなくなった。夕食もわざと遅れてとるようになった。ランニングもしなければ、バットも振らなかった。
 山口は何かを直観して、たぶん私の〈病気〉を直観して、声をかけるのを遠慮し、部屋を訪ねてもこなかった。彼に厄介をかけていると感じたけれども、心の洞に棲みついた空しさを追い出すことができなかった。私は空しさの反芻以外に、することも思うこともなく、毎日、ストーブに火を点け、空しさを埋めるための勉強をした。アパート全体がひっそりとしていた。机の時計が十時を指す。勉強に区切りをつけたいという習慣だけが鉛筆を動かす。
 汽笛がはるか遠くから聞こえてきた。遠いのは汽笛だけではなかった。私も机から遠いところにいた。時間が経っていった。私は身じろぎひとつしないで鉛筆を動かしながら座っていた。動きたくなかったし、勉強以外何も考えたくなかった。
 勉強に一段落がつくと、鉛筆を置き、しばらくのあいだストーブの赤い火を見る。底知れない悲しみが襲ってくる。空しさとは別な意識が自動的に働きはじめ、はっきりとした言葉となって口に出た。
 ―ぼくは何をするためにここにいるんだろう?
 そうすると、酔ったような意識のどこかから、
 ―命を清算するためだ。
 という答えが聞こえきた。それにつづいて、漠然とした延命欲が昇ってきて、それはちがう、一所懸命に生きようとしているし、生きる喜びを感じている、という声が耳もとに一瞬聞こえた。そして、たちまち消えた。しばらくして、なぜ懸命に生きようとしてるんだ? という声が聞こえた。何の答えも聞こえてこなかった。漠々とした荒野に立っている坊主頭の学生服が見えた。
 ―私のまま生きていこうと私に決意させるものは何だ? 他者になりたいと願っていた日々を軽蔑させるものは何だ? 軽蔑し、決意することで、私にやってきたこの空しい気分の正体は何だ? プロ野球選手になりたい? 芸術家でありたい? 絶対的な孤独?
 物憂い戦慄が私を金縛りにする。幼いころから私を冒してきた戦慄―横浜の卓袱台にも、映画館の外の夜道にも、レフトの守備位置の上空にさえその戦慄はあった。理由のない戦慄。何にふるえているのだ。
 ―必要のない戦慄だ。私のためにも、だれのためにも。
 胸の中に、頑固な、熱を帯びたような気分が生まれ、自分を破壊しようとする誘惑へ引き寄せられる。自動的に、はっきりとした言葉が口から出た。
「みんな、死んでいく」
 野辺地の部屋でも同じ科白を呟いたことがあった。山田三樹夫の不治の病を知らされた夜道でも、彼の死を知らされた夜のプールの傍らでも。あまりに陳腐な科白だ。みんな死んでいくからどうだというのだ。
 私は立ち上がって、押入れの戸を開け、上の段によじ昇った。小笠原がここに横たわって以来、ときどき、光をシャットアウトして仮眠をとるために、いつも湿った一対の蒲団が敷いてある。横になると戸を閉め、湿った掛け蒲団を引き寄せる。眠りだけを欲しているのに眠れない。夜は安らかな憩いから私をもぎ離したまま、寝不足のまま朝へ連れていく。朝の窓辺に立つと、葉を落とした庭の木に鳥がじっと止まり、冷たい風に羽毛を逆立てている。


         六十九

 一月十四日から三学期が始まり、相変わらず空しい日々がつづいた。おととい、カズちゃんの温かい腹の中へ射精した。彼女のやさしい痙攣だけがうれしかった。その感覚を自分の延命のためのよるべと捉えようとした。しかし、命惜しさから愛する女の神秘につながれている自分を不甲斐なく感じた。不甲斐ない私を愛するカズちゃんを、この世にたった一人の奇特な女だと感じた。奇特な女を私と関係ないところで延命させたいと思った。このまま私の空しさと暮らしていては、彼女の延命にやるせない疲労の染みができる。
 近いうちに、愛に満たされた最後の射精を終えてから、私との交接を喜ばない〈空しい女〉の中へ最後の愛のない射精をすることに決めた。平凡な男に似合った、平凡な締めくくり。山田三樹夫のような、海を眺めて死後の記憶に留める気高い締めくくりではない。
 私の心は、強く死のほうへ傾き、次にゆっくり命のほうへ傾くことを繰り返した。私にとっていちばんの苦痛は、どこにもいくところがなく、何をすることもなく、そして、死と生のあいだを揺れ動いている私自身が、揺れ動くほどの価値のある何ものでもないという意識だった。顔を洗ったり、めしを食ったり、小便をしたり、排便したりするたびに、その何ものでもないものがまだ生きていると気づいてふるえた。
 教室の椅子に座っているとき、どうかすると、急にすべてのものから遠ざかっていく感じになった。教師の顔や、笑いながらしゃべり合っているクラス仲間や、古びた机の上に載っている教科書が、みんなひどく遠くにあるように見えた。そういうすべてのものから私は確実に隔たっていた。自分とそれらのあいだに連絡をつけることができなかった。そんなものは自分にとってどうでもよく、見つめて感覚に収めたいものでもなかった。
 私は何度も教室から窓の外を見た。私はその風景から連続して存在する一部ではなかった。周囲のものは私から遠ざかっていた。私はそこへいこうと思わなかった。いくら手を伸ばしても、地面や木に触ることができないような気がした。どこへいったらいいのだろう。私にはいくところがなかった。カズちゃんは〈いくところ〉ではなく、私を引き寄せる不可思議な神域だった。私は手を合わせる心で彼女のからだの上で浮遊した。
 部屋に戻っても、勉強に没頭することしか何も浮かばなかった。しかし、赤線を五本も引けば、もう鉛筆の先を見つめていることがいやになって、立ち上がり、押入へいくのだった。押入の四角い闇の中で、よく同じ夢を見た。
 汽車が走っていく。私は自分の希望の淡さと、列車の疾駆の快適さとの対照に不安を感じた。車輪が一つの線路からほかの線路に移るときのガタタタという音、ふたたびタタン、タタンと規則正しくレールに触る音、その音を切り裂く汽笛、窓をたえず過ぎ去っていく風景、そうしたすべてが不安のもとになった。目的地が皆目わからないのだ。深夜、汽車はかなり大きな川に架かっている長い鉄橋を渡った。枕木が轟々と響くのを聴いた。それからだいぶ経って、うるさい人の声や足音がしたかと思うと、すぐにその反響もしじまの中に消えていった。どこか大きな駅に列車が停まったのだとわかった。しばらくホームを見つめ、まだ暗さが濃かったので、背もたれに姿勢を正して目を閉じた。
 眠っているあいだ、ときどきハッと目覚めることがあったけれども、それも夢の中のできごとで、いつも汽車がどこと目的を定めず走っていると知ってうれしかった。ふたたび夢の中で目をつぶり、夢の中で目覚めて外の景色を見ると、まだ山の風景だった。列車は狭い渓谷に沿った山腹の陰を廻っていた。谷の底に急流が見え、ヒバの林に縁どられた向こう側には険しい岩肌がそびえて空を隠していた。私はしばらく、速い流れがごつごつした岩にぶつかってはしぶきを散らす様子を眺めた。川は濁った泥の色に、岩は錆びた鉄の色に、ヒバの林は不透明な緑色に見えた。私は岩肌のいただきに視線を上げ、小高い二つの山が白い雪に覆われているのを見た。希望を抱いて未知の目標に運ばれ、近づくのにまかせるという気持ちが戻ってきた。目を大きく開いて二つの山を見つめた。見れば見るほど、心の中に酔ったような信頼が高まっていくのを感じた。その光景と気分が夢の中で何昼夜も繰り返された。
 すっかり目が覚めたとき、部屋のカーテンはもう明るかった。夢の中で回復しかかった少年時代の希望が、希望に満ちた生活を支えていた興味のことごとくが、消えてしまっていた。カズちゃんが野辺地にやってきてからあれほど幸福だったのに、ついこのあいだのオセチ料理を山口と三人で食い合うまではあんなに幸福だったのに、なぜこんな気分に暗転してしまったのかわからなかった。
         †
 日が経っていき、何週間経っても、何も変わらなかった。人も、ものも、すべてが同じ一つのかたまりのようだった。ある一日と別の一日とを、ある週と別の週とを、ある場所と別な場所とを区別できなかった。どうかすると、何時間も呆然としていて、そのあいだに自分が何をしたのか思い出せないこともあった。
 どんなに意識が空ろなときも、カズちゃんと山口に笑顔を絶やすことはなかった。彼らから返ってくる笑顔と言葉だけが、残っているわずかな希望の証だった。完成の希望に満ちた未来ばかりを話題に上(のぼ)せて、ふつうに歓談した。愛を囁きながらふつうにセックスをした。そうすることを私の本能が命じた。しかし、四六時中彼らといることは物理的に不可能だった。その合間を縫うようにランニングをし、素振りをし、腹筋背筋をし、勉強をした。
 死が現実のものとして近づいてきていた。空しさの中へ、死ぬための手段を考えることが慰め相手になって近づいてきて、しだいに親しくなり、なくてはならないものになった。実行する前に、これまで生きてきた意味と、これから生きていくための目標をくどくどしくひねり出そうとした。何も思いつかなかった。
 どこかの森の中に、縄の首輪をぶら下げることはたやすいだろう。学校へ出かけていくたびに、学校から帰って机に向かうたびに、カズちゃんと交わるたびに、山口とコーヒーをすするたびに、押入にもぐりこむたびに、その考えがつきまとった。
 静かな場所を、だれにも見つけられない小暗い場所を、自分の墓に決めよう。私は冷静に考えようとした。下校の足を伸ばして、堤川の上流を歩いた。人目につきにくい川岸の森を探すのは苦労だった。たいていは雑木林の奥が透けて見えた。
 カズちゃんや山口との生活を捨てるのには未練があった。彼らのことを思うと、一瞬死への思いが遠ざかった。彼らを愛し、彼らから愛されていることをなつかしく思うとき、死の理由が忽然と消えていった。命の継続が意義深いものとなった。
 しかし、私は延命の意義深さよりも、私の延命が彼らに与える負担の重さを考えた。彼らは私を突き放すことはできない。私がいなくなれば、彼らは、最初は悲しむかもしれないが、あとになってどんなにホッとすることだろう! 時が経てば、どれほど私と共存することが負担だったかを思い知り、よくぞ死んでくれたと感謝するだろう。
        †
 二月になった。ある日私は、青高の裏門から歩いて四十分ほどの岸辺に、ついに暗い小さな森を見つけた。薄緑の瀞に古びた小橋が架かっていて、橋の外れで道が終わり、潅木の茂みになっていた。踏みこむと、足もとで柴木の折れる音がし、柔らかい朽ち葉の感触が足裏にきた。空を見上げながら、間隔の狭い樹木のあいだを進んでいき、一本、一本、適当な枝を物色した。裾の広い木が見つかった。古ぼけた幹に大きなウロが空き、縄をかけるための枝ぶりもよかった。低いところに真横に伸びていた。これなら坐ったまま、自分自身が世界から遠ざかる感覚を確かめながら、ゆっくり死ねる。
 その日から、雨や雪が降らないかぎり何度もそこを訪れて、枝を撫ぜ、強さを確かめ、木の根かたに坐りこみ、自分がいつか白骨となって見つかることを想像して、不思議な喜びに浸った。もう何も面倒はなかった。
 部屋に戻ると、ときどき少しずつ、あいだを置きながら、カズちゃん宛の手紙と、山口宛の手紙を書いた。二人といて心の底から幸福だったことを、時の経過をたどりながらこと細かに書いた。できごとを羅列することに留め、くだらない自分の思いは表現しなかった。できごとだけを彼らの記憶に残したかった。その投函をしない手紙は死体のそばに置くつもりだった。
 こうした準備と、思い残すことはないという感じは私の心によい影響を与えた。じょうぶな枝の下に坐ってすごしていると、空しさが消え、楽しい気分がやってきた。どうしてもっとずっと前に、この枝に命を預けてしまわなかったのかと悔やまれた。
 最後の何日かを、美しい日光と、孤独な夢想を味わいつくしたいと思った。首を縊るのはいつでも実行できる。残り少ない思索を楽しみ、死の盃から毎日二、三滴ずつ残りの命を味わおう。もう少しこの世に留まって、この決心のことを夢にも知らない人たちの顔を見つめる楽しみを味わおう。
         †
 やがて私の顔は痩せこけて、えらの骨が指に硬く触れるようになってきた。それは死相にちがいなかった。私は喜んだ。便所にいくたびに、鏡に映る自分の醜い顔を見るのが愉快だった。
 朝ごとに寒気が訪れ、雪が何度も降っては、道の上で固まった。冬は魂を磨り減らすとだれもが思っている。もし人間も冬眠できれば、春には元気になって目覚め、希望を持って、おそらくは楽観的にさえなって、一年の残りに立ち向かうことができるのにと。そんな賢さなど、もう私には必要のないものだ。生き延びるための賢さなど、何の役にも立たない。死ぬとわかっているとき、才能も無意味なら、賢さも空しい。死ぬ前の私に安らぎを与えるものは、まず寺田康男の思い出であり、クマさんや小山田さんや吉冨さんの思い出であり、山田三樹夫や山口の思い出であり、何よりも、私に進んで心と肉体を与えたカズちゃんの思い出だった。寒い部屋の中で、彼らの笑顔が目に浮かび、声が耳に甦った。彼らのことを考えると、深い悲しみに胸を揺すぶられ、顔が歪んだ。

  千年を生きられたら
  かくも色濃く
  思い出は 石の心を染めないだろう


 ノートに書きだして、鉛筆が止まった。意識がゆっくりとノートの余白へ、部屋を照らす光の中へ、現実へと戻ってくる。絶えずぼんやりした眠気が襲ってきてウトウトする。このところ木金土と三日つづけて、カズちゃんのところへかよっているからかもしれない。
 きのうの土曜日は、〈病気〉から回復したらしい私に安心して、山口もいっしょに彼女の手料理を食いにいった。桜川へ向かう道々山口は、
「痩せたなあ。まだ根を詰めて勉強する時期じゃないぞ」
 と言った。そんなことが痩せた原因ではないことを重々知っている口ぶりだった。しかし山口はその原因を探り出して私を刺激することを恐れた。まさかと思う気持ちと、またか、いいかげんにしろ、と舌打ちしたくなるような気持ちがない交ぜになって、ひどく腹を立てているようだった。
 カズちゃんは玄関で私の痩せた顔を見て、一度ハッと息を呑んだきり、あとはなるべく私の顔を見ないようにしながら、せっせとおさんどんをした。げっそり痩せたのには何かのっぴきならない理由があり、単なる猛勉強のせいだとは思わなかったようだった。カズちゃんはふだんよりも明るく振舞った。山口もカズちゃんに合わせて、明るい態度に終始した。
 山口が帰って、激しい、愛情のこもったセックスをしたあと、満足げに天井を見つめている私の横顔にカズちゃんは、
「死なないで……」
 と言った。私は愛のある最後の射精を終えた充足感に深く浸っていた。
「馬鹿なこと言わないでよ。どうして死ななくちゃいけないんだ。死ねないよ、カズちゃんを残しては」
「私は残らない。だから、もし死ぬなら、安心して」
 いつのまにか、死が暗黙の了解になっているのが恐ろしかった。
「中日ドラゴンズに入り、プロ野球選手として一から出直して、こつこつ自分らしく生きて、カズちゃんといっしょに齢をとっていくんだ」
 カズちゃんは私の胸にすがって泣いた。
         †
 二月十三日、日曜日の朝、部屋に戻ると、山口はさっそくやってきて、
「このひと月、ロクに話もしなくて悪かったな。おまえと同じように本気を出して勉強してるからなあ。おまえともなかなか顔を合わせられなかった。あと二年あるとはわかってても、なかなか東大となるとな。落ちるわけにはいかないし」
 気を使って自分のせいにした。
「ほんとだ。あと二年しかない。とにかく精出さなくちゃ」
「神無月はいいよ。相変わらず国語も英語も一番か。そのほかもほとんど二十傑に入ってるしな」
「山口も社会科が一番じゃないか。数学だって安定してるし。英国なんか、単なる勉強量の問題だろう。二年もあればどうにかなるよ。木曜からの学年末考査、がんばろうね」
「おお。……それにしても痩せたな」
「遅くまで勉強だけじゃなく、読書にもいそしんでるからね」
「……神無月、また意味もなく悩んでるんじゃないか? いったいどっから悩みの種を拾ってくるんだ? まあ、俺にはわからない世界で悩んでるんだろうが……。和子さんも口に出さなかったけど、びっくり仰天してた。口に出すと、不安がほんものになると思ったんだろう」
「不安?」
「とぼけるな。おまえが悩むのは、いつもかならず、自分のレーゾンデートルのことだ。なぜ生きてるんだろうってな。奪われてきた人生だったからな。おまえには、生きる理由なんかいらないんだよ。生きてるだけでじゅうぶんだって、いつも和子さんが言ってるだろう。おまえは他人の生きる理由になるんだって。俺だってそう思う」
「こんな幸せの中で死ねないよ。死ぬ理由がない」
「まあ、機嫌のいいときのおまえを見てると、そんな気はいっさいしないけどな。いくら憂鬱は芸術家の特権とは言っても、そこまで痩せられると勘ぐってしまうじゃないか。いっしょに東大受けるんだ。忘れるんじゃないぞ」
「わかってる。希望を達成するための第一歩だ。これから二年間、どんなに野球が忙しくても、恥ずかしい成績は取らないつもりだ」
「神無月、俺たちの前で精いっぱい生きてくれ。それだけでいい」
「ありがとう。いっしょに東大へいこう。そしてフィールドのぼくの姿に拍手喝采してくれよ」
「おう!」
 その日、関野商店で、部屋に洗濯紐を張りたいと言って、かなり太目のロープを買った。りんご箱の文学書や、机の本立ての教科書を細ヒモで縛って、押入の下の不要な本に雑ぜて突っこんだ。
 窓の外の夜に細かい雪が降っている。抽斗の封筒から十万円を抜いてポケットに収めた。残りの金を納めた封筒の表面に、『必要なかたがお使いください』と書いた。机の上にあったいのちの記録と筆記用具を学生カバンに詰め、押入に放りこんだ。


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