四十六

 赤井と土手道を歩いた。川風が強い。初秋の月が水面に落ちている。
「京都大学、確実ですね」
「くだらね。ンガの生ぎ方に比べたらちゃっけェ。ナが青森さ島流しになった経緯が、ねじ曲げで新聞さ書がれでらった。……不良だったず話はでたらめだ。原因は女よ。何が不良だってが。そたら単純なもんでねんだ。あの書き方だば、単なるチンピラが島流し食らったようなもんだべ。馬鹿にしてるじゃ」
 口角の吊り上がった微笑を浮かべる。学生生活の習慣や形式を仮面にしてかぶっている顔だ。ほんとうの顔は仮面の下に隠れている。彼の仮面には深みがある。青高の正門をすぎて、さらに山手に向かって歩いた。
「オラは高校さきてがら、ずっと秀才だった。勉強しでれば、いい点が取れる。ほんだすけ、くだらね勉強で悩んだこどはねえ。京都大学か。いずれオラは出世街道を驀進するんだべ。ちゃっけ。ンガに比べたら、あの塾教師もちゃっけな。……おめと会えでふんとにいがったじゃ」
「赤井さんは、有為の人間です」
「有為? 皮肉言うなじゃ。為すこと有るにしても、為(ため)に有るにしても、てめの存在そのもののが価値としてそびえでるってこどより、他人の役に立づ価値しかねってことだべや。おめの口ぶりだと、そったらふうに聞こえるど」
「有為の解釈がまちがってますよ。才能があって、それが他人のために役立つ人間のことですよ。そうやって生きるのは最高の生き方です」
「ンガもそうやって生ぎでるべ」
「そう信じて生きてます。自分も有為の人間だと」
 意外に早く山あいに入り、小さな谷間に達した。街道の土手の下を一条の水が流れている。道の片側に、ほとんど黒色に見える濃緑の木立ちがあった。水を隔てた岸辺には、遠くまでその黒緑が丘づたいに不規則に延びていた。丘そのものは牧場になっているようだった。何頭かの牛のシルエットがのんびりとからだを横たえていた。
「赤井さんは、効力のない有為ってものを考えたことはありませんか」
「なんだ、それ。また難しい話するんでねが?」
「わかりやすい話ですよ。他人の役に立たないということです。ある人間の知性がどんなにすぐれていても、外面的な名誉や権力の助けがなければ、他人の上に実効力を働かせることはできないんです。名誉や権威を断ち切って、有為だけで存在する。助けを借りた有為は、威力を増しているので猛々しく見えますが、それ自体、けちくさくて、卑しいものです。その賎しさを知って、あえて名誉や権力を求めない人びとは、俗世間の晴れ舞台から身を退いたまま、この世が与える喝采を、名誉と権威ある連中のものだけにしておくわけです。連中がわがもの顔にのさばることができるのは、大衆の水準より優れているからだということもありますが、それ以上に、世に出ようとしないほんのひと握りの、選ばれた美しき有為者に比べて無限に劣っているからです」
「……わがる。じつはオラも、権力や名誉には興味がねんだ。勉強はウサ晴らしだ。神さまには選ばれていねはんで、美しき有為者にはなれねたって、権力者にもなりたくね。たんだ勉強して、夢中でいてだげだ」
「夢中になれること自体、幸福ですものね。効力なき有為の人間が求めているのも、心の幸福ですから」
 心の不幸のほうが、名誉や権力にたどりつこうとする努力よりもはるかに辛いものだということを、私は知っていた。赤井の考え方は好ましかった。でも、彼が神という言葉を吐いたのは意外だった。人を選ぶのは神だろうか? 幸い、私は神などという正体の知れないものを信じていなかった。
 ―ぼくは、選ばれた、と言ったけれど、実際だれに選ばれたのだろう。神にも人にも選ばれるわけではない。簡単な話だ。自分に選ばれたのだ。
「ンガのへってるこどは、下手すると、負げ犬の遠吠えに聞こえるど。ナを散歩に連れ出したのは、そったら話するためでね。神無月くんよ、きれいさっぱり、打ち明けてしまれじゃ」
「何をですか」
「それこそ、おめが効力なぎ有為になった原因をよ」
「ぼくは、有為の青高生ですよ。名誉と権力こそ、最大の関心事です」
「嘘つけじゃ!」
 赤井は、有為の人間になりきれない憾(うら)みを知らなかった。美しき有為―なんという響きのよさだろう。しかし、野球と勉学にかまけているかぎり、私は自分の理想とする美しき〈無為者〉になれない。
「ま、いじゃ。オラも自分のこどはしゃべりたくねすけ。ンガもオラも、女で苦労したってことで、話はオワリにすべ。人の気持ちをごしょごしょほンじくってるど、藪から蛇が飛び出でくるこどがよぐあるすけ。たンだ、ふとつ言いてのは、ワはンガとちがって、上昇志向の人間に悪意を持ってねというこどよ」
 どうして、私が上昇にも下降にも無関心だと気づいてくれないのだろう。
「女の苦労話を聞かせてください。いつか、恋愛みたいな面倒くさいことはしたことがないって言ってましたが、あれ、嘘ですね」
「……野菊の墓だ。オワリ!」
 一言ですべてわかったような気がした。その小説なら、何年か前、宮中の図書室で読んだことがあった。感傷に走りすぎていて、タミという女のあきらめも、政夫という男の悲嘆も中途半端なので、しゃにむに苛立った覚えがある。
「その人は、死んだんですか」
「オヤジの妾が死ぬわけねべ。オラの中で死んだんだ。年上はいい……。ウェルテルふうな悲劇にならなくていがった。戻るべ」
「はい」
「合浦さいくべ」
「何もないですよ」
「それがいいんでねが。あんべ」
 とっぷり日が暮れ、藤田靴店の出店にポッと灯が点っている。
「ここ、同じクラスのやつの家なんです」
「ンだが」
 覗きこんだが藤田の姿は見えなかった。赤井が店の者を呼んで、拡げた露店に並べてあった下駄を買ったので、私も白い鼻緒の大振りなやつを買い、脱ぎ捨てた古下駄は処分してもらうことにした。新品の下駄をカラカラ響かせてアスファルトの道を歩いていく。
 夜の合浦公園に入った。松原が風に揺れている。目の前に黒い海が広がる。時化る手前らしく、波が砕けるたびに白い泡が騒ぎまわっている。秋の海のにおいがした。
「下宿を出ようと思ってます。いつとは決めてませんが」
「葛西家に不満があるのな?」
「不満はありません。ただ、他人の生活習慣の中で暮らしているのが、なんだか窮屈なんですよ。もっと、のんびり出歩いたり、ものを考えたいというか」
 奥さんとミヨちゃんのこと打ち明けるつもりはなかった。赤井の野菊の墓の純情が穢れる。
「どごさいっても、他人の習慣の中で暮らすんでェ。窮屈だど」
「アパートみたいなところなら、自由になります。散歩も、めしの時間も」
「ま、好ぎなようにしたらいがべ。ンガが考えで決めるこどに、オラは口出しでぎね。わんつかさびしぐなるたって、学校で会えるしな」
「さびしいですか」
「まんずな」
 赤井は照れくさそうに笑うと、石を拾って寄せてくる波に投げつけた。
 暗い帰り道を歩きながら、ふと思い出した。ふだんの日はつい忘れていたのだが、あの稲荷神社のそばの裏通りの家々は、こんな時間に明かりを灯しているはずだということだった。あの通りにただよう〈気品〉は、私には畏怖の対象だった。照明の乏しい萎れた家並に深い香気があった。少しやつれて品のある女たち。彼女たちは客と接するときは伏し目になり、思慮深い沈黙を守り、いろいろな客の秘めた欲望を個別に嗅ぎ分ける知恵をじゅうぶんに持ち合わせているように見えた。少なくとも私にはそう感じられた。私の計算では、ここから二つ三つの十字路を越えさえすれば、あの夜の家が開いている通りに出るはずだった。
「へんなことを訊くようですが、商売女はイキますか」
「イガね。オヤジの妾はイッたども、やつらはイガね。声は出すけんどもな」
 何ということもなく答えた。やはり気品の裏づけはそこにあった。彼女たちは、これまでのトモヨさんのように、だれかに操を立てているのだ。トモヨさんがあの夜だけ操を捨てたのは、カズちゃんに預けられた若い私がめずらしかったからだ。
「すばらしいですね。客は何も考えずに、ひたすら排泄できる」
「まあな。今度連れてぐが?」
「いえ、いきたくなったら、自分でいきます」
         † 
 よほどズル休みをしようかと思ったけれど、選んでくれた仲間に悪くて、水泳大会に出かけていった。きのうは日曜日だったので、カズちゃんを誘い、わざわざ新町通りの百貨店までいって水泳パンツを買ってきた。股上の深いものにした。
 帰りにカズちゃんの家に寄り、心ゆくまでセックスをした。ひと月以上〈彼女に対して〉禁欲していたので、疼痛を覚えるほどの快感だった。カズちゃんも激しく達しすぎて、枕もとに少し吐いた。私は切なくて、一生懸命背中をさすった。国際ホテルの母に囁きかけたように、死なないで、と何度も言った。
 ようやくカズちゃんが落ち着くと、下宿を出ようと思っている話をした。危険なことが起こりそうだと話した。
「奥さんが危険を持ってくると思ってるのね。奥さんの激しいオルガスムスは、私がいま吐いたようなものよ。中年女には強い快楽は不可抗力なの。軽蔑しちゃダメ。年齢が強い快楽に耐えられなくなってるの」
「そういうことじゃない。肉体を重ねているうちに、愛が芽生えるのが怖いんだ」
「ふふ。キョウちゃんの愛は一定よ。生まれつき、人を包みこむ大きな愛がからだに湛えられてるの。私はその愛のいちばん多いおこぼれをもらってるだけ。最高の栄誉よ。私は天にも昇るほど幸せなの。ほかの人のおこぼれなんかぜんぜん気にならない。愛情が湧いたら愛してあげて。慎み深くていい人たちだわ。娘さんの愛情はほんものだし、奥さんの禁欲もそろそろほんものと言っていいわ。もうすぐ崩れるでしょうけど、キョウちゃんを危険な目に遭わせるようなことはぜったいしないと思う。受け入れてあげてね。どうしても落ち着かないなら、下宿を替わって、訪ねてきてもらうようにしたらどうかしら。気兼ねなく没頭できるでしょ? 二人にそう話したら?」
 夜、主人と盲人が寝室に入ってから、奥さんとミヨちゃんを土手の散歩に誘い、いまのままだとかならずだれかに気づかれて危険なことになると思う、赤井も〈散歩〉はやめるそうだ、青高のそばにアパートを借りるから、これからは二人で訪ねてくるようにしてくれないか、そのほうが二人とも気兼ねがないだろう、と持ちかけた。二人は一も二もなく了承した。
「月に一回ずつ、別々に訪ねていきましょ。これで何の気兼ねもなくなるわね」
 奥さんがはしゃいだ。ミヨちゃんが、
「神無月さんにやっと解禁してもらってよかったわね、おかあさん。言い出せなかったんでしょう? からだは譲るなんて、えらそうなこと言って。ごめんなさいね、おかあさんを苦しめちゃったわね。神無月さんのこと、大好きなのに。……神無月さんが出ていっちゃったら、おとうさんや伯父さんががっかりするでしょうね」
 私は、
「ときどき遊びにきます。ぼくもさびしいし、彼らが好きですから」
 ミヨちゃんが私の手をとった。奥さんが背中に抱きついた。
 

        四十七

 プール脇の茂みで着替えをしていると、うさぎ跳びの武藤が寄ってきて、
「やかんみてに、白れな」
 と言った。かならず色の白さに目を留められるのがやるせない。埼玉の入間川へ泳ぎにいったときも、モギリの女たちに指を差されてクスクス笑われたし、幼稚園のころにも海辺で義一に何か揶揄された気がする。カズちゃんは彫刻のようだと褒めてくれる。
「顔と腕は黒いだろ」
「赤げ。そたら日焼げ、すぐ抜げるべ」
 私は自分の番がくるまで、プールぎわにはいかずに、仮設便所の陰の草むらで寝転んでいた。五十メートル平泳ぎは最終の種目だった。
 順番がきて、顔と腕だけピンク色のからだを曝しながらスタート台に立った。サファイア色の水に飛びこむ。五十メートルを無我夢中で泳いだ。十メートルも引き離した一着だったので、どよめくような喝采になった。私はプールから這い上がると、潅木の陰へよろよろ走っていって思い切り吐いた。朝めしがすべて飛び出した。水着姿の古山が飛んできて背中をさすった。
「おめ、どごか悪りのが?」
「スタミナがないんだ。小さいころから」
「ホームラン王がか! たまげだな」
「五組の結果はどうなったの」
「武藤が一着、藤田が二着、小笠原が三着、ナが一着で、オラんど五組が優勝だじゃ」
「きみも泳いだのか」
「うんにゃ、試合の合間にプールに浸かってたのよ。水泳パンツ穿いてれば、選手だと思われるべ」   
 その日、いやに早い夕食をすませたあと、葛西さんの主人が、
「映画を観にいこう」
 と、赤井と私を誘った。夕食を早めた理由がわかった。奥さんとサングラスは留守をすると言う。ミヨちゃんはしばらく思案してから、私もいく、と言った。
 着物を着てハンチングをかぶると、主人はすっかり別人になった。ミヨちゃんは可愛らしい白のワンピースだった。日焼けした丈夫そうな両腕が袖から垂れ、薄っすらと金色の産毛が生えていた。滝澤節子のうなじを思い出した。
「映画観にいぐの、何年ぶりだべ」
 さわやかな夜気に頬をなぶられながら、赤井がうれしそうに言う。浪打駅のほうまで歩いて、ひなびたリバイバル館に入った。怪談という映画をやっていた。一本立てというのがめずらしかった。
 三時間にわたるオムニバスで、黒髪という一話が印象に残った。上昇志向にこりかたまった貧しい農夫が、苦楽をともにした妻を捨てて都に出た。めでたく立身を果たし、身分の高い妻を娶る。その妻の性悪な仕打ちに蹂躙されながら、もとの妻への愛を痛切に悟る。彼はこっそり帰郷し、草に埋もれた旧宅を訪れる。旧妻は機織りなどしながら健気に生きていて、男の帰還を心から喜ぶ。一夜をともにして目覚めると、四囲の壁は崩れ落ち、朽ちて抜けた屋根から空が覗いている。かたわらに髪の長い髑髏が寝ている。驚愕して逃げまどう男を黒髪が宙を飛びながら追いかける。男の額に青筋が立ち、すさまじい形相に変わっていく。塀の外に転がり出た男の首に黒髪が飛んできて巻きつき、締め上げ、ついに絶命させてしまう。私は暗い座席で涙を流した。手のひらで頬を拭う私をミヨちゃんがじっと見つめていた。


 私は帰り道で主人に言った。
「黒髪……よかったですね。別れがドラマだなんて、とんでもないまちがいです。人は一度出遭ったら、けっして別れちゃいけない」
「ああ、そンだね。出会いというのは、奇跡だがらね」
「はい。せっかくの奇跡をふいにするのは愚かです。ひょっとしたら、人が愛する人間にめぐり会うチャンスはゼロかもしれない」
「そたら複雑な話なのが。単なる出世欲のなれの果てってことでねのが。女の復讐はいぎすぎだでば。オラは茶碗の中がいがった」
 
「人の魂を飲んだ者は―ですか。あれは、赤井さん、わけのわからない話ですよ。意味を殺して、不満感を残す。それも一種のインパクトですが、つまらないやり口です」
「作者の意図がわがるとごろまで、こっちの感性が達してねってこどもあるべ。一刀両断はいぐねよ、神無月くん」
「いいものは、いろいろ解釈がでぎで、楽しいね。連れてきていがった」
 主人が仲を取り持った。
「私は、雪女と耳無し芳一がこわかった」
 ミヨちゃんが言った。




「ンだな? 結局、どっちもハッピーエンドだべ。岸恵子がきれいだった。あんな女と結婚でぎだらいいべな」
 ハハハハ、と亭主が笑った。ミヨちゃんもカマトトぶった表情で笑った。
「葛西さんは、どれがいがったんすか?」
「やっぱし黒髪かな。女が幽霊だずのは見えでだども、女の髪に締め殺されるずのは意外だったな。すたらのはさでおいで、この映画はふとをおっかながらせるこどより、映像美ずのが、つまり幻想性ずのが狙いだべ。色彩的な効果を狙ったと思るんだ。雪女は画面が美しがったべ? 小林正樹の新境地だべな。切腹ず映画の倫理性とはぜんぜんちがる」
「ふうん。葛西さんは、芸術家肌だニシ」
「小さいころから映画が好きだったっていうだげせ」
「へば、いままで観できた中で、いぢばんいがった映画は何ですか」
「うーん、じっぱりあるたって、いぢばんとなると、くたばれヤンキースかな。青春の後悔と、老いの不安と、夫婦愛がしっかり描けでいで、文句なしの名作だでば」
  
 私はその映画を観たことがなかった。ただ、葛西さんの映画通ぶりが快適で、聞き耳を立てながらほのぼのとした気分になった。赤井がすがるような顔で、
「葛西さんにも、青春の後悔があるんすか」
「そりゃあるべよ。公務員や役人なんかやっでる人間は、後悔のかだまりよ。勉強も中途半端だったし、恋愛も、仕事も、とくに野球が中途半端だった」
 私は主人の横顔を見つめた。
「高校二年のときに、肩やられでよ。甲子園とがプロとがいうレベルでねたって、一生野球やっていぎたがったすけ、残念だったじゃ」
 思いを噛みしめるように言う。私は目を輝かせ、
「名門高校ですか?」
「三本木農業という目立たね高校ですよ。そこでピッチャーやってだ。けっこう速球派だった」
 百六十七、八センチ。小さな名ピッチャーだったのだろう。男のほとんどが〈思い出の野球時代〉を持っている。
「―さあ、別腹、別腹」
 葛西さんは街道筋の喫茶店に立ち寄った。ミヨちゃんは白玉ぜんざいと小どんぶりのうどん、赤井は気取ってレモンティーとチーズケーキ、私と主人はブレンドコーヒーを注文した。和気藹々とした雰囲気の中で、下宿を出る話はしばらく言い出せないなと思った。
「七月のオールスターゲーム、神無月さん、観でってぜんぜん言わねがったでしょう。あったら記録作ったふとが、なして将来を心配して塞いでんだべなあ、気の毒な身の上だすけそれもあだりめがなって思ってせ。で、まあ、いづれ映画でも観に連れでって気分転換でもさせてなあと思ってたのせ」
 北国の片隅でちやほやされながら野球をしている自分を、華々しい成功者たちと引き比べて考えるとき、私はひしひしと無力感を覚えた。そんな英雄たちをテレビで観たら、きっと私の表情は思いもしない苦痛にゆがんでいただろう。かりにも天才などという言葉がアナウンサーの口から流れてきたら、耳は風馬牛を決めこんだだろう。彼らのプレーを盗み見る私の目つき、感想を言わない張りのない唇。そのときだけは、ただくだらない後悔と感傷だけの低俗な落伍者になってしまっただろう。
「ありがとうございます。いい気分転換になりました。可能性はあるとしても、決定していないものを見るのはつらいんです。希望という重荷を背負ってしまうので」
 赤井が、
「希望は重荷だずの……痛でほどわがるじゃ」
 うつむいていたミヨちゃんが、
「神無月さんはかならずプロ野球選手になります。あんな美しいホームランを打つ人をプロ野球が放っておくもんですか」
 ひそかな希望を抱いて、スパイクを鳴らしながら帰った宮中からのアスファルト道が思い出された。いまもこうして野球をひそかに同伴者にしている自分がさびしく、物悲しい。金田、杉浦、尾崎、村山、長嶋、王、野村、山内、張本……成功者たちの群れ。彼らの顔に表れている自信のなんという神々しさ! 神は好機を逸しなかった者だけを選ぶ。 
「尾崎は活躍してますか」
  


「ああ、第一戦でシメで投げでました。いやあ、ボールが速え! 今年は最多勝でしょう」
「ペナントレースは、どうなってます?」
「巨人と南海が独走してます。個人タイトルも王と野村で独占だべなァ。二人とも三冠王を獲るんでねがな。長嶋も影が薄くなったじゃ」
「打てなくなったんですか」
「可もなぐ、不可もなぐ。相変わらずチャンスにはめっぽう強いんだども、三割は危ねんでねがな」
「日本シリーズとなったら、やっぱし長嶋が活躍するんでねすか。なんせシリーズ男だすけ。今年から巨人に金田がきたはんで、鬼に金棒だべ。日本シリーズは巨人だべな」
 赤井まで野球の話題に食いついてくる。この夏、目と耳に私の騒ぎを聞きつけて以来、おのずと野球に興味が湧いたのだろう。いよいよ私はさびしさを感じた。

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