七十 

 学帽をかぶり、長靴を履いて表に出た。粉雪の中を轍に足を取られながら、赤井に連れていかれたあの裏通りをめざして歩いた。
 堤橋の文明開化の十字路に出ると、ほとんど人影はなく、降りしきる雪を横殴りにさらって走る風が見えるだけだった。幻を見るような妖しい気分が胸をかすめた。駅から延びる新町通りの街灯が、粉雪の中で蒼白く燃えている。私の心は、雪を固めて油のように光る道路に惹きつけられた。この悲しいほどの冷たさが、幼いころから自分を魅きつけてきたものの正体だとたちまち理解できた。私はいつもこの悲しみを確認するために動き回ってきたのだった。
 ビル街の小路を抜けていき、足早にあの小さな稲荷のある横丁にたどり着いた。家並に風と雪が遮(さえぎ)られ、風の届かない底冷えのする寒さだけが路の上にあった。女は一人も立っていなかった。しかし、赤井と訪れた日にぼんやりと輝いていた薄暗い場末の灯りを眺めたとき、たとえ一つでも窓に灯りをともした家は、どれも愛想よく私を迎えてくれるように感じた。
 その窓から私の姿を認めたのか、ドテラを着てズボンを穿いた中年の女が戸を開けて出てきた。口に煙草をくわえている。小さい顔がゆっくり近づいて、私の前に立った。かなり年のいった女だった。
「おや、きれいな子だねえ! 学帽なんかかぶっちゃって、その徽章、青高生?」
「はい」
「痩せちゃって。勉強ばかりしてるんでしょ。その顔で、女に不自由するはずがないのにこんなところにきて……ははあ、童貞?」
「いいえ」
 女はひっつめ髪の細い顔に玄人っぽい厚化粧をしていたが、目尻に齢が顕れていた。ユリさんよりも十も老けているかもしれない。眼も口も鼻も好みではなく、これこそ私が求めていた〈似合い〉の女だった。カズちゃんの面影から懸け離れたこの空しい女の肉体に私の肉体が反応し、そして、きちんと射精をすれば目的は達せられる。そうでないかぎり、役立たずの命に見合った〈清算〉をすることはできない。私はこの年増に命の残りのすべてを賭ける意気ごみで、力のかぎり微笑んだ。
「遅すぎじゃないの? もう一時を回ってるよ」
 言葉に訛りがない。女は私に合わせて笑いながら、煙草を足もとの雪に落とした。
「ほんとにかわいい顔して、たいした不良だね。あたしらみたいな女ともやってみたいなんて、相当なスケベだね。ショート? 泊まり?」
「ショートって何ですか」
「やっぱり童貞だね?」
「ちがいます。こういうところにきたのが初めてなんです」
「ふうん。ショートは一発やって終わり、泊まりは何発でもできるよ」
「泊まりません」
「あ、そ。寒いから早く中に入ろ」
 女はあごを振って、自分が出てきた板屋の戸口へ導いた。私は少し離れて彼女の背中についていった。ズボンの尻が小さな顔とちがってどっしりとし、特異な生活への適応がにおった。短い長靴の脛に毛糸の靴下が覗いている。ときどき風邪っ気のある咳をした。
 ―ユリさんよりもはるかに年上この女が、ユリさんと同じ好奇心を十六歳の私に湧かせて性器を濡らすだろうか。それよりも、ほんとうに私はこの大年増を前にして勃起するだろうか。
 私はポケットを通して自分のものに触れてみた。絶望的に萎んでいた。こういう終わり方こそ、私に見合ったシメかもしれないと、チラと思った。
「きみが相手だね?」
「いやなの? いやなら、ほかの子を回すよ」
「きみがいい。きみじゃないとだめだ」
「へんな子だね。お金、ちゃんと持ってるの」
 女は卑しい笑いを浮かべた。下歯がヤニで染まっていた。
「十万円」
「たまげたね! ショートは千円だよ。泊まりは二千円」
 女が粗末な造りの湿った引戸を開けると、だいだい色の燭光に照らされた幅の広い土間が真っすぐ貫いていた。トモヨさんの長屋と同じ造りだった。カズちゃんとそっくりなトモヨさんの顔を思い出した。
 ―トモヨさん。ごめんね、春に逢う約束を破ってしまった。埋め合わせをしたいけど何もできない。スッパリあきらめてね。あきらめることこそ人生の秘訣だよ。
 女は敷居をまたぎ、私が入るのを待ってギシギシ戸を閉めた。
「まだ十五、六だろ。一発やりたかったの」
「やり納めをね」
「何かの区切りかい?」
 私は首を横に振った。女は歩みを遅くして、私にすり寄った。
「かわいがってあげる」
「きみは、いくつ?」
「からかわないの。十九、二十歳じゃないことは確かだよ」
 徹底的に心のない会話であることに私は満足した。女は両側に棟割りの部屋がつづく土間を進みながら、さりげなく私の股間を握ってきた。私は思わず払いよけた。そのとき真横の部屋から坊主頭が出てきて、出会いがしらに私とぶつかりそうになった。その影を避けようとして、私はよろめいた。
「ららら、おめもこったらとごさくるのが!」
 無帽の学生服がぬっと立っている。
「古山……」
「すかし、おめがなあ……」
 さわやかに笑いかけると、古山は逃げるように引戸のほうへ去っていった。
「友だち?」
「うん、同級生だ。大秀才だよ」
「アタマがよくても、やることはいっしょなんだね」
 そういう言われ方をするのは古山に気の毒な気がした。きっと、彼にとって、仲間を出し抜いて欲望を満たす秘密の中には、あの赤井と同じように、単純な性の満足ではすまないような決意が、それを見破られてしまうとたちまち人格を疑われるようなものが隠されているのだ。彼の背中が引戸を閉めずに消えたとき、私は、大して驚きもうろたえもしていない自分に気づいた。
 二十ワットの電球を灯した六畳の部屋に、重そうな蒲団が敷いてあった。隅っこの火鉢に炭が赤く熾(おこ)っている。トモヨさんの部屋より広く、かなり暖かかった。年齢の隔たりからくる安堵のせいか、女は電灯の下でさりげなく全裸になった。大きな尻が見事だった。下腹がゆるく垂れ、そこに古い硬そうな傷があった。肌の張りから、ユリさんと大してちがわない年齢だろうとわかった。
「ふだんのお客にはパンツ脱ぐだけなんだけど、あんたにはサービス」
 彼女は蒲団にもぐりこんだ。
「どうしたの、早く脱いでこっちにきなさい」
 咳をしながら誘いかける。私は学生服の上着を脱ぎ、ズボンを脱ぐと下半身だけ裸になり、蒲団に並んでもぐりこんだ。
「上も脱ぎなさい。やりづらいんだから」
 なんというモノトーンな言葉のやりとりだろう。私はワイシャツとランニングも脱いだ。女が薄く垂れた乳房を押しつけてきた。黙っていると、冷たい腹を擦りつけた。尻を撫ぜると、ざらざらした感触が指に伝わった。
「あんまりきれいな顔だから、上がっちゃうよ。あそこ見たい?」
「いえ」
 天井の染みだらけのベニヤが少し反っている。もう打ち克つ必要のない空しさがまた襲ってきた。女は起き上がり、枕もとの小さな袋を破いて、丸いゴム輪を取り出した。
「なんですか、それ?」
「知らないの。サックよ。あんたのものにかぶせるの。どっちかに病気があったらたいへんだし、これをつけないと、妊娠しちゃうでしょ」
「危ない日なの?」
「そんなの忘れちゃったよ。とにかくこれをつけることになってるの」
 いやな腹痛を覚えた。堀川の汚い岸が浮かんだ。女は正座したまま、慣れた手つきで私のしぼんだ性器にサックをかぶせ、振ったり、揉んだりした。
「へんだねえ。こんなお婆ちゃんだと興奮しない? 木の股でもいいって年ごろなのにねえ」
 女はあらためて蒲団に両膝を突き直し、私の無反応と闘う姿勢をとった。淡い電灯の光が、傷のある腹を照らしている。なぜか醜いとは思わなかった。
「やっぱり、あそこ見ていい? 触りながら―」
「触るの! ……いいよ。ほんとは触っちゃいけないんだけど、かわいいから特別に許してあげる」
 股を広げると、グロテスクに分厚く重なり合った黒い陰唇が見えた。そこで進入が止められるのではないかと思うほどの厚さだった。陰毛の隠に皺くちゃな陰核包皮が沈んでいた。勇気を出して膣口に中指を入れた。親しみ慣れた温かさだった。これまでカズちゃんに教えられて身につけてきた性技をすべて使おうと決めた。左手の中指で上壁をこすりながら、右手の親指で皺だらけの陰核包皮を押し回した。わざとらしい声が上がった。
「ボクちゃん、じょうずね。だれに教わったの?」
 私は答えず愛撫をつづけた。隣の部屋から地に響くような女の唸り声がしている。もう一組男女がいるようだ。奥に潜んだままの陰核に昇りつめる気配はないのに、膣口はじゅうぶん濡れてきた。私は可能にならなかった。
「もう、そんなのやめて、早くきて」
「勃たないんだ。このサックが気になって」
 女はのろのろ起きて、サックを外し、私の萎れたものを口に含んだ。しきりに舌を動かす。温かく濡れたものに包まれる感覚が下腹にわずかな力を与えた。
「半勃ちだね。でも、このまま入れてみましょ。ショートだからゆっくりもしてられないしね。……私は病気持ちじゃないから、サックなしでしてみよか。ボクちゃんもだいじょうぶそうだし。ゴムなしで仕事するの、初めてよ」
 女は三本の指で茎をつまんで膣口に押し当てると、グイと腰を突き出した。どうにか収まった。女は腰を動かして、へんな声を上げはじめた。
「黙って。ウソ声なんか聞いてると萎んじゃうよ。少し大きくなってきたから、自分で動く。ぼくは鈍感で、なかなかイカないから、少し辛抱してね」
「好きにしなさい」
 火鉢の燠(おき)のはぜる音がした。腰を突き出すたびに、陰茎の付け根が陰唇で弾んで外れそうになる。亀頭を捕まえる膣壁が存在しない。女は反応のない完全さを保ち、安らかだった。性器がぬるま湯の中へ溶けこんでいくようだ。湯の快適さの中で、しっかり勃起する感覚が甦ってきた。これで射精できると思った。
「じゃ、速くこすって出しちゃうね」
 女は緊張した顔でうなずいた。
「ボクちゃんのオチンチンでオマンコがいっぱいになってきたよ。アタマが大きいんだねェ」
 応えずに動きつづける。この世の最後のセックスだ。感覚を確かめず、目をつぶって暖かい空間へ射精することだけを考える。
「あ、もっとゆっくりして、カリが引っかかって感じちゃう」
 膣がゆるいので、ゆっくりにすると長丁場になりそうだ。ここを早く去りたい。早く去ってあの森へいきたい。
「ああ、あ、だめだってば! ゆっくりして」
 仕方なく機械的に往復して射精を待つ。なかなか訪れない。もう待てない。女に気を使っていられない。あわただしく腰を動かしはじめた。
「あ、ボク、だめ、オバチャン、イッちゃいそう」
 かまわず素早く往復する。
「あ、ひさしぶり、イキそ、イキそ……」
 そう言いながら、自分に課しているタブーでもあるのだろう、懸命にアクメをこらえている。空間が狭まって亀頭を刺激しはじめた。さらにピストンを速くする。
「あ、だめ、オバチャン、イッちゃうよォ!」
 急速に緊縛がきたので、心おきなく奥深く突き入れて発射した。女が遠慮のない声を上げた。
「ウウウウン、イクウウ!」
 腹の傷が収縮して深く引っこんだ。女の手が私の尻をわしづかんだ。厚い陰唇を押しつけて痙攣する。無用の長物に見えた小陰唇が、根もとをしっかり包みこんで微妙に動いている。私はすべてやり遂げさせてくれた女に感謝し、ふるえている腹をさすってやった。女が間歇的に痙攣しているあいだ、自分のものを抜いて女の性器を見た。もこもこ出入りする膣口から、狭苦しい小陰唇の溝を伝って精液が会陰に流れ落ちる。女は横を向いたまま何も言わない。
「ぼくの最後のオマンコだ。ありがとう。……おばさんみたいな人たちはイカないはずなのに」
 女は首をもたげて私のものを見つめ、
「そんなカリでこすられたら、どんな女でもイッちゃうよ。女泣かせだね、ボクちゃんは」


         七十一

 私は枕もとの学生服から金を取り出し、女の胸に置いた。
「ぜんぶあげる、取っておいて」
「冗談言わないで、こんな大金。いらないよ、金は。いい思いさせてもらったあたしが払いたいくらいだ。……もうこないんだろ?」
「こない」
「最後って、どういう意味だい」
「もう、やらないってこと。勉強が忙しくなるから」
 女は金を枕もとの学生服のポケットに戻すと、腹ばいになって煙草を吸いつけた。そして激しく咳をした。熱のあるらしい顔が赤くなった。
「そう、区切りのオマンコだったの。こんなオバチャンで悪かったね。ひどい風邪ひいちゃってさ。移ったかもしれないよ」
「かまわないさ」
 女はしばらく煙草を吹かしていたが、起き上がると、小窓を開け、裸のまま横坐りになって火鉢に炭を足した。手をこすりながらあぶっている。雪の落ちてくる小庭に小ぶりな松が何本か蒼く茂っている。部屋の薄明かりに反射する樹皮がどんより堅そうで、古い金属の感じだ。薪を背負った二宮尊徳の小さな銅像が松のあいだに祀られていた。銅像は雪を載せて黒ずみ、寄せ細工の継ぎ目がはっきり見えた。女が振り返った。
「ボクちゃんはいい男だねえ。……ほんとに、一目惚れしちまう。オチンチンにも泣かされたけど。……だれかに義理立てしてるみたいだったね。いいんだよ。こんなオバチャンじゃ気分が出なかっただろ」
「気持ちよかったよ。ギュッと締まって、グニュグニュ動いて」
「うれしいこと言うね。オバチャンもあしたからまたつまらない毎日になるから、区切りのオチンチンだった。オバチャン、客から、垂れパイの、ゆるゆるマンジュウって言われてんだよ。ありがとう―」
 女は火鉢に視線を落とし、しばらく沈黙していた。裸の薄い乳房が火のすぐそばにあった。
「……泊まっていけば」
「いえ、帰ります。ありがとう。これからは勉強に精を出せる。きみのおかげだ」
「泊まっていきなさい。どうせここにくる前は、死んでたんでしょう」
 心臓が跳ね上がった。
「あたしも同じ。いつも死んでる。きょうは生き返っちゃった。もう一回、してくれる?」
 女はそう言うと、膝で摺ってきて、私のものを含んだ。私は自然な気持ちで女の背中を撫ぜた。彼女は口を離すと、私の腹に頭を載せて仰向けになった。
「ああ、こんな甘えた格好したの、何十年ぶりかなァ。……あたしこの仕事をする前、東京でOLやっててね、まじめな男と付き合ってたんだけど、裏切られちゃった。何の取り柄もない女だから、あたりまえだよね。人って、悲しくなると北に逃げていきたくなるみたい。ただ寒いだけで、ますます悲しくなるのにね」
「ぼくは逃げてきたんじゃなくて、流されてきた」
「……ボクちゃんは親切な男だね。真心がある。人それぞれということが、心のある人とない人がいるということが、きょう、よくわかった。これからは、人間の心に希望を持って生きていけるよ」
 希望という言葉に私は少し微笑んだ。
「ああ、いい笑い顔だ。もっと肥らないとね。……あたし、来年五十になるんだよ。老い先短い人生、希望のあるなしじゃ、大ちがいだ」
 静かな声だった。おそらく自前にちがいない科白がかもし出す底冷えのする調子は、私の耳にこの上なく魅力的に響いた。なんだか恐ろしいような気もしたけれども、この女を一晩中抱いていたい気になった。
「一晩いてあげたいけど、やっぱり勉強が忙しいんで帰る。あと一回だけしよう」
 ゴムの薄皮一枚を通さないだけで、女の心はここまで開放的になるものなのだろうか。
「お客さんとしてて、イッたことは」
「ないわ。ここを触らせたこともないよ」
 私は屈みこんで、厚い陰唇を口に含んだ。
「ボク、そんな、汚い!」
「ここが汚かったら、目も鼻も口も汚くなる」
 包皮を舐める。驚いたふうに両脚がばたばたした。
「ああ、ボク、オバチャン気持ちいいよ」
 思ったとおり、皺っぽい包皮から大きな陰核が出てきた。唇に挟んで舌先を使う。
「あああ、イク!」
 吸出しゼリーのように伸びたクリトリスが口の中で固くしこった。四つん這いにさせて挿入し、尻に恥骨を打ち当てながら思い切り突く。パンパンと音がする。
「ああ気持ちいい、気持ちいい、奥に当たる、ああ、イキそ、イキそ、イク、だめ、イカない、ボクちゃんとイク、ああ、だめ、一回イク、イクウ! あああ、またイク、あ、ああ、イク!」
 カズちゃんのような連続のアクメになってきた。しかし、襞の動きが、包みこむ宇宙がカズちゃんとまったくちがう。目当てどおりの空しい生殖器だ。引き抜き、表に返し、萎れた乳房をしっかり握りながら、抽送を急ぐ。
「あああ、またイクウ!」
 ゴリゴリという感じで締まってきた。今度こそ、最後の射精だ。
「おばさん、イクよ」
「イッて、イッて、ああああ、あたしもイク、イクイクイク、イクウウウ!」
 尻が跳ね上がり、膣が収縮し、陰茎の回りをうごめいた。記憶する必要のない最後の感触だ。
 ようやく痙攣を終えて目をつぶった女の顔が、真っすぐ私を向いている。充血した顔から皺が消えている。幼女のような顔が赤々と輝いている。愛する女の顔でないことを確かめて安堵する。
 女は起き上がりそうもない。結び合ったまま眠ってしまったようだ。水屋の置時計を見ると二時を回っていた。真冬の夜が明けるのはまだまだ先だ。私はそっとからだを離すと、服をつけ、ポケットから金を取り出し蒲団の下に挟んで土間へ出た。長靴は革靴に履き替えないといけないな、とふと思った。
         †
 カズちゃんと山口宛ての手紙をこまかく破って、屑箱に捨てた。
 ―言い残す言葉があったら、生きているうちに言え。
 腰にロープをゆるく巻きつけた上から、きちんとブレザーを着た。学生服の上着を椅子の背に掛け、学帽は机の上に置いた。二階から麻雀牌をかきまぜる音といっしょに学生たちの聞き慣れた高笑いが落ちてきた。食堂の外ではまったく口を利いたことのない声の主たち。玄関で革靴の紐を結ぶ。山口に会っていきたいけれども、真夜中にドアを叩いてわざわざ別れの挨拶をすることなど思案のほかだ。
 暗い空から、水気をたっぷり含んだ羽毛のような雪が、地面に吸いつくように舞い降りてくる。アスファルトの道は凍りつき、轍もろともニスを塗ったよう雪面になっていて足もとが危うい。正門前から灯りの乏しい道筋の信号を二つ越え、筒井小学校の裏手を通って玉川の土手に出る。この川沿いを歩くのは二度目だ。あの場所への近道だ。
 細い流れを見下ろしながら上流のほうへ道をとり、まばらな家並を左手に見ながら歩く。暗い明け方に灯りを点している窓は一つもない。このあたりまでが市街で、ここから先はぽつんぽつんと古い民家が建っているきりだ。
 道端に掻き寄せられた雪がザラメのようにきらめく。川岸の果樹園に楕円の月が射している。川の単調なざわめきが耳に心地よい。曲がりくねった小径を拾って歩いているうちに、民家の姿が見えなくなった。畑や原が広がり、雪をかぶった休閑地や黒い森がある。その向こうにはたぶん農家や家畜小屋があり、集落もあるにちがいない。
 果樹園と畑地のあいだをゆるやかに流れる川が進路を変えるあたりに、沼のように光る深い瀞(とろ)が見える。その瀞から流れ出た水は、木立にすっぽりと覆われた浅瀬へゆっくり動いていく。
 土手道から険しい斜面の間道へ下りると、瀞が本流と合流するあたりにあの古びた木橋が架かっていた。橋の上で立ち止まって川面を覗きこんだ。緑色の波がたわみ、ガラスのようにつやのある模様を描きながら遠ざかっていく。森を見やると、霧を透かして一本一本の樹が骨のように立っていた。橋を渡り、川岸から離れないように森に沿って進む。楢や栂(つが)が寄り添って白い影を並べている。足もとに根雪が見える。
 葉が落ちて枝ばかりになった木立の群れに入った。森の中はひどく暗かった。柔らかい落葉の道は雪がなく、踏みしめるたびにじゅくじゅく水気が滲み出してくる。足もとを確かめながら繁みのほうへ進んでいく。松の樹脂が月の光を反射している。落雷に打たれた倒木がボロボロに崩れて木屑になり、そこかしこの樹から枝がぶら下がっている。
 水音がしたので、暗い森から薄明かりの川岸へ戻った。動いているのは川の水しかない。動くものをもう一度目に焼きつけておこうと思った。水は相変わらずきらきらと波立ち、底に透明な夜を湛えて流れていた。
 風が出てきた。雪が空中で揺らめく。森を振り返ると、木々の黒い梢がざわめいている。長いあいだ私はざわめきを聴きながら立っていた。空を見上げて、雪を顔に受けた。すぐに融ける冷たい雪片が別れの愛撫のように感じられた。大きな鳥が水面へやってきた。やがて舞い上がって夜空をめざした。たちまち小さな点になった。
 森へ引き返した。自分の足音を聴きながら、あの木を求めて歩いた。たまらなくさびしい気分に浸されはじめた。どうしてこんなにさびしいのだろう。道に迷ったのかもしれない。いや、迷うはずがない。もともと道などなかったのだから。
 目の前にあの古木があった。闇の中だというのに、ウロのある幹は内部から発光するように銀色に輝いていた。雪が森の中にも落ちているのが見えた。腰からロープを外し、枝にかけ、留め輪を結んだ。強く引いてかかり具合を確かめる。私の記憶は一つの顔に向かって明瞭に動いた。
 ―滝澤節子。
 最後の足掻きのように、母でも浅野でもない滝澤節子の人格の真摯さというものを信じようとした。できるならこの一年余りをもとに戻して、もう一度永遠に貴いものとして一人の女の人格を信じたかった。もし何かの奇蹟が起こって、滝澤節子があの朝、約束どおり私のもとに戻ってきていたら、たとえいまと同じ運命をたどっていたとしても、何も思い残すことはないだろう。思い残す? 私に思い残すことなど一つもない。いや、一つだけある! カズちゃん! もうほかのだれの顔も浮かばない。
 ―カズちゃん!
 しかし、死ぬしかないのだ。私は死ぬという一つの考えにこだわり、そこから気を散らさないようにした。希望とも言えない希望に心のすべてを託してきた自分の愚かさがたまらないほど歯痒く感じられた。愚かな人間のする自殺という行動こそ最も愚かではない行動に思われた。
 ロープを首に二重に巻きつけ、木の幹にもたれながら、徐々に体重を下へずり落としていく。痩せたエラの縁が絞まりはじめた。耳のつけ根に喰いこんでいくロープの感触がはっきりわかる。何よりも恐ろしいのは、じつのところ、死ぬことではなかった。野球を振り捨てて死んでいくことだった。しかし、空に打ち上げるホームランにどんな意味があるだろう! 何もやり遂げないこと、それだけが私の人生だ。常にそうだった。孤独や、絶え間ない倦怠や、だれかにむだだと教えられる情熱や、恐怖との同居や、いつも切迫していた時間。
 最後の空を見上げた。四分の三ほどの月が輝いている。こんな新鮮な気分で月を眺めたことはなかった。強く尻を落とした。ズボンの尻に水が沁みてきて、一瞬、心臓が痺れるような感じがした。気持ちの悪い痛みが耳の奥に走った。だんだん顔がこわばってくるのがわかる。口を動かすこともできない。末期(まつご)の思いを期待していたのに、何の思いもめぐってこなかった。私は微笑しようとした。もし、まんいち生き延びてしまったら、この卑屈な微笑は生きているかぎり私の口もとにただようだろう。体重をさらに落としていく。とつぜん苦しくなり、咳がたてつづけに出た。咳は涙を誘い、いっそう激しい咳になってほとばしり出た。咳きこみながらロープに体重をのしかける。首が強く絞まるにつれて、カズちゃんを思う心が、彼女一人を思う心が、強烈に頭の芯を浸した。
 目の前の木々が消え、視界の両側が闇だけになり、川音が聞こえ、その向こうに、劇場の舞台か何かのように明るい街が拡がっているのが見えてきた。幻影だろう。とたんに意識が闇の中へどんより波を打った。
 ―さよなら! カズちゃん! みんな、みんな、さよなら! 康男も、クマさん、小山田さん、吉冨さん、荒田さん、じっちゃ、ばっちゃ、山田……も、山口ィ……、みん……み……。
 もうろうとした耳に、首に拍つ脈の音がゆっくり二度ほど聞こえた。不意に、すぐ間近で、
「バカヤロー!」
 という声が爆発し、からだごと抱き上げられた。バカヤロ、バカヤロ、バカヤロと連呼している。オオオという号泣の声が混じった。
「俺を見ろ! 目を覚ませ! 死ぬな!」
 幻聴にちがいないと思ったけれども、私は目が覚めたようになり、抱かれたまま懸命に幹にすがった。脈の音が激しくなる。その現実味を帯びた声の主は、私の首から荒々しくロープを外した。そうして垂れ下がっているロープを黒い枝の群れに向かって高く投げ上げた。あわただしい脈の音といっしょに遠ざかっていた意識がのろのろ戻ってきて、私は激しく咳きこんだ。男は私を咳きこませながら、パンパンと背中を叩いた。
「見失って焦ったぜ! バカヤロー!」
 涙と洟にまみれた顔で、山口は私を抱き締めた。
「俺にも首を吊らせる気か! おまえがこと切れてたら、俺もここで死ぬしかなかっただろ。この人殺し野郎!」
 号泣しながら私の背中をさする。
「だいじょうぶだ……山口……もうだいじょうぶだ」
 山口は私の腕を自分の首に巻き、胴を左腕で抱えて引き上げる。私はどうにか立ち上がると、どんよりした頭痛を抱えて彼にもたれかかった。シャーという激しい耳鳴りがする。
「さ、帰ろう。和子さんのところへいこう。おまえのたった一つの巣だ」


         七十二

 それから山口は私に肩を貸したまま、足を浮かせるように引きずりながら、もときた途を戻りはじめた。私は恐ろしくずきずきする頭痛に苦しみながら言った。
「嘘をついてしまった……」
「大嘘つきだ。死んでみたかったでは、俺を説得できないぞ!」
 山口は私の腕を自分の首に巻いてずるずると引きずった。耳鳴りが止まない。森の端の川原に出たとき、向こうの岸から川中へ伸びている砂洲の上に、一羽の鳥のシルエットを認めた。ずんぐりと短い体型をしていた。そのあたりはちょうど無数の洲に川が細流になって砕け、蟻の巣のように入り組んだ場所で、流れの速さがあちこちで変わっていた。岸辺を滑り、渦を巻き、淵によどみ、葦に絡み、さまざまな水の音がまるで鈴の音比べでもしているように、キンキン闇の中で鳴っていた。こんなさびしいところで私は死のうとしていたのだ。
「あとをつけたのか」
「俺がどうしてここにいるかなんてどうでもいい。とにかく俺はここにいるんだ。おまえを殺さないためにな……」
 山口は何かの使命を帯びてやってきて、私の死を押しとどめるために奮闘したのだ。うつむいた私にその表情は見えないけれども、きっとふだんとはちがった恐ろしいほど真剣な顔つきで、涙にあふれる目を大きく見開き、精力的に目玉を動かしているだろう。そう思ったとたん、いちどきにあたりの闇に暖かみがあふれた。その暖かいものは私の胸の奥にもあふれ、気の遠くなるほど激しく強くからだ全体を包みこんだ。
「山口……首を斬り合わなくてよかった」
「……それでもよかったんだ。おまえは俺の死に場所だからな」
 山口が喉を絞った。私の喉にも嗚咽が昇ってきた。
「これからはどんな気まぐれを起こしてもいい。……死ぬのだけは俺たちと慎重に連絡をとり合ってくれ。こっちにも身支度があるからな」
 私たちは森を抜け、木橋を渡って、時間をかけて土手の上へ登った。雪が視界をさえぎるほど降りしきっている。夜が薄白くなっている。アパートを出てからもう何時間経ったのだろう、からだが芯から冷えきっていた。凍った地面から雪を連れて巻き上がる風が、時おりまともに二人に吹きつけた。
 気が遠くなるほど歩いた。生まれてからずっと歩きつづけている感覚になった。実際歩いているのは山口だった。彼は死体を担いで歩いているのだった。
「和子さーん!」
 山口は玄関から呼びかけた。
「はーい、ちょっと待って!」
 ドタドタと足音がして玄関の戸が開いた。
「あ、キョウちゃん! どうしたの、倒れたの!」
 私はさりげなく山口の肩から離れて直立の姿勢を保とうした。しかし立っていられず、そのまま崩れ落ちた。カズちゃんは、一目で事情を悟った。
「キャー! 死なせないわよ! 死なせない! 死んだら私もここで死ぬ!」
 へたりこんで私にすがるカズちゃんの膝頭が見える。からだの自由が利かないけれど、すでに頭痛が薄らぎ、耳鳴りもかすかになって、喉の縄目の跡だけがヒリヒリ痛みだしている。山口が私を抱き起こしながら声を張り上げた。
「だいじょうぶだ、死なない! 息を吹き返した。死なないよ!」
 山口は私の両脇を抱えて式台へ引きずり上げた。
「きのうの晩は徹マンの音がうるさくてさ、何度も目を覚ましたんですよ。それがラッキーだった。二時を過ぎたころに、アパートの玄関でへんに静かな足音がして、いやな予感がしたからあわてて服を着て、長靴履いて表へ飛び出したんだ。こいつがスッスッと歩いていきやがる。スッスッと一直線だ」
 夢中でまくし立てる。
「あああ、追っていってよかった! 森だよ、和子さん、気味の悪い森だった。ありゃ何年も見つからない場所だ。ふっと背中見失っちゃってさ。泣きながら探したよ。涙がじゃまくさくて前が見えやしない。間一髪だった! 俺の命も間一髪だった。こいつは俺の命だ。和子さん、あんたの命だけじゃないんだ、俺の命なんだよ。こら、バカヤロ!」
 山口は横たわっている私の脚にすがりついた。おいおいと泣く。
「キョウちゃん! キョウちゃん! 目を開けて!」
 私はすでに開けている目を、力をこめて見開き、
「もう開いてるよ。見えないの」
「バカバカ、バカバカ!」
「これで神無月は百年も生きる気になったはずです。俺たちもこいつといっしょに百年生きましょう!」
 カズちゃんは、その場で私にすがって泣き崩れようとする姿勢を、背中を丸めて懸命にこらえた。山口は膝を突いて起き上がり、カズちゃんの背中をさすった。
「もうだいじょうぶです、心配ない。きょう一日、寝かしといて。放課後に連れて帰りますから。風邪だと届けておきます。和子さんは幼稚園休んじゃだめですよ。園児が飢え死にしちまう。雪を巻いたタオルで首を冷やしてやってください。じゃ、俺帰ります。お休みなさい」
「お休みなさい。ほんとうにありがとうございました。一生感謝します」
「それは、なし。一生はなし。俺たちは感謝し合っちゃいけない。神無月といっしょに生きていくだけです。俺は自分が死にたくなくて足掻いたんです。それが、神無月のためにも和子さんのためにもなったとしたら、まちがいなく俺たちの血管がつながってるからですよ。神無月は生きてる。俺たちにも何も起こらなかったんですよ。じゃ、俺、学校に出ます」
 山口が玄関戸を引いて出ていく背中が見える。
「カズちゃん……」
「いいの、いいの、何も言わないの」
 カズちゃん靴を脱がせ、靴下を剥ぎ、雑巾で丁寧に足を拭いた。ブレザーとシャツを脱がせ、ズボンとパンツを引き抜いて全裸にした。怪力で負ぶって寝室へ連れていく。ふたたび蒲団に横たえられた。親しい部屋のたたずまいに激しく安堵し、目がくらんだ。カズちゃんは湯を張った洗面器にタオルを浸して絞ると、足の先から丁寧に拭きはじめた。
「キョウちゃん、私はキョウちゃんなのよ。死んだら無理心中よ。これからはよく考えて死ぬのよ」
「うん。山口も同じことを言った」
 ふふ、と笑う。
「なんで笑ってるの?」
「ほら、オチンチンの根っこにおつゆが白く固まってこびりついてる。あんまりオマンコをきれいにしてない女ね。私とすると未練が残ると思って、あの稲荷神社の女の人を最後に抱いたのね。ありがとう、未練に思ってくれて。でも、そんな女に最後のオツユをあげないんだから。これから私と何百回も何千回もしなくちゃいけないわ。最後のオツユも私。でも、私のことを大事に思って、心の整理をそんな人でつけたのかと思うと、なんだかうれしくなる。私としてたら、キョウちゃん、きっと、とっても未練を残して死んでたわ。私とキョウちゃんはぴったりだから」
 カズちゃんは、今度は外の雪のかたまりを洗面器にいっぱい詰めてきて、乾いたタオルに巻寿司のように包むと、首に架け渡した。
「赤剥けになって、内出血もしてるわ。ほんとに危機一髪だったのね。もう死のうなんて思っちゃだめよ。連れてってもらうって約束した私はどうなるの」
「……名前を呼んだ」
「そんなさびしいところから呼んだって、聞こえないでしょう。ちゃんと手を引いて連れてって」
 やっぱり取れない、と言って、カズちゃんは私の尻の下にビニールを敷くと、もう一度湯を沸かして、石鹸で丁寧に睾丸の裏まで洗った。においを鼻で確かめ、
「オッケイ」
 と私のお腹を叩いた。
「口から胃液のにおいがするわ。何も食べてないのね」
 カズちゃんは十分ほどで粥を作り、醤油で炒めたニンニクを載せて、手ずから食べさせた。
「骸骨みたいに痩せちゃって。これが天才野球選手のからだ? あしたから肥るのよ。うんと食べて」
 私は必死でカズちゃんの柔らかなからだにしがみついた。これまでも、いまも、これからも、私のいっさいを知るただ一人の女のからだだった。愛惜の思いも、喜びの記憶も、いつも静かに見届けてくれた女のからだだった。私たちは両手を結び合わせた。私の裸の胸にポタポタとカズちゃんの涙が落ちた。
 やがてカズちゃんは玄関土間へ出ていった。
「ああ、やっぱり、この靴もうだめね。捨てましょう。ちょうどよかった。黒と茶と二足買ってあったの。イタリア製よ。下駄も二足買ったわ。京都の老舗のいいもの。あしたは寝転がってテレビでも観てなさい。三時までには帰るから」
「カズちゃん、早く寝て。何時間も寝られないよ」
「もう五時前よ。そろそろ出勤の時間」
 時間の感覚が戻ってきた。
「お風呂に入って、朝ごはんを食べてから出かけるわ。キョウちゃんこそ早く寝なさい。たいへんな一日だったんだから。山口さんがいなかったら……おお、ゾッとする」
 カズちゃんは風呂場へいき、全裸で戻ってきた。
「お乳とお乳のあいだに片手を置いて。もう一つの手の指をオマンコに入れて」
 私は言われるようにした。
「その二つのものをいつも思い出して。キョウちゃんが死んでたら、その二つのものも、もうここにはなかったのよ」
 清算という名分で、死ぬことに連絡がついていたはずだったことが思い出された。それと同時に、空しさを抱えこむ努力もせずになぜ命を清算しようとしたのか、劣った命は間引きされることで名分を立てなければならないのだろうか、それ以前に何を空しく感じたのだろうかという疑問が、暖かい胸と膣の感触といっしょに新しく湧き上がってきた。まがいものの倦怠、精神のスノビズム―死こそ無用の人間の良心の象徴だとでも言うために、死のうとしたのだろうか。
 死のすぐそばまでいって、闇を覗きこんだ首筋を引き戻され、みっともなく生き延びたからには、私はもう乞食と同じように、何でも自分に与えられたものを〈多〉として生きていくほかない。与えられるものを心すなおに受け入れ、私に与えようとする人びとのために、生き延びた命を使うこと。与える人に流され、成りゆきのままに生きること。山田三樹夫が死んだ夜、彷徨しながら私は決意したはずだ。
 ―美も醜も、世俗も超然も、すべてを受け入れ、死なずに、ひたすら生きること。
 最後にいのちの記録に書きつけるべき言葉はそれだ。でも、もうノートは要らない。耳鳴りの奥の海馬にしっかり書きつけた。今度こそ、愛され、与えられる僥倖に感謝し、それに頭を垂れよう。私が愛を返すことは、その感謝から引き出される付属物にすぎない。
 あちこちを動き回るカズちゃんの足音がしばらく聞こえていたが、やがて意識の外へ遠ざかった。
         †
 カズちゃんが帰ってくるまで、意識もなく眠りこんだ。起きて、風呂で全身を洗ってもらったあと、もう一度粥を与えられた。塩昆布と梅干だった。
「こんなものでもおいしく感じるでしょう? 生きてる証拠よ」
 夕方迎えにきた山口といっしょにアパートに戻ってからも、なかなか疲れが取れず、いったん横たわった蒲団からなかなか起き上がれなかった。
 何日も咳がつづいた。固形物が食えないとわかり、カズちゃんがヨーグルトやプリンやよく焼いたりんごを差し入れた。かならず山口がそばにいた。
「おばさんに会った?」
「うん、よさそうな人ね。哀れなくらい心配してた」
「猛勉のやつ、また髄膜炎かって冗談を言ってたが、つらつきが真剣だった」
 私の体調不良は、野球をめぐる脈絡で母が関係しているせいにちがいないと彼は察していている。まさか転校までは思い及ばないだろう。
 やがて咳がやむと、急にめまいを伴った脱力感がやってきた。再生を果たしたはずのからだが、もう一度死にかけているように思えた。
「やっぱり、あの森で風邪をひいてしまったか。あの日の明け方は零下九度まで冷えこんだからな」
 枕もとから私の目を覗きこむ山口に、港の女にうつされたのだと正直に言った。
「空しい女の生殖器に、最後の空しい射精をして死にたかった。くだらない。空しい男にふさわしい最期を演出したかったんだね。カズちゃんには見抜かれてしまった。ねえ、山口、ぼくはこれから何をめざし、何を喜びとして生きていけばいいんだろうね」
「自分の命そのものだよ。特におまえは、生きてることが大事だ。おまえにとっては大した命でないだろうが、俺たちにはこの上なく貴重なものだ。……俺たちの命もありがたがってくれれば、この上ない喜びだがな」
 私は救い主(メシア)の手を握った。
「もともとぼくは、何の目的も、生甲斐もなく生まれついた白痴なんだ。生きる方法はもちろん、死ぬ方法もわからない。そんな命が貴重とはとても思えないんだ」
「何も思わなくていい。何かを思うことがおまえの命取りになる。反省するな。卑下するな。韜晦はおまえにはいちばん似合わない。威張る必要はないが、太陽は太陽らしく、ただ黙って輝いていればいい」
 その翌日も、起きられないだろうという予感が朝からしていた。それでも私は明け方に無理に起きだして、便所にいった。添い寝をしていたカズちゃんがついてきた。分厚い陰唇に包まれてふるえた性器をじっと見つめた。見るからに醜い肉の塊だった。あの女が褒めた顔を、手洗いの鏡で念入りに確かめた。目に力がなく、両あごはぶざまに尖っていた。
「もう少ししたら、うんと食べられるようになるわ」
 カズちゃんが何度も冷やした赤い首の輪を撫ぜた。腹が冷えてきて、ねじれるように痛み、もう一度便所へいって両手でみぞおちを押さえながら烈しい下痢をした。カズちゃんが悪臭の中で背中をさすり、湿らせたチリ紙で尻を拭った。


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