七十六

 十二日の土曜日、山口といっしょにカズちゃんの家にいった。山口はビーフカレーの夕食を食ってさっさと帰った。
 葛西さんの家に電話を入れて、赤井の結果を尋いた。京大工学部に合格したと奥さんが教えた。京都のほうで落ち着いたら、今月の末の土曜日に遊びにくるから神無月さんもぜひきてほしい、と言った。
「二十六日の土曜日ですね。いきます」
「夕食にご馳走を作りますから。主人も、兄さんも楽しみにしてます。赤井さんは、その日の夜行で北海道へ帰るそうです」
「わかりました」
 ミヨちゃんが電話を代わり、
「二十四日の木曜日にデートしてください。浪打小学校の修了式の日なんです。二十五日が卒業式です」
「青高も二十四日が終業式だ」
「わあ、よかった。じゃ、一時、堤橋で。映画にでも連れてってください。いいでしょうか」
「もちろん。終業式の日は半ドンだから、一時半までにはいける」
「私は一時から待ってます」
 電話の内容を、カズちゃんに話した。
「もとどおりの、大忙しのキョウちゃんになったわね。なんだかホッとする。だいぶ肥ってきたし、首の輪も薄くなった。とにかくよかったわ。映画なんか見るより、食事なんかして、ぶらぶら歩いてらっしゃい。そのほうが、ミヨ子さんも気安いんじゃないかしら。お食事はあのお寿司屋さんでして」
「そうだね、そうする」
「来年の野球用品で必要なものない?」
「ストッキング五足と、アンダーシャツ五枚。帽子一つ。背番号7のフェルトは、三着とも新しくしてもらって」
「はい。文房具は?」
「ノートが何冊か必要かな」
「私たくさん持ってるから、それを持ってって。ワイシャツは夏冬五枚ずつ買ってあるから心配ないわ。ところで、春休みに、山口さんと三人で名古屋にいかない? この二十九日から四月の一日まで三泊四日の予定で。園児募集の時期はお休みになるのよ」
「いいね! 山口も喜ぶぞ」
「お父さんたちに連絡しておくわ。トモヨさんにも」
「トモヨさん、喜ぶだろうなあ」
「それはもう。ときどき、連絡とってるのよ」
「今年はどうしても、名古屋城の桜を見なくちゃ。飛島には寄らないよ」
「当然よ」
 風呂にいっしょに入り、いつもの充実した夜が始まった。カズちゃんはけっして母の話題を持ち出さなかった。愛する者の自殺騒ぎのあとであんな話を聞いたら、平静でいられないはずなのに、彼女は強靭な心でふだんどおりの態度を通した。
 翌日の日曜日、霧雨の降る午後、ヒデさんが前ぶれもなく健児荘を訪ねてきた。かわいいお客さんだよ、と山口に知らされ、玄関に出ると、毛糸の手袋をした手に風呂敷包みを提げ、ふさふさの耳覆いをした少女が立っていた。しゃれた雪靴を履いている。
「ヒデさん! よくきたね」
 首の輪の赤みが薄くなってから会えたのがうれしい。
「神無月さんのお祖母さんから新しい下着と、母から豚肉です。この季節は配達が遅れるから届けにいってこいって言われて」
「こんな遠くまで、たいへんだったね」
「……ほんとうは、私がきたくて、母に頼んだんです。豚肉、どうしようかな。管理人さんに渡したほうがいいですか」
「そうだね、あとで渡しとく」
 山口にコーヒーをいれてくれるように頼み、ヒデさんを部屋に入れた。蒲団を押入にしまい、ストーブの脇に坐らせる。ヒデさんが風呂敷を解いているところへ、物音を聞きつけたユリさんが茶菓子を持ってきた。ガラスの盆に、いろいろな意匠の小粒な練りきりが六つ並んでいる。
「いらっしゃい。野辺地のかた?」
「はい、野辺地中学校三年の中島秀子といいます。兄が神無月さんに家庭教師をしていただいて以来、懇意にさせていただいてます」
「まあ、ご丁寧に。どうぞよろしく。このアパートの家主兼管理人の羽島です」
 私は、
「この豚肉、中島さんからいただきました。あとで食堂に届けようと思ってたんですけど、今夜、豚汁にしてくれませんか」
 私が言うと、
「どっこい承知のスケ」
 古い言い回しで答えて、チラッとヒデさんの横顔を盗み見た。それから私と見比べるようにした。ユリさんは何カ月もセックスを遠慮している。今夜あたり忍んでくるかもしれない。そのほうがいい。彼女が医者を呼んでくれたと、山口が意外そうな顔で笑っていたが、そのことにはまだ礼を言っていない。費用もきっと立て替えてくれたのだろう。それも返さなければならない。
「きれいなかたね。……ごゆっくりどうぞ」
 微笑みながら去った。
「お化粧してましたよ」
「いつもだよ。若者たちの中にいるからね」 
「ふうん。誘惑されないでくださいね」
「五十近い女に?」
 ユリさんにすまないと思ったが、冷たい調子で言った。
「女はわかりません」
「葛西さんのときも同じことを言ったよ。いつもの心配性だね」
 フォークのないことに気づいたが、私は小豆のついた練りきりを指でつまんだ。
「あ、フォーク」
「だいじょうぶ、指で食べたほうがうまい」
 ヒデさんはバラの形をしたものを選んだ。
「ほんと、おいしい」
「勉強、がんばってる?」
「はい、ずっと二番です。恵美子さんはなかなか抜かせてくれません」
「あの顔じゃ、勉強やるしかないよね。どうしてよしのりに似てないんだろう」
「そんな気の毒なことを……」
「山田の妹とは仲良くしてる?」
「このごろ会ってません。彼女が野高にいってからは、夏に青森市営球場にいっしょにいったくらいです。来年は、いろいろ勉強を教えてもらおうかなって思ってます」
「青高にいけたろうにね」
「お母さんが許さなかったみたいです。神無月さんのこと大好きなんですよ。私には敵わないけど」
 山口の足音がして、コーヒーをいれた二つのカップを持って入ってきた。
「お、うまそうな練りきりだ。しかし美人だな。どこの産(さん)?」
「野辺地です。中島秀子といいます」
「俺は山口勲。年はいくつ?」
「今年の一月に十四になりました」
「中三か。青高、受ける?」
「はい、受けます」
「そう、がんばってね。じゃ、神無月、用があったら声をかけてくれ」
 山口が去ると、私は急に手持ちぶさたになり、コーヒーをすすった。ヒデさんもすすった。
「少し痩せましたね」
「うん。野球が暇になって筋肉が落ちた。春までにもっと体重を増やさなくちゃ。体重は馬力につながるから。いまの山口はギターの天才だ。頭もピカピカに切れる。……合船場にはよくいくの?」
「はい。神無月さんの噂が聞きたくなると、お祖父さんお祖母さんに会いにいきます。夏にしばらく野辺地にきてたって聞いてびっくりしました」
 恨みがましい目で見つめる。
「三日もいないで帰ってきた。花園の下宿を出る予定もあったし」
「下宿を引き揚げたって知ったのは、ついこのあいだです」
「わがままだよね。自由なアパート生活がしてみたくなって。もう半年近く、じっちゃばっちゃに会ってないな。連絡もしてない」
「お祖母さんは、正月もけっこうあちこち歩き回って、忙しくしてたみたいです。うちにもホタテを持って顔を出しました。そのとき、ここの住所を教えてもらったんです。野球と勉強で忙しいからキョウは帰ってこられないと、うれしそうに言ってました。神無月さんはもうすっかり有名人ですから。青森放送で中継したときは、野辺地じゅうでテレビにかじりついてた感じです。お爺さんはときどき郵便局の前で見かけます。転んで腰を痛めたらしくて、でも、もうすっかり元気になりましたよ」
「いずれ、もっと遠くへ離れることになるんだろうけど、いつか、何かの形できっと恩返ししないと」
「遠くへいってしまうんですか」
「県外の大学へいくので、そうなる」
「やっぱり、東大へいくんですね。新聞に書いてありました。勉強も青高でナンバーワンだって」
「阿部キャプテンがオーバーなこと言っちゃったから。トップになったのも一回だけなんだよ。ちょっと待ってて」
 私はヒデさんを置いて廊下へ飛び出し、山口のドアを叩いた。音楽を聴かせてやってくれと頼む。
「ミヨちゃんの続編だな」
「二人きりでいると、話に詰まる」
「だな。ギターを聴かせてやるか」
 彼は快く了承し、ギターと楽譜を抱えてやってきた。茶菓子をつまむつもりで、小さなフォークまで持っている。
「いただくよ」
 山口はウサギの形をした練りきりをフォークに刺して口に放りこむと、最近流行っている舟木一夫の北国の街をかき鳴らした。誘われてヒデさんが唄いはじめた。山口もきょろきょろと目に愛想をつけながら、ハーモニーを作った。彼女は気分をよくし、すっかり腰を落ち着けた。葛西家をたずねてきたときの様子とはまったくちがっている。
「神無月、おまえの声を聞かせてやれ。腰抜かすぞ。加山雄三の恋は紅いバラ、知ってるな」
「うん。ちょっと待って。適当に裏をつけてくれ。テープレコーダーに録(と)ろう。ヒデさんに持たせてやる。ヒデさん、テープレコーダー持ってなかったら、お母さんに買ってもらって。むかしよりよほど廉くなってると思うから」
「はい」
 押し入れの底からテープレコーダーとマイクを取り出し、新しいリールテープを巻いて準備した。ヒデさんが好奇心に満ちた目で見ている。音楽に触れるのはひさしぶりだ。気分が明るくなる。
「案外洒落たものを持ってるんだな」
「何も思わない幸福な時代があったってことさ。その形見だね」
 絶妙なアレンジをした前奏が流れはじめる。山口の目に見つめられて唄いだす。

  アイラブユー イエスアイドゥー 愛しているよと
  きみに言いたくて そのくせ怖いのさ
  きみに今度逢うまでに 見つけておこうね
  その勇気を アイラブユー イエスアイドゥー
  夜空に歌えば ぼくの心に恋の火は燃える

 ヒデさんのうつむいた顔から、たちまち涙が頬を滑り落ちた。山口は天井を向いて和声をつけながら、真っ赤な目をしていた。手だけは軟体動物のように動きつづける。

  ぼくと今度逢うときは 黙ってお受けよ
  この愛を アイラブユー イエスアイドゥー
  恋とは 男の胸に息づく紅いバラの花

 私はテープレコーダーを止めた。しばらくしてヒデさんは涙にまみれた顔を上げ、激しく拍手した。
「すごォい! なんて声なんですか、すごい!」
 山口は掌で目を拭い、
「な、聴いたことない声だろ。不思議な楽器だ。……この道で生きていける。しかし、神無月には関係のないことだ。ときどきリクエストして、聴かせてもらおう」
「一曲唄うと、くたくたになる。苦しくて、からだじゅうが燃えるみたいになるんだ。ほんとに、ときどきしか唄えない」
 ヒデさんは山口の目もかまわず私の手の甲に手を置いた。年上の女のようだった。
「神無月さんて……」
 山口はにっこり笑った。私はテープを外してケースに納れ、ヒデさんに渡した。彼女はそれを大事そうに風呂敷に包んだ。
「ありがとう、神無月さん、山口さん。帰ったらすぐテープレコーダーを買ってもらいます。毎日聴くのはもったいないので、ときどき、寝る前に聴きます。家族のみんなにも聴かせてあげます。そうだ、お祖母さんが、お金に不自由してないかって言ってました。足りないなら送るって」
「母の送金だけでじゅうぶんだ。あの倹約家のじっちゃに、幼稚園のころ、たった一度だけお小遣いをもらったことがあるんだよ。五円。うれしかったなあ。メンコを三円、貼り絵を二円買った。忘れられない。そのくらいぼくは金を使った経験のない人間だ。たとえ金があっても、何に使っていいかわからない。たっぷりあったら、そうだなあ、いき当たりバッタリに、本かレコードに使うかな」
「慎ましさというのと、何かちがうものですね」
「慎ましさも贅沢も、どちらにもとりたてて気持ちは動かない。このテープレコーダーも中二のころ、カズちゃんという人に買ってもらったものだ。人の与えてくれるものはすべてありがたくいただく」
 カズちゃんと聞いて、ヒデさんはチラッと目をテープレコーダーに投げた。


         七十七

 山口は微笑みながらまたギターを弾きだした。聴き覚えのないクラシックを何曲も弾いた。弾きながら、ヒデさんから勉強の話や、ライバルの話や、種畜場の話をじょうずに引き出した。やがて日が暮れてきたので、山口といっしょにヒデさんを青森駅まで送っていった。
「神無月さん、山口さん、一日楽しくすごさせていただきました。お二人のすばらしい歌とギター、口で言えないほど感動しました。ありがとうございました。神無月さんといつまでも仲のいいお友だちでいてくださいね。今度は青森高校に合格したときにお訪ねします。じゃ、さよなら」
 ホームへの階段を昇っていく美しいヒデさんに二人で手を振った。帰り道、山口に、
「ありがとう、歓待してくれて」
「彼女は深い心持ちの女だな。おまえのツキノワグマのことをひとことも口に出さなかった。由々しきものを感じたことは、チラッと見る目つきでわかった。おまえが言い出すまでは何も問わないというのは、よほど覚悟のある態度だ。歓待するのがあたりまえだ。いつまでも仲のいい友だちでいてくださいと釘を刺されたよ」
「まだ目立つ?」
「ほとんど消えた。でも目を凝らせばわかる」
「春休みに、三人で名古屋へいこうって、カズちゃんに誘われた。二十九日から四日間だけど、どう?」
「うほ! いくいく。神無月の青春の土地、見ておきたかったんだ。パンツとシャツを買わんといかんな」
「カズちゃんがたっぷり持ってるよ。出発まで、まだ二週間もある」
「そんなのはあっという間だ」
「ぼくはそのあいだに、二十四日にミヨちゃんとデートだし、二十六日の土曜日には、もと同居人の合格祝いで葛西さんちに呼ばれてる」
「忙しいこった。まあ、がんばってくれ。名古屋かあ! ヒツマぶしだろ、きしめんだろ」
「まず、食い物か」
「待て待て、テレビ塔だろ、名古屋城だろ、それから、千年小学校と、宮中学校と、牛巻病院―」
 胸にきた。
「山口……そんなところまでいく必要ないよ。名古屋城の桜は観にいこう。絶景らしい」
「ようし、最後の羽を伸ばしてくるか。新学期になれば、おまえは野球が始まるし、俺は受験勉強が始まる」
「ぼくだって、勉強しなくちゃ。野球だけやってられない」
 山口はやさしく微笑み、
「おまえはだいじょうぶだ。根拠はないが、だいじょうぶの雰囲気をただよわせてる。俺はやばい。ふつうのがんばりだと、どこかの二流三流大学に潜りこんじまう。別に俺はそれで構わないんだが、おまえから少しでも離れることになるのはつらい。無理をしても受からないとな。それでようやく、おまえと足並揃えて生きていける。足並揃えるだけじゃ足りない。おまえを見守らなくちゃいけない。二流三流の道を歩いて、坦々と時雨(しぐ)れていられないんだ」
「……心中させちゃったようなものだね」
「あって無きわが人生だ。おまえがわくわくする人生にしてくれた。この人生を失いたくない」
 健児荘の住人全員で食う豚汁はじつにうまかった。大鍋二つがすっかり空になった。亭主までお替りをしていた。一升炊いた大きな電気釜も空になった。ユリさんがうれしい悲鳴を上げた。
「これが若い人のほんとの食欲なのね。神無月さんのお客さんが持ってきた豚肉なんですよ。野辺地の種畜場でつぶしたばかりの肉ですって。市場で買えば、とんでもなく高い豚肉でしょうね。いつもこんなに新鮮なものを食べさせてあげれなくてごめんなさい。これからはなるべく、少ない品目で、新鮮な材料で作るようにします」
 深夜二時を回って、やはりユリさんが忍んできた。ローブのようなものを全裸のからだにまとっている。。
「ユリさん、病気のときはほんとにありがとう」
「名前を呼んでもらうのってとってもいい感じ。うれしいわ」
 私は立ち上がり、裸になった。机の抽斗へいき、
「徹夜までしてくれたんだってね。お医者にいくらかかったかわからないけど、十万円渡しとく。女神からのお金なので断っちゃだめだよ。ご主人に何か言われたら、向こう一年分先払いしてくれたって言えばいい。ほんとにありがとう。ユリさんが医者を呼ばなければ、肺炎を起こして死んでたかもしれない」
 ユリさんは薄っすらと涙を浮かべて受け取り、
「……自殺したのね。そして、山口さんと北村さんに助けられたんでしょう? どういう事情があったのかはわからない。山口さんも、神無月に訊かないようにしてるって言ってました。神無月さんが助かったということに比べれば、どんな事情も関係ないって。これからは強く生きてくださいね。神無月さんが生きてるって思うだけで、私も生きる励みになりますから」
 私はユリさんをやさしく抱き締めた。
「長いあいだご無沙汰してたから、かなり乱れると思います」
「声を抑えてね」
「はい」
 キスをする。また歯磨き粉のにおいが混じった。股に手を差しこむと、しとどに濡れていた。中腰で顔に跨らせた。両手を握り合わせて支えてやる。早く昇りつめたいという表情だったので、舌を上手に使った。
「ああ、好き、神無月さん、ク……」
 静かに達した。湿った襞が何度か鼻面をこすった。唇を吸ったまま横たわる。
「ごめんなさい。……がまんできなくて」
「わかるよ。中年の熟れたからだって、若い女よりずっと性欲が強くなるんだ」
「女神さんに聞いたの?」
「うん、だから素直になればいいよ」
 ユリさんは私の胸に顔を埋め、
「ありがとう……」
 と囁いた。挿入し、何も考えずに動きはじめる。すぐに強いアクメが繰り返される。そうして、彼女ではなく、膣が射精を促す。私はそれに従う。ユリさんは陰阜を打ちつけ、包みこみ、また打ちつける。声を懸命に抑えていたが、予告したとおり極端な乱れようだった。からだを離して仰向けに並ぶ。
「春休みに名古屋に帰ってくる。カズちゃんと山口といっしょに。三月二十九日から四月の一日か二日まで。新学期は四月四日からだから、余裕だね」
「いってらっしゃい。……北村さんの美しさは人間離れしてます。きっと、心も人間離れしてるんでしょうね。よろしくお願いしますって言って、この私に頭を下げたんです。一生懸命神無月さんのお世話をします。ちゃんと栄養のあるごはんを作ります。あら、もうこんな時間。帰りますね。お休みなさい」
「お休み」
 ユリさんはローブを巻きつけて出ていった。
         †
 三月二十四日木曜日。薄日。気温零下の松原通を長靴でドタドタ走る。排便。朝めし。
 講堂で終業式と離・退任式が行なわれた。姿勢を正して講堂の椅子に坐ったが、詳細はよくわからなかった。一年時の教師に異動も離・退任もなかった。一年五組の連中とこれでお別れとなった。新二、三年生の写真撮影と教室移動は四月初旬とのことだった。終業式と言っても、ふだんどおりの授業が三学期の最終日に当たるというだけのことで、四コマの授業はきちんと行なわれた。ただし半ドンだった。
 山口といっしょに下校し、部屋にカバンを置いて、裏庭で素振り百八十本。手にも足にも力がみなぎる。確実に生きているという実感がうれしい。硬くなった雪にあごを接しないように腕立てを百回。きょうはこれでオシマイ。
 ほかほかと陽が照りだした。と言っても、まだ気温は五度にもならない。きちんとワイシャツにブレザーを着、長靴ではなく革靴を履く。心配顔で玄関に出てきた山口が、何時ごろ帰るかと尋くので、夕方と答えた。
「まだ体調万全というわけじゃないんだから、寒空の下を無理して歩き回るんじゃないぞ。帰ったら、俺の部屋でコーヒー飲んでから寝ろ」
「うん。ありがとう」
 滑らないように注意しながら、松原通りを歩いてミヨちゃんが待っている堤橋に向かう。生き延びたからだの使いどころをシンプルにし、流れのままに生きるという姿勢に芯張り棒を通したのは野球であって、女との交際ではない。ありのままに生きることが私の価値だと言ったカズちゃんの言葉と、ありのままに生きている姿が格好悪いから信頼できると言った山口の言葉を反芻する。私は野球をするために生きてきた。そしていまも生きている。二人とも、母の手紙のことを言い出さないのは、そんなものは野球をするうえでの窮地などと認めず、笑い飛ばしているからだ。
 自分に何かできるならするべきだと信じている。たしかに命まで落としかけた落胆だったけれども、物事が起きるのには理由がある。合理的な説明が見つからない場合は、そんなもの見つけないで対処するしかない。臆病になってはならない。どの自分が顔を出すのか、本性と根性が問われる。結果はすべてを表わさない。たしかに私はまだ階段の途中にいるにすぎず、階段を上る途中で落胆から命を落としかけたとは言え、せっかく生き延びた命を臆病風で汚染してはならない。このままの生き方でとにかくたどり着こうと努力し、その途上の人生を甘受しなければならない。
 堤橋のたもとに、ミヨちゃんが暖かそうな赤いオーバーを着て立っていた。手に傘を提げ、焦げ茶のローファーを履いている。冒しがたい清純な雰囲気がある。
「お待ちどお!」
 寄り添う。
「午後からずっと雪になるんですって。傘を持ってきました。映画なんか観たくない。時間がもったいないです。三時間でも四時間でも、郷さんの顔を見てるほうがいい」
「うん、ぼくもミヨちゃんの顔を見ていたい。じゃ、きょうは長い時間の散歩をしよう」「はい!」
 二人で声を出して笑い合う。
「じゃ、歩き出す前に腹ごしらえだ。タンメンというやつを食ってみたい」
「塩味の野菜ラーメンですよ。私はふつうの中華そば」
 新町通りをいく。雪が凍っているので、慎重に歩く。家並はほとんど見ないで、ミヨちゃんだけを見て歩く。肩を並べて歩く。ブレザー姿に、赤いオーバー。二人が若すぎるのを見咎めたというのでなく、好奇心が動くという感じで、通りすがりの人びとが見る。ミヨちゃんは振り仰ぎ、
「クビがほんのり赤いです」
「カラーで擦れたんだね」
「皮膚が弱いから」
「うん、二年生からは前ボタンを一つ外して着るようにするよ」
 青森駅前の中華そば屋に入る。このごろは支那ソバとか中華そばと言わなくなってきた。味も落ちたように思う。クンとくる独特のにおいがない。ここはちがった。店内に鹹水のにおいが充満している。
 横浜を思い出し、タンメンはやめて、ミヨちゃんと同じシンプルな中華そばにした。なつかしい雷紋の鉢が出てくる。シナチク、チャーシュー、ナルト、ホウレン草、板海苔一枚。胡椒をたっぷり振りかけて食う。
「うまい! 中華そばという暖簾に惹かれて入って正解だった」
「ほんと、おいしい!」
 横浜とは微妙にちがう味だけれども、チャーシューもシナチクもうまくて、二人ともしっかりぜんぶ食った。
「中学生用の参考書を買いにいこう」
「え、もう!」
「スタートは早いにかぎる。意気ごみさえあれば、勉強はジワジワできるようになっていくんだ」
 ジワジワの記憶はない。とつぜんだった。だから教え諭すことに信憑性がない。店を出て、柳町の金華堂という大きな書店に入る。手当たりしだいに中一用の各教科の参考書を二冊ずつ買う。
「こういうのは選んでちゃいけないんだ。問題集は、いずれ自分でじっくり選んで買い揃えればいい。活字が目に快適なものをね。辞書も買っておこう。中学生用の英和辞典、いちばん厚いやつ。中三になったら、高校生用のを買うんだよ」
 やはり信憑性のない意見だ。私は飯場の社員からもらった大人用の英和辞典を使っていた。ミヨちゃんはまじめに聞く。
「そして、三年後には青高ですね」
「ふつうに受かるよ」
 本代を払い、紙袋を提げて通りへ出る。
「ありがとう、神無月さん」
「どういたしまして」
「しっかり勉強します」
「がんばってね。ぼくは四つ年上だから、ミヨちゃんが青高に入るときはたぶん東京にいってるけど、勉強の進み具合や進路なんかをときどき知らせてね」
「はい」


         七十八

 雪が落ちてきた。ミヨちゃんの傘を受け取り、二人の上に差す。
「まず善知鳥神社へいこう。四年後の合格祈願だ。早くお願いしておいたほうが効験がありそうだ」
「はい。ここから五分くらいです。知っている道筋なので案内します」
 駅前から新町通りを歩き、県庁通りを左折する。古い町並の細道を通って、神社の正面に回って参道に入る。人出がなく、静かなたたずまい。社務所に展示してある色使いの愛らしい、それでいて勇壮な棟方志功の版画文字を見ながら社殿へ。賽銭を投じてお参り。それで終わり。
「さあ、次はどこだ」
「合浦公園」
「だね」
 雪空に青い色が覗く。
「晴れてきました」
 傘を畳む。堤橋を渡る。ミヨちゃんが腕を組んでくる。空いた手に傘。私はおどけたふうに笑ってみせる。輝くような笑顔が応える。
「神無月さんが遠くへいってしまいそう」
 一瞬、心臓のあたりに波が立った。
「合浦ってどういう意味かな」
「海辺という意味らしいです」
 公園入口に到着。固い雪を敷いた松の並木道へ入っていく。固まり具合がゆるいので歩きやすい。まったく人がいない。
「六年後に、かならず郷さんのそばへいきます」
 私は松木立の陰でミヨちゃんの唇を吸った。
「なんて愛してるんでしょう。私、神無月さんを失ったら、生きていけない」
「失うはずがない。……でも、ぼくの周りにはたくさん女がいる」
「何人いてもかまいません。神無月さんは一人です」
 ミヨちゃんは悦びにふるえながら、愛してます、と繰り返した。寒々しい景色の中でミヨちゃんの愛情だけが清潔に輝いていた。
「来月から、いよいよ公式戦ですね。七月のトーナメントが楽しみ。春の選抜は東奥義塾になってしまいましたけど、今年こそ雪辱してくださいね」
「夏は一回戦負けの予感がするんだ」
「あり得ません。でも、そうなってもいいじゃありませんか。神無月さんはかならずホームランを打つんですから。みんな神無月さんのホームランを観にきてるんです。優勝じゃなく」
 風がキリキリ冷たくなってきた。そろそろ松林のあいだから海が見えてくるはずだ。黄昏の近い海が見えるはずだ。淡い緑が見えた。ホウと一息つく。デコボコした陸地が桃色に霞んで見える。
「あの先の陸は?」
「夏泊半島の根もとです。野内(のない)あたりの山並」
 山口と飛びこんだ桟橋。もう五カ月も前か。海に向かって唄いたくなった。

  松原遠く 消ゆるところ
  白帆の影は 浮かぶ
  干し網 浜に高くして
  カモメは低く 波に飛ぶ
  見よ 昼の海
  見よ 昼の海

 背中を強く抱き締められた。
「……悲しい声。信じられないほどきれいで」
 泣いているのだろうと思い、しばらく涙が治まるのを待った。山口の旧宅を眺めながら松原を出る。
「新しく入る中学校を見ておこう」
「はい。市営球場の裏手にあります。公園のすぐ西です」
 三分ほど歩いて、正門に出た。
「おお、立派な中学校だな!」
 野辺地中学校と見まごうばかりだった。何棟かの二階建て木造校舎が整然と密集して建ち、広大な校庭が付設されている。
「去年の十月に創立二十周年を迎えて、盛大な記念式典が行なわれてました」
「入学式は来月か。うんと勉強してね」
「はい!」
「中学時代の三年間は、一生でいちばん濃い思い出が残る。そこから薄まっていく。どんなに劇的なことが起きても、薄まっていく。大事にすごしてね」
「はい―」
 真っすぐ西へ進み石森橋に出る。堤川の最下流の橋。川沿いに南へ歩き、青柳橋、旭橋、ウトウ橋、堤橋と口に出して記憶していく。二度と見ない光景になる。
 五時。ランタンの寿司屋に入り、特上チラシを食う。
「夢みたいにおいしい。最後の晩餐みたいで不安です」
 ほんとうに勘のいい少女だ。
「どんなことも〈これが最後〉だよ。だから真剣になれる」
 外に出ると雪が降っている。傘を差しかけて堤橋まで送っていく。オーバーの下のふっくらとした胸が痛々しい。あの小雨の日に、形のいいふくらはぎを見つめたときから、私はこの少女に恋心を抱きつづけている。恋心がしっかりした愛情に変わる日を辛抱強く待っている。
「許してくださいね。神無月さんを好きになってしまって、どうすればいいかわからないうちに、こんなおかしな形で……」
「おかしな形だなんて思ってないよ。小学生と高校生。その形をかえって喜んでる。思い合うのに年齢は関係ない」
 私は傘をすぼめて手渡し、もう一度強く抱き締めた。
「じゃ、二十六日に」
「はい、これ差していってください。私はすぐそこですから」
 ミヨちゃんは傘を差し出すと、手を振りながら早足で帰っていった。健児荘に戻るとまだ六時半だった。山口の部屋に寄る。
「おお、あまり疲れた顔をしてないな」
「うん。でも全力でデートした」
「あしたから春休みだ。ゆっくり休め。二十六日でお勤めも終わりだろ」
「ああ、そしたら名古屋だ」
「のんびりしてこようぜ」
「うん」
         †
 二十六日の五時に、赤井と私と葛西家全員がテーブルに集まった。ステーキを中心にした豪華な食卓だった。赤井はこざっぱりとしたジャケットを着ていた。ヒゲがきれいに剃ってある。
「入江塾にいってきました。先生にお礼を言って、ヤツハシを渡してきました。これ、同じものですけど、どうぞ」
 奥さんは赤井を抱き締めた。赤井も力強く抱き締めた。主人が目を丸くしている。
「合格したら抱き締めてあげるって、約束してたんですよ」
「ほんだな。驚くでば」
「去年の夏、青高がベストフォーに残ったとき、仕事から帰ってきたとたん思わず神無月さんを抱き締めてしまったの。そしたら赤井さんが、自分もって。だから京大に受かったらって約束したんですよ」
 ビールとコップが運びこまれる。奥さんが主人と赤井とサングラスにつぐ。ミヨちゃんと私には、バヤリースオレンジが瓶ごと置かれた。
「おめでとう!」
 赤井は一家の祝福に素朴な笑いで応えながら、コップを掲げた。さっそくステーキにナイフを入れると、細い目を輝かせてみんなを見回した。
「こんなことまでしてもらって、ありがとうございます。なんとが受がりました。勉強ばりしてきた甲斐がありました」
「新聞に名前が発表されてらった。東大七人、京大一人、東北大八十七人、北大百十人。京大はたった一人だど!」
 主人に肩を叩かれる。
「オラしか受げにいがねかったから。数学、六問中四問解げだのが勝因でした。ほかの学科はふつうにでぎたすけ、ギリギリで受かったんでねがな。神無月くん、京都はいど。海は裏日本までいがねば見られねけんど、山も川も雄大だし、古びた町並にはむがしの面影がそのまま残ってるし、あっちゃこっちゃ有名な寺も仏像もある。特に念仏寺や石峰寺(せきほうじ)の五百羅漢は見ものだど。京都も寒い風は吹ぐ。雪も降る。青森と似でる。遊びにきたとぎは、こごさ寄れ。これ渡しとぐじゃ」
 名刺を何枚か出して一家に配る。主人が、
「名刺作ったのが。学生の分際で」
「いま学生が名刺作るの流行ってるんですよ。アルバイトするにも便利だんだ。履歴書のいらねアルバイトも多いすけ。ちょっとこれ渡すだげで、だいぶ待遇がちがる」
「もうアルバイトしてるんですか」
 奥さんが尋く。
「はい、教育機器のセールスのバイトしてます。肉体労働です。ほとんど玄関払いだはんで、何軒も回らねばなんね」
 ミヨちゃんにステーキを切ってもらっていたサングラスが、ビールをすすり、
「何だ、その教育キキってのは」
「文房具とか、机とか、コピー機とか、自習用ドリルといったもんです。ドリル教材が目玉で、年間教材は何十万円もする。一つ売りつけると、二割のリベートが入ります」
 悲愴な感じがした。
「もっと確実なバイトしたらどんだ。売れなかったら、くたびれ損だべ」
 主人の諫めに、
「仕送りが下宿代ぐらいしかねすけ、そごいらのバイトだばやっていげねんです。食費も教科書代もかがるし。北海道さ帰ってくるのも、その相談も兼ねてるんです」
「親は子供に不安を与えないように育てる義務があるわ。大学の学費と生活費ぐらい出せないようでは、親失格よ。それに、赤井さんとこ、お金持ちでしょう」
 ミヨちゃんが言う。
「まあ、そんだけんど。親さ意地張らねばなんねワゲがあるのよ」
「どんな?」
「いろいろよ。オヤジに嫌われてるすけ。性格が合わねんだ」
 奥さんは身を反らせて驚き、
「そんなこと、理由にならないでしょ。京大にまで受かって、何遠慮してるの。うんとふんだくってやればいいの」
 主人がふところから封筒を出し、
「赤井くん、これお祝い金、教科書代にしてけんじゃ」
 赤井は躊躇なく受け取り、
「ありがとございます。役立てます」
 中を覗いて、
「二万円も入ってら! 年間の学費より多いでば」
 薄くまぶたが赤らんだ。
「四人分足した金だ。みんなの寸志だよ」
「オラは出してねど!」
 サングラスが言う。食卓に明るい笑い声が上がった。
「赤井さん、これ、ぼくからも。一万円入ってます。受け取らないとだめですよ」
 封筒を差し出した。奥さんが、
「まあ、神無月さん、ひと月分の仕送りでないの」
「金を使わないタチなので、貯まってしまって」
 赤井は相撲取りのような手つきで受け取り、
「他人にこったらにしてもらって……。このこともオヤジさ話して、しっかり交渉するじゃ。おふくろはいい人間だばって、財布の紐握ってねすけ」
 ミヨちゃんがみんなにビールをつぎ足す。私もコップを出すと、
「神無月さんはだめです。うんと食べてください」
「コップ一杯ぐらいいがべ」
 サングラスが瓶の先を私に差し出す。私はコップを添えてこぼれないように受けた。主人がその瓶を受け取り、サングラスにコップを干すように促した。

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