七十六

 雪の降る校庭に出た。水気を含んだすがすがしい空気に包まれた。学生服の前ボタンを外した。山口は私の赤い首の輪を痛々しそうに撫ぜた。野球グランド沿いの一本道を通って門を出る。車が雪のベールの中を通り過ぎる。泥しぶきを避けながら道を渡った。
 山口は関野商店で事情を話し、酒を売ってくれるように頼んだ。店主は笑いながら四合瓶を山口に渡し、
「持ってげ。玉子落どすといいど」
 と言った。アパートまで山口の腕に腰を巻かれて歩いた。
 部屋に入ると、山口は畳んであった蒲団を敷き直し、まるで子供をあやすように、いそいそと雪にまみれた学生服を脱がして下着姿にした。押入れから余分な毛布を引きずり出す。それから所在なく立っている私を無理やり寝かしつけて、毛布の上から何枚も蒲団を掛けた。
「汗を搾り出したほうがいいな」
 そう言ってストーブを点けた。布団の掛け具合を確かめてうなずき、廊下へ出ていった。
「おばさん! 玉子一個ください!」
 と呼びかけている。やがて戻ってくると、私の首をもたげ、卵を落としたコップ酒を一気に飲ませた。ゲフッとうめいて呑みこんだ。すぐに胃のあたりが温かくなった。
「目をつぶれ」
 山口はしばらく枕もとで私の寝顔を見守っていた。意識が朦朧としはじめ、すぐにからだが瘧(おこり)でも起こしたようにわなわなふるえはじめた。歯がカチカチと鳴った。ときどき、まるで氷に包まれたような寒けに襲われた。それなのに顔全体がほてった。
「だいじょうぶか、神無月!」
「顔が熱い―」
「いま、冷やしてやるからな。おばさんに氷嚢借りて、雪を詰めてくる」
 山口の足音が遠ざかった。
 閉じた目の奥で、焔(ほのお)の帯がもつれたり、ほどけたり、いろいろな奇怪な模様になって渦巻いた。がまんのならない焔が消えるやいなや、時おり、机のスタンドの光で照らされた部屋全体が現実の視界に戻ってきて、新しい緊張感をもたらした。ぐしょぐしょと冷たい汗をかいている。相変わらずふるえが止まらず歯が鳴っている。そんなふうに悶え苦しんだかと思うと、また頭の中に火焔が戻ってきて意識が薄れていく。密度の薄くなった空中を火花が飛ぶので、無理に目を開ける。
「どうした、苦しいのか、神無月!」
 その声を最後に、まったく意識がなくなった。
 しらじらと窓が明るくなるころ、熱に蒸された血の騒ぎが静まり、目を閉じたままでいても意識がどんよりしなくなった。ときどき、せせらぎのように快い睡眠が私をさらっていき、夢を見させた。
 カズちゃんや山口をはじめとする、他人の去就に無関心でいられない親切な仲間や隣人たちの顔が、やさしく私を見つめた。彼らは心をこめて見つめていた。なぜか私は、彼らとともに龍飛岬行きの観光バスに乗り合わせていた。私は笑ったり、周りに話しかけたりしていたが、じっと重石(おもし)のように動かない感情が心の中にわだかまっているように感じた。でもその感情は、笑ったり話しかけたりするたびにふやけて液状になり、親愛という名の海綿に吸われていった。
 歌声が起こり、驚いて見回すと、クラスの連中が歌っているのだった。山口がギターを弾き、西沢先生や、古山や、千葉や、武藤や、女生徒たちが朗らかに唄っていた。笑いながら振り向いた運転手は、黒目の開いたあの盲目のオジサンだった。
 かすかに光が強まっていく気配のせいで、バスが夜のトンネルから夜明けの中へ出たことがわかった。ずっと遠くの丘の稜線から太陽が昇りはじめた。車窓から広々とした景色が眺められた。林も田圃も畑も川も見えた。あちこちに残り雪が点じ、冬の光にかすんでいた。垂れこめた空が田の水に映り、時間のない世界に深い沈黙が支配していた。
 光の中へ泳ぎ出た。話し声がして、蒲団のかたわらに山口と並んで、古山があぐらをかいていた。額に氷嚢が吊られ、首に細く撚(よ)った濡れタオルが巻いてあった。すでに午後の陽射しだった。窓の外にあるかなきかの粉雪が舞っている。夢の中とはちがう四角い灰色の空が見えた。山口が窓を開け、切れ長の目を私に向けた。
「一晩、添い寝をしたよ。なかなか快適だった」
 私は山口の最初の一瞥を好んだ。その目には、何かしっかりした、すべてを見通すような親しみがあふれていた。私はこの男と友人だったことを心から喜んだ。
「ずっといたのか」
「あたりまえだ」
「学校は」
「いくわけないだろ。おまえはよっぽどインフルエンザに弱い体質だな。医者が言ってたよ。年とってこの体質のままだと、昏睡して死んでしまうこともあるそうだ。おばさんがわざわざ、医者を呼んでくれてな。注射を打たれたのを覚えてるか」
「いや、ぜんぜん」
「おまえがひどくいやがるんで、医者も手を焼いてたよ。このままだと肺炎を起こすかもしれんと言うから、必死でおまえを押さえつけた」
「ワも、学校終わってすぐきたんで。きのうの晩げもきた。山口と酒コ飲んで、ンガの顔見てらった。酔っぱらったでば」
 古山はすぐに笑いを収め、眉根に影を作った。
「ンガは、モテるな。すぐ女が寄ってくる。まいったじゃ」
「きのうの夜、古山もついに決定打を食らった。木谷が見舞いにきて、おまえの首に愛しそうにタオルを載せた。その赤くはれてるやつにな」
「そうか……」
 私は首に巻かれたタオルをはずして、しみじみ眺めた。
「やあや、相当まいったじゃ。仕方ねな、どことっても、おめに敵わねすけ。男は退きぎわが肝心だ」
「退かなくていいよ。ぼくは彼女たちに関心はない。いや、あるかな。竜飛で木谷のスカートがめくれたとき、下っ腹がズキンとした」
 山口がおかしそうにからだを揺すった。私は心から彼らに笑いかけた。古山が首を見つめている。
「予想はつくだろうけど、くだらないことをやっちゃったんだ」
「女たちが、おめの冗談だってへってらったども、気になってたんず。訊いたらヤベよな気がしてよ」
 山口がうるさそうに、
「だれだって、一目見ればわかる。わかることは訊かない。おばさんも、医者も訊かなかった。訊くのは怖いからな。背負えないことは訊かないという本能は、だれでも持ってる」
「汗をかいた。山口、風呂にいかないか。なんだかすっかり腹がへった。帰りにラーメンでも食おう」
「おお、そうするか」
「オラもいぐ」
「きょうは遠慮しろ。おまえがいると、俺と神無月の大事な友情の時間が減ってしまう」
「友情ってが。ある意味、オラんどの友情のほうが深えど」
「下腹部の友情は、頭より下にあるだけ下等だ。思想がない」
「そう邪険にすなじゃ。ワもラーメン食いて」
「代わりに食っといてやる。そろそろ塾にいく時間だろ。しっかりやらないと、梅田クンや一戸クンに負けてしまうぞ」
 古山は頭を掻きながら、
「ワの成績も風前の灯だべや」
「まあ、そう言うな。おまえたち勉強人間は学校のホープなんだから。しっかり勉強しろよ。じゃ、風呂のしたくしてくるわ」
 山口は古山の肩を押すようにして、いっしょに出ていった。私は起き上がって蒲団を畳み、机に向かおうとした。めまいでフラついた。ストーブを消し、雪のちらつく窓を閉めた。肘で擦れてニスの剥げた机や、壁に貼られたまま黄ばんでいる読書計画表が目を慰めた。すべてのものが意味を持っているように思われた。その意味は単純で慎ましかったけれども、勤勉な命の具体的な行動の軌跡だった。
 押入を開けて、いのちの記録を取り出す。何を書きつけようというのでもなかった。ノートの律儀な文字を見ているうちに、心が落ち着いてきた。私はノートを閉じ、あらためて机の抽斗に戻すとき、奥のほうに母の手紙に並んで分厚い封筒が隠れているのに気づいた。十万円を引き抜いた残りの金だった。
 ―机の上に置いたはずだ。
 風呂道具を抱えると部屋を出た。
「……山口、お袋の手紙読んだのか」
「読んだ。おまえを和子さんに届けた朝にな。すまん、抽斗漁ったら出てきた。和子さんにも読ませた。……心配するな。俺たちは一蓮托生だ。しばらく静観しよう。……どうにかなる。俺たちはおまえが言い出さないかぎり何も言わないことにした。いいこと教えてやる。転入試験はどんな高校も、二学期直前と三学期直前しかやらない。春は入試で忙しくて、募集をかけないんだ。その二学期三学期にしても欠員がある場合だけだ。野球をやってることはまだバレていない。猛勉ががんばってくれてる。少なくともあと半年は野球ができるぞ」
「ほんとうか!」
「ほんとうだ」
 山口は腹の底から愉快そうに笑った。
「山口、ぼくは、ぼくを愛してくれる人たちに愛を返すために、生まれ変わったつもりで野球をやるよ。生きてることがうれしいと伝えたいんだ」
 山口はただ潤んだ目でうなずいた。
 一日は一度に一回しか訪れないことを、いまの私は心の底から感じていた。大切なのは希望ではなく、いま目の前にある一日なのだ。昼が夜に替わり、あしたがきょうになるまで、大事なのは、きょうという一日なのだ。目立たないけれどもけっして欠かすことのできない日常生活の中の人間同士の交感。その交感の中では何一つ馬鹿げたものはなく、一人ひとりは果たすべき重要な役割を担っているのだ。
 腹の底から力が湧いてきた。それは周囲の人間への信頼と感謝が源になっていて、そこから生まれる思いは以前と比べて静かで、ゆったりしていた。牛巻病院から毎晩遅く帰ったり、滝澤節子と夜の神宮で口づけしたり、松葉会の部屋で義侠の男たちに感銘したり、浅野に殴りかかったりしていたころは、この瞬間のためなら世界じゅうでもくれてやるという、燃えさかった気持ちだったけれども、その八方破れの日々に燃えていた火は、いまは胸の奥深くしまいこまれ、落ち着いた生活の底で燃えているボイラーのような役目を果たしはじめた。
 山口といっしょに粉雪の中へ出た。不意に寒気がきて、小便をしたくなった。山口と路の肩に並んで雪の上に立小便をする。二つの深い黄土色の穴があいた。雪が顔に気持ちよく当たった。
「ぼくは、自分だけ幸福になりたがっていた卑しい人間だったような気がする。自分だけ幸福になりたくて思いを遂げようとする人間て、自分が苦しいことに繊細になって、どんどん神経が細くなって、ちっちゃな悩みが出てきたぐらいで、すぐ逃げたくなるし、死にたくなってしまう」
「早くチンボをしまえ。そのへんてこな形をしたものが霜焼けになっちまう。おまえは卑しいエゴイストじゃないよ。本物のエゴイストたちに排斥されただけだ。この世には、おまえみたいに、通念に冒されない血が体内を循ってる野蛮人と、俺のように洗練された文明族がいるんだ(彼は照れくさそうに鼻の下をこすった)。この二つの人種の中間に、かならず、趨勢であれ反趨勢であれ、通念や流行の側へくっつこうとする中間層が存在するんだな。やつらには好みの人生がなく、自分が属する側に対立する側の人種を恐れて排斥する。それだけのことだ。自分を責めるんじゃない」
「ありがとう……。山口とカズちゃんのおかげで、生きてきた意味よりも、生きていく意味が知りたくなった」
 山口はいつものように高らかに笑いながら、
「きのうの夜、女神を呼んできた。二時ごろだ。夜中でもおまえが目を開いたときに彼女がいれば、病状が落ち着くだろうと思ってな。あんまり具合が悪そうだったんで、居ても立ってもいられなくてさ。そしたら、おまえ、一瞬目を開いたんだよ。彼女が帰るとき俺は、廊下に出てきたおばさんに、神無月の女神だって紹介したよ。何度も顔を合わせてるのに挨拶し合ってなかったからな。和子さんにじっと見つめられて、あまりの美しさに、おばさん、あごが外れそうになってたぞ。よろしくお願いしますって、おばさんに礼儀正しく頭下げて帰っていった。―とにかく死ななくてよかった! 俺の一生の手柄だ。おまえは生きなくちゃいけないんだ。おまえと出会ったすべての人間のためにな」
 とふるえる声でつけ加えた。目頭を拭っている。
「管理人のおばさんも起きてたのか」
「食堂とおまえの部屋をいったりきたりだ。何日も寝てない。いい女だ。見直したよ」
「……ぼくはなんだかわけもなく、一所懸命がまんしてきた気がする。がまんするのが趣味みたいに。でも、もうがまんしない。感謝を捧げなくちゃいけない人を殺してしまう」
「おお、どんな理屈でもいいから、がまんなんかしないでどんどん暴れろ。おまえは人に迷惑をかけないタチだから、どれだけ暴れてもだいじょうぶだ。ただ、どんな理屈の通った乱暴も、乱暴と聞いただけで許せないやつがいる。そいつらとうまくやっていくのもがまんだ。……生きてきた意味と、生きていく意味と言ったな。この土地、この学校、この人間の絆、どこにいたっておまえは、過去や未来の意味を求めて精いっぱい生きる人間だ。抜き差しならない恐怖があると俺は言った。おまえを失うことはもちろんだけど、おまえががまんして生きることだ。……死人を相手にしてることになるからな」
 しきりに目を拭う山口の前を、粉雪がゆっくり転がっていく。風呂屋の煙突が見えてきた。山口は強く私の肩を叩いた。
「生き延びたからって、フニャフニャの〈いい人〉になるなよ。そんなやつを生かしたくて女神や俺が必死になったんじゃないんだからな。……おまえを殺そうとしたものを忘れるな。目先の憂鬱や倦怠や空虚じゃなく、それを引き起こしたものを忘れるな。それに対して怒(いか)ってくれ。あきらめずに、俺たちに率先して怒って生き延びてくれ。おまえが生き延びることが、どれほど大勢の人間を救うか。おまえが怒って排斥しようとしたものに俺たちも同じように腹を立てて、それを精いっぱい排斥するつもりだ。一蓮托生でな」
 私が怒らなければならない相手は、自分自身だ。私を絶望させたのは私という存在なのだ。やさしい山口はそれに思い至らないのではなく、わたしを愛しすぎているせいで、怒りの対象として、あえてこれまでの私の障害となってきたものを槍玉に挙げて見せる。そんなものはもう障害物ではない。戦う体勢はできている。どんな手段をとっても戦い抜く。何よりも大事なのは、私を愛する人びとのために、ひそかに自分と戦いつづけながら、できるかぎり延命するということだ。


         七十七

 風呂屋の洗い場で山口は几帳面に私の背中を流した。背中を流されるのは、受験宿で奥山にしてもらって以来だった。
「ぼくは野球をやる。倒れるまで」
 カランを見つめながら私は言った。
「そうだ、おまえは野球をやらなきゃいけない。どうして野球をやるかなんて、ボンクラに長い説明をしてる暇はない。ボンクラは何を聞いたって、どういうつもりで話を聞いたか、そんなことまで忘れちまうんだからな。野球はおまえにとって命懸けの芸術なんだよ。説明不要だ」
 思いがけず、合船場の雪道に鮮やかに映えた山田三樹夫の顔が浮かんだ。声に出して呼びかけたいほどなつかしかった。
 ―山田くん! ぼくは生き延びたよ。きみは生き延びられなかったね。ぼくはきみの無念を忘れず生き延びるよ。
「山口、助けてくれてありがとう!」
「俺はわが身を守っただけだ。おまえの生き死には、俺にとって死活問題だからな」
 彼の言葉から紡ぎ出される感情はいろいろだったけれども、その中に冷笑が混じったことはなかった。彼の言葉は山田三樹夫のそれ以上に、まじめで、硬くて、私に必要なものだった。
 私は山口の背中を流した。彼は背中のまま言った。
「女神はおまえの生き死にを問題にしない。おまえの心臓だから問題にできない。もちろん俺だっておまえの心臓になりたいよ。おまえと同じテンションで夢中で生きたい。だいたい人間なんて、夢中になってるように見えて、案外醒めたところがあるもんだ。そういうのって、格好よさそうに見えるけど、一皮剥けば道化の一種だ。根が真剣じゃない。おまえは憂鬱な人間かもしれないが、醒めてない。真剣だ。格好悪い。俺はおまえの心臓になりたい。真剣に、格好悪く生きたいんだ」
 私は山口の石鹸まみれの背中に頬を押し当てた。
 風呂から上がり、私は脱衣場の大鏡を見た。私のからだはやつれて、青白い色をしていた。数日の熱に精錬されて純化し、生まれ変わったようだった。首に赤い輪がネックレスのように貼りついている。鏡の中から夢見るような眼で見つめている十六歳の高校生の顔に、私はしみじみと好感を抱いた。いままで自分に抱いた憎悪を思い起こすと、こういう自己愛の確認は、この数日の変化の中でもいちばん重要なできごとのように思われた。
「青くてきれいなからだだ。化けの皮じゃないだろうな」
 肩口から覗きこみながら山口が言った。
「山口、おまえはほんとうにいいやつだね! おまえの言うことを聞いてると、自分がなんとかなりそうな人間に思えてくる。ぜったいそうじゃないって思っても、そう思えてくるんだ。がんばるよ。化けの皮を剥がされないように、がんばる」
 風呂屋の戸を引いて表に出ると、雪はすっかり上がり、歯が沁みるほど空気が冷えこんでいた。山口はとつぜん、大声で『エーデルワイス』を唄い上げた。おまえも唄え、と誘ったけれども、私はその歌を知らなかった。
「死にもの狂いで勉強して、俺も東大へいく。そして、イタリアのギターコンクールで人生最大のマグレを起こしてやる。そこから先の目標も幸運とマグレで達成する」
「ぼくも本気で勉強しなくちゃ」
「勉強とホームランだ。おまえは目標を据えるな。ただ夢中でぜんぶやれ。もともと目標なんてものは持ってないだろう」
 二人は湯上りのほてったからだをシバレる空気で冷やしながら、ラーメン屋の提灯をめざして歩いていった。
「ほら! おもしろいだろ」
 山口がタオルをぶんぶん振って硬く凍らせて見せた。私は彼がする仕草をまねて、寒空にタオルをくるくる回して振った。あっというまにそれは硬い一本の棒になって天を指した。
         †
 教室で木谷千佳子にしっかりお辞儀をしながら礼を言った。
「なも、オラだっきゃ、たンだ……」
 真っ赤になって鈴木睦子のところへ逃げていった。山口と古山が笑っていた。
 体操の時間が柔道一本やりになった。体育館の青いビニール畳を踏む素足が、冷たさを越えて痛いほどだ。受身の指導を上級生の柔道部員がやっている。彼らを相手の乱取りになると、みんな小気味よく投げ飛ばされる。私も必死でがんばったけれども、すぐにふわりと宙に放り出された。からだが畳に叩きつけられる瞬間、指導員がタイミングよく襟首をギュッと引き上げるので、受け身をする手にも足にもまったく衝撃がない。
「こったらに強く投げられても、なんも痛くねじゃ。さすがだな」
 慣れない柔道着をつけた仲間たちが、口々に感嘆のため息を洩らした。私は浮遊するように着地する感触を味わいたくて、何度も組みついていって投げ飛ばされた。神宮奉納相撲を思い出し、あのときと同じように腹の底から笑った。
「まじめにやれ、北の怪物」
 と叱る指導員も、私の笑いに思わずつられて笑った。
 下校のとき、関野商店の店主にお礼の挨拶をした。
「いぐなったのな?」
「はい、おかげさまですっかり。玉子酒が利きました」
「痩せだでば。いいおどご台無しだァ。じっぱど食(か)ねば。あんた、北の怪物だべ。今年もがばれじゃ。応援してるすけ。ほい、コロッケとメンチ持ってげ」
「はい、ありがとうございます」
 おばさんにもお礼を言いに食堂にいった。
「心配したわ。あのまま死んじゃうんじゃないかって。ほんとによかった。女神さん、毎日かよってきましたよ。女の鑑ですね。感激しました」 
「これ、メンチとコロッケ。関野商店のおじさんがくれました」
「こんなに! みんなのおかずに付けてあげましょう」
 五個ずつあった。
         †
 二月の最終週から、三月一日の卒業式を挟み、さらに三日の入学試験にかけて続々と休校がつづき、その後の三日間も採点などのために休校になった。その間の授業は二月の末にたった三日しかなかった。
 これを機会に体力回復に着手した。長時間の読書を控え、努めて食い、七時間は寝るようにしたので、ぐんぐんからだに肉がつきはじめた。長靴を履いて駒込橋までのランニング再開。長靴が錘(おもり)の役割を果たして、脚力の回復に役立った。腹筋、背筋、腕立て、百回ずつ。この筋トレを三種の神器と呼ぶことにした。コース別の素振り百八十本。
 母から届いた現金封筒に、《春の転入試験はなし。もうしばしの辛抱を乞う》というメモが入っていた。辛抱? くだらないことで危うく命を落とすところだった。とにかく、野球生活が半年生き延びた。しかし油断して胸を撫で下ろしているわけにはいかない。いつこの生活が中断させられるかわからないのだ。心して鍛練を積んでおこう。
 何よりも、山口勲に対する感謝の気持ちを―それは私の生涯にわたる義務だ。
         †
 三月九日合格発表。朝めしのあと、山口と二人で正門前に出ていく。合格発表の様子を見たことがなかったので、興味を持ったからだ。不思議に晴れ上がった青空になり、校門のあたりに受験生や父兄たちが神妙な面持ちで蝟集していた。九時近くになり彼らが動き出したので、二人で彼らにくっついていった。九時ちょうどにラグビーグランドの掲示板に合格者番号と名前が貼り出されると、あった! よっしゃ! という歓声や奇声が上がった。しきりに親たちがシャッターを切っている。
「いくか」
「うん。何ごとも希望の達成はすばらしい。いいものを見た。ドキドキした」
 一本道を帰る。グランドは雪野原。桜はまだまだ。
         †
 十二日の土曜日、山口といっしょにカズちゃんの家にいった。山口はビーフカレーの夕食を食ってさっさと帰った。葛西さんの家に電話を入れて、赤井の結果を尋いた。京大工学部に合格したと奥さんが教えた。京都のほうで落ち着いたら、今月の末の土曜日に遊びにくるから神無月さんもぜひきてほしい、と言った。
「二十六日の土曜日ですね。いきます」
「泊まってくださいね。夕食にご馳走を作りますから。主人も、兄さんも楽しみにしてます。赤井さんは、その日の夜行で北海道へ帰るそうです」
「わかりました」
 奥さんとミヨちゃんとは、去年の引越しのあと一度ずつセックスしたきり、ほぼ四カ月関係を持っていない。彼女たちが私の時間を奪うまいと自重していることがわかった。ミヨちゃんが電話を代わり、
「二十四日の木曜日にデートしてください。終業式の日なんです」
「青高もだよ」
「わあ、よかった。じゃ、一時、堤橋で。映画にでも連れてってください。いいでしょうか」
「もちろん。終業式の日は半ドンだから、一時半までにはいける」
「私は一時から待ってます」
 ということは、二十六日の夜は母親が部屋に忍んでくるのだと予想がついた。二十四日のミヨちゃんとは、適当な旅館で〈休憩〉しよう。その旅館で夕食を食べてから別れればいい。
 そういうこまごまとしたすべてを、カズちゃんに話した。
「もとどおりの、大忙しのキョウちゃんになったわね。なんだかホッとする。だいぶ肥ってきたし、首の輪も薄くなった。とにかくよかったわ。格式ばったホテルより、稲荷神社のそばの旅館のほうが、ミヨ子さんも気安いんじゃないかしら。お食事はあのお寿司屋さんでして」
「そうだね、そうする」
「美代子さんのお母さんのほうは、じゅうぶん注意してね。声が心配。女はどうしても声が出てしまうの」
「奥さんは自分で蒲団を噛もうとするからだいじょうぶだと思うけど。カズちゃんの声は大きくなくて、とてもツヤがあるんだ。小さな悲鳴みたい」
「ま、恥ずかしい。今月の残りの土曜日は、私を抱かずにからだを休めなさい。山口さんと夕ごはんを食べたら帰ること」
「わかった」
「来年の野球用品で必要なものない?」
「ストッキング五足と、アンダーシャツ五枚。帽子一つ。背番号7のフェルトは、三着とも新しくしてもらって」
「はい。文房具は?」
「ノートが何冊か必要かな」
「私たくさん持ってるから、いつか持ってって。ワイシャツは夏冬五枚ずつ買ってあるから心配ないわ。ところで、春休みに、山口さんと三人で名古屋にいかない? この二十九日から四月の一日まで三泊四日の予定で。園児募集の時期はお休みになるのよ」
「いいね! 山口も喜ぶぞ」
「お父さんたちに連絡しておくわ。トモヨさんにも」
「トモヨさん、喜ぶだろうなあ」
「それはもう。ときどき、連絡とってるのよ」
「今年はどうしても、名古屋城の桜を見なくちゃ」
「飛島には寄らないよ」
「当然よ」
 風呂にいっしょに入り、いつもの充実した夜が始まった。カズちゃんはけっして母の話題を持ち出さなかった。愛する者の自殺騒ぎのあとであんな話を聞いたら、同じ人間でいられない。でも彼女は強靭な心で平静を通した。


         七十八
 
 翌日の日曜日、霧雨の降る午後、ヒデさんが前ぶれもなく健児荘を訪ねてきた。かわいいお客さんだよ、と山口に知らされ、玄関に出ると、毛糸の手袋をした手に風呂敷包みを提げ、ふさふさの耳覆いをした少女が立っていた。しゃれた雪靴を履いている。
「ヒデさん! よくきたね」
 首の赤い輪が薄くなってから会えたのがうれしい。
「神無月さんのお祖母さんから新しい下着と、母から豚肉です。この季節は配達が遅れるから届けにいってこいって言われて」
「こんな遠くまで、たいへんだったね」
「……ほんとうは、私がきたくて、母に頼んだんです。豚肉、どうしようかな。管理人さんに渡したほうがいいですか」
「そうだね、あとで渡しとく」
 山口にコーヒーをいれてくれるように頼み、ヒデさんを部屋に入れた。蒲団を押入にしまい、ストーブの脇に坐らせる。ヒデさんが風呂敷を解いているところへ、物音を聞きつけたおばさんが茶菓子を持ってきた。ガラスの盆に、いろいろな意匠の小粒な練りきりが六つ並んでいる。
「いらっしゃい。野辺地のかた?」
「はい、野辺地中学校三年の中島秀子といいます。兄が神無月さんに家庭教師をしていただいて以来、懇意にさせていただいてます」
「まあ、ご丁寧に。どうぞよろしく。このアパートの家主兼管理人の羽島です」
 私は、
「この豚肉、中島さんからいただきました。あとで食堂に届けようと思ってたんですけど、今夜、豚汁にしてくれませんか」
 私が言うと、
「どっこい承知のスケ」
 古い言い回しで答えて、チラッとヒデさんの横顔を盗み見た。それから私と見比べるようにした。おばさんも葛西母子と同様、何カ月もセックスを遠慮している。今夜あたり忍んでくるかもしれない。そのほうがいい。彼女が医者を呼んでくれたと、山口が意外そうな顔で笑っていたが、そのことにはまだ礼を言っていない。費用もきっと立て替えてくれたのだろう。それも返さなければならない。
「きれいな子ね。……ごゆっくり」
 微笑みながら去った。
「お化粧してましたよ」
「いつもだよ。若者たちの中にいるからね」 
「ふうん。誘惑されないでくださいね」
「五十近い女に?」
 おばさんにすまないと思ったが、冷たい調子で言った。
「女はわかりません」
「葛西さんのときも同じことを言ったよ。いつもの心配性だね」
 フォークのないことに気づいたが、私は小豆のついた練りきりを指でつまんだ。
「あ、フォーク」
「だいじょうぶ、指で食べたほうがうまい」
 ヒデさんはバラの形をしたものを選んだ。
「ほんと、おいしい」
「勉強、がんばってる?」
「はい、ずっと二番です。恵美子さんはなかなか抜かせてくれません」
「あの顔じゃ、勉強やるしかないよね。どうしてよしのりに似てないんだろう」
「そんな気の毒なことを……」
「山田の妹とは仲良くしてる?」
「このごろ会ってません。一子さんが野高にいってからは、夏に青森市営球場にいっしょにいったくらいです。来年は、いろいろ勉強を教えてもらおうかなって思ってます」
「青高にいけたろうにね」
「お母さんが許さなかったみたいです。神無月さんのこと大好きなんですよ。私には敵わないけど」
 山口の足音がして、コーヒーをいれた二つのカップを持って入ってきた。
「お、うまそうな練りきりだ。しかし美人だな。どこの産?」
「野辺地です。中島秀子といいます」
「俺は山口勲。年はいくつ?」
「一月二十日で十四になりました」
「今年中三か。もう、神無月の息がかかってんの?」
「まだ、かけられてません」
「おや催促か。青高、受ける?」
「はい、受けます」
「そう、がんばってね。じゃ、神無月、用があったら声をかけてくれ」
 山口が去ると、私は急に手持ちぶさたになり、コーヒーをすすった。ヒデさんもすすった。
「少し痩せましたね」
「うん。野球が暇になって筋肉が落ちた。春までにもっと体重を増やさなくちゃ。体重は馬力につながるから。いまの山口はギターの天才だ。頭もピカピカに切れる。……合船場にはよくいくの?」
「はい。神無月さんの噂が聞きたくなると、お祖父さんお祖母さんに会いにいきます。夏にしばらく野辺地にきてたって聞いてびっくりしました」
 恨みがましい目で見つめる。
「三日もいないで帰ってきた。花園の下宿を出る予定もあったし」
「下宿を引き揚げたって知ったのは、ついこのあいだです」
「わがままだよね。自由なアパート生活がしてみたくなって。もう半年近く、じっちゃばっちゃに会ってないな。連絡もしてない」
「お祖母さんは、正月もけっこうあちこち歩き回って、忙しくしてたみたいです。うちにもホタテを持って顔を出しました。そのとき、ここの住所を教えてもらったんです。野球と勉強で忙しいからキョウは帰ってこられないと、うれしそうに言ってました。神無月さんはもうすっかり有名人ですから。青森放送で中継したときは、野辺地じゅうでテレビにかじりついてた感じです。お爺さんはときどき郵便局の前で見かけます。転んで腰を痛めたらしくて、でも、もうすっかり元気になりましたよ」
「いずれ、もっと遠くへ離れることになるんだろうけど、いつか、何かの形できっと恩返ししないと」
「遠くへいってしまうんですか」
「県外の大学へいくので、そうなる」
「やっぱり、東大へいくんですね。新聞に書いてありました。勉強も青高でナンバーワンだって」
「阿部キャプテンがオーバーなこと言っちゃったから。トップになったのも一回かそこらなんだよ。ちょっと待ってて」
 私はヒデさんを置いて廊下へ飛び出し、山口のドアを叩いた。音楽を聴かせてやってくれと頼む。
「ミヨちゃんの続編だな」
「二人きりでいると、あやうい」
「だな。ギターを聴かせてやるか」
 彼は快く了承し、ギターと楽譜を抱えてやってきた。茶菓子をつまむつもりで、小さなフォークまで持っている。
「いただくよ」
 山口はウサギの形をした練りきりをフォークに刺して口に放りこむと、最近流行っている舟木一夫の北国の街をかき鳴らした。誘われてヒデさんが唄いはじめた。山口もきょろきょろと目に愛想をつけながら、ハーモニーを作った。彼女は気分をよくし、すっかり腰を落ち着けた。葛西家をたずねてきたときの様子とはまったくちがっている。
「神無月、おまえの声を聞かせてやれ。腰抜かすぞ。加山雄三の恋は紅いバラ、知ってるな」
「うん。ちょっと待って。テープレコーダーに録(と)ろう」
 押し入れの底からテープレコーダーとマイクを取り出し、新しいリールテープを巻いて準備した。ヒデさんが好奇心に満ちた目で見ている。音楽に触れるのはひさしぶりだ。気分が明るくなる。
「案外洒落たものを持ってるんだな」
「何も思わない幸福な時代があったってことさ。その形見だね」
 絶妙なアレンジをした前奏が流れはじめる。山口の目に見つめられて唄いだす。

  アイラブユー イエスアイドゥー 愛しているよと
  きみに言いたくて そのくせ怖いのさ
  きみに今度逢うまでに 見つけておこうね
  その勇気を アイラブユー イエスアイドゥー
  夜空に歌えば ぼくの心に恋の火は燃える

 ヒデさんのうつむいた顔から、ポロリと涙が頬を滑り落ちた。山口は天井を向いて真っ赤な目をしていた。手だけは軟体動物のように動きつづける。

  ぼくと今度逢うときは 黙ってお受けよ
  この愛を アイラブユー イエスアイドゥー
  恋とは 男の胸に息づく紅いバラの花

 しばらくしてヒデさんは涙にまみれた顔を上げ、激しく拍手した。
「すごォい! なんて声なんですか、すごい!」
 山口は掌で目を拭い、
「な、聴いたことない声だろ。不思議な楽器だ。……この道で生きていける。しかし、神無月には関係のないことだ。ときどきリクエストして、聴かせてもらおう」
「一曲唄うと、くたくたになる。苦しくて、からだじゅうが燃えるみたいになるんだ。ほんとに、ときどきしか唄えない」
 ヒデさんは山口の目もかまわず私の手の甲に手を置いた。年上の女のようだった。
「神無月さんて、……つい甘えてしまいます」
 山口が、ハハハ、と笑って、
「根源的なやさしさを持ってるってことだな。やさしいやつは人から甘えられる分、生きづらいもんだよ。なんせこの世は、やさしくない人間の天下だから、神無月のような男は生きにくい」
「やさしさって……いちばん大切なことですね」
 まじめにうなずくヒデさんを見て、山口はにっこり笑った。
「お祖母さんが、お金に不自由してないかって言ってました。足りないなら送るって」
「してない。母の送金だけでじゅうぶんだ。あの倹約家のじっちゃに、幼稚園のころ、たった一度だけお小遣いをもらったことがあるんだよ。五円。メンコを三円、貼り絵を二円買った。忘れられない。そのくらいぼくは金を使わない人間だ。あっても、何に使っていいかわからない。たっぷりあったら、いき当たりバッタリに、本か、レコードに使うかな」
「慎ましさというのと、何かちがうものですね」
「慎ましさも贅沢も、どちらにもとりたてて気持ちは動かない。このテープレコーダーも中二のころ、カズちゃんという人に買ってもらったものだ。人の与えてくれるものはすべてありがたく受け入れる」

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