五十二

 二日ほどいい天気がつづいたあと、暑さが遠のき、雲の形が薄っぺらくなって、秋が急にやってきた。一日だけの雨が上がると、夜の虫がにぎやかに鳴きはじめた。きょうも夕めしのあと、山口の部屋でコーヒーをご馳走になっている。
「カズちゃんという女と、おまえがここにいるのは、驚くほどの巡り合わせだが、驚くほどの必然でもあるな。カズちゃんも自己完結した山だ。したがって、自分は神無月と一心同体だという彼女の静かな言葉に一点の疑いも挿し挟めない。人間を感じさせる女に初めて遇った。しかも、彼女は博愛主義者ではない。いい意味で狭量だ。世に博愛主義者なるやつがいるな。俺には、万人の福利のために尽力する能力というものをすぐれた資質と思えない。それは社会の求めに応じて作り出された欺瞞だ。無数の人間の中からただ一人の人間を選び出し、それに専従するインセンティブに欠けている。そんなやつは、だれも愛せない。つまり、彼は万人の福利という途方もない夢を見る熱情に打ち負かされているんじゃなくて、そうすることがよいことだと冷静に判断し、その判断に殉死しているにすぎない。そうだろ?」
 前置きもなく迸り出る彼の口説が耳に快い。彼は文章を書かないけれど、そのかわり自分の心にある考えを論理的に整った形で表現してみせる。その欲求は尽きないので、いつも聞き手をほしがる。ただし、聞き手は私ひとりだ。
「カズちゃんを気に入ってくれたんだね」
「彼女の人間のすばらしさはだれもが気に入る。俺が気に入ったのは、神無月郷しか愛さないという狭量さだ。神無月の大地にしかそびえないという山の狭量さだ」
 先日山口は、カズちゃんと私と三人で三十分ぐらいしか話をしなかった。ただ、ほとんど山口がしゃべりつづけた。彼は教室や廊下ではいっさい無駄口を叩かない。だから彼は小笠原と同じくらい目立たない。勉強も同じだ。たまに地理で十傑に載ることはあるが、あとの科目は少なくとも五十傑にはいない。かえってそれが彼の天才性を際立たせているように感じられる。なんせ、懸垂四十回で、マラソントップで、ギターの達人で、雄弁家なのだ。天才以外の何であろうか。
 私は山口の言葉に熱心に耳を傾けた。興味を惹くのは、彼が私よりもこの世の現象に関心を持ち、それを的確に批評できることだった。私自身は、社会に対して進んで関心を持つことは爪の先ほどもなかった。私はまた、山口がものごとを深く考え、正確に理解する能力を持っているために、しかもめったに見られない弁舌の能力を備えているせいで、この男は将来きわだって社会的に有為な人物になるだろうと確信した。私は自分の無能力を恥じながらも、誇らしい気持ちになった。
「なんだ、何か意見はないのか」
「完璧な見解に付け足す意見なんかないよ。いや、見解じゃない、すでに思想だ。オリジナルなものに対峙するには、オリジナルしかない。ぼくはそんなもの持ってない。山口は年齢を偽っているんじゃないか? 十六歳じゃないだろ」
 私は新しい友に感服しきって答えた。
「お、別の角度で褒めてきたな。ふん。俺は子供なんだよ。偽善というのは何ごとにかぎらず、怜悧な洞察力のある大人も欺くものだが、子供ばかりは、どんな知恵の足りない子供でも、その偽善がどれほど巧みに隠されていたって、すぐに感知して排斥する」
 私は本気で拍手した。山口は頭を掻きながら、
「ぶらぶら散歩してみるか。まだこの川沿いを歩いたことがないんだ」
「荒川と駒込川が合流して堤川になってる。この付近だと、どちらの川へも同じくらいの距離だ」
「ほう、詳しいんだな」
「花園に下宿してたころ、何度か歩いたからね。でも、もう一度、ちゃんと歩いてみようかな。荒川の上流へいっても、何もないよ。昼はすてきな場所があるけど、でもあれは偶然の発見だったから、もう見つけられない。駒込川を遡ってみよう」
「そうするか。下流なんてのは、見慣れた景色に近づくだけだからな」
 二人、下駄をつっかけ、校庭の一本道を突っ切って、青高の裏手から駒込川の土手に出た。川上さして歩く。団地が等間隔に、まばらに並んでいるだけで何もない。
「たしかに殺風景だな」
「森や林があればそれなりに趣があるんだけど、堤防と団地と、せいぜい緑地帯じゃ、見どころがないよね」
「あそこに森があるぞ」
 たしかに二百メートルほど先にこんもりと樹木のかたまりが見える。目の利きにくい私にはかすんで見えた。鬱蒼とつづく木立の中に、三軒、五軒とかたまって点在する農家がある。森も家も背中に陽射しを背負っているせいで暗く見えた。土手の途中に架かった橋の下を細い支流が泡立って流れていた。
「こんな恐ろしげな場所があったんだな」
 向こう岸の山手を眺めると、麓の林に何軒かの農家が白っぽい夕闇に沈んでいる。そこから川岸に通じているポプラの長い並木道が上空に夕暮れの月を浮かべていた。その後方に黒々と盛り上がっている丘の稜線が見えた。
「ぼくはいつも、いま見ている景色がいつか見られなくなると思って、目を凝らして記憶しようとする癖があるんだ」
「だれにも語らない、自分が抱えていくだけの記憶だな」
「うん、自分で思い出すだけのものだ」
 山口は好意的な笑いを浮かべた。風景を区切る極端な光の濃淡に、季節の移り変わる気配が現れていた。川に砂洲ができている。水はそれを避けるように蛇行し、砂洲の縁に露出している小石を洗って涼しい水音を立てていた。斜陽が細かくちぎれながら目に飛びこんできてまぶしかった。
「これ以上いくと、帰ってこられなくなりそうだ。ついでだから、この道を下流にもいってみよう」
 歩いているあいだに陽は少しずつ沈んで、筒井小学校のあたりまでくると、まばらな家並も駒込川の水面も、歩いている二人も、薄赤い陽射しに覆われた。夏に比べて水かさがいくらか増えた川面に、虫を捕える魚が跳ね、緑地公園に蝉がしぐれていた。大気はまだ暖かいのに、水辺を歩く人びとの姿は見えなかった。
 とつぜん顔の正面から残照がぶつかってきた。そこはふたつの川が大きく曲がって東西から合流する場所で、田と畑が広がっている野原だった。太陽は市街地のほうから一直線に照りつけ、疎らな木立や大きな病院の白壁を克明に浮き上がらせた。稲穂が赤く一面に直立していた。あまりの美しさに驚き、私たちは無言になった。堤川が国道の下へ潜りこみ、方向を青森湾へ換えてくだっていく。ふたたび水が姿を現すと、川幅は広くなり、それとともに道も広くなって、風景がモダンで退屈な感じがしてきた。
「花園の下宿は、もう目と鼻の先だ。会いにいきたいけど、やめとこう」
「そうそう、寝た子を起こさないほうがいい。このまま合浦へ泳ぎ納めにいこう。水が冷たすぎるかもしれないけど、凍え死ぬことはないだろう」
「寒い夜の海か。ゾッとしないな。新町の本屋へなら付き合ってもいい」
「街なんぞへいっても、それこそゾッとしない。こんな北の最果てにも、急進的な時代が生んだ化け物がはびこってる。経済のメカニズムという寄生虫が容赦なく食い意地の張った管を突っこんでるんだ。それに下剤もかけないで、頓馬に腹を下しているような連中のたむろする界隈に出かけていって、いったい何のおもしろ味がある」
「なるほど。腹を下した連中は、腹が気になって、頭が回らない。そりゃもう人間じゃなくなる。つまり、文明の進歩とやらは、人間の思考力や想像力ばかりでなく、感覚まで奪うということだね」
「さすが、いい理解力だ。じつは進歩と見えて、悪質な退歩だからだよ。急いで何かをするときに必要なのは、進歩の幻と機械の説明書だけで、人間的な要素は邪魔者になる。進歩という名の寄生虫にチュウチュウ栄養を吸われて、血を失う。そんなやつのたむろする街の風景は、白黒写真みたいにいっさい血の気のない灰色だ」
 私は笑いながら、
「わかった、わかった。ただ本屋にいきたかっただけだよ。水着、どうしようかな」
「そんなしゃれたもの要らん。パンツ一丁でいい。このまま直行! 目ん玉が日焼けしそうな真夏の海より、秋の夜の海だ。すさまじい趣があるぞ。合ァッ浦、原ェン頭、朔風ゥすさびィ―」
 声を放って歌いだした。
「雄姿堂々、渾身の血湧きィ、たけり立つおのこらァ、虎嘯(こしょう)睥睨す、踏めよ踏まれよ、われらが選手―」
 私は何か古典的な青春の交歓を満喫する思いで、遠慮がちに、ソリャ、などと合いの手を入れながら歌った。
「ソリャー!」
 山口がさらに大きく声を重ねた。
「われらが選手、か。野球は楽しいか?」
 この頭のいいスポーツマンになら、ぜんぶ話せる。自分の命であるものを語って、しみじみと安堵できる。
「全人生を賭けてたことがあった。いまは、ちがう。人生は勝ち負けのゲームに賭けるものじゃない。ホームランを打つことにはかぎりないあこがれがあるけど、いまは、人間を好きだと意識して生きるほうが充実する」
「ふーん、おまえは均整がとれた人間だ。めったにいない。やっぱり芸術家以外の何ものでもないな。俺も器械体操をしていたんだが、たしかに人生賭けてたな。運動していた時代は、いい思い出だ。おまえにしたら、まだまだ過ぎた時代として思い出すわけにはいかないだろうけどな。思い出が滅びないのは、とりもなおさず、時間直線上のある一点に意識が濃密に偏在しているからにほかならない」
「なんだか、あたりまえだね」
「あたりまえのことを難しそうに言うのが高度な雄弁術だ。その逆は、最高度だがな。俺はね、おまえみたいに芸術家気質の人間として生きたいと思ったこともあるが、どうも根本的なアンニュイに欠ける体質だと悟った。それがなければ芸術家になれっこない。まあ適当に大学生にでもなって、天下国家の経綸を語るか。脱亜入欧何するものぞ、日本はもう一度鎖国し直して、ひっそり商売でも何でもしたほうがいい、そうすれば美風良俗を取り戻せる、なんて唱えながらさ。語るだけなら、いまの世の中、世間の片隅で安全に暮らせる」
「安全に暮らさずに、その雄弁を活かして、政治家になったらどうだ」
「政治家にはなりたくない。やつらは人倫の掣肘を受けない。心の底から真剣で、自分の主義のためには、いざとなったら一身をなげうってでもこれに殉ずる、というほどの人物は一人もいない。国を毒するような罪を犯しておいて、こうむるべき悪名を免れようとするなんざ、高潔な俺の性に合わない」
 そう言って彼は尻を突き出し、プーと一発吹かした。二人で大笑いする。
「山口……」
「ん?」
「ぼくにとって、野球は単なる楽しい趣味じゃなくて、将来の充実した人生に血を送る心臓なんだ」
「おいおい、おまえは野球をなくしたら心臓をなくした抜け殻か」
「いまは抜け殻じゃない。ごらんのとおり、古い心臓を犠牲にして、カズちゃんという新鮮なメインの心臓に入れ替えた。別の種類の充実した人生に血を送るものにね。ぼくは苦しさの中で希望を持ちながら野球をやってきた。でも、もう拘ってはいない。心臓の切り替えを早計だ、それは犠牲的な人生だと人が言うなら、必要なのは犠牲で、苦しみじゃないと言い返したい。神がカズちゃんをぼくに選んだんだ」
「……おまえは真の賢者だ」
「ただ、いまでも、古いサブの心臓がちゃんと拍ってるんだけどね」
「―有望選手だからな」
「ああ。将来プロ野球へ進むだろうと、自分も他人も信じている。それだけの技量があるし、記録も何度か塗り替えてきたしね。回り道なんかする必要がなかった。だれだってそう思う。……母に二度も、三度も妨害されたんだ。ぼくをその世界に連れていこうとする人間を門前払いした。―簡単に言えばそういうことだけど、もっとくだらない複雑な原因がからんでる。自分の作った原因だ。友情と恋情。新しい心臓の礎だ。ただ、その二つをすべて忘れて能天気に野球に没頭するとき、その没頭は悲しくなるほど本物なんだ。サブの心臓が残ってるから」
「……友情と恋情か。おまえがいま、ここにいる原因だな」
 疑いもなく私は、あの非日常的な気分に浸りだした。相手とのあいだを仕切っている垣根が消えて、いつもならがまんして黙っていることも話してしまいたくなる、あの気分だった。
「そう。それは、簡単に説明できないんだ。野球をやるのを面倒くさくさせたり、人間を根本的に疑わせるようにさせたりした原因だから」
「こりゃ、すごい高校生活になりそうだぞ。青高にきておまえに遇えたのは天の恵みだ」


         五十三

 川沿いの林檎園の細道を抜け、国道を横切って合浦公園に入った。松林に磯くさい汐風が吹いている。月の光の届かない海面に細かい波頭が立っていた。それを見るだけで寒くなった。海鳴りが耳を脅かす。野辺地でよしのりと聴いた死の響きだ。
「ほら、あそこが前にいた借家だ」
 山口は公園のへりにある古びた二階家を指差した。春にヒデさんときたときにも、ちらと目に留まった家だった。
「あんな大きな家に、ひとりぽっちだったのか。こりゃ出たくなるね」
「みんな出ていったからな。勉強部屋からいつもこの海を眺めてた。昼間はロマンチックな海も、夜はやっぱりおっかない」
 私たちは桟橋を進んでいった。夜の海面にブイがかすかに光っている。突端にくると山口は下駄を脱いで腰を下ろし、ぶつぶつとしゃべりはじめた。小声で演説しているようにも聞こえる。
「やっぱり、少し腰が引けるぜ。―ジェフリーズいわく、環境はいつのまにか生活の周囲に安全な壁を築き、そして、心は絶えず狭まっていく円周の中を旅しはじめる。そんなふうに人間の能力が安全性の中に束縛されると、人は現在の事物や知識を到達しうるすべてだと思うようになる。これが一切だ、もうこれ以上何もない、現状にとどまれ、ただ一筋にぐるぐる廻れ。食い物と、睡眠と、他人の昔語りの聞きかじりと、老いと死を得よ」
 一戸以上だ。異国の言い回しのまま翻訳してあるせいで、かえって暗記しづらいはずだ。私はまた異能の人間を一人見ている。
「もうこのうえできることはないという迷信に匹敵する力を持つものは見つからない。すでにいっさいのものを持っている、これ以上何もないから進捗は不可能だという印象がいったん心に食い入ったが最後、人は地中深く打ちこまれた杭に鉄鎖でつながれる。ついに円周の半径が決定的なものとなったのだ。これこそ、安全ではあるが、心にとって最も恐ろしい、最も致命的な室内監禁である。型どおりの家庭生活の行事や行楽、同じ仕事、仕事にまつわる同じ考えや、きちんと繰り返される茶飯事、そういうものの中に閉じこめられたとき、私たちはどんなに先鋭な着想や発見の光から見放されることだろう。人は安穏とした生命の維持を超えた貴重な光を味わうために生まれた。だからこそ、日常の室内行脚の安全な鎖を解き、わがままに、陽射しの強い危険な野の領域へ帰っていかなければならない。―さあ、跳びこむぞ!」
 山口はたちまち服を脱ぎ捨てると、パンツ一枚で奇声を上げながら水へ飛びこんでいった。きらびやかな言葉の印象が残り、私はしばらく身動きできないでいた。
 山口が沖に向かって抜き手を切っていく。私はワイシャツをむしるように脱ぎ、ズボンから足を引き抜いて、桟橋の端に立った。足の裏に砂でざらついた板が感じられた。海面が思ったよりも下にある。私は夜風に向かって口を開き、桟橋から飛びこむ姿勢で両手を伸ばすと、うねり寄る波に向かってからだを屈めた。
「よし、いくぞ!」
 頭から跳びこみ、全身をぎゅっと引きしめた瞬間、なめらかに、深く、水中に潜っていった。水の温度は感じなかった。水の中だという意識もなかった。いったん水面に浮かび上がり、深く息を吸いこんで、また潜り、目をつぶったままどこまでも水中を進んでいった。それからもう一度水面に浮かび出た。ぐるりと仰向けになって、目を開く。月が圧(お)してくる。
「おおい、楽しんでるかあ!」
 夜の海面を遠くから声が滑ってきた。山口は泳いでいた。私は、百メートルほど沖の黒い海面に浮き沈みする頭と、抜き手を切っているらしい肩を見つけた。
「おー、楽しんでるぞォ!」
 それから彼の姿を見失った。私は勢いよく腕をこいだ。冷えた海水がなんともいえず快い。手足を動かすだけでもじつに快適だ。私は強くゆったりとした動きで水をかいた。また潜った。ようやく水温を感じはじめた。沈むにつれてひんやり冷たくなっていく。目と耳に水圧を感じながら水底に近づくと、かなり冷たかった。からだを伸ばし、底を蹴って浮上した。闇の中に浮かび出るのは奇妙な感じだった。わずかに足で掻きながら、温(ぬく)い水の表面でゆったりと休んだ。
「だめだァ、冷たすぎる。上がるぞ!」
 山口がこちらに向かって抜き手を切ってくる。私も平泳ぎで桟橋から逸れた砂浜へ向かった。砂の上に立ち上がると、からだがぽかぽかした。山口は唇をふるわせている。
「いやに寒そうだね」
「沖は水温がちがう。こんなのは一回きりのお楽しみだ」
 ふと見ると、二人ともパンツに陰毛が透けていた。おたがいに指差して、大声で笑い合った。やがて私のからだも、氷に冷やされたように芯まで冷えてきた。
「服はどこだ!」
「あそこに脱ぎっぱなしだ」
 二人で桟橋まで走った。
 帰り道、山口は私に問いかけた。
「おまえの書いたものを見せてくれないか? 自信のあるものだけでいい。傑作の予感がある」
「読んだこともないのに、よくそんなことが言えるね」
「読まなくたってわかるさ。何かを感じさせる人間てものが確実にいるんだよ。クラスの連中を見てみろ。どいつもこいつも、記憶力がよくて、頭が回って、つまりそれは、感覚的なものを必要とする仕事よりは、むしろ知識を使い回す仕事のほうに向いているということだ。おまえはちがう。見たところ、ヤケになって宗旨替えをして、英数国理社に打ちこんでるのが見えみえだ」
「さっき言ったように、でたらめな幻を書いてる。わざわざ心の底から原始的な悲しみを浚いだすような……。だから、嘘っぱちの詩だ」
「詩を書いてるのか。そうか、詩人か……。俺は、その、原始的な詩人の悲しみに興味がある。どういう種類の悲しみか知らないが、おまえの心にいい作用はおよぼしてない。おまえの詩は、その悲しみを礼賛するようには表現してないはずだ。攻撃の対象にしてるだろ。見せたくないのは、そのせいだ」
「礼賛と攻撃なら、攻撃のほうがラクだ。ラクなほうをやってしまう」
「怒り狂わせ苦悶させるものすべて、不必要にかき乱すものすべて、悪意を含んだ事実のすべては、攻撃の対象になるからな。ラクをするな。礼賛するのは、おためごかしじゃできない。まるまる一つの人格が要る。おまえにはその人格がある」
 すぐれた直観が、驚くほど適確な意見を紡ぎ出した。寺田康男と山田三樹夫のあとに彼がやってきた。
「……親友になってくれないか」
「もうなってるよ。ドアの外で立ち聞きされてたときからな」
「話を戻すけど……女の肉体をどう感じる」
「恋して抱くと快適なものだと思うが、その意味では俺の肉体はまだ童貞だ。恋に関しては、アベ・プレボーやモームの本で役立たずの学習はした。つまり何も知らん。しかし女のまごころや悪心に対する男の対応は、そういう本を読んでいて苦しいほど胸に沁みた。彼らは礼賛のかたまりだった。恋を知ってるやつは、おまえのように寡黙だよ。恋心を知ることで人生の意味がふくらむなら、ぜひ女を知るべきだが、俺ごときの度量の男が肉体以外のものを知ったら、人生の意味がふくらみすぎてパンクしちまう。おまえみたいに芸術に昇華させたくなるほどの経験は、焦ったって手に入らない。じっくり構えて待つことにするさ」
「肉体を知ったのは早かったの」
「つい最近だ。このからだだろ。性欲がはち切れそうになったんで、青森港に女を買いにいった。それを、あの管理人に嗅ぎつけられて、いまじゃ不潔なものでも見るような顔でいつも睨みやがる。いい齢して何考えてやがる。われ関せず焉(えん)。そう思ったら堂々と港にいけるようになった」
「青森という土地は、男も女も開放的だね。花園の下宿もそれだった。それで危険を回避するつもりでここにきたんだけど」
「美形のおまえがきてから、管理人の顔つきが柔らかくってきた。花園の下宿と同じことが起こるかもしれんぞ。メインのカズちゃん心臓は途方もない包容力でそれを勧めてるようだが、受け入れすぎると、サブの野球心臓に響くぞ」
 ところで、と彼は話題を変え、最近仕入れた知識だと言って、アンドレ・ブルトンのシュルレアリズム宣言のことをしゃべりはじめた。
「譫言(うわごと)をだれかに書かせたり、一定時間内に高速で、できるだけたくさん文を書くってやり方でな、自動筆記と言うんだ。オートマティスム。論理的に書こうとか、美しく書こうという気持ちを追い出して、内容なんかどうでもいいから、びっくりするような文章を作り上げようというわけだ。それが自分の内にあるほんとうの現実を表している、つまり超現実を表しているというんだが、どうも脅迫的だな。瀧口修造なんかは脅迫されてモロに影響を受けてる」
 自動筆記(オートマティスム)という前衛的手法を初めて知った。気に食わなかった。それに飛びついたという日本の作家も気に食わなかった。意識下の思わぬ超現実などいんちきだと思った。いんちきは山口の言うように脅迫的な権威になる。
「そんなやつは、言葉を石ころみたいに考えてるんだね。言葉から意味を取り去りたいだけなんだろう。内容ゼロのクソ文章を作りたくてね。でも、そう考えたということは、内容ゼロという意味を求めたことになるよ。馬鹿らしい矛盾だ。そういう矛盾は流行の権威になるだろうから、権威で人を操ろうとする政治的な不明瞭さがともなう。馬鹿はかならずクソに政治的な意味をくっつける。意味なんかないって意味を叫びながらね。そんなクソにぼくは脅迫されない。ウワゴトだろうと、筆記の徒競走だろうと、でたらめな文法で意味を破壊さえしなければ、言葉を意味づける方法はいくらでもあるし、イメージも豊かに増幅する。だいたい、芸術というものはそんな自動的なものじゃない。経験をフィルターにかけて精製する過程で純化していく言葉というものがあって、その言葉をさらに精製することで、上質な意味言語が抽出されるんだ。偶発的な体験といい、それを抽象した言葉といい、ダイヤのように貴いもので、そんな寒々しいインチキ作業に甘んじる奉仕役じゃない」
「神無月! すごいな、おまえ。久しぶりに脳細胞が興奮した」
 山口は眉をゆるめた。
「山口こそ、人を褒めすぎるのは悪い癖だ」
「褒めてやしない。たしかに、おまえの言う日本のクソ詩人やクソ小説家は、もともと大した経験を持ってないし、抽象作業も稚拙だから、素のままで前衛になっちまう。『これはどういう意味ですかと問われない文章を書くことなんか簡単だ、意味の通じる作品は小物だ』って、とんでもないことをマスコミに向かってしゃべったやつもいる」
「安部公房だね」
「ああ。このあいだの話のつづきじゃないが、何を作っても結局は過去の傑作の模倣になることが口惜しいんだな。でもな、神無月、たとえ文法がしっかりしてても、言葉の使い方が多義的にすぎるのだって、意味の伝達とイメージの破壊に通じると思わないか?」
 私は自分なりの考えをまとめようと、めまぐるしく頭を回転させた。
「うん、そうだね。どうとでもとれるなら、かえって理解を妨げるよね。ほんとうはそういうのこそ正真正銘のぶち壊しで、確固たる意味を光の束のように伝達することで魂を救済するという芸術の大前提が滅んでしまう。言葉が単なる含意の探索の目標になったら、その文章は単に多義語が羅列された辞典になって、内容という真の伝達目標を失う」
「バンザイ!」
 山口は勢いよく両手を挙げた。そして言った。
「言葉について、もう一つ気にかかってることがあるんだよ。言葉が単なる写実だけの道具に堕しても、それはもう文学と言えないということだ」
「うん、確固たる意味の光の束は、実物の人間の内面を伝達しなくちゃいけないと思う」
「そのとおりだ! 坂口安吾も言ってるな。代用としての道具、つまり単なる説明としての言葉は文学とは言いがたいってな。なぜなら、写実より実物のほうが本物だからさ。単なる写実や説明を文学と呼ぶなら、地球に表紙をかぶせてやればいいってね。言葉には言葉でしかできない、もっと純粋な、おまえの言う実物の人間を表現する絶対的な領域があるはずだからな。言葉だけでしか表せないもの、つまり、精神の高揚を刻まなくちゃ」
 断ち切るような調子でしゃべる。私は心の底から充実感を覚え、精いっぱい、山口に笑いかけた。
 山口はそれからもアパートに帰り着くまで、インド・パキスタン戦争の宗教的意味や、教科書検定のくだらなさや、このごろの歌謡曲の質が落ちたことに対する不満などを語りつづけた。私は飽きなかった。

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