八十二

 毎度の豪華な食卓になった。肉と、野菜と、魚の料理がまんべんなく出た。スープはテクダンという辛くて真っ赤なやつだった。牛のテールと聞いて怖気づいたが、くさみがなく、うまいと感じた。主人に勧められて、ビールをコップ二杯、山口は三杯飲んだ。
「お二人、ほんとに十六歳に見えんな。面相に、太く一本通ったものがある。風格やね」
「それは神無月だけですよ。この男の恐ろしいところは、一見馬鹿に見えて、実際馬鹿だというところです。本人はその馬鹿の意味を誤解してるようですがね。頭が悪いんだと思ってやがる。しかしこの馬鹿は、そこいらへんの利口のやることは全部やりますよ。ただ頭角を現すのが嫌いなんだな。こなして上昇していくことに価値を置かない、そういう馬鹿なんですよ。黙っていると人の上に立ってしまうんで、上昇志向が大嫌いなこいつは落ちぶれたいと思うわけです」
「……ふうむ。しかし、またなんでそんなふうに生まれついたんですかな」
 山口はテールスープをレンゲで流しこみながら、
「教室で最初見たとき、ぼんやり、ポーッと輝いてた。―近寄れなかった。偶然アパートがいっしょになって、口を利いて、輝きの意味がわかった。常に自分を無意味だと考えつづけてる。あらゆる人間の下位にある者だと考えつづけてる。謙虚とちがう。そこを原点にして、その下等な人生を生きる意味を探ろうとしてる。それでいて、野球をやれば記録を塗り替えるホームラン王、勉強すればすぐに首席になる、語るべき相手にはとことん包み隠さず真情を打ち明ける。信じられない。それなのにですよ、幼いころから自分は最低であると考える病気に罹っている。正真正銘の馬鹿でしょう。俺は惚れたんです。なぜか。神無月といると、人間は捨てたものじゃないと思うからです。生まれてきた意味があった、生まれてきてよかったと思うからです。人生は無意味だと言うのはたやすいですが、無意味を生きるには、ずいぶんエネルギーが要るものなんですよ。松葉会にいる中学時代の友人が、神無月郷を生甲斐にしたことがよくわかる。いまも彼は、寝床に入るたびに神無月のことを思って泣いてますよ」
 父親はビールをもう一杯ついだ。
「……理屈はわからんけど、神無月さんは放っておけんな。弱い人やとは思わん。ものすごく強い人やろな。しかし、放っておけん。なんだかその強い力で腹の底に溜まった汚いカスをきれいに掃除してくれるんやな。ありがたくて放っておけん。和子やトモヨも目が高いわ。山口さん、あんたも目が高い」
 女将が、
「なんやろ、神無月さんがキョトンとしてるやないの。なんでこんなに褒められるかって顔やが。神無月さんは寝太郎や」
 主人がワハハハと笑いだした。私もつられて笑った。
「そうそう、それだ、神無月さん、あんたが笑うとうれしくなる。じつにいい笑顔だ。なあ山口さん」
「はい!」
 と女たちが私にまとわりついてきた。
「さ、はよ寝て、あしたに備えんと。いろいろ動き回るんやろ」
「はあ、神無月のかよった学校を見てきます」
「おトキ、トモヨがあしたは出かけんと、一日仕事見習いをしたい言うとるで、よろしく頼んだで」
「はい、トモちゃんはすぐ覚えますよ。教え甲斐があります」
「山口さん、今夜は、ここにいる女から選んでかわいがったってくれ」
 あたしを、あたしを、と何人も山口にまとわりつく。
「すみません。きょうは慣れない飛行機に乗って疲れたので、ひと晩寝て、あしたあらためて―」
「ほうか、よく寝て精つけんとな」
「はい。もう少し飲みたいです」
「お、いきましょ、未成年」
 父親が、もう一本、とおトキさんに酒を頼んだ。女たちはそれほどガッカリした様子もなく、酌に回った。母親が、
「山口さん、そこらへんにしときなさい」
「俺、中学のころからよくオヤジのビールに付き合わされてたんですよ。酔っ払うほどではなくね。法的に言うと、酒を飲んだ未成年を罰する規則はありません。バレたら、飲ませた大人が千円以上一万円以下の罰金を取られます。バレてません」
 座がいっそう賑わった。賑わいをよそに、カズちゃんに目顔で告げて、トモヨさんと玄関を出た。トモヨさんは毛糸の靴下にサンダルを突っかけ、冬物の茶色い毛織のカーディガンを着ていた。暗い道を名古屋駅の明かりのほうへ歩いていく。
「これからは、ぼくだけとするんだね。うれしい?」
 つまらない質問をする。トモヨさんは弾んだ声で答える。
「うれしいです。旦那さんが言ってたように、お腹の中がお掃除されるようです」
「北村席って、大店なんだね」
「ええ。この界隈ではいちばん大きい席です。私はいままで、塙席に売り上げの四割を届けて商売させてもらってたんです」
「早いうちにやめることはできなかったの?」
「私は売れっ子じゃなかったから、月に四、五人のお客さんをとるくらいで、いままで貯めたお金で細々とやってました。やめようと思えばいつでもやめられたんですけど、やめちゃったら、その先、何をして生活していけばいいのかわからなくて。この齢で新しい仕事を探すというのはなかなか難しいんです。月に何人かのお客さんと寝て、細々と暮らしていったほうが気楽だと思ってしまって。借金も百万近くありましたし……。でも、郷くんに会って、すっかり決心がつきました」
トモヨさんはガード沿いに歩いていって、キョロキョロと看板を見上げ、一軒の旅館に決めて入った。亀島町。ここから三分も歩けば、あの浅野の家だ。
「おととしの秋、担任の教師の家にしばらく下宿させられてたことがあって……このすぐ先だ。彼といっしょに、この道を何日も学校へかよった」
「どうして下宿なんか」
「母に煙たがられてたから。……島流しの予行演習だね」
「まあ! いやな思い出ね」
「青森に送られたころはそう感じてた。いまはなつかしい。まだ、二年も経ってないけど」
 カズちゃんの言ったとおり、坊主頭を見咎められることもなく二階に案内されて、テーブルに茶菓子の置いてある八畳に入った。去年の小屋よりはよほど快適だ。
「高そうな旅館だね」
「だいじょうぶ、そのくらいのお金は持ってますから」
 窓から町を見下ろす。薄蒼い夜の中に、民家の屋根や、ビルの外壁や、風呂屋の煙突が溶けこんでいる。眼を遠く駅裏のほうへやると、トモヨさんの長屋が見えた。
「人って、食べる以上の金を稼いで、余った金を貯蓄して、自分が寝起きするどこかの場所を基地にしてウロチョロしてる。それだと、人間としてきちんと生活してることにならないんじゃないかな。ただ不必要にじっとしているのと同じような気がする。働いて、食べる以上のお金を手に入れたら、その金を楽しいとかうれしいと思えることに使いながら生きるのが生活だと思う」
「はい……」
「ぼくはまだ賃取り仕事はしてないプー太郎だけど、そういう生活をする心意気で将来を考えてる。勉強したり、本を読んだり、音楽を聴いたりするのは、ぼくの楽しい生活の一部だ。将来、野球で稼いだ金の一部はそういうことに使おうと思ってる。残りの金は、ぼくを愛してくれる人に感謝して酬いることに使う。それはとてもうれしいことだから」
「そんなこと考えてるんですか……不思議な人」
 料金箱つきのカラーテレビが置いてある。暖かそうな蒲団が奥の部屋に敷いてあった。
「ただ、財物はお返しできても、愛情をお返しすることを保証できないんだ。幼いころから冷めたところがあって、踏ん張らないと温かくなれない」
「……郷くんは私の愛情を受け取ってくれてます。愛情を受け取ってくれる人がいなければ、人は不幸です。冷たかろうと温かろうと、愛情のお返しは望んでいません。ただ受け取っていただければ、それだけでじゅうぶんです。郷くんといっしょに、ずっと生きていきたい。でも、こんな仕事をしてきた女じゃ人聞きが悪くて、郷くん、恥ずかしい思いをするでしょうね」
「体面を気にする人間にとっては、きっと恥ずかしいことだろうね。ぼくはぜんぜん恥ずかしくないよ。大事にするような体面がないから。何より、ぼくを愛してくれる人間にめぐり会うことだけでもありがたい奇跡だ。そう思うと、うれしいだけで、恥ずかしい気持ちなんかぜんぜん湧いてこない。ぼくのような人間がけっこういることは、山口を見てトモヨさんもわかっただろう。人生はあっという間に終わってしまう。だから、そういう人間だけに巡り会うことを祈って生きていこうね」
「はい」
 トモヨさんといっしょに蒲団へいき、全裸になる。
         †
 交わりのあと、丁寧にからだを洗われる。湯船でトモヨさんの大きな胸に抱かれる。落ち着いた気分が彼女から出て、私の中へ流れこむようだ。
「あと十年もしたら、もうこんなこと、できなくなるでしょうね」
「いつまでもできるよ。そして、こうやっていっしょにお風呂に入れる」
「五十になっても抱いてくれますか」
「何歳になってもね。好きな人とは別れたくないから」
「でも、郷くんはこれからうんと出世して、遠くへいってしまいます」
「いかないさ。出世しないから。出世というのは大勢の人の上に立つことだよね。ぼくはバッターボックスでホームランを打ちたいだけ。いくらホームラン打ったって、人の上には立てない。ぼくはだれも組み敷きたいわけじゃないし」
 トモヨさんは湯に蒸された汗と涙をいっしょに流しはじめた。私は彼女の乳房を吸った。
「山口が、ぼくのことを馬鹿と言ったのは当たってるよ。きっとぼくは、この世界を生きていくには馬鹿すぎる。でも馬鹿を好いてくれる人たちがいれば、なんとか生きていける」
「山口さんは、なんて表現が上手なんでしょう。おかげで〈利口な〉人間が嫌いになってしまいました」
 カズちゃんは、と私は口に出した。
「わかってます。郷くんが全身全霊で愛情をお返ししてるのは、お嬢さん一人です」
「うん、馬鹿は一途だからね。カズちゃんも大馬鹿の一途な女神だ。ぼくは彼女一人がいれば生きていける。そのことだけは知っておいてほしい」
「はい。私なりに郷くんを一途に愛することだけで、私は満ち足りてます」
「ぼくは、つくづく愛情乞食だ。愛されないと、何もする気が起こらない」
「はい。郷くんは女に愛されなければ、生きていけません。愛されることを生きるエネルギーにしてます。愛情を注がない女には見向きもしません。女にはすぐわかります。お嬢さんに少し聞かされました。郷くんは失ったものが大きすぎる、それをいくら愛情で補っても足りない、だから命を捧げるしかないって。私には、郷くんの失ったものの正体がぼんやりわかります。人を信じる心です。それを回復してあげるには、命懸けになるしかないんです。放っておけないとか、愛さなければとか、そんな軽々しい気持ちではどうにもならないものなんです。……でも、それ以上に、郷くんの何もかもが好きで好きでたまりません。命もいりません。お嬢さんの気持ちがそっくりわかります。女のほうには、郷くんをほかの女と共有してる気持ちはぜんぜんないんですよ。ただ一方的に郷くんだけを愛してるだけなんですから」
 風呂から上がると、トモヨさんは電話の脇に置いてあるメモ用紙に北村席と塙席の住所を書いた。それから二人でゆっくり茶を飲んだ。
「あの長屋の部屋は塙席からの〈出張所〉?」
「はい、お客さんと寝たり、ぼんやりしたりするところ。寝る人もいれば、話だけをして帰る人もいます。私は呼び出されないことのほうが多かったです。売れっ子じゃなかったから。もうあそこにいかなくてすむと思うと、ホッとします」
「夏休みまで、当分会えなくなるね」
「がんばって待ってます。郷くんも、野球、精いっぱいがんばってくださいね」
「うん」
 トモヨさんは、めったに見せることのない美しい八重歯を出して笑った。カズちゃんと同じ場所にあった。


         八十三

 三月三十日水曜日。トモヨさんと朝帰り。
 夜遅く帰る女たちや朝帰りの女たちがチラホラいる都合で、朝めしは九時過ぎになることが多い。おトキさんにリクエストして、アジの開きと、トロロ昆布の味噌汁にしてもらった。カズちゃんも私もそれで二杯のめしを食った。山口はさらにハムエッグを加えて、三杯めしを食った。座敷の女たちはいつもの豪華なおかずだった。一日に使う体力がちがうのだ。中にユキさんの姿もあった。
「神無月さんて、安上がりにできてるんやね」
 母親が言う。
「ものをきちんきちんと食う習慣がつかなかったせいです。幼稚園は、オシッコやうんこの記憶と同様、朝昼晩にものを食ったことすら覚えてませんが、小学校に入ったくらいからは記憶があります。朝も昼も食いませんでした」
 おもしろい話が始まるぞというので、みんな聞く態勢になる。
「朝は食わずに学校に出る、昼飯代としてもらった小遣いは貸本か映画に回す、夕食はぼくが飯を炊きましたから食いました。コロッケ、メンチ、ポテトサラダ。これをぼくは肉屋の黄金三点セットと呼んでます。今朝のようなセットのおかずは食べた覚えがありません。名古屋の小学校にきてからは、最初のころは、飯場の朝めしはほとんど食いませんでした。食う習慣がなかったので」
 カズちゃんが、
「たしかにそうだったわ。五年間で何回かしか見たことがなかった。私が無理して食べさせたときだけ」
「名古屋にきてから給食というものを知りましたけど、給食係を睨みつけて食器に入れさせませんでした。あのまずさは超弩級だ。パンは毎回窓の外に円盤のように飛ばして捨てました。バレなかったのは、野良犬かカラスの餌になったからでしょう。夕食は親切な土方たちのあいだで食いました。野球をやってたのに、一日の食事はそれだけでした。食い盛りだったはずですが、腹が減っているという感じがなかったんです。朝めしを食う習慣をつけようとしてくれたのはカズちゃんです。あるときは玉子かけごはんに、味噌汁、タクアン、炙り海苔。あるときは、アジの開き、納豆、白菜の浅漬け、トロロ昆布の味噌汁。食べやすいように、そういう軽いものを工夫してくれたんです。でも結局、習慣はつきませんでした。それ以来、白菜の浅漬けは大好物になりましたけどね。中学にいってしばらくしてから、カズちゃんは昼めしに大きな鮭のおにぎりを一つ持たせてくれました。母の目もあって、毎日そんなことをしているわけにもいかず、それも習慣づきませんでした。何年もかけてカズちゃんはぼくのからだを丈夫にしようとしてくれたんです。そんなふうに、時おりにしても、カズちゃんのメニューで長年食いつけたものですから、白菜の浅漬けやアジの開きなどをおいしいと感じるいい舌になったんです。きのうの夕食のような絶品の味は、構えて挑まなくちゃいけません。もちろん舌がとろけるほどおいしいですけどね。朝めしはこういう組み合わせを最高と感じます」
 山口の大笑いにつづいて、部屋じゅうが笑いでどよめいた。
「そういえば、おまえ、つい最近まで、アパートの朝めし、ほとんど食わなかったな。まずすぎるからだと思ってたよ」
「ああ、食ったのは、野辺地と、葛西さんの下宿と、桜川のカズちゃんの家でだけだ。昼めしは、葛西さんの弁当がなくなってからは、食わない習慣に戻ってしまった。今回のような旅先で、食いつけてないめしを三度食うと、一食一食が新鮮だ」
 しゃべりながら私たちが食べ終えると、主人夫婦と、賄いに回っていた下働きの女たちが食卓を囲んだ。
「まあ、信じがたい話だが、和子という証人がいるから信じないわけにはいかんな。オーイ、おまえたち、朝から贅沢しすぎだぞ」
 離れたテーブルに声を投げる。またドッと笑いが上がる。トモヨさんが、
「和子お嬢さん、くれぐれも郷くんの食生活をよろしくお願いします」
「こればかりは無理だと思うわ。キョウちゃんには食い意地がないのよ。チャンスがあるかぎり、どしどし食べてもらうようにしてるけど、私と会っていないときはあきらめるしかないの」
「だいじょうぶです、トモヨさん。百七十五センチ、七十四キロ。健康そのものです。食い溜めができる体質なんですよ」
 私が言うと山口が、
「いや、この半年で少し伸びた。百七十七、八センチ、七十七、八キロぐらいだな。最終的に、百八十チョイ、八十キロチョイになるだろな」
「山口は百八十センチ、七十五キロだったな」
「ああ。俺は打ち止めだ。よくものを食ってきたから」
 カズちゃんが、
「並んでみて」
 二人立つ。
「ほんとだ。山口さんが二センチくらい高い。そして、ちょっとガッチリしてる」
 おトキさんがとカズちゃんが、両親と賄いたちのおさんどんをした。女中は台所でひっそり食わなければいけない時代があったことは、映画などを観たり、古い小説で読んだりして知っている。それを思い出し、私は胸が温かくなった。めしを食っている賄いの女たちは、老若みな、おとなしかった。
 山口が厨房にいき、先に食い終えた私たちの分のフィルターコーヒーをいれてきた。いつも主人が使っているコーヒーセットでいれたものなので、山口に飲みますかと問われても、北村席の女たちは遠慮している。主人が、
「山口さん、ワシにもあとで一杯いれてください。薄くね」
「ほい」
「山口はコーヒーをいれる名人です。おいしいですよ」
 私もお願い、と母親が手を挙げた。結局、食事を終えた女たち全員が手を挙げた。山口は大わらわでコーヒーを落とす破目になり、湯呑み茶碗まで動員して配って回った。
「おいしい!」
 いちばん大きな声を上げたのはおトキさんだった。
「私、さっそくもっと大きなコーヒードリッパーを買って、これからときどきみなさんにおいれします」
 カズちゃんが、器具や豆を買いにいく店や、豆の種類や、苦さの程度を教える。
 食後の後片づけがあわただしくなった。ポチポチ検番から電話が入りはじめる。父親はテレビを点け、母親は帳場に入った。仕事が始まったのだ。
「和子、ハイヤーを雇ったらどうや。一日じゅう面倒がないで。きょうは大して遠出しないんやろ」
「うん。動き回るからハイヤーがいいわね、そうしましょう。男子二人、青森で半袖のポロシャツ買ったから着てみて」
 淡いブルーのお揃いのポロシャツを紙袋から出す。少し大きさをちがえて買ったのがピッタリで、二人驚いた。胸ポケットの鰐のマークがシャレている。それを見て山口がヘエと声を出した。
「クロコダイルか。高いぜ、これ。和子さん、ありがとう」
 カズちゃんはすでに玄関に下りている。全身淡い薄緑の夏服を着ていた。
「和子さん、きれい」
 トモヨさんが言うと、母親が、
「いつのまにかきれいになりよって」
 帳場から眺めている。おトキさんがやってきて、
「ほんとに外人さんみたいですね」
 と腕を組んだ。ハイヤーがきて、女たちが何人か見送りに出た。トモヨさんはいかないことにしたらしく、にこにこ手を振っている。父親が出てきて、運転手に一万円を渡した。
「一日よろしくな。大事なお客さんだから、くれぐれも無礼がないように」
 と運転手に言った。まるで使用人にでも申しつける口ぶりだった。私は運転手の顔を見た。短髪の三十代の好男子だった。ハイヤーが出ると女たちが一斉にお辞儀をした。山口が、
「和子さんがここまで箱入り娘とは知らなかった」
「箱入りじゃないわよ。ヤンキー上がり。三十過ぎてようやく箱に収まってる格好ね。収まってないか。青森にいるんだから」
「しかし、お嬢さんお嬢さん、だぜ」
「あれ、いやよね。置屋の一人娘のくせに。恥ずかしいわ」
「俺は耳に気持ちいい。和子さんにまとわりついて一家がまとまってる感じだったな」
「ぼくも気持ちいい。カズちゃんに合ってる。もともと気品があるから」
「三十女をからかわないの」
 髪の短い運転手がミラー越しに、
「三十ってのは、ちょっと見えんなあ。いいところ、二十五」
「もう、じょうずね。三時のおやつぐらいおごってあげる」
 ハハハと運転手は笑った。
「まず、どちらへいきますか」
 私が、
「熱田区の千年小学校。センチメンタルジャーニーなんです。門につけてくれるだけでいいです」
「了解。もう十年この仕事やってますから、名古屋市内ならほとんど迷わずいけますよ。お二人、ええ男やなあ。授かる人は授かるんですね」
「あんたも渋いわよ。まだ四十前ね」
「昭和四年生まれの三十七歳です。子供、一人。貧乏暇なしです」
「きょうはゆっくりしなさいよ。ハイヤーはひさしぶりなんでしょう?」
「はあ、時間勤務制でほとんどタクシーを流してます。こんなことは、年に五、六回ですかね。北村席さんばかりです。タクシーもよく呼んでくれます。お得意さんですよ」
 笹島の交差点から名駅通りを進み、名鉄中日球場前駅に出る。
「昭和三十一年までは、ここは山王駅と言ってたんですよ」
「小学生のころ、この駅で降りて中日球場にいった覚えはないなあ」
「国鉄の尾頭橋でしょう。球場までは同じくらいの距離ですから」
 右手に中日球場が見えてきた。
「山口、あれが中日球場。飯場の人と何度もいった」
「おまえの夢の出発点だな」
「終着点でもある。こうやって見るだけで感激する」
「ホ、そちらは野球選手ですか。そうは見えんな。どこぞの御曹司―」
 金山から熱田へ。神宮を素通りして、伝馬町、内田橋、宮の渡し。そこで降りる。
「カズちゃん、ここ。……ここから鶴田荘にいって」
「ええ―思い出の場所。おととしの五月の末ね」
 山口が背中に立ち、私たちの肩越しに堀川を眺めた。
「この運河は、かなり汚れてるなあ。浚渫が必要だ」
「におう日とにおわない日がある。でも思い出の川だ」
 七里の渡しの船着場跡へ歩いていく。カズちゃんが、
「ここから三重県の桑名まで七里。左が海よ。東海道でたった一つの海の道。宮は宿屋の数も東海道でナンバーワンだったのよ」
「ここに住んでるころは、そんな歴史的な場所とは知らなかった。ぼくはあの大瀬子橋を越えたところにある飯場に住んでて、カズちゃんはその飯場にかようためにこっちのアパートに住んでた」
 あちら、こちらと指を差す。それから川沿いに大瀬子橋へ歩いていく。ハイヤーがのろのろついてくる。
「ここが大瀬子橋。宮中への通学路だ。千年小学校の野球部のランニングの折り返し点。運転手さん、橋を渡ったところで待っててください」
 運転手がフロントガラスの向こうでうなずく。板の歩道を渡りはじめる。
「この橋から、熱田祭りの花火を見上げた。いい思い出じゃない」
「おふくろさんといっしょのときに呼びかけられたんだったな。滝澤節子に」
「そう、そこの沿道で」
「目移りしたんだな。手ほどきまでしてくれた和子さんがそばにいたのにな」
「ああ、めくらだったんだ。でもその時期がなければ、カズちゃんのすばらしさがわからなかった。参考書がないと、ものごとを見抜けないほどバカだった」
 山口は聞かないふりをしている。
「あの橋のたもとの楠木がそびえている家が、脚の悪い加藤雅江の家だ。よくぼくをかばってくれた女だ。ぼくが学校の帰りにカズちゃんに会いにきたとき、アパートまであとをつけてきた。悲しそうだった」
 ふたたび車に乗り、クマさんの社宅前で停まる。窓から指を差す。
「あの平屋が、クマさんの社宅だった。奥さんの房ちゃんと、子供一人。永遠に忘れられない人だ。その裏が熱田高校。中学生のとき、生垣の電柱に隠れて痴漢の狼藉におよんだけど、女が暴れた拍子にハンドバックが後頭部に当たって、あわてて逃げた」
 プハハと山口が噴き出した。運転手が煙草を吹かしながら、
「一日飽きずにすごせそうです」
 と言った。
「そのことをカズちゃんに話したら、痛く同情された。それで女の秘密をぜんぶ教えてもらった」
 笑っていたはずの山口の目に涙が浮かんでいる。
 堀酒店の前にきた。降りて、飯場跡に寄っていく。民家が二棟建っている。小路の向かいの下駄屋はそのままだ。
「ここの飯場に、中三の十月まで暮らした。その月に野辺地に送られ、十一月にカズちゃんが追ってきてくれた」
 ハイヤーに戻り、千年小学校までのろのろいく。裏門の前で山口が真っ先に降りた。金網の垣根にしがみつく。
「この校庭か! 番長と喧嘩したんだな。おお、浮かんでくるぞ。ここの三階校舎の屋根にホームランを……あそこだな、うへえ! 遠いな。こりゃ、人間技じゃない。青高グランドで打ったバカでかいホームランがいま納得できた。おまえに野球は、いやスポーツそのものは似合わんけど、ホームランだけは別物だ。和子さん、あの屋根に、四年生がホームランを打ったんですよ。化け物だ」
 カズちゃんの頬が歪んでいる。
「あのまま進んでいれば―」
 と呟いたとたん、涙がこぼれ落ちた。いつのまにか運転手が降りてきていて、三階校舎を眺めている。
「すごいですなあ、大人でも無理だな」
「よし、神無月の人生最初のホームランをしっかと見た。次は宮中だ」
「ちょっと待って。正門の前の道も歩きたい」
 運転手もいっしょに正門のほうへ回っていく。


         八十四 

「この駄菓子屋で、おふくろが歯医者の帰りに本を買ってくれた。付録がフランダースの犬だった。ただの抄訳本だったけど、ぼろぼろになるまで読んだ」
「神無月も虫歯になるとはな」
「いや、おふくろが歯槽膿漏の歯をぜんぶ抜くのに連れていかれたんだ。外で長いこと待たされた。そのご褒美のつもりだったんだろう。あの突き当たりの貸本屋、店の前に廃棄本が積んであって、そこからときどきエロ本を抜いて持って帰った。机の裏に隠してたのをカズちゃんに見つかって、そして痴漢の話を打ち明けて―。結ばれたのはそれから二年も経ってからだ。カズちゃんは羽目を外さない人だからね。こんなにきれいな人だと気づいたのも、そのときだ」
 運転手がつくづくカズちゃんを眺め、
「ほんと、日本人じゃないみたいですなあ。女優でもここまできれいなのは、なかなか」
 カズちゃんが運転手の肩を打った。
「じゃ、宮中へいきますか。しかし、三人はどういうご関係なんですか」
 車に戻る。山口が、
「ひとことじゃ説明できない。神無月は明るく淡々としゃべってるが、異常な人生だ。聞いているうちに異常でないように思えてくるのが怖い。すべて神無月の異常な心から創り出された経験だから、他人にまねできるものじゃない」
 千年公園は、緑の少ない寂れた空地になっていた。子供たちの声がしなかった。見覚えのないジャングルジムがしつらえられていて、銀色にひっそり輝いていた。周囲の畑はそのままだった。畑の奥の農家の庭に、大ケヤキが青空に美しく梢を広げていた。飯場と築山と酒井棟があった広い場所は、頑丈なコンクリート塀で囲まれた浄水場にそっくり取って代わられていた。
 ハイヤーは平畑の町並を引き返して、大瀬子橋を渡り、左折して白鳥橋に出た。堀川沿いを宮中の正門まで走る。対岸にだだっ広い貯木場が見える。正門が開いている。
「ちょっと構内を見てきます」
 運転手は煙草を吸いつけ、待ってます、と言う。春休みの学校には人の気配がしなかった。下の校庭に出た。トレーナー姿の教師が寄ってきて、頭を下げる。見知らぬ顔だ。何か、と問う。
「ぼくはここの出身者で、なつかしくてやってきました」
「はあ、そうですか。ご用のときは声をかけてください」
 と言って、職員室に去っていった。春休みの宿直当番のようだ。草の斜面に色鮮やかに躑躅が咲いている。カズちゃんがじっと眺める。上の校庭に上っていく。
「しけたバックネットだな。グランドも千年小より狭いんじゃないか?」
「むかしは広く見えたんだけどな」
「ライトの校舎の金網は、おまえ用だろ。狭いと言っても、八十メートルはあるからな。中学生であそこまで飛ばすのはおまえだけだ」
「そう、ぼくに窓を割られるんで取りつけた」
「神無月の足跡か」
 あのころよりも手入れの悪いグランドを一周する。カズちゃんは校舎沿いに歩きながら、一つひとつ教室を覗いている。近寄っていって声をかける。
「その教室で、加藤雅江がスカートをまくって脚を見せたんだ。タケヒゴの脚」
「すごい決心だったでしょうね。慰めてほしいんじゃなくて、知ってほしかったのよ」
「知ってもらって、その先は?」
「こんな私でも、愛してください」
「その当時は努力しなくても可能だったかもしれない。いまは努力が要る」
 山口が、
「ポリオが原因の、大腿四頭筋短縮というやつだな。若いうちに整体修復をすれば、四年か五年、長くかかっても七、八年でほぼ治るよ。悪いほうの脚がほんの少し短いままだけど、見た目にはほとんどわからないほどの太さになる。時機を失すると一生そのままだ」
 半信半疑だった。
「あの子はぜったいそれをやるわ。キョウちゃんを愛してるもの」
 車を熱田神宮に回した。駐車場に車を置いて、四人で参道に入った。ちらほら人影が動き、道の肩に古い葉が吹き溜まっている。乾いた春のにおいがする。私はからだを動かしたくなって、小砂利の上で腕立て伏せをした。山口が並びかけて同じようにする。すばらしいスピードだった。
「いつもながらすごいな。いずれ、あと二、三年もしたら追いついてやる」
「野球に腕力はいらないと聞いたことがあるぞ」
「うん、手首と前腕の強さ、肘と肩の可動性。それを鞭のようにしならせるタイミングとスピード。とは言っても、非力だとスピードを出せない。とにかく、鍛練は欠かせない」
 西門へ歩いていく。
「あれが文化遺産の又兵衛小屋。名前の由来は知らない。その裏手の平屋は、中学時代の友人の本山というやつの勉強部屋。神主の息子で、夏の真っ盛りに野球部の連中に、タコ焼きを焼いて食わせてくれた」
「いい思い出ですか」
 運転手が首を振る。そのひとことで、センチメンタルジャーニーの目的が薄っぺらいものに感じられてきた。
「ただ覚えているだけの、口に出しても仕方のない思い出です」
 山口が聞き逃さず、
「人は困ると、まず思い出を手離す。困ってもいないのに手離すんじゃない。口にすることすべてが、おまえの人生のおさらいだ。好きなことをしゃべろ。俺はスキマを埋めていく。何でも知りたいからな」
「こういう思い出しかない。しょうがない代物だ」
「嘘も事実も、新奇さだけでは大したものにならない。多くを語りかけてくるのは、それを口にする人間の心理が異常な場合だけだ。異様な心理は、どう表現しても際立つ。身の上話でも、想像でも、つまるところ、新奇な事実や虚構は陳腐なものだ。常人を超えた心理かどうかだけが問題だ。おまえの心理は常人を超えてる。そのまましゃべればいい」
「たとえ心理的に常軌を逸していても、人は他人の身辺をおもしろがらない。小説を書きたいと洩らした叔父に、おふくろがこう言ったことがあった。自分のことなんか書いても人は興味を持たない、社会性がなければ書く意味がないってね。社会性という意味はいまではわかってる。会ったことも口を利いたこともない、大勢のいけ好かない人びとに気に入られることだ」
「ある時代の風潮を背景に他人のことを書けば、社会性ありって評されるんだよ。風潮を無視して自分のことを書けば、身の上話と貶(けな)される。ぜんぶ異常でないやつの批判だ。たとえば、身辺の話にしたって、異常な人間は経験を走馬灯のように並べるわけじゃない。そこへ独自の感懐が入りこんでくる。彼の感懐は異様だから、単なる身辺レポートではなくなる。かならず聞き応えがあるものになる。奇人はしゃべればいいだけなんだよ。複雑に考えるな」
 十字路になった参道で立ち止まり、モクレンに似た青い葉の茂みを見上げた。いっしょに見上げる四つの顔に、頭上の葉群れが涼しい影を落とす。
 運転手がカズちゃんにつられて社殿に賽銭を放り、殊勝に掌を合わせている。カズちゃんは長いこと祈っていた。山口は興味なさそうにあらぬ方向へ歩いていた。私は祈っているカズちゃんと運転手の後ろ姿を見ていた。運転手の細い背中には腑に落ちるものがなかったけれども、カズちゃんのふくよかな背中には、前屈みにならなければならない切実な理由が感じられた。彼女が祈っているのは私のことにちがいなかった。
「さあ、三時のおやつよ」
 カズちゃんが明るく呼びかけ、大鳥居のほうへ歩きだす。
「蓬莱軒で、うなぎ食べましょ」
「おやつにしてはご馳走ですな」
 運転手はホクホク顔で玉砂利を踏んでいく。大鳥居を出て、御陵(みささぎ)の坂道のいただきを右に見る。直井整四郎とあの坂を自転車で走って英語塾へいった―。やっぱりそれだけの思い出だ。直井整四郎に何の思いも湧かない。
 仲居がいろいろうるさいことを言う店だった。鰻の香りがなくなるので山椒はかけるな、うなぎとめしは少し残してあとで茶漬けにしろ、うなぎとめしは掻き混ぜずに上から食っていけ。
「好きなように食わせてください」
 私がドスの利いた声で言うと、仲居はハッと驚いた。私の恐ろしい眼光に気圧されて彼女はすごすご引き下がった。カズちゃんが笑いながら、
「片鱗が出ちゃったわね」
 山口が、
「やあ、怖い雰囲気になるんだな。知らなかった一面だ」
「小さいころからの癇癖(かんぺき)なんだ。押しの強いものに逆らいたくなる。押しの強さに理不尽が絡んだら最悪だ」
「お母さんに一度飛びかかったことがあったわね」
「うん、クマさんに突き飛ばされた」
 野辺地中学校の泥んこの校舎裏が浮かんだ。キミオと呼ばれた少年はその後、よしのりの情報で木明(きみょう)という苗字だったと知ったが、彼のアバラ骨にはほんとうにヒビが入ったのだろうか。
「あんなふうに遠慮しないで怒ってれば、みんな怖がって、たいていのことは解決しちゃうのに、キョウちゃんが怒るのはふつうの人が見過ごすところなの。自分の人生が左右されるようなところでは、人の言うとおりにしてあげて、スッとあきらめる」
 鰻重が出てきて、みんなにこやかに箸を取った。山椒をたっぷりかける。山口とカズちゃんもかけた。運転手は仲居の言ったとおり、山椒をかけない。うれしそうに食いはじめる。
「いけませんよ。つまらないことで怒らないで、あとで自分の思った通りの食べ方をすればいいんじゃないですか」
 運転手がもぐもぐやりながら言う。山口が、
「うなぎの話じゃないことがわかって、はぐらかしてるだろ」
「へへ……」
 おどけて頭を掻く。山口が、
「いやあ、このうなぎうまいなあ。パリパリしてて香ばしい。ね、和子さん」
「おいしい。やっぱり一流の味ね」
 私は茶漬けにせず食い終わった。運転手は最後に茶漬けにしていた。山口とカズちゃんも茶漬けにしてみて、まずい、と言って箸を置いた。
「慣れもありますかね、私はおいしく感じますよ」
「水気が入って、せっかくの香ばしさが飛んじゃったわ。キョウちゃんみたいに最後まで食べればよかった。もったいないことしちゃった」
 山口が、ふと思いついたふうに、
「和子さん、昭和二十年の名古屋大空襲のとき、どうやって生き延びたんですか。小学生でしたよね」
「そう、私、三月三日生まれだから、ちょうど十一歳になったばかりのとき。その前の年に、三重の親戚のもとに一家で疎開してたから無事だったの。三月に中村区と中区がしつこい空襲にやられて、焼け野原になっちゃったのね。名古屋駅前も太閤通りもぜんぶやられて、もちろん北村席も全焼したのよ。五月には名古屋城も全焼しちゃったし。でも名古屋は日本一復興が早かったらしくて、一年もしないうちに駅前に三つ四つのビルが建ったことを憶えてる。太閤通りもあっというまに元通りになって、塙も北村も家を建て直して営業再開。栄町のほうで賑やかに闇市が立ってたから、人のごちゃつかない中村区あたりは復興が早かったのね」
「それじゃ、いまの北村席はまだ築二十一年か。もっと古いものだと思ってた」
「ぼくもだよ」
 運転手が茶をすすりながら、
「私は疎開せんかったですが、西区は空襲が手薄だったので助かりました。十六歳で熱田の愛知時計にときどき勤労動員にいってました。名古屋駅が燃え上がってる光景は忘れられません。名古屋城に爆弾が落ちたときも壮絶なもんでした。あのとき市民に対して無差別攻撃をしたというんで、高射砲で落とされたB29の飛行機乗りが、国際法に違反したとかで、斬首刑になりましたな」
「この名古屋で!」
「はい、正式に首を落とされました」
「教科書には何も書いてないということだ。歴史なんて話せば長くなることの典型だからな。教科書ごときに収まるはずがない。愛国心の手拭で目隠しして、国民の背中を押してやるのが戦争だ。奈落の底へね」
 運転手が腕組みして、
「何ですかね、愛国心て」
「国益を上げる便利な道具ですよ。愛国心なんて抽象的な言葉を使わずに、〈ふるさと愛〉とでも言えばよくわかる。大半の人間は自分のふるさとの美しさを、しょっちゅう口にしてるでしょ。たしかに、彼らがその美しさを心から尊重してることは否定できない。それにつけこむ村長町長なんて輩が出できて、この美しさを振興しましょうなどと言う。でもそれは、その風光美でよそ者を引きつけて、そいつらの落とす金でふるさとに儲けさせようという魂胆からです。自分のふところにもガッポリとね」
「そりゃまた穿った見方ですねえ。なるほどね、国家主導の愛国心のわかりやすい説明ではありますね」
 カズちゃんはうれしそうに笑い、
「これから徳川園にいって、軽く食事して帰りましょ。運転手さんはきょうでお払い箱よ」
「はいはい、これからもせいぜいタクシーのご利用をお願いします」
 名刺を差し出す。カズちゃんはじっと見下ろし、
「これからは名指しで頼むように言っとくわ」

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