八十五

 金山から鶴舞を通って、大曽根方面に向かう。岡田先生の顔を浮かべる。対戦相手の中学校は何という名前だったか? 運転手が、
「旭丘高校が徳川園の線路向かいにありますよ」
「旭丘?」
 山口には母の手紙で見覚えのある名前だ。
「東大合格者数が多いことで、愛知県でいちばん有名な高校です」
「あ、そう。興味ないな。ただ、中学生の自分が愛知県人だったら、勉強してそこへいってただろうな。小癪だと思うし、ちょっとした功名心があるからね。そのへんの心の動きは幼いもんだ」
「ぼくもそうかもしれないな」
 カズちゃんが、
「旭丘高校はむかしから転入試験を行なわないの。明和高校は県外から一家転住以外は転入学を受け付けない。そんなことは調べればすぐわかることなのに、お母さんはそのことをぜんぜん連絡してこないでしょう。春の転入試験はないってことまで調べたのに、そのことを言ってこない―つまり、お母さんがキョウちゃんを名古屋に連れ戻そうとしてるのは、キョウちゃんを東大合格の脅迫で釣って、じつは東大から遠ざけたいからよ。お母さんは東大信奉者じゃないないということね。西松のことを思い出せば、男はアタマだとはよく言ってたけど、東大のことはめったに言わなかったから。東大にいかせたいなら青森高校にいればほぼ実現することだし、わざわざ名古屋に転校する必要なんかないでしょう? もう一つ、キョウちゃんを野球から遠ざけること。何かの具合で、野球で活躍してることを知ったにちがいないわ。野球をしていることは青高の教師が洩らさなくたって、マスコミから百パーセント洩れるわ。お母さんはよく新聞を読む人だもの。去年の夏の終わりごろ、うちのおとうさんがスポーツ報知を送ってよこしたの。『一年生怪物・県立青森高校に三冠王現る』という見出しで、キョウちゃんの写真、成績、略歴がかなり大きく載ってたわ。このことはかならず、キョウちゃんの苗字と顔を知っている親族や知人から、近いうちにお母さんに連絡がいく、そう確信してた。キョウちゃんが熱を出して倒れたとき、山口さんがキョウちゃんのお母さんからの手紙を見せてくれた。それでぜんぶつながったの。……成功のにおいがするわが子をやみくもに引きずり下ろすという不気味な性癖の親がいるって、何かの心理学の本で読んだことがあるわ。……もし私の考えがまちがってるとするなら、せっかく厄介者を遠くへ手放せたのに、もう一度呼び寄せて苦しみたいという、何だかわけのわからないマゾヒスティックな奇人ということになるわね。でも、お母さんは常識人だけど奇人じゃない。だからこの齢まで世間とうまくやってこれたの」
 山口が、
「どっちにせよ、呼び寄せられることは変わらないな」
「変わらないわね。どんな手を使っても連れ戻すでしょうね。東大に入りにくい高校にいって苦しみ、野球ができなくなって苦しむ。お母さんの目的はその二つ。だから、これからも、東大なんかいってほしくもないのに、東大、東大と脅迫しつづけるはずだし、野球をしてる気配を感じたら徹底的に妨害するはずよ。東大に受からなかったら鬼のようにこき下ろすでしょうし、受かったら入学金だけは人の手前払っても、学生生活の援助はぜったいしない。東大なんか興味ないんだから。学費滞納で中退でもすれば、ざまあ見ろで本望じゃないかしら。彼女がいちばん怖いのは、天才的な野球で成功することね。だからプロ野球選手にしないように最大限の努力をすると思う。プロと関係のない大学野球までは静観するんじゃないかしら。結局、最後の関門は中日ドラゴンズ入団ね」
 一気にしゃべった。これまでじっとこらえていたにちがいなかった。
「……えらく複雑な心理だな」
「単純よ。キョウちゃんを何であれ、成功させたくないってこと」
「神無月はまったく誤解して悩んでたってことになる」
「悩むことだけはまちがってなかったわ。どうしたって蹂躙されるわけだから。それを直観して、命まで投げ出そうとしたの。死んだら、お母さんの勝利だった。ああ、犬死しなくてよかった!」
 山口は深くうなだれ、
「神無月の苦悩のもとがすっかりわかった。腑甲斐ないやつだと思った時期もあったから、これでほんとうにスッキリ納得がいった。俺は何も行動する必要はないんだろうが、決めた方針は変わらない。神無月が苦しんで東大へいくなら、俺も苦しんで東大へいく。刎頚の友だ。心中するのがあたりまえだ」
 運転手は何の話が始まったのかと、バックミラーをときおり見上げている。
「かならず六月か七月にお母さんから手紙がくるわ。帰ってこいって。野球のことを責めながらね。ただ、野球をやめろとは書いてこないはず。好きなものを奪い取ることで、ヤケを起こして家出でもされちゃ元も子もないと思うからよ。スッキリされちゃ困るのよ。あれこれ苦しんでもらわないと。でも、野球をしてたらいまの好成績を維持したまま、最終的に成功しちゃうと信じてる人だから、どうしても連れ戻して、転入試験のある名古屋市内の公立高校ならどこにでも入れようとするはず。青森高校にいたんじゃ野球をやめてくれないとわかってるから」
「おふくろさんがおまえをどう説得するか、見えたよ。東大合格のために優秀校に転入させるという前提は崩れたわけだから、実際のところ説得方法はないんだ。そこで、やむを得ない事情で親もとから子供を手放していたが、養育環境が整ったので引き取りたいと、青高側に手紙を書くだろうな。それにはだれも反対できないからな。それと併行しておまえにも手紙がくる。旭丘と明和には欠員がなかったが、二、三の優秀な高校には欠員があった、そこからでもいまの成績を維持するようがんばれば東大にいける、とにかく転入試験の手続をとった、とね」
「いま言ったことはあくまでも推測の話だけど、もしそうなったら従うしかないわ。従わなくても、お母さんはかならずハタを説得して従わせてしまう。……そして、もったいない時間をすごさないためには、やっぱり東大にいくしかないの。大学で大した妨害もされずに野球をさせてもらえる可能性は東大しかないから。野球の名門大学にでも言った日には、大学側にねじこんででも野球をやめさせるでしょうね」
「野球の名門大はおふくろさんにとってほかにも不利がある。スポーツ推薦で入学試験免除の三流私大はあるけど、学費は免除しない。一流私大はどちらも免除しない。つまり私大は受けさせてもらえない。おまえに好きなことをさせて、その上金なんか分捕られたくないからな。国公立大はもちろん入学試験は免除しないし、学費も免除しない。東大以外の国公立大で野球をやったら、和子さんの危惧するとおり、とんでもない妨害をされるだろう。つまり―かろうじて野球に目をつぶってくれる可能性があるのは、東大だけということだ。ただ、学費や生活費は出さないので、最後までおまえを苦しめる」
「……わかった。覚悟ができてたから、ショックじゃない。学費や生活費はカズちゃんが出してくれる」
 カズちゃんは深くうなずいた。
「一年半、野球は休止になるけど、鍛錬を絶やさないでね。そうして是が非でも東大に受かってね」
「わかってる」
「俺は、自分のことでもう少し調べることがある」
「何を?」
「東京のどこの高校を受けるかだ」
「え!」
 カズちゃんもビックリして山口の横顔を見つめた。
「山口さん……」
「それほど驚くことじゃないですよ。一蓮托生ですからね。神無月のいない北国で暮らす意味がない。ま、親には即刻連絡して、六月までには結論を出すさ。親もとでぬくぬく勉強したほうが、効率が上がるに決まってる。この話はそれまで持ち出さないことにしましょう。神無月の野球に響く」
「やっぱりそうなるのね。薄々予想はしてたけど」
 運転手が、
「みなさん、何か、とんでもない話をしてません?」
 山口が、
「してないよ。盗み聞き禁止」
「聞こえてきちゃいますよ」
「もう話は終わったよ」
 徳川園の駐車場に入った。運転手が、
「ちょっと、仮眠をとりますわ。食事は一時間ほどですよね」
「ええ、そのくらいね。あとは北村に直行。一周し終わったら食事を誘いにくるわよ」
「また食べるんですか」
「うなぎぐらいじゃ足りないでしょ。あれはおやつよ」
「了解しました。いってらっしゃい。ここは徳川といっても、歴代将軍とは関係のない尾張の二代光友候の別宅でしてね、野球場やプールもあって、かなり広いですよ。一時間などすぐ経ちます」
 百円の入場料をめいめい払って黒い門を入ると、何と読むのか蓬左文庫と看板の出ている図書館があり、その裏手には美術館もあった。門から美術館まで満開の桜だ。東海桜と立て札に書いてある。
「徳川美術館か。源氏物語絵巻だな。俺、観てくるわ。二人、興味ないだろ。ここで待ってて」
 入場切符を買って入っていく。どんなときも好奇心が常に旺盛なのだ。
「頼もしい人ね。……ふるえちゃうほどうれしい。やっとキョウちゃんに話すことができて、心の重荷が降りたわ」
「二人とも人が悪いよ。何も驚かなかったのに」
「野球を一年半も休まなくちゃいけないし、ふつうの高校から東大を狙うことも並大抵のことじゃないと思って。ほんとうにショックを受けない人ね」
「ワッと受けて、ワッと鎮まった。おふくろの手紙で三年分ぐらい生きて、三年分ぐらい疲れた。もう、どんなこともショックじゃない。……山口は人間として偉大だ。あんなやつはどこにもいない。彼に会えたのは人生の一大奇跡だ。転校まで付き合うなんて―」
「命の恩人だということも忘れちゃだめよ」
「それは最低限の感謝で、それ以上に、延命欲の恩人だといつも肝に銘じてる」
 山口が出てきた。
「まともなのは柏木と横笛ぐらい。五十四帖ぜんぶあるわけじゃないし、どの絵も同じように見えてしまって、解説がなけりゃ何のことかさっぱりわからなかった。飽きた」
 園内を道なりに歩く。南国の空が広い。青森はまだ雪だというのに、ここは早春の花が咲き乱れている。真っ赤な牡丹が浮き立つ。新緑の下をせせらぎが流れ、小滝がいたるところにある。せせらぎは石組みの遊歩道のある大きな池に注いでいた。巨大な鯉が泳いでいる。
「箱庭ね」
「まとめて見る花はきれいだけど、二度くるところじゃないね。ビル街のほうが落ち着く。自然を見たければ、自然の中へ出かけていけばいい。門の中にこしらえる必要はない。あの門、写真で見た東大の赤門にそっくりだ」
 山口が、
「文化というのは精神と物の折衷のことだから、こういう箱庭は文化そのものということになるけど、神無月の言うように、閉じこめてしまうと、文化〈らしい〉ものになっちまう。らしいものは庶民の好みだから、大名も部屋にいないときは、庶民の感覚だったんだろう。部屋の外は、放置された自然にかぎる。そういう大自然に浸ることは、かぎられた自由人にしかできない業だ。大名も農漁民も浸ることはできないな。芸術家でなければ無理だ。部屋の中の人工物がさすがに趣味がいいのは、芸術家という自由人のおかげだ。庶民の手柄じゃない。芸術家が庶民のために大自然をこしらえてやったんだよ。庶民が最高に輝くのは、芸術家のパトロンになったときだ」
「部屋の外の、こういう人工物も芸術家が作ったんだよね」
「そうだ。閉じこめてしまったのは庶民だ。しかし、芸術家にしても閉じこめることを承知で作ってやったわけだから、作品としては精神性の低い駄作だ。芸術家も大自然に手を出すとヤケドする。こしらえずに、浸って、描写するにとどめるべきだ」
「セザンヌやモネのようにね」
「こら、男ども、樹や花がきれいでしょ。それだけでいいのよ」
「大自然を局部的に抽出して鑑賞するな、ただ囲繞(いにょう)されよ、だな」
「なんだか知らないけど、そろそろ閉園みたいよ。そこの料亭で〈自然の人工物〉を食べて、文化の子になりましょ」
 眠りこけていた運転手を起こして、宝善亭という日本料理の店に入る。
「や、すみませんでした。勤務時間が不規則なもので、いつでも目をつぶれば眠れるからだになってましてね。逆に、すぐ目を覚ましてもだいじょうぶなんですよ」


         八十六

 二階の広間の隅に落ち着く。四月七日まで雛御膳二千円、とメニューにある。
「カズちゃん、三月三日の誕生日にぴったりじゃないか」
「そうね、私は雛御膳にしようっと」
「俺は葵膳」
 と山口。
「ぼくは旬小箱とビール」
「神無月、ビールに目覚めたようだな。じゃ俺も」
「私は、そうですね、飲酒運転はいけませんから、味噌カツをいただきましょうか」
 和服を着た女に注文を終え、カズちゃんは運転手の名刺を財布から取り出して眺めた。
「菅野(すがの)さん……」
「はい、菅野茂文です」
「私はあの家の娘だから、長く暮らしていても変化が案外よく見えないけど、あなたは外の人間として、売春防止法が出る前からあの町を見てきたわけでしょう。変わった?」
「はあ、私も先輩に連れられてよくいったほうでしたが、気軽に飲み食いできる出会い茶屋なんかがほとんどなくなって、だいぶ品が落ちましたね。北村さんや塙さんはむかしから高級置屋だったから、女の人が出かける茶屋も高級どころだったので、上客でない私どもとは関係がありませんでしたけどね。並の置屋から並の茶屋へ出張していた女は、もうほとんど外へ商売替えして、きちんと畳に上がる一般客を相手にしなくなりましたよ。路上で客引きする立ちん坊はたしかに安いけど、目的が〈それ〉のみでは下品です。赤線の品は、青線には残ってません。客の質も落ちたということですよ。飲み食いして、シッポリ話をしてからなどという風情はもうありませんね。辻々に女が立って、学割もあるよォ、なんて呼びこみをやってるんですからね。北村さんや塙さんなんかが、最後の牙城じゃないんですか」
「いちばん変わったのはそれなのね。うちの女の人たちは通りに出て商売しないから、いまもお茶屋に呼ばれて細々というところなの。市会議員とか地方回りの芸能人。ミヤビを残してるのはいいんだけど、お茶屋の数が減ってきたのは打撃ね。いずれ、その細々とした営業も区画整理でお掃除されちゃうし。―おとうさんはトルコに転身するつもりらしいわ」
「そうなるともう、最初からほとんど裸でお出迎えということで、とうてい品は戻ってこないですね。立ちん坊よりはマシですけど」
「男女のことは、ぼんやりした品が大切なのにね」
 五分もしないうちに、すべての膳が出てくる。
「早いわねえ」
「ここは西区の有名な八百彦さんの仕出しですからね。前もってあらかたでき上がってるんですよ。味はいいですよ」
 焼魚、玉子焼、ナスの煮浸し、刺身、海老天、冷奴、香の物、茶碗蒸し。どの膳も焼魚の種類がちがうくらいで、ほとんど同じだ。北村席の食事の豪華さには逆立ちしても及ばない。山口とビールのコップを打ち合わせる。
「山口、あしたは太閤通りを歩いてみよう」
「ああ、そうしよう。滅んでいく〈品〉を見てみたい。それにしても、北村席というのは高級置屋なんだなあ。毎日こうしてのんびり遊ばせてもらってると、一瞬一瞬があまりにも自然なんで、自分が特別待遇されてるということを忘れてしまう。人はなかなかこんなふうには接待してもらえない」
「いいのよ、それこそ上客さんなんだから、特別待遇されるのがあたりまえよ」
 味噌カツを齧っていた菅野が、
「私、お嬢さんが大学生のころ、席の玄関から、富士塚の椙山女学園まで乗せたことがありますよ」
「あら、そんなことがあった?」
「夏休み明けじゃなかったかな。西洋人形のようにきれいで、乗せているあいだじゅう口が利けませんでした。きょうも、気さくに声をかけてもらわなかったら、ひとこともしゃべれなかったな」
「じゃ、菅野さん、私のヤンキーだったころの噂も聞いてたんじゃない?」
「はい。そのギャップがすごくて、驚きました。高校時代は夜中にオートバイを乗り回すほどの人だったなんてね」
 山口が愉快そうに、
「カミナリ族! 太陽の季節か。それが大学いって、栄養士の資格取って、飯場に入って、神無月にめぐり会う。起こるべくして起こった出会いだな」
「飯場で働くという冒険心がカズちゃんになかったら、めぐり会ってなかった。怖いな」
「いいえ、どうなってもめぐり会ってたわ。めぐり会いというより、神さまが引き合わせてたわ」
「あのう、こちらの神無月さんてかたは、北村さんのご主人か何か……」
「ご主人て、いくつちがうと思ってるの。十五もちがうのよ。キョウちゃんは私の心臓。恋人とか夫とか、そんなチンケなものじゃないの。だいたい三十女に、高校一年生の亭主がいるわけないでしょ。永遠の恋人。レールから外れないと、好きな人を心臓になんかできないのよ」
 菅野はとても爽快な笑いで応えた。瞬間、ハッと思い当たったように、
「青森高校……一年生怪物…………神無月、神無月郷か! 甲子園夏予選、高校ホームラン新記録十六本、三冠王!」
 菅野は大声を上げると、これ以上ないくらい大きく目を剥いた。山口は、
「それ、相当広まってる話なの?」
「はい、夜のスポーツニュースで何度か流れましたよ。ふうん、この人がほんものか! 北村のご主人も、私と同様、超のつく野球キチガイですから、神無月さんのことを知っているはずなのに、何も言わなかったなあ。無礼がないように、のひとことでしたものね」
「スポーツ報知は三面の半分を使ってたでしょう。でも、何と言っても高校野球の話題だし、将来のことを云々するには早すぎるというのが世間の常識よね。おとうさんはもうスポンサーになったつもりよ。野球選手のではなくて、キョウちゃん個人のね。一目会ったとたんに、野球のことを忘れるくらい惚れこんじゃったみたい。キョウちゃんといるとどんな人も、キョウちゃんが野球選手だと思い出すことは一度もないでしょうね。マスコミ関係者以外は」
「たしかに―。私も、わかってビックリ、あとはサッと忘れるという感じですよ。幸か不幸か、そういう人なんですね。千年小学校の三階校舎はひょっとしてホラかなと思ったんですが、すみませんでした。素人のアサハカさです」
 山口が、
「じゃ、神無月のことは、こちらにはかなり知られてるわけだ」
「だと思います。私もキのつく野球通を自認してる男ですから知っていて当然ですが、ふつうに新聞を読む人なら知ってるでしょう」
「おふくろさんはもう確実に知ってるな。とにかく早いうちに連れ戻そうという気持ちだろう。神無月は母親と姓がちがうから、彼女の周囲の人たちは、スポーツに興味もない彼女にあえて確認しようとしないはずだし、彼女にとっては好都合だ」
「事情はよくわかりませんが、なんか興味津々ですね」
         †
 夕食になっても、私たちの胃袋はほとんど吸い物しか受け付けなかった。台所の片づけがすみ、かよいの賄いたちが帰り、麻雀組を残して大座敷の女たちが部屋に引っこんでしまってから、山口が主人に向かってポツリと言った。
「あの……おトキさんは……だめでしょうか」
 主人は一瞬キョトンとして、それからにっこり女将の顔を見た。女将とトモヨさんが微笑みながら台所に立っていった。山口は徳川園からの帰りの車中、心ここにあらずの表情をしていたが、このひとことを言い出すためだったのだ。
「おトキさんて、いくつになったの」
 カズちゃんが父親に尋いた。
「さっきも自分で言ってたやろ。五十だ。ワシの二つ下、トクの六つ下や。ようやくワシもおトキの齢を思い出したわ。ここにきたのはおまえが生まれた年の昭和九年で、そのとき数えで十九やった。……三十一年、おまえと同じ年の数だけ北村におる。二十二で現役をやめて二十八年、おさんどん一本でやってきた。年季もとっくに終わって、借金もすっかり返して、身軽なもんや。山口さん、あれのどこが気に入ったんですか」
「まずホッとする感じです。ほかにはてきぱきしたところ、気遣いが濃やかなところ、それから……美人です」
 おトキさんは、言葉少なで、からだつきもふんわりした印象だけれど、所作にいっさいむだがないので、気づけばだれよりも素早く動いている女だ。カズちゃんが、
「山口さんを大事にしてくれそうね。こんな若い男から声がかかったら、おトキさん、そりゃうれしいでしょうけど、面食らっちゃうんじゃないかしら」
「だいじょうぶやろう。むかし取った杵柄(きねづか)だから。しかし、三十年も処女同然やで。だいじょうぶかいな」
 女将とトモヨさんといっしょに、前掛を外したおトキさんがやってきて、しばらく言葉に迷った挙句、
「よろしくお願いします」
 と山口の前に平伏した。ずっといじっていなかった髪に白いものが目立つので、失礼して風呂に入って染めてきたいと言う。
「そうしていらっしゃい」
 女将が言う。
「手伝ってあげます」
 トモヨさんもいっしょに立っていった。私は胸の熱くなる思いで、この一シーンを見ていた。いまここにいることが心地よく、自分が華やかな宴の参列者になったような気がした。カズちゃんも感動したようで、顔が淡いピンクに染まり、ますます美貌が冴えわたった。山口が照れくさそうに台所へ立っていってコーヒーをいれた。住みこみの賄いや、聞きつけた麻雀組たちが手伝った。主人はきわめて上機嫌になり、
「奇特な御仁だ。おトキはとりたてて美形というわけでもないし、目立った性格でもないしな」
 山口といっしょにコーヒーが出てくる。
「山口さん、気長に相手をしてやってくださいよ。おトキは二十八年間、男に触わっとらん。エンジンかかるのに時間がかかるかもしれん」
 カズちゃんが、
「おトキさんのほうが、気長に接するでしょう。山口さん、しっかり教わりなさい」
「うん、話をしたいので焦りません」
「びっくりしたよ」
 と私は言った。
「そうだろ。自分でも思いもよらなかった」
「ちがうよ、山口の正直さにだよ。危うく泣きそうになった」
「私も」
 カズちゃんが言った。主人が、
「山口さんは、東京のどちらですか」
「杉並区の西荻窪というところです。オヤジが協和銀行の中堅社員で、転勤が多かったんですよ。いまは管理職になって東京に落ち着きましたけどね。中学一年のとき、札幌転勤で家族全員大移動、二年で青森に転勤し、青高に入学したとたん、また本社に戻るっていうんで、懲りずに家族大移動。俺はバカらしくなって、青森に残ったんです」
「そこで神無月さんと……。そうですか。人の出会いというのは不思議なもんですな。和子も六年前に神無月さんに遇わんかったら、味気にゃあ人生だったでしょう。出会いというものは大事にせんといけません。おトキとの出会いが、山口さんにとって味のあるものだといいですな」
 女将が、
「おトキ、ほんとにだいじょうぶかねえ。何か塗らんでもええかねえ」
 カズちゃんが、
「だいじょうぶよ、おかあさん、二人にまかせとけば。どうにかなるものよ。私も中川とセックスしなくなって、何年も経ってからキョウちゃんとして、生まれて初めて女の歓びを知ったんだから。おトキさんだって、二十二まで好きでもない男たちと三年も寝てきて、三十年近く休んで、ひさしぶりにしたらビックリするくらい感じるかもしれないわよ」
 父親は困ったふうに手揉みしながら、
「中川のことは、ワシの眼鏡ちがいやった。すまんことをしたな。だいたいこの店にきて女と遊んでから、たまたま大学から帰ってきた和子を見初めたいうんが信用ならんところやった。自分は名大の経済を出て、仲人も名大の教授やと言うし、市役所勤めで将来は安泰やと言うし、ころりと騙されてまった。北村からもだいぶ金を持ち出して、女遊びしくさってな。結局どの女にも見かぎられて、挙句は市役所まで辞めて、おまえが離婚届を叩きつけてすぐ、どこぞへ逃げていきおった」
「もとはと言えば、結婚してすぐ私が中川を近づけなくなったからよ。自信なくして、ヤケになったんでしょ。顔つきは卑屈だし、セックスは下手だし、しゃべることはつまらないし、最悪だったわ。キョウちゃんに浄めてもらわなかったら、一生小汚い思い出を抱いて生きていくところだった」


         八十七

 おトキさんが、見ちがえるほど黒々とした髪で部屋に入ってきた。
「きれい、おトキさん!」
「おお、たしかに」
「あんた、何かしたの?」
「いえ、髪を染めただけです」
 トモヨさんが櫛を入れる。
「……おトキ、何か塗り薬でも要るかい?」
「いえ、だいじょうぶです。……濡れやすいタチですから」
 最後ほうは小さな声で言った。
「ほうか、まだ役立たずではないんやな。よかったよかった。あしたの朝めしの支度は気にせんと、ゆっくりしといで」
 夢のような会話だった。当の山口も夢見るような目をしていた。
         †
 ひさしぶりにカズちゃんとの夜が戻ってきた。彼女は菅野のタクシーを呼びつけ、亀島のガードをくぐって、ひたすら外堀通りを名古屋城に向かって走らせた。
「この道も、二、三度、北村の女将さんを乗せたことがありますよ」
「留守部屋のお掃除をしてくれてるから」
 明道町から北上し、ライティングされている名古屋城までたどり着くと、菅野は外堀沿いに建っているマンションの前で車を停めた。
「朝九時に迎えにきてちょうだい」
「承知しました」
 タクシーのテールランプがかなりのスピードで去っていった。
 五階建のマンションだった。壁にシャトー西の丸という表札が埋まっている。広いエントランスホール。銀色の集合ポスト。エレベーターで最上階まで昇り、広い廊下を歩いて507号室に入った。
「おとうさんが大学の入学祝いに買ってくれた部屋よ。学生時代の四年間、ここから椙山にかよったの。卒業してからはときどき、鶴田荘に帰らずに何カ月かにいっぺん羽を伸ばしにきてたけど、ほとんど開かずの部屋ばかり。ただ、ここがあるのとないのとでは気分がちがうの。ときどきおかあさんが風を入れにきて、掃除もしてくれてるみたい。六畳和室二つ、十帖の洋間一つ、十二帖のキッチン。けっこう広いでしょ。きのうは、このお蒲団で寝たのよ。キョウちゃんのいのちの記録を読みながら」
「もういのちの記録は書かないことにしたから、青森に帰ったら二冊目をあげる。詩のノートだけでいい」
「書くことを早じまいしちゃだめ。二冊目は書き上げたらもらうわ」
 奥の六畳に蒲団が敷きっぱなしになっていた。壁に接した二台の書架に、ぎっしり本が詰まっている。洋間にはソファと、白黒の大型テレビが置かれていた。トイレは水洗、風呂は縦長の陶器製のタブ、キッチン用品はみごとなほど整っていた。
「お風呂が木でないから、ここで暮らす気にならないの。やっぱり気まぐれに使うだけの部屋ね。暮らすなら平屋の一戸建、お風呂が木でできた大きい家と決めてるの。席のお風呂は大きいでしょ。ほら、この窓からお城が見える。桜がきれい」
 カズちゃんは和室の窓辺に寄ってガラス戸を開けた。それからキッチンにいき、フィルターコーヒーをいれた。私は学生服を脱ぎ、全裸になってうつ伏せに横たわった。
「おまちどうさま」
 カズちゃんはカップを枕もとに置き、自分も全裸になった。並んでうつ伏せになる。
「うまいなあ。ほんとに上手にいれるんだね」
 山口がいれるコーヒーより少し薄いが、豆の質がよく、深い味わいだった。
「おとうさんがコーヒー通で、うるさかったから。小学校のころからよくいれさせられたの」
「お父さんて、こういう嗜好品は飲みつけない雰囲気だけどなあ」
「おかあさんも通なのよ」
 主人夫婦といい、座敷の女たちといい、日々、男と女の性に染まっている人間が、この上なく生活に繊細で奥ゆかしいのがうれしかった。
「山口とおトキさん、うまくやってるかな」
「トモヨさんはキョウちゃんとして、うまくいったでしょう」
「うん」
「きっとそういうものよ。鶴田荘の自分のことを思い出したの。私もそうだったから。おトキさんもうまくいくにちがいないわ。山口さんはいままで商売女しか知らなかったはずだから、おトキさんの反応にびっくりして、女に対する考え方を変えると思う。きっとやさしい気持ちが湧いてくると思うの。惚れこんじゃうんじゃないかしら」
「男と女って不思議だね。……もとカミナリ族。なんだかうれしい」
 カズちゃんがもたれかかってきた。からだが冷め切っている。
「蒲団をかけよう」
「ええ」
 二人胸を接して横たわった。乳房が心地よく押してくる。
「キョウちゃんが六年生のころ、私、キョウちゃんのユニフォーム姿を自分の目で確かめたくて、昼休みに食堂を抜け出して、千年小学校のグランドに見にいったことがあるのよ。すてきだった。みんなの中で、一人だけちがってた。学制服を着た何十人もの生徒がいっしょに向こうから歩いてきても、すぐ目につくって感じ。神々しかった。そのとき、愛されなくてもいい、私がこの人だけを一生愛していこうって決めたの」
「まるでお伽話だね」
「そうかも。男はそんな気持ちにはならないわ。なったとしても、それは気の迷い。女を愛することより忙しいことがあるからよ。そうでなければいけないと思う。だから、せめて女に愛されるような男じゃなくちゃ男として生まれた意味がないわ。美しいだけでなく、何か自分の中で深く考えこんでいるとか、何かに夢中になっているとか、どこか突き出たところがないと、男はみっともない」
「女に愛される男も、いずれ年をとるよ」
「年をとっても、その人しか持っていない魅力はなくならないの。死ぬまで。……キョウちゃんを愛した人は、その魅力を一生愛しつづけるのよ」
「それはどうかなあ。だれだって他人を愛する前に、自己愛という厄介なものがあるから」
「ふつうの人はね。そういう人はたくさんいるわ。私はちがう」
 目頭が熱くなり、私はカズちゃんにキスをした。むしゃぶりつくようなキスが返ってきた。欲望が湧き起こってきた。その証拠を彼女はしっかりと握った。
 ……………………
 いっときの旋風が去り、唇を合わせる。
「あしたは四月一日。メイチカでも歩きましょうか」
「うん。レコードを漁りたいな」
「幼稚園の人たちにお土産を買わなくちゃいけないし」
「そのあと、山口と太閤通りを歩くよ」
「太閤通りには、むかしの町並がそっくり残ってるわけじゃないのよ。環状線を超えて区役所の向こうの、名楽町あたりが中村遊郭跡として有名ね。青森の浜町より少し賑やかな程度。古い遊郭の中にふつうの民家やアパートもたくさん雑じってる。通りへ出入りする門が少し派手。市電の停留所だと、大門から入りこんだあたりね。そこまでタクシーでいきましょ。岩塚の飛島寮は、そこから歩いて二十分くらい」
「どうでもいいな」
 手を握り合って話しているうちに、どちらからともなく寝入った。
         †
 すでにマンションの下で待機していた菅野のタクシーに乗った。カズちゃんは全身白の夏服でかため、赤いローヒールを履いた。私は毎度の学生ズボンに、きのうのポロシャツを着た。すぐ上がりそうな霧雨が降っている。城の桜が弱い雨の中で満開だ。きょうで三月も終わる。菅野が、
「昼から晴れるそうですよ」
「十一時くらいに、席に一台回してくれる? 大門の電停までいきたいんだけど」
「わかりました。私の都合のつかないときは、ほかの車を差し向けるように伝えときます」
 もう朝食を終えた座敷で、女たちがおトキさんを囲んでわいわいやっている。
「おトキさん、きれいやねえ」
「ひさしぶりにどうやった? 感じた?」
「しっかり教えてあげたん?」
「おトキさんて、意外と美人やったんやねえ」
 山口がいつもとちがう落ち着いた顔で、主人夫婦といっしょにコーヒーをすすっていた。私たちが入っていくと、山口は立ち上がって、二人の手を握った。
「感激した。和子さん、神無月、ありがとう。人間としての幅が広がった」
「オーバーだな」
「いや、ほんとうだ。この神秘を知らなければ、いつまでも女を見くびるところだった」
「それじゃ人間として幅が狭くなるね」
 カズちゃんの口まねをした。主人が、
「おトキも満足したようや。山口さん、これからはたまには、名古屋にきたってや」
「はい! 俺もきっちり落ち着いて、勉強が軌道に乗ったら、神無月といっしょにかならずきます」
 女たちが一段と騒ぎ立てる。自分の転入のことで頭がいっぱいだろうに、オクビにも出さない。まったく忘れているかのようだ。女将が、
「トモヨ、神無月さんたちにちょっと軽いごはん出したげて」
「はあい」
 トモヨさんも張り切っている。おトキさんと幸福を共有しているという感じがうれしいのだろう。納豆おろし、ハムエッグ、ジュンサイの味噌汁が出てきた。腹がへっている。さっそく箸をつける。
「和子もがんばったか」
「いやよ、おとうさん。娘の性生活は覗かないの。逆もまた真なり」
「へいへい。きょうは遊郭跡を見てくるんだろ」
「そう、十一時にタクシー呼んであるわ。トモヨさん、大根おろしが辛くておいしい」
「辛味大根のたれで、そうめんを食べてみますか」
「あ、それ、もらう」
 山口が主人にコーヒーのお替りをいれてやり、
「ちょっと見では、このあたりにはないようですね、色街は」
「大門の若宮町や名楽町のほうですわ。ここからだと十五分ほど先です。大須の旭遊郭から移ってきたり、関東大震災で娼妓たちがたくさん移ってきたりして、どえりゃあ大きな遊郭が建てられたんです。中村遊郭言います。東京の吉原より規模の大きい遊郭だったんですよ。いまじゃ文化財の妓楼が二つ、三つあるくらいで、しごく閑散としたもんです。まあ、あそこにいずれ、うちと塙もトルコを作るつもりですがね。大門の西の名楽町ゆうのも、戦後の中村遊郭の元締めの名楽園に由来する町名です。駅西のこのあたりは、遊郭ゆかりの町じゃなく、いわゆる青線というやつで、新興の素人さんが勝手に自宅で売春をしとる区域です。見どころなんかあれせんし、うろうろしとると、立ちん坊や牛太郎(ギュウ)に引っ張りこまれるのがオチですよ」
 おトキさんが台所から姿を出し、おはようございます、と畳に手を突いた。カズちゃんが、
「商売とちがうセックスがあるって、初めて知ったでしょう?」
「はい……信じられません」
「好きな男とだけそうなるのよ。これからは、ときどき山口さんがくるのを待ってればいいわ。遠慮なくできるんだから」
「はい、ありがとうございます。あんな思いは、年に一度でいいです」
「私もそんな思いしてみたァい!」
 という嬌声が上がった。ふざけているようで、切実な叫びに聞こえた。
「ユキさんは?」
 カズちゃんが母親に尋くと、
「朝一で仕事に出たわいな。めずらしいことやよ。おトキのことがよほどショックやったんやろか」
「しかたないじゃない、男と女なんだもの。相性というものがあるんだから」
 カズちゃんが無慈悲に言う。しかし、彼女が無慈悲であったためしはないので、きっと正しい意見なのだろう。電話が鳴って、母親が帳場にいった。私は戻ってきた母親に訊いた。
「午前中に電話してくる客がいるんですか」
「茶店の帳場からや。午前の集まりというのは、たいてい市か区関係の談合やけど、その人たちのスケベは折り紙つきですよ」
 主人がしみじみした顔で、
「それに比べりゃ、神無月さんも山口さんも麗しいもんですなあ。いや、飛びきり上等な人間とそんな下衆を比べちゃいかん。和子はもちろん、トモヨも、おトキも幸せ者だ」
「私も幸せになりたいわ!」
 女の一人が言った。すかさず主人が、
「まず、惚れられて、かよわせにゃ。話はそこからや。引いてもらえるかもしれん。年季が明けるまでに、一人でも男をつかまえとかんと、さびしい老後になるで。トモヨやおトキのように人間を磨くことや」



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