八十八 

 園内を道なりに歩く。南国の空が広い。青森はまだ雪だというのに、ここは早春の花が咲き乱れている。真っ赤な牡丹が浮き立つ。新緑の下をせせらぎが流れ、小滝がいたるところにある。せせらぎは石組みの遊歩道のある大きな池に注いでいた。巨大な鯉が泳いでいる。
「箱庭ね」
「まとめて見る花はきれいだけど、二度くるところじゃないね。ビル街のほうが落ち着く。自然を見たければ、自然の中へ出かけていけばいい。門の中にこしらえる必要はない。あの門、写真で見た東大の赤門にそっくりだ」
 山口が、
「文化というのは精神と物の折衷のことだから、こういう箱庭は文化そのものということになるけど、神無月の言うように、閉じこめてしまうと、文化〈らしい〉ものになっちまう。らしいものは庶民の好みだから、大名も部屋にいないときは、庶民の感覚だったんだろう。部屋の外は、放置された自然にかぎる。そういう大自然に浸ることは、かぎられた自由人にしかできない業だ。大名も農漁民も浸ることはできないな。芸術家でなければ無理だ。部屋の中の人工物がさすがに趣味がいいのは、芸術家という自由人のおかげだ。庶民の手柄じゃない。芸術家が庶民のために大自然をこしらえてやったんだよ。庶民が最高に輝くのは、芸術家のパトロンになったときだ」
「部屋の外の、こういう人工物も芸術家が作ったんだよね」
「そうだ。閉じこめてしまったのは庶民だ。しかし、芸術家にしても閉じこめることを承知で作ってやったわけだから、作品としては精神性の低い駄作だ。芸術家も大自然に手を出すとヤケドする。こしらえずに、浸って、描写するにとどめるべきだ」
「セザンヌやモネのようにね」
「こら、男ども、樹や花がきれいでしょ。それだけでいいのよ」
「大自然を局部的に抽出して鑑賞するな、ただ囲繞(いにょう)されよ、だな」
「なんだか知らないけど、そろそろ閉園みたいよ。そこの料亭で〈自然の人工物〉を食べて、文化の子になりましょ」
 眠りこけていた運転手を起こして、宝善亭という日本料理の店に入る。
「や、すみませんでした。勤務時間が不規則なもので、いつでも目をつぶれば眠れるからだになってましてね。逆に、すぐ目を覚ましてもだいじょうぶなんですよ」
 二階の広間の隅に落ち着く。四月七日まで、雛御膳二千円、とメニューにある。
「カズちゃん、三月三日の誕生日にぴったりじゃないか」
「そうね、私は雛御膳にしようっと」
「俺は葵膳」
 と山口。
「ぼくは旬小箱とビール」
「神無月、ビールに目覚めたようだな。じゃ俺も」
「私は、そうですね、飲酒運転はいけませんから、味噌カツをいただきましょうか」
 和服を着た女に注文を終え、カズちゃんは運転手の名刺を財布から取り出して眺めた。
「菅野(すがの)さん……」
「はい、菅野茂文です」
「私はあの家の娘だから、長く暮らしていても変化が案外よく見えないけど、あなたは外の人間として、売春禁止法が出る前からあの町を見てきたわけでしょう。変わった?」
「はあ、私も先輩に連れられてよくいったほうでしたが、気軽に飲み食いできる出会い茶屋なんかがほとんどなくなって、だいぶ品が落ちましたね。北村さんや塙さんはむかしから高級置屋だったから、女の人が出かける茶屋も高級どころだったので、上客でない私どもとは関係がありませんでしたけどね。並の置屋から並の茶屋へ出張していた女は、もうほとんど外へ商売替えして、きちんと畳に上がる一般客を相手にしなくなりましたよ。路上で客引きする立ちん坊はたしかに安いけど、目的が〈それ〉のみでは下品です。赤線の品は、青線には残ってません。客の質も落ちたということですよ。飲み食いして、シッポリ話をしてからなどという風情はもうありませんね。辻々に女が立って、学割もあるよォ、なんて呼びこみをやってるんですからね。北村さんや塙さんなんかが、最後の牙城じゃないんですか」
「いちばん変わったのはそれなのね。うちの女の人たちは通りに出て商売しないから、いまもお茶屋に呼ばれて細々というところなの。市会議員とか地方回りの芸能人。ミヤビを残してるのはいいんだけど、お茶屋の数が減ってきたのは打撃ね。いずれ、その細々とした営業も区画整理でお掃除されちゃうし。―おとうさんはトルコに転身するつもりらしいわ」
「そうなるともう、最初からほとんど裸でお出迎えということで、とうてい品は戻ってこないですね。立ちん坊よりはマシですけど」
「男女のことは、ぼんやりした品が大切なのにね」
 五分もしないうちに、すべての膳が出てくる。
「早いわねえ」
「ここは西区の有名な八百彦さんの仕出しですからね。前もってあらかたでき上がってるんですよ。味はいいですよ」
 焼魚、玉子焼、ナスの煮浸し、刺身、海老天、冷奴、香の物、茶碗蒸し。どの膳も焼魚の種類がちがうくらいで、ほとんど同じだ。北村席の食事の豪華さには逆立ちしても及ばない。山口とビールのコップを打ち合わせる。
「山口、あしたは太閤通りを歩いてみよう」
「ああ、そうしよう。滅んでいく〈品〉を見てみたい。それにしても、北村席というのは高級置屋なんだなあ。毎日こうしてのんびり遊ばせてもらってると、一瞬一瞬があまりにも自然なんで、自分が特別待遇されてるということを忘れてしまう。人はなかなかこんなふうには接待してもらえない」
「いいのよ、それこそ上客さんなんだから、特別待遇されるのがあたりまえよ」
 味噌カツを齧っていた菅野が、
「私、お嬢さんが大学生のころ、席の玄関から、富士塚の椙山女学園まで乗せたことがありますよ」
「あら、そんなことがあった?」
「夏休み明けじゃなかったかな。西洋人形のようにきれいで、乗せているあいだじゅう口が利けませんでした。きょうも、気さくに声をかけてもらわなかったら、ひとこともしゃべれなかったな」
「じゃ、菅野さん、私のヤンキーだったころの噂も聞いてたんじゃない?」
「はい。そのギャップがすごくて、驚きました。高校時代は夜中にオートバイを乗り回すほどの人だったなんてね」
 山口が愉快そうに、
「カミナリ族! 太陽の季節か。それが大学いって、栄養士の資格取って、飯場に入って、神無月にめぐり会う。起こるべくして起こった出会いだな」
「飯場で働くという冒険心がカズちゃんになかったら、めぐり会ってなかった。怖いな」
「いいえ、どうなってもめぐり会ってたわ。めぐり会いというより、神さまが引き合わせてたわ」
「あのう、こちらの神無月さんてかたは、北村さんのご主人か何か……」
「ご主人て、いくつちがうと思ってるの。十五よ。キョウちゃんは私の心臓。恋人とか亭主とか、そんなチンケなものじゃないの。だいたい三十女に、高校一年生の亭主がいるわけないでしょ。永遠の恋人。レールから外れないと、好きな人を心臓になんかできないのよ」
「ハッハッハ」
 菅野はとても爽快な笑い方をした。瞬間、ハッと思い当たったように、
「……一年生怪物? 三冠王? ……神無月、神無月郷か! 甲子園夏予選、ホームラン高校新記録十六本、三冠王!」
 菅野は大声を上げると、これ以上ないくらい大きく目を剥いた。山口は顔色を不安の色に変えて、
「それ、相当広まってる話ですか?」
「チラッと夜のスポーツニュースで流れましたよ。ふうん、この人がほんものか! 北村のご主人も私と同様、超のつく野球キチガイですから、神無月さんのことを知っているはずなのに、何も言わなかったなあ。無礼がないように、のひとことでしたものね」
「スポーツ報知は三面の半分を使ってたでしょう。中日スポーツは小さな記事だったらしいわ。おとうさんも百四十メートルのホームランには腰を抜かしてたけど、中央でもかなり注目されてることは知らなかったみたい。なんと言っても高校野球の話題だし、将来のことを云々するには早すぎるというのが世間の常識だもの。でも、おとうさんはもうスポンサーになったつもりよ。野球選手のではなくて、キョウちゃん個人のね。一目会ったとたんに、野球のことを忘れるくらい惚れこんじゃったのよ。キョウちゃんといると、どんな人も、キョウちゃんが野球選手だと思い出すことは一度もないでしょうね。マスコミ人以外は」
「たしかに―。私も、わかってビックリ、あとはサッと忘れるという感じですよ。幸か不幸か、そういう人なんですね。千年小学校の三階校舎はひょっとしてホラかなと思ったんですが、すみませんでした。素人のアサハカさです」
 山口が、
「じゃ、神無月のことは、こちらには大して知られてないと」
「だと思います。私もキのつく野球通を自認してる男ですから、たまたま知ってただけでしてね。何か知られちゃいけない事情でもあるんですか」
「あるんです。神無月の野球生活が危うくなる事情がね。神無月のおふくろさんはスポーツ嫌いの権威主義者だ。息子からスポーツを奪って社会的な権威を得させようとする。そのためには手段を選ばない。ふつうの人は信じられないだろうけど、否定しようのない事実です。スポーツ報知の記事が神無月の親族からおふくろさんに伝わるスピードを考えると、おふくろさんはもう知ってるだろう。親族は遠くの世間だ。遠くの世間が知ってるとなると、近くの世間が騒ぎだしてからだと、なぜ野球をやめさせて連れ戻したのかと非難囂々になる。近くの世間が騒ぎださないうちに、野球で活躍してるなんて知らずに連れ戻したということにしたいはずだ。連れ戻してから、初めて知ったということにすれば、世間からそれほど責められずにすむし、親としての対面も立つ。都会の高校で勉強をする環境を整えてやりたかったという体面がね。噂が盛り上がってからだと、そんなことに気づかなかったとトボケるわけにはいかなくなる。神無月は母親と姓がちがうから、彼女の周囲の人たちは、スポーツに興味もない彼女に告げないはずだし、騒ぎ立てもしないだろう。となると連れ戻すのは夏だ。夏と冬しか高校は転入生を募集しないからね。噂がこちらで早く広まると、転入は後回しにしてとにかく早いうちに連れ戻そうという気持ちになる。親もとで準備勉強をさせてからという口実でね。そうなると、神無月の半年間の野球が奪われる」
「なんだかよくわかりませんが、とにかく進んで口に出さないようにしますよ」
「そうです。世間が騒ぎ出すまでは進んでしゃべらないようにしてください。北村席に神無月がいるなんて噂は、あっという間に広まりますから」
「……わかりました。そのようにします。なんか興味津々ですね」
         †
 夕食になっても、私たちの胃袋はほとんど吸い物しか受け付けなかった。台所の片づけがすみ、かよいの賄いたちが帰り、麻雀組を残して大座敷の女たちが部屋に引っこんでしまってから、山口が主人に向かってポツリと言った。
「あの……おトキさんは……だめでしょうか」
 主人は一瞬キョトンとして、それからにっこり女将の顔を見た。女将とトモヨさんが微笑みながら台所に立っていった。山口の、道々、心ここにあらずの表情の意味がようやくわかった。
「おトキさんて、いくつになったの」
 カズちゃんが父親に尋いた。
「さっきも自分で言ってたやろ。五十だ。ワシの二つ下、トクの六つ下や。ここにきたのはおまえが生まれた年の昭和九年で、そのとき数えで十九やった。……三十一年、おまえと同じ年の数だけ北村におる。二十二で現役をやめて、以来二十八年、おさんどん一本でやってきた。年季もとっくに終わって、借金もすっかり返して、身軽なものや。山口さん、あれのどこが気に入ったんですか」
「まずホッとする感じです。ほかにはてきぱきしたところ、気遣いが濃やかなところ、それから、美人です」
 おトキさんは、言葉少なで、からだつきもふんわりした印象だけれど、所作にいっさいむだがないので、気づけばだれよりも素早く動いている女だ。カズちゃんが、
「大事にしてくれそうだからでしょ。こんな若い男から声がかかったら、おトキさん、そりゃうれしいでしょうけど、面食らっちゃうんじゃないかしら」
「だいじょうぶやろう。むかし取った杵柄(きねづか)だから。しかし、三十年も処女同然やで。だいじょうぶかいな」
 女将とトモヨさんといっしょに、前掛を外したおトキさんがやってきて、しばらく言葉に迷った挙句、
「よろしくお願いします」
 と山口の前に平伏した。ずっといじっていなかった髪に白いものが目立つので、失礼して風呂に入って染めてきたいと言う。
「そうしていらっしゃい」
 女将が言う。
「手伝ってあげます」
 トモヨさんもいっしょに立っていった。私は胸の熱くなる思いで、この一シーンを目撃できたことに感謝した。いまここにいることが心地よく、自分が華やかな宴の参列者になったような気がした。カズちゃんも感動したようで、顔が淡いピンクに染まり、ますます美貌が冴えわたった。山口が照れくさそうに台所へ立っていってコーヒーをいれた。住みこみの賄いや、聞きつけた麻雀組たちが手伝った。主人はきわめて上機嫌になり、
「奇特な御仁だ。おトキはとりたてて美形というわけでもないし、目立った性格でもないしな」


         八十九 

 山口といっしょにコーヒーが出てくる。
「山口さん、気長に相手をしてやってくださいよ。おトキは二十八年間、男に触れとらん。エンジンかかるのに時間が必要かもしれん」
 カズちゃんが、
「おトキさんのほうが、気長に接するでしょう。山口さん、しっかり教わりなさい」
「うん、話もしたい気がするし」
「びっくりしたよ」
 と私は言った。
「そうだろ。自分でも思いもよらなかった」
「ちがうよ、山口の正直さにだよ。危うく泣きそうになった」
「私も」
 カズちゃんが言った。主人が、
「山口さんは、東京のどちらですか」
「杉並区の西荻窪というところです。オヤジが協和銀行の中堅社員で、転勤が多かったんですよ。いまは管理職になって東京に落ち着きましたけどね。中学一年のとき、札幌転勤で家族全員大移動、二年で青森に転勤し、青高に入学したとたん、また本社に戻るっていうんで、懲りずに家族大移動。俺はバカらしくなって、青森に残ったんです」
「そこで神無月さんと……。そうですか。人の出会いというのは不思議なもんですな。和子も六年前に神無月さんに遇わなんだら、味気にゃあ人生だったでしょう。出会いというものは大事にせんといけません。おトキとの出会いが、山口さんにとって味のあるものだといいですな」
 女将が、
「おトキ、ほんとにだいじょうぶかねえ。何か塗らんでもええかねえ」
 カズちゃんが、
「だいじょうぶよ、おかあさん、二人にまかせとけば。どうにかなるものよ。私も中川とセックスしなくなって、何年も経ってからキョウちゃんとして、生まれて初めて女の歓びを知ったんだから。おトキさんだって、二十二まで好きでもない男と三年も寝てきて、三十年近く休んで、ひさしぶりにしたらビックリするくらい感じるかもしれないわよ」
 父親は困ったふうに手揉みしながら、
「中川のことは、ワシの眼鏡ちがいやった。すまんことをしたな。だいたいこの店にきて女と遊んでから、たまたま大学から帰ってきた和子を見初めたいうんが信用ならんところやった。自分は名大の経済を出て、仲人も名大の教授やと言うし、市役所勤めで将来は安泰やと言うし、ころりと騙されてまった。北村からもだいぶ金を持ち出して、女遊びしくさってな。結局どの女にも見かぎられて、挙句は市役所まで辞めて、おまえが離婚届を叩きつけてすぐ、どこぞへ逃げていきおった」
「もとはと言えば、結婚してすぐ私が中川を近づけなくなったからよ。自信なくして、ヤケになったんでしょ。顔つきは卑屈だし、セックスは下手だし、しゃべることはつまらないし、最悪だったわ。キョウちゃんに浄めてもらわなかったら、一生小汚い思い出を抱いて生きていくところだった」
 おトキさんが、見ちがえるほど黒々とした髪で部屋に入ってきた。
「きれい、おトキさん!」
「おお、たしかに」
「あんた、何かしたの?」
「いえ、髪を染めただけです」
 トモヨさんが櫛を入れる。
「……おトキ、何か塗り薬でも要るかい?」
「いえ、だいじょうぶです。……濡れやすいタチですから」
 最後ほうは小さな声で言った。
「ほうか、まだ役立たずではないんやな。よかったよかった。あしたの朝めしの支度は気にせんと、ゆっくりしといで」
 夢のような会話だった。当の山口も夢見るような目をしていた。
         †
 ひさしぶりにカズちゃんとの夜が戻ってきた。彼女は菅野のタクシーを呼びつけ、亀島のガードをくぐって、ひたすら外堀通りを名古屋城に向かって走らせた。
「この道も、二、三度、北村の女将さんを乗せたことがありますよ」
「留守部屋のお掃除をしてくれてるから」
 明道町から北上し、ライティングされている名古屋城までたどり着くと、菅野は外堀沿いに建っているマンションの前で車を停めた。
「朝九時に迎えにきてちょうだい」
「承知しました」
 タクシーのテールランプがかなりのスピードで去っていった。
 五階建のマンションだった。壁にシャトー西の丸という表札が埋まっている。広いエントランスホール。銀色の集合ポスト。エレベーターで最上階まで昇り、広い廊下を歩いて507号室に入った。
「おとうさんが大学の入学祝に買ってくれた部屋よ。学生時代の四年間、ここから椙山にかよったの。卒業してからはときどき、鶴田荘に帰らずに何カ月かにいっぺん羽を伸ばしにきてたけど、ほとんど開かずの部屋。ただ、ここがあるのとないのとでは気分がちがうの。ときどきおかあさんが風を入れにきて、掃除もしてくれてるみたい。六畳和室二つ、十帖の洋間一つ、十二帖のキッチン。けっこう広いでしょ。きのうは、このお蒲団で寝たのよ。キョウちゃんのいのちの記録を読みながら」
「もういのちの記録は書かないことにしたから、青森に帰ったら二冊目をあげる。詩のノートだけでいい」
「書くことを早じまいしちゃだめ。二冊目は書き上げたらもらうわ」
 奥の六畳に蒲団が敷きっぱなしになっていた。壁に接した二台の書架に、ぎっしり本が詰まっている。洋間にはソファと、白黒の大型テレビが置かれていた。トイレは水洗、風呂は縦長の陶器製のタブ、キッチン用品はみごとなほど整っていた。
「お風呂が木でないから、ここで暮らす気にならないの。やっぱり気まぐれに使うだけの部屋ね。暮らすなら平屋の一戸建、お風呂が木でできた大きい家と決めてるの。席のお風呂は大きいでしょ。ほら、この窓からお城が見える。桜がきれい」
 カズちゃんは和室の窓辺に寄ってガラス戸を開けた。それからキッチンにいき、フィルターコーヒーをいれた。私は学生服を脱ぎ、全裸になってうつ伏せに横たわった。
「おまちどうさま」
 カズちゃんはカップを枕もとに置き、自分も全裸になった。並んでうつ伏せになる。
「うまいなあ。ほんとに上手にいれるんだね」
 山口がいれるコーヒーより少し薄いが、豆の質がよく、深い味わいだった。
「おとうさんがコーヒー通で、うるさかったから。小学校のころからよくいれさせられたの」
「お父さんて、こういう嗜好品は飲みつけない雰囲気だけどなあ」
「おかあさんも通なのよ」
 主人夫婦といい、座敷の女たちといい、日々、男と女の性に染まっている人間が、この上なく生活に繊細で奥ゆかしいのがうれしかった。
「山口とおトキさん、うまくやってるかな」
「トモヨさんはキョウちゃんとして、うまくいったでしょう」
「うん」
「きっとそういうものよ。鶴田荘の自分のことを思い出したの。私もそうだったから。おトキさんもうまくいくにちがいないわ。山口さんはいままで商売女しか知らなかったはずだから、おトキさんの反応にびっくりして、女に対する考え方を変えると思う。きっとやさしい気持ちが湧いてくると思うの。惚れこんじゃうんじゃないかしら」
「男と女って不思議だね。……もとカミナリ族。なんだかうれしい」
 カズちゃんがもたれかかってきた。からだが冷め切っている。
「蒲団をかけよう」
「ええ」
 二人胸を接して横たわった。乳房が心地よく押してくる。
「キョウちゃんが六年生のころ、私、キョウちゃんのユニフォーム姿を自分の目で確かめたくて、昼休みに食堂を抜け出して、千年小学校のグランドに見にいったことがあるのよ。すてきだった。みんなの中で、一人だけちがってた。学制服を着た何十人もの生徒がいっしょに向こうから歩いてきても、すぐ目につくって感じ。神々しかった。そのとき、愛されなくてもいい、私がこの人だけを一生愛していこうって決めたの」
「まるでお伽話だね」
「そうかも。男はそんな気持ちにはならないわ。なったとしても、それは気の迷い。女を愛することより忙しいことがあるからよ。そうでなければいけないと思う。だから、せめて女に愛されるような男じゃなくちゃ男として生まれた意味がないわ。美しいだけでなく、何か自分の中で深く考えこんでいるとか、何かに夢中になってるとか、どこか突き出たところがないと、男はみっともない」
「女に愛される男も、いずれ年をとるよ」
「年をとっても、その人しか持っていない魅力はなくならないの。死ぬまで。……キョウちゃんを愛した人は、その魅力を一生愛しつづけるのよ」
「それはどうかなあ。だれだって他人を愛する前に、自己愛という厄介なものがあるから」
「ふつうの人はね。そういう人はたくさんいるわ。私はちがう」
 目頭が熱くなり、私はカズちゃんにキスをした。むしゃぶりつくようなキスが返ってきた。欲望が湧き起こってきた。その証拠を彼女はしっかりと握った。
         †
 いっときの旋風が去り、唇を合わせる。
「あしたは四月一日。メイチカでも歩きましょうか」
「うん。レコードを漁りたいな」
「幼稚園の人たちにお土産を買わなくちゃいけないし」
「そのあと、山口と太閤通りを歩くよ」
「太閤通りには、むかしの町並がそっくり残ってるわけじゃないのよ。環状線を超えて区役所の向こうの、名楽町あたりが中村遊郭跡として有名ね。青森の浜町より少し賑やかな程度。古い遊郭の中にふつうの民家やアパートもたくさん雑じってる。通りへ出入りする門が少し派手。市電の停留所だと、大門から入りこんだあたりね。そこまでタクシーでいきましょ。岩塚の飛島寮は、そこから歩いて二十分くらい」
「どうでもいいな」
 手を握り合って話しているうちに、どちらからともなく寝入った。
 すでにマンションの下で待機していた菅野のタクシーに乗った。カズちゃんは全身白の夏服でかため、赤いローヒールを履いた。私は毎度の学生ズボンに、きのうのポロシャツを着た。すぐ上がりそうな霧雨が降っている。城の桜が弱い雨の中で満開だ。きょうで三月も終わる。菅野が、
「昼から晴れるそうですよ」
「十一時くらいに、席に一台回してくれる? 大門の電停までいきたいんだけど」
「わかりました。私の都合のつかないときは、ほかの車を差し向けるように伝えときます」
 もう朝食を終えた座敷で、女たちがおトキさんを囲んでわいわいやっている。
「おトキさん、きれいやねえ」
「ひさしぶりにどうやった? 感じた?」
「しっかり教えてあげたん?」
「おトキさんて、意外と美人やったんやねえ」
 山口がいつもとちがう落ち着いた顔で、主人夫婦といっしょにコーヒーをすすっていた。私たちが入っていくと、山口は立ち上がって、二人の手を握った。
「感激した。和子さん、神無月、ありがとう。人間としての幅が広がった」
「オーバーだな」
「いや、ほんとうだ。この神秘を知らなければ、いつまでも女を見くびるところだった」「それじゃ人間として幅が狭くなるね」
 カズちゃんの口まねをした。主人が、
「おトキも満足したようや。山口さん、これからはたまには、名古屋にきたってや」
「はい! 俺もきっちり落ち着いて、勉強が軌道に乗ったら、神無月といっしょにかならずきます」
 女たちが一段と騒ぎ立てる。自分の転入のことで頭がいっぱいだろうに、オクビにも出さない。まったく忘れているかのようだ。女将が、
「トモヨ、神無月さんたちにちょっと軽いごはん出したげて」
「はあい」
 トモヨさんも張り切っている。おトキさんと幸福を共有しているという感じがうれしいのだろう。納豆おろし、ハムエッグ、ジュンサイの味噌汁が出てきた。腹がへっている。さっそく箸をつける。
「和子もがんばったか」
「いやよ、おとうさん。娘の性生活は覗かないの。逆もまた真なり」
「へいへい。きょうは遊郭跡を見てくるんだろ」
「そう、十一時にタクシー呼んであるわ。トモヨさん、大根おろしが辛くておいしい」
「辛味大根のたれで、そうめんを食べてみますか」
「あ、それ、もらう」


         九十         

 山口が主人にコーヒーのお替りをいれてやり、
「ちょっと見では、このあたりにはないようですね、色街は」
「大門の中村遊郭のほうですわ。ここからだと十五分ほど先です。関東大震災で娼妓たちがたくさん移ってきて、大きな遊郭が建てられたんです。東京の吉原より規模の大きい遊郭だったんですよ。いまじゃ、文化財の妓楼が二つ、三つあるくらいで、しごく閑散としたもんです。まあ、あそこにいずれ、うちと塙もトルコを作るつもりですがね。大門の西の名楽町ゆうのも、戦後の中村遊郭の元締めの名楽園に由来する町名です。駅西のこのあたりは、遊郭ゆかりの町じゃなく、いわゆる青線というやつで、新興の素人さんが勝手に自宅で売春をしとる区域です。見どころなんかあれせんし、うろうろしとると、立ちん坊や牛太郎(ギュウ)に引っ張りこまれるのがオチですよ」
 おトキさんが台所から姿を出し、おはようございます、と畳に手を突いた。
「おかげさまで、すばらしい一夜をすごさせていただきました」
 カズちゃんが、
「商売とちがうセックスがあるって、初めて知ったでしょう?」
「はい……信じられません」
「好きな男とだけそうなるのよ。これからは、ときどき山口さんがくるのを待ってればいいわ。遠慮なくできるんだから」
「はい、ありがとうございます。あんな思いは、年に一度でいいです」
「私もそんな思いしてみたァい!」
 という嬌声が上がった。ふざけているようで、切実な叫びに聞こえた。
「ユキさんは?」
 カズちゃんが母親に尋くと、
「朝一で仕事に出たわいな。めずらしいことやよ。おトキのことがよほどショックやったんやろか」
「しかたないじゃない、男と女なんだもの。相性というものがあるんだから」
 カズちゃんが無慈悲に言う。しかし、彼女が無慈悲であったためしはないので、きっと正しい意見なのだろう。私は母親に訊いた。
「午前中に電話してくる客がいるんですか」
「茶店の帳場からや。午前の集まりというのは、たいてい市か区関係の談合やけど、その人たちのスケベは折り紙つきですよ」
 主人がしみじみした顔で、
「それに比べりゃ、神無月さんも山口さんも麗しいもんですなあ。いや、飛びきり上等な人間とそんな下衆を比べちゃいかん。和子はもちろん、トモヨも、おトキも幸せ者だ」
「私も幸せになりたいわ!」
 女の一人が言った。すかさず主人が、
「まず、惚れられて、かよわせにゃ。話はそこからや。引いてもらえるかもしれん。年季が明けるまでに、一人でも男をつかまえとかんと、さびしい老後になるで。トモヨやおトキのように人間を磨くことや」
 ごちそうさん、とカズちゃんの明るい声が上がる。おトキさんとトモヨさんがあと片づけをする。ひょいと覗くと、台所の女たちが洗い物をしていて、遠慮がちに笑いかけながらお辞儀をする。食器棚の下に小さなテレビが置いてあり、かすかな音でビートルズの映像が流れていた。
「山口、ジョン・レノンが先月何とか言って、総スカンを食らったんだよね」
「ビートルズはもはやキリストより有名である、とのたもうた」
「ふうん、キリストは彼の活躍した時代は有名じゃなかった。歴史が彼をとてつもなく有名にしてきたんだ。六十年代にビートルズは、すでに当時のキリストよりはるかに有名になってる。でも、この先の歴史は彼らを偉人にはしないだろうね」
「だな。ロックミュージシャンといえども、曲がりなりにも芸術家だ。芸術家の驕りはみっともない。六月に来日するそうだ」
「だいたい名曲はあるの? バス旅行のとき、山口、何とか言ってたな」
「傑作は、ジス・ボーイ、アンド・アイ・ラブ・ハー、イェスタデイぐらいかな。駄作ばっか受けてる。これからも何曲か傑作を作りそうだけど、ビーチ・ボーイズとは比べものにならないくらい質が低いな」
 電話が入りはじめる。女が一人、二人と立っていく。
「音楽に詳しいですな、山口さん」
「山口はギターの天才です。聴くと驚きますよ」
「驚くのは神無月の声です。腰抜かしますよ。神無月、何か唄ってやれ」
「唄えと言っても、山口の伴奏がないと」
「私、ギター持っとる!」
 電話待ちの女の一人が、立ち上がって廊下にばたばた出ていった。
「あの、郷くん、私、リクエストしていいですか」
 トモヨさんが私を見つめて言う。
「もちろん。知ってる曲なら唄うよ」
 どたどた足音がして、女がギターを抱えてきた。鼈甲色のポピュラーなやつだ。山口のギターのような重みと渋みがない。すぐに山口が調弦する。カズちゃんがトモヨさんに訊く。
「どういう曲、トモヨさん」
「昭和二十六、七年ごろの歌で、松島詩子の……あかぁしあ、並木の、たそーがれえはぁ」
「ああ、喫茶店の片隅で。唄えるよ」
「ひっそり流行ってた歌なんです。さびしい曲でしたけど、大好きでした」
「私もその歌大好き。キョウちゃん、ほんとに唄える?」
「だいじょうぶ。たしか、五歳のころ、古間木の国際ホテルで聞いた。何度も聞いたから歌詞とメロディはぜんぶ暗記してる。唄ったことはないけど、唄える。山口、弾けるか」
「名曲中の名曲だ。弾けないわけがないだろ」
 私は目をつぶって、国際ホテルの薄暗い廊下を思い浮かべた。
 美しい抒情的な前奏が流れ出した。店の女たちが食卓に集まってきた。下働きもやってくる。光夫さんがギターを弾いた牛巻病院の大部屋のようになった。唄い出した。

  アカシヤ並木の たそがれは
  淡い灯がつく 喫茶店
  いつもあなたと 逢った日の
  小さな赤い 椅子ふたつ
  モカのかおりが にじんでた

  遠いあの日が 忘られず
  一人来てみた 喫茶店
  散った窓辺の 紅バラが
  はるかにすぎた 思い出を
  胸にしみじみ 呼ぶ今宵

 時代色のついたむかしの唄に、私の感覚がピタリとはまった。唄っていて、深い悲しみを感じた。心が充足する悲しさだった。涙があふれそうになった。
「なんて声やろ! 声が泣いとるわ。涙が出てくる」
 母親が言った。うう、とおトキさんが嗚咽した。女たちが手で顔を覆っている。山口がいつものように天井を向いて涙を流していた。主人はうなだれて腕組みしている。
「郷くん、ありがとうございます―」
 トモヨさんがハンカチで頬を拭いながら、
「あのころは、いちばん心が苦しかったころで……私の仕送りでどうにか田舎の家族が生活できるのを喜びながらも、自分の行末を考えると、気持ちが暗くなってしまいましてね。でも、何年後かに年季が明けるのを心頼みにして、どんなに暗い気持ちも、いつかは人生の大切な思い出として偲べる日もくるだろうと思い直しました。そういう小さな希望を与えてくれる曲だったんです。ありがとうございました、ほんとうに」
 トモヨさんはもう一度目にハンカチを当てた。カズちゃんは涙をこらえながらニッコリ笑い、
「キョウちゃん、ありがとう。この歌はきっと、キョウちゃんが唄ってあげることで、ほんとうにトモヨさんの大切な思い出に変わったのよ」
 父親がボロリと涙を落とした。
「神無月さん、山口さん、あんたたちは、この家の人間を生き返らせますなあ。ありがとうさん」
 山口が、
「生き返らせてもらったのはこちらのほうです。歌はお礼ですよ。なあ、神無月」
「うん、山口、名人の伴奏だったよ。トモヨさんの苦しい思い出が、これでぼくの思い出にもなった。この歌を知っていて、そして唄うことができて、ほんとによかった」
 タクシーの警笛が鳴った。傘を持たずに霧雨の外へ出た。
 市電道を大門までいく。菅野がハンドルを操りながら、
「大門というのは、中村遊郭の入口という意味です。もう少し西の、大きなスーパーマーケットから名古屋駅に向かって歩きはじめるのが見物にはいいコースです」
 そう言って、大門の一つ先の太閤通り六丁目という電停で降ろす。
「じゃ、すみません。きょうは名古屋駅のタクシー乗り場の勤務なんで、ここから流して帰ります」
 霧雨の中、カズちゃんと山口と三人で、お好み焼屋や蕎麦屋の点在するひっそりとした通りをいく。五階建のスーパーのビルが見えてきた。カズちゃんが手のひらで大きく円を描き、
「このあたりが中村遊郭。廓の外周りは二メートルくらいの堀で囲まれた八角形をしていて、外からは廓の中を覗けなくしていたんですって」
「そういうこと、この近辺の人はふつうに知ってるの?」
「知らないと思う。中学校の研究テーマで、中村遊郭のことを詳しく調べたのよ。芸妓の身分階級、お客の種類、遊び方、衛生面や病気まで。テーマがきわどいっていうんで、展示されずに花丸もらっただけで返されたけど」
 山口がうなずき、
「そりゃビックリされるよ。学校での不遇はすぐれ者の宿命だ。しかし、遊郭らしきものは何もないな。ん? ニュー令女、インペリアル福岡だと。スーパーの真ん前にトルコがある。こういう場所はふつう近づきがたい雰囲気があるのに、名古屋はさすがだな。この開放感。ソープランド・パラダイス、入泉料二千円。〈泉〉か、すばらしい」
「なに感動してるの」
「感動しますよ。こりゃ、ほんとにすごい。軒並じゃないか。駅馬車? 得体が知れないな。お、あの角にすさまじく立派な妓楼があるぞ。映画のセットみたいだな。長寿庵か。すぐれた建築物だ。威厳がちがう。れれ、表札が鵜飼ってなってる」
 私は、
「さっき気づいたんだけど、このあたり右も左も鵜飼病院の看板まみれで、もとの妓楼は、いまはこの一帯の大地主の鵜飼さんが自宅にしてるということだね」
「和子さん、解説、解説」
「キョウちゃんの言うとおりよ。長寿庵はもともと新千寿という妓楼だったんだけど、売春禁止法で遊郭が廃止されちゃったの。取り壊されたらたいへんだってわけで、在の素封家の鵜飼病院が買い取って、実際に住むことにしたんですって。文化財保護のためね。都市景観重要建築物っていうらしいんだけど、ほかには、料亭稲本、松岡旅館なんかがあるわ」
 キョロキョロ歩いていく。筆を持った美人画が埋めこまれている壁がある。むかしふうの窓飾りが貼ってあるベンガラ色の土壁がある。鬼瓦を二つ載せた屋根がある。雨が上がった。視線の先に、雲の多い青空が拡がっている。どの建物も空が似合った。空の似合う建物はめったにない。野球場? 空がかぶさっているだけで、似合っているかどうかは心もとない。
「ありゃ、爺さんが、ニュースカイってトルコに入ってったぜ。あの人、八十はユウに超えてるだろ。オノコの希望の星だな」
 カズちゃんが山口の背中を叩いて笑う。


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