百

 奥さんが、
「一日雨みたいよ。どうせなら、早く出て、早く帰ってきたほうがいいわ。野辺地で神無月さんをじっと見つめてちゃだめよ。さりげなくしていてね。先にマコトちゃんのところに寄る?」
「どうしようかな。野辺地の景色が見たいから、マコト叔父さんのところに寄るのは、神無月さんのお祖母さんと散歩がてら海や町なかを見物したり、お家でお祖父さんとお話してからにする。帰るときは叔父さんからこっちへ電話してもらう」
 朝八時。ロールパンとサラダと茹で卵にコーヒーという軽い食事を済ます。
「神無月さん、マコトちゃんにはさっき連絡しておきましたからね。楽しみに待ってると言ってました。三時ごろ、新道の家に迎えにいくそうです。神無月さんが道を忘れたろうからって」
 ミヨちゃんは、臙脂のゆったりしたスカートに、白の厚手のシャツ、その上から毛糸の織り目の浮き上がった紺のセーターを着た。私は学生服だ。
「ミヨ子、うっとりするほどきれいよ。トンビが鷹。ほんとに神無月さんの言うとおり岩下志麻みたい」
 ミヨちゃんは楽しげに笑った。日々、心もからだも熟して、自分が美しくなったことを自覚しているのだ。
「いがったなあ、ミヨ子、神無月くんと一日いられるど」
 サングラスが言う。ミヨちゃんが、見えない目にうなずきかける。
「野辺地にはおとうさんもいったこどがね。代わりによぐ見てきてくれじゃ。おかあさんが女学校時代にすごした土地だ。実家は松ノ木平というとごだそうだが、両親が亡くなってがらは、跡継ぎがいねすけ取り壊したず」
 父親が言う。私は奥さんに訊いた。
「奥さんはまだ若いのに、ご両親はお亡くなりになったんですか」
「ええ、十年ほど前に。二人とも練炭中毒でね。……寒い日で、窓を閉め切ってて。近所の人が見つけたときはもう」
「そうですか。お気の毒に」
 ミヨちゃんが、
「おかあさん、シズカ叔母さんに伝えたいことある?」
 一度会っただけのシズカという女房の顔を思い出せないけれども、きっとこの奥さんとよく似ていたにちがいない。
「うーん、ないわ。娘が六歳か七歳になるわね。来年小学校かしら。ひどい姉よね。めったに連絡もしなくてすみません、子育てたいへんでしょうけど、がんばってくださいって伝えて。青森駅で何かお土産買ってって」
「うん。昆布羊羹買ってく」
 私は玄関先で傘を広げ、
「じゃ、いってきます。合船場に十時までに着いて、町を祖母と歩き回ってから、奥山先生の家に寄って、たぶん夕食をご馳走になったあとでこちらに帰ります。ミヨちゃんをここまで送り届け、一休みしてから健児荘に戻ります」
 二人傘を差して玄関を出た。ミヨちゃんの背丈が私の肩まである。
「大きくなったね」
「百五十六センチあります。胸は八十一。ヒップは八十三」
「みるみるという感じだね。こんな雨の日だったよ、ミヨちゃんが走ってきて鍵を開けたのは。色っぽかった」
「覚えてます。後ろから見られてるのがとっても恥ずかしかった」
「きれいな脚で、ゾクッとした」
 ミヨちゃんは私を見上げてうれしそうに笑った。
「ところで、さっきのお母さんの伝言、何も伝えたことにならないよ。そんなことは向こうだって百も承知なんだから」
「ふふふ、神無月さん、みんなそういうことを伝え合って生きてるんですよ。必要なことだけを伝え合ってるんじゃないんです。……神無月さんのそういうまじめなところ、大好きです」
 大通りでタクシーを拾い、青森駅までいく。土産物の売店で昆布羊羹を二箱買う。いつかじっちゃと食ったホタテ弁当を二つ買った。八時四十六分の鈍行に乗る。垂直の背凭れに向かい合って座る。
「十時過ぎには野辺地の家に着いてる」
 ミヨちゃんは何のこだわりもないふうに私を見つめ、
「野辺地に、私のような女の人は中島さんだけですか」
「うん。でも、ミヨちゃんに一レベル上のことをされた」
「うれしい」
 ミヨちゃんはほんとにうれしそうに、雨滴のついた窓の外を見た。
 小湊あたりでホタテ弁当を開く。おいしいと言い合いながら、二人で最後の一粒まできれいに食った。
「駅弁は別腹。いつ食事のあいだが空くかわからないから、食べておいたほうがいいんだ」
「はい。ぺろりと食べられました。……名古屋ではお母さんと暮らすんですか?」
「そうなる。耐えられなくなったら、高校のそばにアパートでも借りる。名古屋にいて勉強さえしていれば、そういう自由は案外きくと思う」
「そして東大へ。……神無月さん入学するとすぐ十九歳、私は十五歳。中学三年。神無月さんが大学二年になった年に、私は高校生」
「指折り数えると、遠く感じるよ。ぼんやり目先のことに夢中になってすごしてれば、あっという間だ」
「はい」
「ぼくは大学二年で中退して、プロにいく。ドラゴンズに入るから、住むのは名古屋だ」
「私は名古屋大学にいきます」
 サラリと言った。
 九時半過ぎに野辺地に着いた。傘を手に奥山先生が改札に立っていた。
「神無月くん、ミヨちゃん、いらっしゃい!」
「先生! 合船場のほうにくるんじゃなかったんですか」
「一刻でも早ぐ会いたくてね。葛西さんに連絡もらって、見当つけて出てきた。ひさしぶりだなァ、神無月くん。去年市営球場で見たとぎより大っきぐなった」
 固く握手する。本人の顔なのだからあたりまえだが、セカンド吉岡の顔よりもしっくりくる。思わず頬が緩んだ。
「叔父さん、こんにちは」
「ミヨちゃん、うだでぐめんこぐなったでば。神無月くんと並ぶと、まるで内裏雛だ。四つしかちがわねんだべ。どんな子供が生まれるか見でみてな」
「やだ、叔父さん、勝手に決めて」
「まんざらでもねべ。神無月くんも」
「はい」
「ほら、神無月くんは正直だ。きょうはとんぼ返りだって?」
「はい、練習試合の準備で忙しいもので」
「いまや県が誇る大選手だものなあ。しょうがねべ」
 三人傘を差して、ロータリーから坂道へ歩みだす。
「わあ、すぐ山が見える。雨に煙ってる山って、すてき」
 奥山先生は、
「あっちの道は農道だ。ミヨちゃんのお母さんや神無月くんのお母さんの出た野辺地高女は、いまは野辺地高校といって、ここから歩くのは遠い。見る必要もねべ。きょうは神無月くんの家まで歩くべ。お祖父さんお祖母さんに挨拶するすけ」
「お祖父さんとお話したいし、お祖母さんとは散歩をしたいです。よく神無月さんが夕食のときに話してくれたんです。お祖父さんの話好きや、お祖母さんと散歩するときの海の風景のこと」
 本町通りへ上っていく。
「こごは野辺地でいちばん賑やかな通りだども、青森に比べれば、ただの裏通りみてなもんだな。大した店もねし」
「初めてなのに、なつかしい感じです。よく見ると、たいていの種類のお店が揃ってますね。でも、本屋さんと喫茶店がほとんどないわ」
「ほんだな、文化を売る店がねってやつだべ。ぜんぶ衣食住の実用品ばりだ。ものを考える人間はこういう町に長ぐ暮らせね。二、三日もいれば飽ぎでしまる。老後もだめだ。神無月くんは、よぐ中学時代辛抱したでば。青森でも、やっぱりだめだべおん。いずれ出でいぐべ」
「……夏のトーナメントが終わったら、神無月さん名古屋へ帰ってしまうんです」
 奥山先生は驚きもせず、
「やっぱしな。仕方ねべ。野球やるにしろ、勉強するにしろ、そっちのほうがいい。神無月くんには、文化が必要だがらな。お祖父さんさんたぢには、きょう話すのな?」
「はい、そのつもりです。転校の日時が決まったら、一人できて、一晩泊まって話すつもりでしたが、イヤな話は早いほうが―」
「ンだな、つらくても、ちゃんと話さねばな」
 ボッケの菓子店を過ぎ、うさぎやを曲がって、大通りから新道に入る。
「この通り、新道って言うんだ。海までの一本道がぼくのふるさと。ふるさとって、山や川や海じゃなく、道のことだと思う」
「たしかに、そうがもしれね。うん、そんだこった。この道はいつかきた道、か」
「家がポツポツあるだけなのに、目に残る道ですね」
 私は振り返って、大通りの向こうを指差す。
「あの通りを渡ると、城内幼稚園。三歳から二年かよった。そこのいき帰りだけがぼくの生活だった。何の不満もなかった」
 奥山先生が笑って、
「子供はすばらしな。どごにいでも満足する。大した順応だ。だども、それは生活かもしれねばって、人生とは言わね。順応は人生でねすけ。不満が出できて、逆らって、冒険して、挫折して、また立ぢ上がる、それが人生だべ。神無月くんは、なんも不満のなかった順応の時代がなつかしんだ。もの心ついてから、冒険と挫折ばっか繰り返してきたすけな。それでも冒険をやめねんだ」
 ミヨちゃんが瞳を輝かせ、
「おじさんて、そういうことを言う人だって知らなかった」
「奥山先生はいつもこういうしゃべり方だよ。ぼくが青高を受けるときもいっしょについてきてくれて、汽車の中ですばらしい話をしてくれた。叱らない、否定もしない。気を使ってるわけじゃない。ひたすら深くしゃべるんだ」
「神無月くん、恥ずかしぐなるがらやめろ。そたらこと言われると、大のオトナがおめの寛容さに絡め取られてしまる」
 合船場に着いた。ミヨちゃんは校(あぜ)に重ねた古びた板壁や、それを穿(うが)って切られた窓や、分厚い玄関木戸を興味深げに眺めた。私は滑りの悪い戸を引き、呼びかけた。
「ただいま!」
 三人で土間に入りこんだ。ばっちゃが台所から顔を覗かせ、
「キョウが?」
「うん!」
 奥山先生を見て、
「おいや、先生、なしたってが」
 奥山は深々と礼をし、
「おひさしぶりです。長いあいだご無沙汰して申しわげありません。神無月くんが野辺地さちょっと顔を出すと、花園のほうから連絡受けましてね、勝手に駅に出迎えました。神無月くんは試合の準備で忙しくて、残念ながらとんぼ返りのようですが、葛西の娘を野辺地見物に連れてきたんですよ。お祖父さんもおられますか。ご挨拶したいんですが」
 ばっちゃが渡り板から居間に入って障子を半間開けると、煙草を吸っているじっちゃの笑顔にぶつかった。
「あ、どうも、神無月くんがセイコさいって以来ご無沙汰してます。なかなかこっちさ足向げる機会がねくて、不義理をいたしました。雪道で転んで腰をやられたとが。もういいんですか」
「すっかりな。海軍で鍛えたからだだすけな。上がってけへ」
「は、ミヨちゃん、上がらせてもらうべ」


         百一

 あらためて板の間で奥山先生は祖父母に額づいた。ミヨちゃんも倣った。じっちゃは二人の平伏する背中を笑顔で眺めている。私はいつものとおりじっちゃの下座に坐り、ミヨちゃんは私の隣に、奥山先生は私の真向かいに坐った。五月に入ったというのに、まだストーブを焚いていた。ばっちゃが顔をほころばせながら、
「えらぐめんこいワラシだニシ。葛西さんの娘さんがい」
「はい、美代子と申します。お二人のお噂は、いつも神無月さんから伺ってます」
 昆布羊羹を一箱差し出した。
「去年はお世話になったニシ。あんたのお母さんは、奥山先生の嫁さんの……」
「はい、姉にあたります。母が野辺地の女学校にかよってたとき、神無月さんのお母さんが上級生にいたそうです。母の実家は松ノ木平のほうだと言ってました。旧姓は矢野です」
 ばっちゃは、
「矢野……聞がねなァ。マツノキテってが、知ったふとはいねなァ」
「……葛西さんとごの下宿は、キョウは去年出たんでながったがな」
 と、じっちゃ。
「はい、秋に。それからも神無月さんとは親しくお付き合いさせてもらってます」
「ときどき花園の家に呼んでご馳走してくれるんだ。きのうも、早めの誕生日を祝ってもらった」
「ほんだの。ありがとうございます。いづまでも目ェかげでもらって」
「一家が神無月さんの大ファンなんです。いつもお誘いするんですけど、なかなかきていただけなくて。神無月さんは野球や勉強で忙しいので」
 じっちゃが、
「キョウが野球でこたらに名を上げると思わねかったじゃ。アダマいいばりのワラシだと思ってたはんでな」
 ばっちゃが得意そうに受けて、
「何やらせてもいぢばんだたて、本人にこだわりがねんだ。人も物もボーッと見でるだげで、そばさ寄らね。ほしいものがねのよ。これ見てると、アダマがカチャクチャねぐでば」
 奥山が、
「そごは私も心配してる点です。いろいろと才能がありすぎて、これといった将来のゆくえが定まらね。このままだど、人生を他人の思惑でぼんやり流されていぐんでねがと心配です。神無月くんは忍耐強い人間だけんど、他人を押しのげる強引さは持ってね。やさしすぎる。いまは野球に集中してるべたって、それも周囲が騒いでるからですよ。人がら期待されるど、神無月くんは応えるべってするおんたな」
 じっちゃが、
「オラだっきゃ何も期待してねじゃ。キョウが海のものでも山のものでも、どんでもいんだ。たまにこうして顔でも見れれば、それだけでなんもいらね。ちゃっけころは、でぎのいいワラシを見て、何になるんだべ、どたらにえらくなるんだべって、人はあれこれ期待するもんだ。期待するのは勝手だ。本人とは関係ね。本人が何かになりてなら努力してなればいいし、なりたぐねなら何もならなくていいのよ」
 と言って、紙巻き煙草に火を点けた。煙管はすっかりやめたようだ。炉辺にいつも並べていた紙縒(こよ)りもない。
「わがりますよ。私も神無月くんを見てるだげで、なんだかうれしぐて、ほのぼのした気持ちになる。社会的に成功してほしいとも思わね。だども、それだば、神無月くんがもったいねくてね」
「どうにか格好はつけてくれるべせ」
 と、ばっちゃが言う。奥山先生はしみじみと、
「ご一家のみなさんの心持ちが、神無月くんと瓜二つですね。ツラ突き合わせでると、見透かされでるみてで恥ずかしぐなります。……誕生日か。神無月くんは十七になるんだね」
「はい」
「あれがら二年。早えもんだな。……とつぜん転校してきてから、いろいろあったね。転校してきたころは、固い殻にこもったサナギだったのに、こたらに大っきぐ立派な蝶になるなんてなあ。お二人の苦労も報われたニシ」
 ばっちゃが穏やかな顔で、
「なんも。キョウが勝手におがったんだ。コンジョ曲がりの母親に捨てられてよ」
「……あのかたには手を焼いた覚えがあります。いまもって、神無月くんをこちらに送った意図がわかりません。生活が苦しくもないのに、大事なものを質に入れて、流してしまったというところですか」
「取り戻す気もねべ」
 ばっちゃがせせら笑った。
「取り戻すのは至難の業でしょう」
 奥山先生もしっかりとぼけ、私にうなずきかけながら場を取り繕った。そうするしかない雰囲気だった。名古屋へ帰る話がしづらくなった。彼らの得心しているような状況で、母のそばに戻るなどと話せば、彼らは、私が積極的に動いたのだと誤解して心底呆れるだろう。人格さえ疑うかもしれない。もともと母が根性曲がりなのはまちがいないのだ。カズちゃんの言うとおり、母の心変わりを正直に話して、もう一枚余分に性悪の皮をかぶせたところで、彼女の〈評価〉に大して影響はない。しかし、いま母に屈服するのは、東大に合格してから野球をつづけるためだと言えば、彼らは首をひねるだけだろう。なぜなら、そのどちらも青森高校にいつづけることで可能だからだ。わざわざ名古屋で勉強して東大に合格する必要はない。
 母が〈人生にむだ〉だと信じる野球を奪い、そのうえで〈人生に有効〉だと信じる東大に合格させようとしている―そう頑迷に決意していると説明すれば、腹を立てながらも納得するかもしれない。しかし、東大も強いて彼女の手に入れたいものでないと言ったら、もはや理解は不能で、納得しようがなくなる。気ちがい親に蹂躙されている気の毒な子という図がハッキリする。となれば、彼らは必死で私を青森に留めおこうとして母と戦い、よこせ、渡さない、で泥仕合の様相を呈するだろう。
 なぜそんな親に従わなければいけないのかという理屈は彼らに分がある。いや、私を含めた彼らにある。しかし、私以外の彼らは母のこれまでの息子に対する偏執的な行状を知らない。私が黙って転校し、そのうえで、彼女が私を苦しめるために建前で主張している東大に合格して、別段彼女の固執していなかった東大を捨ててプロ野球選手になるしか道は残されていないのだ。いずれにせよ母の妨害を取り除かないかぎり、将来野球をつづけていくことは不可能だ―そんなこと、だれが、どう考えても、納得できない理屈に決まっている。そんなでたらめな理屈を祖父母に、いやだれにも説明することはできない。私が腑抜けを演じるしかないのだ。演じるにしても、実行ははもう少し先延ばしにしよう。名古屋に出発するまぎわでいい。いまは余計な同席者もいる。
 ミヨちゃんが目を赤くして、
「神無月さんて、どんなことがあっても静かなんです。いつも微笑んでて」
 じっちゃが、
「変わり者だすけな」
 と言うと、ばっちゃが、
「仏さまよ。オラんどとはちがるとごにいるんだ」
「私も、神無月くんみでな人間に会えだのは天の恵みです」
 と奥山が言った。そして、さあ、私はこれで、と言って立ち上がり、
「きょうは、二人にうぢで晩めしをかへで帰します。じゃ、ミヨちゃん、四時ぐらいに郵便局の前にいろ。迎えにいぐすけ。すみません、ミヨ子がお祖父さんと話をしたいし、お祖母さんと散歩もしたいと言ってるので、面倒でなければ付き合ってやってください。へば失礼します」
 ミヨちゃんは昆布羊羹の残りの一箱を紙袋ごと奥山に差し出し、
「これ、お土産です。お子さんに」
 奥山は、お、ありがとう、と言って受け取り、障子を開け、土間に降りて靴を履くと、祖父母に礼をしてふたたび障子を閉めた。
 まだ午前の十一時を回ったばかりだ。じっちゃは、十二歳の少女が相手であることを忘れて、さっそく機関車の話やら、軍艦の話やらしはじめた。ばっちゃはそのあいだに、杉山惣菜店からホッケと揚げ物を買ってきて、昼めしの準備にかかった。
「じゃがいもの味噌汁でいがべ。ホタテのヒモも入れるが」
「うん、うまそうだね」
「お手伝いします」
「ありがと。だば、じゃがいも剥いて刻んでもらうべ」
 ミヨちゃんはばっちゃといっしょに台所に立っていった。囲炉裏に私一人になり、じっちゃの四方山話から〈言葉〉を拾うべく身構えた。アメリカのキミ子が地下室つきの大きな家を買ったそうだ、善夫がボイラーの一級免許を取ったと手紙を寄こした、義一が自衛隊で大型の免許を取ったと横山の次男が言っていた、善司は秋田で結婚して娘が生まれたらしい、と、たぶんかなり時期遅れの話をした。
 言葉は拾えなかった。じっちゃもあえて何かをしゃべるとなると、みずからの思想ではなく、人の噂話をするしかないようだった。会話というのはそういうものなのかもしれない。突発的な思想の入りこむ余地などない。私のことも一つの大きな噂話として、じっちゃは人びとにせっせと語ったり、手紙を書き送ったりしているだろう。
 二人が台所から戻ってきた。ばっちゃが味噌汁鍋をストーブに載せた。じっちゃの話を小耳に挟んだミヨちゃんが、
「義一さんというのは、神無月さんと汽車で家出した人ですね」
 と問うと、
「ンだ。たふらんけよ」
「古間木から送り返されて野辺地駅に降りたとき、二人ともお祖父さんから思い切りゲンコをもらったって、それがとてもうれしかったって」
 じっちゃはきれいに刈った白髪頭を掻いて笑い、
「二人とも悪いこどしたんだすけ、片いっぽを贔屓するわげにいがねもな」
 ばっちゃが、
「カズもキョウも、捨て子みてなもんだすけ、カッチャに会いてがったのよ。じっちゃもそれがわがってるすけ、強ぐ叱らなかったの。善夫や善司だば、薪でワタクタぶったぐられてたべに」
 味噌汁が煮え、ホッケが焼き上がると、小さな卓袱台が用意されて昼めしになった。熱い味噌汁とタクアンが載った。
「お祖父さんは?」
「ワはあとで食う。昼は腹へらねんだ」
 事情を話すのは面倒だった。ミヨちゃんは気にせず、いつもより活発に箸を動かした。ここにくる汽車の中で食ったホタテ弁当と同じように、頬をふくらませ豪快に食べる。
「おいしい! ホタテのヒモって、お味噌汁に合うんですね。こんな新鮮なホッケ、食べたことない。お釜のごはん、冷えててもおいしい」
「ぼくは冷めしが大好きだ。米が粘つかない。握りめしも冷えてないとうまくない。餅だけは別だね。冷えると硬くて食えない。冷えても軟らかい餅が発明されないかな」
 ミヨちゃんがキョトンとして、それから危うく噴き出しそうになった。
「大福餅がありますよ。ヨモギ餅も」
「そうか、ウイロウもそうだ。そんな餅はたくさんあるね。ただ、搗いた餅はそうはいかないね」
 ばっちゃもいっしょに箸を動かしながら、うれしそうに笑う。じっちゃは巻煙草を吸いながら、目を細めて微笑していた。私たちが出かけたあと、彼はすぐに自分の食事の支度にかかるだろう。この味噌汁は彼のおかずになる。私は一膳のめしに、味噌汁を一杯だけお替りした。
「じっちゃ、じゃがいも融けた味噌汁うまいよ。あとで食べてね」
「おお、もらうじゃ」
 ばっちゃがちらりと私を見た。機嫌のよさそうな目だった。 
 雨が上がっていたが、すぐにでもぶり返してきそうな曇り空だ。傘を持って出た。大通りへ出て、城内幼稚園に向かう。
「この道を往復して幼稚園へかよったんですね。雨の日も、雪の日も」
「そう」
 野辺地には道だけがあって、見るべき景物はない。寺も神社も小ぶりで寂れている。幼稚園から本町通りを歩いてボッケの店の角を回り、八幡さまを覗き、野辺地中学校を見て、浜へ下っていくしかない。
「これが神無月さんのかよった幼稚園……かわいらしい」
 ミヨちゃんは尖塔を見上げた。
「中は広いんだよ。お遊戯をする大きな舞台まである。腹に虫が湧いたことがあって、帰りによくウンコをもらした。半ズボンの裾からボトボト道に落としていくんだ。まるで馬だね。通りすがりの人が、あれあれかわいそうにって言ってたのを憶えてる」
 ミヨちゃんは声を出して笑った。
「クソ漏らしたの、キョウだったかな」
 ばっちゃが首をひねる。
「ぼくだよ。カズじゃない。なんでもぼくのことはいいふうに憶えてるんだから。カズがかわいそうだ」
 連休の幼稚園に人けはない。本町へ歩きだす。広い邸宅と安アパートの混在する道を抜けていく。交差点から右手を指差し、
「この通りはほとんどむかしと変わらない。あれが、家具のカクト、イツミちゃんという同級生の店だ。ミス野辺地」
 ばっちゃが、
「あんたのほうがめんこいよ。女優みてだ」
 ミヨちゃんは輝くように笑った。


         百二 

 私は左手を指差し、
「五十嵐商店、青森銀行、佐藤製菓、縦貫タクシー、角の店がうさぎや。ぜんぶ野辺地の老舗」
 左へ歩きだす。ボッケの店の前を過ぎようとする。店員が荷台に菓子箱を積んで、原付バイクで出かけるところだった。ばっちゃが、
「寄ってくが?」
「野球のことをいろいろ訊かれるから、やめとく」
「ンだな、ボッケのカッチャにつかまったら長げすけ」
 思い返せば、親しく心を寄せる場所など、中学校のころから一つもないのだった。どこの家の門口にも近づきがたい。私がこれまで親しく近づいたのは、合船場の戸口と、クマさんの寮部屋の戸口と、カズちゃんの家の戸口と、山口の部屋の戸口だけだ。
 雨がきた。ミヨちゃんは赤い傘を広げた。私とばっちゃは黒い傘を広げる。
「ばっちゃは、いくつになったの?」
「数えで六十四。じっちゃは七十一」
 初めて二人の齢を正確に知った。
「二人ともぼくより五十も年上だったんだ」
「あたりまえだべに。おめは孫なんで」
「おふくろが四十三だから、ばっちゃの二十一のときの子供か」
「いっと最初の子を十八で産んで、三十九の善夫まで八人、二十年休みなぐ子を産みつづけたじゃ」
「気が遠くなるね」
「愛し合ってたんですね」
「めぐせじゃ。むがしは、女はたんだ種蒔ぐための畑だったのし」
 ミヨちゃんは不得要領な表情を浮かべた。私は、
「一番上の子は生まれてまもなく死んだんだったね。育ったのは七人か。善太郎伯父さん、おふくろ、英夫叔父さん、椙子叔母さん、君子叔母さん、善司、善夫」
 ばっちゃの畑から採れた一人ひとりの顔を浮かべながら数え上げた。義一の父親である善太郎という人の顔は、ばっちゃの写真でしか知らなかった。ばっちゃに愛があったことは確かだろうけど、なぜか彼女には素直になれない話題のようだった。
「椙子と君子には苦労させだ。ちょんど煎餅屋やってるとぎだったすけ。スミとおどごワラシはみんなノンビリ育った。おめのカッチャと英夫はスキー、善司は野球、善夫はバレーボール。勉強がいぢばんできたのは善司だ」
「ぼくはそのだれとも親しくないなあ。いっしょに暮らしたこともあったんだけど」
「ぜんぶまとめでも、おめと釣り合わね。おめのほうに遠慮はねたって、向こうが遠慮してしまるんだ」
「神無月さんと親しくなるには……」
 ミヨちゃんは言葉を呑んで、しばらく沈黙した。それから言った。
「男も女も、身を投げ出さないと」
「正直にな。仏さまだすけな。ながながそうはいがねんだ。仏さまと見ねで、ただの怠げ者と見るタフランケもいるすけ。これのカッチャみてにな。……あんた、キョウが好きだのな」
「はい」
「張り合いねど」
「覚悟してます」
「いくつだ?」
「もうすぐ十三です」
「そたらに若げのな。―あと四、五年したらだな」
「はい、そのつもりです」
 ミヨちゃんは強くうなずいた。
「……ひなたちゃん、どうしてるかな」
「あれから二回(け)遊びにきたきり、ピタッとこねぐなった。おめがいねすけ、おもしろぐねんだべ」
 ミヨちゃんは、だれのことですかとも訊かなかった。ばっちゃの励ましの言葉を反芻している面持ちだった。
 八幡さまの鳥居から参道を覗いて、野辺地中学校へ回る。低い外塀を廻りながら、木造の大校舎を眺める。
「ここに転校したんですね。そしてここでがんばって青高へ」
「そして、ミヨちゃんの家へ。それから健児荘へ。山口と刎頚の交わり、断金の友情、そして野球―」
「ダンキン……」
「金(きん)も断ち切るほどの強い絆の紐で結ばれてる」
 気を利かして、ばっちゃが先へ歩いていく。私たちもゆっくりつづく。
「神無月さんがいなくなったら、山口さん、悲しいでしょうね」
「あいつも東京へ転校する。そして、ぼくと東大へいくそうだ」
「ほんとですか! じゃ、いつか、東京で三人会えますね」
「おたがい受かればね」
「受かります。私、がんばって勉強します。でも神無月さんは、将来プロ野球にいってしまうから……」
「会おうと思えば、どんな環境でも会える。そうしないのは、そうしたくないからだ」
 休日の校庭を一周してから新道へ戻り、合船場を素通りして、踏切にきた。ここで起きた悲惨な出来事の話は、チビタンクとヒデさんと、カズちゃんにしかしていない。ばっちゃは何も言わずに渡った。細かい雨が降りつづいている。
「神無月さんの好きな、浜に下っていく道ですね」
「うん。何もないね」
「でも、この道、いちばん野辺地らしく感じます。ふるさとって言葉にぴったり」
 坂を下りきり、海辺の道を歩く。散在する家々あわいに海が見え隠れする。ミヨちゃんにとって海はめずらしいものではない。それでも、海を褒める。
「きれいな海。青森湾とは色の鮮やかさがぜんぜんちがいます」
 坂本の戸口にきた。ばっちゃにはここしか訪ねるあてがない。散歩の終着点だ。いつものおとない。
「あば、いるがい」
「おーい」
 ミヨちゃんにはすべてがめずらしい。
「キョウが遊びにきたじゃ」
「おいや、一年ぶりだべか。きれいだオナゴ連れて」
「なも、下宿先の娘さんよ。野辺地の町を見てってへるすけ、連れてきたんだと」
 ストーブの前に坂本があぐらをかいている。薄く笑いながら、
「大した評判だでば。野球選手になるのがい」
「いずれプロに誘われれば……」
「野辺地が観光名所にならい」
 私を何者かにしたがる人たちは、いずれ私が地元の名を高める何者かになるかもしれないと、一途な心で夢見る。私が何者かになりそこなえば、その夢をほろ苦く、自嘲をこめて回顧することになる。ミヨちゃんが居心地悪そうにしている。
「上がってけへ」
「ちょっと寄っただげだ。野辺地見せて回ってるすけ」
「ほんだの? だば、また寄ってけへ」
 何のために立ち寄ったのかわからない。おそらくばっちゃにもわかっていない。二十分もかけて金沢海岸まで歩く。海が輝いている。浜辺に波が寄せている。
「ばっちゃ、またあれやってくれる?」
「花のナメが? おめも飽ぎねな」
「うん、いつも人間の奇跡を見るようでびっくりするんだ。きょうは浜辺の花だけを訊くね。ミヨちゃん、ばっちゃは、草花や樹木の名前をぜんぶ言い当てられる天才なんだ。信じられないかもしれないけど、まあ見ててね。ばっちゃ、きょうは目立つ花だけ訊くことにするね。あのチョンと突き出てるツクシみたいな赤紫のは?」
「ハマウツボ」
「鞘みたいな葉っぱに隠れてる、白いトゲトゲしたヒゲのかたまりは?」
「弘法(こうぼう)麦」
「紫に固まって生えてる小さなマリモみたいなやつ」
「アサツキ」
「あれは? 黄色い菊みたいだげど、花びらがごついやつ」
「ニガナ」
「あの花かわいいなあ、手の指を、こうすぼめたみたいになってるね」
「ホッス。坊さんがお払いのとき持ってるべや。格好がよぐ似てるべ」
「ほんとだ。あ、あっちのは鮮やかな白だね。葉っぱが分厚い」
「スナビキソウ」
「じゃ、もう一つ。浜菊や浜昼顔はぼくもわかるから、えーと、あの、昼顔に似てるけど、花の窪みが深いやつ」
「ハマエンドウ」
 ミヨちゃんが目を丸くして拍手した。
「ざっとこんな具合なんだ。こういうのこそ、まぎれもない天才と言うんだよ。ぼくの野球のように鍛錬なんかしてないんだからね」
 ミヨちゃんが海を眺めて歩きながら言った。
「神無月さんは、お祖母さんが大好きなんですね。神無月さんに好かれたら、みんな目がくらむほどうれしくなってしまう。お祖母さんの顔がそう言ってました。……神無月さんの静けさのすばらしいことがやっとわかってきました。お祖母さんは、ボーッと見てるって言い方をしてましたけど」
 ばっちゃがミヨちゃんを和んだ眼で見た。
「上の空という意味でねばって。キョウはなんもジーッと見てねのよ。人も物も」
「ええ、わかります。上の空じゃなく、平等にちゃんと見てるんです。……神無月さんが少しでも関心のあることを考えてみますね。たとえば野球。どんなに関心があっても、なるようにしかなりません。つまり、成功はぜんぶ他人が決めるということです。だから神無月さんは、それをぼんやり見つめてます。才能のある場合でさえそうなら、才能もなく好きでもないことに神無月さんは関心を向けません。周りがどれほど望んでも、そんなことで努力して頭角を現そうとしません。でも神無月さんは、そういうことも、関心があることと同じように、ちゃんと見つめてるんです」
「そんだんだ、キョウはそういうワラシだ」 
「神無月さんに才能があるのは、野球と、勉強と、芸術。神無月さん、ごめんなさい、ときどきお部屋に入って、いけないことだと思いながら、詩や、いのちの記録を読ませてもらってました。神無月さんのこと、ぜんぶ知りたくて……。野球どころではない才能だと思いました。身近な人間がいくら褒めたって、神無月さんには空しいことでしょう。そんなすばらしいものでさえ、成功するかどうかはぜんぶ他人が決めるんですから」
「自分で決められることなんてあるのかな」
「そういう一大事は、たいてい自分で決められないようになってます。でも、大根やニンジンをどの大きさに切るとか、何時の電車に乗るとか、だれかに手紙を書くとか、生活の細かいことはぜんぶ自分で決められます。ただ、大事なことの中に、自分で決められることが一つだけあります。才能と関係なく自分だけで決められること―それは、身近な人を愛することです。たぶん、神無月さんには人を愛する才能はないんです。愛されて、それにぎこちなく応えることしかできない人なんです。でも精いっぱいそれをしてる。お祖母さんの言うように、神無月さんは人間の形をした仏さまですね。仏さまって人間として完成した姿でしょう? そんな人に現世での成功を願っても、意味のないことですよね。私たちはただ神無月さんを愛すればいいだけです。ぼんやりとでも、かならず返してくれますから」
「……ほんだな。人はもの食って、動いで、アダマ使って、寝て起きて、クソションベしねばなんねったって、仏さまは人の願掛けを聞いてんだが聞いてねんだが、たんだボーっとしてるすけな。たしかにキョウは人の格好した仏さまだおんた。しかしあんだも、よっく考えるこだ」
 ばっちゃは、とんでもなくうれしそうだった。金沢海岸の海水浴場を遠目に見物してから、海浜の道を引き返し、ばっちゃの背について坂下の手前の細道を登っていった。
「あ、神社がある」
「大祐神社だ。祀り神は恵比寿だすけ、海上安全、大漁祈願だおんた」
「空地にコンクリの鳥居がついてるみたいだね。狛犬もいない。あれが社殿? 飯場の事務所だな。ふつうのガラスの引き戸だよ。本殿はふつうの民家だ。これ、手水舎? 防火用水の石桶だね。賽銭箱がないから、願掛けもできない」
「キョウに似てる神さまだと思ってよ。ボーっとして」
 ミヨちゃんが噴き出すと、ばっちゃも顔を傾けて笑った。
 合船場に戻った。飯台が片付いていた。古びているが拭きこんだ台所の板の間に、空になった味噌汁鍋が置かれ、箸や茶碗が浸かっている。
「おめんどの食器も、うるがしておいだすけ。どんだった、娘さん、野辺地は」
「幼稚園と、大通りと、野辺地中学校と、海を見てきました。すてきでした」
 ミヨちゃんはじゅうぶんに満足していた。だから、じっちゃがまた持ちかけだしたとりとめのない四方山話にも上機嫌で付き合った。佐渡で死んだトキから農薬水銀が見つかったとか、世界じゅうで飛行機が落ちてるとか、三沢が大火に遭ったとか、ハガキや封書の値段が上がって手紙を書くのも難儀になったとか、あと二、三年もすれば野辺地にも水道が通るとか。
「便利になりますね」
 ミヨちゃんはときどき合いの手を入れるだけで、聞き役に徹しながらただにこにこしていた。ばっちゃは話に加わらず、自分の部屋で何か雑用をしていた。


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