百

 四月十三日水曜日。朝からひどく冷えこみ、窓の外に粉雪が舞っている。庭土に触れたとたん積もらずに融ける。天気雪。三月であれ四月であれ、桜が咲くまで青森は冬だ。
 山口と洗面所でいっしょに歯を磨きながら、弁当の話をすると、
「それはありがたいな。お礼に、中間テストのときは社会と数学のヤマを教える」
 と言った。
「お礼はおばさんに言って。しかし、ヤマはありがたいな」
 と私は彼の口調をまねた。
 玉子焼とウインナー、焼きたらこにキンピラ、辛子ナスを添えた弁当を食い終わったころから、抜け上がった青空になった。やがてその青空に涼しげな雲がたなびいた。
 英語特別クラスの授業は、今年は水曜日の最後のコマに当てられていた。私は移動のために正規のクラスを出て、秀才ぶった連中といっしょに廊下を歩いた。知った顔は少なかった。相当入れ替わったようだ。古山と鈴木睦子と一戸の顔はあった。二年になって初めての特別授業だ。少しばかり胸が弾む。古山が寄ってきた。
「ひさしぶりだっきゃ。山口とはうまくいってっか」
「ああ、もちろん」
「あいつ、英語昇格しねがったな」
「関係ない。いずれ山口は、総合の一番になるよ。夏までにね」
「ガリガリやってんのが。だども一番は無理だべ」 
 黒板の大きい百人教室が、ふつうの六十人教室に変更されていた。百人が六十人にふるい落とされたのだと古山が言う。特別教室は、今年はますますインテリくさい雰囲気に満ちていた。古山はすぐその雰囲気に溶けこんでいった。
 予想どおり、メインのリーダーは独学にまかせて授業では使わず、一人十五、六行のサブリーダーの暗誦と日本語訳になった。一戸、梅田と当たった。
 二重まぶたの深く切れこんだ美少年の一戸は、難しい英文を何行も暗誦した。一年のときと同様、教材をいっさい見ていなかった。見事な暗誦をつつがなく終え、滔々と訳し下ろしていく一戸のすばらしい日本語に私は舌を巻いた。
「……草むらを三十メートル余り入ったところに、あの大きなライオンが、地面に低く身を伏せて横たわっていた。両耳をぴたりと背後に伏せ、からだの動きといえば、黒いふさのある長い尾が、かすかに上下にヒクついているにすぎなかった。この隠れ場に到達するなり、ライオンは捨て身の反撃に出る気になっていた。大きな腹を撃ち抜かれて、彼は吐き気を催し、肺を貫通した傷で衰弱しつつあった。息をするたびに、薄い血の泡が口もとに吹き出していた。横腹は濡れて熱くほてり、黄褐色の毛皮にあいた小さな弾創に、早くも蝿がたかっていた。憎悪に燃えて細くすぼめられた大きな黄色い目は、まっすぐ前方を見据え、息をするにつれて苦痛が襲うときだけ瞬きをした。そして、その肢の爪は日に焼かれた柔らかな土を深くえぐっていた。いまや彼のすべてが、苦痛と吐き気と憎悪に加えて、残る体力のすべてが、襲撃に備えたひとつの絶対的な意志に凝縮されていた。男たちの話し声が聞こえた。彼らが草むらに踏みこむなり突進しようと、ライオンは、あらんかぎりの力をふり絞って突撃に備えた。彼らの話し声が耳に入った。ライオンの尾は硬直して、上下にヒクついた。そして、彼らが草むらに入りこむと同時に、ライオンは咳こむような唸り声をあげて突進した」
 水晶のように美しい日本語だった。ただ英文の暗誦に比べて、訳しおろすスピードが少し緩慢なのが気になった。私は一戸の様子をこっそり盗み見た。彼は立って顔をうつむけていたが、その視線の先、リーダーの教材に隠れて、虎の巻とおぼしき文庫本がちらっと見えた。
 放課後、五分咲きの桜を眺めながら、ふだん足を踏み入れない校舎裏を歩いた。いずれ永遠にこの学校を去っていくことを意識し、湿った土の香りを記憶した。校庭に出て、野球グランドにそびえる死の行軍の宿舎を見やり、首をめぐらせて、ビニールシートをかぶせてある五十メートルプールも目に焼きつけた。
 練習を終えてアパートに帰ると、封筒が部屋の戸に挟まっていた。送金の現金封筒ではない母からの手紙だった。野球のことを嗅ぎつけられたか? それともカズちゃんのことを知られたか? 何を言われてもめげるものではない。心を決めて机に向かった。開封する前に、ストーブを点けた。静かな気持ちで封を切り、便箋を開く。

  前略
 春に転入試験を行なう高校はありません。冬もほとんどなく、行なうとすれば夏だけでした。残念なお知らせですが、旭丘高校には転入試験そのものがありません。明和高校も、県外から家族が移住する場合のみ適用されるとのことでした。
 でも、そろそろ引き揚げどきでしょう。青高側にも確認の電話を入れました。石崎という担任の先生とお話して、おまえは筆頭クラスの成績で、この調子で進めば東大にもいけるだろうとのことでした。青森高校からの東大合格の数を尋ねたところ、五名から八名との回答でした。その程度の高校は名古屋にもたくさんあります。
 おまえが野球で活躍していることも義夫から耳に入れ、石崎先生に確めました。やっぱり野球をやっていたんですね。文武両道、野球をしていても立派に合格できます、と先生はおっしゃっていましたが、憶測にすぎず、信用できません。スポーツクラブは練習が厳しいのです。いずれ学生生活にひずみが出ます。私も練習の厳しいスキー部に属していた経験から忠告することができます。過激な練習に打ちこんでいたのでは勉強どころではありません。
 所属場所を変えて、新規巻き直しを図ってください。いまこそ都会の高校で、雑念なく勉学に打ちこむときです。野球は大学を卒業し、きちんと社会に出てから趣味としてやればいいでしょう。とにかく徹底して勉学に励み、東大合格を確実にしてください。この数カ月のクラブ活動には目をつぶることにします。
 夏にいくつかの高校が転入試験を行なうことを確認しました。おまえを受け入れる態勢はすっかり整いました。飛島建設の所長さんにも諮ったところ、何よりも子供は親のそばで暮らすのがよい、親子ともども精神の安定につながるとおっしゃいました。あの奥山先生を訪ねた夜のおまえの気持ちを思い返し、どれほど名古屋に戻りたかったろうと胸が痛みました。よく辛抱しましたね。これまでは私にも至らない点が多々ありました。これからは心を入れ替えて、おまえの勉学生活を支えようと思います。
 諸々の高校の転校の条件などを調べ、近いうちにまたお便りします。転入試験はとても難しく、どの高校も一名か二名採るだけで、年度によっては募集なしということもあるそうです。おまえも心して、そろそろ、野球からは身を引いておいたほうがよいと思います。
  草々 郷殿                          母より

 信じられないほどわがまま一方の手紙だった。そしてまぎれもない脅迫状だった。山口の部屋に走った。
「ついにきたか。まちがいなく夏に名古屋に連れ戻されるな。周りはおふくろさんに味方する。世間の人間は、子供というものは親のそばにいるのがいちばん幸福だと信じてるからな。おふくろさんのことだ、初志貫徹するだろう」
 予想し、計画までしていたこととは言え、あの秋と同じ水のような気分がやってきて全身を満たした。まだ右腕が使えるとあきらめずに思い直して、自分を奮い立てた日のことを思い出した。あの気持ちを取り戻せばいい。野球を奪われたら―私には何もない。野球を失いさえしなければ、私にはすべてがある。最終的に野球を奪われない道を歩こう。
 食堂で山口と二人、寮生たちから遅れて晩めしを食った。箸を置いて、明るい目で山口が、
「さ、和子さんに連絡だ」
 下駄を鳴らしてカズちゃんの家に向かう。玄関に呼びかけ、暢気な様子で出てきたカズちゃんにことの次第を言った。
 カズちゃんは居間のテーブルで母の手紙を読んだ。安らかな表情をしている。
「予想どおりね。飛島の人たちが思わぬ落とし穴だったけど、想定の内。自分の考え方がいちばんだと思ってる善人にちょっかい出されたら、おしまい。節子さんも大将さんも姿を消して、もうじゃま者が一人もいなくなっちゃったし、まちがいなく、夏からは名古屋で暮らすことになるわね。石崎先生という人に罪はないわ。弟から連絡がいったんだもの、とぼけるわけにいかないでしょう」
「しかしこの手紙はひどいな。人のことを将棋の手駒ぐらいにしか考えてない。使い勝手の悪いときは突き放しておいて、自分の思惑が軌道に乗りだしたとなると、バンバン使ってきやがる。独裁者のやり口をついに目のあたりに目撃したよ」
 カズちゃんはにこにこしていた。私はその笑顔を見て、心の底から安堵した。
「名古屋そのものは大好きな土地だし、このまま高校が変わるだけなら何の不満もない」
 カズちゃんが、
「せっかく、奪われたものをコツコツ拾い集めてたのにね。……だいじょうぶよ。これが最後の峠。もう名古屋のころとは事情がちがうの。キョウちゃんは身ぐるみ剥がれないほどの有名人になったのよ。とにかく、転校まで全力で野球をして。それからしばらくお休みしましょう。ほんとにだいじょうぶ、一年や二年野球をしなくても、だれも忘れないから。みんな、キョウちゃんが野球を再開するのを手ぐすね引いて待ってるわ」
「まあ、そうだろうな。どんな妨害があっても、みんなで団結して、おまえに野球をさせるようにするだろう」
「そうね、皮を切らせて骨を断つ。骨切り包丁は、東大」
「この手紙の、募集なしってのに一縷の希望を託してみようかな」
「未練、未練。どこかの高校はかならず募集してるものよ。身近に置いて監視したいとなると、岩塚の飯場の近くなら、中村高校。それとも西区の名古屋西高かしら。旭丘や明和ほど名門じゃないけど、名西(めいせい)は進学校よ。一人二人は東大に受かると思う。お母さんはそこに一縷の希望を託すでしょう。野球をやりつづけるよりはずっと東大合格の可能性があると考えるはずだから」
「神無月にも関係ないことだろう。野球をしないならどの高校でも同じさ。どこから受けたって、おまえは東大に受かる。和子さんの言うとおり、ここが最後の峠だ」
「窮屈に思わなくてもいいのよ。いままでどおり身軽に行動してね」
「おまえが秀才を通して東大合格をにおわせてるかぎり、たとえ身軽に行動しても彼女は看過するよ。野球以外はな。―彼女はいまおまえに野球をやめさせたいんだよ。人間が才能や素質でできあがってるなんて信じられないんだ。無という人間のポケットに、学歴や肩書が金のように出たり入ったりする、つまり無という人間の価値が、持ち物の足し算引き算で増えたり減ったりするものと思ってるんだろう。彼女にとってスポーツという遊びごとは、学歴や肩書きほど価値のある持ち物じゃない。さあ、白旗は揚がった。トーナメントが終わったら、当分野球はお預けになる。夏の終わりまで思いっきりやれ。俺も転校の準備だ! 自由よさらば! まず、東京の高校にどうしても受からなくちゃいけないな。俺の場合、狙いは、青高以上の名門校だ。俺みたいな凡夫は環境から固めていかないとな。さしあたり、東京の名門高校ですぐ名前が浮かんでくるのは、名にし負う日比谷高校、早稲田の戸山高校、実家のそばの都立西、それから新宿高校ぐらいか。実家のそばというのは安易だな。都立西はオミット」
「そこまで考えるか、一瞬のうちに」
「ああ、決断は思考じゃないからな。一瞬で決まる。しかし、いちばん痛手を被るのはおまえだろう。だいぶ長いあいだ野球を奪われることになるぞ。胸にくるものがあるな」
 私は、
「これ……決定だよね」
 カズちゃんが、
「戻ってきてほしいとなったら、お母さんはどんなことをしてもやり遂げるわ。あらゆる嘘もつくでしょうし、周囲の人を巻きこんで手のこんだ根回しもするでしょう。転入試験の日程が決まったら、一度野辺地にいってこないといけないわ。遠くないうちにお爺さんお婆さんにもお母さんから連絡がいくはずよ。キョウちゃんにいちばん去ってほしくない人は、お祖父さんお祖母さん。正直に話して、わかってもらってね」
 気が重かった。ばっちゃやじっちゃの前で、親の意見に唯々諾々と従う覇気のない男としてうなだれていなければならない。母の特異な性格は、彼女と長年暮らしたことのない相手に百日かけて説明しても理解してもらえない。理解されない説明は億劫だ。
「名古屋にいるあいだは、まちがいなく野球をさせてもらえないことになるでしょう。でもだいじょうぶ。最後の成功を保証するわ。今年うんと野球で目立っておきましょう。そうすればかならず道は開けるから。とにかく、一年半のあいだに野球関係者に忘れられないように、しっかり野球をやりつづけなさい。ただ、どんな高校にいっても東大に受からなくちゃだめよ。それで、スッパリお母さんを断ち切れるんだから。いままでどおり、坦々とすごしましょ」
 さばさばした顔で言った。転校して、野球を休止し、東大を目指す―この迂回が最善策であることを、私はあらためて肝に銘じた。


         百一

 四月二十三日土曜日。
 一本道の桜が満開になった。青森歩兵第五連隊時代に植樹されたと、石崎がホームルームで言っていた。ピンク一色。遠くに八甲田連峰。
 二時から青高グランドで青森山田高校との練習試合があった。対戦こそしたことはないけれども、青森有数の強豪高であり、去年のベストフォー進出校だと知っている。東奥義塾に負けて準決勝で姿を消していなければ、青高と対戦しているはずのチームだった。部室の気温十三度。風あり。ライトの金網の立木の枝がそよいでいる。
 一塁側の石のベンチ後方に控える新人たちが全員ユニフォーム姿なのが壮観だ。レギュラーは無番のユニフォームに守備位置どおりの背番号布を軽く縫いつけた。カズちゃんが裏からかがった正方形の背番号布7は、縫い目がまったく見えない出来映えだった。胸のロゴと同じ空色のフェルトをミシン掛けするのは公式戦以降になる。ショート控えの七戸は10番をつけ、背番号1の沼宮内以外のピッチャーは11番から13番、控えのレギュラーは14番から19番までをつけた。そのほかの選手は無番だった。秋がくれば、有番無番を含めて、せっかく誂えたユニフォームを着て試合に出ることもなく何人かが消えていく。
 レフトの金網の外にぎっしりと立ち見の人たちが詰めかけた。今回は、雛壇のようなスタンドは作られなかった。練習試合第二戦では作られるだろう。去年のトーナメント経験者は、私と室井だけ。それでも私たちは準優勝の勢いを信じて、青森山田を少しばかりなめてかかった。
 しかし急造の投手陣が四人とも打ちこまれ、九対三で負けた。打線も急ごしらえだったせいで、出塁したのは金と四方の内野安打二本、室井のフォアボール一つのみ。三点は私のソロとツーランだった。公式のトーナメントでないので、私はこの敗戦を何とも思わなかったが、室井たちはかなり前途を危ぶんだ。
 レフトの金網の学生たちに雑じって、カズちゃんとユリさんの姿があった。ユリさんは紺のスカートに黄色いセーターを着、カズちゃんはトレパン上下の白一色で、二人は肩を並べて立ち、黒い学生服やセーラー服の中に混じってまぶしく目立った。ホームランを打ってベースを回るたびに、彼女たちは盛んに拍手をした。
 試合中、報道陣は私の写真を撮りまくったけれども、試合後に野球関係者が私に声をかけてくることはなかった。
 相馬が集合をかけて、厳しいことを言った。
「ぜんぜんなってない。去年の準優勝校だからっていい気になるな。同じメンバーじゃないんだからな。先輩たちとは月とスッポンだ。なんだあの内野守備は。二遊間がザルじゃないか。外野の返球も、的確だったのは神無月だけだ。考えながら守備をしろ。ピッチャーもバッティングもまったく素人だ。ひと月で何とかしないとほんとに夏は危ういぞ。室井、四人の投げこみと、素振り、バッティング練習を増やせ。バントなんか、打てるようになってからだ。この調子じゃ一回戦ボーイに逆戻りだぞ」
 去年、選手たちに感謝しながら感涙を流した男が、新人たちを好きなだけ叱って、ぷりぷり引き揚げた。みんなが悄然と帰宅していったあと、部室でスコアブックをしょんぼり眺めていた室井に尋いた。
「室井さんはスコアブックまでつけてるんですか」
「まンだマネージャーがいねすけな」
「このあとの練習試合の予定は?」
「ぜんぶベスト十六だ。五月二十一日は五所川原商業だべ、二十八日に六ヶ所高校だべ。六月は雨で流れる日が多いことを想定して、土曜日はぜんぶ入れでる。十和田工業、青森商業、弘前高校、青森工業。十和田と弘前は遠征になる」
「あと六つですか。少なくとも五割の星でいきたいですね。小笠原を先発で固定したらどうですか。きょうも、敵はあいつの球にいちばん詰まってた。内角にいいボールを持ってる。速いのは三田さんだけど、コントロールが悪すぎる。すぐランナーを溜めてしまう。沼宮内さんと佐藤さんは、コントロールはいいけど球威がない」
「小笠原に投げこませて、あと三、四キロ速い肩を作るが。いいカーブはあるし、エースにしてもいいかもしれね。三田には変化球を一つ覚えてもらえば、コントロールがつぐと思う。したら、もう一本の先発がでぎ上がる。沼宮内と佐藤にはリリーフでいってもらうべ。球が遅いわけでねがらな」
「あしたから小笠原に投げこませてください。期待されたら張り切るやつだから」
「そうするじゃ。バッティング、どうすべ」
「金さんを三番、ぼくは四番、室井さん五番、四方を一番に固定しましょう。二番木下さん、六番山内さん、ここも固定のほうがいい。やる気が出る。柴田さんと吉岡さんは、七番、八番あたり。四方の代わりに七戸さんを入れる場合は、やっぱり一番かなあ。ただ七戸さんは先発のほうがいいと思います。セカンドで……」
「吉岡をベンチに下げるのが」
「七戸さんのほうがシュアです。肩もいいし、四方との連繋プレーがスムーズにいきます。酷なようですが、吉岡さんは……」
 短身痩躯、奥山先生づらのセカンド吉岡は、守備に精彩がなく、バッティングも非力だった。
「わがった。言っとぐ。ピンチヒッターで出すべ」
「ひと月、それで練習しましょう。勝ち進めば、不満も引っこみます。相馬先生から言ってもらえばいいでしょう。あんなに怒ったわけですから、みんなも納得するでしょう」
         †
 カズちゃんの野菜カレーを食べ、風呂にゆっくり浸かったあと、二人で新町の映画館にいく。『紀ノ川』。あまりにも退屈で、三時間の映画を一時間ほどで出た。
「男を描かないで女の一生を描こうなんて、本末転倒ね。原作も退屈だったけど、映画はもっとひどい」
「原作読んだの」
「うん。ベストセラーだったから、つい。とにかく、男が描かれてないわ。この世に女が自然発生的に生まれてきて、女だけに人生があって、川のごとく流れるなんてありえない。人生は川とちがって、起承転結がハッキリしていないものよ。とつぜんほとばしって荒れ狂う恋じゃなく、めりはりのハッキリした中性的な伝統としきたりに美を感じるのは凡人だけね」
「異常というのは、平々凡々と生きてる人間がいちばん嫌うものだけど、芸術家が彼らに好かれようとしちゃいけないね。いつも異常でいなくちゃ」
 山口の言葉を反芻するように言った。
「そのとおりだわ。それも無意識にね。天真爛漫で、情熱的で、山口さんが言うような憂鬱に満たされていて、いつでも死んでやるというような性格異常者じゃなくちゃ、芸術家として生きる資格はないわ。そういう人の創るものだけが胸を打つし、人生を教えてくれる。異常な人の人生の流れは、要らない丸太やゴミが引っかかって澱んだり、障害物が消えてほとばしったり、坦々とくつろいだりしながら進むから、そのいろいろな相がとても刺激的なの」
 合浦公園まで歩く。夜桜が満開だ。花の下をくぐっていき、山口と飛びこんだ桟橋に腰を下ろす。黒い海の上に月と雲がある。月が雲に隠れ、闇が深まると、波が意外と激しくうねっていることがわかる。それまでさほど大きく感じなかった波の音がいっせいに高まる。
「キョウちゃんが、愛してるって言うとき―」
「うん」
「いたずら半分の言葉が、いままでのどこかで本心にすり替わったという気がする。それがうれしいの。本心というものを持てない人が、ほんのいっときでも本心を持ってくれたから。それが長つづきしたりすると、死ぬほどうれしくなる。いま、キョウちゃんはもういたずら半分じゃないわ。どう感謝していいかわからない」
「いたずら?」
「近づこうとするんじゃなくて、遠ざかろうとする気持ちで触れること。キョウちゃんはほとんどぜんぶの人にそういうことをしてきたのよ。キョウちゃんが近づいて本心で触れたのは、康男さんだけ。でも私の愛が届いて、私にいたずらで触れた手が、どこかで心変わりして、私から離れなくなった。それがキョウちゃんの愛してるって言葉よ。キョウちゃんがその言葉を私にしか本気で言わないことがわかるの。死ぬほどうれしいという気持ちをわかってくれる?」
「うん、とても」
「いつ死んでもいいということも?」
「うん、ぼくがいつ死んでも、いっしょに死ぬということ。だって、ぼくはカズちゃんの心臓だから」
「この先きっと、いつのことかわからないけど。あと何人か私のような、キョウちゃんにほんとうの愛を届けようとする女が現れると思う。その人は姿を変えた私よ。愛してるって言ってあげてね。その人は、キョウちゃんが死んだら自分も死ぬと口に出す人よ。その言葉を聞いたら、その人にいつまでも触れていてあげてね。……一人現れたわ」
「だれ?」
「トモヨさんよ。あの人は私よ。あの人がほしいのはキョウちゃんだけ。離れているときもいつもキョウちゃんがほしいの」
 私はすでに、トモヨさんに愛してるという言葉を告げていた。沖の連絡船の舷灯がポッと浮かんでいる。
 手をつないで堤川の土手道を帰った。
「あしたキョウちゃんが帰ったら、街に出て、学生服を一着買ってくる。名古屋でも着られるように。少し小さくなったわ」
「身体検査で百七十八センチだった。チビスケだったぼくが、よくぞここまで伸びた。もう止まるね」
「もう少し伸びると思う。お金、まだある?」
「たっぷりある。夏までいらない」
「お金の不自由はぜったいさせないわ」
 翌日の東奥日報に私の写真はなく、ざっと試合経過を記した記事の見出しに、《北の怪物始動・2ホームランfutomji》とだけあった。
         †
 五月の連休に入って練習が休みになった。三日の火曜日、奥さんの電話で葛西家に呼ばれ、夕食をご馳走になった。豪華なテーブルだった。いつものとおり、ビールがコップに一杯だけ振舞われた。ミヨちゃんがつぐ。
「一家で風呂上りのような顔をしてますね」
「いままでのものよりだいぶ広くして、赤井さんの部屋の後ろにお風呂を作ったんですよ。ガス風呂。どの部屋からも庭伝いにいけるんです。結婚祝いの主人のプレゼント。神無月さんもお休み前に入ってください。そのあと赤井さんの部屋で休んでください」
「はい、ありがとうございます」
 亭主が、
「ボーナスでね、思い切って作りました。義兄さんのこども考えて、いろいろと把手や手すりも付げました」
「これで迷惑かげなくてすむじゃ。週に二け、アニさんに銭湯さ連れてってもらってだすけ」
 サングラスが天井を向いて笑った。それから心配そうな表情になって、
「今年の滑り出しは、多難だおんたな」
「練習試合ですから、どうということはありません。去年まで青高は弱小で、春も秋も練習試合の申しこみがなかったんですが、ちょっと名が売れたら、挑戦状がどんどんくるようになって。練習試合では全敗に近くなるかもしれませんが、本番でチームが勝ち抜けばいいと思ってますから。ただ、今年は、守備はまあまあなんですけど、去年の阿部さんみたいな大砲がいないんです。マグレで打てそうなのが二人くらい。ピッチャーも含めて相当小粒です。よほど運がないとベストフォーは危なくなりました」
 主人が、
「いい選手は入ってこねがったの」
「野手二人、ピッチャー一人。青高は受験で入るのが難しいですから、限界があります」
「さあ、野球はそこまでにして、せっかく女二人が料理したんですから、せっせと食べてください。神無月さん、好物のお赤飯もありますよ。五日は誕生日でしょう」
「はい、十七歳になります」
「じゃ前祝いで、誕生日、おめでとう!」
「ありがとうございます」
「私も、六月七日に十三歳になります」
 うれしそうにミヨちゃんが箸を取った。
「なんだ、四つしかちがわないのか」
「そうですよ」
 うれしそうに笑う。揚げた白身魚の餡かけがうまそうだ。ミヨちゃんが箸で軟らかい身をこそいで小皿に取り、私の前に置く。それからサングラスにも取ってやった。いつものやさしい心使いだ。


         百二 

 耳もとにますます白髪の増えた主人が、
「神無月くん、大っきぐなったなあ。ここさきたとぎより五センチは伸びたんでねが」
「はい、手足にも筋肉がつきました。特に前腕と、ふくら脛に。二の腕の膂力(りょりょく)は訓練しないとつきません。野球にはあまり必要のない筋肉ですけど―。ぼくは二の腕と太ももの太い女性が好きです」
 奥さんとミヨちゃんが自分の腕を見た。主人まで力瘤を作っている。奥さんが赤飯を盛りながら、
「ミヨ子はあした、神無月さんとデイトでしょ。どこいくの」
 泊まれば、そうなると思っていた。
「タクシーで出町温泉にいってこようかな」
「ふうん、この近所に温泉があるの」
 私が訊くと、奥さんが、
「近所といっても、古川のほうなんです。このあいだ連れてったばかりなんですよ」
「民家がぎっしり建てこんでるところですよね。あんなところに温泉があったんだ」
 父親が、
「ミヨ子はときどき年寄りくせこと言うのよ。ミヨ、神無月くんいやがるべに。あれ、ただの銭湯だべ」
「そうだけど、源泉掛け流しよ。少しお水を足して、四十六度の源泉を四十二度にしてあるの。透明で、少しぬるっとしてて、気持ちいいわ」
「二人で浸かってこい」
 サングラスが言う。
「いやですよ、兄さん、混浴じゃありませんよ」
 奥さんが兄の肩を叩く。ミヨちゃんは赤くなってうつむいた。私はめしにかかった。炊き具合のいい赤飯だった。二杯食った。
「ミヨちゃん、温泉より、野辺地へいってこないか。もう九カ月いってないんだ。奥山先生にも会ってきたいし」
「わあ、いきたい!」
「そりゃいいな。お祖父さんお祖母さんも喜ぶべおん。ミヨ、マコトさんによろしぐな」
「うん」
「神無月さん、私の妹にもよろしく」
「奥山先生の奥さんですね。わかりました」
 主人は赤飯を食う合間に、サングラスにビールをついだ。サングラスはミヨちゃんが盛ってやるあれこれの惣菜を、器用に箸先につまんで口に入れている。私に話しかける。
「なんだな、神無月くん、いよいよ来年はドラフトに指名されるな。優勝でぎなくても、ホームラン王はまぢげねすけな。クニのおふくろさんに知れて、メンドくせことにならねが?」
「プロ志望届を出さないので、指名されません」
 サングラスがキョトンとした。
「すたらこと、神無月くん……なんでまた」
 亭主が首を振り、
「忘れたんですか、お義兄さん」
「おお―そんだったな。知られねことが肝心だった」
 ミヨちゃんと奥さんが、顔に翳りをただよわせた。母にはすでに状況が知れていて、すでに〈メンドくせ〉事情になっているという話はしない。それを話すのは、もっとギリギリになってからだ。サングラスが気を取り直したように亭主に、
「青森県から出たプロ野球選手って、いままでいだが?」
 主人は少し考えこみ、
「去年オールスターさ出た速球ピッチャーの渋谷誠司。弘前商業から国鉄さへったサウスポー。軟式から鳴り物入りで国鉄に入った男でせ、大して勝でながったんだども、王がこれまでで一番速い投手はだれがって訊かれて、渋谷って答えでる。そのお礼かどうかわがんねけど、去年王に二、三本ホームランをプレゼントしてる。……それから、大映の三浦ってのがいるな。稲尾が出てくるまでシーズン最多勝利の記録を持ってだ。たしか五戸高校だったべ。ほがは思い出せねな」
 ほとんど独り言になっている。こういう話題に終始してくれたほうが気がラクだ。
「詳しいですね。ぼくぐらいの身長のホームランバッターはご存知ですか」
 サングラスが赤飯にかかり、葛西さん母子もゆっくり箸を取った。私はポテトサラダと唐揚げを皿に盛った。異様に食欲が湧いてきた。
「んだなあ、王が百七十七、野村が百七十五、中西百七十三。飛距離はスイングスピードの結果ですよ。神無月くんのスイングはうだでぐ速え。一閃という感じだものな。プロでも超弩級のホームラン王になるべおん。もっとモリモリ食って体重を増やせば、十年連続ホームラン王だ」
 こんな目利きが応援にくるのだ。みっともないバッティングは見せられない。
「何回戦までいけるかわかりませんが、毎試合ホームランを打つつもりでやります。見ててください」
 奥さんが、
「この人、先月の練習試合の記事も切り抜いてスクラップブックに貼ってたんですよ。神無月さんの記事はとにかくぜんぶ。私ら母子とは別の意味で大ファンなんです。がんばってくださいね」
 主人はビールをすすり、
「……神無月くん、今年、東大から大洋にピッチャーがへったよ」
「知ってます。新治ですね」
「ンだ。史上初。考えたくねけんど、不運にして、この数年のうぢにドラフトにかがらねということになったら、そういうこども可能だということせ。きみの大ホームランを日本じゅうの人に見せてあげる義務を忘れねよにな」
 主人もサングラスも、私が高校からプロ入りするのを拒否して進学しようとしていることを知っている。しかし、あと数カ月で名古屋に帰るなどとは夢にも思っていない。
「はい。喜んでくれる人がいることを考えただけで、バッターボックスに立つのがうれしくなります。バントをうまくやるとか、外野に犠牲フライを打つとか、ランナー置いてシングルを打つとか、それなりに喜んでもらえるんでしょうが、ホームランの快適さにはかないません。おっしゃるとおり、義務だと思います」
 めしが終わり、茶になった。まだ一人だけ風呂に入っていないというサングラスが立ち上がった。
「へば、神無月くん、まだな。ワ、風呂入ったらすぐ寝るすけ。七月に一度ぐれ応援に連れてってもらうかもしれね」
「背中流してあげる」
 サングラスがミヨちゃんと去ると、主人は、才能があることがいかにすばらしいことか、才能のない人間がどれほど苦労して生きなければならないか、才能を活かさないのは罪悪だ、その罪悪を相殺する方法は、その才能に匹敵する別の才能を見つけることしかない、たぶん見つけたと思った才能は最初のものに比べて格段に劣ったものだ、といったようなことを訥々と語った。茶が何度も入れ替えられた。奥さんも神妙に聴いていた。
「神無月くんはね、いろいろな意味で、人に幸せを与えるように生まれついたんだ。そのことを忘れたらまいね。ワは義務と言ったけんど、それぐれ責任の重いこどだ。義務を果だして挫折したなら仕方ね。人間として最善を尽くしたわげだがら。一生懸命に生ぎでだら挫折するこどもある。……挫折するまでやってけんだ」
 私は感銘し、頭を垂れた。話す気になった。
「ありがとうございます。……じつは、この夏のトーナメントが終わったら、名古屋のほうへ転校することになりました。八月か九月だと思います」
 奥さんがハッと息を呑んだ。
「……母がぼくを連れ戻すと決めたようです。二通手紙がきただけですが、本決まりだと思います。―野球はしばらくお休みです」
 主人は舌打ちして膝を叩き、
「やっぱしそうなったが!」
 ミヨちゃんが戻ってきた。
「おじさんをお部屋まで送ってきたわ。ちゃんと暖かく蒲団を着せといたから」
 私たちの暗い顔に気づき、母親に問い質す。
「スミちゃんがまた勝手を言い出したのよ。神無月さん、名古屋にいっちゃうわ」
 ミヨちゃんは笑いながら、
「ふうん、そんなこと? 思ったとおりじゃないの。私には何の変わりもないことよ。距離が遠くなるだけのこと。心はいつもそばにいるから関係ないわ」
「そうは言ってもねえ。名古屋は遠すぎるでしょ」
「月までだって遠くないわ。どうせ東京に出る人だったんだもの。そんなことより、神無月さんがプロ野球の選手になることのほうがずっと大事でしょ。野球はつづけられるんですか」
 私は首を振った。
「東大で再開することになると思う」
 ミヨちゃんは相変わらず微笑みながら、
「心配ないと思います。もう神無月さんは野球選手としての地歩を築いたし、東大に入るまでマスコミが放っておきません。体力さえしっかり保っておけば、東大でお母さんのじゃまが入らないかぎり、その先はスムーズにいくでしょう」
 奥さんが、
「そうだといいけど……。せっかく青森で、こんなにうまくいってたのに」
「最後にちゃんとうまくいくわ。どんなことも喜んであげなくちゃだめよ」
「ええ、そうよね。そう思うようにするわ」
 主人が、
「青高は、来年はねェな。……もう十時が。じゃ、風呂さへって寝る。神無月さん、あなたの記事は、これからもずっとスクラップしつづけますよ。プロ野球さいってがらもね。へこたれずにがんばってください。あしたの朝はゆっくり寝でればいい」
「はい。じゃ、朝食で。お休みなさい」
 主人が風呂への通路になっている赤井の部屋に姿を消すと、奥さんが、
「とにかく驚きました、とつぜんで……」
「すみません。こちらもとつぜんでした。野球で活躍していることが親族のお節介で母に知られてしまって……」
「十七歳……。二十歳までの三年間はどうしようもなさそうですね。だれも口出しできませんし」
「口出しは逆効果です。逆らうと、一縷の希望も潰されます。しばらく雌伏します」
 ミヨちゃんが、
「それしかないと思います。こんなこと言ってもだれも信じないでしょうけど、名古屋のお母さんの望みは、〈できれば〉神無月さんが完全に潰れることです。お父さんに似た人間が、結局落伍するというのを確かめたいんです。潰れずにやりすごしているあいだに、自分の欲望を叶えてくれるなら、たとえば東大にでも入ってくれれば、それはそれでありがたいということでしょう。自分の血の一部がすぐれているということを世間に誇れますから。野球選手になるなんて、とんでもない話です。そんなことにでもなったら、早く野球界で潰れてほしいと願うでしょうね。野球選手のことを馬鹿だと言ってるんでしょう? 自分の血に馬鹿が混じってるということになりますから、とてもがまんできないでしょう」
「恐ろしいこと!」
「まちがいないと思うわ。一年間神無月さんを見てきたし、話も聞いてきたのよ。よく考えれば、だれだって出せる結論よ。でも、それを乗り越えるのが神無月さんです。かならず乗り越えます。潰されないために名古屋へいくんです。私たちは悲しむんじゃなく、喜ぶべきよ」
 ミヨちゃんが立ち上がり、
「おとうさん、上がったみたい。汚れを掬って、お湯を足してくる」
 ミヨちゃんは赤井の部屋へ入っていった。奥さんが、
「ゆったり浸かれて、洗い場もきれいですよ」
 ミヨちゃんが戻ってきて、
「どうぞ、ちょうどいい熱さです。お風呂から上がったら、りんごを食べましょう」
 母親が心から気の毒そうな顔で、
「ミヨ子、あした神無月さんと野辺地にいったら、抱いてもらえる時間がないんじゃないの?」
「ええ、そうね……」
「いいの? もうすぐ、神無月さんに会えなくなるのよ。女にとってこういうことは、一回一回が大切だと思うの。さ、いっしょにお風呂に入って、神無月さんのからだを洗ってあげなさい」
「はい」
 私が湯に浸かっているあいだ、美しいミヨちゃんは静かにからだを流していた。陰毛の濃い淡いのちがいがあるだけで、相似形のように母親とそっくりな体形をしていた。ちがいと言えば、母親のほうが少し肌の色がくすんでいるくらいだった。湯船に入ってきたミヨちゃんは、私にからだを寄せて神妙な顔をしている。私も神妙にしていた。言葉が出てこなかった。
「自分を信じつづけてくださいね」
「うん、ぜったいヤケにはならない」
「……ほんとは、少しでもお別れするのが身を切るようにつらいですけど、これまで神無月さんが味わってきたつらさに比べたら、私のつらさなんか―」
 私が湯船を出ると、ミヨちゃんは私の背中と前を洗った。すでに勃起していたものを口に含んだ。脱衣場で私のからだの水気を拭くのも真剣にやった。勃起しつづけているものをもう一度含んだ。


(次へ)