百十二

 五月末の中間試験の結果は、英語が一位、国語が二位、ヤマの当てどころがよかったのか、数学の成績は全校の四位だった。しかし、どんなに記憶したとおりに答案を書くことはできたとしても、数学的な閃きのなさを今回もはっきり感じた。どうしてその答えが出てくるのか、根本のところがわからないのだ。しかし、もうそんなことはどうでもよかった。総合成績が全校の三番に昇った。それだけを喜ぶことにした。
 勉強の目標が転入試験一本に絞られたことで、鬱憤や後悔の雑念が薄れていった。怒りと不安も的外れの感情として、胸底深くしまいこまれた。母の存在さえ忘れた。
 ―東大に受かって、プロ野球選手になる。
 自分が単細胞の生きものになっていくのがわかった。
 山口は公約どおり首席になった。日本史と世界史と数学が一位だった。中三の春、康男と同じクラスになったとき思わずバンザイをしたように、廊下の貼紙の前で私はバンザイをした。人生の正しい軌道から逸れていることはハッキリ感覚していたけれども、目標地点が一つしかないことに安堵した。
 夕食のとき山口がニヤつきながら言った。
「見てたぞ。驚いたぜ、バンザイなんかしやがって。でもサンキュー。勉強すれば一番になれるんだな。正直なところ俺は、並みいる猛者たちの中にいて、この成り行きに恐怖すら感じるほどだ」
「大げさだな。いつもマグレだと思ってれば、怖くないよ」
「そうだったな。俺の数学は完全にマグレだが、おまえの数学もマグレか」
「あたりまえだ。大マグレ。山口が教えてくれたヤマが一問当たったことも大きい。たしかに、不得意な数学で四番を取ったという事実は自尊心に媚びるものがあるけど、そんなものは自分の思考生活に関係しない僥倖にすぎないからね。―でもそんな僥倖も、ぜんぶ雑念だ。すべて野球をやるための途上だ。山口はギターをやるための途上だ。忘れないようにしよう」
「もちろんだ。おまえは野球、俺はギター。格好つけて言えば、生命反応の酵素。それがないと死ぬ」
「ぼくは深夜の森へ直行だ。山口は東大出のエリートへ直行」
「死、か。でも、もう心配ない。方向定めたから、生活がぎくしゃくしなくなった」
「ぎくしゃくすると、倦怠に陥るからね」
「野球やギターは倦怠の特効薬ということになるか」
「いや、特効薬にはならない。倦怠の原因は、一つじゃないから。森へいったのも、野球に対する不安のせいだけとも言えなかったからね。あれこれ考えこんでわけがわからなくなったからだよ。死にたくならないための特効薬は、自分を満足させるものへの一徹な入れこみだと思う。野球をすることと、人を愛することしか自分を満足させるものはないと思いこめば、倦怠なんて起こりっこない。それをするのに自分の頭の中なんか振り返っていられないからね。ぼくは野球が好きで、その才能を見せると喜ぶ人がいる、ぼくは人を愛することが好きで、その愛を感じて喜ぶ人がいる、ってね」
「そうだな! 常に満足することに向かって突き進み、入れこんでいれば、人間はくだらない思考だけに停滞しなくなる。倦怠というのは思考への没入だろうな」
 山口はこの上なく私にやさしく笑いかけた。
         †
 五月二十八日土曜日に油川へ遠征した青森北高校戦は十四対四で五回コールド勝ち、六月四日土曜日の十和田工業との遠征試合は、十一対七で勝った。ホームランは二本ずつ打った。
 青森北高校への遠征は、去年龍飛へいった国道40号線を青森湾沿いに油川まで三十分ほど走っただけで、とりたてて見るべきものはなかったが、十和田工業へのバスの旅には印象深いものがあった。40号線をひたすら南下し、田舎路に飽きたころ、周りを牧場に囲まれた水清らかな細い沼に至る。小丘の道から見下ろしながら過ぎる。沼周辺に咲き誇るレンゲツツジが目に鮮やかだった。相馬が、
「グダリ沼だ。沼と名がついていても、湧水池だから川に近い景観だね。きれいだなあ」
 そこから十和田市の北端を舐める県道へ曲がりこみ、緑濃い森と畑と草原と、遠く山景を眺めながら走り、しっとりと趣のある七戸町に入った。
「七戸さん、この町の出身というわけじゃないですよね」
「関係ね。オラは純粋に青森市内だ」
 銀行と郵便局が目立つ閑静な街並を走る。右遠方に七戸高校を見やる辻から幾曲がりかして十分ほど走り、二階建て木造の十和田工業高校に到着した。一時間半弱の絶景の旅だった。十和田工業高校のグランドは小中学校の校庭のような造りで、百メートル先の外野ネットの高さが十メートルもなく、ネットの向こうは住宅が迫る幅狭の緑地だったので、ホームランボールの飛距離を心配したが、運よく二本とも緑地に落ちた。記録に残らないホームランが、記憶の中に溜まっていくのがうれしかった。
 帰りの旅は、みんな寝ていた。知ってか知らずか、相馬は私に何も話しかけなかった。
         †
 六月十一日土曜日に青森商業に六対一で勝ち、カズちゃんの家から戻った翌朝、そのままアパートに帰らず散歩に出て、これまで好んだ場所や、自分だけに意味を持つようになった堤川沿いの岸辺を歩いた。歩きながら、この一年余りのあいだに印象に残った人びとを思い返した。すると、別離が惜しまれる顔がいかに多いかに気づいて驚いた。
 いままでたまにしか意識に上(のぼ)せなかった彼らも、もうすぐ別れるとなると妙に気がかりになった。木谷千佳子、古山、佐久間、松岡、鈴木睦子、小田切、藤田、奥田……。いよいよそのときが近づいてくると、未練というのではなく、淡い感傷から、この地にいつまでも留まりたい気がしてきた。
 部屋に戻り、トモヨさんに宛てて便箋一枚の手紙を書いた。

 すでにカズちゃんから連絡がいっていると思いますが、八月の上旬に、名古屋西高校という西区の高校を受験することになりました。受験前にカズちゃんが前もって名古屋に引き揚げ、新居を見つけるまでのあいだ北村席で待機することになります。名古屋西高の募集は一名ですが、きっと受かると思います。落ちたら、その先の予定は母まかせです。
 健児荘の庭は手入れのいい草花に恵まれていて、去年ここにきたばかりのころには百日紅が咲き、晩秋には楓が赤く色づきました。霜の降りた朝に山茶花が淡くおぼろな桃色に咲き、そして、寒空の下に桐の花があざやかな紫に開きました。それをもう一度見ることなく、この土地を去ります。あれこれ思い出し、去りがたい気持ちになっています。トモヨさま。郷。
         †
 五月の下旬から六月の上旬にかけて、青高チームは、メインにバッティング練習を据えて精を出した。山内と金にかなりの長打力があるのはわかっていたが、それに磨きをかけた。ときどき大きいのを飛ばすのは室井と柴田だ。めぼしいのはその四人だが、集中的な特訓のおかげで、全員が伸びのびと大きくバットを振れるようになった。
 六月十八日、曇のち晴。弘前へ遠征する予定だったが、弘前高校がわざわざ青高にやってくることになった。有名な白亜の校舎を見たいのだと言う。県下有数の受験校同士の戦いということで、葉桜の並木に沿って、頑丈な五段のスタンドの設置が始まり、きっちり十一日と十二日の土日二日間で組み上がった。レフト側にしか見物の空間がないので、センターからレフトにかけて長い外野スタンドができあがった格好だ。ここ数日はそのスタンドで、応援団とブラバンがリハーサルをしていた。
 弘高の監督の申し入れで、この試合にかぎり、五回コールドではなく、七回コールドの取り決めになった。勝敗以上の興味をどちら側の観客も抱いていた。私のホームランを見ることだった。それは彼らが向けるカメラのひっきりなしのシャッター音でわかった。
 両校の醵金で、高校野球連盟から四人の公式審判員が雇われた。白長袖シャツに紺色ズボンの立派な服装をしていた。トーナメントには県の高野連に所属する公式審判員が配置されるが、練習試合に関わることはまずない。伝統の一戦ということで特別に出てきてもらったと相馬が言う。
「伝統なんだっけが?」
 一年生の四方が目を丸くして訊く。
「きょうからね」
 相馬が涼しい顔で言う。線審は両校の一年生が務めることになった。
 先発は小笠原。七回以上の長丁場なので、リリーフに沼宮内、三田、佐藤の三人を待機させた。三、二、二に割り振ったイニングを投げさせる予定だ。ベンチ前で相馬がマネージャーに、
「長田、どうなんだ、弘前の打線は」
「大砲はいません。バットを短く持ってコツコツ当ててきます。出塁するとかならず盗塁します。下手投げのエースピッチャーは曲者です。百二十キロ後半のボールが下から浮いてきます。ストライクからボールへ逃げていくボールもあります。みんな打ちにくいんじゃないでしょうか。神無月さんも手こずると思います」
 しっかりした標準語であることにあらためて気づいた。山口と同じように、転勤する父親にくっついてきた都会からの移住組かもしれない。
「コールドはなさそんだな」
 柴田が言った。長田が、
「浮いたところへうまく出会いがしらで、というのがありますよ」
「叩きつけていぐか。野村克也の打ち方よ。どんだ、神無月」
 一塁手の木下が言う。
「引きつけるとスカを食うと思います。スピードのあるソフトボールだと思って、ふだんの自分のスイングをすればいいんじゃないかなあ。掬っても、叩いても、芯を食えばホームランになる確率は高いですよ」
 センターからレフトにかけて、五段のスタンドが学生と教師たちでぎっしりだった。カズちゃんと山口がスタンドの脇に立っているのが見える。応援にはかならず赤い服を着ていくと言っていたから一目でわかる。
 きょうもしかつめらしく、日焼け顔の連中がネット裏に詰めている。
 吉岡のバッティングの調子が上がってきたと室井が相馬に告げたので、七戸の代わりにセカンドの守備につくことになった。三周り打てなかったら交代させると釘を刺され、
「一本は打ぢます!」
 と張り切って応える。スタメンを外されて以来の吉岡は、これといって目に留まるほどの進歩を見せていたわけではないので、室井がキャプテンらしく気を使ったのにちがいない。吉岡がヒットを打てば、この二戦でめでたくチーム全員安打になる。その吉岡が切実な声で言った。
「オラも七戸も今年しかねすけ、必死こがねばな」
「ぼくもですよ」
 私が言うと、吉岡はやさしい顔で、
「神無月は来年もあるべ」
「野球をやらせてもらえれば―」
「だあ、おめにやらせねもんだってが。ひょっとしたら来年がらプロだんで」
 そんだ、そんだ、と部員たちが言った。相馬がじっと私を見つめていた。
「みんなにお願いがあるんですが」
 みんなこちらを見た。
「ぼく、中学校で金太郎と呼ばれていたんです。漫画のスポーツマン金太郎です。きょうから神無月でなく、金太郎と呼んでくれませんか。当時を思い出しながら野球をやりたいんです」
 金太郎さん、と四方があこがれの目で言った。金太郎、金太郎、と何人か声を上げた。
「よしわがった。金太郎、きょうは何本いぐ?」
 イガグリくん室井がおどけた顔で訊く。
「第一打席でいけたら、二本か、三本。いけなかったら、一本だと思います。ヒットは打ちますよ」
 大拍手になった。何だという感じで、弘前高校の選手やチームスタッフが三塁側のテントからこちらを眺めた。視線に敬意がこめられている。相馬が弘前の監督とうなずき合って、主審にメンバー表を渡しにいった。双方、二枚ずつ渡している。主審は双方の一枚を交換して二人の監督に渡し、残りの二枚を畳んで自分の胸ポケットに収めた。去年から気になっていたが、メンバー表交換と言うものらしい。
「小学校や中学校のころからあんなことやってましたか?」
 山内ベン・ケーシーに訊く。
「中学校までは、練習試合では省略する。本試合ではやる」
 まったく知らなかった。審判員四名と両チーム監督がホームベース前で一列になり、バックネットを向いた。新聞カメラマンの要請で写真を撮るようだ。パシャ。
 相馬は受け取った紙をマネージャーの長田に渡した。長田はスコアブックに何やら書きこんでいる。
「何してるんですか」
「相手チームの名前、背番号、ポジションを書き写すんです。大学野球以上になると、ちゃんとしたスコアラーがやります」
 ジャンケンに勝って先攻になり、弘前高校が守備についた。場内放送がないので選手の名前はわからない。
 サブマリンの腕がしっかり振れている。速い。まずその印象がきた。長田の報告とちがって、百三十キロは確実に出ている。変化球も速い。ストレートは浮き上がってくる。浮き上がる前に打たなければならない。叩きつけても芯を外れる。掬い上げたらなおさらだ。このチームはバッティングさえよければ勝ち進めかもしれない。きょうはコールドを狙うのは難しい。狙うには先頭打者吉岡の役割が重要になる。彼がヒットを打つか否かでサブマリンに与える印象が決まる。ピッチャーの心理しだいで、苦戦か楽勝かも決まる。
 荘重なエール交換が始まった。青高校歌の演奏に女子学生の歌声が混じる。盛んにフラッシュが光る。


         百十三

「プレイボール!」
 アンパイアの声がするどく空に昇った。吉岡が胸を張ってボックスへ歩いていく。アンパイアに帽子を取って礼をする。私はあれをやったことがない。去年の夏も、私もチームメイトも一度もやらなかった。あれをやると神経が散漫になるし、審判も応答に困るだろう。相馬に訊く。
「あれは礼儀としてやるべきなんですか」
「要らない。高野連も、打席に入る前の球審への礼をあまりやってほしくないようだ。試合前の整列でも挨拶をしないようにという通達を出してる県もある。ルーティンでやる高校が多いが、禁止することはできない。吉岡は気を引き締めるつもりでやったんだろう」
 室井の目が確かならば、吉岡の三振はない。当たってきたということは、好球を選択できるということだからだ。吉岡の足がふるえている。手柄を上げようとしている。
「吉岡さん! まず、三振しちゃおう!」
 私はとっさに叫んだ。手柄と関係なく何でも振ってやるという気持ちになってくれれば大成功だ。吉岡は下がり眉でこちらを見た。意気阻喪した顔ではなく、冗談じゃないという表情だった。初球、外角へカーブ。ストライク。二球目、内角へ浮き上がる直球。ボール。よく見ている。三振はない。三球目、また外角へ逃げていくカーブ。ボール。
「ナイス、セン! ナイス、セン!」
 私は声を張った。次は長打になると確信した。四球目、真ん中低目から浮き上がる直球がきた。シンプルな配球だ。吉岡は上がりハナを思い切り叩いた。レフトポールに向かって舞い上がった。ファールか。いや、切れない、切れない。
「おい、いったぞ!」
 相馬が叫ぶ。金網にぶつかる音がした。レフトの一年生線審がポールに向かって両足を四股(しこ)のように踏ん張って確認すると、右手をグルグル回した。吉岡が飛び跳ねるようにして一塁ベースを回っている。
「ウソだべや!」
 ベンチの連中が叫びながら飛び出した。真っ先に飛び出した室井に私もつづいた。吉岡は石のベンチ前で手荒い祝福を受けながら、私に向かって抱きついてきた。
「金太郎! おまえのひとことでふるえが止まったじゃ!」
「初ヒットが初ホームランか!」
 相馬に尻をこぶしでどやされる。三振しちまおう! とベンチが怒鳴り合っている。二番打者の金が、三振しちまおう! と叫んで飛び出していった。ひょうきんな男だ。バットでセンターを指している。ベーブルースのまねだ。二球つづけてすごい空振り。出っ歯でない小山田さんが懲りずにセンターをバットで指す。三球目、外角へ逃げるカーブ。ブン! 運よく当たった打球がピッチャーのグローブをすり抜けて、センター前へ転がっていった。バットを指した方向なので、予言にまちがいはない。ベンチが大笑いになった。弘前ベンチも笑っている。ブラバンのかしましい演奏が聞こえる。ずっとつづいていたにちがいない楽器の音がいま聞こえてきた。ひどく緊張していたことがわかった。
「山内さん、第二号!」
「オッケ!」
 山内はじっくり選び、ツースリーまで粘った。ホームランを狙っている。その覇気はベンチの全員に伝わった。宮中のデブシのようなタンク型の全身から気力がみなぎる。顔はベン・ケーシーだ。その不釣合いが何とも言えない。
 残念なことに六球目は内角に落ちるシュートだった。打てばサードゴロゲッツーだ。思い切り掬い上げた。ギシッとバットにヒビの入った音がした。フラフラと上がったボールが意外に伸びていき、レフトが一・五メートルのコンクリートフェンスに手をかけた。ベンチがざわめいた。
「これもいったが!」
 小笠原がテントから走り出て、ポール方向のラインを見やりながら、入れ、入れ! と叫んだ。打球はジャンプしたレフトのグローブの先にいったん収まってから、ポロリと落ちた。グローブごと金網にぶつかったのだ。
「惜しい!」
 小笠原が地団太を踏む。しかし捕らなければホームランだった。長打になる。ホームランだと思ってゆっくり走っていた山内はセカンドへしかいけなかった。捕球されると思った金も三塁止まり。ノーアウト二塁、三塁。
 ―このピッチャーのボールは当てただけで伸びるのか。
 そう思いながらバッターボックスに向かった。真ん中から内側にはまずこない。私の打ち方だと、浮き上がるところを叩きつけるのは難しい。掬い上げれば確実にポップフライになる。何も思いつかないまま構えた。ドンチャン、ドンチャン。
 初球、くるぶしのあたりに速いカーブが落ちてきた。見逃せばクソボールだが、得意のコースなので見逃すわけにはいかない。腰を入れて渾身の力で掬い上げた。真芯で捕えた感触があった。真芯だとまちがいなくラインドライブする。ドライブするボールは急速に落下する。白線ぎわへ打球を追うライトの動きに余裕がある。犠牲フライを捕球する動きだ。それがライトの油断だった。予想以上に曲がり落ちたボールは、彼のグローブの先をかすめて抜けていった。私は二者生還を確かめながら二塁へ滑りこんだ。それまでに倍するドンチャンがきた。私はベース上に立ち、味方ベンチにピースサインを送った。応援団の太鼓の連打。三対ゼロ。
「ナイスラン、金太郎!」
 相馬の声だ。弘前チームがマウンド上に集まっている。高々三点、しかも初回でエースピッチャーを代えるわけにはいかない。室井がバッターボックスに入った。五所川原戦ではホームランを打っているが、彼はがんらいシュアな中距離ヒッターだ。三センチほど短く持ったバットを寝かせて低く尻を落とす構えは、阪神の吉田義男そっくりだ。初球、室井は外角のスライダーにバットを水平に振り出し、ライト線へ流した。定位置よりも少し後ろのフライだ。私はタッチアップして悠々三塁へ滑りこんだ。ワンアウト三塁。犠牲フライで一点取れる。四点あれば小笠原も安心して投げられるだろう。私は三塁ベースから大声を上げた。
「柴田さん、バカ振り、バカ振り!」
 筋肉マンのガマがバットを上げて応えた。初球の内角球をヘッドアップするように振った。ボテボテのサードゴロ。アドバイスが裏目に出た。私は一歩も動けない。と、サードが私の動きに気を取られてファーストへショートバウンドの暴投をした。草野球だ。私が生還して、もうけものの一点。柴田はセカンドへ走ったが、タッチアウト。つづく七番の木下は、これまた強振してサードライナー。チェンジ。四対ゼロ。
 相馬が手を叩きながら、
「オッケー、上出来! 小笠原、四点くれてやるつもりで投げろ」
「はい!」
「みんなちゃんと守ってやれよ!」
 守備に散った。ほうぼうでフラッシュが光る。左中間の弘高スタンドから校歌演奏が華やかに聞こえてくる。レフトの守備位置から振り返る。男女学生とも劣勢に不満を感じていない余裕のある顔だ。いや、劣勢そのものを楽しんでいる顔だ。野球が弱いのは名門校の証とでも思って安心している。やはりこのチームは勝ち進めないだろう。
 視線をめぐらし、カズちゃんと山口を見やる。手を振り合う。センターの山内と力をこめて遠投のキャッチボール。
「格好いい!」
 黄色い声が青高スタンドから聞こえた。
 相手打線のレベルが低いとはいえ、小笠原は快刀乱麻の勢いで、一回から三回まで打者十一人、シングルヒット二、三振六、内野ゴロ二、外野フライ一で締めた。つづく沼宮内が二者連続二塁打、シングルと打たれ、二点を献上した。踏ん張って後続の三人を凡打に抑えたところで、五回から三田につなぐ。
 その間、青高は三回に私のライトへのスリーラン、四回に足の速い四方のランニングホームランで一点を加え、八対二。五回、六回、七回は不発で、私のライトライナーを含め九者凡退だった。やはり七回までにコールドは成らなかった。しかし八回終了時で十点差をつければコールドになる。
 三田はナチュラルにシュートする速球で、一番からクリーンアップに当たる五回、六回をしっかり抑え、七回裏から佐藤につないだ。佐藤は下位打線を三人でキッチリ抑えた。
 弘高はサブマリンが一人で投げつづけている。八点取られながらも尻上がりに調子を上げている。八回の表は一番吉岡から。ここで一点でも取っておかないと、上位打線に当たる佐藤が六点差を守り切れるかどうか不安だ。できれば四点以上取って、八回裏コールドですませたい。
 ここまで吉岡は二本ヒットを打っていたが、殊勝にもみずから言い出して、七戸に交代することを求めた。七戸が痛々しいほどの緊張顔で打席に入った。青高スタンドから喚声が立ち昇る。この回で決めてくれという叫びだ。
「神無月は七戸を買ってるすけな」
 室井が言う。
「手首の返しのセンスがいいんです。ホームランは難しいけど、常にライナーが打てます」
 一人出ればチームの士気が上がる。どうにか出てほしい。
 ふと、七戸と似たようなスイングをする関のことを思い出した。彼はいまごろ熱田高校で野球をやっているはずだ。デブシ、大島、御手洗、本間さん……軒並になつかしい顔が浮かんできた。彼らはまだ野球と腐れ縁をつづけているだろうか。そして私の噂を遠い空の下のどこかで耳にしているだろうか。それはないだろう。人の周りには、永遠に、たまたまそのとき身近にいる人間しかいない。吉岡が呼びかけた。
「七戸、大事にいげよ! 大事に、バシッといげ!」
 情のこもった檄にうなずき、七戸は与えられた一打席を宝物のように扱おうと決意したようだった。初球の絶好球。するどいダウンスイング。こすった。
「アチャー、上げでまったでば!」
 吉岡が叫んだ。私も叫んだ。
「テキサスだ!」
 フラフラと上がった打球がライトとセカンドのあいだにポトンと落ちた。
「ウオー!」
 吉岡が動物のように吠えた。うれしいのだ。
「決めるぞ!」
 相馬のするどい声。彼もこの回で勝負を決めたがっている。コールドの爽快感は麻薬だ。金が相馬に、
「先生、このピッチャー苦手す。当たらないすよ」
「一本目はセンター前へいったろう」
「当たり損ねっす。あとはセカンドゴロばっかす」
「打てる。あいつは一人で投げて、もうくたくただ。ボールが浮いてこなくなった。継投は、あれだぞ」
 相馬の視線の先に、弘高のブルペンで幼い顔をしたオーバースローが、懸命に投球練習をしているのが見えた。悲壮感さえただよっている。責任の重さに耐え切れないのだ。ボールも遅い。登板すれば五点は取られる。
「あれは出せないだろ。こいつの続投だな」
 相馬は私の顔をつくづく眺めた。私は金に向かって、
「ここで決めましょう!」
「オーシ!」
 金は、ぐるぐるバットを振り回しながらホームベースに近づいていく。懲りずにセンターをバットで指す。青高ベンチに明るい笑い声が上がる。二球当たり損ねのファールのあと、外角にゆるいカーブがきた。金は思い切り振った。しっかり捉えた。
「よし、抜いた!」
 右中間に白球が飛んでいく。大柄なからだが一塁を蹴る、俊足の七戸が二塁から三塁を回って一挙にホームインする。金が二塁に滑りこんだ。九対二。ものすごい歓声。つづく山内の打球が左中間を抜けていく。
「よーし、またいったァ!」
 金がホームインし、山内がセカンドに滑りこむ。十対二。神無月コールが始まる。
「神無月!」
「ホームラン!」
「神無月!」
「ホームラン!」
 静かな弘高の応援スタンドも私のホームランを望んでいるような気がしてきた。相馬が、
「金太郎さん、ツーランで十点差コールドだ。頼むぞ。八回裏は佐藤がぜったい抑える」
「はい!」
 もう一度青高スタンドの脇を見る。はっきりと赤い服と黒い学生服が見える。あそこに流して記念のホームランを打ちたい。何度かぶっても慣れないヘルメットをしっかりかぶって、ゆっくりバッターボックスに向かう。
 ―外角高目を踏みこんで打とう。少しバットを遅らせて、全球狙ってみよう。
 二塁打、ホームラン、ライトライナー、きょうの私はすべて内角を打った。内角に強いとわかった以上、サブマリンはもう一球も内角を投げてこないはずだ。代わりがいないとはいえ、ここまで十五本以上もヒットを打たれながら、ヤケも起こさず、黙々と七回も投げつづけている。表情一つ変えない生白い顔。引き結んだ唇。試合終了のとき、彼と握手しよう。


         百十四 

 初球、外角低目、ぎりぎりストライク。二球目、外角に高く外れるボール。三球目、顔のあたりへすっぽ抜けのカーブ。まともに勝負するつもりはなさそうだ。もう内角でも外角でもかまわない。次にきた球を打つ。四球目。だめだ! ベースのはるか前で無常にワンバウンドする。ワンスリー。ベンチがざわめき、スタンドがどよめいた。みんな私のホームランを見たいのだ。ピッチャーが冷静な顔でボールをこねている。歩かすか。ホップをきかせたボールを投げて空振りを取るか。いや、もう彼のボールはホップしない。うまく空振りを取れたとしても、次に投げる球は? 悩んでいる。
「金太郎、歩いてもいいぞ! あとで室井と柴田が浚うから」
 相馬のこの声援は効果的だった。歩かせてなるものかと、サブマリンがめずらしくキッとした表情を顔に出した。キャッチャーがマウンドへ走っていき、何か相談し合う。サブマリンが力強くうなずく。勝負と決まったようだ。それでもズバリとはこない。くさいストライクゾーンにくる確率が高くなった。
 サブマリンは南海の杉浦ばりに腕を高く引き上げ、からだを水平にして上半身を回転させた。かなり外目に渾身のスピードボールがきた。瞬間、レフトへ打つのをあきらめ、左手のカブセを意識しながらボールの少し下を狙って叩きつけた。
「よっしゃ、いった! よっしゃあ!」
「いったー!」
 ベンチの合唱だ。打球がセンターの右へ伸びていく。二、三歩追いかけてセンターが背中を向けて止まった。ボールが金網を越え、新設の簡易スコアボードに激しく打ち当たった。一瞬静まり返ったグランドが、たちまち大歓声と太鼓の音であふれ返った。一年生のライト線審が右中間へ走っていきながら右手を回している。一塁を蹴り、二塁を蹴り、赤いブラウスと黒い学生服のカップルに手を振る。大歓声を耳に三塁を回る。ホーム前に並んだチームメイトと手を拍ち合わせていく。間断なく光るフラッシュがまぶしい。相馬に腰を叩かれた。
「ナイス、ホームラン!」
 次打者の室井が、
「スコアボード、ぶっ壊れたでば」
 見ると、三回表の掲示板のところがぽっかり抜け落ちていた。春には恐ろしげに感じたガクランたちが空手のパフォーマンスで踊り狂っている。ブラバンが惜しげもなく演目を変えていく。十二対二。これで八回の裏が無事終わればコールドだ。
「ノーアウト、ノーアウト!」
 ベンチの叫び。あと何点入るかわからない。ようやくサブマリンはブルペンの紅顔の少年に交代した。私はベンチに戻っていくサブマリンの背中に声を投げた。
「ナイス、ピッチング!」
 彼は一瞬振り向き、帽子を取った。
 室井が打席に立つ。室井がショートゴロでアウトになった。マウンドの少年が得意げに外野に向かって指を一本立てている。私はほとんど試合に興味を失い、グローブに何度もこぶしを叩きこんだ。スコアボード係をしていた弘前高校の補欠が走ってきて、
「ワ、根路目(ねろめ)といいます。このホームランボールもらってもいいですか」
「ニャロメ?」
「んにゃ、ネロメです。飾って励みにしてんです」
「いいよ、持ってって。きみはバッターか」
「はい。ホームラン、打でるバッターになりてんです」
「素振り、二百本。それ以上は腱鞘炎の危険が出てくる。がんばってね」
「はい!」
 彼はバックネット裏を走って一塁側の自軍テントのほうへ去った。ボールを友人に預けると、金網の外に出てスコアボードへ走っていた。
 柴田が高いレフトフライを打ち上げた。ツーアウト。七戸に打席を譲った吉岡の気持ちが伝染したのか、ここまでノーヒットの一塁手木下が相馬に申し出て、控えの長身梶田に打席を譲った。一年生の梶田が初打席に立った。私は叫んだ。
「低目を打て!」
 梶田は二球つづけて低目を見逃し、高目を打って浅いセンターフライに倒れた。打席を譲った木下が、さびしそうに言った。
「金太郎、低目は打でねんだ。膝に目がついてねすけな。ほとんどのやづは低目を捨てて高目打つんだ」
「低目の素振りを何千回もやれば、そういうからだに仕上がりますよ。勘で打てるようになります。佐藤さん、きょうはレフトフライが一本も飛んできてません。弘前に長打力のあるやつは一人もいないんで、高目を投げてやってください。外野フライ三つで終わらせましょう」
 私はレフトの守備位置へ全速力で走っていった。両軍の応援スタンドまで十メートルもない。いちばんうるさい場所だ。弘前の応援団が生徒たちに校歌を斉唱させている。ブラバンの響きのせいで背中がくすぐったい。
 一点でも返されれば、九回まで続行だ。観客は喜ぶけれども選手は疲れる。レフトフライが飛んできた。片手でキャッチする。セカンドへ意味もなく矢のような返球をする。スタンドが拍手喝采になる。右投げに換えた肩が鉄砲肩だった幸運。この幸運を大勢の人びとに目撃してほしい。ただ、いまのようなスタンドプレイはみっともない。
 左翼線のヒットが私の右を抜いて、フェンスの裾に打ち当たった。肩を見せるにはおあつらえ向きだ。今度はスタンドプレイではない。あまり弾まないクッションボールを拾い上げ、セカンドへ矢のような送球をする。ゆうゆうタッチアウト。二塁塁審のジャッジの手振りがみごとだ。
「ホオー!」
 というため息がスタンドを埋める。つづいてそれに倍する拍手。最後の打球は四方の頭上に上がったショートフライだった。
「ゲームセット!」
 審判の右手が挙がる。勝利のあとの整列。ホームベースへ駆けていき、弘前チームと向かい合い、礼をする。美しい制服の審判団にもルーティンの礼。サブマリンと真っ先に握手する。
「ほとんど、出会いがしらでしか打てませんでした。球種をもう一つ増やして、あと五キロでも速くなれば、県を代表するピッチャーですね」
「とんでもね。天才というものを初めて見たす。ありがとございました。いい思い出になりました」
 いろいろな選手が握手してくる。あのホームランボールを進呈した補欠が腕を握った。
「素振り二百回、がんばります。トーナメントでまた対戦できることを祈ってます」
 カメラが走ってくる。茶色い顔の男たちは、きょうもいち早く姿を消していた。弘高の監督がやってきて相馬と握手し、私にも握手を求めた。
「あのスイングはまねできません。あなたの集中力だけを学ばせていただきました。後進の指導に役立てたいと思います。おたがい夏の大会、がんばりましょう」
 エール交換の演奏が聞こえてくる。相馬の先導でスタンドの前へ走っていく。両チーム並んでスタンドに向かっているのがおかしい。カズちゃんと山口に手を振る。山口がガッツポーズをとった。カズちゃんはひたすらやさしくうなずく。
 スタンドの右端に石崎と並んで西沢がいた。西沢を見つめると、立ち上がり、頭の上で拍手した。石崎は坐ったまま拍手しながら、さびしそうに微笑んだ。西沢と石崎の左脇に去年の五組の連中が寄り添うように坐っていた。帽子を取って振った。古山をはじめとする男連中が立ち上がって、
「神無月、よぐやった、甲子園頼むど!」
「小笠原、おめ、そたら能があったのな!」
 木谷と鈴木睦子がしきりに拍手していた。校歌斉唱。みんなの声に合わせて唄う。唄い終わると全員揃って礼をし、新聞記者やデンスケにつかまらないように、猛スピードで部室へ走った。その部室はすでにマスコミ関係者であふれかえっていた。私たちを見ると固まって押し寄せてきた。
「四試合で十本。まるでホームラン製造マシーンですね。中京商業と早稲田実業のスカウトが観戦にきていましたが、誘われたら、越境入学をしますか」
「しません。青高で全力を尽くします」
 別の記者が、
「プロのスカウトが二人きておりました。サンケイと中日でした。彼らは今年の夏、来年の夏ときますよ。来年はほとんどの球団がくるんじゃないですか。プロへ進むことを視野に入れてますか」
「もちろん入れてますが、いったん迂回して、大学へいきます」
 部室がどよめきで揺れた。小笠原がうなだれて聴いている。また別の記者が、
「高校でのプロ入り拒否には、進学以外の理由はありませんか?」
「ありません」
「大学野球に拘る理由は?」
「まだ基礎体力も足りませんし、技術も未熟です。このままプロにいって二軍で鍛えられるよりは、大学の実戦の中でじっくり鍛えて、プロの即戦力になれるようにしたいからです。それに、プロの勧誘には不文律のようなものがあります。大イベントを通過しないかぎり、つまり甲子園出場を決めないかぎり、誘いの手を出し渋ります。さもなければ、言わば甲子園以外の運動場にいる目立った選手をジンワリと追跡するだけです。全国区でない選手は、ましてや北国の一介のスラッガーごときは、プロとして注目に値しません」
「もっともらしいお答えですが、理屈として納得できませんね。甲子園を経ずに高校中退でプロ入りする選手もいないわけではありませんし、神無月選手はすでに全国区です。しかも、北海道東北からもプロ野球選手は大勢出ています。やはり、進学以外にプロ入りを拒む重大な理由があるんじゃないですか。たとえば、どこか痛めているとか」
「全身、健康です。大学進学以外に理由はありません」
 とつぜん一人の記者が叫んだ。
「やめたまえ! 個人には事情というものがある。プロ入りを急ぐかどうかは個人の自由だ。最終的にプロに進むなら何の問題もないだろう」
 相馬が痛切な面持ちで、
「お話しておかねばならないことがあります。……じつは、神無月には親族の反対という致命的な障害があります。彼の野球は、この夏で一時中断されます。これ以上は申し上げられません」
 そう言って、相馬は私を抱き締めた。私も抱き返した。
 それから私は学生服をダッフルに詰め、ユニフォーム姿のまま部室を出ようとした。記者たちが追ってきて出口を塞いだ。マスコミに対する私の逃げ腰は、彼らのよく知るところだが、相馬の思わぬ通告にどの顔も蒼白になっている。
「どういうことですか!」
「もう少し詳しくお話ください!」
「野球をやめるということですか?」
 私はもう一度長椅子に戻って腰を下した。
「―仕方ありません。みなさんにも、チームメイトにも初めてお話します。……ぼくはこの一学期を終えると、名古屋市のある高校の転入試験を受けることになっています。野球をするためではなく、生活を勉学一本にするためです。すべて、母の意向です。ご存知のように、未成年者が親に反対された場合、プロ球団でも手の打ちようがありません。ぼくは母子家庭の環境で暮らしてきました。母親のぼくに対する拘束力には尋常でないものがあります。反発しろと言われるかもしれませんが、そうした結果、ぼくが名古屋ではなくここにおり、そしてここに長居できずに名古屋へ去らなければならないと言うに留めます。最終的に、野球を再開するために、ぼくはいまここを去ります」
「何ということだ!」
「信じられない話だ!」
 私のしゃべったことを決して信じたくないという激高ぶりだ。
「あなたがたの理解の幅を超えた話です。青高でも母に内密で野球をしていました。それが露見しました。この夏の終わりから、ぼくは余儀なく野球を休止して、名古屋の母のもとで勉強をしなければなりません。野球が嫌いなわけじゃありません。そんなはずはない。野球ができなければ死のうと思ったことさえあるんですから。野球に永遠の別れを告げることはけっしてありません。野球は小学、中学とぼくの命でした。でも、母に何度もスカウトを追い返されたころから、ぼんやりと方向転換が始まったんです。報復するかのように、母の意に沿わない行動もするようになりました。野球だけを命にできなくなったということです。そうして、こちらへの島流しがその方向性に拍車をかけました。しかし、昨年、青高に入学したおかげで、息を吹き返すように野球に没頭できる幸運を得ました。しかし―ふたたび運命の岐路が訪れました。以上です」
「重大発言ですが、記事にしてよろしいでしょうか」
「しないでください。記事にするならば、母のことはぜったい書かないでください。大学であらためて野球への情熱を燃焼させたいというぼくの密かな計画が、すみやかに挫折する危険があります」
「高校からプロ野球へはいかないということでしょうか」
「はい。いまは母の意向を尊重して、現時点でプロ入りを遅延せざるを得ないということです。大学入学以降に命運を懸けます」 
「そのとおりだ! きみは万難を排してプロへいくべきだ!」
 さっき叫んだ記者が言った。
「母親に蹂躙された野球人生が、ようやく戻ってきたんじゃないですか。その僥倖にあなた以上に感謝しているのは、私たち野球ファンですよ。あなたはまちがいなく日本を代表するスラッガーになる。見守らせてくださいよ、見守りたいんですよ。優勝なんか、甲子園なんか、どうでもいい。五年後でも、十年後でも、あなたはプロ野球のグランドに立つべきです。私は見守ります。大学へいこうと、社会人野球へ進もうと、見守りつづけます」
「ありがとうございます。そのお言葉、一生憶えています。一年半のあいだ、自分というものの存在意義を見つめて生き直すことにします。勉強をし、本を読み、人間関係を深めながら。くどいようですが、野球は大学でかならず再開します」
 もはやどの記者も驚きの表情を収めていた。チームメイトも穏やかだった。
「私はあなたを、生涯賭けて見守ります!」
 熱血漢の記者が進み出て私を抱き締めた。私は不覚にも涙を流した。記者は私の肩をやさしく叩くと、
「じゃ、平凡な質問に切り換えましょう。次の青森工業との練習試合が終わると、いよいよ来月の中旬から夏の地区予選に入るわけですが、昨年の準優勝校の中心打者、しかも青森県のホームラン王、三冠王として、今年にかける意気ごみは?」
 デンスケのマイクが差し出される。
「がんばります。ホームランをたくさん打てば、チームの勝利に結びつくと思います。もちろん、優勝を狙います。すみません、そろそろ帰って、ユニフォームを洗濯しなくちゃいけません」
 彼らの真剣な同情と共感がはぐらかされ、ざわざわと和んだ笑い声に変わった。熱血漢の記者が言った。
「あなたに惚れました! 私、東奥日報の浜中と申します。二十七歳。折に触れ、名古屋へでも、どこへでも取材にまいります。勉強に邁進する生活を乱すようなことはいたしません。とにかく、あなたの人生を追跡させてください」
「どうぞ遠慮なく。じゃ、相馬先生、みんな、またあさっての練習で。お先に」
「オー!」
 仲間たちの声が返ってきた。戸を出て振り返ると、何人かの記者やカメラマンがしゃちこばった最敬礼をした。私も丁寧な辞儀を返した。月曜日に会える仲間たちが、相馬と並んで手を振った。私も手を振った。


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