百十二

 六月二十五日の青森工業戦は、青高から二十分ほどの三内の運動公園野球場で行なわれた。大型バス二台でいった。
 市営球場と比べてかなり見劣りのするグランドだった。スタンドの造りも粗末だ。観客席は内野スタンドと外野の芝生席。合わせて二千人ほどしか入れない。それでも、新聞記事に刺激されたせいか、練習試合なのにびっしり人が埋まっている。私のホームランを見にきた人たちにちがいなかった。
 ネット裏にカズちゃんと山口、彼らから十メートルほど離れた上段のベンチに、葛西一家が坐っていた。新聞の情報で確かめて、わざわざ応援にきたのだ。サングラスのオジサンは留守番らしく、姿が見えなかった。山口とミヨちゃんは顔見知りだが、グランドに気を取られてたがいに気づかないようだ。
 両軍の守備練習のあと、特別にバッティングケージが持ち出され、レギュラーだけのフリーバッティングが行なわれた。一人五本と決め、両チームとも一回りだけ打った。私はライト芝生席に二本、センターのスコアボードの裾に二本叩きこんだ。青森工業の四番も一本レフトに叩きこんだ。私がチームメイトに、ホームラン合戦にしましょう、と言ったせいで、金が一本、山内が二本、室井が二本、四方まで一本打った。マネージャーの長田がベンチでみんなに言った。
「今年の青森工業はベストフォー候補で、エースは左の本格派です。県の三本指に数えられてます。速いので、苦戦すると思います」
 投球練習を見ると、たしかに、百四十二、三キロ出ている。コントロールを考えずに投げこめば、百四十五キロは出るだろう。
「ミートを心がけます。高目は打ちそこないそうだ」
 私が言うと、
「ミート!」
 と相馬が叫んだ。
 マネージャーの言ったとおり、試合は投手戦になった。私は、三振、ライトフライ、キャッチャーフライ。めったに低目を投げてこないので、仕方なく高目の伸びるボールにばかり手を出すことになった。ほかのメンバーも同様で、三振か凡打を繰り返した。ヒットは、四方の内野安打と柴田の左中間二塁打の二本。
 青高のピッチャーも好投した。五回まで佐藤が、六、七回を小笠原が、八回、九回をそれぞれ沼宮内と三田が投げて、四人とも、三振でねじ伏せようとせず、凡打を打たせるすばらしいピッチングをした。
 青高の不発にため息を繰り返していた応援席が賑やかになったのは、一対ゼロで負けている九回の表に、私が逆転のツーランホームランを打ったときだけだった。ツーアウト、ツーワンからだったので、応援スタンドは狂喜した。ベンチの連中も小躍りした。ここでも小笠原は泣いていた。私がホームインしてからも、しばらく抱き締めていた。結局二対一で青高が辛勝した。
 あの浜中という記者が、詰めかけた報道陣の中でだれに話しかけられることもなく、ひっそりとメモを取っていた。私がいなくなれば、青高はもとの弱小チームに戻る。去っていく人間に未練を残すのは、追跡するほどのニュース価値があると考えるのは、彼のような野球ファンだけだ。私がほかの土地で何本ホームランを打とうと、野球に関心のない人間には知ったことではない。
 試合後のブラバンの吹奏は、いつにも増して荘重なものに感じた。礼をしたあと、私は走っていって、ネット裏の五人に帽子を振った。
 帰りのバスの中で、相馬がトーナメントの日程を教えた。シード校なので七月十二日から始まり、勝ち進めば十四日、十七日、二十日、二十一日の決勝までの五試合。初戦の相手は、七月三日の日曜日に籤引きで決まる。抽選会場に室井が出かけていく。
「神無月は長い野球人生を小休止して、ちょっとした脇道へ入る。この一年半は、苦しい気持ちで野球をしてきたから、かなり疲れただろう。本人でなければわからない疲れだな。名古屋にいったら、脇道が気に入って、それを本道として歩きはじめるかもしれない。私はあの新聞記者とはちがって、神無月が私たちのもとにプロの選手として回帰しなくてもいいという考えだ。神無月の人生なんだ。彼が好きなように歩めばいい。いずれにせよ、トーナメントの一戦一戦を神無月の花道にしてやろう。一回でも多く勝ち進もうじゃないか」
「ウオース!」
「しかし、あの記事のおかげで、だいぶ周りが静かになった。去るものは追わず。マスコミの体質なんだろう。おかげで浮き足立たないでしっかり野球に打ちこめる。きみたちは名門青森高校の学生だ。これからは静かな気持ちで勉強に励めるというもんだ。残念なことだが、金太郎さんが休止宣言をしてくれたおかげで、きみたちも優秀な学徒に戻ることができる。いや、そんなことを言いたかったんじゃない。もともと勉強のプロのきみたちだ。トーナメントが終われば自然とそうなる。とにかくこの夏は勝ち進んで、少なくともベストフォーまではいって、野球しかできないやつをアッと言わせてやろう」
「オー!」
 その夜は、カズちゃんがハンバーグとジャガバターとボルシチを作った。ボルシチは小山田さんと吉冨さんに栄のロシア料理店に連れていってもらって以来だった。
「人って、会えなくなると、もう二度と会えないんだね」
「そうよ、怖いものよ。来週は、ステーキを焼くわね」
「カズちゃんが出発するまで、ときどき会えない?」
「キョウちゃんがよっぽどうまく日程が空いたときね」
「十二、十四、十七、二十、二十一日。火、木、日、水、木が試合日。十二日が初戦なんだ。残りの四日間は、たぶん勝ち進むと思うから空いてない。でも土曜日はぜんぶ空いてるよ」
「こらこら、勉強もあるのよ。逢えば泊まることになるでしょう」
「危ない日は、ソトダシするから」
「しょうがない人ね。好きにしなさい。案外暇がないことがわかるから」
 そう言って、カズちゃんは愛しそうに私を抱き締めた。
         †  
 七月の初戦までの二週間、毎日二時間の練習のほかは勉強の明け暮れになった。とりわけ、転入試験を頭に置いて日本史をやった。二年生なって社会科はもとどおり大の苦手科目に立ち返ってしまったので、勉強のつど極端に疲労した。社会科の得意な山口にときどき指導を受けて、江戸時代の藩校やら、明治期の条約改正やら暗記させられた。私も問われれば英語を教えた。休憩のときに山口のいれるコーヒーは無類にうまかった。
 この先野球からしばらくでも離れれば、母の命令に従ったことを深く後悔するかもしれない。しかし、どれほど深い後悔も、一瞬のものだ。すぐに慣れと平安がやってくる。自分が死なないと思っていたころは、すべてに未練と後悔が残った。死のうと思ってからはそれも消え、わけてもカズちゃんに遺伝病の可能性を教えられてからは、倦怠もまったく消え失せた。死のうとする必要さえないことがわかったからだ。未練と後悔と倦怠がなくなると、すべてが透き通って感じられる。
 二週間のあいだに奥さんとミヨちゃんが一度ずつ、健児荘にやってきた。二人とも玄関から上がろうとせず、私を外へ誘って喫茶店で歓談した。私に迷惑をかけまいと、二人で申し合わせているようだった。それぞれの帰りぎわに、奥さんからは革製の文庫用のブックカバー、ミヨちゃんからは手編みの紺のセーターをプレゼントされた。
         †
 室井の籤引きの結果、初戦の相手は、五所川原農林対青森市立第一高校の勝者と決まった。たぶん勝者になる一高は、四年前に夏の甲子園に出場したことのある伝統校だが、このところ大して強くないと長田が言っていた。しかし油断は禁物だ。先発は沼宮内が申し渡された。ちょっと心配になる。
         †
 七月九日に東奥日報模試が行なわれた。ふつうの受験科目(英・数・国・地理・日本史・生物・地学)で受けた。英国の手応えはよかった。山口も数学と社会が上出来だったと言っていた。結果が渡されるのは十八日。成績は新聞発表される。県下の十傑までは大活字で載る。なんとか名前を載せて、上名の景気づけにしたい。
         †
「ビートルズがくるつけ」
 雨で練習が中止になった十五日の夕方、アパートの食堂で山口とめしを食っていると、春から一度も顔を合わせたことのない学生たちが話をしていた。なぜかめしを食う時間が微妙にずれて、まったく面識がなくなってしまった今年の新入生たちだ。
「武道館で三け公演したらしな」
「一ステージ千二百万、切符は二千二百円、うだでだな」
「三十五万人が切符買いにいって、四万二千人にしか売らながったつけ」
 山口がぼそりと、
「馬鹿だ」
 と言うと、彼らはいっせいにこちらを見た。
「バッハ以来の音楽革命などと言われてるが、彼らの音楽性はそれほど高くない。ときどきマグレがあるが、音階の調和に複雑な奥行きがない。ビクトリア朝やそれ以前の音楽家たちとは比べものにならん。前座をやったブルーコメッツよりは多少ましだが、ビーチボーイズよりははるかに格下だ。どっちが歴史に残るか、もし生きてたら、三、四十年後を見てみろ。こんなくだらない興行に大金を払うのは、世界広しといえども、日本だけだろう。つまり、日本は世界一ミーハーな国ということになる。いや、やつらに勲章を与えたイギリスが世界一かな。いやいや、同日に論じられるのはまっぴらだと八百人も勲章を返上したというから、まともな神経だ。やっぱり日本だな。日本の叙勲者がせっかくのご褒美を返すはずがないからな。この世界一の資格社会で気楽に暮らしたけりゃ、空虚な資格を手に入れるのがいちばんいい」
 だれも言い返さなかった。私はもともとビートルズなどに関心がないので、言うべき言葉がなかった。
「じゃ、神無月、俺たちも空虚な資格をとるために勉強でもするか。おまえの美しいホームラン一本にも値しないが、しばらくは気楽に暮らさないと、おまえの野球人生の基盤が築けないからな」
 食堂の学生たちには、山口が何を言っているのかさっぱりわからないというふうだった。ユリさんが笑いながら、めずらしい生きものでも見る目で私たちを見ていた。
         †
 勉強も野球も駆け足の様相を呈してきた。ふだんの気分ではいられなかったし、カズちゃんの言ったとおり、その二つ以外に余分な時間を取るのは難しかった。
 七月二日は、約束どおり、カズちゃんとの最後の交歓の夜になった。野辺地に送られる直前と同様、女神の膣の感触を記憶するため一度しか交わらなかった。そうしてしっかりと記憶した。
「あしたから引越しの準備。このままそっくり持っていくわね。北村の部屋を一つ空けてもらって置いておかなくちゃ。二十日過ぎには北村に落ち着いて、あとはキョウちゃんの到着待ち。西高のそばに適当な一戸建が何軒かあるって、おかあさんが知らせてきたわ」
 ユリさんとは、亭主がまた上京しているということで、初戦の二日前に離れで夜明けまで交わった。風呂場で交わり、居間で交わり、寝室で交わった。
「……名古屋にいったら、もう会えないでしょうね?」
「野辺地に里帰りしたときは、かならず逢いにくる。それにしても、このアパートに十カ月もいて、知り合いは山口だけだ。食堂でもほとんどの生徒の顔を見かけなかったし、隣部屋の人間も知らなかった。すごいもんだね」
「世の中って電車の座席みたいなものよ。ただ乗り合わせるだけ。家族以外が知り合いになるなんて、奇跡みたいなものじゃないかしら」
「なるほど、うまいこと言うね」
「……それより、いつまでも神無月さんを求めて……自分でもわからない、どうしてこうなのか……淫乱で、みっともない女―」
「ごくふつうの欲求だよ。人間ならだれでも持ってる、求められ、見つめられ、愛されたいという欲求だ」
「ありがとう。……ごめんなさいね。三食の支度で一日頭がいっぱいで、なかなか野球の応援にいけなくて」
「丁寧に作るようになったからね。応援なんかいいんだよ。ぼくは自分で楽しんでるだけだから」
「一回戦だけは、かならずいきます」
 きっとユリさんはその初戦の夜に忍んでくるだろうと思った。
         †
 七月十二日火曜日。九時過ぎに少し小雨。気温十七度。小雨は出発まぎわの十一時ごろに上がった。正門前からバス三台を列ねて合浦公園へ。一台目に監督、選手、スタッフ、二台目は教職員と応援団、三台目はブラバン。監督以下、みんな無言で窓の外を眺めている。表情は明るい。
 一年ぶりの市営球場のグランドに入る。華やかなスタンド。昨日一回戦を勝ち抜いた青森一高チームが守備練習をしている。ほとんどの選手のユニフォームがきのうの試合で汚れている。内野手の肩が弱い。ブルペンのピッチャーの球速は百二十五キロ前後。当てるのは簡単だけれども、当たっても飛ばなさそうだ。
 風静穏。スコアボードの旗が垂れている。守備練習交代。サングラスを連れた葛西一家がネット裏の中段にいる。最前列にするどい目つきの男たち。三十人をくだらない報道陣。青森放送のテレビカメラが場内を睨(ね)め回している。初戦からこれだ。青高の注目度がわかる。カズちゃんと山口は、三塁側味方ベンチの真上の席にいた。カメラマンたちの列に隠れるように坐っている。彼らのすぐそばで応援団が校旗を立て、後方にブラバンを控えさせている。
 ふと、ブラバンの上方の学生たちの群れの中に、ヒデさんと山田一子の顔が並んでいるのに目が留まった。すっかり忘れていた。そうだ、きょうは試合のあとで、ユニフォーム姿のまま彼女たちと青森駅まで歩くことになっていたのだ。二人は私の視線に気づくと手を振った。私は帽子を脱いで振ると、レフトの守備位置へ走っていった。ユリさんの姿はどこにもなかった。外野の群衆にこっそり紛れているのかもしれない。なぜか彼女がきているという確信があった。
 内外野、一万人の観衆でぎっしりだ。去年もこれほどの観客がスタンドに埋まったことはなかった。十分ほどの守備練習で、私はその観客に精いっぱいのアピールをした。五本のうち、三本をセカンドへ、二本をホームへ目の覚めるような送球をした。スタンドから嵐のような拍手がやってきた。味方チームの連中もグローブを叩いて賞賛した。
 もちろん室井は先攻をとった。去年から一度も後攻はない。新聞はそれを、先手必勝青高哲学揺るがず、と書いた。哲学ではなく、勝っても負けても最終回まで野球を楽しみたいという願いだ。先攻をとってもかならず勝てるとはかぎらない。しかし、先攻をとればまちがいなく最終回まで野球ができる。だからこそ、小学校以来、一試合の例外もなく先攻をとってきたのだ。一打席でも多く打ちたい―それは哲学などというものではなく、願いだ。
 両軍のスターティングメンバーを告げる女子高校生の声。プロ野球のウグイス嬢よりも色気がないが、練習試合では聞けないものなので、快適な緊張感を呼び起こす。ベンチ前に円陣を組み、相馬の檄を受ける。
「金太郎、あのボールは飛ばないだろ」
「うまくバットに乗せればいけそうですが、真芯だと重くなります。カチンとミートしていくのがいいでしょう。ぼくもなるべくホームランは狙いません」
「よし、みんな、外野へライナーを打つつもりでいけ。運がよければ、あいだを抜ける。奮闘を祈る。あとはいっさい指示なし」
「ウィース!」
「神無月、真芯でねぐ、芯を食えばいげるべ」
 怪力の金が訊く。
「そう、バットに乗せれば、どんなボールも長打にできます。ただ、両翼九十八メートル、センター九十一メートルはプロ野球の球場でも最大級なので、なかなかホームランは打てないでしょう。去年はみんなたくさん打ってますけど、今年はどうなるか」
「だな、とにかぐきょうはカチンだな」
「はい」


         百十三

 試合開始のサイレン。両軍ホームベース前に整列して礼。フラッシュがあわただしく瞬く。
「プレイボール!」
「一回表、青森高校の攻撃は、一番、セカンド、吉岡くん、三年生」
 ブラバンの響き。太鼓のこだま。喚声。吉岡、ワンワンから外角低目を叩いて強いセカンドゴロ、アウト。金、初球内角高目を叩いてレフトライナー、アウト。太鼓、応援団の突き。山内、ワンワンから内角低目を叩いてサードゴロ、アウト。五球で終わった。すべて小便カーブで、打ちにくそうだ。ミートはうまくいっている。
 ダッシュで守備に就く。空を仰ぐ。高島台の淡い空。悲しみが押してきて胸がいっぱいになる。
 一回裏。沼宮内のボールが伸びていない。中途半端にスピードがあるのも気持ちが悪い。さっそく一番バッターの打球が飛んできた。あっという間に私の頭上を越え、フェンスにぶつかる。左中間に逸れて転がったクッションボールを拾って二塁へ投げ返す。セーフ!
 タッタータタッター、タッタータタッター、タッタータタッタター。ブラバンの早慶ふうのリフレイン。二番、チョコンと合わせて、一、二塁間ヒット。たちまち一点。三番左バッター、フルスイング、金の頭上を越え、ライトぎりぎりホームラン!
「エーッ!」
 という青高スタンドからの落胆の声。三点。ノーアウト。四番、また三遊間を抜いて転がってきた。五番、犠牲バント。
 ―冗談だろ? 五番がバント? 攻撃の勢いというものがわかっていない。
 ワンアウト二塁。六番、ショートゴロ。二塁ランナー動けず。ツーアウト二塁。七番、ゴロで抜けるセンター前ヒット。四点目。八番、ライト前ポテンヒット。ツーアウト一、二塁。
 ―ここまでだ。勝ったな。
 九番、セカンドフライ。終わり。打者一巡か。ゼロ対四。とんでもなくワクワクしてきた。よし、この三倍取り返してやろう。ベンチにゆっくり走り戻る。
 二回表。先頭打者でバッターボックスに入る。神無月コールが波のように押し寄せる。三塁側スタンドの視線を背中に心地よく感じる。初球から打つと決めている。初球。のろい小便カーブがお辞儀をしながらやってくる。
 ―よし、真ん中低目。
 理想的なスイング。しかし真芯で捕えてしまった。センター右を抜く二塁打。微妙な歓声が上がる。太鼓、ドンドン、ブラバン、ブガブガ。室井ファーストゴロ。私は三塁へ走る。滑りこみセーフ。柴田ピッチャーライナー。動けず。太鼓。太鼓。ブラバン。木下レフトフライ。
「アー」
 というスタンドのため息。楽しくて仕方がなくなってきた。
 ―これだ、このなんともうまくいかない感じだ。
 自然と笑いがこぼれる。全力で走って守備位置につく。
 二回裏。一番バッター、快音が響きわたる。またレフトか。
「オッケーイー!」
 レフトライナー。この一番バッター、三番か四番にしてもいいな。二番、またチョコンと押し出す。今度はセカンドフライ。そうそう柳の下にドジョウがいてたまるか。三番バッター、フルスイング、強烈なファーストゴロ。ようし、木下、ナイス守備だ。この左バッターはいずれ不動の四番になるだろう。ゆっくりベンチへ駆け戻る。
 三回表。ブラバンの響き。太鼓のこだま。応援歌青高健児斉唱。ブラバンが落ち着いた演奏をする。応援団のゆったりした型の舞い。
「そりゃ、いけー!」
「ぶちかませー!」
 喚声がうねる。四方、初球をサードライナー。応援団長が観客席に向かって何か叫ぶ。
「はい! それ! フレーッ、フレーッ、セイコ、フレ、フレ、青高ォォ!」
 拍手喝采。沼宮内ショートゴロ。ああ、なんてうまくいかないんだ、楽しくてたまらない。吉岡がバッターボックスに入る。ネクストバッターズサークルにいた金が、ベンチの私を振り向いて、
「これ、だいじょうぶかァ! 金太郎さん!」
 私はベンチじゅうに通る声で、
「心配いりませんよ! 五回、六回に大量得点です。見えてますから」
 ベンチ全員、
「そのとおり!」
 吉岡ピッチャーフライに倒れてチェンジ。全速力でレフトへ飛び出していく。
 三回裏。四番、深いセンターフライ。打球の筋がいい。この男は九回までに一本放りこみそうだ。五番、いい当たりのサードゴロ。うまいぞ柴田さん! 六番、サードフライ。ゆっくりベンチへ走り戻る。室井が沼宮内の肩を叩く。
「ナイスピッチング! 調子出てきたでねが」
「完投、いげる!」
「だめだ。四回までだ」
 それを聞きつけた相馬が、
「小笠原、ブルペンへ! 五回の裏から出ろ」
「はい!」
 四回表。
「金、ホームラン!」
 バッターボックスに向かおうとする背中へ、山内がネクストバッターズサークルから声をかける。金は振り向き、
「ホームラン性の打球でいかがかな」
「予行演習か」
 ベンチが大笑いする。相馬が愉快そうにからだを揺すった。ブンガッカ、ドンチャッチャ、ブンガッカ、ドンチャッチャ。童謡『海』。七戸が叫ぶ。
「ブラバンふざけてんのが!」
 相馬が、
「いや、合浦公園の歌だ。この市営球場に建っていた青森中学を讃える歌だよ」 
「松原遠く、消ゆるところ―」
 合唱が立ち昇る。愉快だ。金は言葉どおり、レフトのポールぎわへ大飛球、ファールフライ、アウト。ブンガッカ、ドンチャッチャが凋みかける。
「何やってんだが!」
「いいかげんにしろじゃ!」
 苛立った声援。もっと苛立て。あとの爽快感がすごいぞ。
「オラもホームラン性、いぐじゃ」
 山内、センターへ大飛球。絶望的なスタンドのため息。このおもしろさは何だろう。このまま負けてしまったらもっとおもしろいだろうが、負けないのだ。相馬が、
「金太郎さん、何ニヤニヤしてるんだ」
「楽しいですね! いよいよここからですよ」
 相馬に尻を叩かれる。山内とハイタッチしてバッターボックスに向かう。
「勝でるかな、金太郎さん」
「大差でね。まず一点取りますよ!」
 予感がするのか、ストロボが何発か弾ける。ベンチの叫び。
「金太郎、一本頼むぞ!」
「一撃必殺、初球からいげじゃ!」
 スタンドの金太郎コール。ドン、ドン、ウオー、ブンガ、ブンガ、ウオー。初球、顔のあたり、なぎ払ってファール。敵の内野席へライナーで飛びこむ。二球目、磁石に吸いつくように膝もとへひょろひょろ球がきた。ほらきた! 片手で払うようにすくい上げる。軽い手応えがあった。
「いったじゃあ!」
 ベンチ全員の雄叫び。ライトは一瞬スタートの構えをしただけで追わない。白球が高く伸びていって芝生席の上段に突き刺さった。
「ヒャーッ!」
「ウオー!」
 青高スタンドが総立ちになる。全速力でベースを回る。仲間たちがピョンピョン跳びはねながら出迎える。相馬が、野辺地中学校の野月校長のように、私の尻をポーンと叩く。快適だ。小笠原の一声。
「昭和四十一年度公式戦、第一号!」
 ブンガ、ドンチャ、ブンガ、ドンチャ。カズちゃんと山口に帽子を高く上げる。ヒデさんが応える。学生たちと応援団が誤解して手を振り返す。ブラバンまで楽器をかざして応える。フラッシュ、フラッシュ。ネット裏を見ると、ミヨちゃんが跳びはねて拍手していた。室井、高いセンターフライ。一対四。突撃開始の貴重な一点になった。守備についた全員の声が出はじめた。
「オラオラオラー!」
「イグゼイグゼイグゼー!」
 四回裏。七番、左中間の浅いところへライナーが飛んできた。ジャンピングキャッチ、前方回転。歓声が沸き上がる。芝生席から、
「神無月さーん、格好いい!」
 見ると、鈴木睦子、木谷たち女生徒連中が芝生に固まって坐っている。古山や小田切や佐久間、藤田もいた。気づかなかった。グローブを振る。木谷と鈴木が立ち上がって両手を大きく振った。敵のブラバンと声援が小さく聞こえてくる。八番、レフトフライ。木谷たちに見せるために、わざと強いボールをセカンドへ返す。大拍手。楽しい。九番、また飛んできた! レフト線上でワンバウンドして、ファールグランドの塀に当たる。二塁打コースだ。すかさず取って、セカンドへ低いノーバウンドの送球。タッチアウト!
「ウオーッ!」
 今度はスピードを上げてベンチへ走り戻る。もう一高連中はホームラン以外では得点できないだろう。
「ナイスプレイ!」
「ビッグイニングにしますよ!」
「オー!」
 五回表。柴田、一塁線二塁打。ほらきた! ブンガ、ドンチャ、ブンガ、ドンチャ。木下セカンドゴロ。柴田三塁へ。四方ファーストゴロ。柴田動かない。あせる必要はない。校歌斉唱の中、沼宮内にピンチヒッター七戸が告げられる。
「まだ投げられるっちゃあ!」
「先は長い。四回でじゅうぶんだ」
 相馬がたしなめる。校歌が終わったとたん、七戸がレフト前へヒットを放った。
「ウワー!」
「ウオー!」
 ドンドンドン、ブンガブンガブンガ。柴田還って二対四。吉岡、同じくレフト前ヒット。ツーアウト一、二塁。金、めずらしくフルカウントまで粘って強振、右中間を抜けていく三塁打。二点追加して四対四の同点。山内、フォアボール。ツーアウト一、三塁。声援が極点に達する。
「かっ飛ばせ、神無月、かっ飛ばせ、神無月!」
「金太郎さん!」
「金太郎!」
 ベンチのかけ声がスタンドに伝わり、
「金太郎!」
「金太郎さん!」
 波打つようなシュプレヒコールが湧き上がった。ツーワンから、外角低目をセンターへ向かって手首で押し返す。打球は一直線に伸びてバックスクリーンに激しく打ち当たり、観客のいない芝生に落ちた。
「キャー!」
 キンキン声がネット裏から聞こえた。たぶんミヨちゃんだ。
「神無月くん!」
「神無月さーん!」
 とつづく。聞き覚えのある声は、ご主人と奥さんだ。喚声と楽器の音が逆巻いて球場内が騒然となる。七対四。全員の出迎え。タッチ、タッチ、タッチ。小笠原が感極まったふうに抱きつく。青森一高は急遽、ギクシャクした奇妙な投げ方をする左腕のサイドスローに交代した。けっこう速い。
「見ていこう! 見ていこう!」
 相馬監督が消極的なことを言う。室井、たちまちツーストライク。三球目、焦ってボール球を振って、ボテボテのショートゴロ。チェンジ。全員ダッシュで守備につく。スコアボードを見る。五回コールドは逃した。しかし五回まで戦ったので、この先の回はずっとコールドのチャンスだ。 
 五回裏。青森一高校歌斉唱。ブンガ、ブンガ、ドン、ドン、ブンガ、ドン、ドン。小笠原にバトンタッチ。球が走っている。いける。
「テル、投げきれェ!」
 小笠原がレフトの私に右手を挙げた。


         百十四

 一番、ファーストファールフライ。チョコンの二番、強振してライト前ヒット。小笠原がビックリした顔で私を見る。笑いながらピースサインを出す。早慶ふうのブラバン、タッタータタッター、タッタータタッター、タッタータタッター。三番、粘ってサードゴロゲッツー。チェンジ。九人全員、
「オオオオー!」
 と大声を上げながらベンチへ帰還。
「一気にいきましょう!」
 私が言うと、全員が、
「ウィース!」
「トリャー!」
 などと叫ぶ。室井が、
「おめんど、くにゃくにゃした投げ方見ねで、ボールだげ見ろ。かなり速えすけ」
 六回表。ばかでかい演奏と声援。柴田レフト前ヒット。木下、センター前ヒット。四方三振。小笠原、センター前ヒット。柴田還って八対四。私は大声で、
「吉岡さん、ホームラン!」
 彼は無言でうなずくとバッターボックスに入った。ど真ん中の低目を見逃した。納得したようにうなずく。二球目、胸もとに打ちにくい球がきた。本能的にからだを開いて、山内一広のように左腕一本で払った。技あり。高く舞い上がる。切れない、切れない。ポールを巻いて内野側の芝生に落ちた。ウオー! ドンドンドンドン、ブガブガブガブガ。ホームベースへみんなで走り出ようとして審判に止められた。両手を挙げて吉岡がホームイン。泣いていない。1と書かれたスコアボードがクルリと返って4になる。十一対四。百八十センチの金のぶん回し素振りが始まった。
「いぐで!」
 初球、ぶん回す。ガシッ! 先っぽだ。さすが怪力、左中間を深々と抜いていく。セカンドベース上の金のガッツポーズに、内外野のスタンドが大拍手を送る。ワンアウト二塁。きょうノーヒットの山内。二球つづけて内角高目の直球を三塁側スタンドへ詰まったファール。もう一球そこへきたら打ち取られて終わりだ。三球目、くにゃくにゃ投手が腕を振り下ろしたとたん、
「低目! カーブ!」
 と私は叫んだ。実際真ん中低目にきたカーブを山内が掬い上げた。ライナーがセンター上空へ伸びていく。センターが背走する。
「よっしゃ、越えた!」
 相馬が叫ぶ。センターの頭上を越えてワンバウンドでフェンスにぶつかる。金生還して十二対四。二塁に滑りこんだ山内が、ベース上で私に向かって合掌している。私もバッターボックスへ歩きながら合掌し返した。スタンドに笑い声がさざめいた。
「金太郎、もう一本!」
 室井がバッターボックスへ向かう私の背中へ声を投げた。スタンドのどよめき。
「神無月ィ!」
「怪物ゥ!」
「足柄山ァ!」
 初球、顔に向かってくるカーブ。しゃがんで難なく回避。もっと速いカーブだったら頭に当たっていたかもしれない。ヘルメットが必要な理由が納得できた。二球目、左ピッチャー特有の真ん中から外へ逃げていくカーブ。初球に恐れをなして腰が引けると読んだのだろう。あんなヒョロヒョロカーブに腰が引けるわけがない。踏みこんで、バットを放り出すようにしながら両手首を絞りこんだ。
 ―よし、芯を食った!
 期待の大歓声の中、ボールがぐんぐん九十八メートルの左翼フェンスに近づいていく。
 ―足りない!
 古山や佐久間たちが立ち上がったのがはっきり見えた。コンクリート塀の縁に当たって跳ね返り、グランドに転がる。フルスピードでベースを回り、スタンディングダブル。山内ホームイン。ベンチ全員が立ち上がって拍手している。青高スタンドから贅沢な失望のざわめきが上がる。そうそうつづけてホームランなんか打てるものか。十三対四。応援歌が立ち昇る。
「青高健児われなるぞー、輝く正義、名も高くー、常勝軍のその名あるー、青高健児を知らざるやー」
 二度三度と繰り返される。ノーアウト二塁。これもきょうノーヒットの室井がバッターボックスに立つ。私は二塁から彼に向かってセンターを指差した。彼は親指と人差し指で丸を作った。低くしゃがみこんで構える。センター返しだ。できれば短打ではなく、あいだを抜いてほしい。初球見逃しストライク。二球目、コーン! 乾いた音が響いた。灰青色の空へ黒ずんだボールが舞い上がる。センターへの深いフライだ。取られる。タッチアップのためにセカンドベースに戻る。センターがボールをグローブに収めたとたん、タッチアップ。センターまさかの落球! しまった、タッチアップじゃサードまでしかいけない。室井はぎりぎり二塁へ滑りこんだ。ワンアウト二塁、三塁。あと一点で十点差だ。コールドに届く。
「柴田ァ、外野フライでいいぞォ」
 相馬の余裕の声。柴田もバッターボックスで余裕ありげにうなずいた。怒り肩を落として、いい感じに構える。しかし外野フライは狙っては打てない。強振。おっと、ピッチャーゴロ。ランナー動けず。三塁ランナーはおいそれとは還れないものなのだ。だからよくスクイズが利用される。それでは気持ちが敗けている。たとえ失敗しても猪突しなければならない。ツーアウト二塁、三塁。
 ―木下、ここはゴロを打て。エラーがある。
 ノッポの木下は高目を大根切りした。ワンバウンドでピッチャーを越え、センター前へ抜けそうな深いセカンドゴロ。よし、それでいい。私は足からホームに滑りこんだ。木下間一髪セーフ。室井三塁へ。十四点。六回で十点差。この裏を零点に押さえればコールド勝ちだ。しかし一高は一挙に大量得点できるチームなので、まだ安心できない。
「四方、調子こいてると引っこめるど。甘えるな!」
 三塁ベースから室井が怒鳴った。ただ一人の一年生である四方は、目を強く見開いて、
「はい!」
 大声で応えると、足もとをしっかり均した。ここまで彼はサードライナー、ファーストゴロ、三振。たしかに練習試合ではホームランを打っているし、大抜擢の一年生だから大目に見てもらえるという甘えもあったかもしれない。彼は高目を躊躇なく二球見逃した。ワンエンドワン。慎重になっている。いや、小才の利く男なので、じつは高目を狙っているのかもしれない。三球目、外角のシュート。低い。手を出した。一塁線へファール。上体をのめらせただけのわざとらしいスイングだ。やっぱり高目を狙っている。四球目、外角高目のカーブがきた。腰を据えてハッシと打った。目の覚めるようなライナーがライト前に転がった。室井悠々生還。十五点。十一点差。室井はベンチに走りこんできて私の胸をこぶしで突き、
「この試合、落どしたら、神無月の花道は一巻の終わりだすけな。十一点差ならいがべ」
 小笠原がセンターフライを打ち上げて、六回表が終わった。
 守備に散る私たちに相馬が、
「これで終わったと思うなよ。油断せずにいけ!」
 テルヨシは二者連続三振、ショートフライ一つ、一人のランナーも出さずに締めくくった。彼はベンチに戻ってくる仲間全員と大笑いながら握手した。
「ゲーム!」
 審判の声。サイレンの音。二時四十九分。十五対四コールド勝ち。スタンドは優勝したような騒ぎになった。青森一高の選手たちと試合後の礼と握手をしたあと、ベンチ前に並んでカズちゃんと山口とヒデさんと一子の顔を見ながら校歌を唄い、バックネットの葛西一家に帽子を振り、それから素直に新聞社のカメラの前に立った。どのマイクの前でも、うれしいです、次の試合もがんばります、と繰り返した。転校のことを蒸し返して問いかける記者はいなかった。
 晴れやかな気分で仲間と球場から公園口まで歩く。ファンのカメラや新聞社のフラッシュが近づいてきては去っていく。葛西さん一家の姿はなかった。試合後に早めに帰ったのかもしれない。
 ヒデさんと一子が公園の入口に立っている。彼女たちから少し離れたところで、カズちゃんと山口が手を挙げた。二人のあいだに何かやりとりがあり、山口が走ってきて、私に一万円札を渡すと、またカズちゃんのところへ戻っていった。先に帰るという合図をして、二人で笑い合いながら大通りへ出ていった。私は尻ポケットに金をしまうと彼らに手を振った。
「相馬先生、きょうは、わざわざ野辺地から知り合いの中学生と高校生が観戦にきて、デートしてほしいと言ってますから、このまま帰らせてもらいます。公園口から青森駅まで歩くだけのデートですけど」
 相馬は寛容な笑いを浮かべ、
「照れるな。おまえは歌舞伎役者みたいなもんだ。贔屓筋がいるのはあたりまえだ」
「女ウジャウジャ、ウジャパーってが」
 佐藤の意味不明の合いの手にみんなドッときた。相馬がその笑いを収めるように、
「あしたの練習は、二時から六時の四時間だ。モテすぎて遅れるなよ」
「はい」
 私はグローブとタオルを入れたダッフルと、バットを小笠原に渡した。彼は私の肩に手を置き、
「部室に置いとく。きょうもおかげで勝たせでもらったじゃ」
 そうだ。そうだぞ。おめのおかげだ。野球がおもしろくて仕方ねじゃ。みんなで私のからだのあちこちを叩く。相馬が、
「……ネット裏のやつらが喉から手を出すのは、大学入学以降ということになりそうだな。とにかく花道の第一歩目は踏み出した。このまま先へ進もうじゃないか。花道は長ければ長いほど客席から声がかかって賑やかだ。私たちは来年も野球をすることができるが、金太郎さんはしばらく冬眠しちゃうわけだから、少しでも野球を忘れないように賑やかな思い出を作っておかないと」
 室井が、
「神無月、オラんども精いっぱいやるすけ、おめも大暴れしてくれじゃ」
「はい!」
 私はみんなに一礼すると、ヒデさんたちに近づいていった。堤橋のほうへ歩きだす。振り返ると、小笠原たちが手を振っている。
「野球って、こんなに興奮するものだと思いませんでした。一回に四点取られたとき、いったい何点取られるんだろうって……。五回まで神無月さんのホームランで一点しか取れなくて、もう万事休すだって思ったら、あれよあれよという間に―」
 ヒデさんがはしゃぐ。
「野球に万事休すはないよ。一イニング十点なんてのはザラ。野球は、絶望を楽しめるように自分を改造するゲームだ」
 一子は微笑みながら、
「去年も思いましたが、ふだん静かな神無月さんが野球をしているのが不思議な感じです。まるで大草原のチーターみたい。ふだんは、野球のヤの字もにおわせないのに」
 一子の言葉を聞き流すふうにヒデさんが、
「……山口さんの隣にいた女の人はだれですか? とてもきれいな人」
「現人神(あらひとがみ)。北村和子。三十一歳。六年間ぼくを守ってくれてる女神」
 ヒデさんは明るく目を見開き、
「やっぱり、神無月さんにはそういう神さまがいたんですね! 六年も神無月さんを見守ってきたなんて、すごい」
 晴ればれと空を見上げる。一子はうつむいて歩く。カズちゃんを実際目にしたのがショックなのだ。それでもあえて表情を明るくして、足どりを弾ませる。二人の女が私と顔を見合わせて笑う。一子が、
「才能があるって、いいですね」
「そうだね。それを発揮できたらとてもいいことだね。でも、才能があるとわかったら持ち腐れにしないように努力しなくちゃいけない。努力してはじめて、ああ才能を生かして生きているなと思えるから。才能とまで言わないまでも、目立ってすぐれた特技がないと、人はがんばる喜びを知らないでぼんやり生きてしまう。どんなことでも、最低限、目立つところまでは努力して、なおかつ人並以上にすぐれたものにしていかないとね」
 一子が、
「目立ってすぐれた特技を手に入れられない人は、ボンヤリ生きて死ぬしかないんでしょうか」
「そんなことはまったくない。……努力して自分の命を感じるもの、努力しなくても本能的な誇りを感じるもの、そのどちらにも属さない次元の高いものがあるんだ。努力で充実させる生命感や、天然の自分を誇らかに思う自尊心と関わりのないものがあるんだ。ひたすら驚くしかないものがね」
 ヒデさんはますます明るく目を見開き、
「何ですか」
「愛だ。愛に驚いて初めて、努力しても得られない、プライドで支配することもできない人間の奇跡に気づく。努力やプライドに満足してボンヤリ生きていた人も、ボンヤリしていられなくなる。愛に驚くだけで人は生きる意味がある。愛に驚く心さえない人は、そう……ボンヤリ生きて死ぬしかないね」
 ヒデさんは激しくうなずき、
「新聞に載ってた神無月さんの言葉―『自分というものの存在意義を見つめて生き直す。勉強をし、本を読み、人間関係を深めながら』って、そういうことだったんですね」
「うん。ぼくはプライドの高い、よく努力する人間だけど、人を愛する心の薄い人間だったから、ボンヤリ生きてきた。人よりも自己愛の壁が堅かったからだね。だから、そんな壁の中でボンヤリしていないで、もっともっと強く驚く必要があるんだ」


(次へ)