百二十四

 私は深く頭を下げ、
「褒められる一方で申しわけないので、唐突ですが、お礼に歌を唄います。ぼくは身のほど以上の厚意に感激すると、唄いたくなるんです。山口という友人の話によると、ぼくの声は人を泣かせて慰める声だそうです。青森を去るのは本意ではありません。その無念を唄わせてください。橋幸夫の『あした逢う人』という曲です」
 私はすぐに唄い出した。

  雨降りゃ雨に 雪降れば雪に想うよ 
  北斗星 雲が悲しくさえぎろうと
  七つの星は消えやせぬ
  あしたは逢える あの人に 


 割れんばかりの拍手が起こった。バスの運転手はとつぜん松原通の道のかたわらに停車し、後続のバスをやり過ごした。あと五分もすれば青森高校だ。運転手はうなだれて耳を立てた。私は唄いつづけた。  

  アカシアそよぎ 唐きびを焼いて売る店
  北斗星 鐘が鳴る鳴る北の街
  二人の恋の実よ 稔れ
  あしたは逢える あの人に


 バスの中が賞賛の叫びと拍手に満たされた。教師、応援団、チームメイト全員が手を激しく拍ち合わせている。
「なんて声だ!」
「信じられね」
 相馬が私を抱き締め、小笠原や室井が二人を巻き取るように腕を回した。運転手が運転席を離れ、帽子を取って私にお辞儀をした。
「ありがとうございました。運よく、すばらしい場所に同席させていただきました。一生の宝になりました。あさっては別のバスの運転です。優勝を祈っています」
 ふたたびバスが走り出した。西沢が私の肩に遠慮がちに手を置いた。
「去年のバス旅行の歌もすばらしかったが、きょうの歌は胸をえぐった。きみと別れるのは悲しいよ。しかし……仕方ないな」
 石崎が、
「熱でも出して、転入試験落ちないかな」
 西沢が、
「いや、熱を出しても受かるでしょう。とにかく神無月の姿を目に焼きつけておくことです。おそらく、二度と会えませんよ」
 正門でバスを降り、相馬と私たち野球部員は、教師や団員一人ひとりと握手しながら彼らが黄昏の校庭に消えていく姿を見送った。みんな振り返って何度も手を振った。降りしきる雨の中でだれも傘を差していなかった。先着していたバスには、すでにブラバンや応援の学生たちの姿はなかった。相馬が、
「あした十一時、このグランド集合。あさっては一学期の最終授業だが、野球部員は出なくてもいい。金太郎、石崎先生があしたのホームルームにだけは出てきてほしいそうだ」 
「わかりました」
「神無月、じゃな!」
 チームメイトたちも手を振って更衣室へ消えていった。私はダッフルとバットを手に健児荘へ歩いていった。
 玄関の軒灯の下に山口が待っていた。
「お帰り。きょうも神業を見せてもらった。おまえのスィングは軽く振ってるようで、眼にも留まらないな。アッという間にボールがスタンドに飛びこんでいく。美しい」
「ありがとう。そう言ってもらうためだけに、バッターボックスに立ってるようなもんだ」
「あしたは勝つか」
「たぶん、勝てないな」
「どっちでもいい。あしたの夜はゆっくり、和子さんとめしでも食いにいくか」
「そうしよう。イリマス亭というところで煮魚を食おう」
 食堂に入る。七、八人の学生とユリさんが拍手で迎えた。天井の周囲に銀のモールが垂らしてある。
「決勝進出、おめでとう!」
 ユリさんがにこにこ笑いながら、ローストチキンの皿をめいめいの学生の前に出す。雨に濡れたユニフォームを着たまま、山口と腰を下ろす。
「最初の試合と、きょうの試合を観にいったんですよ。興奮しました」
「握手してけろ」
 いつもは無愛想な学生たちが順繰り手を握ってくる。
「プロの手だでば」
「硬(か)でな。マメでごつごつしてら」
 かつて劣等感のもとだった手を誇らしく感じる。
「どんどん食べて、食べて」
 豚汁とどんぶりめしも置かれる。いっせいに箸をとった。全試合を観ていたという学生が、
「体重は何キロですか」
「七十六、七。身長もそのくらい」
「二、三年で、八十一、二、身長も同じくらいになりますね。ぼくは野球が好きで、自分の部屋のテレビでプロ野球をよく観るし、ほとんど二軍戦ですけど市営球場でプロ野球があるときはかならず観にいくようにしてますが、あの打球は九十キロ近い体重のある選手のものです。飛距離もズバ抜けてる。魔法を見てるようだった」
「才能というのは魔法だよ」
 山口が言った。
「野球は神無月の魔法遊びなんだな。息を抜いてやる遊び。才能があればすむことは、こいつにとってすべからく息抜きの遊びだ。息を抜かないところでは、残念ながら魔法を発揮できないんだよ。死にもの狂いで、正攻法で、自分の存在理由を考えてるからね。息を抜くところで才能という魔法を使って見せても、息を入れるところでは何の才能もないコテコテの真人間だ」
 一人の学生が、
「それって、なんか……大きいですね」
「人間の振幅という意味ではね。しかし、他と比べて大きいというんじゃない、このままだ。神無月は相対の世界には住んでない。上昇、下降、大小を言うのは相対論者で、こいつはここにこうしているだけだ。オーバーな話をしてるんじゃない。目に見える才能を褒めるのは簡単だ。その才能で相対的に上昇していってほしいとも思うだろう。しかし神無月が本能的に目指しているのは、人間的なアウフヘーベンなんだよ。比較じゃない。その手段は、多くの種類の人間に出会って、齟齬を感じて、鈍くさく苦悩することしかないんだ。そういう目に見えない苦しみに同化するのは難しいぞ」
 そう言いながら、チキンをむしゃむしゃ食い、めしを頬張り、豚汁をすすっている。学生たちは猫だましを食らったような顔をして、盛んに箸を使いはじめた。ある学生が、
「何を苦悩するんだべなあ。才能があって、その才能を褒める者がいれば、苦しむ必要ねんでねが」
 またほかの学生は、
「そんだ、そんだ、オラも神無月くんは贅沢な気がする。あの新聞記者の書いてだ新聞記事も、まんず、よぐわがらね。万々歳の人生を捨てて遠くさいって、野球休んで、大学さいって、また野球始めてっていう、面倒くせ回り道の意味がさっぱりわがんね」
 彼らは私の顔に何となく社会生活の敵という影を発見しているようだった。はっきりした敵意で遇されるのはいちばんラクだった。
「自分を主人公とする人生なら、そういう疑問がでてきて当然だな。他人を主人公にしてやると、そういう回り道になる。神無月は自分を無意味な人間だと思ってるんだよ」
「無意味!」
 学生たちの箸と口が止まった。
「そう、無意味。だれだって、ヤケになれば、自分を無意味だと思うことはある。神無月の無意味はそんなのとはちがうんだ。不可避的に襲ってくる無意味に、四六時中直面してるんだよ。凡人が自分を無意味だと考えるのは、非常に世俗的な理由がある。不治の病だとか、業績が上げられないとか、容貌や才能に対する劣等感とか、相応の理由がある。そういう理由を持った人間を、神無月は軽蔑できる地点に立っている。いや実際には、軽蔑しやしない。それ以前に、関心がない。そんな理由で神無月に無意味がやってくるんじゃない。自分はがんらい無意味だという諦観が根本にあって、意味のある他人の存在を尊重し、彼らにうまく応えられない自分に苦悩する、その総合的な営みを自由に行なっているということだ。その〈苦悩〉の自由を守るためには、ものごとを自分に意味があるという地点から始めてはいけないんだ。そんなことをすれば、挫折したり、絶望したりして、ようやくヤケッパチな無意味に直面することになる。それはただの感傷だ。つまり命が惜しいやつのやることだ。神無月の前には、すでに最初から無意味が鎮座しているということだよ。神無月は無意味にたどり着く必要はないんだよ。無意味という名の自分といっしょに生きて、一人ひとりの意味ある他人に従おうとしてるんだ」
 長広舌を終えると、山口はまたひとしきり、食卓に関心を移した。私は彼のみごとな分析に泣きたいほど感動していたが、学生たちやユリさんには、まったく飲みこめないようだった。みんな話の接ぎ穂を見つけられず黙ってしまった。
「ごちそうさん、うまかった」
 山口が箸を置き、手の脂をズボンの腿でこすると、ユリは思わず、
「お粗末さま」
 と言った。山口と二人で廊下に出た。
「ありがとう。みんなを煙に巻いてくれて」
「救済者の根本を説いただけだ」
 私たちは生涯逸らさない視線を交わし合った。
「おい、山口。おまえ東奥模試で一番になったぞ。県で一番だ」
「ほんとか!」
「バスの中で猛勉に聞いた。ぼくは六番だそうだ。立つ鳥跡を濁さず。おたがい幸先がいいな」
 握手し合う。
「コーヒー飲んでけ」
「うん。このユニフォームと交換に、カズちゃんから最後のユニフォームを受け取ってからね。出発はいつだ」
「あさっての昼の飛行機。あしたの夜は、三人でめしを食って送別会だ」
「オッケー。あさっては空港まで送る。荷物はどうするんだ」
「あしたの夕方、運送屋に蒲団以外のものを持ってってもらう。おまえは?」
「今月いっぱい勉強する。三十一日に、カズちゃんとやっぱり飛行機でいくよ」
「そうだな、ここでグズグズ勉強しててもロクなことにならない。……優勝したらどうする?」
「やっぱり、三十一日に名古屋へいく。グズグズしててもロクなことにならない」
「うん、甲子園にいっても、目先の野球人生が変わるわけじゃないからな」
 山口と二人でカズちゃんの家にいく。汚れたユニフォームを脱いで預け、新品のユニフォームを受け取る。
「風呂に入る。山口は?」
「和子さんとコーヒー飲んで待ってるよ。決勝戦前の自粛をするために俺を連れてきたんだろ?」
「まあね」
「一人できたって、私が断ったのに」
「それは無理でしょう」
「三十一日、いっしょに名古屋にいくよ」
「あら、そうしたの? わかったわ。北村にちゃんと伝えとく」
 風呂から上がると、ユニフォームを入れた紙袋を提げ、健児荘に戻った。山口の部屋でコーヒーをすする。畳も机もさっぱり片づいている。狭い部屋だったとあらためてわかる。彼は手帳にメモして破り、
「これが俺の住所だ。おまえが名古屋から便りをよこしたら返事を出す。八月中に遊びにいく。おまえがきてもいいな」
「おトキさんとの約束を破っちゃだめだ。おまえが名古屋にこい」
「わかった。じつは早くおトキさんに逢いたいんだ。よろしく言っといてくれよ」
「ああ、言っとく。じゃ、グルックの精霊の踊りを聴かせてくれ」
「よし。あしたの授業は出ないぞ」
「ぼくはホームルームだけ出る。担任の石崎がきてほしいそうだから」


         百二十五

 ホームルームの時間に、石崎が改まった調子で言った。
「神無月が転入試験を受けに名古屋へいく。非常に残念だが、彼の前途を心から祝福する気持ちもある。合格したらそのまま名古屋定住だ。落ちたら青高に戻ってくることになってるが……おそらくもう戻ってこない。あしたは神無月の最後の試合だ。応援にいって神無月のホームランを目に焼きつけてくれ。神無月、どうにかして一本打ってくれよ」
「がんばります」
「ちなみに、新聞記事によると、神無月のプロ入りに障害があることが諸々の球団に知れたので、東大を卒業するか中退するまで誘いをかけないことになったそうだ。そんな障害さえなければ、卒業まで青高にいて、順調にドラフト一位指名だったろうに―口惜しいかぎりだ。神無月の特殊事情からきていることだから、とやかく口出しはできないが、こういう不運な人間もいるというのは心に沁みる。ま、この先もずっと、神無月の野球再開の情報を見逃さないようにしてほしい。じゃ、神無月、ひとこと」
 私は座ったまま教室全体を意識しながら、黒板に向かって素直な辞儀をした。それから教壇に進み出た。
「あした一本打ちたいとは思ってますが、全国でも有数のピッチャーなので、期待に添えるかどうかわかりません。石崎先生がおっしゃったとおり、青高を卒業してすぐプロへいくのがぼくの最高の幸せでした。しかし事情があっていけません。ドラフトがかかるのをこの先数年待たなければならないのは時間のむだのような気がしますが、急がないで構えようと思っています。そして、いつかかならずプロ野球のグランドに立ちます。そのときみなさんとテレビのブラウン管でお会いします」
 教室がシンとなった。やがて、ごそごそと女生徒たちが囁き合っている気配がした。一人が唇をへの字にして泣いていた。私はその生徒が猫背になって一心に英語の辞書を引いている姿を思い出した。
「これでもまだ、神無月は自分を抑えてしゃべってるんだ。野球にまつわる生活を捨てて、一年でも早く環境を変えたいというわけじゃないんだ」
 私は少し声を高めた。
「みなさん、長いことお世話になりました。愛知県の名古屋西高という高校に転校します。青高よりかなりランクの低い高校です。そこにしか欠員がありませんでした。硬式野球部もありません。そこでひたすら勉強します」
 教室に古山と木谷とテルヨシがいたことに気づいた。
「古山、木谷さん、あのときは看病にきてくれてありがとう。木谷さん、竜飛旅行のバスのおにぎりありがとう。おいしかった。テルヨシ、六大学できっといっしょに野球をやろうな。古山、あの部屋にこれまで集めた詩集をぜんぶ置いていく。いつでも大家さんから受け取ってくれ。ぼくは優勝するしないに関わらず、今月三十一日に出発します。きょうここにいない山口は、一足早く東京へ旅立ちます。彼も転入試験のためだけれど、ぼくにほだされた結果です。しかし、無理心中の道づれという気持ちはまったくありません。彼は独自の道を歩み、遠からずギターで名を成します。ぼくの成功よりも確実です。いつの日かどこかの街を歩いていて、ぼくたち二人を見かけることがありましたら、かならず声をかけてください」
 なぜか無性に首吊りのことを話したい衝動を覚えたが、抑えた。私はこれといった重大な理由もなく、そのくせこれしかないと信じて首を吊った。この教室には、けっして死に急がない同年齢の男女がいる。明るい教室だ。彼らは毛糸のセーターを編むように、時間をかけてゆっくりと自分の死を編んでいく。窓からひんやりした朝の風が流れこみ、教室の明るい闇を冷やした。
「―一年半お騒がせしました。じゃ、みなさんお元気で、さようなら」
 みんなはハッと顔を上げ、いっせいに応えた。
「さようなら!」
         †
 山口はカズちゃんと球場へいくために一足早く出た。三十分ほど、ユリさんと二人きりになった。麦茶を二杯お替りした。
「私にはもったいない人だって、ずっと思ってましたけど、神無月さんへの気持ちが信心みたいな気持ちに変わってしまって」
「もう部屋にはこないの?」
「畏れ多いんです。もし抱いてもらえるなら、一度一度が、とても大切な思い出になります。……気持ちが抑えられなくなった夜は、伺わせていただきます」
「マカ不思議な一年だったね」
「神無月さんに会ってから、どんなことも不思議に感じなくなりました」
 ユリさんは怖いほど大きな目で、私の顔を深々と覗きこんだ。奇妙な人間はおたがいの奇妙さを犬のように嗅ぎつけるのだろう。ユリさんは、私が実用的な人間でないということを、出会ったとたんに見抜いたにちがいない。私はユリさんにそっと口づけをした。部屋に戻ってユニフォームを着た。
「いってきます」
「いってらっしゃい。ラジオを聞いて応援してます」
 正門前のバスは三台に増えていた。それを横目に見ながら、相馬の訓話を聞いた。
「二年連続で決勝まできた。きのう応援団長も言っていたが、夢の中にいるようだ。夢なら怖くない。勝っても負けても、夢だ。何も考えずに、はしゃぎにいこう。金太郎さんをよく目に焼きつけておけ。最後の姿はもちろん、技術、打撃、守備、走塁の集中度もぜんぶだ。それが来年のおまえらの財産になる。応援する人たちへの感謝を忘れずにね」
「オェース!」
「じゃ、室井キャプテンからひとこと」
「準決勝、決勝はコールドはねたって、大差負げは避けるべ。負げると決まってるわげでねけんど、ピッチャーがうだで速いはんで、マグレでしかヒットは打てねと思る。おまけに義塾はコンスタントに打ってくるチームだ。打ち出したら止まらね。一回戦二回戦はコールドだ。一回戦は十九点、二回戦は十八点。おっかねな。ほかに何も言うことはね。オラも夢の中で必死こくじゃ」
 選手たちが恐怖混じりの上気した顔を見合わせる。相馬が心配そうに、
「小笠原、肩の具合はどうだ」
「バリバリです。百四十は出せます」
「ライバル意識を出さなくていい。百五十の男に敵うわけないだろ。丹念にいけ」
「はい!」
 室井が手を挙げて、
「言い忘れだ。四番の杉山のとぎ、外野守備、いつもより深くしてけろじゃ。どの打者にもなるべく低目つくすけ、内野ゴロが多くなると思る。深いとごろで取ったら、無理しねで内野安打にしてしまれ。暴投するよりいがべ」
 きょうも曇っているが二十八度と気温は高い。風はこの数日でいちばん強い。並木の枝がザワザワ揺れている。
 バスに乗りこむ。運転手は無愛想にフロントガラスを見つめていた。きょうから夏休みに入ったせいか、教師のメンバーが増えていた。生暖かい空気が、車内の人びとの体臭と入り混じって、久々に私に社会生活のやりきれなさを感じさせた。だれも自分のにおいに気づかないからこそ、社会は円滑に営まれている。学生の四、五日も洗わない頭皮のにおい、中年男の煤けたブリキ煙突のにおい、食ったばかりのめしのにおい。私は自分だけは無味無臭だと思ってみたけれども、それほど強い自信はなかった。
 女人禁制のような車中に、西沢といっしょに、夏物のセーラー服を着た木谷と鈴木が乗っていた。私が見咎めると、相馬がにこにこしながら、
「この秋から、サブマネジャーとして入部することになった。野球の魅力に取りつかれたらしい。きょうは長田の見習いだ。この格好でベンチに入る。男ども、色気出すなよ」
 色気など出しようがない。社会の一員である彼女たちも、処女に特徴的な厭世のにおいを発しているからだ。下心のない部員たちの笑いの中、二人でぺこりと頭を下げる。鈴木が私に熱い視線を投げてよこした。木谷は頬を赤くしてすがすがしい笑いを浮かべた。長田が、
「きのうは、スコアブックのつけ方を教えました。力仕事もどしどしやってもらおうと思ってます。秋季練習からは、青高のジャージを着てもらいます。何より、ベンチが明るくなるのがありがたいです」
「この、この」
 と長田は仲間に小突かれる。応援団が全員立ち上がり、礼! と言って選手たちにからだを折る。
「申し遅れてすみません。私、三年七組、石戸谷と申します。僭越ながら、本日一日、応援の指揮をとらせていただきます」
 団長が頭を下げる。奥の席に、東奥日報の腕章をつけた記者がカメラマンを連れて乗っていた。あの記者だった。私は近づいていき、小さく礼をした。彼は微笑みながら、
「あの記事に注目してもらったおかげで、特別にバスに乗せていただきました。きょうから四季折々、と言っても野球の盛んな季節か、進学の季節でしょうが、神無月選手の現況といったような内容で追跡記事を書く許可をいただきました。おそらく年に二度ほど、名古屋に出向いて取材をしたいと思います。よろしいでしょうか」
「どうぞ。ぼくが進路を曲げたり、落ちぶれたりしてもレポートしますか」
 彼は笑いながら、
「たとえ浮浪者になっても、いや、冗談ではなく、人間神無月郷の行跡をできるだけ多くの人に報告したいんです。あなたを一度でも目にした人に、あなたを忘れてほしくない」
「ぼくは名古屋にいったら、母が賄いをしている建設会社の飯場に入ります。そこから名古屋西高校という高校へかよいます。その高校は軟式野球同好会しかないので、野球はやりません。受験の名門校ではありませんが、とにかくそこでまじめに勉強をします。一年半は東大に合格するまで坦々とした生活になります。東大不合格の場合は、もう受験はせずに、自主鍛錬をしながらプロのドラフトを待ちます。たぶん未成年のうちは母の横槍が入るでしょうから、二十歳になってから野球関係者等、周囲の協力を得てプロ入りすることになると思います。東大に合格した場合は、春季リーグか秋季リーグの終わりをメドに、少しでも早く中退してドラフト待ちをします。東大の肩書があれば、母の横槍は多少鈍るでしょう。とにかく、先々の母の執拗で陰湿な嫌がらせを予測できる以上、東大に入っておくのが、プロに進むための最も効率の高い方策だと思いますから」
「わかりました。私も坦々と取材のプランを練ります」
 二つ、三つフラッシュが光った。恋心はいつか消える。彼は嘘を言っているのではないけれども、人の情熱の持続について信頼しすぎているところがある。たぶん、一度追いかけるくらいで終わりだろう。相馬が立ち上がり、
「じゃ、きょうの守備と打順は黒石戦と同じ。四方はベンチ。柴田、七戸、吉岡のうち不調の者があっても、ケガをしないかぎり交代させない。小笠原は完投予定。打ちこまれたら、佐藤、三田、沼宮内の順でいく。室井、きょうはジャンケンに勝ったらどうする」
「もちろん先攻です」
「ベンチはトーナメント表の上位記載の東奥義塾が一塁側、青高は三塁側だ。先生方はネット裏に席が確保してあります。三塁スタンドで応援したい方はご自由にどうぞ」
「団歌、四番!」
 応援団長の黒づくめのからだが立ち上がり、両腕を交差させながら振り回しはじめた。

  よしや敵軍強くとも
  打てば敗れんことやある
  常勝軍の誉れある
  青高健児を知らざるや


 拍手。とりわけ教師連の盛大な拍手。
 合浦公園の入口に着いた。どやどやと降りて松並木を進む。露店がいくつも出て、きのうに数倍する大勢の人びとがたむろしている。私たちにキャーキャー声がかかる。教師たちや応援団と別れ、両軍合同の控室に入る。十一時半。記者団の注目の中、キャプテン同士のジャンケン。
「負けたじゃ」
 労せずして先攻になる。青高チームが喜ぶのを義塾チームは訝しげに見つめる。体格のいい四郎がいた。横幅が大きい。親しく口を利くことはできない。視線を交わしてうなずき合う。
 三塁ベンチ裏の自軍のロッカールームに入る。ロッカーの前、長卓を何脚か並べ合わせた上に、ポットや湯呑やタオル類が整然と載せてある。独特の臭気に満ちた空間を木谷と鈴木がきょろきょろ眺め回している。空のロッカーも清潔そうに並んでいても、長年のあいだに蓄積した汗の臭気は片づけることができない。短髪の木谷は明るく頬を赤らめ、鈴木は光沢のある髪をうねらせながら、女にしか浮かべられない微笑を浮かべる。桑子の腕をすり抜けたときの高橋弓子とそっくりだ。
「この二つのバケツに氷を入れてあるすけ、そごさ水道の水を入れて、ベンチの両脇に置いてください。柄杓も突っこんどいて」
 長田が二人に命じる。
「はい」
「おめ、いっつも、どごで氷仕入れてくるのよ」
 金が長田に尋く。
「同級生が新町の製氷屋の息子なので、試合開始の一時間前に持ってきてもらってるんです。三十分ぐらいでいい具合に融けるから、ちょうどいいんです。神無月さんが氷買ってこいって言わなかったら、思いつかなかった」
「水なんか飲んでいいんですか」
 鈴木が訊く。薄っすらと笑った口もとから、味噌っ歯が消えてている。すると顔全体の造作が一瞬のうちにまとまって、恐ろしく美しいものとして飛びこんできた。私はあえて、その歯は? と聞かなかった。
「禁止はされてね。頭にぶっかけるやつもいるすけ、空になる前に次の氷と水を足して。一時間したら、ベンチの裏から二つ目が届ぐこどになってる」
「なるべく飲用にしてもらったらどんですか」
 木谷がきょとんとした顔で尋く。山内が睨みつけて、
「そうはいがねんだ。アダマうだるすけ」
 カメラマンが三、四人サッと入りこんできて、フラッシュを焚きまくり、またサッとベンチのほうからグランドへ出ていった。
「守備練習だ。いぐぞ。外野、好きだようにパフォーマンスしてくれ」
「オース!」


         百二十六 

 ベンチを突っ切って、グランドへ飛び出していく。グランドで待ち構えていたカメラマンたちがブルペン脇の塀ぎわに散ってフラッシュを閃かせる。
 これが最後だ! 文字どおり立錐の余地もなく詰めこまれた観衆がざわめいている。夏服で紙の表面のように白くなったスタンドにフラッシュの閃光が拡がる。見つめると、目がちかちかする。外野へダッシュ。山内と金と競争するようにセカンドまで走り、扇形に別れていく。ほうぼうでフラッシュが光る。
 キャッチボール。センターからライトへ、ライトからセンターへ、センターからレフトへ、レフトからセンターへ。義塾ベンチが身を乗り出して見つめている。内野守備のバックアップに備える。相馬はわざと三遊間、一、二塁間へボールを打つ。ショート七戸とセカンド吉岡の連繋プレーが絶妙だ。いつのまにこんなにうまくなったのだろう。
 二本に一本は三遊間を抜けてくる。低いボールでセカンドへ投げ返す。観客席の反応はない。同じように一、二塁間を抜けていく。金が低いボールをセカンドへ返す。やはり反応がない。三塁線を抜くボールがフェンスに撥ね返る。掬い上げ、振り向きざまセカンドへ送球する。ようやく、
「オオー!」
 という嘆声が上がる。今度はライト線に落ちたボールがフェンスに当たる。金の渾身の返球。
「ホォー!」
 いよいよバックホームだ。手持ち無沙汰にしていたセンターの山内へ高いフライが上がる。捕球して矢のような送球。ワンバウンドでキャッチャーの胸に突き刺さる。ほんの少し観客席が沸いた。同じく金。強肩だ。低い放物線のボールがノーバウンドでみごとに室井のミットに収まる。すばらしい返球なのに反応は冷たい。私の返球が見たいだけだとわかる。見せてやろう。レフト定位置にライナー性のフライが飛んできた。走りながら捕球して二度ステップを踏み、倒れこむようにしながら腕をしならせる。勢いのある低いボールがマウンドの右手を通過して、茶色い顔の男たちが居並ぶバックネット目がけて滑空していく。到達地点でわずかに浮き上がり、バシン! と室井の肩口に吸いこまれた。空に昇る喚声。三人全速で駆け戻る。
 サイレンが鳴って、義塾の守備練習。真っ白いユニフォーム、臙脂のラインの入った白いストッキング、赤い背番号、胸に赤い To.O のロゴ。ノックはほとんど内野のみで、外野はキャッチボールをしている。内野ノックは速射砲のように打ち出す。四郎のほかは肩の弱い担ぎ投げが多い。四郎の手首が強くなったことが、送球するときのしなり具合でよくわかる。ホームランを三本しか打てないというのは、インパクトが不正確か、手首の返しが弱いのにちがいない。もともと筋肉の硬そうな男だった。
 柳沢がブルペンでキャッチャーを相手に軽い立ち投げをしている。それだけでじゅうぶん球威がわかる。
「長田さん、杉山四郎の打率は?」
 さっそくスクラップブックをめくり、
「えーと、二割二分です」
 低すぎる。インパクトが不正確なのだ。変化球はまず打てない。
「テルヨシ、杉山には低目のカーブと、胸もとの速球。その二つを混ぜて投げてれば、ノーヒットに抑えられる」
「わがった」
「室井さん、ほかのメンバーは高低で探ってください」
「オッケー」
 雲行きが怪しい。雨がくるかもしれない。三塁側スタンドの定位置に、ブラバン、応援団、一般学生、教師、野球部の補欠たちが陣取る。その周囲を一般客が取り囲む。ほとんどの人たちが手にメガフォンを持っている。両チームの応援団の太鼓が間断なく打ち鳴らされる。ここにもテレビカメラがいる。
「お待たせいたしました。夏の甲子園大会県予選、青森高校対東奥義塾高校の決勝戦、まもなく試合開始でございます」
 女子アナウンサーの落ち着いた声が流れる。きょうは学生の声ではない。正規の球場アナウンサーが雇われたのだろう。テレビカメラが動いている。最後の試合だ。すべてを目に収めるつもりで球場を見回す。窓が十も並んだ異様に高いバックフェンス、その上には脚立を広げた何十ものカメラが列をなし、そのすぐ後ろにアマ、プロのスカウトたちが居並んでいる。吊りネット、ぎっしり満員のバックネット席、やはり満員の平べったい内野席。焦げ茶色の内野フィールド、深緑の外野の芝生、一メートル半ほどのコンクリート壁に金網を足した三メートルの外野フェンス、これもびっしり二十列ほどの観客が埋まっている外野芝生席、太めの白いポール、国旗と県旗がたなびく簡素なスコアボード。最後に球場周囲の合浦の杜の濃い緑を記憶に収めた。
「かつてこの場所に青森中学校、つまりいまの青森高校があったんだ。青中が筒井に移転して、跡地にこの球場が建った」
 相馬がベンチでみんなにしみじみと語っている。みんなで、へえ、と言う。そういう話をどう捉えていいのかわからないが、これも記憶する。
 相馬がメンバー表を交換しにいった。トンボが入り、白線がしっかり引き直される。両チームのスターティングメンバーが発表される。
 十二時半。サイレンが鳴った。ホームベースに整列。礼。義塾が守備に散り、私たちはベンチに駆け戻る。塁審と線審が走る。観客席を眺め回し、いつもの確認をする。バックネット席にカズちゃんと山口がいる。サングラスを連れた葛西一家がいる。
「プレイボール!」
 吉岡が打席に入った。喚声が沸き上がる。室井のガナリ声。
「ウェー、イグゼ、イグゼ、イグゼー!」
 柳沢の一球目。速球! 吉岡、動けない。
「速えェ!」
「戸板より重そうだな」
 相馬が愉快そうに言う。二球目、ファールチップ。バックネットにすごい勢いでぶつかる。プロ野球の試合を観ているようだ。サードの四郎の構えがいい。この二年でしっかり洗練されたのだ。空振り三振! 吉岡が走って戻ってくる。
「当たらねえ!」
「これから、これから」
 相馬が明るく肩を叩く。三振で緊張がほぐれ、ベンチの気合が増した。からだじゅうの血が動きはじめる。金がバットを振り回しながらボックスへ歩いていく。構える。バットを一握り短く持っている。来年の四番バッターだ。室井が叫ぶ。
「頼むど!」
 ど真ん中。一塁線へ振り遅れのファール。
「いいど、いいど!」
 ブルペンにいた小笠原が一瞬その打球を見つめた。速球へのあこがれの視線だ。柳沢は振りかぶり、流れるようなフォームで投げ下ろす。胸もとのストライク。直球しか投げてこない。よほど自信があるのだ。あれを叩かなくてはいけない。三球目、顔の高さの釣り球、空振り三振。スタンドの嘆息。
 山内が悠然とボックスに向かった。ドンドン、ブガブガ、ドンドン。一球目、胸もとのストレート、空振り。うなずきながらなぜか山内はベンチに笑顔を向けた。ふと球筋が見えたのかもしれない。やはりバットを一握り短く持つ。二球目、これもストレート。外角高目。ギシ! という音がして、打球がセンター前へ抜けていった。
「やったー!」
 相馬が叫ぶ。ベンチの奥でキャーという鈴木睦子の声が上がる。スタンドの希望に満ちた歓声。
「こらこら、マネージャーは冷静に」
 長田がたしなめる。ブンガ、ブンガ、ドン、ドンドン。
「金太郎、いけ!」
 背中に相馬の声。バッターボックスに向かう。ウオオーッという歓声が上がる。金太郎コールが爆発する。自信の速球を打たれた柳沢が明らかに動揺している。もっと痛手を与えるには、ヒットではだめだ。一撃必殺。ホームラン。二打席目からは敬遠がある。
 四郎を見る。赤ら顔が蒼白になっている。ネット裏のカズちゃんと山口を振り返り、葛西一家を見つめる。声を張り上げている。
 初球、外角高目のストレート。ストライク。うなるほど速い。しかし、見える。山内が笑った理由がわかった。第二球、真ん中高目、ボール。とにかく速い。胸がドクドク鳴っている。ここまで一点しか取られたことのない男。変化球を投げない自己信頼の強さでは戸板の上をいく。
 ホームランを打てば二点だ。相当なショックだろう。三球目、外角低目のボール。少しスピーが落ちた。怖がっている。当てられるのを怖がっている。ミートだけですますものか。スタンドを見る。九十八メートルフェンス。あのはるか向こうへ飛ばしてやる。
 四球目。きた! 膝もとの速球。はっきり見える。いちばん無理のないスイングができるコースだ。叩く、絞る、完了。ボールの行方を見ながら走りだす。ライナーがライトスタンド目がけて伸びていく。うなるような歓声。すぐに次元のちがう大歓声に変わる。打球がライト観客席のはるか彼方へ消えていく。
 一塁を全速で回り、その勢いのまま二塁を蹴る。歓声が追いかけてくる。トテチテ、トテチテ、トテチテター! 三塁を回るとき、四郎が小さい声で、ナイスバッティング、と言った。サンキュー、と応えた。アンパイアがホームへの出迎えを禁じる手振りをしている。ホームイン。ベンチ前に勢揃いした仲間と順繰りタッチしていく。カズちゃんと山口が握手し合っている。葛西一家が立ち上がって拍手している。サングラスまで上を向いて拍手している。戦地の〈充実〉を生き抜いてきた孤独な盲人に、私は別種の充実を与えている。私の命が役立っている! 二対ゼロ。
「ご苦労さまでした!」
 木谷が素っ頓狂な祝福をする。握手を求める。長田が、
「まだ終わってないよ。ナイスホームランと言えばいい」
「ナイスホームラン!」
 柔らかいシンナリした手を握った。鈴木が横目で見ていた。
「相変わらずスーパーヒューマンだな!」
 相馬が私の尻をパンパン叩く。補欠たちが遠慮がちに抱きついてくる。ブラバンが弾むようなスタッカートで早慶ふう応援曲を鳴らしまくっている。ベンチに腰を下ろす。とつぜん涙が流れ出した。私を祝福するためにブルペンから小笠原が笑顔で駆け戻ってきた。
「ウォーミングアップをサボるな」
「オス!」
 握手をする。私の涙を見てびっくりし、
「どした? うれし泣ぎか」
「自然とね。二点を守ろうと思うなよ。くれてやれ」
「欲なんかたげねじゃ、安心しろ」
 彼も涙を浮かべた。ため息がグランドから聞こえた。室井が三振をしたところだった。ダッシュ。金、山内とグローブを打ち合わせる。トテチテター。レフトスタンドに帽子を振る。大拍手。
 東奥義塾のブラバンの派手な演奏が聞こえてくる。膝までしかないスカートを穿いた女子学生たちが手に黄色い房を持って踊り狂っている。初めて見た。
 ―何者だ?
 一塁側スタンドからライトスタンドにかけて人工的な人波が立つ。これも変わった応援方法だ。去年まで見かけなかったものだ。しっかり記憶する。
 小笠原のボールが走っている。柳沢と比べればスピードは見劣りするけれども、切れがある。スコアボードを見やる。義塾のメンバーの名前も長く記憶しておこう。奈良岡、三上、清藤、杉山、小笠原、高木、柳沢、川崎、佐々木。柳沢が七番を打っている。バッティングもいいのだろう。
 一番、ショートの奈良岡がバッターボックスに入った。小柄なガッチリ体型の男だ。ヘルメットが白いのを奇異に感じる。初球内角、屈みこんでいる上体をのけぞらせるボール。うまい。小笠原はよくボールをこね、投球間隔もいい。二球目、真ん中低目のカーブ。よし、引っかけた。サード柴田難なくさばいて速い送球。いけるぞ! 二番レフト三上。中肉中背。ヘルメットが大きく感じる。初球、外角へ逃げていくカーブ。よし、また引っかけた。セカンドゴロ。七戸の華麗な守備。ツーアウト。三番セカンド清藤。私と同じ右投げ左打ちだ。スッとした構え。イヤな予感がする。初球、外角へストレート。空振り。清藤ののめり具合から、ナチュラルにシュートしているようだ。義塾の応援団がこぶしを前方に突き出す動作をしつこく繰り返している。二球目、もう一球同じコースへ。少し中へ入ったか! いい音がして速い打球が一、二塁間を抜けていく。踊り子たちの動きが活発になる。不思議な中性的存在。
「ドンマイ、ドンマイ!」
 センターの山内が声を張り上げる。


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