百二十七

 七回表。エール交換が始まった。青高の団長が口上を述べ、
「フレー、フレー、義塾!」
 と一声張り上げたあと、青高生たちを唱和させる。一塁スタンドも同じ唱和を返す。ブラバンは静まり、歌声だけがやり取りされる。よしや敵軍強くとも―蛮声の合唱を耳に六番柴田が打席に入る。ブラバンが早慶ふうスタッカートに変わった。
「シーバタ!」
「シーバタ!」
 柳沢の腕がしなる。
「ストライーク!」
 タッタカタッター、タッタカタッター、ドンチャン、ドンチャン。また柳沢の腕がしなる。
「ボー!」
 ドンチャンドンチャン、タッタカタッター、タッタカタッター。しなる。キン! ウオー! レフト前ヒット。ブンガ、ブンガ、ドンドン、ブンガ、ドンドン。
「キーノシタ!」
「キーノシタ!」
 ツーワンから強振して三振。七戸、二球目を打ってピッチャーライナー。小笠原、六球粘って空振り三振。ダッシュ。
 七回裏、バトントワラーの舞いが激しくなる。トテトテ、トテチテター! 振り返ってレフトの芝生席に手を振る。猛勉、古山、小田切、佐久間、藤田、千葉、そして、記憶できなかった男女の仲間たち。彼らに手を振る。彼らは傘を掲げながら歓声で応えた。
 義塾のブラバンの響き。四番杉山。
「カッセ、カッセ、スーギヤマー!」
「カッセ、カッセ、スーギヤマー!」
 ゴツいからだが悠然と構える。第一打席レフトオーバーのホームラン、第二打席サードゴロゲッツー、第三打席セカンドゴロ、どれも火の出るような当たりだった。
 初球から狙っている気配が背番号5から殺気になって発している。ホームランにならないのは外角低目と、内角胸もと。そのほかのコースはタイミングさえ合えば、すべてホームランにしてしまうだろう。
 テルヨシが振りかぶり、投げ下ろした。よし、胸もとへいった。ん? 何か四郎がアピールしている。ユニフォームをかすったと言っているようだ。アンパイアが否定の手振りをする。たぶんほんとうにかすったのだろう。仕方なく四郎はもう一度構えた。殺気が失せている。二球目外角カーブ。ストライク。ワンエンドワン。殺気が復活してきた。危ない。テルヨシ、危ないぞ! もう一度胸もとだ。それ以外どこへ投げても打たれる。
 三球目、真ん中低目ストレート。キーン! 私か? いや、センターの山内だ。少し動いて足が止まった。猛烈なライナーでセンター寄りの左中間スタンドへ白球が飛びこんだ。山内が腕組みしてその場所を眺めている。後頭部に、絶望とはちがった感銘が滲み出していた。うつむきながら四郎がセカンドベースを回る。バトントワラーのいっせいのジャンプ、応援団の演舞、ドンガ、ドンガ、ドンガチャッチャ、ブンガ、ブンガ、ブンガチャッチャ。ブラバンの喧騒の中へ5番が消えていく。十一対十。演舞を終えた義塾の応援団がからだを低くしてリズミカルにこぶしを突き出しはじめた。バトントワラーたちもいっしょにやっている。テルヨシは目が覚めたように、ロジンバッグを尻のポケットにしまった。もうじゅうぶんだ。ここまででいい。
「テルヨシー! 投げたいように投げろー!」
 騒がしさの中でほとんど聞き取れないはずなのに、テルヨシは私に向かって右手を上げた。そして、とたんに生き返った! コースを選んで直球しか投げない。五番小笠原がワンワンからファーストゴロに倒れる。高木はフルカウントまで粘ってピッチャーゴロ。柳沢は初球を引っ張って私へのフライ。すばらしいぞ、テルヨシ。ダッシュ。
 八回表。一点差に迫られたせいで私たちが沈んだ気分でいるにちがいないと踏んだ応援団は、懸命に観客席の声援を促し、私たちを盛り立てようとする。ブラスが鉄腕アトムを大音量で吹き上げる。
「ヨーシオカ!」
「ヨーシオカ!」
 だれも沈んではいない。優勝という栄光の二文字が、頭の中で浮かんだり消えたりして、どうしようもなくいきり立っている。相馬が、
「こうなったら、優勝しちゃおうよ。去年今年の戦いぶりからすれば、優勝してもちっとも不思議じゃないんだし、実力差が歴然としてるチーム同士戦って、弱いほうが勝つなんてのもじつにドラマチックだ。ただ、私たちは不思議な夢の中にいて、何かに取りつかれてる強さだ。敵は現実の中でふつうに戦っての強さだ。その壁は薄そうに見えて厚い。よし、夢の中で取りつかれたまま目覚めるな! 目覚めたら負けだ。恐怖感、不安、大望といった現実の感覚をぜんぶ捨てろ!」
「ドエェース!」
「オオォーシャ!」
 打席に立つ吉岡のヘルメットが雨に濡れて光る。速球! ストライク。
 ―柳沢、きみの肩は疲れを知らないのか?
 長い試合だ。もう二時間は越えただろう。また雨脚が弱まってきた。スタンドの傘が次々と閉じられる。相馬が怒鳴る。
「ベンチ、声を出せー! 夢にうなされろ!」
 室井が、
「うりゃ、うりゃ、イグゼー!」
「ぶっ飛ばせー!」
「たたっ殺せェ!」
 金がやけくそになって叫ぶ。木谷が泣いている。鈴木睦子は唇を引き締め、グランドを睨みつけている。
「五点、取るぞう!」
 私が声を上げたとたん、カーンという響きを残してボールが舞い上がった。センターの高木が背走している。ジャンプ! グローブの先を越えた! 百六十センチの奥山先生が一塁を回り、二塁を回り、つんのめるように三塁ベースをつかみにいく。中継したボールが返ってくる。吉岡のヘルメットに当たった。レフトへ転がっていく。バネのように立ち上がった先生はホームを目指す。三上から四郎へ渡ったボールがバックホームされる。頭から滑りこむ。タッチ! 川崎と吉岡が重なり合ってしばらく動かない。カバーに入った柳沢が目を見開いている。アンパイアが両手を拡げた。ウオー! 球場が揺れる。鈴木睦子まで泣きだした。
「なんだ、なんだなんだ、こりゃ!」
 相馬がいつもの癖で長椅子の背中を叩きだす。次打者の金とタッチし、雄叫びを上げて戻ってきた吉岡が、みんなに揉みくちゃにされたあと、ベンチの隅に走っていって首筋に氷水をかけた。声を出して泣いている。十二対十。
「ウワー!」
 山内が叫びながらネクストバッターズサークルへ走っていた。サークルの白い輪は雨ですでに消えていた。金はさっきの杉山のような殺気をただよわせながら、ツーストライクまでじっくり見逃した。それからファールをつづけて三本打った。根負けした柳沢がゆるいカーブでタイミングを外しにきた。
「そりゃあ!」
 金がおめいた。ガシッ! 先っぽだ。バットが根もとから折れて、柳沢めがけて吹っ飛んでいった。ジャンプしてよける。ボールはふらふらとファーストの頭を越え、ポトンと湿った土で弾み、そのままファールグランドのフェンスまで転がっていった。
「そりゃー!」
 叫びながら小山田さんがセカンドへドタドタ走る。悠々間に合うのにヘッドスライディングをする。二塁上でもう一度、
「ウリャー!」
 と吠えた。歓声に喚声が重なる。吉岡につづけて金の常軌を逸した気魄に感染して、ベンチ全員が、
「ウリャー!」
 と吠えた。私も相馬も長田も木谷も鈴木も吠えた。
 柳沢はロジンバッグを使わない。指先を腋の下で拭うだけだ。大きくワインドアップして、山内の胸もとに快速球を投じる。空振り。二球目、内角低目の速球を打ってキャッチャー前へゴロ。運よくファールグランドに出る。三、四、五球とボール。山内は全身全霊で見切る。柳沢も速球しか投げない。バッターは振り勝つか振り負けるかしかない。私は振り勝つことを祈りながら、ネクストバッターズサークルへ向かった。
 カシーンと芯を食った音がした。強烈なラインドライブがレフト線を襲う。転がっていく、転がっていく。フェンスにぶつかる。三上が掬い上げ、二塁へ送球する。スタンディングダブル。金が叫びながら、ホームベースをどたどた駆け抜ける。十三対十。二塁ベース上の山内の雄叫びにものすごい歓声が重なる。太鼓が連打される。トテトテトテ、トテチテター! ブラバンの重々しい響き。応援歌。
「青高健児われなるぞ、そりゃ!」
「神無月ィ!」
「神無月さあん!」
「金太郎さん!」
「金太郎ォ!」
 押し寄せる歓声。目の焦点をあえて凝らさずに三塁スタンドとバックネットを見る。これが青森高校最後の打席だ。忘れようとして忘れられない最後の打席になる。あの日のサンフランシスコ・ジャイアンツのマコービーのように、たった一回しか振らないと決めた。ホームランか凡打だ。雨を吸ったユニフォームが重い。慣れた感覚だ。ボールを捉えた瞬間に軽くなる。それまでの辛抱だ。
 柳沢が振りかぶり、渾身の力で投げこんできた。真ん中高目。ストライク。猛烈な速さだ。打てるなら打ってみろ。打たない。そのコースだと、理想的に感覚を集中してからだを回転させられないから。二球目、外角低目ストライク。打たない。そのコースはいちばんたくさん練習したけれど、ほんとうは虫酸が走るほど嫌いだから。柳沢、きみは速球の威力を見せたかっただけだろう。私の得意コースを知っていて、最後にそこで勝負するために、じつはこんなに威力のある球なんだぞ、と伝えたかっただけだろう。わかった。すごい球だ。認める。だから、膝もとへ投げてこい。そのすごい球を打ってやる。
「こーい!」
 私は叫んだ。
 ―よーし、きた!
 膝よりも少し遠い真ん中寄りの低目だ。振り出す。地面の石ころを叩きつけて、すれすれに滑らせる要領だ。手首を絞り、腰を回転させ、バットという先の太い棒に最大のスピードを与える。捉えたか? 捉えた! 上昇の度合いは見なくてもわかる。上昇すれば歓声が湧く。
「ウオオオー!」
 一直線だ。山内がサードを回ったところで打球を見つめる。低い打球が途中でクッと浮き上がる。ライトとセンターが背中を向けてスコアボードを見上げている。ボールは旗の横を過ぎて、カーテンのように揺れる霧雨の中へ消えていった。小学校の三階校舎。小さな大打者の高校最後のホームランだ。私は一塁をゆっくり回る。どよめいて波打つ歓声の中、二塁をゆっくり回る。トテトテ、トテチテ、トテチテ、トテチテター。金太郎さんコールが始まる。三塁を回るとき四郎が、
「おめのこど、一生、孫の代まで語るじゃ」
 と言った。ありがとう、と応えた。ホームインしても歓声がやまない。バックネットは見ない。ベンチだけを見る。いまこの瞬間の仲間だけを見る。生涯にわたって見つめられない仲間だけを見る。木谷と鈴木が顔を覆って泣いている。ベンチ全員が優勝と甲子園を忘れて感涙にむせんでいる。握手をしていく。十五対十。優勝と甲子園がそこにある。ベンチに坐ると、木谷が柄杓を持ってくる。受け取って、首を突き出し、頭にかける。その頭に顔を寄せ、鈴木睦子がやさしい声で言う。
「……歯を治しました」
「やっぱり」
「はい。私も努力して東大にいきます。そのときは、そばにいさせてください」
 顔をつくづく見返した。豊頬の、涼しい目もとだった。球場の歓声のせいで、二人の会話はベンチのだれにも聞こえていないようだった。私はもう一度頭に冷水をかけた。
 グランドはいっときの晴れ間だった。青高健児の応援歌が延々とつづく。ブラスバンドの演奏が延々とつづく。
 室井が初球を打った。一瞬の歓声。しかし、レフトライナー。ストレートしか投げないピッチャーに寺田康男の侠気を重ねる。これはきょういまから確実にテルヨシによくない影響を与えるだろう。柴田、三球三振。雨が上がったので柳沢は腋の下にもう指を挟まない。キャッチャーミットの音が冴えわたる。木下、ショートゴロ。
 相馬の檄が飛ぶ。
「あと二回、守りきれ! 甲子園へいくぞ!」
 みんなで、ウエース、ウエース! と声を張る。ダッシュせず、ゆっくり守備位置につく。手を交差させてキャッチボールを断る。球場のたたずまい、声援と拍手の響き、風と雨上がりの土のにおい、すべて記憶しておこう。あと二回だ。義塾の選手を少なくともあと六人見ることができる。忘れていた―空だ。空を記憶しよう。すばらしい! 低い空にまだかすかに霧雨が舞っている。この空を思い出す回数の多いことを祈ろう。茶色い顔の男たちが、バックネットの前列でまだ傘を並べている。


         百二十八

 八回裏。レフトスタンドの大拍手。帽子を取って明るい笑顔を作る。指笛が鳴る。
「イグゼェ!」
 私は独り叫んで腰を落とした。八番川崎が打席に入る。彼は足もとを均し、どっしりと腰を据えて構えた。一球目、テルヨシ渾身の速球。外角いっぱい、ストライク。
 ―テルヨシ、おまえは来年、エースだ。しっかり考えて投げろ。ボールの勢いで勝負するな。柳沢の剛速球でさえ打ちこまれるのだ。人に影響されずに、自分の信念のままに熱に浮かされて投げろ。
 二球目、内角高目のストレート。ゴン! 重たい音がして私の前に転がってくる。芝生で勢いを殺されたボールがグローブに収まる。セカンドへ強く投げ返す。バトントワラーが踊りを控えている。ブラバンも止んだ。学生たちの波も静まっている。リズムを合わせた拍手の音だけが聞こえてくる。選手の意識を集中させるためのようだ。
 九番佐々木。テルヨシがセットポジションに構える。ゆるい牽制。高木に走る気配はない。あらためてセットポジションから、初球、外角へカーブ。甘いストライクだが、見逃し。チャチャチャ、チャチャチャという手拍手だけが聞こえる。不気味な静けさだ。二球目、外角へストレート、ボール。ピクリと動く。待っているのは直球だ。三球目、外角低目へカーブ、ボール。外角が決まらない。しかし、内角はだめだぞ。佐々木にしっかり打ってもらうために、高木はあまりリードをとらない。信頼しているのだ。セットポジションを保ちながらテルヨシは考える。私も考える。たぶん内角低目を投げようとしている。カーブならいい。ラインぎわを抜けないかぎり長打にならない。四球目、真ん中高目ストレート、空振り。なるほど。次はどうする? 私なら同じ真ん中高目の速球だ。待っている球種で勝負しろ。五球目、内角高目の直球、からだを開いてジャストミート! ラインの真上をえぐってファールグランドへ転がる。土が湿っているのでタマ足が遅い。クッションボールを素手でつかんで、高木の向かうサードへ送球。きっちりワンバウンドで送球した分、わずかにタマ足が鈍ってセーフ! ノーアウト、二塁、三塁。
「ドンマイ、テルヨシ!」
 サード柴田の声。私の背後から、トテチテターとトランペットの音が上がった。レフトスタンドがへんに沸いている。気持ちが優勝に傾いているのだ。一塁スタンドはまだ手拍子だけだ。室井がマウンドに走っていって、ひとこと言うとすぐに戻った。くれてやれ、とでも言ったのだろう。
 一番、奈良岡。ここは犠牲フライを狙って高目にしか手を出してこないだろう。テルヨシ、ぜんぶ低目だ。ダブルプレーにして一点で止めろ。
 私は祈った。彼らといっしょに、優勝の喜びを味わいたい!
 初球、外角低目へストレート、ボール。よしよし、低目、低目だ。二球目、外角低目へカーブ、ストライク。室井三塁へ送球。リードの大きかった川崎滑りこんでセーフ。テルヨシに何を言ったか知らないが、室井は一点もやるまいと必死になっている。一点取られたら、この試合は危ういとわかっているのだ。そうなれば青高健児たちは、一瞬のうちに夢と希望を打ち砕かれるだろう。そして、善戦の記憶に酔いながら快いあきらめの涙を流すだろう。そうはさせない。
 三球目、内角膝もと、ボール。そこで内野ゴロゲッツーか、真ん中高めで内野のポップフライに打ち取れたら最高だ。四球目、外角低目のカーブ、うまく掬い上げられた! ライトバック、バック、バック、捕った! 川崎ホームイン。金、三塁へ送球。佐々木滑りこんでセーフ。
「ウワァァ!」
 十五対十一。ワンアウト、三塁。二番三上。流すも引っ張るも常にカーブ狙いの男だ。テルヨシの初球がほとんどカーブだと見越して、一球目から打ってくる。胸もとへ速球を投げろ。テルヨシはロジンバックを尻ポケットから出してマウンドの脇に放った。死ぬほど緊張している。直観で初球が怖いとわかるのだ。それなら敬遠か。次の清藤はだいじょうぶか? クリーンアップは怖いだろう……。
 セットポジションで三塁の佐々木を睨みつけ、投げ下ろす。さすが! 内角へストレート。ワ! 横っ腹に当たった。
「オッケー、オッケー! 上できだー!」
 私はマウンドに向かって叫んだ。内外野みんなでオッケーと呼応する。考えた結果なのだ。ワンアウト一、三塁。ひょっとするとデッドボールが最善の策だったかもしれない。次のバッターに内野ゴロを打たせるようにすればいい。ゲッツーで終わりだ。
 三番清藤、本日四打数一安打。当たっていない。真ん中近くに落としてやればかならず振るだろう。ゲッツー、頼むぞ。でないと四郎に回る。
 ふと気づくと、チャチャチャの手拍子ではなく、スーザの行進曲に変わっている。バトントワラーたちは片膝突いてしゃがんだままだ。逆転したら派手に踊りだすつもりなのだ。この回が始まってからずっと、両軍の内野スタンドは静まったままだ。ネット裏もひっそりしている。息苦しい。
 清藤が四球つづけて見逃した。ワンスリー。フォアボール狙いか、好球必打か。少しバットを短く持ち、体高を低くして構える。五球目、真ん中、首のあたりの高目にストレート。釣り球だ。清藤は阪神の吉田義男のようなレベルスイングで打ち返した。センター前に抜けていく。なぜか前進守備をとっていたセンターの山内は、エイヤとばかりバックホームする。ノーバウンドで室井へ。ドッというどよめき。もちろん間に合わない。三塁ランナー佐々木生還。ワンアウト一、二塁。十五対十二。
 踊り子たちがはしゃぎはじめた。スーギヤマ、チャチャチャ、スーギヤマ、チャチャチャ、スーギヤマ、チャチャチャ。ブンガ、ブンガ、ドンガ、ドンガ。やはり四番バッターの四郎は義塾の星なのだ。テルヨシの狙いはゲッツー一本。守備位置を深くして内野手全員ゲッツーに備える。四郎のヘルメットが光る。相変わらずの殺気だ。初球、テルヨシが腕を振り下ろしてマウンド上で跳ねた。会心の投球姿勢だ。コースはわからなかった。あっという間に四郎が踏みこんで、球筋に覆いかぶさるようにスイングしたからだ。
 ―ギン! 
 という重い音がした。あの踏みこみは外角だろう。バットが低目を振ったように見えた。テルヨシが上空を見上げる。一直線にライトに伸びていく。金が走る、走る。走ってジャンプした。グローブを越えたボールが、金網フェンスの上端の黄色いバーをこするように撥ね上がった。そのままボールはスタンドに落ちた。怒涛の歓声。同点スリーラン。続々とランナーがホームインする。テルヨシが両手を膝に突いてうなだれている。私は七戸の背中へ走っていって、
「テルヨシー! 最高の一球だったぞ。敵が二枚も三枚も上だったんだ。がっかりするな、さ、いくぞ!」
 彼は背筋を伸ばし、オーッと叫んで両手を挙げた。内野が寄っていって、肩や背中を叩いている。みんな笑っている。ベンチ前に立った相馬が大きくうなずいている。霧雨がまた落ちてきた。
 ―負ける。
 冷たい確信が動いた。この回に大量点を取られて負ける。そして九回の表、真剣に勝ちにきた柳沢に、もはや手も足も出ないだろう。彼の好きなように翻弄されるだろう。相馬が叫ぶ。
「テルヨシ、続投だ。そのままいけ!」
「くれてやれ!」
 佐藤が叫んだ。
「全力勝負だ。逃げだら喰らわすど!」
 沼宮内が叫んだ。
 五番小笠原はライト前へクリーンヒットを打ち返し、高木のフルスイングの打球は無慈悲に私の頭上を越えていって、猛勉たちのいるあたりに落ちた。トテチテターと千葉がおどけたメロディを吹き上げた。柳沢、キャッチャーフライ。川崎、三振。室井はそのボールをアンパイアに渡した。十五対十七。ダッシュ! 外野三人、全速力でベンチに戻る。
「もう私は胸がいっぱいだ。うれしくて心臓が止まりそうだよ。おまえら、好きなように打ってこい!」
 相馬がベンチの中をみんなと握手して回る。みんな泣いている。私もこらえ切れずに泣いた。女二人はしゃがみこんで泣いた。
「金太郎! ありがとう! ほんとうにすばらしい二年間だった。おまえは神だ。おまえにはもう二度と会えない。わかるんだよ。それがわかる」
 相馬はきつく私を抱き締めた。三人、五人、十人、抱きついてきた。抱き合う群体のような格好になった。室井が、
「三者凡退は避げろよ。あがくべ! 神無月まで回せ」
「オッケ、オッケ、オッケー!」
「ウェェェ、イグゼ!」
 順繰り、氷水を飲んでいく。七戸が、
「先生、四方を出してやってください」
「いや、先輩、ワは来年もあります。しっかり打ってきてください」
「よーし、七戸、いけ!」
「オス!」
 七戸がベンチから跳ね出た。また柳沢が指を腋の下に挟んでいる。四時を回った。試合開始から三時間半。かすかに夕暮れの色が灰色の空にただよっている。照明灯が何基かまばらに点った。光線に霧雨が埃のように浮かび上がる。応援団が最後の力を振り絞って空手のパフォーマンスを始め、ブラバンの響きが高らかに雨空に昇った。凱歌になるはずだった校歌をいち早く演奏する。まだ勝敗の行方はわからないのに、みんな心地よくあきらめている。
「プレイ!」
 アンパイアの右手が上がる。内野から外野にかけての三塁スタンドが騒然となる。最後の応援だ。柳沢、振りかぶって、鞭のような腕を振り下ろす。ストンと落ちた。
「ストライーク!」
「なんだ? ドロップが?」
「フォークだべが」
 ベンチが騒ぎだす。二球目、ホームベースから真横に流れた。ストライク!
「スライダーだ! テルヨシ、いまのがスライダーだ。腕の振り方をよく見とけ」
 相馬に肩を抱かれて、テルヨシがカッと目を開いた。
「あったらすげ球を投げれだくせに、直球でばり勝負してたんだ。男だじゃ」
 私は、
「スピードが増したら、テルもああなる」
 三球目、ギュンとストレートが内角に浮き上がった。七戸のからだがクルリと回った。
「すげ、ホップだなあ。敵わね」
 七戸が明るい顔で駆け戻ってきて、
「当でろ、小笠原。前へ飛ばしたら、毎日、遠投付き合ってやら」
「当たるわげねべ。先生、四方に打たしてやってけろ。オラ、疲れだじゃ」
 ほんとうに疲労困憊した顔で言う。
「そうか、四方いけ! 東北ナンバーワンの球を打ってこい」
「はい!」
 室井がベンチを出て、アンパイアにピンチヒッターを告げにいく。高校野球規則では、なぜかわからないが、監督はグランドに出てはいけないことになっている。すぐに場内アナウンスが流れた。小柄な一年生の四方がバットを腰に当て、回転運動をする。ブンガブンガ、ドンガドンガ、ブンガブンガ、ドンガドンガ。
「カットバセ、ヨーモ!」
「カットバセ、ヨーモ!」
 外野席で、トテチテター! が明るく鳴る。応援団が腰を落としてこぶしを突き出している。金が私に、
「だば、柳沢は、神無月のホームランは別にして、オラんどに点をけだのが」
「ぼくにもくれたんだよ。あんな球、放ってこなかったもの。十五点ぜんぶくれたんだ。この試合に負けると思ってなかったんだろう」
「神無月は話が別だべ。何きても、打つべや。ライト場外、センター場外だはんでな」
 ど真ん中、百五十キロはありそうなストレート。空振り。四方は勢い余って、尻餅をついた。観客席から救われたような晴れやかな笑い声が上がる。
「四方さん、けっぱれ!」
 木谷が笑い声に逆らうように叫んだ。唇を真一文字に結んでいる。この女はだれよりも清潔な男に愛されるだろう。
「そうよ、まだ終わってない。あと三人で、神無月さんに回る」
 鈴木が言う。ベンチが色めき立つ。山内が叫んだ。
「ヨモー! ぶっ飛ばせー!」
 フォークが落ちた。空振り。
「かすらせねつもりだじゃ」 
「先生、高目には手を出すな、曲がってきたら、思い切り掬い上げろ、と四方に言ってきてください」
「神さまのご託宣が始まったか? よし。室井!」
 室井はアンパイアに向かってタイム!と叫ぶと、手を上げながら駆けだしていき、四方に耳打ちした。アンパイアに礼をして駆け戻ってくる。
「次は百パーセント、速いカーブですから。柳沢は、たぶん甲子園に備えて、自分の持ってるぜんぶの球種を試してるんですよ。ここで打たれたら、もうスピードボールしか投げてきません。もう一本ヒットを打って、優秀の美を飾りましょう」
 柳沢は腋で指を拭い、ワインドアップして腕を強く振り下ろした。果たしてカーブだった。少し内角寄りだったが、四方は掬い上げるように強振した。まともに当たった。小さなからだから弾き出されたとは信じられない強い打球が、カクテル光線に照らされた銀色の霧雨の中へ舞い上がった。
「オー、いったか!」
「いった、いった!」
 室井と柴田がベンチの外へ飛び出した。みんなつづく。
「入ったー!」
 ボールはフェンスぎりぎりに舞い落ちた。スタンドのだれもかれもが大声を上げ、球場は興奮の坩堝と化した。太鼓、太鼓、男たち歓声、女たちの嬌声、トテチテター、トテチテター、トテチテ、トテチテ、トテチテター。四方が涙を拭いながら夢見るような表情でベースを回ってくる。私はベンチに戻ってきた四方を抱き締めた。彼も強く私を抱き締めた。十六対十七。吉岡がバッターボックスへ走っていった。柳沢はもう内角の浮き上がるストレートしか投げてこなかった。吉岡はスリーストライクまでぜんぶバットを振り、三振した。かすりもしなかった。ツーアウト、ランナーなし。
 金は最高のパフォーマンスをした。バット三本振り回しながら打席に向かい、二本をウェイティングサークルに放り投げると、天に向かって狼のように、
「オォォー!」
 と叫んだ。そして、三球つづけてめくら滅法空振りすると、柳沢に向かって脱帽の最敬礼をした。大喝采になった。試合終了と同時にサイレンが鳴った。


         百二十九

 選手集合。ホームベースを挟んで礼。めいめい握手し合う。横殴りのフラッシュ。私はいろいろな選手にあれこれ声をかけられながら握手されたあと、四郎と柳沢の二人と顔を接して固い握手をした。
「……忘れねじゃ。三樹夫も喜んでるべおん」
「ホームラン、ふるえだ。試合中、ずっとふるえでだ。だすけ、三本も打だれでしまった。日本一のバッターに投げれで、いがった。また、プロ野球のグランドで会いてな」
 私は柳沢の鋭い目に微笑み返しながら、そうだね、と言った。
 柳沢も四郎も仲間の選手たちといっしょに、校歌を斉唱しに一塁スタンド前へ走っていった。日焼け顔の男たちの姿はすでになかった。一塁側スタンドでブラスバンドの演奏が始まった。演奏が終わると、すがすがしい、それでいて型どおりのアナウンスが流れた。
「第四十七回全国高校野球選手権大会、青森県予選決勝戦は、ごらんのとおり、十六対十七で東奥義塾高校が青森高校に勝ちました。これによって、夏季東北地区高等学校野球大会が終了いたしました。本日はご来場くださいまして、まことにありがとうございました。お忘れ物のないよう、足もとにお気をつけのうえ、お帰りくださいませ」
 スタンドの人びとがいっこうに立ち去らず、このまま〈終わりたくない〉気持ちで帰りを渋っている。三塁側スタンドもなかなか足が退かなかった。みんな私の最後の姿を目に焼きつけようとしているようだった。やがて学生たちが動きはじめ、一般の人たちもスタンドを降りていった。青森にきてから二度目の夏が終わり、私の中で何か灯のようなものが消えた。まだ燃えている長い蝋燭に火消し金をかぶせられたような気がした。
「いやあ、人生、五回ぐらい経験した感じだ。いつ死んでもいいというのは、こういう気持ちのことを言うのかな。さあ、バスに戻るぞ。神無月といっしょにいられるのも、あと三十分ほどだ。別れを惜しまなくちゃ。早く片づけろ」
 相馬に命じられてみんながてきぱき用具を片づけはじめると、三、四人の記者がベンチに雪崩れこんできて、相馬や木谷たちを含めた全員をグランドへ押し上げた。
「惜しかったですね。高校野球史に残るドラマチックなゲームでした。二転、三転、いやあ、興奮の極みでしたよ。桁外れの乱打戦でありながら、ある意味、白熱した投手戦でもあり、まるでスポコンドラマを観ている感じでした。あの柳沢投手から十六点も取ったんですよ。負けて悔いなしのひとことでしょう。こうなると、ぜひとも甲子園で東奥義塾に活躍してもらわないと、負けた甲斐がありませんね。彼らに言っておきたい激励の言葉はありませんか。監督、ひとことどうぞ」
 結局のところ、その記者は敗戦チームを持ち上げるつもりはなさそうで、勝者の今後の戦いぶりに対する敗者の好意的な予想を聞き出そうとしているようだった。だれも勝利に酔っている敵を眺めて積極的な感想など思い浮かぶわけがない。壮絶だった試合の余韻に浸ることと、味方チームの慰労のことしか頭にない。これから弘前市内をパレードする義塾チームのことなどどうでもいいのだ。
「激励の必要はないでしょう。あれほどのチームですから。それより、わが青高チームは神無月なきあと、一から立て直しです。そのことで私は頭がいっぱいです」
 絶え間ないフラッシュの光で目がくらむ。
「今年も三冠王獲得。しかも、夏の大会、三冠のすべてにおいて二年連続全国ナンバーワンという情報が入っています。どの新聞のスポーツ欄も、神無月選手の話題で持ちきりですよ。プロチームのほとんどが、神無月選手に注目しています。来年秋のドラフトでは、どのチームも一位指名するという話ですが」
 私に関する話柄はそれに終始し、そしてそれだけだった。この世界に到達するのは、私の体力と能力が持続しさえすれば案外ラクかもしれない。ラクな目標には大して関心はない。目標を達成してからのラクでない日々を生きていくことに関心がある。私はプロ野球人になったらますます努力の人になるだろう。
「金太郎は、いや神無月は、しばらく野球を離れて人生を逍遥します。神無月がまたマスコミの話題に上るのは数年先のことでしょう。せいぜいいまのうちに騒いでやってください。彼は彗星です。私たちが生きているうちに、もう一度巡り会うには、しばし時間が経たないと……」
 チームメイトがベンチのそこかしこに三々五々立っている。相馬が話を請けてくれたのを幸い、私は彼らに紛れこんだ。記者どもは、これほど特徴的な一人ひとりに、話しかける言葉を持たない。何のためのインタビューだろう。ここまで善戦したチームの気組みや、交友の篤さや、野球に対する考え方を聞いてみる気持ちにはならないのだろうか。木谷や鈴木は早く帰りたそうにしていた。バケツも氷水も片づけなければいけないのだ。私は、
「みんな、いこう。先生、いきましょう」
「あ、神無月選手、あなたはなぜ野球を休止するんですか。何か継続できないような支障があるんですか」
「あなたがたのお一人が記事に書いてくださったとおりです。もし才能があり、人も才能ありと認めて、階段を上らせようとする対象がわが子であった場合、その子の進路を塞ごうとする親がいるかどうか。もしいるとするなら、その親の心理はいかなるものか。私はその疑問を解決しました。その結果が、今回の休止です。解答はあまりにも個人的なものなので、生涯説明する気はありません。とまれ、ぼくは野球を休止しても、野球をやめません」
 相馬が記者たちを振り捨て、
「さ、みんな帰るぞ」
「オス!」
 記者たちは逃がすものかとしつこくあとを追ってきて、
「来年の抱負は?」 
 とか、
「金太郎というあだ名の由来は?」
 とか、
「勉強とスポーツの両立のコツは?」
 などと仲間たちにつまらない質問をしたあと、鈴木睦子をつかまえて、
「女子マネージャーは青高の名物になりそうですが、甲子園ではベンチ入りを許されておりません。優勝していたら、さびしい思いをするところでしたね」
 鈴木睦子が吐き出すように、
「さびしくないです。もともとマネージャーのやることは、ボールを磨いたり、スコアブックをつけたりする裏方の仕事です。ベンチのような晴れやかな場所に置いてもらえるのは、めったにない幸運です。新人だったせいもあって、たまたま見習いとして決勝戦のベンチに置いてもらえました。これからは、ユニフォームやシャツやストッキングを洗ったり、グランド整備をしたり、選手たちにもっと役立つ仕事を進んでやっていこうと思ってます。甲子園にいったとしても、旅館に待機してそういう仕事をしていたでしょう。ベンチ入りだけがマネージャーの本分ではないんです。……さびしいのは、神無月くんが青高を去っていくことです」
 フラッシュが光った。木谷はベンチの片隅で、せっせと氷水を捨てたり、バケツを重ねて廊下へ運んだりしていた。木下が合いの手を入れた。
「そんだんだ。オラんどは、優勝たら、甲子園たらより、神無月がいなぐなるのがせづねのせ。みんなそんだ」
 山内が、
「甲子園さいったって、神無月みてな選手には会えねべせ」
 金が、
「だすけよ。義塾のやづらも、うだでさびしんでねが」
「さあ、いこう! 金太郎さんといる時間が少なくなるぞ」
 相馬が大声を上げた。私たちはそそくさと荷物をまとめ、ダッフルを肩に掛けると、小走りに公園の外へ出た。フラッシュがかぎりなく焚かれた。あの浜中記者が配下を一人連れて公園口に立っていて、私たちに礼をした。
「すばらしい決勝戦、ありがとうございました。しっかり書かせていただきます!」
 バスに乗りこむ。教師たちや応援団が待っていて、割れるような拍手で迎えた。ブラスバンドや学生スタッフたちを乗せたバスは一足先に発っていた。
「万歳三唱!」
 団長の指揮でバスの中にバンザイの声が響きわたった。相馬が頭を下げ、
「みなさん、応援、ありがとうございました。いま一歩のところで敗れましたが、これでも死力を尽くしたと言っていいほどの奮闘でした。今年の成果を振り返ってみると、打撃力は神無月のおかげで、とんでもなく向上いたしました。来年は小笠原を中心に投手力をじゅうぶんに鍛え、ふたたび優勝争いのできるチームを育てていこうと思っています。秋には練習試合の申込みが殺到すると思いますので、応援のほどよろしくお願いいたします。きょうはほんとにありがとうございました」
 大きな拍手。バスが動きだす。西沢が言った。
「相馬監督、それから選手、マネージャーの諸君、一生の思い出をありがとう。あんなすごい試合、何べん生まれ変わったって観れるもんじゃない。ここにいる先生がたも心底そう思ってますよ。それにしてもきみたち、よく打ったなあ。何人ホームランを打ったんだ? この調子なら、神無月がいなくたって優勝できそうなものだ。金の最敬礼は、画竜点睛だった。感動して、笑わせてもらった。明るいユーモアで締めくくってくれてホッとした。諸君たち、親ごさんが応援にきていたんだろう」
「はい!」
「それなのに、いっしょに帰りもせず、こうして神無月と最後の短い時間をすごすためにバスに乗っている。神無月がよっぽど好きなんだな。その気持ちは、どうも野球とは関係なさそうだ。私たちもそうなんだ。ねえ、先生がた」
 みんな大きくうなずく。見覚えのない若い教師が、
「新聞を読んで不気味に感じました。順調な進路をここまで簡単に変更できる人物に、一度お目にかかりたくて」
 別の教師が、
「哲学的な意識以前の持ち前の気質なんだろうけど、自己反省を強いられますよ。まあ自己反省したところで、私のような凡人は自分がかわいいんで、どのみち、障害なんてのには見向きもしないで順調さを求めるんだけどね」
 西沢が彼らに向かって、
「凡、非凡に関わらず、人は順調でありたいと願うものですよ。神無月は、若くして順風満帆の人生を送ってこなかったものだから、急に華々しくなった人生に違和感を覚えるんだろう。だから簡単に捨てられる。そういう感覚は他人が是正できるものじゃない。どう生きようと、神無月が最終的に幸福でありさえすればいい。神無月が順調とか幸福とか感じる風景は、どうやら人とちがうようだ。こんなすばらしい人間が不幸でいることは、考えただけでもつらい。気に入った風景の中で、順調に幸福でいてほしい。神無月、今年は一度ぐらい遊びにこい。こっちも修学旅行で名古屋を通るから、駅のホームに会いにきてくれ」
「はい、かならずいきます」
 応援団長がとつぜん立ち上がり、
「フレー! フレー! 神無月!」
 と叫んだ。あの日の浅野の、フレー、フレー、郷、が甦ってきた。
「フレ、フレ、神無月!」
 野球部員たちが呼応した。彼らは順繰りやってきて、握手を求めた。みんな涙をこらえていた。小笠原が、
「ワ、大学で野球やることに決めたじゃ。おめと野球するためだ。東大は無理だはんで、六大学のどっかさいぐ」
 鈴木睦子がやってきて、
「これ、一年のとき同級だった女子がみんなで書いた色紙です。思い出に持っていってください」
 大きな茶封筒に入れた色紙を差し出した。
「ありがとう。大切にします」
 ほんとうに大切に持っていようと思った。木谷が、
「都会の高校は、長髪だべね。神無月くんは、長髪が似合うと思うよ」
 と笑顔で言った。
「オラんどみてなカッペ面とはちがるんだ、神無月は」
 小笠原がわがことのようにうれしそうに言った。
 きのうと同じように夕暮れの正門でバスを降りると、教師たちは、相馬を含めて一同あらためて選手たちに深く礼をして校舎へ去っていった。二十名近い部員たちは、一人ひとり私と握手して、名残惜しげに手を振りながら練兵場裏の更衣室へ去っていった。木谷と鈴木は、何度も振り返り振り返り、松原通を去っていった。
「神無月選手に礼!」
 私が正門から桜川へ歩きはじめると、応援団が最敬礼して見送った。
 グローブを通したバットケースと革袋を担いだユニフォーム姿のまま、カズちゃんの家に向かった。軒灯の点いた玄関戸を引いた。
「お帰りなさい!」
 カズちゃんと山口が式台に迎えた。
「さ、脱いで、脱いで。お風呂に入って。そのあとハンバーグ」
 台所に引っこんだ。山口は、
「俺は先にシャワーを浴びたぞ。おまえは一番風呂が好きだから、湯船は使わなかった」
 小ざっぱりした顔で山口が笑った。
「つまらない遠慮しちゃって。ぼくは殿さまじゃないぞ」
「殿さまだ。何だ、その封筒は」
「木谷と鈴木がくれた色紙だ。一年のときの女が全員で書いたそうだ」


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