百三十三

 健児荘に戻ると、ヒデさんから手紙が郵便受けに入っていた。便箋が二枚、やさしそうな両親と撮った写真が一枚(母親は芯のある上品な顔をしていて、父親は野暮ったいむさくるしい顔をしていた。どちらも好人物のようだった)、自分だけを写したものが一枚入っていた。瓜二つと言っていいほどけいこちゃんに似ていた。頭の中だけではけいこちゃんの顔を思い出せないが、この顔を見るとまちがいなくこれがけいこちゃんだと指摘できた。

 野辺地は神無月さんの話題で持ちきりです。神無月さんを知らない父も、とてつもない人だ、常人では計り知れない天才なんだろう、と言っています。名古屋へいかなければならないのは、お母さんのことも大きな理由なのでしょうが、きっと神無月さんには野球だけが〈したい〉ことで、ほかのいろいろなことは風景のように見つめながら、ただ自然に〈生きたい〉のだろうと思いました。その生き方に、私はずっと従っていくつもりです。
 来年青高に入ったら、名古屋へお知らせします。三年間、うんと勉強して、神無月さんの住む街の大学に入ります。それまでは、年に一度、かならず逢いにいきます。
 おからだ重々お気をつけて。名古屋へは来年あらためてお便りします。
 郷さまへ                             秀子


 夕食のあと、ユリさんが魔法瓶に詰めてくれたインスタントコーヒーを机に置いて、十時過ぎまで、英単語の派生語の暗記と、数Ⅰの図形をやった。一段落ついて、葛西さんの家に電話をすると、すぐに奥さんが出た。
「あ、神無月さん、よかった。そろそろ寝るところでした。美代子は一時間ほど前に寝ました」
 球場に通い詰めてくれたことへの礼を言い、これからの予定を伝えた。
「名古屋の住所を教えてください」
 奥さんは私が言うとおりメモを取った。
「美代子がときどきお手紙書くと思います。ちゃんと青高に入って、東京の大学にも合格して、かならず神無月さんのそばへいくと言ってます」
「山口はすでに東京に発ちました。いよいよお別れです。三十一日の昼に、飛行機で発ちます」
「今度お会いするときには、お赤飯炊いて、ササゲを炒めて、ハマグリのお吸い物を作って……」
 そこまで言って絶句した。
「それではお元気で。旦那さん、ミヨちゃん、オジサンによろしく」
 と言って電話を切った。
 十二時まで、みっちり数ⅡBの勉強をした。途中でユリさんが夜食にチャーハンと玉子スープを持ってきてくれた。ナスと胡瓜の香の物がついていた。食べ終わるまでユリさんは机の裾に坐っていた。
「ごちそうさま。うまかった。水曜日の夜に帰る」
「わかりました。じゃ、水曜日は夜食だけですね。あしたは早いんですか?」
「うん。タクシー呼べるよね」
「もちろん。何時ごろ?」
「八時。野辺地まで直通」
「え!」
「早くいってやりたいんだ。このあいだは、ガッカリさせたくなくて転校の話をとぼけちゃったから。……新聞に書いてあることは正確じゃないしね。それもきちんと説明したいし。いや、説明しなくてもわかってるだろうな。あしたの朝めしは、味噌汁に玉子を落としたのを飲んでく」
「わかりました」
 テーマ別にまとめた山川の参考書で、大和・奈良から鎌倉時代までの文化を二時過ぎまでやり、目がしょぼしょぼしてきたので、湿った蒲団に入った。山口の言うとおりほんとうに理社の試験がないかどうか不安なので、いちおう主だったところを見ておくことにした。
         †
 二十六日火曜日。五時間足らずの睡眠で七時に起き、顔を洗い、歯を磨き、排便してから、食堂へいった。居残り学生がユリさんのおさんどんで、アジの開きと目玉焼きを食っていた。目礼した。
「三年生ですか」
「ああ」
「受験ですね。どちらを受けるんですか」
「北大医学部」
「すごいですね」
 本人がすごそうな顔をしたので、何がすごいのかわからず褒めた。〈医学部〉がすごいのかもしれない。
「落ちたら、税務署員採用試験を受ける」
「そうですか、がんばってください」
「……きみもがんばって。どの道もプロになるのはたいへんだ」
「はい」
 ユリさんが豆腐と油揚げの味噌汁に玉子を落として持ってきた。
「山本くんは秀才だから。学校の十番を下らないのよね」
 話を合わせるユリさんも手持ち無沙汰の様子だ。学生はごちそうさまも言わず引き揚げた。
「あんなやつと二、三日いるの、たいへんだね」
「神無月さんや山口さんみたいな人は二度と入ってこないでしょうね。生活の糧だから仕方ないわ」
「生活の糧か。ぼくは何を糧にするのかなあ」
「野球でしょう。そしてお嫁さんをもらって、家庭を作り、野球で養う」
「だれかの白馬の王子になってあげたいけど、王子も基本は一夫一妻だからね。王様も含めて世界じゅうが、歳月かけて見つけた婚姻制度というものを考えもなしに遵奉してる。女々しい定住願望がにおう。定住を好む女を愛すれば、自然とそうなっちゃうのかもしれないけど、どこかしっくりしないんだ。男は流浪を好む奔放な種まき器だと思うから。そういう性質は一国の基本である〈家庭〉を崩壊させるので、流浪したがる男に枷を嵌めるために婚姻制度という飛び道具が発明されたんだろう。ぼくは一妻も多妻も、一生妻というものを持たないつもりだ」
 持てば、父のように、振り捨てることになる。一から人間関係を築き上げるものの最難関は家庭だ。
「あら、女神さんは?」
「彼女は妻じゃない。神さまはそんな立場を望まないよ。だれにも束縛されないし、ぼくのことも野放しだ。そろそろタクシー呼んでくれる?」
「八時に関野商店の前にくることになってます」
 部屋に戻り、ポロシャツを着、カバンの底にしまってあったあの分厚い茶封筒から十二万円を取り出し、二万円を学生ズボンの脇ポケットに、ばっちゃに渡すための十万円を尻ポケットに入れた。旅のお供に、何度か読みさしていた高橋和己の邪宗門を携えた。車中で読み、合船場で蒲団に入ってから読み終えるつもりだった。忙しい野球生活の中にいてさえ読みさす本はめったにないけれども、現代に近いものほど読み通すことが困難になってきた。おまえは頭が悪いのだと現代文明が脅しをかけてくる。難解な哲学書よりも流行の本のほうが難しいと感じる。一ページも読まずに善司の書棚に置いてくることになるかもしれない。
「じゃ、いってくるね」
「三十日の土曜の昼に荷物を送って、それから女神さんのところだから、水木金と三日間勉強できますね」
「うん。ぎりぎりまでやる」
 関野商店まで見送られ、タクシーに乗る。ユリさんに手を振った。こんないっときの別れにも永遠の悲しみを感じる。人は別れてはいけない。
「野辺地まででしたね」
「はい」
「二千五百円ぐらいかかりますよ」
「だいじょうぶです」
         † 
 ばっちゃはすっかり馬鹿らしくなったという顔だった。
「親子で好きだようにしたらいがいに。ワが何言ってもまいねべ」
「そう突っ放すなじゃ。親のたンだのわがままだ。郷はがまんして、いぢばんいいと思る道をとったんだべせ。オラんど年寄りとちがって、先のある人間はアダマ働かせねばなんねのよ」
 じっちゃはいつもの慈愛に満ちた微笑を浮かべた。
「郷が忙しぐさせられでるだげだべせ。スミも、どったらつもりで、おめをわざわざ野辺地さ送って寄こしたもんだべなあ。こっちさ置ぐてへってから、まんだ二年も経ってねんでェ。ワヤクチャだでば」
 早速ばっちゃは私を連れて、浜の坂本へいった。亭主は漁に出ていて家にいなかった。
「大っきぐなったらババちゃの面倒見るって話、忘れねんだよ。恩知らずになってまるすけな」
 坂本の女房にきつい口調で言われた。
「忘れません。プロに入るまで長生きしてもらえれば、かならず」
「それはいづの話よ。五年後な、十年後な」
 女房は呆れたふうに唇をゆがめた。私と二分と対話したことのない彼女が、私に何を諭そうとしているのだろう。
 ばっちゃは坂本を出た足で、ボッケの店にいった。母親が、フミオは金沢に泳ぎにいってら、と言った。彼女はばっちゃと私に丁寧に応対し、喫茶コーナーのテーブルに坐らせて芋饅頭と玄米茶を出した。私は饅頭を齧り、茶をすすりながらばっちゃに言った。
「三十日にこっちに蒲団と机とスタンドを送るからね。ここにあるステレオはガタがきてるけど、大切な思い出だから部屋にずっと置いといて。レコードは、暇を見つけて名古屋に送って。どちらもほんとに大切なものなんだ」
 十万円をテーブルに置いた。
「……きょうは断らないでね。アパート代が安くて、おふくろから送ってきた金が貯まっちゃった。一年近くでこんなになった。向こうにいったら使うこともないから」
 ばっちゃはその金を悲しげに見つめ、モンペのポケットに入れた。
「また貯金しとくべ。なして、郷は欲なぐ生まれだもんだべなあ。……要ることがあったら、手紙コよごせ。送ってやら。こっちゃさは、いつでも帰れるとぎに帰ってきたらいがいに。じじばばの面倒なんたら見る必要ね。じっちゃも、オラも、まんだまんだ長生きするすけ」
 ボッケにそっくりの馬面の父親がやってきて、
「名古屋さいぐってが。野球留学だべ。ババちゃもさびしぐなるなあ」
「ときどき帰ってきます。どうか、じっちゃばっちゃをよろしく」
 自然とそう口に出た。父親がうなずいた。どういうふうに彼らが祖父母を〈よろしく〉してくれるのかわからなかった。
「来年は、キョウちゃんはドラフトで騒がれで、たいへんなこどになるこった。アダマは切れるし、野球は天才だし、善吉さんもハギさんも、どしたらいいがわがんねべおん。孫が大出世するためだと思って、さびしぐてもがまんすんだ」
 ばっちゃはうなずき、過剰な笑いで応えた。ばっちゃがハギという名前だったことを思い出した。
 芋饅頭を一箱買った。亭主が帰ってくる頃合に浜の坂本へ持っていくためだった。遠い親戚だというガマの家にも寄った。声をかけたが、だれも出てこなかった。引き戸の向こうに人の住んでいる気配がしなかった。
「留守のはずだじゃ。カッチャが死んで、ガマは左官のうぢさ養子にへったんでながったがな。そのふとのうぢに隠居部屋作ってもらうづ話が出たばりだったのにせ」
 ガマは相変わらず盥回しされているようだった。障子の向こうに気配だけで生きていた婆さんは死んだのか。
 昼下がり、炉を囲んで、相変わらずじっちゃは軍隊話をし、ばっちゃは薄情な子供たちの話をした。
「ちゃんちゃんと仕送りすれば、孝行したと思ってるのせ」
 ばっちゃが愚痴に終始するのは当然のこととして、新聞読みのじっちゃが、野球で騒がれている私にその類の話をしないのは、〈毛唐〉のスポーツにまったく興味がないからにちがいなかった。おかげで私は静かな心でいることができた。
 ばっちゃが夕餉の買出しに出かけると、じっちゃは柔らかい微笑を浮かべながら、軍隊話でないことを言った。
「だもかも生きてんだ。オラやおめがこの世に生きてるみてにな。みんなが生きてるこどが、一人ふとりに世の中の道を教えんだ。それがむがしからこの先もずっとつながってるのが、人の道てへるんず。人の道は途切れね。人も途切れね。一人ふとりの命なんてのは道の草みてなもんだ。草でも一所懸命おがれば、いずれ肥やしになる。それが生ぎるってことせ。どうとでも、草みてにけっぱって生きればいんだ。……おめはけっぱるべ。ふとり変わったワラシだすけな。いく末を見てじゃ」
 涙がこぼれた。じっちゃも赤い目をしていた。じっちゃの話はトルストイの人生論を読み聞かされているようだった。なんて頭のいい人だろう。芸術家や思想家にもなれるのに、囲炉裏にあぐらをかき、煙草を吸って、茶を飲んで、思い出話や人のためになる話をしながら死んでいく。
 夕食はツブ貝の醤油煮と、ホヤと、ササゲ炒めだった。好物なのでめしを三杯食った。
 青森は七月の末から涼しい風が吹きはじめる。夜は冷えこむというほどではないけれど、空気がひんやり感じられる。ばっちゃが勉強部屋に蒲団を敷いた。ひさしぶりに、乾燥した暖かい蒲団に横たわった。
 ―じっちゃ、ばっちゃにきちんと顔を見せた。じっと二人の顔を見ていると胸が痛くなる。二日とここにはいられない。来年からは、どういう生活になるのかわからない。次に遊びにくる日をへたに約束してはいけない。
 そんなことを考えているうちに、いつのまにか眠りこんだ。邪宗門は一ページも開かなかった。


         百三十五

 翌朝、タクアンと、キャベツの味噌汁でめしをすました。
「中島の種畜場と、山田くんの家と、ほかにもいろいろ、友だちのところを回ってくる。五時か六時の汽車で帰る。荷物の整理があるし、転校のための試験勉強もしなくちゃいけないから」
 じっちゃはにこにこうなずき、ばっちゃは、
「昼めしには帰ってくんで」
 と言った。
「ボッケやガマたちと食う。そのあと戻ってくるよ」
「一時にホタテの仕事から帰るすけ、四時ぐれに駅まで送っていが」
 合船場を出、まずよしのりの家へいって転校のことを伝えた。風邪をひいたらしく鼻を赤くしたハナさんが出てきて、玄関に立ったまま、
「立派な野球選手になんだいィ」
 とやさしく言った。反っ歯の恵美子も出てきて、なんだか身をよじるふうに、
「……手紙っこ、けんだ」
 と言った。親しくもない女に手紙など書くはずがなかった。
「よしのりに、よろしく言っといてください。名古屋の住所を書きますから、彼に渡してください」
 手帳に書きつけ、破って渡した。
「向こうへいったら忙しくなるので、しばらく手紙を書く暇はないと思います。じゃ、さよなら」
 と早口で別れを告げ、本町へ出た。奥山先生のところへいくのは、別にいやではなかったが、話が長くなりそうなのでやめた。
 袋町の山田三樹夫の家にいった。一子が独りで留守番をしていた。勉強をしていたようだった。
「あ、神無月さん! いま、秀子さんに電話します」
「その前に線香上げてから。お母さんは?」
「五十嵐商店のパートに出てます。夕方の七時に帰ってきます」
 一子は玄関の電話でヒデさんに連絡をした。ボッケの店で待ち合わせることになった。私は仏間に上がり、不気味に色褪せない写真の前に坐った。線香を立て、リンを叩く。遺影の前に手を合わせ、頭を垂れた。目を上げると、茶色くむくんだ顔の山田が笑っていた。
 ―ぼくはけっしてきみのことを忘れないからね。
 玄関框に並んで坐って、しばらく話をする。
「野球、すてきでした。あんなすごいホームランを打てるのに……。ほんとにもったいないですね。でも、神無月さんの気持ち、なんだかわかる気がします。何度も新聞を眺めているうちに、神無月さんという人がとても輝いている感じがしてきました」
「そんなオーバーなものじゃないよ。人に逆らうのが面倒くさいんだ」
「面倒くさがり方が異常です。何万人に一人のステージへ引き上げられようとしているときに、人は面倒くさがりません。神無月さんはそういうものをわざと否定して、面倒くさがって見せてるみたいですけど、きっとそうじゃなくて、自分の求める世界への近道を驀進してるだけなんだと思います」
「分析してもらうのはありがたいけど、ほんとにそんな高尚なものじゃないんだ。ぼくの悪い癖に、背負い癖というのがあってね、なかなか治らない。苦労を与えられたら否定しないで、なんとか工夫してがんばる。それがいちばん面倒くさくない」
 私はいずれ、ミユキ列車の機関室から惜しまれて去ったじっちゃのように、机という名の囲炉裏のそばへ落ち着くだろう。業績を上げ、有終の美を飾らないかぎり、どんな一瞬の称賛も、保証のない買いかぶりになる。しかし、私にはじっちゃのあの姿こそ理想の姿に思われる。その姿は、一級建築士として将来を嘱望された父が、世間のだれにも引き上げられないで、彼を愛する女の腕にだけ引き取られて、横浜の自転車屋の暗い二階に逼塞した姿に重なる。
 佐藤製菓店の前に二人で立っていると、白い清潔な前掛をしたボッケが出てきて声をかけた。
「神無月、名古屋さ帰るてが? おめも、あっちゃこっちゃする男だな。何にしてもケッパレじゃ。ケガして潰れねよにな」
「気をつける。四郎に会ったらよろしくね」
「おお。八月の十日ぐれから甲子園の一回戦が始まるすけ、帰ってくんのは二十日過ぎだ」
「プロにいけることを祈ってると伝えてね」
「いぐべに。おめはジャマされで苦労してるおんたな。ま、おめのアダマなら、野球やんねでも前途洋々だばって。おんやァ、一子もいっしょが」
 一子はお辞儀をして、私の背中についた。私はボッケに言った。
「夏休みに家の手伝いとは、感心だね」
「菓子いじるのがおもしれくてよ。蛙の子は蛙だァ」
 ヒデさんが手を振って走ってきた。息を切らしながら私と握手する。
「中さへれ。コーヒーいれでやら」
 三人でしゃれた喫茶室に入った。ヒデさんが、
「いつですか、出発」
「三十一日の昼、飛行機でいく。いま名古屋の住所を書くね」
 手帳に同じ住所を二枚書いて、二つの手に渡す。もっぱらヒデさんがしゃべる。
「どんな高校ですか」
「二流校。そこから東大へいくには要領のいい勉強をしなくちゃいけない。やり甲斐がある」
「青高を捨てて、野球をお休みして、行き先は二流の高校。それでも、神無月さんは目的を遂げちゃうんでしょうね」
「何かを成し遂げようとして生きてるわけじゃないんだ。出会った人たちと関わりつづけたいだけ。その道にじゃまが入ったら、なんとか避ける。今回もそれ。しっかり身の周りを観て、楽しんだり、感動したり、好きな人たちとご褒美のやり取りをしながらね」
 一子が解せない様子で首をかしげた。ヒデさんは目を潤ませている。ボッケがステンレスの盆をバランスよく肩口に捧げて入ってきて、三人の前にコーヒーと芋饅頭を置いた。
「おごりだ。電話したら、ガマがよろしぐってよ。あれはいま籠の鳥だすけ」
「左官屋に養子に入ったんだって?」
「おう、カッチャが死んでな。みっちり仕事を叩きこまれてるとごせ。だば、ゆっくりしてげ」
 ボッケはショーケースのある売り場へ戻っていった。一子が頬を赤くして、
「ご褒美のやりとり……」
「社会的な報酬とは関係のない話だよ。個人の愛情のプレゼント。ぼくはいままで、それに励まされて生きてきたから」
 ヒデさんは私の顔を見つめて微笑した。
「兄が旅先から電話をよこして、よろしくって言ってました」
「どこを旅してるの」
「北海道です。獣医系の大学を見学してくるそうです」
 一子が、
「中島先輩は、野辺地高校のトップクラスなんですよ」
「へえ! チビタンクに勉強の素質があったんだ。本格的な一本道に入ったね」
「ぜんぶ、あのときの神無月さんのおかげです。兄はいつもそう言ってます」
「ぼくは何も教えなかったけど」
「試験に出た問題だけの解答を覚えろ、トレーラー式に暗記するなって」
「ああ、あれは時間がなかったから。ぼく自身は本来、トレーラー式だ。山田三樹夫もそうだった」
 ヒデさんが、
「いまは兄も網羅的に勉強するタイプになったようです。あのとき神無月さんに教えられたやり方で、びっくりするほど基礎力がついたから、高校の勉強を始めたときにはトレーラー式で自然と勉強するようになってた、と言ってました」
「いずれにしても、教えられるほうに根性があったということだよ。めでたし、めでたし」
 ひとしきり三人で芋饅頭を頬張った。ねっとりとうまいものだった。コーヒーの入れ方は雑だった。ガラス窓のそばを十円バスが通った。
「さすがに、馬車は見かけなくなったね。永久に残るものだと思ってた。馬の目がさびしくて好きだった」
 ふとミヨちゃんのことを思い出して訊いた。
「あのバス、松ノ木平を通る?」
「はい、野辺地高校のそばを通ります。私、このバスでかよってますから。どうしてですか?」
 一子が答えた。
「松ノ木平という響きが好きでね」
 ヒデさんが、
「一子さん、神無月さんて、歌も信じられないほどじょうずなのよ。いつかチャンスがあったら、山口さんのギターといっしょに聴かせてもらいましょうね」
「……天は二物を与えずと言うけど、いくつも与えるんですね。勉強だけでも、人はなかなかすぐれることができないのに」
「ストップ、ストップ、どれもこれも、お山の大将。いや、最初から登ろうとしてないから、お山じゃないな」
 ヒデさんがムキになって、
「神無月さんは、お山の上空を飛んでるんです」
「そういう超然としたものじゃない。バットを振ったり、さびしい歌を唄ったりはするけど、それだけのこと。どんな山にも登りたくないし、見下ろしたくもない」
 ヒデさんはしみじみ、
「山口さんや、女神の和子さんが、神無月さんを命懸けで愛してる理由がわかります……」
 一子がとっさに立ち上がって、自分の動作に驚き、もう一度腰を下ろした。
「私は自分の心をいますぐ行動に移して見せることなんてできません。だって、神無月さんのそばにいけるかどうかだってわからないんですから」
 引き攣った顔をしていた。
「一子さん、とにかくいまは勉強しましょう。そして、一日も早く神無月さんのそばにいけることだけを考えましょう」
「さ、昼ごはんをどっかで食べないと。おいしい店知らない?」
 一子が気を取り直したふうに、
「駅前の松浦食堂。高校の帰りに何度か食べたけど、おいしいです」
「いったことあるわ。ラーメン、すごくおいしい!」
 カズちゃんが野辺地にきたばかりのころ、散歩のついでに立ち寄って食べたという〈さかもと食堂〉ではないようだ。
「よし、そこへいこう」
 陳列ケースの整理をしていたボッケに、
「じゃね、ボッケ、修業がんばってね」
「おお、おめも元気でやれよ。また会うべ」
 店を出ると、ヒデさんは八幡さまへ向かった。私がつつがなく旅をできるよう祈りたいと言う。
「それにしてもヒデさん、よく女神の名前を憶えてたね」
「北村和子さん。神無月さんがチラッとでも口にしたことは、ぜったい忘れません。いつかちゃんとお会いしたいと思います。……尊敬してます」
 女二人は小さな社殿の賽銭箱に小銭を放って手を合わせると、すがすがしい表情で私を振り返った。
「二人とも、きれいだね!」
 顔を見合わせて、うれしそうに笑う。私はヒデさんしか見ていなかった。本町へ引き返し、長い坂を下っていく。カクト家具店を左に見る。
「カクトのイツミちゃん、どうしてるかな」
 一子が、
「今年の春、ミス野高に選ばれました」
「ふうん、ああいう顔が選ばれるんだね」
 一子は少し眉を吊り上げ、
「イツミさんのこと、そんなふうに言う人初めてです」
「北村和子さんがこっちを振り向いた顔、一子さん、見たでしょう?」
「ええ。驚くほどきれいな人。ほんとに女神みたいだった」
「あの人の愛情が、神無月さんへの最高のプレゼント。外人みたいに見えるんだけど、よく見ると、純粋な日本風の顔なの。独特に整って輝いてる顔。神無月さんの理想の顔。イツミさんとぜんぜんちがうでしょう? でも、どこか私に似てると思わなかった?」
「そう?」
「丸顔で、少し猫目なの。神無月さんの好みなのね」
 私は声に出して笑った。



青森高校 その12へお進みください。


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