百三十六 

 木谷は黒いローファを脱いでむこう向きにきちんと揃え、廊下に上がった。私は彼女を食堂へ導いた。ユリさんがお茶の用意をした。
「スタンド敷きを作って持ってきてくれたそうです」
「神無月さんのこと、好きなのね」
 やさしい口ぶりだ。
「……はい」
 木谷は赤い顔をうつむけた。
「おばさん、上の学生は?」
「夕食はいらないって。映画に出かけるんですって。お二人でお話するの、こんなところじゃなく、お部屋がいいんじゃない? しっかりお別れしなさい。あとで夕食を食べていらっしゃい」
「いや、ここでいいです。食事はいただきます。木谷さんはそんなつもりできたんじゃないでしょうけど」
 ユリさんは驚いたふうに私の顔を見つめた。
「はい、いただいて帰ります」
 私の意外な冷たさに驚かず、木谷は明るく言った。もともと玄関で帰るつもりだったようだ。木谷と蛍光灯の下の明るいテーブルに向かい合った。木谷は薄い紙箱を開けて、青と白の市松模様の四角い布切れを取り出した。落ち着いた色合の厚布だった。布といっしょにメモが入っていた。

 いつまでも、いつまでも、あなたのことを忘れません。大好きでした。
 スタンド敷、一所懸命編みました。これを勉強机のスタンドの下に敷いて、ときどき私のことを思い出してください。
 神無月郷さま                         木谷千佳子

「きれいなものだね。敷物にするのはもったいないな」
「ひと月かけて編んだんだ。いづもそばに置いてください」
「そうする。きみを偲ぶよすがとせん、だね。秋からのマネージャー業、がんばってね」
「はい。きょうの新聞読みました?」
「うん」
「神無月くんのこどばりですね。来年のドラフトは、ほとんど全チームが名乗りを上げるらしいです」
「ぼくは関係ない」
「もったいね。いろんな新聞に、身内の反対と書いてらったども、信じられねです」
 ユリさんがせっせと夕食の仕度をしている。
「だろうね。でも、騒がれて暮らすような一本道から少し逸れたら、かえってもっとたくさんのことを経験できるかもしれない……」
「もっとたくさんのこと―」
 木谷の目が少し宙をさまよった。
「野球以外のこと。すべて一本道の追求でないがしろになってしまうものだ」
「だども、一本道をいく張り合いがねと、脇道さへってみる気持ちの余裕も出ねと思る。そのじゃまされだら……」
「だいじょうぶだよ。じゃまには免疫ができてる。……去年は楽しかったね。龍飛。いい思い出だ」
 肉野菜炒めと味噌汁でひとまず夕食の支度ができた。私が箸をとると、木谷も箸をとった。ユリさんのおさんどんで、二人、龍飛岬の思い出話をあれこれしながら、一膳のめしを食い終えた。
「あの……」
「何?」
「睦子さんはきましたか」
「こない」
「……ムッちゃんは、神無月くんのこと、うだでぐ好きだはんで……。将来付き合ってけろって告白したってへってました。私はそんなのいやです。だって、先のこと約束したって、もう一生会えないかもしれねのに」
 ユリさんは、
「約束ってそういうものじゃないかしら。保証がないからするものでしょう? しないよりしたほうがいいと思うわ」
 木谷は手帳に何やら書きつけて破り、
「これ、電話番号。こっちさ遊びにきたら、連絡ください」
 私は受け取ると、
「ちょっと待って」
 部屋に戻り、木谷のメモを手帳に挟みこんだ。それから、押入にしまってあった洗濯したてのユニフォーム一式を取り出して紙袋に入れた。もう一度食堂へいって木谷に手渡した。木谷は紙袋を覗きこみ、
「こたらに大切なもの!」
「いいんだ、あと二着あるから」
 木谷は私に思わず抱きついた。私は軽く腕を回した。ユリさんが微笑んでいる。
「スタンド敷き、ほんとにありがとう」
「いいえ。ごちそうさまでした。帰ります。向こうの住所を石崎先生に聞いて、手紙コ書ぎます」
「住所はわかってるから、いま書くよ」
 私は木谷に手帳を出すように言い、彼女が開いたページに飛島寮の住所を書きつけた。
 ユリさんに目配せされ、関野商店まで送って出た。その短い数分のあいだ、紙袋を提げた木谷は私に寄り添って腕を組み、頭を預けて歩いた。
「来年の夏休み、名古屋さ遊びにいってもいいですか」
「それは無理だ。監視の目がきつい。監視されるために戻るようなものだから。手紙を書けばいい」 
「そうします」
「今度の里帰りまでのお別れだ。元気でいてね」
「はい。家でこのユニフォームを着て勉強します。さよなら」
「さよなら」
 木谷は私と握手すると、しばらく早足で歩き、大きく手を振りながら桜川のほうへ曲がっていった。紺のワンピースのスカートが揺れ、白いハイソックスが目に鮮やかに焼きついた。
         †
 娯楽部屋からテレビの音がした。戸を開けて覗くと、ユリさんがホームドラマを観ていた。
「お帰りなさい。だいぶ冷たくしたものですね。嫌いな子なんですか?」
「そういうわけじゃなくて、一から恋愛関係になっていくのを面倒くさく感じた。いままでにない気持ちだった。木谷は青高でいちばん最初に好きになって、それからずっと好きな女だ。でもどうかしたいという気にならない。案外これから先、女に慎重になりそうな気がする」
「ふふ。女の人が放っといてくれればね。ごはん一膳しか食べてなかったから、お腹すいたでしょう」
「うん」
「赤魚の煮付けと、ホタテバター、そんなものでいい?」
「ごちそう!」
「食べたら、すぐ勉強してくださいね」
「そうする」
 食堂へ戻る。味噌汁も温め直して、ユリさんもいっしょに食べた。
「きれいだね、ユリさんは」
「いやだ。そんなまじめな顔で。シミだらけのお婆ちゃんよ」
「女盛りだ。からだが証明してる」
「そんなこと言ったら、したくなっちゃう。きのうしたばかりなのに」
「しよう。あしたもしよう。ぼくはどうも腐れ縁の女しか安心できないようだ」
 私は箸を置き、ユリさんを立たせて、シンクの縁をつかませた。スカートをまくり、下着を下ろす。脚を開かせて、グイと突き入れた。馴染みの感触だ。
「ああ、すぐイキそ、あ、イク! あああ、イッちゃった」
 馴染みの感触に安堵して激しく突き立てる。
「そ、そんな、あ、またイク! あ、だめ、止まらなくなっちゃう、あ、あ、イクイクイク、イク! お願い、もうイッて、神無月さん、イッて、あああ、イク! もうだめ、イク!」
「ユリさん、イクよ!」
「ああ、イク! イクウウ!」
 ユリさんはグンと尻を突き出す。馴染みの安らかな射精。崩れ落ちそうになる腹を抱え上げ、何度も突き入れて精液を搾り出す。ユリさんは喉を絞りながら爪先立って痙攣する。抜き去ると崩れ落ちて床に丸くなった。しばらくして自分の格好に気づくと、下着で股間を拭い、恥ずかしそうに笑いながら食卓に着いた。ふたたび食事が始まる。すべてが馴染んでいる。
「勉強してくださいね」
「もちろん。心配しないで」
「あさっては、お昼ごろ、葛西さんがくるんですね」
「あ、そうか、日曜日だった。ごめんね」
「いいの。お母さんかしら、娘さんのほうかしら」
「たぶん母親だと思う」
「私はひさしぶりに街に出て、買い物したりして、ぶらぶらしてきますから」
 山口はいまごろ、古巣の町を浮きうき歩き回っているだろうか。それとも、戸山高校の下見なぞをしているのだろうか。出発! そう言って乾杯した彼の顔が浮かんできた。勉強しなくてはいけない。特に数学だ。一問失敗すると、大幅な減点を喰らう。二問失敗したら、取り返しのつかないことになるだろう。
 部屋に戻って数学の教科書を開いた。
         †
 翌日の昼近く、ユリさんに起こされて、二人で堤川沿いを散歩した。ユリさんは白いシャツに黒いタイトスカートを穿き、小ざっぱりした感じがした。
「あ、歯を磨かなかった」
「平気。神無月さんは、口も、からだも、ぜんぜんにおいがしないから」
「においの問題じゃなく、不潔さの問題だ。特に口の中は、人間のからだのなかでいちばん汚い。だから、よほど好きな女とでなければディープキスはできない」
「ま、うれしい。私とは何度もしてくれてるわ。神無月さんは足もにおわないのよ。知ってた?」
「うん。足の裏と手のひらに、汗腺や皮脂腺がないようだ。夏も冬もカサカサしてる。バットを握るのがたいへんだけど、この夏はストッキングを一度も洗わずにすんだ。そういう捨てがたい便利さもある。背中と腋の下には多少汗をかくし、頭と顔と腹にはびっしょりかく」
「そういえば、あごからしずくが落ちてたことがあったわ」
「なんだか、ロマンチックな会話じゃないね」
「とにかく、汗をかこうと、歯を磨くまいと、におわないということよ」
 あの森に近づいている。
「首を吊った森だ。あとをつけてきた山口に、間一髪で救われた」
「……どうして死にたくなったの」
「怒りがあるうちは、人は死なないものだよ。ぼくは何年か前、ひどく怒ってた。それがどういうわけか、怒りが悲しさに変わった瞬間があってね。怒りは理由があるので錯乱じゃないけど、悲しみは正体のわからない錯乱だ。怒りを悲しさに変えてしまった人間は死ぬ。そのとき、ぼくは生きながら死んでたんだ。それからは、いつも自分の埋葬場所を探してた感じかな。首吊りは念押しだね」
 ユリさんはうつむいて歩きながら、
「なんだか、よくわからない。何か、それなりのできごとがあって、怒ったんでしょう? 小さいころからいつも怒ってたわけじゃないわよね。……神無月さんが、もっと小さいころに、一回、命をあきらめたことがあったんじゃないかしら。偶然怒りが悲しみに変わったんじゃなくて、命をあきらめた記憶がずっとこびりついてて、何かあるたびにそれが甦ってきて、無性に死にたくなってしまうってことは考えられないかしら。……もともとなかった命だったんだって」
「ユリさんて、するどいことを言うんだね。思い当たらないけど、そのとおりかもしれない」
「いまはもう、死にたくないんでしょう?」
「そうなんだ。自分の苦しみとか、人生の根っこを考えるとか、そういうものは、自分でない人間の魂に感動することに比べたら、取るに足らないものだと思うようになった。あ……あそこの暗がりにしよう……」
「はい……」
 ユリさんすぐにうなずいた。あたりを覗うようにしながら二人落葉を踏んでいく。


         百三十七

 ユリさんは細い幹に両手を突き、尻を向けた。私は黒いタイトスカートを腰の上までまくり上げた。ユリさんは裸足になり、パンティを足で地面に脱ぎ落とし、背中を水平に屈めて脚を拡げた。挿し入れる。
「ああ、気持ちいい! 大きくて硬い!」
 クリトリスを指で押し回しながら、速い抽送をする。
「あ、イク、すぐイク、ああ、だめ、イク!」
 一瞬、脈打つような緊縛に襲われ、すぐに射精が迫った。
「イッて、イッて、神無月さん、イッて、ああ、イクイクイク、イク!」
 同時に達した。腹と尻を接し合いながら、律動を繰り返す。
「あああ、だめ、イク!」
 膣の収縮に快く性器をゆだねる。しばらく彼女の腹を抱えながら、そのままの姿勢でいた。
「愛してます……いつまでも、死ぬまで」
 語りかける後ろ髪にキスをする。もう一度膣が吸いこむように動いた。私はおごそかな気持ちで性器を抜いた。ビクンと神秘の尻がふるえた。どうしたことだろう、まったく予期しなかった興奮が持続している。振り向いたユリさんは、勃起が治まらない私のものを見つめ、
「まあ、うれしい! 早く帰ってもう一度しましょう」
 帰り道を急いだ。ユリさんは歩きながらズボンの尖りに何度も目をやった。
 帰り着き、だれもいない廊下を早足で歩いて食堂を通り抜けた。もどかしく服を脱ぎ捨て、二人で蒲団に倒れこむ。ユリさんはまだぬめっている私の性器をむさぼるように含み、舐め、吸った。そして初めて部屋に忍んできた夜のように私に跨った。
「ああ、愛してます、ああ気持ちいい、気持ちいい、どうかなりそう、イク、もうイク!」
 覆いかぶさり、首を抱きしめ、間断なく痙攣し、さらに激しく腰を使いつづける。
「あ、イク、強くイク! 愛してます、好き、どうにもならないくらい好き、ああ、イク!」
 私の首を抱いたまま自分を励ますように腰を動かしつづけていたが、
「もう、だめえ!」
 と叫んで、腕を解き、仰向けに倒れた。人間のからだとは思えないほど、何度も弾み上がる。私はユリさんに飛びかかり、万力のように締まった膣の中へ一心に突き立てる。
「く、苦しい!」
 ユリさんは腹に内蔵された柔らかい手のひらで私をしごいて、一滴余さず搾り取りながら私の背中を抱きしめる。彼女といっしょに弾む。そのまま二人で上へ上へとずれていき、床柱に打ち当たった。まだ弾んでいる。
「ユリさん」
 二度、三度と呼びかける。
「……はい」
「だいじょうぶ?」
「はい……」
 応え、目を開ける。涙が溜まっている。
「愛してます」
 やさしく笑い、涙を目尻の皺に滴らせた。二人で床柱に頭をつけているのに気づき、笑い合いながら蒲団にいざり戻った。
         †
 一人だけ居残っていた無口な学生といっしょに晩めしを食ったあと、ユリさんが魔法瓶に用意してくれたインスタントコーヒーを飲みながら、十時過ぎまで、英単語の派生語の暗記と、数Ⅰの図形をやった。
 一段落ついて、葛西さんの家に電話をすると、すぐに奥さんが出た。
「あ、神無月さん、よかった。そろそろ寝るところでした。美代子は一時間ほど前に寝ました」
 球場に通い詰めてくれたことへの礼を言い、これからの予定を伝えた。そして、あしたの日曜が最後の逢瀬になると告げた。
「管理人さんが離れを貸してくれるそうです。学生は出払ってます。帰省しない学生が一人いるきりです。管理人さんも夕方まで街に出てくると言ってます。葛西家のほうにはいますぐは遊びにいけませんが、お父さんに、スケジュールがあわただしいので、二十七日の水曜日、野辺地からの帰りがけに寄ると伝えてください」
「水曜日ですね。主人も兄も喜ぶでしょう。名古屋の住所を教えてください」
 奥さんは私が言うとおりメモを取った。
「美代子がときどきお手紙書くと思います。ちゃんと青高に入って、東京の大学にも合格して、かならず神無月さんのそばへいくと言ってます」
「山口はすでに東京に発ちました。いよいよお別れです。三十一日の昼に、飛行機で発ちます」
「二十七日には、お赤飯炊いて、ササゲを炒めて、ハマグリのお吸い物を作って……」
 そこまで言って絶句した。
         †
 日曜日、朝早くから昼まで、みっちり数ⅡBの勉強をした。昼食にユリさんがチャーハンと玉子スープを作ってくれた。うまかった。
「じゃ、外出してきますね。お蒲団汚してもだいじょうぶですからね。お風呂入れときました」
「水曜日の野辺地の帰り、葛西家で夕食を食べてきます」
「わかりました。じゃ、水曜日は夜食だけですね」
一時過ぎに奥さんがやってきた。ユリさんに似た黒のタイトスカートに白い薄物をはおっていた。食堂のテーブルに茶道具が用意してあった。ユリさんの心遣いだった。
「きょう私がくることは美代子には知らせてません。水曜日を楽しみにしてます。これを持っていてください」
 胸もとにリボンを結んだセーラー服姿のミヨちゃんの写真を差し出した。私はそれをシャツの胸ポケットにしまった。
「飛行機の見送りはいりません。ひっそり青森を去って、ひっそり名古屋で受験生活を送ります」
 奥さんは頬を紅潮させてうなずいた。私はつづけて、
「東大を落ちたら飯場を追い出されるに決まってますから、名古屋のどこかで暮らしながら、自主トレを積みます」
「神無月さんのような人にはいろいろな人が手を差し伸べますから、だいじょうぶですよ。いずれミヨ子も、おそばにまいります。そうすることがあの子の幸福なんですから、私は遠くから見守るだけです」
「お風呂、入りますか? 羽島さんが立てていってくれたんです。狭いですよ」
「いただきます」
 五つしかない飛び石を伝って離れへいく。
「かわいらしいお家」
 目を輝かせる。風呂場を見せる。
「わあ、きれい」
「まめな人なんです。セックスをしてからゆっくり入りましょうか」
 襖を開けて寝室に入る。きちんと蒲団が敷いてあった。二人全裸になって横たわった。手を握り合う。
「月に何度か、神無月さんが抱いてあげてるんですね」
「はい。ぼくは好色な人間ですから」
 奥さんは明るい声で、
「女を救う好色ね。そういうのは好色と言いません。だれも恨みませんから。男の機能をちゃんと持ってそこにいるだけなんです。欲望とは関係ないものです。最後の日です。うんと興奮して、神無月さんに喜んでもらいたいの。私のイキ方は恥ずかしいくらいですから、自分も興奮するんです。きょうはだれの目も耳も気にしないで、ぜんぶ見てもらい、聞いてもらいます」 
 私は、彼女の皮膚の輝きと色彩と体形を記憶した。奥さんも私の顔や全身を眺め、手のひらや指で確かめた。そして、いろいろな場所にキスをした。
「こんなに美しいからだってあるものかしら」
 目が潤んでいる。
「やっぱりお風呂が先。きれいなからだを抱いてもらいたいですから」
 うなずき、二人で風呂場へいった。奥さんは私の陰茎を洗い、睾丸と肛門も洗った。たちまち屹立した。私が掌に石鹸をつけて、ひざまずく奥さんの性器を襞まで念入りに洗っているあいだ、彼女は私のものを含み、心ゆくまで舐めた。屹立しているのに、なぜか性的な高ぶりのない、清潔な華やぎがあった。石鹸を流し、安心して抱き合って湯船に浸かった。奥さんが頬を染めて言った。
「がまんできないので、ここで一度、イカせてください。三、四回こすればイキます。ごめんなさい」
 私は屹立したもの誇示するように立ち上がった。
 奥さんは湯船の縁に手を突いて、尻を突き出した。長い陰唇を押しこむように挿入して数回こすると、押しこんだはずの黒い襞がぴったり私を包んだ。
「ああ、イキます!」
 背を丸め、腹を収縮させた。そのまま結び合ったまま湯の中にしゃがみこむ。あぐらに乗る格好になった。奥さんはたちまちふるえだし、
「ああ、神無月さん、イク!」
 こちらに顔だけ向けて、唇を吸いながら、尻を上下させて気をやりつづける。やがて私の唇を強く噛み、ウーンと呻いて反り返った。
「こんな不道徳なことができるのも、きょうが最後です。きょうが過ぎれば、もう思い残すことはありません。あしたからは、私は思いを寄せるだけ……。五、六年経ったら私はほんとうのお婆ちゃん。神無月さんの噂はミヨ子から聞かせてもらいます。きょう、何回イケるかわかりませんけど、イケるだけイッて、最後の思い出にします」
 異次元の天真がある。ただ、魂の奥行きが感じられない。好色の心とロボットのからだで接しないと、時間の長さを意識してしまう。ミヨちゃんだけなら、まったく異なった快楽のときを過ごせるかもしれない。そんなことはおくびにも出してはいけない。
 からだを拭い、二人で寝室へいく。すぐに奥さんの性器を舐める。奥さんが首をもたげて私の表情に目を凝らしている。すぐにその目は閉じられ、高潮が迫る。
「イク、神無月さん、イク!」
 腹が縮まる。すぐに挿入する。壁が脈打っている。数回往復するだけで、連続のアクメが始まる。私もすぐに迫ってくる。奥さんの快感の連呼が始まる。
「神無月さん、もうだめェェ!」
 苦しそうに痙攣している。射精するために、七、八回往復して吐き出す。律動で奥さんはさらに何度か達する。射精のあとの膣の刺激にこらえきれなくなり、抜こうとすると両手で尻を引き寄せられた。さらに二度、三度とアクメの声を上げる。プーンと体臭が立ち昇る。初めてのことだ。よほど快楽が強いのだろう。引き抜くときに、もう一度苦しげに達した。
「好きです……」
 ミヨちゃんとそっくりな声で囁いて、みぞおちをふるわせた。重なって横たわる。腹が荒い息をしている。乳房が私の胸を押している。
 眠い。目をつぶると眠ってしまいそうだ。疲れていないと思ったからだが疲れている。目をつぶった。
 自分のものが舐められているのを感じて目覚めた。目をつぶってから十分も経っていない。しっかり勃起している。奥さんは跨り、大切そうに上下する。
「あああ、神無月さん! す、すごい、気持ちいい! イク、イクイク、イク!」
 あの体臭がただよい、疲れを忘れるほどの痛烈な刺激がきた。最奥部の襞でむんずとつかんで揉みしだいた。奥さんはあわただしく腰を振り、
「だめ、またイッちゃう、あ、イク! たいへん、オシッコ出ちゃう、イクイクイク、イイク!」
 飛び離れる間際、勢いよく一瞬の放射が私の腹にかかってすぐに止んだ。私はあわてて起き上がると奥さんに差し入れ、射精を果たした。奥さんが、グ、グ、と何度も弾んだ。
「神無月さん! だめ! すぐ抜いてください!」
 抜き去ると、グー、グー、と呻きながらからだを丸めて痙攣する。私は小便を吐きかけられた腹を見た。ねっとりした液体がついている。小便ではないようだ。初めて目にする別種の体液だった。悶えふるえている奥さんを置いて、風呂場へいき、シャワーを使った。顔に脂汗をかいていることがわかった。顔と頭を石鹸で洗った。こういう脂汗をかくことはもうないだろうと思った。
 からだを拭いて戻ると、
「ごめんなさい、オシッコかけてしまって」
「オシッコじゃなかったよ。気持ちよすぎて、透明な精液のようなものが飛び出したんだ」
 奥さんは抱きついてキスをした。
「これ以上ないくらい感じました。ほんとにありがとうございました」
 奥さんは端座した。両手を突いて深く頭を下げる。
「ありがとうございました。すばらしい思い出になりました」
 奥さんは歩きながら何度もハンカチで目もとを拭った。堤橋まで送っていった。私にとっても、彼女にとっても、いまのこのときだけが人生だ。どんなに異様な現在の瞬間も人生として感覚し、理解しようとしなければならない。
「水曜日の夕食会、忘れないでくださいね」
 まるで男同士のように固く握手して別れた。ミヨちゃんのときと同じように、奥さんの姿が大通りを折れるまで見送った。ようやく灰色の午後の陽が傾きはじめた。カズちゃんのことが浮かんだ。この数日は、せっせと荷物の整理をしているだろう。あの笑顔を見にいきたいけれど、いまのからだのままいきたくない。どれほど彼女が寛容でも、きょうだけは甘える気にならない。健児荘に戻り、もう一度シャワーを浴び、勉強の習慣にしっかり身をゆだね、しっかり疲れて寝よう。


         百三十八
 
 健児荘に戻ると、ヒデさんから手紙が郵便受けに入っていた。便箋が二枚、やさしそうな両親と撮った写真が一枚(母親は芯のある上品な顔をしていて、父親は野暮ったいむさくるしい顔をしていた。どちらも好人物のようだった)、自分だけを写したものが一枚入っていた。瓜二つと言っていいほどけいこちゃんに似ていた。頭の中だけではけいこちゃんの顔を思い出せないが、この顔を見るとまちがいなくこれがけいこちゃんだと指摘できた。

 野辺地は神無月さんの話題で持ちきりです。神無月さんを知らない父も、とてつもない人だ、常人では計り知れない天才なんだろう、と言っています。名古屋へいかなければならないのは、お母さんのことも大きな理由なのでしょうが、きっと神無月さんには野球だけが〈したい〉ことで、ほかのいろいろなことは風景のように見つめながら、ただ自然に〈生きたい〉のだろうと思いました。その生き方に、私はずっと従っていくつもりです。
 来年青高に入ったら、名古屋へお知らせします。三年間、うんと勉強して、神無月さんの住むと同じ大学に入ります。それまでは、年に一度、かならず逢いにいきます。
 おからだ重々お気をつけて。名古屋へは来年あらためてお便りします。
 郷さまへ                             秀子

 数Ⅰの勉強に取りかかった。十一時ごろ、一度ユリさんが覗いた。
「夜食を作りました。とにかく食べて、それからまた好きなだけおやりなさい」
「シーツ、汚してごめんね」
「平気よ。もう、私以外、予定はないんでしょう?」
「一人も」
「あしたは早いんですか?」
「うん。タクシー呼べるよね」
「もちろん。何時ごろ?」
「八時。野辺地まで直通」
「え!」
「早くいってやりたいんだ。このあいだは、ガッカリさせたくなくて転校の話をとぼけちゃったから、それもきちんと説明したいし。……説明しなくてもわかってるだろうな。あしたの朝めしは、味噌汁に玉子を落としたのを飲んでく」
「わかりました」
 夜食は肉豆腐と一膳のめし、ひやむぎ、ナスと胡瓜の香の物だった。心がこもっていた。
 テーマ別にまとめた山川の参考書で、大和・奈良から鎌倉時代までの文化を二時過ぎまでやり、目がしょぼしょぼしてきたので、湿った蒲団に入った。
 七時に起きて顔を洗い、歯を磨いて、排便してから、食堂へいった。居残り学生がアジの開きと目玉焼きを食っていた。目礼した。
「三年生ですか」
「ああ」
「受験ですね。どちらを受けるんですか」
「北大医学部」
「すごいですね」
 本人がすごそうな顔をしたので、何がすごいのかわからず褒めた。〈医学部〉がすごいのかもしれない。ユリさんが豆腐と油揚げの味噌汁に玉子を落として持ってきた。
「××くんは秀才だから。学校の十番を下らないのよね」
 話を合わせるユリさんも手持ち無沙汰だ。学生はごちそうさまも言わず引き揚げた。
「あんなやつと二、三日いるの、たいへんだね」
「神無月さんや山口さんみたいな人は二度と入ってこないでしょうね。生活の糧だから仕方ないわ」
「生活の糧か。ぼくは何を糧にするのかなあ」
「野球でしょう。そしてお嫁さんをもらって、家庭を作り、野球で養う」
「だれかの白馬の王子になってあげたいけど、王子も基本は一夫一妻だからね。王様も含めて世界じゅうが、歳月かけて見つけた婚姻制度というものを、考えもなしに遵奉してる。女々しい定住願望がにおう。定住を好む女を愛すれば、自然とそうなっちゃうのかもしれないけど、どこかしっくりしないんだ。男は流浪を好む奔放な種まき器だと思うから。そういう性質は一国の基本である〈家庭〉を崩壊させるので、流浪したがる男に枷を嵌めるために婚姻制度という飛び道具が発明されたんだろう。ぼくは一妻も多妻も、一生妻というものを持たないつもりだ」
 持てば、父のように、振り捨てることになる。一から人間関係を築き上げるものの最難関は、家庭だ。
「あら、女神は?」
「彼女は妻じゃない。神さまはそんな立場を望まないよ。だれにも束縛されないし、ぼくのことも野放しだ。そろそろタクシー呼んでくれる?」
「八時に関野商店の前にくることになってるわ」
 部屋に戻り、ポロシャツを着、カバンの底にしまってあったあの分厚い茶封筒から十二万円を取り出し、二万円を学生ズボンの脇ポケットに、ばっちゃに渡すための十万円を尻ポケットに入れた。旅のお供に、何度か読みさしていた高橋和己の邪宗門を携えた。車中で読み、合船場で蒲団に入ってから読み終えるつもりだった。忙しい野球生活の中にいてさえ読み差す本はめったにないけれども、現代に近いものほど読み通すことが困難になってきた。おまえは頭が悪いのだと現代文明が脅しをかけてくる。難解な哲学書よりも流行の本のほうが難しいと感じる。一ページも読まずに善司の書棚に置いてくることになるかもしれない。
「じゃ、いってくるね」
「三十日の土曜の昼に荷物を送って、それから女神さまのところだから、水木金と三日間勉強できるわね」
「うん。ぎりぎりまでやる」
 関野商店まで見送られ、タクシーに乗る。ユリさんに手を振った。こんないっときの別れにも永遠の悲しみを感じる。人は別れてはいけない。
「野辺地まででしたね」
「はい」
「二千五百円ぐらいかかりますよ」
「だいじょうぶです」
         † 
 ばっちゃはすっかり馬鹿らしくなったという顔だった。
「親子で好きだようにしたらいがいに。ワが何言ってもまいねべ」
「そう突っ放すなじゃ。親のたンだのわがままだ。郷はがまんして、いぢばんいいと思る道をとったんだべせ。オラんど年寄りとちがって、先のある人間はアダマ働かせねばなんねのよ」
 じっちゃはいつもの慈愛に満ちた微笑を浮かべた。
「郷が忙しぐさせられでるだげだべせ。スミも、どったらつもりで、おめをわざわざ野辺地さ送って寄こしたもんだべなあ。こっちさ置ぐてへってから、まんだ二年も経ってねんでェ。ワヤクチャだでば」
 早速ばっちゃは私を連れて、浜の坂本へいった。亭主は漁に出ていて家にいなかった。
「大っきぐなったらババちゃの面倒見るって話、忘れねんだよ。恩知らずになってまるすけな」
 坂本の女房にきつい口調で言われた。
「忘れません。プロに入るまで長生きしてもらえれば、かならず」
「それはいづの話よ。五年後な、十年後な」
 女房は呆れたふうに唇をゆがめた。私と二分と対話したことのない彼女が、私に何を諭そうとしているのだろう。
 ばっちゃは坂本を出た足で、ボッケの店にいった。母親が、フミオは金沢に泳ぎにいってら、と言った。彼女はばっちゃと私に丁寧に応対し、喫茶コーナーのテーブルに坐らせて、芋饅頭と玄米茶を出した。私は饅頭を齧り、茶をすすりながらばっちゃに言った。
「三十日にこっちに蒲団と机とスタンドを送るからね。ここにあるステレオはガタがきてるけど、大切な思い出だから部屋にずっと置いといて。レコードは、暇を見つけて名古屋に送って。どちらもほんとに大切なものなんだ」
 十万円をテーブルに置いた。
「……きょうは断らないでね。アパート代が安くて、おふくろから送ってきた金が貯まっちゃった。一年近くでこんなになった。向こうにいったら使うこともないから」
 ばっちゃはその金を悲しげに見つめ、モンペのポケットに入れた。
「また貯金しとくべ。なして、郷は欲なぐ生まれだもんだべなあ。……要ることがあったら、手紙コよごせ。送ってやら。こっちゃさは、いつでも帰れるとぎに帰ってきたらいがいに。じじばばの面倒なんたら見る必要ね。じっちゃも、オラも、まんだまんだ長生きするすけ」
 ボッケにそっくりの馬面の父親がやってきて、
「名古屋さいぐってが。野球留学だべ。ババちゃもさびしぐなるなあ」
「ときどき帰ってきます。どうか、じっちゃばっちゃをよろしく」
 自然とそう口に出た。父親がうなずいた。どういうふうに彼らが祖父母を〈よろしく〉してくれるのかわからなかった。
「来年は、キョウちゃんはドラフトで騒がれで、たいへんなこどになるこった。アダマは切れるし、野球は天才だし、善吉さんもババちゃも、どしたらいいがわがんねべおん。孫が大出世するためだと思って、さびしぐてもがまんすんだ」
 ばっちゃはうなずき、過剰な笑いで応えた。
 芋饅頭を一箱買った。浜の坂本へ持っていくためだった。遠い親戚だというガマの家にも寄った。声をかけたが、だれも出てこなかった。引き戸の向こうに人の住んでいる気配がしなかった。
「カッチャが死んで、ガマは左官のうぢさ養子にへったんでながったがな。そのふとのうぢに隠居部屋作ってもらうづ話が出たばすだったのにせ」
 ガマは相変わらず盥回しされているようだった。障子の向こうに気配だけで生きていた婆さんは死んだのか。
 昼下がり、炉を囲んで、相変わらずじっちゃは軍隊話をし、ばっちゃは薄情な子供たちの話をした。
「ちゃんちゃんと仕送りすれば、孝行したと思ってるのせ」
 ばっちゃが愚痴に終始するのは当然のこととして、新聞読みのじっちゃが、野球で騒がれている私にその類の話をしないのは、〈毛唐〉のスポーツにまったく興味がないからにちがいなかった。おかげで私は静かな心でいることができた。
 ばっちゃが夕餉の買出しに出かけると、じっちゃは柔らかい微笑を浮かべながら、軍隊話でないことを言った。
「だもかも生きてんだ。オラやおめがこの世に生きてるみてにな。みんなが生きてるこどが、一人ふとりに世の中の道を教えんだ。それがむがしからこの先もずっとつながってるのが、人の道てへるんず。人の道は途切れね。人も途切れね。一人ふとりの命なんてのは道の草みてなもんだ。草でも一所懸命おがれば、いずれ肥やしになる。それが生ぎるってことせ。どうとでも、草みてにけっぱって生きればいんだ。……おめはけっぱるべ。ふとり変わったワラシだすけな。いく末を見てじゃ」
 涙がこぼれた。じっちゃも赤い目をしていた。
 夕食はツブ貝の醤油煮と、ホヤと、ササゲ炒めだった。好物なのでめしを三杯食った。
 青森は七月の末から涼しい風が吹きはじめる。夜は冷えこむというほどではないけれども、空気がひんやり感じられる。ばっちゃが勉強部屋に蒲団を敷いた。ひさしぶりに、乾燥した暖かい蒲団に横たわった。
 ―じっちゃ、ばっちゃにきちんと顔を見せた。じっと二人の顔を見ていると胸が痛くなる。予定を一日早めて、あしたの夕方には帰ろう。
 来年からは、どういう生活になるのかわからない。次に遊びにくる日をへたに約束してはいけない。じっちゃの話はトルストイの人生論を読み聞かされているようだった。なんて頭のいい人だろう。芸術家や思想家にもなれるのに、囲炉裏にあぐらをかき、煙草を吸って、茶を飲んで、思い出話や人のためになる話をしながら死んでいくのだ。
 そんなことを考えているうちに、いつのまにか眠りこんだ。邪宗門は一ページも開かなかった。


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