百四十五

 父親がフライドポテトを追加した。女将とトモヨさんのジョッキはまだ三分の一も減っていない。カズちゃんは品よく一杯目を飲み終えるところだった。おトキさんは幸せそうに、主人と二杯目のジョッキをかち合わせながら、同じペースで飲んでいた。
 その夜は、トモヨさんは体調がいいのか、上になり下になりして、快楽を積極的に求めた。気をやるたびに激しくふるえ、硬直し、
「郷くん、愛してます!」 
 と叫んだ。からだじゅうの熱と気魄をオーガズムに集中させた。私は抱き合っているあいだも、アルコールのせいで少し頭がふらふらしていた。トモヨさんの嵐が過ぎ去ると、私は彼女の大きな乳房を握りながら、
「あまり会えなくなるけど、なんとか工夫して、ひと月に一回はお城にいくようにするからね」
「ありがとうございます。でも、何カ月かに一回でいいんです。高校にいったら、お嬢さんのところにだってあまりいけなくなるでしょう?」
「そうだね。―子供は」
「授かりものです。あるとき、ひょいとできます」
 そのあたりで遊んでいる子供たちには何の違和感もないのに、自分の子供となると、冷や汗が出るような圧迫感がある。父も似たような感覚を私に抱いたのだろうか。
 その子は私に捨てられて育つのだ。父が私を捨てたように。捨てられた子は、私の心の翳りも喜びも目撃できない。私が父のそれを目撃できなかったように。
「郷くんが大学へいけば、もうほとんど会えないでしょうから、もし子供ができたら、郷くんと思って大切に育てます」
「……十七歳の高校生に子供か。すごいな」
「負担に思わないでくださいね。私はすぐに北村の籍に入りますし、そればかりじゃなく、父親の認知しない子供のために、お国は痒いところに手が届くように援助してくれるんです。何も心配しないで、うんと勉強してください」
「心配はしてない。ぼくを捨てていった父親の背中を思い出してただけだ。認知ってよくわからないけど、親だと認めることだね。ぼくは認知するよ、そして何度でもその子に会いにくるよ」
 私は何か言いかけたトモヨさんの唇を吸った。アルコールがようやくしっかり回ってきて、そのままトモヨさんの腹の上で眠りこんだ。
         † 
 八月四日木曜日。曇。午前九時の気温二十七・五度。北村席の居間と厨房の柱に黄色い板の気温計が掛かっている。客足を推測したり、食材の痛み具合を推測したりといったルーティーンに関係があるのかもしれないが、一般の人間にとっても一日の行動の計画を立てるにはとても便利なものだ。
 大きな焼きサバとワカメの味噌汁、海老の天ぷらうどんで、たっぷりと朝めしを食い、みんなで冷コーを飲んだ。二日酔いの連中がまったくいないのに驚いた。腹がふくれたあと、ミニスカートを穿いたカズちゃんと、駅前のセントラル劇場へ市民ケーンを観にいった。二十五年前に作られた世界最高の映画がやっと公開されるというので、新聞で話題になっていたからだ。三井ビル北館六階。
「この映画館は昭和三十二年にできたの。千席以上もあるのよ」
 六月から始まったロングランで、しかも週日なので混んでいなかった。
 成功、スキャンダル、没落、幼児帰りのダイングメッセージ。新聞王ケーンがなぜ冷笑的な人間になっていったかがいっさい描かれず、しかも、時間軸を前後させる前衛的手法で観客を混乱させるような、じつにつまらない映画だった。カズちゃんがコックリしていたのも当然だ。
 メイチカでズボンのベルトを二本買って北村席に戻り、カズちゃんの引越しの準備を手伝う。と言っても、青森から届いたほとんどの荷物は一部屋に積んで整理されていて、この数日に引っ張り出した本をもとのダンボール箱へ詰め戻した程度だった。
「運びやすいように、玄関土間に積んでおこうか」
「運送屋がやるからいいわよ」
「ユニフォーム、一着は思い出に背番号をつけたまま、もう一着は背番号を外して無番にしてしまっといてね。大学いってから練習着にする」
「はい、一度聞きました。忘れてないからだいじょうぶよ。グローブとバットは、玄関にいつも出しておくわね。手入れするんでしょう」
「うん。花の木の庭は素振りできるほど広い?」
「周りは適当な広さの庭だけど、玄関前が、車十台駐車できるくらいのだだっ広い更地よ」
 大座敷で扇風機に吹かれながら、カズちゃんと話をしている女たちのあいだに寝転がって、告白録を五分の一ほど読み、飽きたので、あとはカズちゃんに預けた。
「適当に読んで返しとくわね。おやつ、何食べたい?」
「朝は海老天だったから、野菜のてんぷら」
 聞きつけたおトキさんの命令一下、台所にしばらくのあいだ香ばしい油のにおいが立ち昇った。
「野菜天丼にしたい人」
「はーい」
「てんぷらライスにしたい人」
「はーい」
 ほぼ半々になった。女たちがまた寄ってきた。ほとんどが二十代後半から三十代だ。これといって話しかけるわけでもなく、ただ私のそばでたがいに会話しているのだ。カズちゃんが、
「キョウちゃんのそばにいると、ホッとするでしょう?」
「ほんと、ほんと、座布団みたいにホッとする。枕にして寝っころがりたくなる」
「猫が膝に寄ってくるのといっしょね」
「あったかい感じ。いても気にならんけど、いないとさびしい。顔を見ると吸いこまれそうになるから、見んようにしとる」
「すごい野球選手なんよね」
「そうよ」
「東大いけるほど頭もええんよね」
「そうよ」
「美男子やし、歌もうまいし、あとは?」
「いいところも悪いところもあるわ。私にはぜんぶいいところだけど。全身が青白い、からだのにおいがない、手のひらと足の裏に汗をかかない、虫歯がない、オシッコは一日に二、三回、ウンコはほとんど下痢、ふだんのオチンチンは小さい、足は二十七センチ、手は意外に小さい、皮膚がとても弱い、頻脈、近眼、耳は片方聞こえない。……神秘的でしょ?」
「……人間やないみたいやね」
「人間でないんでしょうね」
 私は彼女たちのあいだに仰向けに寝転び、目をつぶって聴いている。
「……いちばんすごいのは文章。ホームランどころじゃないわよ」
 トモヨさんがやってきて、
「五月に和子さんに詩のコピーをぜんぶ送ってもらいました。……別の世界のものでした。それ以上のことはわかりません。ただ、読んだあとしばらくは、悲しくて、悲しくて、病気にかかったように涙が止まりませんでした」
 カズちゃんがうれしそうに笑いながら、
「トモヨさんに偏見がないせいよ。野球選手が書いたとか、高校生が書いたとか、文学者でない素人が書いたとか、そんなふうの偏見があると、キョウちゃんはただの文学志望の青二才にされてしまうわ。偏見さえなければ、心で文章が読めるから、自分の心が感じたことがすべてで、それ以上やそれ以下のことなんかなくなるの」
 女の一人が、ほんとうに私の腹を枕にして横たわった。
「はあ、天国やわ。箱枕みたいに硬い腹や」
 カズちゃんとトモヨさんが顔を見合わせて笑った。おトキさんたちが、てんぷらを盛った大皿と野菜天丼をどんどん運んできた。トモヨさんも立ち上がって手伝いはじめた。店の女たちが食卓に向かった。賄いたちが吸い物を並べていく。私の腹に頭を載せた女はうっかり眠ってしまっていたが、女将がやってきて揺り起こすと、目覚めて恥ずかしそうに笑った。
「神無月さんも何も言わんと、人がええ」
「ぼくも気持ちよかったです」
 カズちゃんが、
「私、腹枕したことないな。一度やってみようっと」
「私も」
 トモヨさんがまじめな顔でうなずいた。主人がやってきて、ビールを命じた。
「早く山口さんこんかな。飲み相手がおらん。神無月さんは下戸だし、女たちは上戸すぎて酔わんし、菅ちゃんは運転やし、つまらんわ」
「すみません。努力して、強くなります」
「いいんだよ、神無月さんはどっちでも。聞いとったで、枕の神無月さん。ワシもそう思うわ」
 おやつのあと、カズちゃんと風呂に入り、二階の空き部屋へいった。
「禁を破るの?」
「破る。合格まで待てない」
「私も。あと二、三日で生理がくるからジュクジュクしてるの。少し腫れてるから、そっとしてね。それでもすぐイッちゃうから」
「きょうは、出せる?」
「うんと出して」
 吸いつくような肌に、私は自分の湿りの少ない肌を密着させる。カズちゃんの皮膚が自分の皮膚の中へ溶けこむように心地よい。胸の大きさも掌に余るほどなのに、ぴったり吸いついてくる。
「ほんとにぼくたちは、どこにいてもかならず出会って、いっしょになったろうね」
「そうよ。決まってたことなのよ」
「こんなに何から何までぴったりなんて考えられない」
「ここもよ」
 握ってきたので、私もカズちゃんの中に指を入れた。口を吸い合いながら自然に合体する。たしかに腫れている。注意深く、大切に動く。
「ひりひりする?」
「ううん、柔らかい感じでイケそう。あと五、六回こすったらイクわね」
 そのとおり、カズちゃんは数回の往復で切なそうに腹を縮ませた。射精をしようとすると、どうしても深く突き入れそうになるので、吐き出す間際に入口で素早くこすって出した。それにも彼女はしっかり応えて強く達した。尻が跳ねるとき深く突き入れてしまわないように、射精したとたんに抜いた。私の律動を受けられなくてカズちゃんは物足りなさそうだったが、
「ありがとう、やさしい人ね」
 と言って、頬を撫ぜた。湿った感じが強いので下を見ると、シーツに淡く朱が滲んでいた。
「あらっ、きちゃった」
 カズちゃんは掌で股を押さえると、立ち上がってトイレへいった。すぐに戻ってきて、生理用品を挟み、厚いパンティを穿いた。
「キョウちゃんのオチンチンが汚れちゃった。すぐシャワーで洗わなくちゃ」
 風呂場に連れていき、石鹸を立てて、温かいシャワーで流した。ついでにからだ全体も洗ってくれた。私は新しい下着にジャージを着、カズちゃんはトレパンを穿いた。
「きょうの夕食は湯豆腐よ。おいしいタレを作るわね」
「その格好、いいね」
「野球見物用に買ったの。これなら目立たないでしょ」
「目立ったほうがうれしいのに」
「だめだめ。もうこれからは私はどんなときも目立っちゃだめなの」
 明るく決然と言う。
「ぼくたちは、結婚しないの?」
「私が五十歳になって、キョウちゃんが生きていたら、しましょう」
「どういう意味」
「生まれてから出会った年までの二十五年間をキョウちゃんに捧げて初めて、キョウちゃんに会うまでのむだな命がすっかり新しくなるの」
「不思議な考え方だね。でもあと二十年だから、確実に結婚できる」
 カズちゃんはひざまづくと私を抱き締めた。
「こうしていられるだけでどんなに幸せか、キョウちゃんにはわからないでしょうね」
 もう一度二階に上がり、二人で段ボール箱の整理を念入りにした。カズちゃんは自分の人生の織り糸を私の人生の織り糸に参差(しんし)させて紡ぐ。私もカズちゃんと同じように丹念に紡ぐ。そして最後に織りあがるのは、かならず二人の目指した布だ。
 五時を回って、二人とも満ち足りた気分で階下に降りた。




(第二部二章青森高校終了)

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第二部三章名古屋西高校へお進みください。