七

 母は依怙地に黙っていた。がんらい才能を基盤にする野球というスポーツを憎んでいるので、男たちが話していることに耳を塞ぐしかない。才能に結びつけて息子の存在を考えるのは癪だし、まんいち才能があるとしてもそれは勝負事のくだらない〈小才〉で、転落への第一歩だと見くだしている。ブラウン管に映るプロ野球選手のことを、成功者ではなく本道を忘れた馬鹿な遊び人だと信じている。だとすれば、私を野球選手にすればしっかり〈転落〉を目撃できるだろうにと思うが、とにかく私がチヤホヤされるのは許せないのだ。彼女が価値と認める本道とは、無名の人たちの送る人生のことだ。無名人こそ地道な努力の権化だし、〈一隅を照らす〉最高峰の人たちだからだ。私が無名の人生を送れば彼女は安らぐ。野球選手になればそれは不可能になる。すでに新聞で騒がれているのだから。
 ―それでも彼女は、私を東大に受からせたいのではなく、個人的にその名望に未練があるようだ。
 つまり、母や西松の岡本所長や浅野の言う努力とは、野球のごとき胡散臭い小才の対極にあるもので、教室や試験場で勝ち抜くことに腐心し、評判の高い集団に属することで戦いを終える営みのことだ。スポーツの勝ち負けとはまったく異なる身分闘争なのだ。よくむかし彼女は、銀行マン、とウットリした表情で言っていたが、たぶん彼女の頭の中のスクリーンには、才能のない無名の銀行マンは評判の高い集団にエリートとして属するために地道な努力を積んできた勝利者のイメージで映し出され、金貸しの番頭や丁稚という惨めな敗北者のイメージでは映し出されていなかったはずだ。
 しかし、努力というのは、有名無名とは関係のない、勝利とも敗北とも関係のない、序列とも才能とも関係のない、万人の共有物なのだ。人間ならばだれもが背負わなければならない義務なのだ。母は一生そのことに気づかないだろう。
「野球なんて……」
 と母は呟いた。大沼所長が、
「人は、自分の価値観でものごとの優劣を決めるからな。佐藤さんにとって、野球選手は零細工場の工員みたいなものなんだろう」
「それもまた、いびつな考え方だなあ! その反対は大企業の社長か。つまり、エスカレーターのぼくが、天才野球選手の上にいってしまうわけだ。無茶苦茶な価値観だね」
 飛島さんが皮肉を言った。すかさず山崎さんが、
「無茶じゃないんだよ。おばさんはの価値観は当たらずといえども遠からずだぜ。球団は企業の所有物だからな。おかしなヒエラルキーだが、金の世の中だから仕方ない。おばさんは金の世の中にきっちり順応したってわけだよ」
 これまた強烈な皮肉だ。山崎さんはつづけて、
「しかしだよ、キョウちゃんクラスの野球選手は、会社組織でもないのに何億と稼げるんだから、金の世の中の最高峰にならないか。おばさんの価値観は、金のヒエラルキーとは別のところにあるな」
「男は頭ですよ」
 母の言葉にみんなドッと笑った。そして二度と野球の話題は持ち出さなかった。西松の社員たちとは異なった反応で、彼らは母に対する失望を表現したのだった。
         †
 所長が一番風呂に入りにいった。六帖ほどもあるタイル貼りの風呂は、鉄筋の棟の玄関を入った左にある。浴槽は二帖ほどだ。ここにきて何度か掃除をさせられた。掃除は楽しい。ぬめりや垢が取れて、タイルがキュッキュッとなるのがさわやかだ。そればかりでなく、真っ裸になって風呂を洗うたびにシャワーを浴びるので、汗をかいたからだを清潔に保つことができる。
 一度三木さんと入浴した。湯に入る前に、ニコニコ笑いながら、五、六センチのプルンとした性器に湯をかけて洗っている姿がユーモラスだった。小粒だけれど、しっかり剥けていた。小粒なもの同士の仲間意識からか、私は、うん、とうなずきたい気分になった。
「三木さんはぼくと同じくらい、チンポが小柄ですね」
「勃つときは、立派に勃つぞ」
「女泣かせですね」
「まあな。しかし、キョウちゃんのは同じ小柄でも、柄が悪くないか。顔に似合わないぞ」
「はい、みっともないですが、いずれ喜んでくれる人も出てくるでしょう」
 三木さんは笑いだして止まらなくなった。
 きょうもその三木さんの音頭で食後の酒になった。
「よう、飛島よ、おまえ、エスカレーターなのか。わざわざ東京の高台から、名古屋の平地の建設現場に帝王学を学びにきたってわけだ。結局、エスカレーターで戻っていくのか」
 山崎さんが尋く。
「いえ、三男坊ですから、五十歳ぐらいで重役どまりというところでしょう。さっきは冗談を言ったんですよ。キョウくんが気の毒で」
 佐伯さんが潤んだ眼を私に向けた。
「キョウくんにとって、こんなことはぜんぶ観察材料だと思う。何も気にしてないよ。いい男です。こんなすてきな人、見たことないな。キョウくん、野球は天与のものだろうけど、勉強は何かコツがあるの? ぼくね、二級建築士の試験勉強してるんだよ」
 私は頭を掻き、
「さあ……ぼくは、ただの野球小僧でしたから。……中学くらいからマグレが起こりはじめたんですよ。その回数が頻繁になっていって……。ただ、一生懸命没頭して勉強するんですが、いつも、よくわからないなあと思いながら、なんて馬鹿なんだろうなあ、自分は勉強に向いてないなあと思いながら勉強してます。根に野球小僧だったころの劣等感があるんですよ。わからなくてあたりまえだよな、野球しかできないんだからな、という劣等感です。そしたら、またマグレが起こるんです。今回も怖かったですよ。馬鹿だから落ちて当然だよな、と心の底で思っていたら、マグレが起こりました」
「でもキョウくんは、そんなソブリはこれっぽっちも―」
「誇り高いふりをして、十字架を背負うんです。にっちもさっちもいかないほど重い十字架を。人間の勉強能力なんて大差ないと思ってますから、背負う十字架の重さでマグレの回数が変わってくるんじゃないでしょうか」
 山崎さんが膝を叩き、
「いやあ、身につまされる話だなあ。佐伯、いいこと訊いてくれた。劣等感の十字架を大上段に掲げろってことだよ。人間はたとえ白旗でも大上段に掲げなくちゃ何も起こらんということだ」
 飛島さんが、
「キョウちゃんの修羅場の回数が尋常じゃなかったということだと思うよ。誇り高いフリと言うよりは、その経験からくる自然体だな。佐藤さんがよくキョウちゃんに、エラそうにって言ってるでしょ。キョウちゃんにそんなふうに言う人はけっこういるだろうし、言葉に出さなくてもそういう態度をとる人は多いと思う。その人たちに気を差して、フリと言ってあげてるんだね。キョウちゃんそのものは自然体だよ。結論を言うとね、キョウちゃんは十字架なんか背負ってないということ、大上段にも構えてないということ、自分を馬鹿だと思いながら、ただ一生懸命に生きてるということさ」
 山崎さんはまた膝を叩き、
「そうか、そこを考えるべきだった。じゃ、キョウちゃんは、ひたすら努力の人ってことか? 天才じゃなく? そりゃないだろ」
 母が、
「凡人も凡人、本人もマグレと言ってるじゃないですか。むかしから勉強はできなかったんだから。野球にしたって、たかが名古屋市で騒がれたくらいのものですよ。大のオトナに向かってアドバイスなぞオコがましい」
 母のほうから野球の話を持ち出した。飛島さんはチラと母を睨んで、
「天才ですよ、佐藤さん。それは、みんなわかってることじゃないですか。鶏口は牛口であることが多いんですよ。佐藤さん、いいかげん、潔く認めましょうよ」
 男たちの酔いの度合いが増していった。三木さんが、
「キョウちゃん、部屋に戻って好きなことをしな。俺たちに付き合ってたらきりがないぞ。キョウちゃんがいると、みんなうれしくて話が尽きないんだよ。所長が風呂からあがってきたら、また長い話になるぞ。これからずっと俺たちと同じ釜のめしを食うことになるんだ。楽しみは均しておこうぜ」
 山崎さんが、
「そうだ、キョウちゃん、部屋に戻って勉強しろ」
 佐伯さんが、
「キョウくん、ありがとう。一生懸命勉強して、マグレを狙います。人一倍バカだって意識はありますから、だいじょうぶです」
 三木さんが、
「いつか、キャッチボールしてよ」
「わかりました」
 私はバラックの部屋に戻り、カバンに何度目かのレコードを詰めた。机とスタンドが新しくなっている。書棚も壁に二つ備わった。木谷のスタンド敷きを敷いた二十ワットのスタンドの明かりを点け、帰り道の書店で買ってきた文庫本の『赤と黒』を開いた。ルソーの告白録を読み差したあと、しばらく本を読まなかったが、カズちゃんが告白録に似ていると言った赤と黒を読みたくなったからだ。
 読み出して、たしかに時代背景がちがうだけで、筋立てのそっくりな出世物語だとわかった。上昇志向。自分には縁のない読み物だったが、がまんして読み進めた。
 歴史、文化、階級闘争、それらに対する教養を吐き出す文学。しかも、心理描写のわかりにくさといったら! 人はこういう文学を読むに値するものと考えるのだろうか。どうしてここまで、歴史、文化、社会的な背景を書きこまなければいけないのか。まるで学問だ。芸術家は学者を喜ばせるために書かなければならないのか。カズちゃんが別段褒めていなかった理由もわかった。だれが選んだか知らないが、世界十大小説というのはこんなものかもしれない。
 雑読し、深夜の三時過ぎに読了した。いのちの記録をカバンから取り出す。

 赤と黒。胸に響かない文学。男の向上欲と、女を利用した実際の出世と、女の裏切りによる転落を〈起承転〉にし、噴飯ものの女の懺悔によって、疑っていた愛の実在をもう一度信じ直した男が勇躍死途につくのを〈結〉にする。うるさい知識を人物描写の間充質にする。百科事典でも引きながら読めというのか。
 信じていなかった愛の実在を知って、その奇跡に喜ぶのもつかの間、悪行の報いとして死んでいかねばならない男。そんな男の物語を読んでもカタルシスを起こさない。愛を疑ってはならない。
 死ぬことに筋道を与える文学に馴染めない。理由もなく死にたくなる心こそ、描かねばならない。そういう心は病気にちがいないが、病気の心をこそ描かねばならない。向上欲が強く、もともと愛を信じない人間の挫折など、描くに値しない。そんな人間の転落は勧善懲悪の典型であって、真の転落ではない。罪の報いというシンプルなものにすぎない。愛を信じ、愛する者をないがしろにせず、愛され、何の罪も犯さず、理由もなく途絶する。感謝の念で疲労したわけでも、倦怠風に吹かれたわけでもない。死にたいという痼疾に蝕まれて死ぬ。それこそ、真の転落だ。


 食堂の玄関から飛んできたシロを連れて、徹夜明けの散歩に出る。草に縁どられた細い坂を上がり、アスファルトの土手道に出る。草の斜面の下の氾濫原はそこいらじゅう運動場になっていて、バックネットのある区画が何面か並んでいる。しばらくアスファルトを歩き、草に切られた石段を下りていって、グランドを横切り、庄内川べりの草に腰を下ろす。シロも並んで品よく腰を下ろす。薄茶色に濁った川だ。葦叢(むら)以外に何もない。向こう岸を眺める。シロも眺める。まばらに工場の建物のようなものが霞んでいる。憂鬱な風景だ。パサパサしたシロの頭を撫でる。
「犬取りにやられたとき、迎えにいったっけな。ウンコと小便にまみれて、おまえは立派に死んでいこうとしてた。ぼくはまだあの心境になれないよ。なんだかぼんやり悲しいんだけどね、死んじゃいけないような気がして―」
 シロが腰を下ろしたまま見上げて、クーンと言う。佐伯さんのような涙目だ。老いのせいかもしれない。
「年とったな。まだ七歳か八歳なのに、苦労したんだろう。一度死んだ身だ。命をありがたがって長生きしろよ。ときどきいっしょに歩こうな。よし、いこう」
 まだ明け切らない薄暗い道を帰っていく。その日から、シロの番所は私のバラックの出入り口と決まった。
         †
 八月二十六日金曜日。きょうも朝から猛暑。
 午後一時、カズちゃんとおトキさんとコンコースの大時計の下で待ち合わせ、いっしょに新幹線のホームに上がった。三十度を越える暑さの中、西高の制服を着て山口を迎えた。半袖の夏服ではない、黒い学生服だ。驚いたことに、山口も同じ格好で降りてきた。
「よう!」
「よう! 暑いのに、そんな格好できたのか」
「おまえもな。出発の象徴のつもりだろう。俺もそうだ。新幹線の中では脱いだ」
 左手にボストンバッグ、右手にギターケース。少し伸びかかった長髪はまだ櫛を入れられるほどではない。太い眉、精悍でいてやさしそうな目。色白になっていた。
「おトキさん、おなつかしゅう。和子さん、相変わらずびっくりするような美人ですね」
 返事を待たずにホームの階段に向かって歩き出す。私たちがあとを追う格好になる。おトキさんは夏シャツに薄地の渋茶のスカートを穿き、カズちゃんは空色のワンピースを着ていた。
「おトキさん、スカート姿、いいですよ」
 山口は背中のまま言った。おトキさんはうれしそうに山口に並びかけた。ボストンバッグを持つ。階段を降りる二人の歩調がゆっくりになる。私とカズちゃんは、彼らに先立って早足に改札を出て待ち構えた。山口とおトキさんはあせったふうにすぐ出てきた。
「先にいくなよ! 驚くだろ」
「積もる話があると思って」
 私は自分の頭を掻いた。山口と同じくらい伸びていた。
「ホームの階段で話なんかできるか。ところで、甲子園にいった東奥義塾が今年も二回戦で敗退した」
「そうか。知らなかった。あの柳沢が打たれたんだね」
「広島広陵に五点取られた。杉山は二試合で八打数一安打、四三振。やっぱりテレビも観てなかったか。それにしても、名古屋は暑いな。東京より五度以上暑い。しかし、おまえに会うにはきちんとした学生服でなくちゃいかんと思ってさ」
「ぼくもだ」
 女二人で顔を見合わせて笑う。


         八 

 玄関に見慣れた顔が次々と走り出てくる。おトキさんは台所へ逃げ去った。列の先頭にいたのは菅野だった。
「菅野と申します。北村で送迎をやらさせていただいてます」
「あ、あなた、たしか」
「はい、この春はタクシーに乗っておりました。ジコンよろしくお願いします。この三日間は、御用があったら遠慮なくお申しつけください。手の空(す)いているかぎり、どこへでもご案内いたします」
 山口はきちんと辞儀を返した。彼は荷物を奪おうとする女たちのだれにもギターケースを渡そうとしなかった。着物姿の主人夫婦とトモヨさんが深々と辞儀をする。女将が、
「ようこそ、お待ちしとりました。ステージ、作ったんですよ」
「は?」
「ま、とにかく、冷コーでも飲んで」
 主人が満面の笑みを浮かべて言う。この数日のうちにこしらえたのだろう、私も知らなかった。毎回変わらぬ豪華な食卓が、大座敷のテーブルに用意されていた。私のときと同じ朱塗りの祝い盆が一枚、彼の席に置かれ、テーブル全面にビール瓶が林立している。主人が端部屋の襖を開けた。
「おー!」
 山口が嘆声を上げた。部屋の奥に、十センチばかり楕円形の床を上げたステージが畳をうまく刳り抜いてしつらえられ、楽譜台とスツールを置いた前後にマイクが二本立っている。小型スピーカーが天井に固定されていた。スピーカーの脇に電灯が三つ、筒笠から覗いている。二つの電灯はブルーとオレンジ色。スポットライトのようだ。
「座敷の中にステージか。浮世離れしてるなあ。こんな舞台で弾いたことがないから緊張しますよ」
「ぼくも!」
「神無月は、河原だろうと、バスの中だろうと大丈夫だ。天使の歌声だから、どこにでも響きわたる」
 私たちは学生服を脱ぎ、並んでテーブルにつくと、ステージを眺めながら冷コーを飲んだ。両脇にカズちゃんと、控え部屋でお仕着せに着替えて戻ってきたおトキさんが坐った。主人夫婦も座敷へ移動してきた。主人は女たちに、
「さあ、みんな、ビールが冷えとるうちに飲んでまえ。菅ちゃん、あんたも飲んで、食って。きょう、送りは?」
「××姐さんと××さんの二人です。迎えは九時なので、そのあと上がらせていただきます」
 山口が、
「菅野さん、名古屋の道路を広く感じる理由がわかりましたよ。もちろん物理的に広いということもありますけど、車線が引かれていないことが大きいです」
「じつは車線がないんじゃなくて、車線を気にせず走るやつが多いんで、ペンキが剥げちゃったんですな。ペンキが薄れてきても、役所のほうが引き直しをサボって仕事をやらない。車が入り乱れてヒヤヒヤします。開発ばかり叫んで、開発したらホッポラカシ。名古屋人の大雑把なところです」
 カズちゃんが、
「昭和二十五年に百万を突破して、いまや二百万人都市だもの。空と地下に延びる開発ばかり気にして、地面を忘れちゃったのね」
 賄いたちがうろちょろおさんどんをしている。主人がステージを眺め、それから端座し、
「山口さん、このたびは、戸山高校合格おめでとうございます。これで神無月さんともども、落ち着いて勉学に励めることになりましたな。お二人とも、北村に寄ってくださる機会もおのずと減るでしょうが、いつでも思い立ったら遊びにきてください」
「ありがとうございます。神無月はそばにいても遠いやつですから、不義理をすることになると思いますが、勘弁してやってください」
 山口が頭を下げた。
「なんの、神無月さんは、和子とトモヨにしっかりとつかまえられてますからね。ふらりとやってきてくれますよ。山口さんは実際遠い。おトキ、忘れられんように、ときどき便りするんだぞ」
「はい」
「いやあ、いじらしいくらい山口さんのことを待ち焦がれてましたよ」
 山口が後頭部をさする。主人が茶封筒を差し出し、
「山口さん、これ、合格祝いです。神無月さんと同額にしました。往復の交通費を加算しときましたよ。やあ、二人が手柄を上げつづけると、ワシのポケットマネーがなくなってまう」
 賑やかな笑い声が上がる。カズちゃんがうれしそうに笑う。山口は相撲取りのように手刀を切り、
「ありがとうございます。せいぜい有意義に使わせていただきます」
 おトキさんは恥ずかしそうに、
「住んでらっしゃるのは、東京のどういうところなんですか?」
 私はおトキさんの声のやさしさと、無邪気でかわいらしい仕草に驚いた。
「関東大震災の影響がほとんどなかったのは、杉並区、中野区、世田谷区あたりなんですが、その中の杉並区の西荻窪というところです。つまり古いものが残っている町です。戸山高校は、新宿区高田馬場にあります。新宿なんていまは名が通ってますが、むかしは甲州から薪や炭が集まってくる貨物駅にすぎなかったんですよ」
 おトキさんは山口の説明にうれしそうにうなずくと、また台所に立っていった。トモヨさんもそっと台所へいった。
「まずは一杯」
 女将が私と山口のコップにビールをつぐ。私は、半分だけ飲み、これでと言ってコップを置いた。山口は察して、
「赤い顔では帰れないからな。おふくろさんとは、うまくいってるのか」
「飛島の社員たちがぼくを気に入ってくれてね。堅い防波堤になってくれてる。彼らが野球の話をしてしまった。ぼくはその気はないととぼけ通してる」
「北の怪物のこと、知ってたんだな」
「ああ。途中で気づいた社員がいた」
「これまでの事情、彼らに理解してもらえたか」
「するどいくらいね。おふくろのことをぼくがいっこうに話題にしないで、藪を叩いて回るようなことを言うので、新聞で事情を知ってる社員はイライラしてるようだった。おふくろを針の筵に坐らせないように気を使うことで疲れちゃうんだろう。それより、戸山に一番で受かったんだろうな」
「二十人受けにきて三人採ったから、全員一番みたいなもんだろう。おまえは定員一名突破だな。つまり何百人受けても、一番だったということだ。和子さんのもっとも優秀な後輩になったな」
 主人夫婦が大きな声で笑った。
「さ、食べて、食べて」
 夫婦二人で居間へいっとき下がった。おトキさんとトモヨさんがやってきて、いそいそとおさんどんをする。テーブルの向かいに坐っていた女が山口に、
「日本を大好きなライシャワーさんが、どうして大使を辞めちゃったんですか。テレビ観てても、よくわからんのよ」
 と質問した。なぜかホッとした。女たちは山口の役割をわきまえている。暖簾に腕押しの私の役割もわきまえている。山口は箸を動かしながら答えた。
「俺に訊いてくれて正解です。神無月にそういう質問はしないのがえらい。こいつはキチガイと紙一重の天才ですから、世の中のことはまったく知らないですからね。つまらないことでも知らないと、馬鹿だと思うのが世の常だ。それは神無月のよき理解者の俺としてはシャクだ。俺は小粒な秀才ですから、世間のことはほとんど知ってます。表面的にですがね」
 おトキさんが期待に目を輝かせる。
「ライシャワーは日本人を女房にしたというだけではなく、日本文化に対する鑑識眼も確かな男で、ノーベル賞に谷崎潤一郎を推(お)してるんですよ。これはすごい。日本贔屓の教養人ということで、六十年安保の説得役で日本にきたんだな。日本とアメリカ、おたがい理解し合って仲良くしましょうってね。初めのうちは彼と日本人女房の献身的な努力のおかげで、そういう務めも予想以上にうまくいってたんだが、ベトナム戦争の悪化ね、あれでうまくいかなくなった。日本人がアメリカ嫌いになっちゃった。で、頭のおかしい十九歳にフトモモ刺されて、血を売って暮らしてるやつらの危ない血を輸血したせいで、肝臓傷めちゃってさ。それでもがんばって日本にいつづけたんだけど、とうとう彼自身がアメリカのベトナム政策に疑問を持っちゃって、日米のあいだを取持つ意味がなくなったと考えたんだな。輸血のときは、自分のからだに日本人の血が入ったなんて喜んだし、肝臓の具合が芳しくなくなって、仕事を辞めてしっかり治療しなくちゃいけないとなったときでさえ、いま辞めたら日本人が責任を感じるだろう、なんて泣かせることを言ってたんだよ。でも、本国の政策にイヤ気が差しちゃったんだから仕方ないよね。で、先月辞めたわけだ。つい一週間前に帰国しましたよ。純粋に日本は好きなままでしょう」
 菅野が拍手した。山口はひたすら箸を動かしている。
「わかりやすい! そういうのをほんとうの教養って言うんです」
「私もそう思うわ。山口さん、学者になれる」
 カズちゃんが言った。
「神無月が笑ってますよ。せっかくのお言葉だけど、それって褒め言葉じゃないんだな。資料的言辞といってね、だれでも新聞雑誌に首突っこんでればしゃべれるようになることなんですよ。学問、教養とは似て非なるものです。おトキさん、おかわり!」
 主人夫婦が居間で食事を終えて戻ってきた。
「やあ、すごいもんですな、山口さん。聞いてて感服しました。新聞もわかりにくいが、ラジオやテレビってのも、わからないようにしゃべるんですなあ。相変わらずの冴えた弁舌、ほんとうに畏れ入りました」
「そうですか? 俺の得意分野はギターですよ。まあしかし、世間的知識にせよ、ギターにせよ、俺は滞らずに人生をやっていけるでしょうが、この神無月は滞りつづけるでしょう。野球を中断してるわけだから、すでに滞ってますけどね」
 菅野が、
「だいじょうぶ、神無月さんは道草を楽しんでますよ」
 山口は、最後のめしを掻きこみ、茶をグイと飲んだ。それから自分のコップにビールをついで、一息にあおった。主人が、
「安心してください。私どもが滞りを取り払うように尽力しますから」
 山口の手を握って、
「あなたは、ほんとに情熱的な人ですなあ。さあ、ステージだ。山口さん、神無月さん、お願いします」
 縁側の雨戸と障子が閉められ、暗い部屋に白色のスポットライトが灯された。私は楕円のステージに置かれたマイクの前に立ち、山口はギターを抱えて革製のスツールに坐った。二人でマイクや楽譜台や天井のライトをキョロキョロ見つめる。みんな固唾を飲んで見守っている。
「じゃ、リクエストからいきましょう」
 はい、とトモヨさんが手を上げた。
「夜明けの歌」
「春のリクエストは喫茶店の片隅で、でしたね。みなさん、神無月が唄い終わるまで拍手は控えてください」
 間髪を置かず前奏が始まる。私は囁くように唄いだす。EP盤が磨り減るほど野辺地で聴いた歌だ。B面はたしか『恋心』だった。

  夜明けのうたよ
  あたしの心の きのうの悲しみ
  流しておくれ
  夜明けのうたよ
  あたしの心に 若い力を
  満たしておくれ

 すでに山口はうつむいている。女将が指先で目を拭い、カズちゃんとトモヨさんはきらきらと涙に光る眼で私を見つめている。主人はあぐらの膝に手を置いて天井を見上げ、女たちは何かに驚いたふうに口をポカンと開けていた。間奏。信じられないほどの流麗なタッチだ。

  夜明けのうたよ
  あたしの心の あふれる想いを
  わかっておくれ
  夜明けのうたよ
  あたしの心に 大きな望みを
  抱かせておくれ

 やだ、涙出ちゃう、と一人の女が囁いた。山口はうつむいたまま、ひたすら絃を弾(はじ)いている。私は自分の声に耳を澄ます。いい声なのかどうかわからない。どこまでも自在に声を高め、低めることができる。

  夜明けのうたよ
  あたしの心の 小さな幸せ
  守っておくれ
  夜明けのうたよ
  あたしの心に 思い出させる
  ふるさとの空

「うーん!」
 菅野が感激してうなった。盛大な拍手が上がる。おトキさんと賄いたちも座敷の端に正座して拍手している。トモヨさんはハンカチを目に押し当て、カズちゃんは涙を流したままうつけたように笑っている。山口が立ち上がって私の肩を抱いた。
「この声を聴きたかったんだ」
「お二人さん、いつまでも離れんといてや。そのステージは、あんたらが生きてるかぎり片づけせんからな。新しい家でも同じものを作るでな」
 父親が声をかけた。母親が立ってきて、私たちとそっと握手すると、また畳に戻った。



         九

 主人がおトキさんを傍らに呼んで、ここで聴くようにと命じた。
「神無月は力のかぎり唄うので、あと二、三曲で限界です。もう一曲唄ってもらったら、いつものとおり神無月の残りの分は後半に回します。そのあと、めいめい唄いたいかたに俺が伴奏つけます」
「神無月さんのあとじゃ恥ずかしいがね」
「そうよ、そうよ」
「神無月、次は何にする?」
「リンゴ村から。十年前ぐらいの歌かな」
「三橋美智也か。みんなの年齢に合わせたな」
「いい曲だからね」
 聞き慣れた前奏が始まる。なぜこんなに自由に絃を爪弾けるのだろう。じつに特殊な能力だ。みんな、なつかしさに胸がひりひりするような顔になる。トンッ、と山口がギターの腹を指先で叩く。

  憶えているかい故郷の村を
  便りも途絶えて いくとせ過ぎた
  都へ積み出す 真っ赤なリンゴ
  見るたびつらいよ
  おいらのな おいらの胸が

 間奏。胸に手を当て、だれも動かない。魔法のように山口の指が動く。強く弱く旋律が跳ね回る。こんなすてきな歌だったのね、という低い声が聞こえた。上気してほんのり赤く染まっている女たちの顔が見えた。

  憶えているかい別れたあの夜
  泣き泣き走った 小雨のホーム
  上りの夜汽車の にじんだ汽笛
  切なく揺するよ 
  おいらのな おいらの胸を

 山口を見返ると、薄っすらと目をつぶっている。指だけが別の生きもののように動く。

  憶えているかい子供のころに
  二人で遊んだ あの山 小川
  むかしとちっとも 変わっちゃいない
  帰っておくれよ
  おいらのな おいらの胸に

 山口は目をつぶったまま叩きつけるようにしまいの伴奏を終え、
「すみません、ちょっと休ませてください。神無月の歌を聴くと、いつも目が霞んでしまうんで」
 喝采の中を山口はテーブルに戻った。私もついて戻る。彼はビールを自分でついで、飲み干した。スポットライトの薄暗い周囲へ、女たちがめずらしそうに集まっていく。見物し、そうして食卓に戻ってきた。カズちゃんが私の背中にそっと頬を当てた。私は背中に手を回して、彼女の手を握った。握り返してきた。
「おトキさん、山口の魔術を見ましたか」
 主人夫婦と女たちの中に坐っているおトキさんに語りかける。
「はい、しっかり。……手品だと思いました」
「すごい音だったね。部屋じゅうを包んだ」
 主人が、
「生きててよかったな。この齢になって、こんないい目を見られるとは思わんかった」
 女将が、
「まだ信じられんわ。人が楽器を弾いたり、歌を唄ったりするのを聴いても、うまいなァぐらいしか思ったことあれせんかったのに。別物や。ほんと、手品師や」
 女たちが山口の指を握ったり、私の喉に触れたりする。
「あーって言ってみて」
「あー」
「ふつうやな」
 山口に、
「箸持ってみて」
 箸を取り、香の物をつまんで口に入れる。
「……みんなと変わらんなあ」
 カズちゃんが、
「唄う瞬間、弾く瞬間に、神の声、神の指になるのよ。手品じゃなく、変身」
「へんしーん!」
 だれかが言い、笑いが起こり、山口がすっかり落ち着いて言った。
「うん、神無月もバッターボックスで変身する」
「アンコール!」
 ほうぼうでアンコールの声が上がった。
「オッケイ。もう一曲やって、座敷に外の明かりを入れましょう。神無月、いけるか」
「うん、静かな曲なら」
 山口が立ち上がると、ふたたび大きな拍手が座敷に満ちた。私はただうれしかった。
 ―こんなふうにいつまでも生きられたら!
 心からそう思った。ほんの二年のあいだに、どれほど多くの素朴な感情を胸の外へ追いやってきたかをあらためて思い知った。
 山口はスツールに腰を下ろし、私を招いてマイクの前に立たせた。
「みなさん、俺は声の奇跡というものを、神無月に会うまで知らなかった。これはね、喉そのものの奇跡じゃなく、魂の奇跡なんですよ。神無月は詞(ことば)を歌声にするとき、自分の人生で蓄積してきたすべての感情を渾身の力で吐き出すんです。そこへ持ち前の深い憂鬱な気質が雑じり合う。だからいろいろな感情が共鳴しあって、パイプオルガンみたいに壮絶な美しさになる。どんな歌を唄っても、俺たちの涙があふれ出るのはそのせいです。きっと、いい湯だなとか、ぼくのかわいいミヨちゃんなんか唄っても、自然と涙が出てきますよ。それをもう一度味わってみましょう。あと一曲なら、まだ涙が残ってます」
 笑い声が上がる。菅野の声がいちばん大きい。
「そこの大笑いの菅野さん、神無月に唄ってほしい曲はありますか」
「あります。あんたたちのふるさと、青森の歌。美空ひばりの、津軽のふるさと!」
「ああ、いい曲ですね。昭和二十七年、作詞も作曲も米山正夫です。美空ひばりの最高傑作じゃないかな。じつは、俺のふるさとは東京です。神無月は熊本で生まれて、転々と各地をつまみ食いして歩きました。故郷と言えるものがない。しかし彼にとって、青森の野辺地は、いちばんふるさとらしいふるさとでしょう。津軽ではなく、南部ですが」
 カズちゃんが、
「野辺地はいいところよ。私、四カ月暮らしたわ」
「―神無月、津軽のふるさと唄えるか」
「唄えると思う。小さいころ、野辺地の叔父のラッパ蓄音機で聴いて憶えたから。カモナマイハウスが流行ってたころだ」
「江利チエミか」
「ローズマリー・クルーニーだ」
「しゃれた叔父さんだな。よし、じゃいくぞ」
 ハープのような前奏が流れる。パチパチと小さな拍手が上がり、すぐに静まる。

  りんごのふるさとは 北国の果て
  うらうらと山肌に抱かれて 夢を見た
  あのころの思い出
  ああ いまいずこに
  りんごのふるさとは 北国の果て

 正座し、横坐りになり、片掌を畳に突いた一人ひとりの頬に涙がつたっている。

  りんごのふるさとは 雪国の果て
  晴れた日は晴れた日は 船がいく日本海
  海の色は碧(あお)く 
  ああ 夢は遠く
  りんごのふるさとは 雪国の果て

 ギターが高鳴った。フォルテで唄うところのようだ。私は喉を開いた。

  ああ 津軽の海よ 山よ
  いつの日もなつかし
  津軽のふるさと

「きゃー!」
 指笛が鳴る。拍手、拍手、拍手。山口が立ち上がり、お辞儀をする。私も倣った。おトキさんが頬を手の甲でこすりながら、障子を開け、雨戸を滑らせた。
「たった三曲なのに、百曲聞いたような気がするがね」
「涙流しすぎて、目がくたくたやわ」
 女たちがうなずき合っている。山口はゆったりと卓の前に腰を下ろし、ギターを黒いケースに大切そうにしまった。
「ああ、表のふだんの光だ。やっぱり異次元にいたんだな。神無月、堪能したぞ。喉を休めろ」
 女が、
「でも、山口さん、私たちの分は?」
「少し休んでからにしましょう」
「毎日ギター弾いてくれるんでしょ」
「まかせて、ちょうだい」
 山口は財津一郎ふうにおどけて言った。

         †
 翌日の昼近く、カバンを自転車の脇籠に入れ、中村図書館から北村席へ駆けつけ、睦み合う山口とおトキさんは放っておき、カズちゃんや、トモヨさんや、とりわけ主人夫婦や店の女たちと歓談し、贅沢な昼めしを食い、山口のギターを聴き、夕食前にまた自転車に乗って帰った。
 昼めしは楽しかった。店の芸妓たちのいることがじゃまらしく思えても、実際、彼女たちはその存在の明るさで私の幸福をいっそう大きくした。予定していた名古屋市内の散策を山口と実行する時間はなかった。
 滞在三日目の日曜の夕方には、名鉄百貨店の最上階の小ぎれいな天麩羅屋へ一家で連れ立っていき、カウンターに居並んで、次々と出てくる揚げたての天ぷらを食った。健啖家のカズちゃんがいちばんよく食った。シメは天丼だった。これがうまかった。
「神無月、あとは手紙のやり取りになる。来年のいまごろ、また出てくる。おトキさんとも相談して、俺が北村席にくるのは年に一度と決めたんだ。大学へいくまで、おまえの顔は夢だけで見ることにする。考えこむことがあったら、俺に手紙を書いて消化してくれ」
 菅野がしみじみと私の顔を見て、
「神無月さんて、悲しい顔をしてるなあ。苦しいとか、さびしいとかいうんじゃなく、とにかく悲しくて、透き通ってる。……山口さんが心配するのもわかりますよ」
 女将が、
「ほんと、山口さんでなくても、綿を敷いた箱に入れておきたくなるわ」
 主人が、
「ま、山口さん、神無月さんのことは心配無用です。和子とトモヨという目付けがおりますから」
 菅野が、
「私もいますよ」
 主人は大きくうなずき、
「ま、そういうわけで、大親友のことはワシどもにまかせるとして、これからもおトキのこと、よろしくお願いします。いずれ新居へ移転しますが、追々和子に連絡させます。和子、山口さんの住所わかってるな」
「キョウちゃんから教えてもらったわ。ちゃんと、節目ごとに連絡します」
 おトキさんは台所仕事で水気の少なくなった手の甲を、気にするようにさすっていた。見ていて目が熱くなった。
「おい、おトキ、早くしろ。夜が短くなっちまう。山口さんと腰上げて」
 主人に言われて、おトキさんはカウンターの椅子から立ち上がった。
「じゃ、おトキさんとホテルへ帰ります。名鉄グランドホテルです。神無月、これでお別れだ。俺はあした北村席さんで朝めしを食ったら、おトキさんとゆっくり散歩をしてから、そのままホームで袖を絞って別れる。見送らなくていい。今夜はここで別れるぞ。北村席のみなさん、またあした」
 私はカウンターから山口に手を振った。女たちがわいわい言った。女将が、
「おトキ、うんとかわいがってもらうんよ」
 山口とおトキさんは二人で肩を並べて去っていった。涙が出てきたので、指でこそいだ。



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