十

 父親が言った。
「神無月さんは、珠の心やな」
 カズちゃんが、
「山口さんのことだから、将来ほかの人と結婚しても、ずっとおトキさんのことをかわいがってあげるでしょう」
 母親が、
「そうだといいけど……。いつか、おトキのほうから身を引くんやないかねえ」
 トモヨさんが、
「何かのまちがいで、子供ができればいいんですけど」
「あらあ、子供が小学校にいくころ、おトキさん、還暦になっちゃうわよ」
 女たちが複雑な顔で笑った。菅野が悪気なく言った。
「もう、月のものはないんですか」
 一人の女が悲しそうに答えた。
「もうないと思うわ。あと十歳若ければ確実やったのにねえ……」
 みんなで北村席へ戻り、主人が手ずからいれたコーヒーを和やかな空気の中で飲んだ。私は、たまに顔を出すことを約して暇乞いをした。主人が、
「フデオロシしたい友だちがおったら、連れてらっしゃいや」
「おとうさん! キョウちゃんにポンビキみたいなことさせないの」
 カズちゃんにたしなめられ、
「いや、ワシが金を払うんやで。ポンビキやのうて、善行やろ。へへへ」
 玄関でカズちゃんとトモヨさんに唇だけのキスをし、自転車に跨り家路についた。寮に着いたときには八時を回っていた。母にはカツ丼を食ってきたと告げ、みんなが酒盛りしている席へ、おやすみなさいと挨拶をした。
         †
 翌日、おトキさんは忙しくしながらも、ほとんど山口のそばで動き回っていた。みんな温かい目で彼らを放っておいた。昼に、山口は二時間ほどにわたって一家の者にギターの演奏を振舞った。それから身仕舞いをすると、おトキさんと二人で散歩に出た。私は山口の今年最後の背中を見送った。
         †
 八月二十九日月曜日。晴。中村図書館を午前中で切り上げて花の木へ。玄関にハヤシライスのいいにおいがする。
「昼めし食わないで、図書館からそのままきた。いつもはカズちゃん推薦のキッチントキワで食べるんだけど、きょうは西高に所属クラスを教えてもらいにいく日だから」
「お昼に?」
「一時。電話一本くれればすむと思うんだけど、合格のとき以来、ぜんぜん電話をくれないな。転入生一人をエコ贔屓してられないってことかな。ふうん、昼めしは自分で作ってるの?」
「朝と昼は自炊。夜は北村にお呼ばれにいくの。キョウちゃん、いつだったか、浅井忠の絵が好きだって言ってなかった?」
「言ってた。水彩じゃなく、油絵ね。青高の図書館で見て、茶色の色彩にふるえた。農家や農道の絵がいい」
「松坂屋で浅井忠展をやってたから、画集と、レプリカの絵を一枚買ってきたわ。額に入れて音楽部屋に飾っといた」
「作品の名は?」
「農夫帰路」
「ああ、好きだな。三人の親子で帰ってくる絵。自然の写実よりも、コテコテの生活という哲学。とにかく色が悲しい」
 ハヤシライスで昼めしをすませたあと、自転車で西高に出向き、事務窓口でトニー谷から、私の属するクラスは二年B組だと教えられた。クラスはL組まであるらしい。担任は松田逸子。
 帰りにもう一度花の木に寄り、新学期が始まったら、青森と同じように土曜日の学校帰りに寄ることを告げた。
「雨が降ったり、気が向かなかったり、忙しかったりしたときは無理しなくてもいいのよ」と釘を刺された。トモヨさんは月末の日曜日。これは雨や風に関わらず、かならずいくことに決めた。
 山口のいた三日間、朝のランニングはシロと休まずやった。同朋高校の無人の野球グランドを金網沿いに十周した。相変わらず素振りはできなかった。一年半の実り豊かな雌伏がようやく始まったという実感がやってきた。
         †
 中村図書館のスポーツコーナーに『中日ドラゴンズ三十年史』という本があったので、勉強の合間に読みながらメモをとることにした。去年出版された写真入りの二百ページの本で、出版社が中日ドラゴンズという背表紙に奇異な感じを受けた。
 三十日にメモを取ったのは、技巧派の酒仙投手清水秀雄の項。左投げ左打ち、百七十四センチ、七十二キロ。昭和十五年に明大から南海入り。荒れ球、剛速球、カーブ、ドロップ。バタバタと三振の山を築いた本格派のサウスポー。十六年に応召され、腰に貫通銃創を受ける。その後遺症が原因で、十七年に復帰後、スローカーブ主体の軟投派に転向。戦後二十一年にドラゴンズに移籍。巨人から同時移籍の藤本英雄に刺激を受け、カーブとドロップに磨きをかける。ゆるいのに打てないということで球界の七不思議と言われた。
 ―コースだ。頭がよかったのだ。
 右足を大きく上げ、左腕を大きな円を描いて振り下ろすフォームが美しいと絶賛された。二十三勝、十二勝、十二勝と挙げ、主力ピッチャーとなる。五年在籍して、五十八勝四十四敗。奪三振二百八十三、防御率三・四六。二十六年に大洋に移籍、二年間で十二勝を挙げて引退。三十五歳。通算百三勝百敗。二十五年撮影の写真は丸々として人のよさそうな顔をした肥大漢だった。おととし、四十五歳で死去。
『その風貌態度にどことなく風格があり、チーム内ではヒデさんと呼ばれて尊敬されていた。音に聞こえた酒豪でもあり、登板前夜に痛飲し、あしたは勝つ、と言って翌日マウンドに上がると、言葉どおり相手を軽く一ひねりということをやってのけることも多かった。晩年は、酒がもとでブクブク肥ってしまい、投手生命を縮めた』
 先を読んでいくのが楽しみになった。
         †
 八月三十一日水曜日。曇。六時起床。体感二十度チョイ。洗面、歯磨き、軟便。シロと庄内川べりを二キロほど往復ランニング。社員たちと朝めし。ハムエッグ、納豆、たくあん、味噌汁。めし二杯。
 七時半、登校路をなぞって二度目の自転車試走。西高正門までやはり片道四十一分。引き返す。花屋の通りから環状線へ出て、鳥居通りを目指す。道にすっかり馴染んだ。いきはランニングのつもりでかなり速力を上げて漕ぐが、帰り道はゆっくりと角川国語辞典を暗記しながら走る。復路五十一分。開放門にシロが出迎える。部屋に戻り、ジャージに着替えて、部屋の中で三種の神器。
 シロといっしょに食堂へいくと、
「ばっちゃが十万円も送ってきたよ」
 母がすでに鋏を入れてある現金封筒を差し出した。同封された便箋一枚に、『自分には要らない金なので学費に役立てるように。ジジババは長生きしておまえのいく末を見守っている。たまには帰ってきて顔を見せてくれ。種畜場の秀子がときどき訪ねてきて、いい話相手になってくれる。残していった荷物の中で必要なものがあったら手紙をくれ。すぐに送る』
 といったようなことが、実意のある平仮名の鉛筆文字で書いてあった。
「大金だね。大事に使いなさい」
 母は今回も、私の不労所得を取り上げることはしなかった。母にとってこの種の〈放棄〉は、より価値の大きいものへの〈投資〉を意味しているようだった。受かる価値か、受からない価値か、よくわからなかった。受かる価値のほうへ投資することは考えられないので、受からない価値への投資と考え直した。そこでわけがわからなくなった。私がその金で遊び歩くということなのだろうか。詮ずるところ、自分のふところを痛めなくてすむという価値にほかならないと結論を出した。
 午後には、じっちゃからの葉書も届いていて、白雲悠々とか、精励刻苦といったような彼らしい漢語が短い文言の中に踊っていた。ばっちゃの便箋とじっちゃの葉書は抽斗にしまい、十万円はカバンの底にしまった。へそくりが二十万円になり、また金が貯まりはじめた。
 図書館に出かけずに、机に向かった。野辺地へ返信をしたためたあと、文学史の小冊子を参考に、半日かけて読書計画を練る。夕食後、シロと散歩に出て返信を投函。
         †
 九月一日木曜日。初登校の日。
 六時起床。シロと庄内川の堤に出る。曇。陽射しの弱い残暑。そよとも風がない。同朋高校の野球グランドの入口に施錠されるようになったので、土の上で走ることをあきらめ、堤防のアスファルト道を往復四百メートルほどに決めて五往復することにした。野球場でないほかの空地は土の手入れが悪く、かえって足を痛める。かなりスピードを上げて走った。老犬のシロは何ということもなく伴走した。動物の能力に感嘆した。
 汗を拭き、ランニングシャツを取り替え、社員たちが集まる前に食堂へいって、卵を落とした味噌汁だけを飲む。母は朝食の支度に忙しくしているので、ジャージなんか着て朝早くからいったい何をしているのかと問いかけられる煩わしさがない。あと十日ほど三十度超えがつづくというテレビの予報だ。
 まだ衣替えの季節ではないが、長袖の学生服に身を固め、朝七時半に岩塚寮を出発して、大鳥居を目指す。学生服がゆったりして気持ちがいい。名古屋西高の制帽は強制されていないので、ほとんどの学生はかぶらない。私はかぶる。帽子が好きだからだ。
 眼鏡をかけて自転車を漕ぐ。目が利かないのは小学生のころから慣れていることで、読書や深夜の勉強などでよほど疲れないかぎり、たとえ夕暮れが迫っても、見るものに焦点を合わせるのは大した苦ではない。ただ、あえて眼鏡をかけたのは、自分の〈異相〉を少しでも目立たなくしたいのと、生活が一新したのを契機に、勉学への気持ちを真剣なものに構え直してみようと思ったからだ。黒板がはっきり見えれば、日々の教室の気分もかなり引き締まったものになるだろうと期待した。
 しばらく自転車を漕いでいるうちに、眼鏡の度数があまり合っていないことに気づいた。裸眼よりはマシだが、少し目をすがめなければならないせいで、まぶたが重い。でも、新しい眼鏡に買い替えたいとは思わなかった。検眼したり、フレームやレンズを選んだりする手間を考えるとひどく億劫だった。黒板が見にくいときだけかけることにして、胸ポケットにしまった。
 気分よく漕ぎ足を速めたせいか、三十五分で正門に着いた。用務員小屋を過ぎ、渡り廊下を通っていちばん端の校舎へいく。学校敷地内の末端に位置するその校舎は、廊下の窓の外に丈の高いコンクリートの簡易塀が走っていて、塀の向こうは天神山中学校の二階建て校舎だった。
 半袖ワイシャツやセーラー服が、二年B組の教室で明るく動き回っている。私は、机に行儀よく座っている学生たちを眺めながら、廊下にたたずんで担任教師の到着を待った。みな不審そうに通り過ぎるが、近寄ってはこなかった。やがて名簿を持った女教師がやってきた。玉子型の顔に眼鏡をかけている。私が頭を下げると、彼女も頭を下げた。
「担任の松田です。神無月くんですね」
 間近に寄って私の顔を見た。近くで見る松田は、吊り上がった黒縁の眼鏡をかけたインテリくさい女で、嫌いなタイプだった。
「はい、半年間よろしくお願いします」
「こちらこそよろしく」
 私は教室に入る彼女のあとについて戸口を入りかけ、足を止めた。松田が手で制したからだ。彼女は教室の連中に語りかけた。
「夏休みは計画どおりすごせましたか。模試などもあってたいへんだったでしょう。二学期はもっとたいへんになりますよ。それでは、転入生の神無月郷くんを紹介します。神無月くん、こちらにきてださい」
 教壇へ手招きされた。進み出ると、教室じゅうの目がいちどきに集まった。彼女は背中から私の両肩を押さえると、
「みなさん、噂の転校生です」
 と言った。しんと静まり返った。
「神無月くんは、青森県のトップ校である青森高校から、四十一人に一人の試験を突破して転入してきました。みなさんが受けた一学期末の実力試験をそのまま出題して、断然一位の成績でした。神無月くんは青森高校の中でも、三本指を外さない超のつく秀才です。それは勉強だけの話。彼がどういう人か知ってる人」
 手を挙げさせる。だれも挙げなかった。
「県下の高校野球大会で二年連続三冠王。受験校の青森高校を二年連続で準優勝に導いた人です。来年度ドラフト全国ナンバーワンと言われている野球選手です。そんな人がなぜ野球を中断して転校してきたかは、深い事情があるので詳しくは申し上げられません。旭丘と明和の転入募集に欠員がなかったせいで、神無月くんは欠員のあった当校の試験を受け、合格しました。西高にとっては幸運と言っていいでしょう。編入試験は、あなたたちに実施した二学期の実力試験と同じ英国数の問題を解いてもらいましたが、名西の首席よりも七十一点も上回りました。空前絶後の成績です」
 オー! というどよめきが上がった。点数に興味があるだけで、転校の理由にはまったく関心がないようだった。
「じゃ、神無月くん、自己紹介をどうぞ」
 私は深々と頭を下げ、
「神無月郷です。松田先生のご紹介につけ加えることはありません。どうぞよろしくお願いいたします」
 一人の男子生徒の手が挙がり、
「青森高校って、そんなにすごいんですか」
 私に質問しているようだが、答えようがないので黙っていると、松田が、
「そりゃ、すごいわよ。東大に十名、東北大に四十名、北大に少ない年でも百名は入れるそうですから」
 と答えた。質問そのものや受け答えに不気味なものを感じた。松田の言った数字に誇張があるのは、私を鼓舞するための潤色だろう。多少でも誇張して喧伝すれば、私も青高の面子を意識して、おろそかな勉学姿勢をとれなくなるという戦略かもしれない。西高の業績ために私の尻を叩いているということだ。私は彼女の態度を西高教師連の代表的な対応と捉えた。勉強さえすればすごしやすい場所にちがいないと判断した。


         十一

 ホームルームが終わると、午前の二コマを使って、体育館で始業式が行なわれた。二千人近い男女が一堂につどった。合唱部が唄う待望の校歌を聞いた。男女混声の美しい旋律だった。
 午後の一コマ目から、通常授業が始まった。英語、物理、日本史、古文、数学ⅡB……。月曜と水曜は伝統的に五十分七コマ授業だということだった。七コマ! 実際のところ授業内容に関しては、これまで青高で蓄えた知識をなぞっていれば、理解するのは容易だった。教師たちの知識の達成度が青高に比べてかなり低レベルだったし、長髪の生徒たちに異能者は一人もいなかった。愕然とするほどの、学生の質のちがいだった。
         †
 青森高校と同様、クラスメイトの名前はなかなか覚えられなかった。意識して記憶に留めるようにした。舟木一夫のような髪型をいつも気にしながら撫でている骨ガラみたいに痩せた佐々木室長。ビール樽みたいに肥満した川村副室長。川村は英語の時間に Asia という単語を、アジーアと発音したが、教師はたぶんわかっていて咎めなかった。近所の寺の息子だというラグビー部の岡部。彼は、スクラムしているときにちぎれた自分の耳を拾って急いで病院へ持っていったという話が得意で、くっついた耳の縫い痕を自慢げに示してはみんなの関心を惹いていた。丹羽というガタイのでかい男は、軟式野球部の四番を打っているらしく、私に興味を示して近づき、
「放課後に、打ってみせてくれん?」
 などと何度か誘ったが、私はそのつど断った。
「レクレーションの大会なら出てもいいよ。軟式でもソフトでも。それ以外は、遠慮する」
「なんで?」
「敵がいて、味方がいて、いろいろな状況でバッターボックスに入ってこそ、緊張したバッティングができる。それ以外ではバットを一振りもしたくない。レクレーション大会でも同じように緊張することはできるからね」
 昼休みにソフトボールに誘ってきた男たちが何人かいて、彼らとは自ずと親しくなれるだろうと期待したが、微笑みかけてくるのは、私の好まない平岩という、名前のとおり顔の平べったいスカシ野郎と、鴇(とき)崎という歯科医の息子だけだった。平岩は松田に青森高校の評価を疑うような質問をした男だった。
「大学はどこにいくつもり?」
「東大」
「東大って、いくつもりになるだけで受かる大学なん?」
 とイヤミを言う。
「少なくともいくつもりがなければ、どんな大学も受からないだろうね」
 鴇崎は、微笑んで静かにしている私を自分に似た孤独な人間と独り決めして、ニチャニチャ慕い寄ってきた。彼はいやにこまごまと転校の事情を聞きたがった。なぜ野球を中断したのか、なぜ名古屋西高のような何ランクも低い高校を受けたのか、欠員がなければ青森高校に留まればよかったではないか、なぜ家族が名古屋にいるのに遠い青森で暮らしていたのか。私はよく聞いてくれたというフリをして、いちいち正直に答えた。鴇崎はついに、すべてをホラ話と受け取って、それきり近寄ってこなくなった。
 鷲津というおとなしい女子生徒が、ときどき私の机に近づいてきて、何を話しかけるでもなく、表情を窺いながらやさしく笑いかけた。斜視だった。鉛筆を削ってくれはしなかったが、千年小学校の錦律子に似ていた。金原というかなり秀才らしい女が、遠くからにやにや眺めていたが、性的な体験があることは不誠実そうな身のこなしですぐわかった。近寄ってきたら、きつい態度で追い払おうと決めた。
 下校時はいつも名古屋駅前から笹島の交差点を通って、中村公園の大鳥居までの市電道を走った。ビル街から一日の最後の光が射してきて、建物のシルエットを濃くしはじめる時刻だった。私はその時刻を走る市電の美しさにいつも打たれた。こんな旧式の乗り物が町の景色を損なっていないのが不思議だった。野辺地の馬橇を思い出した。これから何百年たっても、やっぱり市電はこうやって町なかをごくあたりまえに往き来するのだろうか。そうあってほしいと思った。
         †
 門脇の別棟バラックは、玄関を上がってすぐ板敷きの十帖の空間と、その奥に私の六畳部屋がある。二階は六畳二部屋で、一つは空き部屋、もう一つを佐伯さんが使っている。十帖の板の間は物置に充てるための場所のようだったが、物を置いてあるのを見かけたことはなく、いつもがらんとしていた。私はそこを三種の神器の場所にしようと決めた。
 佐伯さんが言うには、私に与えられた押入つきの六畳間は、もともと客用か何かの特別部屋で、私が入るまで一度も人が住んだことがなかったということだった。畳も板壁も襖も新しく、明かり採りの大きな磨りガラスの二枚戸が、コンクリート敷きの駐車場に向かって立っている。スチール机の左側も磨りガラスの小さな二枚戸になっていて、窓を開けると、金網越しに隣接する梱包会社の荷出し場が見えた。どちらか一方の窓のカーテンを開けただけでも、部屋全体が明るくなった。
 とりあえず勉強の気構えをよそ目に示すことが先決だった。絶えず溌溂とした勉強姿勢を見せていなければ、かならず心の底を見抜かれるときがくる。
 ―ダラダラしているのは少なくとも勉強を重視していないからだ。頭の中は野球でいっぱいだな。わざと入学試験に失敗して、社会人野球へでもいくつもりか。そんなことはさせませんよ。
 だから私は、土曜日と日曜日を除いて、寸暇を惜しんで机に向かう姿勢を保った。そんなことさせませんよ、になったら、すべてが水泡に帰してしまうからだ。
 愛する女たちとの交誼は欠かさなかった。それは少しも勉強のじゃまにならなかった。土曜は図書館に寄ってくると偽ってカズちゃんのところへいくことにしていたし、月末の日曜は、午前から図書館にいってくると偽って、トモヨさんのマンションへいった。私は山口に救われた命の使いどころとして、人の真心に応えることだけは疎かにするまいと決めていた。好成績を維持し、東大に合格し、野球を再開できるのは、その責務を果たした上でのことだと思っていた。油断のある心の隙間から、大切な計画の砂がこぼれ落ちていく。油断の隙間を抜かりなく見つけて、用心深く塞いでおかなければならない。私を愛してくれる者のために、一心こめて、生き延びた命を役立てなければならない。
 三木さんの用意してくれた立派な蛍光灯スタンドの下で、木谷千佳子のくれた敷物が輝いている。何のために必要なものかわからなかったが、目に心地よかった。
 毎日深夜まで勉強をした。日本史と世界史は、年表や資料が粗雑に編まれているせいで、目の記憶がまとまらなかった。授業に耳を傾けても頭がまとまらなかった。
 英語は、予習がすでに終わっている教科書はやらず、中学時代にサイドさんのくれたヘミングウェイの老人と海を辞書と首っ引きで読んだ。三週間ほどで読み終えた。
 現国の松田の話には聴くべきものはまったくなかった。私は授業中にも教科書を開かず、頬杖ついて居眠りしていた。
 数学はいちばん勉強した。がんらい得意科目ではなかったし、それだけに好成績を挙げたときの爽快感が忘れられなかったからだ。
 古文には苦しんだ。どう文法を駆使しても、一行も意味のわからないことが多く、同じ日本人が使う言語とは思えなかった。古文担当の初老の教師は石黒といって、丸眼鏡をかけた容貌がインドの聖人にそっくりなことから、ガンジーと呼ばれていた。彼の片足は義足だった。そのせいか、いつも黒板に背中を凭(もた)せかけて教科書を読み、板書をするときはこちらにからだを向けたまま手首をひねるようにしてチョークを使った。
「人間は、ぼんやりと生きなくてはいけない」 
 と彼は印象的なことを言った。机に頬杖をついて何もしないでいる時間が貴重だと言うのだった。倦怠という意味ではなさそうだった。何かに雄飛するための休息の功利性を説いているようだった。そう思ったとたんに印象が淡くなった。彼も一介のプラグマティストにすぎないと気づき、さびしい気持ちになった。
 また彼は、生徒が廊下に散らかした紙屑を、こっそり拾ってポケットに収めていることもあった。この身振りは何だろう。彼は東大出だった。私は石黒の言動が燻し銀をてらっているように映った。私はそれを〈効果的〉な生き方として頭に刻んだけれども、自分が利用しようとは思わなかった。
 化学はまったくやらなかった。再来年の受験の際には、地学と生物を選択すると決めていたので、授業も上の空で聴いた。物理も早ばやと見切った。ただ、定期試験の前だけはつらい暗記に努めて、何とか平均点に近づくようがんばった。しかし、化学は試験勉強もやらなかったせいで、社会科以上の不得意科目になった。
         †
 十月に入って、木谷千佳子から大封筒が届いた。白黒写真が十枚以上も入っていた。去年の秋、龍飛岬で撮ったものだった。ほとんどの写真が額に入れて飾れるくらい引き伸ばしてあった。短い髪の木谷が横顔をうつむけて、私と山口の手にハート型のクッキーを差し出している、まるで映画のスチール写真みたいなものもあった。あのときカメラを持っていたやつは何人かいたけれども、いつ、だれが撮ったものとも知れなかった。抽斗にしまった。そこには女たちの寄せ書きのあの色紙も放りこんであった。
 同じころ、ミヨちゃんから葉書がきた。

 懸命に努力すれば、せせらぎが奔流に変わって、岩を動かすことができるかもしれません。勉強します。母も父も、ことあるごとに、神無月さんのことを思い出し、涙ぐんでいます。おからだくれぐれも大切に。神無月郷様。葛西美代子。

 私に対する自分の感情は書きこんでいない。抽象的な言い回しの中に、私の不便な環境を細かく考えている心配りが表れていた。封書だろうがハガキだろうが、私の母の目に曝されることがよくわかっているのだ。ミヨちゃんの便りはおそらくこれきりだろう。ヒデさんもユリさんも、私がこの飛島寮を離れたと知るまでは手紙をよこさないだろうと確信した。
         †
 青高の仲間たちとはちがって、総じて西高の生徒たちには、どこか人間的な不信を呼び起こすような曖昧な雰囲気があった。奇妙な落ち着きと、底抜けの明るさ、ときには行儀がよく、純粋にさえ見える。しかしそれは学生らしさではなくて、その背後に冷淡と高慢を隠した知性人ぶりだった。うれしいことに彼らは私を黙殺しはじめた。こうなることを私は望んでいた。いちばん興味あるものからとりあえず目を逸らしておこうとする仕草を露骨に示すことで、彼らは溜飲を下げようとした。その洗練された、品の悪い所作は、私を苛立てたり、無抵抗にしたりするものではなかった。私も彼らを黙殺するようになった。思い返すと、青高生は、何か特に変わっているやつでなくても、仲間付き合いに気品が感じられた。
 彼らは青高生以上に勉強をした。昼めしどきを除けば、ホームルームの時間も、授業と授業の合間も、放課後の図書館でも、のべつ勉強をしていた。秋の恒例の、名古屋城おほりばた散策のときでさえ、単語帳をめくっている学生が多かった。たまに彼らが文学の話をしているのが聞こえてきても、口にするのは、教科書の注欄に選り出された歴史上の人物のことばかりだった。それは〈お勉強〉にすぎなかった。彼らの過剰な努力は、真摯な勉学生活のためのものではなく、受験のための功利的な方便だった。私はたったこの数年で彼らに数倍する人生を送ってきたような気がした。
         † 
 十月も半ばに近づいた。このふた月、土曜日ごとにカズちゃんの家に寄り、きちんと素振りを百八十本やり、八時ごろに帰宅した。土曜は遅く帰るという先入観が母に植えつけられた。午後の一時からカズちゃんと話したり、食べたり、セックスしたりして六時間をすごし、七時過ぎに玄関を出、自転車で名古屋駅へ回り、太閤通を岩塚までいく。あわただしい逢瀬ではないので、じゅうぶんにカズちゃんの心とからだを満喫することができた。
 十月八日土曜日と九日日曜日の二日間、名古屋まつりがあった。名古屋に十歳から暮らしてきて、そんなものがあることを知らなかった。クラス連中の休み時間の四方山話からその行事の名前が聞こえてきた。初めてのものなら一度見にいってみようと思った。
 八日の土曜日の放課後に、花の木に寄ってカズちゃんに訊いた。
「昭和三十年に始まった名古屋でいちばん大きなお祭りよ。いってみる? 土日とも午前十一時から、夜の八時だけど。岩塚には八時までに帰ればいいんでしょう」
「うん」
「ここを七時に出ればいいわね」
 素振りを百八十本やり、一時を回ってから、名古屋駅前へ徒歩で出かける。中央郵便局あたりから沿道が大勢の人びとで埋め尽くされ、交通規制がされていた。思わずひるむ。駅前ロータリーに山車や行進する者たちがギッシリ溜まっている。
「もうすぐパレードが始まるわ。一時半から四時までは、駅前から桜通の泥江(ひじえ)町まで、広小路通のぜんぶ、三蔵(みつくら)通は松坂屋の向こうの矢場町まで車両通行禁止よ。自転車もだめ。あしたは市役所の周りの道から大津通、三蔵通、矢場町まで朝八時半から四時まで通行禁止。広小路も本町から東新町まで禁止。錦通のほとんどと外堀通は二日間ともオーケーよ」
 広小路通の名前しか知らないので、何を説明されているのかサッパリ。名古屋はまったく〈素人〉だと痛感する。


         十二

 少年鼓笛隊という高札を掲げた少年少女たちが先陣を切って行進しはじめる。陣笠に陣羽織姿。高らかに横笛を吹く。横浜のように楽隊を追いかけて移動しようとするが、人混みのせいで身動きできない。
 信長隊の高札。五色の吹流しが揺れ、ホラ貝が鳴る。陣太鼓が打ち鳴らされる。ドラの音までする。槍隊、鉄砲隊、小姓。真紅の吹流し、五弁花紋の幟。支え持つ随員たちはみな草履を履いている。外人面に変装した尖がり帽子の宣教師(なぜか槍を担ぎ、ブーツではなくふつうの革靴を履いている)がとぼとぼいく。
 人混みの中を馬に乗った中年の武者がいく。左手に弓、右手に日の丸の扇子を持っている。戦国武将のいでたちをした男たちが幟を掲げてあとに従う。
「信長役ね。すぐ後ろにかわいらしい森蘭丸。やっぱり馬に乗ってる。馬に乗るのは二人だけよ。家康と秀吉は山車に乗るの。あ、シャチばやし隊」
 浴衣姿の中年女たちで構成されている。モミジ飾りを手に、ただぞろぞろ歩く。やがて山車に乗った秀吉、家康、あとに能楽師と腰元がつづく。
「初日は駅前から松坂屋の南の矢場町まで行進。あしたは市役所から松坂屋まで。大須の赤門にも回るわ」
 うれしそうにしゃべる。地図が頭に浮かばない。
「赤門て?」
「大光院の朱塗りの山門のこと。一般公募で選ばれた人が、信長、秀吉、家康の郷土三英傑に扮して、名古屋の街を練り歩くの。それを中心にしていろんなパレードやイベントが行なわれるわけ。神社のお祭りじゃなく商業祭りなのに、山車が曳き回されるのは名古屋東照宮の名古屋祭が由来となってるからよ」
 だれもは自分があたりまえのこととして知っていることは詳しく説明しない。私はよくわからないので、秀吉、家康を見る。家康は扇子を振り、秀吉はうちわ形の軍配を振っている。カツラがコント用っぽい。
「お付きの総勢は七百人よ。全員の衣装やお手当ては、名鉄百貨店、三越、丸栄、松坂屋が負担してるの。とんでもないお金よ」
 きらびやかな女たちがやってくる。三英傑ゆかりの姫役というものらしい。美形はいない。濃(のう)姫、ねね、千姫と表札が立っている。絢爛豪華な衣装。たぶんこれが祭りの華なのだろう。道々、服部半蔵率いる忍者が戦って見せたりする。
「あの女の人たちは百貨店の女店員から選ばれるのよ」
「どうりで」
「どうりで何?」
「美人じゃない」
「そうかしら」
 外国人がものめずらしそうに写真を撮っている。
「街の中心部の道路を長時間封鎖するから、自動車で見物にきた人は大渋滞に巻きこまれるわね」
「やっぱり先へ歩いていってみよう。終点は久屋公園だろう?」
「ええ、いきましょうか。いろんなイベントも見れるし」
 四十分も歩いて久屋公園到着。提灯を吊るした舞台の上で三人の女がハワイアンを踊っている。飲食店の屋台がたくさん並んでいる。タコ焼きを買う。まずいので、一つ食って捨てる。
 二十人余り舞台に端座して居並び三味線を合奏するイベントをやっていた。郷土芸能の正調名古屋甚句というものらしい。のんびり唄っている。熱田とか宮とかいう歌詞が何度も出てくる。
「鶴田荘は神戸(ごうど)町にあったけど、熱田神戸節は神戸町から唄われはじめて、宮の宿一帯で大流行したの。同じ時期に名古屋甚句も流行った。それから江戸に渡り、都都逸の基になったのよ。江戸時代の流行歌ね」
 知識人だ。
「パレードが見たかったな」
「一カ所に陣取って動かないというのが祭りを楽しむ基本なのよ。あしたもきましょう。二日目はあまりイベントもないし、いろんなパレードが見れると思うわ」
 祭りの人波が退くまでは、タクシーを飛ばして帰れない。のんびりケヤキ並木を歩いて帰る。
「さっきまで歩いたのは袋町通、ここからは伝馬町通よ」
 道に名前があるのを新鮮に感じる。
「那古野から天神山へいく市電道は名無し。あんなに広いのにね」
 少しずつ人通りも絶え、呼吸しやすくなる。両側の建物は名も知れないビルばかりだ。食べ物屋もスーパーも商店もないさびしい風景がつづく。タクシーが通りかかったので拾った。
 花の木に帰りつき、そのまま玄関で鞄を受け取ると、口づけをし、自転車に乗って手を振った。
「名残惜しいけど」
「私もよ。毎日こんなに楽しいんだから、名残惜しさくらいには慣れましょう。気をつけて帰ってね。またあした。さよなら」
「さよなら」
         †
 翌日の九日日曜日。図書館へはいかず、八時過ぎに花の木にジャージ姿で自転車を乗りつけ、カバンを玄関に置くと、バットを持って天神山公園までランニング。ピカピカの自転車でカズちゃんが伴走する。
「きのうの夜、自転車屋さんにいって買ってきたの。これからはキョウちゃんが走るときはこれでついていくわね」
 公園の隅の空地で三種の神器、素振り百八十本。カズちゃんのポットからコーヒーを一杯。
「カズちゃんの家の住所は?」
「花の木二丁目二十番地。西高は天神山町四丁目七番地。西高の周りを散策してみましょうか」
「うん」
 自転車を牽くカズちゃんに随いながら公園の辻を直進して住宅街に入りこむ。アパートの奥に真宗大谷派覚岸(かくしょう)寺という寺があった。昭和十三年創建という比較的新しい寺で、この付近に住宅ができはじめた時期に創られたようだ。
「私が四歳のころね。当時このあたりは湿地帯で、庄内川から土砂を運んで盛り土をしてから家を建てないと、すぐに浸水したりしてたいへんだったはずよ」
 うろうろしていると、今度は少し大ぶりの寺にぶつかった。五メートルほどの石柱に三宝山観音寺とある。瓦屋根の山門を入ると、木がぱらぱらと生える物寂しい空間だ。
 タテカンを見る。一六○三年(慶長八年)創建。本堂の聖観音像は尾張二代藩主徳川光友寄贈。名古屋大空襲で建築物が全焼したため、現在本堂はコンクリート製になっている、云々。
「理屈抜きでキョウちゃんは宗教的なものに違和感を覚えないはずよ。どうでもいいと思ってるでしょうけど。キョウちゃんに宗教的な雰囲気があるから、同調しちゃってるんだと思う。住宅なんか見てもしょうがないから、お寺じゃなく神社を見ておきましょう。二つあるわ」
「ふうん」
「敷地がきちんとあるのは、白山神社と八坂神社」
 西高前の通りに戻る。
「この道は笈瀬川筋と言うの。椿町から太閤通までつながってる。笈瀬川という川がむかしこの道筋に流れてたみたい」
 郵便局を過ぎ、信号のある十字路に出る。花屋のある辻だ。左折するとすぐに白山神社があった。門内に石の鳥居が立っている。
「俗に榎権現。通りの裏手が榎小学校。この通りは美濃路と言うの。信長が桶狭間の戦いの前にこの神社に戦勝祈願にきて、太刀を一口奉納してる。美濃路を通る大名はみんなこの神社前で休憩したんですって」
「あ、鰻屋がある。宮宇(みやう)? 古そうだ。隣の家も」
「ほんとね。おいしそう。半暖簾だからもうすぐ開店ね。八坂神社を見たら、食べて帰りましょう」
 花屋から美濃路へ入る。道の半ば、理髪店の向かいに墓石のような八坂神社の角柱があり、四メートル幅の石畳の参道の奥に小さい石鳥居が立っている。その奥の拝殿への扉は閉ざされている。鰻屋へ引き返す。
 淡い海老茶の暖簾が垂れている戸を引いて入る。満席なので驚く。名店なのだろう。清潔に整頓された店。すべて小上がりだ。二階もあるようで、ときどき客が上がっていく。種類は〈うなぎ丼〉のみ。二人の男が炭で焼いている。一席空いたので坐る。うなぎ丼の上。三百五十円。やや高い。肝焼き二本、百四十円。かなり高い。
 十五分もしてうなぎ丼が出てきた。炭で焼いた美しいコゲ。繊細に焦げ具合が調整されている。口に入れてみて、うなった。絶品だった。甘辛いオーソドックスなタレ。ボリュームのあるうなぎが柔らかい。噛み心地がよくサラッとした舌触りだ。めしの硬さもちょうどいい。串に刺さない肝焼きも特上の味。肝吸いの肝にしっかり下味がついている。奈良漬とタクアンの香のものも単品で白米を食いたくなるほどのもの。
「おいしい! おトキさんもびっくりよ」
 カズちゃんが喜んだ。
「発見だね。ときどきこよう」
「そうね、思い出したらきましょう。いいお昼ごはんだった。さ、帰るわよ」
 バットをカズちゃんの自転車籠に預けて、復路もランニング。
「素振りは当分週一回でがまんするしかないな」
「寮で振れないのはつらいわね。枇杷島のパチンコ屋の横にバッティングセンターがあるでしょ。毎日学校の帰りに寄ってみたら」
「感覚が狂う。軟式バットで軟球を打つ感覚と、硬式バットで硬球を打つ感覚はぜんぜんちがうんだ。ただの素振りのほうがいい」
「難しいのね」
 コーヒーを一杯飲んだあと、カズちゃんが下駄箱から出した簡易ビニールシートを畳んで横籠に入れ、二人自転車を漕いで二日目の祭り見物に出かける。
 市役所前は大混雑しているにちがいないということで、閑静な見物場所を物色しながら走る。大津橋の少し南あたりの沿道に決めた。背後に緑があって、あまり建物がうるさくない場所だ。停めた自転車も立木に隠れて目につかない。
 縁石のすぐそばにシートを敷いて待機する。たぶん三十度に近い気温だけれど、暑いと感じない。
 さっそく信長一行がやってきて通り過ぎる。
「蘭丸の後ろの武士四人は、柴田勝家と前田利家と、まだ出世前の秀吉と家康のつもりなのよ」
「ふうん、出世後は山車に乗って登場するわけか」
 濃姫山車、腰元、宣教師、随員。出世後の秀吉隊がくる。七本槍。福島正則と加藤清正しか知らない。
「山車の後ろにいるおどけたふうな武士は?」
「曽呂利新左衛門。落語家の元祖。その後ろは前田利家、石田三成。小姓を挟んで、地方大名の伊達政宗、黒田長政、小西行長、上杉景勝、毛利輝元、浅野長政、蜂須賀小六」
「聞いたことがあるな」
「蜂須賀正勝。秀吉の幼いころからの腹心の子分。この人がいなければ秀吉は出世しなかったと言われてる人。軍事、政治、外交で秀吉を補佐したいちばん有能な武士ね」
 該博すぎる。山口どころではない。知識の泉。
 出雲の踊り子、ねねの山車とつづく。
「オクニのことかなあ」
「出雲の踊り子? そうよ。オクニは信長や秀吉などたくさんの戦国大名の人気があったの。カブキ踊り。色っぽい踊り。歌舞伎のもとになったのよ」
 徳川家康の山車。百人以上。そろそろ食傷気味。つづけて黒ズボンに白シャツのバトントワラーたちがやってくる。へたくそで微笑ましい。何かの全国大会で優勝したらしい高校卓球部連中も便乗パレードをしてきた。花で飾った小型トラックに乗った水着姿のちびっ子たちが手を振る。
「むかしは花電車が名古屋まつりの呼び物だったけど、いまは花バスね」
 花バスというのか。楽隊演奏がやってきた。金管と大太鼓の響きに胸が躍る。港ヨコハマ、夜が明ける―。つづいてヨサコイ踊り。
「なんで土佐の高知の?」
「土佐の長宗我部元親は光秀の仲立ちで信長と同盟を結んでいたんだけど、信長は秀吉を仲立ちにして長宗我部の敵の三好康長とも同盟関係を持っちゃったので、信長と長宗我部は仲たがいしたの。長宗我部に肩入れしていたのは光秀で、三好に肩入れしていたのは秀吉ってわけ。光秀は面目まるつぶれで信長を怨む。本能寺の変の前に明智光秀と長宗我部が密書を交わすということになるわけね。無理やり考えると、そういうことかもしれないわね。ヨサコイ踊りは、何でもありの添え物と考えたらどう?」
 すごい。
 なぜか巨大な人形山車を牽く桜台高校男女生徒の行進。意味不明の添え物。後ろに浴衣姿の高校生がぞろぞろついて歩いている。何の説明もないので、どういう集団かわからない。中に背の高い外人の女子もいて、ひときわ目立っている。近衛兵のような太鼓隊が通り過ぎる。またまたバトントワラーたち。いやはや多種多様、寄せ集め的なパレードが楽しい。
 金魚の名産地弥富のミス金魚がミニカーから手を振る。
「他県の人に自慢しづらいミスだね。むかし、私、ミス金魚に選ばれたことがあるの、と言っても、あまり説得力がないな」
 カズちゃんが、プッと噴き出す。おォ! 白襟に黒づくめのトランペット隊。天理教とプレートにある。参加資格はどうなってるんだ? クノイチが通り過ぎる。意味不明。カズちゃんが、
「家康の忍者部隊と言えば、服部半蔵だから、そのへんに半蔵がいるのかもしれないわよ」
 カラス天狗が通る。これは何だ?
「鞍馬山のカラス天狗が、牛若丸に剣を教えたんだよね。三英傑と何か関係があるの?」
「さあ……何でしょうね」
 にこにこしている。さすがのカズちゃんもお手上げだ。
 きのうにつづいて少年鼓笛隊。メンバーがちがう。きょうはへただ。わくわくしない。浴衣を着た中年シャチばやし隊。
「手に鯱とモミジ飾りを持っていなければ、温泉町のオバチャンたちだね」
 カズちゃんがまた噴き出す。渋い面構えの武将が堂々と一人ゆく。だれに扮しているのかわからない。すごい年増の姫が小ぶりの山車から手を振っている。ん? パネルを見ると、大政所(おおまんどころ)と書いてあった。秀吉のお母さんか。納得。顔の平べったいねねが通り過ぎた。もうじゅうぶん。
「ああ大満足した。もういいや、きりがない。帰ろう」
「帰りましょ。京町通を通れば静かに帰れるわ」


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