二十五

 節子は、自転車を牽く私の先に立って歩いた。スカートの尻を眺める私の眼に、性の対象ではない女が映った。もうそのからだの細かい部分を思い出すことは不可能だった。私は自転車のハンドルを握ったまま立ち止まった。
「節ちゃん―」
「なに」
「世の中って、単純だよ。複雑だと思いこまないで、努力さえしていれば、就職できると思う。勉強してるあいだ、お母さんみたいにアルバイトをしてみたら?」
 私は、ほんのかりそめの会話でも、だれかに向かって言葉を吐くときは自分の全力を注ぎこまなければすまい人間だった。
「相変わらず、キョウちゃんて甘いのね」
 どこが甘いのかわからなかった。滝澤節子は怠惰なうえに、ゆきとどいた欺瞞で化粧していた。たしかに私はそう感じたけれども、彼女にしてみれば、私との一件のために泣く泣く職場を追われた因果が、いまにつづいていると信じているのだろう。しかし、私の直観では、彼女は職場を追われたのではなかった。嫌気がさして自分で去ったのだ。母にせよ、浅野にせよ、職場から去れと命じるほど厚顔ではない。
「ごめんなさい。私、このごろ、自分で自分がどうなってるのか、ほんとに……。おかあさんにも、意地の悪いことばかり言っちゃって」
「牛巻病院でぼくと遇いさえしなければ―」
 節子は否定しなかった。大門の停留所が見えるところまで二人無言で歩いた。
「あまりこないほうがいいね」
 節子は自転車に並んで立った。
「そうよ、大事な勉強があるんだから。こんなことがお母さんに知られでもしたらたいへんでしょう。二年前と同じことになっちゃう」
「ぼくは利口になった。静かなおとなになったんだ」
「いいえ、まだ高校二年生よ。人の事情より、自分の事情で頭がいっぱいの年ごろよ。とにかく、いまはちゃんと勉強して、安心して会える時期を待ってちょうだい。じゃ、さよなら」
 節子は背中を丸め、もときた道へそそくさと消えていった。
 あの早春の日の、勤勉で、やさしい、生気にあふれた節子が足早に去っていった。青森へ発つ夜の勉強小屋で、カズちゃんは節子のことを、馬鹿な女と言った。たしかにそうかもしれない。でも、そんなひとことで切って捨てるのはあまりにも哀れな気がした。もう会わないほうがおたがいのためになることはわかっている。このまま遠ざかってしまえば、節子はせいせいして、もとの計画どおりに生きていくだろう。せっかく再会できたむかしの恋人を幻滅させてしまったと、しばらくは深く後悔するかもしれないが、その悔いも未来の計画の中で忘れるだろう。
 しかし、金銭的に楽になることで節子の生活の軌道が改善され、あの日の節子が戻ってくるのなら、もしそれだけが問題なら、カバンの底の金をそっと、二万円ずつでも小出しに母親に渡すのがいいのだろうか。いや、いい大人が高校生の差し出す金を図々しく受け取るはずがない。しかもそんな涙金なぞ道端で拾った小銭と同じで、彼女たちが長く暮らしていく生活の足しにはならないだろう。そしてたぶん、問題はそんなところにはないのだ。
 ―何のための献身だ?
 なぜ私は、この母娘の生活のために悩まなければいけないのだ。滝澤節子はいったい何が不満で、じっとしているのだろう。私が彼女の生活のバネにならないとするなら、何のためにせっかくめぐり会ったのかさっぱりわからない。そして実際、私は彼女の生活のバネになっていないのだ。
 節子と別れた足で夕暮れの中を自転車を走らせ、カズちゃんの家に寄った。
 思い切って打明けた。彼女の判断を仰がないわけにはいかなかった。
「そう! 巡り会ったのね。それはキョウちゃんの運命だと思うわ。節子さんにとっては奇跡。……でも、ほっとけばいいのよ。キョウちゃんが二人を助けたいと思うなら、それはそれで仕方ないけど。……でも、早く手を引いたほうがいいわね。その二人、親子でへんよ。いちばんいけないのは、キョウちゃんに対する感謝がないということね。キョウちゃんがどれほどのものを犠牲にしてきたと思ってるの。節子さんは職をなくしただけでしょ。そんなもの、その気になってちょっと探せばすぐに見つかるわ。キョウちゃんがなくしたものは、一度なくしたら一生見つけられないものだったのよ。……十万でも二十万でもあげて、足長おじさんやって、さっさと切り上げたらいいわ」
「いま持ってるお金を少しずつあげようと思ってたんだけど」
「そのお金はキョウちゃんの大事なお小遣い。手をつけちゃだめよ。私があげる」
「でも、断られるんじゃないかな―」
「プライドがあればね。高校生の前で生活の不如意を口に出す人に、プライドなんかない。断らないわ。とにかくそうしなさい。キョウちゃんはあと一年で受験なんだから、ぼやぼやしてられないわよ」
         †
 一月十五、十六、十七日と、三日連続で積もらない雪が降った。毎朝の気温はほとんど零下五度前後になった。青森ほどではないが、さすがに寒いと感じる。
 食堂でみんなとわいわい朝めしを食う生活にもすっかり慣れた。玉子を落とした味噌汁と、白菜の浅漬けと、板海苔で山盛り一膳めし。山崎さんが、
「キョウちゃん、あっちはどうしてる」
「夢精してます」
 ドッと笑い声が上がる。母は聞こえないふりをする。私は彼らのマスコットであり、希望の星だ。
 二十一日の土曜日、朝から夕方にかけて、三学期最初の実力試験があった。遅くまで勉強したからだを、朝の冷気が元気づける。冷えたコンクリートの駐車場から道路へ漕ぎ出て、顔を挙げた。空は少し灰ばみ、冷えた毛布のような太陽の光が低い家並を包みこんでいる。
 教室に入ると騒々しい熱気が顔に吹きつけてきた。虎の巻に救いを求められない羊たちのワル足掻きの喘鳴(ぜんめい)だ。安中が試験用紙を持って入ってきた。アジーア河村の号令で、腰掛が音高く鳴った。あらためて河村を眺めて、制服がはち切れそうなデブだとわかった。ときどきチラと私を見る目が、テルヨシのような片チンバだ。
「二年生の東大志望者が全校で三人、この教室にも一人います。もちろん神無月くんです。このままいけば彼は確実に受かるでしょう。みなさんはまだ二年生です。時間はたっぷりあります。成績の伸びしだいではいくらでも上が狙えます。じっくり腰を据えて勉強してください」
 一瞬、羊たちのあいだに称賛と嫉妬の雑じったざわめきが起こった。自分たちを卑下する高笑いも聞こえる。
「去年京大に受かったやつは浪人だったらしいがや。現役で東大京大は無理やろ」
「俺は愛教大か南山がやっとや」
「名大はクラスの何番までや」
「四、五番やろ」
 皮肉屋の平岩が訊いた。
「神無月、おまえ二学期の期末試験何番やった」
「クラスの八番、全校の九十九番」
「それで、なんで東大確実なんや」
「実力試験が二回連続で一番だからだね」
「内申書で落とされるやろ」
「大学の入学試験は内申書を見ない」
「ホラ吹くなや」
 私は自分があらゆる毀誉褒貶の関心を揺り動かす糸を握っているのを感じた。教師になってまだ日の浅い安中の顔は、窓から射しこむ光に照らされ、羊たちを信頼する熱心な善良さをたたえていた。
 試験が始まったとたん、解答用紙に向かう学生たちが打って変わって白っぽく落胆したように見える。的外れの暗記に憂き身をやつしながら、二流が三流になりきれないあきらめの悪さで夜通し起きていたせいだ。ある者はあくびをし、ある者は腕の中に顔を埋めていた。彼らのあいだには、もうどこにも、受験を一年後に控えた真剣な様子は見えなかった。できればいますぐにでも試験を放棄して帰りたいという願いしか見て取れなかった。彼らは何のために学校にやってくるのだろう。毎日毎日、休み時間まで犠牲にして勉強しながら大した成果を得られない。まじめで、できの悪い羊たち。私は彼らの中で孤独だった。一人の友も持たなかった。そしてそのことに満足していた。
 一日かけた試験が終わった。ほぼ満足のいく答案を書きあげることができた。天神山中学校の校庭から、クラブ活動の明るい笑い声が聞こえてくる。曇り空を透いて射してきた夕日が、鉛筆をもてあそぶ手の甲で暖かく戯れる。得体の知れない倦怠が私のうちにくすぶっている。私はその気だるさを疲労のせいにし、短い徒競走のときめきから開放されたことに安堵した。
         †
 カズちゃんから二十万の金を渡された。
「渡したらすぐ帰るのよ」
「うん」
 私は銀行の真新しい封筒に入った金を内ポケットに入れ、自転車を飛ばして環状線を走った。冷たい向かい風が顔を切るようだ。中村区役所から若宮町へ曲がりこむ。目に見えないほどの細かい雨が落ちてきた。
 アパートの階段のところで、封筒に自分の三十万円を足して入れた。十号室の扉を叩いたが、返事はなかった。何気なくノブを回すと、内側から押し出すようにドアが開き、目の前に白いネグリジェ姿の滝澤節子が立った。下着が妖しく透けてパンティが見えた。母親の姿はなかった。仕事に出ているのかもしれない。石油ストーブのせいで部屋の空気がムッとしていた。滝澤節子が眉をしかめた。
「何しにきたの。帰って。調子悪いから」
 邪険に言い放つと、節子は腹立たしげにネグリジェを揺すりながら、窓ぎわに敷かれた蒲団に戻っていった。髪だけを残して彼女の全身が蒲団に隠れた。彼女がそんな態度に出たせいで、私は自分が卑しい期待を持ってやってきたように思われているとわかった。蒲団の中から彼女は気難しい調子でもう一度言った。
「どうしてきたの。性欲?」
 感情がどこかで低くうめいた。私は節子の針を含んだ言葉に、侮辱よりも凛とした無関心を感じて立ちすくんだ。二年間の無意味が喉もとに迫った。蒲団からはみ出した髪を眺めた。深い、呼びかけるようなさびしさが湧いてきた。憂鬱も湿った後悔もなく、たださびしいだけだった。
 階段に足音がして、母親が昇ってきた。
「あら、キョウちゃん、きたの。コーヒーをいれようね。インスタントコーヒー買ってきたんよ。なんやの、節子、キョウちゃんに失礼やないの」
 私は部屋の中に招き入れられた。節子はもぞもぞと起き出して、下着姿を隠そうともせずにスカートとセーターに着替えた。そして寒そうにストーブの前に横坐りになった。
「見つかったんかい、仕事」
「そう簡単には見つからないわよ。はい、あしたからどうぞ、なんてところは、なかなかあるものじゃないのよ」
「じゃ、勉強しとればよかったがね。資格取るまで、かあさん働くから」
「ここんとこ、とっても気分が悪いのよ。本を開くとクラクラして。ああ、もっと頭がよく生まれたかったわ」
 節子は腹立たしげに言った。不機嫌な彼女の存在のために、この少し整いはじめた小さな部屋が私の眼に汚らしく映った。
「そういうふうにツンケンしゃべるの、やめんかね」
 ストーブの周りの編み物や、散らかった衣類を眺めても、何か真剣でないものが感じられた。このときほど節子がつまらない人間に見えたことはなかった。私の行いにはたぶん責められるような咎もあったにちがいない。でもそんな罪も、彼女の怠惰にくらべれば影が薄い。節子はこれ以上自分のからだを小さくすることができないというところまで縮んでいた。この女に、かつて一瞬でも恋をしたことがあったとは信じられなかった。
「キョウちゃん、しばらくこんかったね」
 母親が言った。
「はい、実力テストの期間中で、毎日学校から遅く戻りましたから。それに、たびたびくるのは迷惑だと思って」
「こんな様子やから、遠慮させちゃったんやね」
「いえ、ほんとに、テストでこれなかったんです。……節ちゃん、看護婦の仕事は好き?」
「あんまりやりたい仕事じゃないわ」
「そんなこと、あらすか! この子は、看護婦の仕事ができたら、それだけで大喜びなんよ。本気にしたらあかん。いつもヤケみたいなことを言って痩せがまんして」
 母親は台所に立った。やっぱり節子は看護婦でいたいのだと思った。言うことに掛け値があるのだ。どうしてそういう態度をとらなければならないのかわからないけれど、本心を隠すのはつらいことにちがいなかった。
「看護婦になるには、准看の資格を取らなければなれなかったんだよね。そして節ちゃんはめでたく看護婦になれた。じゃ、なにも正看になる必要はないんじゃないかな。節ちゃんにはきっとそれがわかってるんだ。だから勉強なんかする気にならないんだよ。准看のままでじゅうぶん立派にやっていけると思う。牛巻病院でも、節ちゃんがいちばん輝いてたよ。節ちゃんが病室に入ってくると、みんな大喜びだったんだ。どんな病院でもいいから、看護婦をやってほしいな。患者は肩書を待ってるんじゃなくて、節ちゃんを待ってるんだよ。よけいなお世話かもしれないけど、職探しの資金を用意してきた。ここに五十万円ある。これでしばらく動き回れると思うよ。ある人が出してくれたんだ。おふくろではないので安心して」
 コーヒーを持ってきた母親が、
「あらあ! どうしよ」
 と叫び、たちまちぽろぽろ涙を落としはじめた。
「ほんとにお母さんに出してもらったんやないの?」
「いえ、母には、こんな大金は作れません。名古屋にぼくの野球のタニマチ、つまり後援会があります。ぼくは二年連続で高校球界の三冠王というものを獲ったんです。それで地元の名古屋にファンクラブができました。そこにふだんの学費とお小遣いを頼んだら、ポンと出してくれました。もちろん返済不要です。遠慮しないで使ってください」
 カズちゃんのことは言えない。節子のプライドを傷つけるし、余計な意地を張らせることにもなる。涙を拭いながら母親は頭を下げた。三冠王の意味はわからないようだった。
「そんなすごい選手やったんやね。……ありがたく使わしてもらいます」
 やはりよほど逼迫した生活をしていたのだ。節子はいつのまにか、黙りこくってレースを編んでいた。指が機械的に動き、目に確かめられないほど、ほんのわずかずつ編んだ毛糸の丈が伸びていくようだ。彼女は私から顔をそむけていた。頑固そうな顔がレースの上に屈んで、鉄針を動かしながら自分だけの孤独に引きこもっていた。私のすぐそばで、私のことなどかまわずに一人離れていた。封筒は炬燵のテーブルに載ったままだった。


         二十六

 風があるのか、窓の外の電線がにぶく揺れていた。私は、これ以上、もうどんな言葉も不要だと思って立ち上がった。むかしの節子が戻ってくることなどあり得ないのだ。
「もう帰るの? ゆっくりしていきゃあ。サイコロステーキ買ってきたんよ。それとクリームシチュー。おいしい晩ごはんにするからね」
 母親が台所へ立っていった。
「やっぱり、失礼します。寮の食事時間は決まっていますから。就職できるといいね、節ちゃん」
 節子はレースを編む手を止めずに、目を伏せたまま黙っていた。その目は一度も私を見なかった。新しく持ち上がった厄介な問題を見定めるように、毛糸の網目を見つめていた。私はそんなふうにしている彼女を理解したいと思わなかった。母親も弱りきっている様子だった。
「また、何カ月かしたらきます。節ちゃんのうれしい報せも聞きたいし。こようと思えばいつでもこられるんですけど、目障りになるでしょうから」
「今度きたときは、何、食べたいん?」
「キャベツの油炒めと、ポテトサラダ」
 母親は愉快そうに笑った。カズちゃんに似た美しい八重歯だった。
 節子は不機嫌にうつむきながら、階段の上がり口までほんの数メートル送ってきただけだった。私は階段の下の小暗い庭に立って、彼女のシルエットを見上げた。彼女は小さく手を上げた。かすかに微笑んだようだった。
「さよなら!」
 顔に霧雨を感じた。
 自転車を走らせながら考えた。金を渡したところで、彼女の生活の改善に何の影響もないかもしれない。彼女にとって、きょうまで何もかもうまくいかなかったのだ。でもあの金があれば、あしたからは少しはうまくいくだろう。髪と服を整え、気を取り直して、職探しに出かけられるだろう。
 大門の大通りへ出る角に、派手な服装をした女が三人立っている影が見えた。車の往来が激しいので、向こうへ渡るために自転車を停めた。
「へい、学生!」
 二人が近づいてきた。すぐに立ちん坊の女たちだとわかった。一人だけ残っている女は電柱に凭れて、警戒するようにあたりをキョロキョロ窺っていた。
「遊ぼ。千円ポッキリ」
 あっちへいけ、と罵った赤井の気持ちがよくわかった。私は無視して道を渡った。
「気取るんじゃないよ、スケベ学生!」
 下品な笑い声が追ってきた。奇妙な満足感が胸を満たした。これと似たような気分になったことがあった。思い出そうとしたけれども、思い出せなかった。通りを渡って、やっと思い出した。過去とのつながりがすっかり断たれたとわかったときの、あの夜行列車の中で感じた気分だった。
         †
 翌週二十八日の土曜日、カズちゃんに五十万円の報告にいった。何カ月かしたら訪れると約束したことも教えた。
「大切なお小遣いだったのに……キョウちゃんらしいわ。あら、雨」
 晴れ上がっていた空から雨が落ちはじめた。カズちゃんは庭に出て洗濯物を取り入れた。キャベツとモヤシのインスタントラーメンを二人前作る。キッチンテーブルに向かい合ってラーメンをすする。
「インスタントと思えないな」
 カズちゃんが微笑みながら、
「親切にしてあげなくてもよかったかもしれないわね。何カ月もあいだを空けちゃだめよ。へんな予定が残るでしょ。きょういってらっしゃい。早いところ後腐れをなくしたほうがいいわ。もう節子さんはいないと思う。住所を変えて再出発。そのことを確かめにだけいくの。お金がちゃんと使われたということになるから。お母さんはしばらくそこにいるでしょうけど、いずれいなくなるわね。こういうことは早めにすましたほうが、お人好しのキョウちゃんの心にわだかまりを残さないのよ。これを最後に、長いあいだキョウちゃんを苦しめてきた思い出とはさよなら。節子さん、いっときでも好きだった男に思いがけなく助けてもらって、複雑な気持ちだったんじゃないかしら。でも、親子二人にはぜったい役立つお金よ。彼女がまじめな人なら、さっそく動くはず。……でも、どうかなあ」
 カズちゃんの心配はよくわかった。私も不安だった。
「自転車とカバンを置いてタクシーでいきなさい。それからね、キョウちゃん……もぬけの殻ってこともあるわよ。そうなってもガッカリしちゃだめよ」
 二人ラーメンをすすり終えると、カズちゃんは私の好物の玄米茶をいれた。
「わかってる。そのほうがかえってホッとする。彼女たちの生活がいいほうへ変わったってことだから」
「早くいってらっしゃい。傘を持って出てね。いまタクシー呼ぶわ」
 雨の中をタクシーで葵荘に乗りつけると、カズちゃんの予想していたとおり、部屋には節子の母親しかいなかった。胸の中に何か、予想通りのことを目撃したあとの茫漠とした憂鬱が昇ってきた。しかし私はあえて明るい声で尋ねた。
「節ちゃんの仕事決まったんですか」
「それがねえ……」
 母親はすまなさそうな表情を浮かべた。炬燵は片づけられ、火の消えた石油ストーブが文机のそばに寄せてあった。彼女はそれを部屋の真ん中に引いて火を点けた。私は沓脱ぎに立ったまま、母親の横顔を見つめた。
「知多にいったんよ。まあ、上がりゃあ」
 私はゆっくり畳に上がると、ストーブのそばにあぐらをかいた。
「ツテがあるんですね。仕事を紹介してもらいに―」
「そう言っとったけど……」
「よかった。これでお母さんも安心ですね」
「つくづくええ人やね、キョウちゃんは。……節子、こんな失礼なことしてまって。もう一度キョウちゃんがくるって知っとったのに。……気悪くせんといてね」
「しません。それで、報告のためにお母さんだけ残っていてくれたんですね」
「ほうよ。しっかりお礼を言わんとあかんし。節子が動く気になったのも、結局はキョウちゃんのおかげやから」
「そんなことはありません。節ちゃんはほんとに看護婦の仕事が好きだったんですよ」 
 神宮の旅館に置き去りにされたことを思い出した。まちがいない。滝澤節子という女は別れのドラマが好きなのだ。
「コーヒーいれるね」
 台所に立った。母子のあいだにどんな会話が交わされたか、知るよしもなかったけれども、節子の心がいつも私から遠いところにあったことだけはわかった。ぬるそうなコーヒーが出た。わびしく泡立っている。母親は申しわけなさそうにうなだれ、
「お金、ほんとうにありがとうございました」
 いつもの開けっ放しの表情は消えていた。私はうなずきもせず、長押(なげし)の棚に眼をやった。
「トランク、置いてったわ」
 いまは沈黙がもっともふさわしいものだった。母親も、自分の娘が愚かなせいで親切な男にとどめを刺したという自責の念から、同じようにしばらく沈黙していた。私はあぐらを解いて立ち上がった。
「じゃ、帰ります。もう会えないと思いますが、お元気で」
「キョウちゃん!」
 母親は勇を奮ったように高い声を上げた。
「私、お礼をするわ。節子の代わりに。誤解せんといてね。これは私がキョウちゃんを気に入ってすることやからね。長いこと、引きずり回した挙句、こんなに親切にしてもらったのに、何もしてあげられんかったもんね。節操のいい人やから、むかし節子としてから何年もしとらんのでしょう? 若いのに気の毒に。……節子だと思っておばさんを抱いてくれん? おばさんじゃ、いや?」
 無理に作ろうとする母親の微笑がふるえた。小太りのからだを真っすぐ伸ばし、真剣な様子で発する尻上がりの声は、若い女にはない馥郁とした愛情をにおわせるものがあった。とつぜん深夜に忍びこんできたユリさんとちがって、清楚な感じさえした。
「お願い、いい年した女に恥かかさんといて」
 ―抱いてあげなさい。女が勇気を出して挑んできたのよ。
 というカズちゃんの声が耳のそばに聞こえた。言いようのない脱力感に襲われて、胸が苦しくなった。
「私の気持ちやから……お願い」
 私はふたたび腰を下ろした。母親は明るい窓のカーテンを引き、部屋の電球を点けると、手狭な台所へいって洗面器に水を汲んだ。厚手のブラウス、シャツ、枯れ草色のスカートとシュミーズを脱いで、下着姿になった。ブラジャーをしていることに驚いた。股上の高いパンティを脱いで洗面器に跨ると静かな音を立てて秘部を洗った。尻が真っ白だった。タオルで股間を拭い、それから彼女は前を手で押さえてこちらにやってきた。私に尻を向けながら、ストーブを少し端に寄せると、壁沿いに万年布団を押し広げ、ブラジャーを取って仰向けに横たわった。
「もう何十年もしとらんから、ちゃんとキョウちゃんに応えられるかどうか心配やけど」
 私は、むかし恋した女の母親ではなく、女という錯綜したレールの上の一つの駅に降り立とうとしているだけのことだと思おうとした。心を預けることなく、また別のレールに乗り換えて去っていけばいい。
 彼女は私に見つめられ、恥ずかしい、と囁いて、肥満気味の色白の裸体を壁に向けた。足の裏が立ち仕事のせいか硬くなっているように見えた。胸を両手で覆っていた。私は学生服と下着を脱いだ。蒲団に並んで横たわり、腰に手を置いた。彼女の肩が緊張して強張り、背中が深々と呼吸した。裸体を上向けると、今度は手で顔を覆った。全身を見下ろした。カズちゃんには比べるべくもないけれども、美しい皮膚をしていた。棒状の陰毛が真っすぐ割れ目に向かっている。股を開いた。ぶるぶると脚がふるえた。左右いびつな茶色い小陰唇が淡い肉色の前庭を隠さないで開き、クリトリスは包皮の中に慎ましくすっぽり収まって乾燥していた。
「できないみたいです」
 私が言うと、母親は顔から手を離し、わずかに血が入ってだらりとした私のものを正視した。
「抱き締めてくれるだけでええです。でも、きれい……。こんなにきれいなものやったかしら」
 彼女は紅潮した顔で正座すると、とつぜん私の性器を口に含んだ。その瞬間、滝澤節子の母親がただの女に変身し、深い安堵感がやってきた。彼女は唇も舌も使わないまま、なすすべもなくじっとしていた。私はその姿勢のまま、手を伸ばして彼女の乳房に儀礼的な愛撫を加えはじめた。どう反応すればいいかわからない様子で彼女は私の性器を咥えたままでいる。私は彼女を離して仰向けにし、乾燥している襞に指を使った。少しぬめりが出てきて、慎ましい声が上がった。
「あ……なつかしい。キョウちゃん、おばさん、ええ気持ちよ」
 目をつぶり、〈なつかしい〉感覚を確かめている。私はもう一度股を拡げて屈みこんだ。
「あ、お口で、そんなこと―」
 驚いたように腰を引く。私は両手で彼女の太腿を高く押し上げ、その部分をすっかり曝すようにした。
「あ、キョウちゃん、私、恥ずかしい」
 クリトリスの包皮を舐めた。ピクリと尻がふるえる。時おり一人で慰めてきたことがその反応からわかった。この女体がカズちゃんだと思い定め、丁寧に舌を使った。クリトリスが舌の先に触れるようになった。指を膣に入れ、ゆっくり往復させながらクリトリスを吸った。よほど飢餓状態にあったのか、何ほどもしないうちに、
「あ、あかん、ウウ……」
 とうめき、陰阜をグーッと引いて果てた。恥ずかしそうにまた壁を向く。葛西母子よりはかなり鈍感で、達しかたも激しくない。腹を絞ったのも一度だけだった。背中に触ると薄っすらと汗をかいている。彼女なりに強い快味を覚えたようだった。私はめずらしいものを見る思いでまたこちらを向かせ、強く抱き締めた。
「じゃ、ぼく、帰ります」
「え? それ、申しわけないわ。私がええ思いしただけで」
 私は下着を引き寄せ、穿こうとした。
「あ、待って、キョウちゃん、ちゃんと出してもらわんと、お礼したことにならん。私はもうええの。今度はキョウちゃんに気持ちようなってもらわんと」
 彼女は私の腰を捕まえ、わずかに長くなっている私のものを握った。しばらく見つめ、また含んだ。私は応えることにした。
「舌を動かしてみてください。大きくなりますから」
 慣れないふうに、ただ一定に舌を亀頭の先でチロチロさせている。睫毛がしばたたく。年齢に似合わぬ初心な様子を見ているうちに、私のものが彼女の口の中で甦ってきた。彼女はあわてて口を外し、私のものを凝視した。彼女は自分の視線をいかにも浅ましいと思ったのか、すぐに分別のある顔に戻った。私はその顔に、
「ほんとにいいんですね」
「はい―」
 躊躇なく挿入した。彼女は欲望のない善行の微笑を浮かべて受け入れたが、挿入したとたんに痛そうな顔をした。ネバついて滑らない。引き抜いて、彼女の股間に屈みこみ、乾燥している性器を唾で濡らした。
「キョウちゃん、ごめんなさい、おばさん、あかんかった」
「心配しないで。何十年もしてなかったから濡れにくくなってるんです。だいじょうぶです、心配しないで」
 一度気をやったクリトリスを含み、吸う。舌先でゆっくり押し回す。すぐに二度目の高潮が迫ってきた。
「ああ、キョウちゃん、私……あああ、ウン、ウン、ウーン!」
 陰部が前後に痙攣する。足を拡げすぐに挿入すると、思ったとおり潤っていた。心置きなく動きはじめた。茫洋とした膣から何の反応も返ってこない。
「キョウちゃん、気持ちええ?」
 微笑みかける。いじらしい。
「はい、とても」
「うれしいわ、うんと気持ちようなってね。私、恩返しできてうれしいわ」
 彼女の〈恩返し〉は私が射精すれば完了する。しかしこれでは射精できない。私は、摩擦を強くするためにあわただしく動きはじめた。
「ああ、キョウちゃん、そうやって速よすると気持ちようなるん?」
「はい」
「好きなようにして、うんと気持ちようなってね」


         二十七

 もう一度カズちゃんを思い浮かべた。効果がない。尻を持ち上げ、強くこすってみるが壁に変化が現れない。それでも根気よく往復していると母親は私の様子に違和感を覚えたらしく、同情するように、
「キョウちゃん、気持ちようならんの?」
 私は焦りはじめた。陰茎の全体をつかんでこないので刺激がない。根気よく奥だけを突くことにした。
「ああ、キョウちゃん、おばさん気持ちええわ、初めてやわ、こんなええ気持ち、ああ気持ちええ、ゾクゾクする、キョウちゃん、出して、もう私じゅうぶんやわ、うう、ええ気持ち、ええ気持ち」
 ようやく摩擦が生じた。速度を上げる。このまま動いていても母親の高潮はこないだろうけれども、私の射精は叶いそうだ。ビク、ビクと絶え間ない脈動が応えはじめ、あっという間に緊縛が強まった。抽送を速める。
「あああ、キョウちゃん、おばさんおかしなってきた、困る、あああ、気持ちいい! ああ気持ちいい、どうにかなりそうや、あ、あ、キョウちゃん、出して、はよ出して、やだやだ、私、あああ、やだ!」
 一気に深く突き入れて射精した。膣壁がグイと隆起して締めつけてきた。
「あー、ウン!、あああ、ウーン!」
 最後にさらに深い場所で律動すると、グッという声を発してシワが寄るほど腹が硬直した。私はうごめく膣に律動を与えつづけた。母親の腹が硬直を繰り返す。乳房を握り締めながら内臓の奥深くへ何度も放出する。おそらく一度も快楽を知らなかった膣が、私のものをこそぐように波打つ。腹と尻が何度も痙攣する。
 母親の回復は思ったよりも長引き、私を包みこんだままいつまでも断続的にからだをふるわせた。やがて、彼女は私の上体を引き寄せて頬をすり寄せ、まだ小刻みにふるえている腹を私の腹に押しつけた。
 雨が庇を叩く音がする。あのカーテンを開けて雨を眺めたい。私は母親の腕を解いて離れ、小さな台所にいった。伸び上がって腰を突き出し、蛇口の水で性器を洗った。付け根に溜まっていたねっとりとした乳液状のものを丁寧に洗い落とした。
 蒲団に戻ると、母親は下腹を両掌で大事そうに抑えていた。彼女は汗ばんだ顔を私に向けた。頬が赤らみ、むかしの節子とそっくりな顔をしていた。胸がきしんだ。私は彼女のかたわらにもぐりこみ、雨音を聞いた。
「ごめんね。ご恩返しのつもりが、すっかり夢中になってまって。私が節子なら、キョウちゃんと地獄までもいくわ」
「たった数分のことがすべてじゃありません。男と女は、もっと深いところで結び合ってます」
 私は蛍光灯を消して窓辺に立っていき、カーテンを引き開け、窓を半開きにした。強い雨音が入ってきた。母親が蒲団を胸に引き上げた。
「だいじょうぶですよ。外からは見えませんから」
 母親の顔がストーブの灯りに美しく紅潮して見えた。私はふたたび彼女のそばに横たわった。母親は私を遠慮がちに抱き締めた。
「恋人おるんやね。わかったわ……それなのに親切に抱いてくれて……勘弁してね」
「最愛の女の人です。ぼくを小学生のころからずっと見守ってくれてる人。ぼくたちのいきさつは説明すれば長くなるのでやめます。いまもずっとそばにいて、何くれとなく世話を焼いてくれます」
 彼女は、罪の意識におののく表情になった。
「ほうやったの……。そんなに幸せにしとるときに、節子を訪ねてくれたんやね。無視すれば何ということもなかったやろに。……お金まで用立ててくれて、こんなおばさんを抱く破目になってまって……。節子のこと、どうか許したってね。キョウちゃんはぜったいえらくなる人だって言ってね。身を退いたんよ、わかってあげてね」
 私はあの時間を―神宮の東門から参道の一角を横切る近道を抜け、希望へと通じる鳥居に出た瞬間を―思い返した。あれからの私は、この世には謀りごとをしたり裏切ったりする人間はいない、すべての人間は自分の決意に忠実であろうとし、たとえ悪意からでなくてもそれを破ったときは、死ぬほど恥じ入るものだと信じてきた。人間ならばだれでもそれくらいの見どころがあるはずで、だからこそ人間の存在には意味があって、そして貴いのだと思ってきた。
 旅館から西松の事務所へ連れ帰られたとき、私はその信仰を失いかけた。ほとんどの人びとにとって、交わした約束や、胸中の決意など、自分を生かすための大した障害にはならないということを知った。―その信仰を回復させるために、カズちゃんが舞い降りてきた。
「……こんなことさせてまって、ほんとにごめんね」
「ここにずっといるんですか」
「節子が落ち着くまでは、仕事やめられんの。これからはいままで以上にがんばって生きていけるわ。ほんとにありがと。節子のこと、許したってね。悪気なんかあらへんかったんよ。キョウちゃんに申しわけない、キョウちゃんのお母さんに申しわけないて言ってね。ほんとに、悪気はあらへんのよ。……このことは、その恋人さんに秘密にしとってね。傷つけんといてね。おばさん、ほんとに悪いことしてまった」
「秘密にはしません。何もかも話します。ぼくは彼女を信じてます。慈母のような人ですから。きょうはこれからその人のところへいかなくちゃいけない。北村和子という名前です。神のように心の寛い人です」
 母親はハッと息を呑み、
「……あのお金も」
「はい。ぼくから事情を聞いて、用立ててくれました」
 母親は目を潤ませ、
「こつこつお返しすると、伝えといてくださいね。心から感謝してますって」
「伝えます。そろそろ帰ります」
 服をつけはじめた。母親は一瞬さびしそうな顔をしたが、すぐに表情を和らげ、起き上がった。自分も服を着はじめる。
「私、休みが水曜日なんです」
「覚えておきます。北村さんにも伝えておきます」
 まだ午後の三時にならなかった。戸口まで送って出た母親は、
「……キョウちゃん、私、ぜったい節子にはしゃべらんから。死ぬまで」
 と言って潤んだ目から涙を落とした。
         †
 傘を差して、あの売春婦たちがたむろしている通りに出た。女たちは、打ち萎れたふうに歩いている私に声をかけてこなかった。
 雨の中を大門の停留所に近づいてくる一両電車のパンタグラフに稲妻が青く光った。その瞬間、映画のシーンが切り替わるように、電車も車も道路沿いの家並も消え去って、あのときの急患収容室がありありと浮かんだ。窓からの淡い反映、鉄枠のベッド、節子のふくらんだ頬、ベッドの上に投げ出されている両腕、床に置かれた白いバッグ、それに寄り添うように脱ぎ散らした私の学生服―そうした一コマ一コマが、細かくまざまざと目の裏に甦った。
 タクシーを拾い、後部座席にからだを埋めると、疎かにしていた記憶の底から、節子との数カ月が浮かび上がってきた。私たちはいろいろな夜道を歩き回った。いちばん語りたいことは何だったろう。おそらくそれは過去でも未来でもなく、いまこのときにいっしょにいることができてどれほどうれしいか、それだけだった。
「いまはキョウちゃんしか好きじゃない」
 いまは、いまは、いまは……。
 胸の中で何かが死に絶え、すぐ身近に、かぎりなく近いところに、穏やかな金色の光を背に手招きするカズちゃんのシルエットが見えた。いまが永遠だと感じた。私は永遠の中にいる。何一つ過去を振り返る必要もなく、未来を信じる必要もない。私の周りにあるこのいまが永遠だ。市街電車の、売春婦たちの、道路の、家並の光景がすべてだ。私はその中に生きている。年月も、周期も、意味がない。何もかもいまの中にあるし、いつもあるのだ。
         †
 話を終えると、カズちゃんはニッコリ笑い、
「キョウちゃんはね、節子さんをほんとに好きだったのよ。それで、お母さんを抱いてあげたくなったの。今度会ったら、お金なんか返さなくていい、のんびり生活してって言ってあげて。いえ、私が言うわ。ときどき水曜日に遊びにいってみる。知多から出てきてすぐお勤めしたなら、まだ名古屋のことをほとんど知らないでしょうから」
 すでに用意していた風呂に二人で浸かった。カズちゃんは湯に濡れた手で私の頬を撫ぜながらこの上なくやさしく微笑んだ。
         † 
 一月二十九日日曜日。昼過ぎまで中村図書館で勉強し、腹をすかして西の丸へ。
「腹、ぺこぺこ」
「愛知県体育館にきれいな食堂があります。二の丸をお散歩しましょう。郷くんと歩くの、大好き」
 着物を着たトモヨさんと久屋通りを二の丸庭園に向かう。途中にきしめんの店があったので、入って小腹を満たす。駅西のガード下ほどの味ではなかった。店内の客がきょろきょろトモヨさんを見ている。着物にセシルカットが似合う。彼女はその視線に応えるようにすがすがしい顔を上げ、
「このごろ、私、きれいになったとよく言われるようになりました。鏡を見て、自分でもそう思います。郷くんに恋をしてるからよって和子さんが言ってました」
 こらえきれない笑いを含んだ声に、私もうれしくなる。
「顔かたちじゃなく、肌ツヤのことだね。トモヨさんはもともと美形だよ。カズちゃんは、恋をしてなければツヤがくすんでしまうと言いたかったんだ」
「はい、これから一生くすむことはありません」
「子供の育ち具合は、どう」
「きわめて順調」
 東門から二の丸庭園へ入っていく。圧迫するような気配に振り返ると、あたりの景色に不釣合いな近代的な建物がドンと鎮座している。
「あれ、何?」
「愛知県体育館。おととしでき上がったばかり。七月の名古屋場所はあそこでするんです。ほかにボクシングとか、プロレスとか」
「そうか、大相撲はもうあの空調の悪い金山体育館じゃないんだね」
「私も何度か、塙のお仲間と金山体育館にいきました。大鵬がきれいだった」
「ぼくも大鵬見たよ。仕切りごとにだんだん赤くなっていくんだ」
 あたりに人が閑散としているのに乗じて、キスをする。
 常緑の潅木に、枝ばかりの立木が雑じっている。石畳を回遊する。ありきたりの枯山水だ。徳川庭園を見たときと同じように、仰々しいだけの碑文を読んだふりをしながら、置石だらけの小ぎれいな空間を巡っていく。サザエ山という古山を背景に、枯芝の斜面に建っている小振りな茶亭を眺める。ライトグリーンの屋根が眼に涼しい。笹と常緑樹に覆われた権現山という名の丘を見上げる。だだっ広い枯芝の庭園。牡丹と芍薬の花園もあるそうだが、夏の花なのであきらめる。体育館を見上げながら東門を出る。
「楽しい散歩だったね」
「ええ、夏には花園を見にきましょ」
「着物姿、きれいだな。きょうは、何か出かける予定があったの?」
「あるわけないでしょ。日曜日は郷くんのくる日だもの。びっくりさせたくて」
「着物にはパンティを穿かないんだよね」
「ええ」
「今度、着物のままセックスする方法を教えてね」
「きょう教えます。着物は帯を解いてセックスしちゃいけないって、むかしから言われてますから、きちんと教えます」
 そんな話をするときも、どことなく品がよく、まじめな話しぶりだ。
「寒くなってきた。冷えたらよくないよ」
「そうね、油断しちゃだめですね」
 愛知県体育館の一階奥、定食屋ふうのオリンピアというレストランに入る。百席以上ある。配膳窓が横長に大きく切られている簡素な食堂。切り窓の上にきれいな文字の品書きが三十枚も並んでいる。中年の女性たちが働いている。チケット制でセルフサービスなのがめずらしい。カツカレーときしめんの食券を買う。トモヨさんは、ハンバーグライスと味噌カツと手羽先。食欲旺盛だ。
「ときどきここにエビフライを食べにくるんですよ」
 際立った味ではなかったが、きしめんの三角揚げが大きいのはうれしかった。
「大事なときだね」
 パッと頬に恥じらいが表れ、
「着床後は出産直前までだいじょうぶってお嬢さんに教えてもらわなかったら、いまごろ悶々としてました」
 トモヨさんと睦み合うようになるまでは、ああいう場所で一夜の出会いを常習にしている女は、たとえ本意ではなくても、妖しい快楽に浸っていると思っていた。でも、健康で愛情深いトモヨさんや、物知りのカズちゃんのおかげで、そういう場所には妖しさがあるだけで、なまめかしさとは縁遠い、ありきたりな肉体だけの交わりが横行しているということをはっきりと知った。



(次へ)