六

 現場から戻ったばかりの小山田さんが、事務所前の水道で口をすすいでいた。私はすぐにきょうの成果を報告した。ヘルメット姿の小山田さんは、反っ歯を包むようにオッホッホと笑い、
「よくあんな重たいバットで打てたな。キョウちゃんのスイングは、子供のものじゃないもんなあ。いよいよあしたから四番か」
「来年の春まで補欠。正式の部員になれるのは、五年生になってからだって。特別に入部させてもらったんだ」
 私はユニフォームとグローブの話をした。
「そんなもの、買えばいいだろ。おばさんに頼め」
「かあちゃんはぜったい買ってくれないよ」
「掛け合ってやるか」
「いい。五年生になったら言うから。左用のグローブのこともあるし」
「よし、任せとけ。買ってやる」
「え、ほんと!」
「ああ。他人のユニフォームなんか、からだに合うはずがないだろ。いますぐその店に出かけて、ユニフォームとグローブと、スパイクも買おう。ちゃんとしたのを買わなきゃだめだ。荒田と吉冨に、うん、クマにも声をかけよう。あいつらにもカンパさせなくちゃ。お祝いだからな」 
「ありがとう! かあちゃんに言ってくる」
「だめだめ、俺たちが買ってやるなんておばさんに言ったら、かえって大目玉くらっちまう」
 小山田さんは、広島大学硬式野球部の出身だという話だった。社内の軟式クラブで不動の四番を打っている。小太りのダルマ型で、中日の森徹に似ている。このあいだの日曜日に荒田さんと社内対抗試合を見にいったら、おっかないくらい振りはするどいのに、なかなか芯に当たらない。一本ホームランを打ったけれども、たいてい内野フライや凡ゴロに打ち取られてしまった。凡退するたびに、彼は照れたふうに歯をむき出してベンチに戻ってきて、
「軟式はむずかしいや」
 と言った。それに比べてエースの吉冨さんは、報徳学園でリリーフピッチャーをしていたらしく、ボールの伸びが素人離れしていた。結局、小山田さんのソロホームランを守り抜いて、一ゼロで完封してしまった。
   
 夕食にまだ間があるので、社員たちは食堂でにぎやかに雑談をしたり、新聞を読んだりしていた。母とカズちゃんはおかずの支度に大わらわで、私たちが入ってきたことに気づかなかった。
「キョウちゃんが、三階校舎の屋根まで届くホームランを打ったぞ。野球部にスラッガーとして入部だ」
 それから荒田さんに耳打ちした。荒田さんは目尻の皺を深くして、うなずいた。そうしてドングリ目で私をやさしく睨み、ごしごし頭を撫でた。
「そうか、そうか、五年生からの入部を四年生で許されたのか」
 荒田さんの感嘆の声に、吉冨さんや、野球に不案内なクマさんまで首を伸ばしてきた。荒田さんの言ったことが聞こえているはずの母は何の反応も示さない。そのほかの社員は、話だけは聞いてやろうといった面持ちで、気のない相槌を打っていた。小山田さんは、今度はクマさんに耳打ちし、それから吉冨さんと荒田さんを促すと事務所のほうへ出ていった。私もあとにつづいた。
 三人の男に連れられて千年の交差点に向かって歩いた。
「俺の見こんだとおりだ、キョウのスイングはすごいからなあ。何でも買ってやるぞ」
 荒田さんが大声で言う。すると吉冨さんが、
「スパイクは少し小さめがいいんだけど、伸び盛りだからね。足先が痛くないぴったりのを買っとこう。三、四カ月もしたらまた買えばいい」
 暗くなった千年小学校のグランドには、もうだれもいなかった。
「広い校庭だな。小学生なら二つ試合ができそうだ」
 荒田さんが腰に手を当てて、金網を張った生垣越しにグランドを眺めわたした。吉冨さんも同じ格好をして、
「たしかに広いな」
「ほら、あの校舎の屋根に当たったんだよ」
 私は薄っすらと闇の彼方に浮かぶ校舎を指差した。小山田さんが目を凝らし、
「うん、硬式でも確実にホームランの距離だ。へえ、このちっちゃいからだでなあ。軟式ボールを飛ばすのは難しいんだぞ。空気抵抗が強いから、芯に当たってもお辞儀しちゃって、あんなところまではまず伸びていかない。みんなびっくりしただろ」
 大人三人あらためて三階校舎を見やった。
「先生に天才って言われた」
「だろうな。俺には手品にしか思えん」
 荒田さんがため息をついて、また頭をごしごしやった。
「とにかくキョウちゃんのスイングは並じゃないからな。中学生や高校生も、いや大人だってあんなふうには振れない。怪物になるぞ」
 小山田さんはまじまじと私を見つめた。
「ぼく、ぜったい、中日ドラゴンズに入って、ホームラン王を獲るんだ」
「巨人じゃないのか。いつも長嶋、長嶋って言ってるだろ」
「ドラゴンズに入って、長嶋と対決するんだ」
 三人を見上げると、吉冨さんが頭を撫でた。彼はクマさんよりもすべっとした肌をしていて、体型は長身で華奢、人よりも繊細な筋肉を持っているようで、とても静かな歩き方をする。
「頼むぞ。そうなったら、西松のみんなが自慢できるからね。俺たちはむかし、神無月選手と同じ釜の飯を食ったって」
 スポーツ用品店の明かりが輝いていた。私はおのずと早足になった。小山田さんたちも大股になる。店へ飛びこむと、愛想のいい店主が笑いながら出てきた。
「ユニフォームと、スパイクと、グローブを買いにきた」
「ありがとうございます」
「ぼく、千年小学校の野球部に入ったんです」
 私は顔を赤くして言った。店主はにこやかにうなずくと、棚から大きな箱を下ろして、胸に赤で二文字《千年》と縫いつけてあるユニフォームを押し広げた。
「こりゃ、格好いいなあ」
 荒田さんが目を輝かせた。
「少しゆったりしてるのがいいんだけど」
 吉冨さんが店主に注文を出した。私はその場でパンツ一枚になって何着か試着させられた。紺色のストッキングが白いユニフォームに美しく映えた。
「うん、これだ。すぐにからだが大きくなるから、少しだぶつくくらいがいい」
 吉冨さんのOKが出て、ユニフォームが平べったい箱に収められる。
「スパイクは、二十二センチぐらいか」
 小山田さんが私の大きな足を見つめた。
「うん」
「ぴったりがいいんだよな、吉冨」
「そう。二十二センチのやつをください。ついでに、磨き用にグリースと、ニーム皮も買おう」
「スパイクの減り止めは、どうします?」
 店主が尋くので、
「ピッチャーじゃないなら、いらないぞ」
 と吉冨さんが答えた。
「次は左利き用のグローブだ。内野か、外野か」
 小山田さんが尋いた。
「外野」
「それじゃ、少し胴体の長いやつでないとな」
 三人で物色にかかった。天井から束になって吊られているスルメ色の安物には見向きもしない。黒やベージュや焦げ茶色のグローブが、ガラスケースに麗々しく陳列されていた。硬式用と見まがうばかりの立派なものばかりだ。
「この、焦げ茶色のがいい」
 手にはめてみると、固すぎず、柔らかすぎず、ぴったりの感触だった。四千八百円という正札がついている。不安そうに見上げると、
「心配するな」
 荒田さんが言った。小山田さんがうなずきながら、
「よし、あとは、おばさんの事後承諾だな」 
 飯場に戻ると、荒田さんが代表で母に説明した。母は私のほうは見ないで、ただ三人に、
「ほんとうにありがとうございます。お礼の申し上げようがございません」
 と言って頭を下げた。その穏やかな表情からすると、野球用品がどれほど高いかまったく知らないようだ。食堂に居残って私たちを待ち構えていたクマさんが母に言った。
「お礼なんかいいんだよ、おばさん。みんな好きでやってんだから」
 飯場暮らしをしていると、だれでもつい言葉づかいなどかまわないようになりがちだけれど、母はいつも周囲のがさつさに染まないように心がけ、日常の挨拶にも細かく気を配りながら、礼儀正しい雰囲気を保とうとしていた。
「そうだよ、おばさん。俺たちはキョウちゃんに買ってやりたくてそうしただけだから」
 小山田さんの言葉に、荒田さんがうなずき、
「で、キョウちゃん、きょうはどんなふうにみんなを驚かしたんだ?」
 もう一度私にきょうの手柄を繰り返して話させた。今度は母も神妙な顔をして聴いていた。楽しい夕食になった。
 その晩から、素振りを百本から百五十本に増やした。一本、一本、風切り音をたしかめながら、事務所の門灯の前で心をこめて振った。喜びがからだの隅々まで沁みわたり、目の前の築山も、草のシルエットも、×の字に鉄棒を掛け渡したバラックのトタン壁も、すべてのものが輝いて見えた。
「ホームラン王、風呂にいくぞ」
 バットを振っていると、クマさんが誘いにきた。
「俺には野球はよくわからんが、みんながあれほど興奮してたところをみると、キョウの才能は並じゃないんだな」
 一日褒められどおしの私は、なぜか急に恥ずかしくなり、
「グローブを寝押ししなくちゃ。たっぷりグリースを塗りこんで、丸めたタオルを挟んで、それを枕の下に敷いて寝るんだ」
 クマさんの先に立って風呂場に向かった。


         七

 生まれて初めてお年玉というものをもらった。年の暮れに里帰りしてしまう社員たちは、クリスマスを過ぎたあたりからぽつぽつお年玉をくれる。平均して一人三千円ほど。十円二十円を単位にしてしかお金に関する想像を働かせられない私には、非現実的な額だ。それを合計した金額となると、母の月給の二倍にも三倍にもなることはまちがいない。
「ふつうの家なら、百円、二百、多くても五百円がいいとこ。なんていう気前のよさだろうね」
 野辺地では、大人が子供にお年玉をやる習慣はない。横浜でも、お年玉という言葉を聞いたことがなかった。名古屋ではこれが初めて迎える正月だ。それなのに、どうして母はふつうの家のことを知っているのだろう。ともあれ母は、これまで私にその百円もくれたことがない。
 大晦日の夕方、リサちゃんが、
「おとうさんから」
 と言って、お年玉袋を届けにきた。五千円も入っていた。
「どうなってるんだろうね。いくら貯まったの」
「三万円くらい」
「渡しなさい」
 と命令する。母は私がランドセルの底に放りこんでおいたそのお年玉を、根こそぎ取り上げた。
「あの人たちは、ふだんの私の働きに感謝して、おまえにお年玉をくれるんだよ。だからこのお金は、ほんとは私に渡るはずのものだったの。おまえはただの中継点」
 母が心にかけているただ一つのこと、それはたぶん、息子がなけなしの給料を落としたあの夜からずっと、先ゆきを不安に思いながら励んできた貯蓄だった。それは吝嗇の自覚を越えて、無意識の哲学にさえなっていた。
「母ちゃんは、金の亡者になっちゃったね」
「なんだって! それが親に向かって利く口か!」
         †
 松の内を越して、ほとんどの社員が故郷から戻ってきた。三学期が始まり、野球部の練習は週日のランニングだけになった。それからひと月も経たないうちに、すぐに春休みになった。二週間ほど野球部の練習もなかった。
 ある日曜日の午後、ガスストーブを効かせて社員たちが麻雀を打っている娯楽部屋で寝転んでいるうちに眠くなった。一眠りして起きたら、チンボ起ちしていた。ストーブは消え、男たちの姿はなかった。前屈みになって食堂にいくと、だれもいない。女二人、夕食の買出しに出たのだろう。最近カズちゃんは、家にいるのがつまらないと言って、日曜日にも出てくる。
 裏戸を出ると、カズちゃんが背中を向けて風呂の焚き口にしゃがみこみ、口を押さえながら灰を掻き出していた。買出しにいったのは母だけのようだ。事務所の石炭ストーブの掃除もカズちゃんがする。明るい人なのに背中はさびしそうだ。
 足音を忍ばせ、石炭置き場の裏の便所へいく。ちょうどみんな出払っている昼下がりで、日当たりの悪い小便所のあたりに人影はなかった。上に飛ばないように前屈みになって小便をしていると、どこからか、プンと尖った鉄錆(さび)のにおいがしてきた。三つ並びの端っこの大便所の戸が開いて、畠中女史が出てきた。なぜか目顔でうなずき、私の尻を指でギュッとつねった。
「ふふっ」
 へんな目つきで忍び笑いをする。
 ―チンボ起ちを見られてしまった。
 私は屈んだ格好のまま、彼女の意を迎えるふうに笑い返した。柔らかい手のひらが頭を撫でた。
「不便ねェ、男って」
 畠中女史は小さいイヤリングを揺らしながら、そのまま気取った歩き方で事務所へいってしまった。鉄錆に混じった香水のかおりが鼻先をよぎった。
「ありゃ、堅物(かたぶつ)で有名な女だ」
 いつかクマさんが言っていたことが信じられなかった。私はチンボが静まるのを待ちながら、しばらくぼんやり屈んでいた。収まる気配がないので、チンボの皮をむいたり戻したりしてみた。みぞにこびりついている真っ白い輪が見え隠れする。さっきよりも勇み立ってきた。そのまま皮が戻らなくなった。チンボの先が赤黒くなってくる。
 ―たいへんだ! 
 痛みをこらえながら猫背のまま部屋に戻り、からだをくの字にして畳に横たわったら、スルッと元どおりになった。あんなにパンパンにふくらむとは思わなかった。皮が戻らなかったのは、チンボの先がふくらみすぎたせいだ。おっかない。もうおかしなことをするのはやめよう。
 その夜、クマさんと吉冨さんと三人で風呂に入った。彼らの黒々としたくさむらがまぶしい。あらためて確かめると、クマさんも吉冨さんも、垂れ下がった茶色いチンボの先がきれいにむけて堂々としている。白い輪もついていない。二人に思い切ってきょうの事件のことを言ったら、ひとしきり大笑いになった。
「キョウ、それはな、恥垢(ちこう)っていうんだ。汚いからよく洗え」
 先の部分をキトウというのだとも教えられた。
「クラスにキトウって女の子がいるけど」
「それ、鬼の頭と書くんだろ。これはカメの頭だ」
「キョウちゃんのチンボは、カメというほどのもんじゃないぞ。雀だな」
 愉快そうに吉冨さんが笑う。
「スズメ、スズメ、お宿はどこだ」
 クマさんはふざけて、私のチンボを指の腹で叩いた。
「皮かむりは男の恥だぞ」
「荒田さんも、小山田さんも、むけてる?」
「ああ、むけてる。キョウもいずれはむける。心配するな」
 ふと、私はクマさんに、
「きょう畠中さんがウンコして出てきたら、鉄の錆みたいなにおいがした」
「それはな、ウンコじゃなくて―ま、そのうちわかる」
 クマさんはそれきり話をうっちゃり、吉冨さんに向かって思い出したように言った。
「荒田の野郎、まだ童貞だとよ。自分じゃ女嫌いだなんてほざいてるけど、頭で考えるだけで嫌いだっていうなら、そりゃ、ぐうたらな証拠だ。女なんて、四の五の考えずにかわいがってやりゃいいんだよ。立派なものを持ってるんだしな。くだらないことを知ったようにしゃべるのは、あいつがお人好しだからさ。お人好しってのは、まじめ腐ったことをしゃべる自分に満足してるアホのことだ」
「熊沢さんも、女嫌いじゃないんですか」
「俺は一穴(けつ)主義だ。一人の女に操を立ててるからな。俺だっていまの女に会うまでは遊(ゆう)冶(や)郎(ろう)の時期があったんだ。その俺だからこそ、言えた義理だ」
 私には難しい会話だった。ただ、その叱咤調の言い回しの中に、お人好しの荒田さんに言い聞かせようとするやさしい響きがあった。立派なものというのは、きっとむけている大きなチンボのことだろうと思った。
 風呂から上がると私は、すぐ蒲団に横たわり、萎れた皮を引っ張って、男の恥である皮かむりを治そうと、両手で撚(よ)るように揉んでみた。
 ―伸びろ、伸びろ、チンボの皮よ、伸びろ。
 チンボが膨らみはじめ、皮が後退して、撚るのが難しくなってきた。昼間の恐怖が戻ってくる。それでも無理につづけていると、とつぜん、腹の奥からするどい痛みが貫いて、チンボの先から白い液体が勢いよくほとばしり出た。下腹のあたりが熱く痺れたようになり、ピュッ、ピュッ、と水鉄砲みたいに畳の上に何度も飛んだ。止めようと焦って先っぽを握りしめると、ピリピリして触っていられない。私は畳の上のその得体の知れない液体をじっと見つめた。いままで嗅いだこともない濃密なにおいが立ち昇ってきた。何か危険な、抜き差しならないことが起きた感じがして、あわてて手のひらで畳を拭った。それでにおいは少し弱くなったようだったけれども、白い液体は畳の目に入りこんでしまった。
 ―このままにしておけない。……どうしよう。
 わけのわからない心配が胸にもつれてきて、畳に新聞紙を拡げ、恐怖を押しこめるように、その上から布団をかぶせて敷いた。頭の中でめまぐるしく人生の秘密が旋回した。ドキドキするような、おぼろげな秘密―。
 素早い暗示がひらめき、社員たちの部屋に転がっていた極彩色の雑誌につづいて、いつか幼稚園の広間でお昼寝をしていたとき、みちこ先生の股の奥にのぞいた黒い大揚羽を思い出した。いま感じている暗示は、その生暖かい闇を眺めたときに抱いた予感と一致するものだった。
『きっとあの大揚羽は、この痛いほどの刺激や、白い液体と関係があるのだ』
 もう一度布団を畳み、新聞紙をめくり上げて、裏にくっついた牛乳のような液体をしげしげと眺めた。こんなものが自分のからだから出てきたことが信じられなかった。私は新聞紙で畳の目をこそぐように丁寧に拭き取ると、ぎゅうぎゅうに丸めて裏の大便所に捨てにいった。
         †
 夕方の素振りの練習を一日も欠かさなかった。百五十本の素振りは重要な日課で、それをしないと、なんだか一日の締めくくりがつかない感じだった。一本、一本、きちんとフォームとバランスを意識しながら振る。苦手な外角の低目をとくに入念に、レフト前へ打ち返すイメージで手首を押し出し、軸足を残して振る。それが終わったら、左右の片手振りを三十本ずつ、六十本。合計二百十本。いずれ、両手振りを二百本、片手振りを五十本ずつ、合計三百本にしようと思っている。
 ボールを遠くへ飛ばす才能―だれにも与えられるわけではないこの宝物が、よりによってこの私の小さいからだに与えられたことがうれしかった。きみは天才だね、と高辻先生も服部先生も言った。私はその言葉をほんとうであると恃(たの)むしかない。恃んで、ボールを遠くへ飛ばしつづけるしかない。私には野球しかないのだから。
 春休みも終わりに近づき、先輩たちの新入部員の勧誘とともに、野球部の春期練習が始まった。秋の終わりに私が入部したときには、すでに六年生はいなかったので、長崎も吉村もこの春、新六年生になる。そして、九月には退部する。部員の勧誘は彼らの義務だけれど、そんな努力をするまでもなく、十人も新入部員が集まった。服部先生が私の肩を叩きながら言った。
「神無月、きみの派手なバッティングを、どこかから見てたやつがたくさんいたということだぞ。強打者なだけじゃなく、野球部の広告塔だなあ。これからも、みんなを引っぱっていってくれよ」
 毎日自分のことだけで忙しい自分が、どうやればみんなを引っぱっていけるのかわからなかった。それでも私は元気よく、ハイ、と応えた。
「神無月、もうすぐ五年生だ。新四番バッターとして打ち初めしろ。十本打て。新入部員を驚かしてやれ」
「はい!」
 今年最初のフリーバッティングだ。レギュラーがばらばらと守備に散る。バットを二本まとめてブンブン振り、一本を投げ捨ててバッターボックスに入る。
「ぜんぶ直球でいくぞ」
「わかりました!」
 長崎もひさしぶりの全力投球なので、ショートバウンドが多かった。ストライクのコースにきちんと入ってきた中の六本を、今年から張られた三階校舎の金網に打ち当て、一本を屋根の向こうに飛ばし、一本をレフトの校舎の金網に打ち当てた。練習の成果だ。残りの二本は、速球に押された高い内野フライだった。その二本のときだけ、長崎は満足そうに胸を張った。
「最初の勝負は、二勝八敗だ。あと十本いくか?」
「よし、神無月、長崎、デモンストレーションはそこまで! 漫画みたいだな、みんな声も出ないぞ」
 服部先生が新入部員を集めた。
「どうだ、びっくりしたか。いま投げたのがエースの長崎、打ったのが四番の神無月、受けたのは吉村だ。神無月は五年生だぞ。おまえたちと同学年だ。この三人を中心に、千年は市内優勝を狙うからな。今年の千年はちがうんだ、いいか!」
「はい!」
「よし、レギュラー、一人ずつ交代でフリーバッティングをつづけろ。新入部員は外野の後ろに回れ」
 長崎と吉村は控えの選手と代わった。一塁側のベンチ前で二人して軟投を始める。五人しかいない最上級生の補欠部員が、新人たちを率いて外野の後方に並んだ。私は彼らに混じってレフトのレギュラー選手の後ろについた。彼の名前はまだ知らなかった。来月にはコンバートされるか、補欠に回される選手だった。彼は私を振り返ろうとしなかった。少し気づまりだった。


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