三十八

 二十八日火曜日。夕方の四時まで図書館で勉強してから、カズちゃんの描いた略地図を手に文江さんを訪ねていった。文江さんが引き移った家は、笹島から太閤通を大門へ向かって二駅いった、笈瀬通の電停のそばにあった。大誠寺という小さな寺の門前の露地を入ったところにある洒落た平屋で、玄関の軒に鈴蘭燈が下がり、横並びの六畳二間の縁先に狭い庭もついていた。便所は和式の水洗で、台所は四帖半だった。近所に銭湯もあった。
 訪ねた初日の夕方に、さっそく二人肩を並べてその銭湯へいった。柄にもなく善行をしているという意識があって、すがすがしい入浴になった。善行? 何さまだ。
 帰りに年季の入った店構えの喫茶店に入ってコーヒーを飲んだ。文江さんの一つひとつの挙措や視線から深い恋心が伝わってきた。善行ではすまない。真剣に愛し返さないと。
「お寺さんに見守られたきれいなおうちです」
「これまでは、御宿泊千円、御休憩六百円なんて看板の掛かった旅館街に暮らしてたんだものね」
「立派な着物に着替えたみたいな気がします。家賃は八千円で少し高目やけど、お給料が日曜手当ても入れれば三万二千円やから、じゅうぶんやっていけます。和子さんには五十万円も貸してもらって、十年で返せばええやなんて、ただでいただいたようなもんです。キョウちゃんのおかげ。感謝しとる」
「ぼくのおかげじゃない。文江さんのラッキーだよ。ぼくもトモヨさんも、いや、節ちゃんも、カズちゃんから幸運をもらった。彼女は現人神(あらひとがみ)だ。彼女にこそ感謝すべきだ」
「和子さんは、キョウちゃんを好いとる人にしか運をあげないエコ贔屓の神さまやよ」
 私はきょう初めて笑った。
「ほんとだ。それじゃ、ぼくを好きになる人がたくさん出てきたら、すごく彼女の負担になるね」
「申しわけないと思ってます」
「でも日曜日まで働くなんてね。仕方ないか、書き入れどきだから。生活していくには何かの組織に属して、そこの都合に殺されなくちゃいけないんだものね。ぼくもいずれそうなる」
「キョウちゃんの入る組織って、プロ野球のことでしょが。好きな野球ができるなら、どんな都合も楽しいものやろ。殺されたことにならんのやない?」
「そうだね、たしかに。節ちゃんと連絡は?」
「知多の日赤病院の寮へ手紙出したんやけど、あっちからはこん。キョウちゃんにも、私にも顔向けできんものね。その分、しっかりお勤めしとるんやないの、勉強しながら」
「だといいね」
「逃げてばっかおる子やから、心配やわ。いいかげん腰据えて正看の資格取らんと、使い回されるだけの看護婦になってまう」
「好きな仕事なら、使い回されてるほうが幸福じゃないかな。……しかし、不思議な縁だね、ぼくたちは」
 なぜか急に目の奥が熱くなったので、うつむいた。
「キョウちゃんは年上の女ばっかりと。……私なんか三十も上やわ」
「男と女って、そんなもんじゃないな。ぼくは年上の人ばかりとなく、小学生としたこともある。いたずら心からじゃない。真剣な女ばかりだったから、真剣に応えた」
「小学生って! できるん?」
「ふつうにね。文江さんのように強くイッたよ。愛情とセックスの強い悦びは深い関係があるんだ。年齢じゃない」
「……そのとおりやと思う。私もキョウちゃんとしたとき、からだがおかしなって、好きで好きで死にたなったもん。それなのにね、奇妙な話やけど、そのあと、セックスなんかどうでもええって気持ちが残ったんよ。キョウちゃんさえおればええって」
「ぼくは、いつもそういう気持ちなんだけど、つい……」
「したくなるんよね。しょうがないわ。若いんやから。こんなオバチャンでも、口じゃえらそうなこと言っとって、やっぱり夢中になったもの。……でも、そういうことじゃないんよ。私にはキョウちゃんが宝物やいうこと。私にとってほんとの宝物は、キョウちゃんという人なんよ。そばにいてくれて、ときどきしゃべったり、笑ったり、食べたり、いっしょに歩いたり、遊山したり、それが幸せなんよ。できるかぎるキョウちゃんのそばにおることだけが願い。きれいな声を聞いて、胸がいっぱいになったり、なんやら覚悟ができたりするのがうれしい。そして、キョウちゃんがしてくれるなら、どんな強いセックスをしても期待に応えられるように自分のからだを作りたいって思う。そういうことに努力しながら生きていくのが私の幸せやと思うんよ」
 世間と心中するやつに宝物はやってこない―山田三樹夫はそう言った。彼の言った世間というのはたぶん、世間の人びとの思惑という意味だろう。文江さんが心中しようとしている私に、世間の思惑以上の価値があるのだろうか。私と心中するくらいなら、世間の人びとと心中したほうがましのような気がする。もしある人間に世間的な価値以上のもの、たとえば気長で崇高な仕事、無から何ものかを創り出す術、もしそんなものがあるとしても、自分の都合がある他人はそれと心中できない。ましてや私のような世間並にもなれない愚か者と心中しようとするなど、それこそ愚の骨頂だ。世間から孤立しようと構える私には、孤立しつづけるための知識すらない。あるのは、いまではほとんど消えかけているなつかしい過去、闇に迷う遠い灯とでもいったふうに、わずかに記憶の底深く揺れている明るい過去、滑らかに回る歯車のように過ぎていったもの。
「ぼくに期待しちゃだめだよ。ぼくは廃人だよ。つまり、ときどき集団の中へ引き上げられるかもしれないけど、その集団の中でうまくやっていけない落ちこぼれだ。つまり無能者だ。助けてやらなくちゃいけなくなる。それは厄介だ。心中してやらなくちゃいけなくなる。命取りだ。いつでも見かぎる用意をしてなくちゃ」
「そんなこと! 私がつかんだ幸せは、ぜんぶキョウちゃんのくれたものなんよ。廃人がそんなものプレゼントできるはずがない」
「廃人だから、できるんだよ。何の集団にも属したがらない、そして命を惜しまない、いや、惜しくない廃人だからできるんだ。集団に活かさない命なんて、惜しまれるものじゃないからね。その分、たっぷり愛する者に注ぐことができる。女の愛に応えるのは命懸けだ。こういう依怙地な廃人は、この世にほんの少ししかいないかもしれない。でも、少しだろうとかならずいるんだよ。当たったら不運だ。文江さんはぼくに関わり合ってちゃいけない」
「関わるのが幸せなら、どうしようもないでしょ。私さえそのことがわかっとれば、だれもこの幸せを奪えんのよ。キョウちゃんが廃人なら、和子さんも、トモヨさんも、みんな廃人の世話人でしょ。キョウちゃんを見かぎるなんてとんでもないわ」
 何を言ってもむだのようだ。彼女が選択したことだ。選択して、彼女のいまがある。何があろうと、文江さんにとってこれが真実だ。彼女は悲しみの底でそう思っている。たとえ私を失っても、愛したことがないより愛して失うほうが幸せだと思うだろう。愛を知らなかったセメントの心に熱い愛が落ちると、セメントが融け、深い跡が残って固まる。
「きょうは帰るけど、今度会うときは、セックスしようね」
「はい!」
 鈴蘭燈まで戻って、自転車に乗り、手を振る。わずかに膝を折って手を振り返す姿が節子にそっくりだった。
         †
 二十九日水曜日。一度ぐらいソフトボール大会の練習に参加してみようと、カバン携行で西高へ出かけた。大会はあしたから二日間。私がきたので、フリーバッティングだけの練習になった。生まれて初めて右打席で打った。ポップフライばかりだった。
「北の怪物って、その程度なの」
 平岩が言う。鴇崎も疑わしい眼つきをしている。
「ぼくは左バッターなんだ。大会では、ちゃんと左で打つよ」
「とにかく打って見せてよ。この目で見なけりゃ信じられんがや」
 うるさいので三本、左で打った。三本つづけてライナーで渡り廊下を越えていった。みんなシンとなったので、
「じゃ、帰るね」
 私はベースも回らず、自転車置場へいった。
 五時まで西図書館で勉強し、市電路に自転車を走らせる。頬に当たる風がもうだいぶ暖かくなってきた。
 ―やっぱり立っている。
 大門の街頭にポツンとたたずんでいる素子に手を振る。彼女は私に気づき、道を渡って走ってきた。二回目の逢瀬だ。
「いま春休み中なんだ」
「いつまで?」
「四月の五日まで。一度映画にいって、うなぎでも食って帰ろう。四月三日の月曜日、午前中に、十時までにはここにくる」
「うわあ、楽しみ! 四月三日月曜日、十時やね」
「うん、かならずくるからね」
 中村公園の奥まった小暗い林で後背位のアオカンをする。素子は何度目かの気をやり終わったとき、激しく胴ぶるいしながら、アクメの収縮に合わせて間歇的に小便をした。からだが林の冷気で凍えていたのだろう、自然とそうなった様子だった。私は興奮し、彼女が小便をしているあいだに射精した。
 おたがいからだを暖めるために、鳥居のそばの喫茶店に入って、ホットオレンジを飲んだ。ナポリタンを食べる。
「素子といると驚くことばかりだ。神社の木の根にたっぷり栄養あげたね」
「アハ、キョウちゃん、へんなことに興奮して、プクーッて大きくなるから、オシッコしながらイキつづけてまったわ。あたし、イクとき、丸くなろうとするでしょ。きょうはそれができんで、苦しかった」
 私は一呼吸置いて言った。
「一年後……来年の春に東京へいくよ。東大を受けるんだけど、もし受かったら、もう名古屋にはたまにしか帰ってこれない」
 素子は一瞬ギョッとした表情になったが、すぐに柔らかな笑いを取り戻して、
「そう、キョウちゃんは東京にいくん? じゃ、それからは、もう年に一回ぐらいしか逢えんようになるね」
「……素子は、ぼくのこと好きなんだね」
「好きやよ。生きてきて、出会った男の中でいちばん好き」
「ぼくが東京いったら、どうする」
 さびしそうにうつむき、
「商売せんと食っていけんし。いややけど、駅裏で立ちん坊するしかないわ」
「北村の娘さんに頼んで、トルコに勤めさせてもらったらどう? 収入は安定するんじゃない?」
「そうやね。トルコなら、どうせ募集かけるから、頼まんでも就職できるよ」
「いつから営業?」
「来年でなかったかなあ。……来年の春まで一年間は、あそこでキョウちゃん待っとるよ。月曜日だけにするわ。これんときは、無理せんでええよ」
「七時まで待ってこなかったら、引き揚げてね」
「わかった。私が商売せんと、家が生活できんようになるから、ほかの日は駅西に立つことにするわ。区画整理で立ち退かされたら、結局トルコに入るやろな。トルコは寮と食事がついとるから助かるんよ。……ごめんね、あれから二人、お客を取って試したんよ。思ったとおりイカんかった。いままでと同じやった。それで、やっぱり商売しようって決心したわけ。あたし、キョウちゃん、裏切っとらんよね?」
「ぜんぜん。かえって安心した」
 私は心から笑った。素子も笑った。
「東京へいったら、住所を教えてね。たまに手紙書くから。そして、気が向いたら、ハガキでもくれん?」
「ぼくは筆不精だから書かない」
「うん、わかった。じゃ、あたしも書かん。キョウちゃんを煩わせるから」
 なぜか深い幸福感を覚えた。素子は西栄町まで送ってきた。


         三十九

 じっちゃから手紙がきた。一向に音沙汰がないが、つらい思いをしておりませんか、という書きだしだった。

 好事門を出でず、醜聞万里を走る。おまえには気の毒なレッテルが貼られているから生きにくいだろうと慮る。野球の名声を待つまでもなく、くだらないレッテルなどいずれ剥がれる。おまえの良い点は、見る者が見ればかならずわかるから、自分に自信を持って生きるように。
 
 読みづらい崩し文字だったけれども、どうにか読み取れた。レッテルというのは、中学生のくせに、色ごとで親もとから放逐されたとか、奇人の母親の言いなりになっているといったような、たわいもないものだろう。そういった風聞は恥としていつまでも消えないと思っているのだ。古山が送ってよこした東奥日報の連載記事にも、そんなことが好意と同情をもってチラリと書かれていた気がする。じっちゃの澄んだ眼差しと、時おり見せる破顔を思い出した。その澄んだ目で大げさに考えすぎている。
 それでも、ありがたい気がして、返事を書いた。いつまでも私のような半端者を思ってくれることへの感謝と、自分なりに懸命に生きているけれども、秘密の多い暮らし方をしているので、貼られたレッテルどおり醜聞にまみれて生きることになるかもしれない、という正直な気持ちを書きつけた。正直に書くことで、やさしい老人の気遣いに応えたかった。秘密とは何のことか、じっちゃにはわからないだろうと思った。ばっちゃによろしく、と書いて、目が熱くなった。
         †
 三十日のソフトボール大会は、降ったり止んだりの小雨の中で行なわれた。十度前後の気温で寒くはなかった。四番打者で出場し、四打席ともホームランを打った。すべて渡り廊下を越えるように狙って打った。レフトを守ったが、力をこめて返球するとだれも捕球できないとわかって、山なりで返すようにした。三塁を守っている平岩がへんにライバル意識を露わにし、ゴロを捕るプレーを華麗に見せようとしていたが、無様なことに送球がほとんどファーストに届かなかった。軟式野球部の四番打者の丹羽も三番バッターで出場したが、力まかせに振るばかりで、ボールは外野の定位置まで上がるか、お辞儀をしてライナーのヒットになるかだった。
 たとえソフトボールでも、ホームランというものはだれにとっても魅力的なもののようで、私の打球が空に舞い上がるたびにドッと歓声が沸いた。二試合入り混じって、同じ時間帯に同じグランドを使うせいで、別の試合のボールが転がってきたり、外野手がフライを追って突入してきたりした。そんなどさくさした中でも、北の怪物の打席になると、ほかの試合が中断されて、グランドじゅうが見入っているというふうだった。勝ち抜き戦ではなく、五回の裏が終わると、勝敗と関係なく、順繰りで対抗クラスを交代していく一試合こっきりのレクリエーション大会だった。おかげで、優勝のプレッシャーがなく、私に打席が回ってくるたびに、敵も味方も固唾を呑んで観戦に興じるというふうだった。
         †
 ふたたび私は冬眠する熊のように部屋に閉じこもった。読書に渇(かつ)えていたからだった。図書館にもいかず、漱石に没入した。草枕、二百十日、野分。前衛ふうの美文調でなくなり、肩が凝らずに読み進めることができた。高々六十年前の小説かと思うと親しみも湧いた。
 草枕は、淡い旅先の雑記と、得意の幻想だった。熊本が舞台。有名な冒頭につづいて《人の世が住みにくいからとて、越す国はあるまい。どこへ越しても住みにくいと悟ったとき、詩が生まれて、絵ができる。住みにくき世から、住みにくき煩いを引き抜いて、ありがたい世界をまのあたりに写すのが詩である、絵である。あるいは音楽と彫刻である》と書かれる。この芸術至上主義にぼくはこの数年疑いを抱くようになった。住みづらいこの世でどのように遁世するかが関心事だ。
 二百十日。短い。これも熊本が舞台。小説の大半が圭さんと碌さんの会話で成り立っている。漱石の権力批判。阿蘇山での遭難話。
 野分。才気のない目立たない作品。
 シロが、悲しげな顔で毎日窓辺までやってくる。かならずいっしょに散歩をしてやる。母に頼まれれば風呂の掃除をし、インコに水と餌をやり、食堂の床や三階棟の廊下を掃くこともする。それ以外の時間はひたすら本を読んだ。
 古本屋からすべての新書を運び切った。長編虞美人草にかかる。
 二人の女に優柔不断な態度しか見せられない、後ろ暗い〈やさしい〉男、小野。人間を冒す毒。いっぽう、女好きしない、豪放で真実味にあふれた男、宗近。構図は簡単だ。物語の末に近いあたりで宗近が小野に放った真摯な科白が響いた。
「……まじめとはね、きみ、真剣勝負の意味だよ。やっつける意味だよ。やっつけなくっちゃいられない意味だよ。人間全体が活動する意味だよ。口が巧者に働いたり、手が小器用に働いたりするのは、いくら働いたってまじめじゃない。頭の中を遺憾なく世の中へ敲きつけて初めてまじめになった気持ちになる。安心する。……ぼくはきのうも、きょうもまじめだ。きみもこの際、一度まじめになれ。人ひとりまじめになると、当人が助かるばかりじゃない。世の中が助かる」
 しかし……そううまくはいかない。板ばさみはいつの世も簡単に解消しない。
 ときどき、読書に疲れると、数学の教科書を舐めるように検分し、章末の練習問題を納得がいくまでじっくり解いた。そうして深夜には、疲労で目がニチャつくまで詩稿を練った。詩は書かなかった。
 山口へ便りを出すことも忘れ、信じられないことに、カズちゃんのことさえ思い出さなかった。母や社員たちは、私が閉じこもっているのを、最終学年を控えての集中的な予習と勘ちがいして、バラックの部屋に近づいてこなかった。彼らは朝食と夕食のときだけヌッと青白い顔を出す私を見て、
「最初から飛ばさないほうがいいぞ」
「東大にトップで受かる気か」
 などとやさしく諌めた。山崎さんだけは片目をつぶって、
「溜まってるんじゃないか」
 と、だれの目にもそれとわかるからかい方をした。母が渋面を作った。
 そんなある日、カズちゃんが予想していたとおり、あの東奥日報の記者が飛島寮にやってきた。四月が明けたばかりの曇り空の日曜日だった。
「東奥日報の浜中と申します。青森高校の石崎先生にここの住所を聞いてまいりました」
 食堂の入口に立ち、頭を下げる。ヒゲ剃り跡の青々とした丸顔に、きちんと背広を着こみ、重たそうなデンスケを肩から提げていた。
「やあ、神無月さん、大きくなりましたねえ」
 にこやかに笑う口から、煙草を吸いすぎて黄色くなった乱杭歯が覗いた。大沼所長が、
「キョウはだれにも会わんぞ。あらかじめ伺いも立てず、失礼だ。帰りたまえ」
 と撃退の姿勢に出た。佐伯さんが立ちはだかり、三木さんたちも凄みを効かせようとした。私はあわてて、
「あ、その人は野球関係者じゃないんです。東奥日報のかたです」
「なんだ、新聞記者か。突撃インタビューだな」
「いえ、何度か連絡させていただいたんですが、電話を途中で切られてしまって」
 母は台所から動かなかった。社員たちはチラッとそのほうを見たが、すぐに視線を戻した。浜中は母を気にしていなかった。彼は名刺を人数宛て配り、
「昨年、神無月くんについて私が書いた記事です」
 と言って、何枚かのコピーをテーブルに置いた。みんなテーブルに居並んだ。記事を読み合い、ざわざわと和やかな雰囲気になった。シロが記者の足もとにまとわりつき、インコがうるさく鳴いた。飛島さんが所長とうなずき合い、
「これはいい記事ですね。浜中さんは郷くんに惚れこんで書いてる。未来を暖かく見守るという姿勢が通俗的じゃない」
「ありがとうございます。今回は『神無月くんのいま』という記事を書くために、取材にまいりました」
 彼は佐伯さんに椅子を勧められ、重たいデンスケを大事そうに足もとに下ろすと、マイクをテーブルに置いた。まだスイッチは入れずに、あらためて立ち上がり、
「神無月くんおひさしぶりでした。あの大選手が、ほんとにひっそりと暮らしてらっしゃるんですね。こちらでの生活は順調ですか」
「きわめて順調です」
 山崎さんが、
「一番だよ、学校の一番。毎日図書館にかよってな、まじめそのものだ」
 母が全員にコーヒーをいれた。また台所に引っこむ。記者がテープレコーダーにスイッチを入れ、手帳を取り出した。
「名古屋西高に転校なさったんでしたね。硬式野球部はないんですね」
「はい。むかしあったそうですが、いまは軟式野球部しかありません。二流の受験校ですが、文武両道の気風はなく、みんなガリガリ勉強するだけの県立高校です。クラブ活動などという余技には力をこめていません」
「野球をするチャンスはない、と」
「先日、ソフトボール大会に出ました。四打席四ホームラン。ぜんぶ百メートル以上飛ばしましたよ」
 ホーという嘆声の中で、浜中は悲しそうな顔をして、
「宝の持ち腐れというやつですね。観てるほうは楽しいでしょうけど……。そういう坦々とした生活の中で、何か人間関係の発展といったものはありますか?」
「ありません」
 ウハハハと所長が笑い、
「俺たちとは発展してるぞ。なんせ、キョウが大好きなのは、飯場と土方だからな。変わった男だよ」
 三木さんが口をへの字に結んで、
「キョウちゃんが最終的にやりたいことは胸中に秘めているとしても、いまはひたすら勉強に打ちこむ時期だと考えているようです。そのことを理解する周囲の人たちが、勉強の環境を親身になって整えています。その意味では、いい人間関係の発展を遂げつつあるということになるんじゃないかな」
 佐伯さんが、
「郷くんは、遅くまで本を読んでます。部屋は本だらけです。万能なんですよ。すごい努力家でもあるし。ぼくは強い影響を受けてます」
 山崎さんが呆れ顔で、
「とにかく、まじめだよ。色気がないのが玉に瑕だ」
「色気と申しますと?」
「女ッ気がないんだよ。もうすぐ十八歳だぜ。かわいそうになってくるよ」
「はあ、たしかに」
 ドッと笑い声が上がった。母だけが笑わなかった。記者は熱心に手帳に鉛筆を走らせている。色気、というのまで記事にするのだろうか。飛島さんが、
「あえて、いまそういうことは考えなくていいんじゃないですか。追々……」
「追々って、いつだ。自分の十八のころを考えてみろよ。遊んだ口だろ」
「それは……」
 所長が、
「ヤマ、キョウにはトラウマがあるんだ。けしかけるな」
 浜中はトラウマの件は深追いせずに、
「十一月のドラフトにかけられませんでしたが、これは、今年が卒業の年度でなかったということと、神無月くんのプロ志望届未提出からもうなずけます。この秋には各チーム争奪戦になると思います。どういう心づもりでおられますか。やはりドラフトの拒否をつづけますか。もし、ドラフトを受け入れたうえで入団を断ると、そのチームにかぎり、翌年以降ドラフト勧誘はできないという規則になってますが。……神無月くんがいきたい球団だった場合、残念な結果になるんじゃありませんか」
 これがメインの質問だ。母がいる。慎重に答えなければならない。母が、
「そんな具体的なところまで事態が進んでいるんですか」
「いえ、進んでいません。進めることができません」
「なら、荒唐無稽な話は遠慮してください。プロ野球などと、この子の分際じゃありませんよ。学問の道を進むことを決意したばかりですから」
 ツノのある鬼面の相だった。浜中は呆然とした表情になった。それから、ハッと気づいたように眉を引き締め、
「何よりも、東京大学合格が先決でしたね。すべての話はそれからでした。すみません、先走ったことを言ってしまいました」
 公の報道機関に本音を語らないと、誤報されてしまう。プロ志望届は出さないがプロへいく意思はあると明言しなければ、中日ドラゴンズにも腰を引かせてしまう。そうなったら、この雌伏の意味はなくなる。しかし母の思惑がある。根本的なじゃまを入れられないように、浜中にサインを出さなければならない。ドラゴンズを信じている。新聞記事の一つや二つで私への関心を失うはずがない。私は浜中の目をことさら強く見つめながらしゃべった。話をドラフトへ逸らす。ドラフトは最終的な野球への到達と関係ない。
「青森でお話したとおりです。野球とは縁を切りました。ドラフトは拒否します。ドラフトにかからない以上、どの球団も入団勧誘をできないわけですから、形のうえでは勧誘をお断りしたということになります。このまま学問の道に進みます」
 母をチラリと見た。鬼面の相が和らいでいる。所長がうなずき、
「だいじょうぶ、なるようになる。少なくとも、東大は落ちないよ」
 浜中はすべてを納得したようにうなずいた。
「まだ記事として熟していないので、発表は次回に回そうと思います」
 飛島さんが私の意図を察して、浜中にあえて質問した。
「もっと、ドラフトの詳しい規則を教えてくれませんか」
 浜中はテープを止め、手帳を閉じると、
「高校三年でドラフトにかかった場合は、いま申しあげたとおりです。大学の場合は、中退しないかぎり、四年生の卒業年度にドラフトがかかり、一位指名の球団の誘いを断って社会人野球へいった場合は、その球団から三年間ドラフトがかかりません。その後、社会人チームをやめて浪人した場合は、ドラフト、個別交渉、あらゆる手段で誘いがかかります。大学中退の場合も同じです。ドラフトの一位指名も球団の個別交渉も蹴れば、実質、その球団の勧誘は終わります」
 ふたたびテープを回し、手帳を開く。佐伯さんが、
「郷くんはたぶん、学問をするために東大へいくでしょう。そこから先は、郷くんがみずから進路を選択するのにまかせるべきです」
 所長が、
「……キョウが、プロ野球へいける可能性があるのは、大学で野球をやり、卒業するにせよ中退するにせよ、その後ずっと野球をつづけた場合だけということなのか?」
 浜中は熱い視線で大沼所長を見つめ、
「いえ、実質、と申しあげたのであって、その後長く中断していても、たとえば東大卒業以降まで中断していても、神無月さんのような飛び抜けた大選手なら、声をかけてくるプロ球団はいくらでもあると思われます。ただ、野球をやりつづけていたほうが、勧誘されるチャンスが確実に大きいということにすぎません」


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