四十  

 所長はこの場の状況をすべて察したように、
「キョウ、クラブ活動でいいから、東大で野球をやりつづければいい。プロ云々というより、周りが喜ぶし、おまえの精神にも好影響を与える気がするんだよ。さ、インタビューは終わりだ」
 母が、
「人間には分があるからね……」
 そう呟いて台所へ去った。浜中は、
「すばらしい提案です。そうなると、たとえクラブ活動でも、六大学野球に確実に旋風が巻き起こるでしょうね」
 だれも私に野球をやめてほしくないのだ。私は思わず湧いてきた感激の涙をこらえ、
「クラブ活動だろうと何だろうと、とにかく、受かってからの話です。まず東大に受からなくちゃ。―かならず受かります」
 拍手が上がった。浜中は、台所の母に向かって、
「お母さん、とにかく大学に進学したあとは、郷くんの自由意志でクラブ活動をすることに反対なさいませんね」
 彼はおそらく、前もって名古屋の押美たちにいろいろ手を回して、下調べをしたのだろう。母を見る目に敵意がこもっていた。私は額に不安の汗を滲ませた。
「好きにしたらいいでしょう。その前に、ちゃんと受かってみせてくださいよ」
 浜中は一転して笑顔になると、デンスケを止め、手帳を勢いよく閉じて、
「西高の校長先生にアポを取って、インタビューしてから青森に帰ります。きょうはみなさん、ありがとうございました。しっかりした記事ができあがったら、十部ほど弊社の新聞をお送りします。じゃ、神無月くん、勉強がんばってください。またきます。そうですね、来年の春、東大に合格したころに、四、五日ホテルに宿泊するスケジュールでまいります。お母さん、失礼しました」
「佐伯、彼が泊まってる宿屋まで送ってやれ。その荷物は重たいぞ」
 浜中はデンスケを担いだ格好で深々と礼をし、
「は、畏れ入ります。ありがとうございます。みなさん、どうも失礼いたしました」
 私と社員たちはシロといっしょに門まで送っていき、佐伯さんのライトバンに乗りこんだ浜中に手を振った。母は出てこなかった。
 整備工場前の道路で三木さんや山崎さんたちと雑談をしているうちに、食堂で母に捕まっていた所長が出てきて、
「ブルーマウンテンを飲もうや」
 と言うので、みんなで八百屋の斜向かいにあるトロピカーナという喫茶店にいった。席に着くなり、所長が言った。
「クラブ活動にはまいったな。浜中氏もよく場の雰囲気を察して機転を利かせたよ。キョウの苦しい心境がよーくわかった。信ずること、望むこと、それが青年の特権だ。キョウの信じること、望むことに、俺は力を貸してやる。気持ちがどう変わっていってもな」
「気持ちは変わりません」
 意外に早く帰ってきた佐伯さんが顔を覗かせ、
「やっぱりここでしたか。いや、市電に乗ってみたいって言うんで、中村公園駅で降ろしてあげました。あの記者さんも、六大学が変わるって何度も言ってましたよ。郷くん、すまなかったね。大学いってからの進路は郷くんの自由裁量だなんて言って。進路はしっかり決まってるんだよね」
 所長が、
「いろいろ話したのか」
「はい、五分くらいですが。私でなく、彼がもっぱら。ひっそり暮らしてる郷くんに感激してました。彼が言うには、青森にいたころからそうだったが、たぶん郷くんは華々しく活躍することを嫌ってるわけではなくて、それに対する母親の反応に本能的な恐怖感を持っていて、なるべく自分を目立たなくしようとしてるんだろうということでした。目立とうとするのは、たとえ無意識であっても権力に近づくための野心で、かならずその野心を挫く母親とその仲間たちがいる、そういう人びとは才能や気骨に出会うと、それを殺すか、追い払うか、監禁するか、死ぬほどの苦しみを与えるものだ、郷くんはそれを直観的に見抜いて雌伏しているんじゃないかって。だから東大でなら、まさか野球で目立とうとして在学する人間なんかいないので、じゃまも入らずに自分の才能をあたりはばからず発揮できるし、プロにもしっかり注目されると思ってるんじゃないか、きょうの自分の行動は軽率だった、そんなふうに言ってました」
 山崎さんが、
「おお、たしかに危なかったな。飛島の切り返しがうまくいった。浜中氏もキョウちゃんとは関係のないプロ野球一般の説明に聞こえるように答えてた」
 飛島さんが、
「郷くんは野球のほかのことは何も考えてないんですよ。その道をじゃまされるのが面倒くさいだけなんだ。野球関係者からすれば謎の行動だ。なぜなんだろうって考えたくなる。浜中氏はすぐ悟ったようだったね。ぼくの質問にも無難に答えた」
 私は、
「きょうは必死でした。ここで野球が終わってしまったらたいへんだと思いましたから。野球をやめたというしかなかったんです。東大を落ちたとたんに、母はプロからの勧誘をすべてシャットアウトするでしょうからね。地獄の浪人生活です。たとえ浪人しないで飛び出しても、どこからも誘われない以上野球をするあてがない。浜中さんは、百パーセントわかってる目をしてました。と言うより、母を見て百パーセントわかったんです」
 所長が、
「野球をやめる? それが本心じゃないということは、いままでのキョウを見てればわかる。真剣さだよ、人間の格」
 山崎さんが私の肩を抱き締め、
「キョウちゃん、心配ない。東大に受かればすべて解決だ」
 三木さんがおどけて目を剥いて、
「いい男で、野球が天才で、おまけに東大か。冗談みたいだな」
「何か一つくれよ、キョウちゃん」
 山崎さんが言った。すかさず所長が、
「ないものねだりするんじゃない。ヤマは仕事ができるナンバーワンだ。出世候補だぞ」
「ほーい、せいぜい引き上げてくださいよ」
「地下鉄拡張の仕事が終わったらな」
 飛島さんがカウンターで静かにしていたマスターの顔に笑いかけ、
「ブルーマウンテン、置いてあります?」
 マスターは申しわけなさそうに苦笑いして、
「純正のは置いてないんですよ。純正のブルマンを出すのは、詳しくは知りませんが、東京の椿屋とか、ほかに二、三軒ぐらいじゃないですかね。一杯五百円はするでしょう。うちは、三百円です。ブルマンだけだと香りが強すぎて、ほかの豆とブレンドするのがふつうなんです。それでもいい香りですよ」
「それ、六人前」
 三木さんが、
「三十年ぐらい前に日本に入ってきたときには、英国王室御用達というキャッチフレーズだったらしいな。ブルマンの産地のジャマイカがイギリス領だったからなんだな。ブルーマウンテン山脈の標高八百メートルから千二百メートルの地域で採れる豆以外は、ブルマンと呼んじゃいけないんだな。たいていのコーヒー豆は個人経営の農園で栽培されてて質がバラバラだけど、ブルマンはジャマイカ政府が管理して栽培してるから、安定して質のいい豆が収穫できる。したがって高い。ウオッホン!」
「どうでもいい知識だ」
 山崎さんが三木さんの胸をドンとこぶしで突く。三木さんはそれをうれしそうに受け、「しかし、キョウちゃんはとんでもない有名人だったんだなあ。おばさんも何が不満なんだろう」
 所長が、
「佐藤さんは、才能というものを信じられないんだよ。才能イコール悪の道。そういう等式が、別れた旦那さんとの経験ででき上がっちまったんだろう。人間は一人ひとり調理ずみで生まれてくる。その味が似ることはあっても、同じにはならない。才能という味付けをまずいと感じれば、悪だと思うだろうし、無才という味付けをおいしいと感じれば、善だと思うだろう。ぜんぶ自分を楽しませる舌が感じることだ。佐藤さんは味音痴だ。俺たちでは助けられない。悪だと思われてるキョウのほうを助ける。俺たちの舌は味音痴じゃないからな」
 飛島さんが、
「ご主人は西松の一級建築士だったそうですからね。相当破天荒な人だったみたいだ。郷くんに重なってしまうんでしょう」
 山崎さんが憤然として、
「お父さんも、あと先考えずに没頭する優秀な人だったんだろう。破天荒だとか恥さらしだとか見かぎられて、父子していい面の皮だ。結果を考えずに全力投球するやつしかいい仕事はできないんだよ」
 出てきたコーヒーはうまかった。佐伯さんが感激したように、
「うまいよ! マスター」
 飛島さんが、
「植えた覚えのない花が庭に育つと言いますからね。おばさんには、花が草にしか見えないのかもしれないな」


         四十一 

 四月三日月曜日。素子との約束の日。社員たちが出たあとのおそい朝めし。母は口を利かない。卵入りの味噌汁をすすり、九時半にカバンを持ってバスに乗った。自転車には乗らなかった。中村公園前で降り、大門の辻まで歩いた。思ったとおり、十五分も早く、素子が立っていた。白いフレアーのミニスカートに白いシャツをたくしこみ、胸前でボタンをかけるピンクのカーディガンをはおっている。
「素子!」
「キャー、キョウちゃん!」
「よし、薄化粧しかしてない。やっぱり美しい目をしてる。ぼくは、似た顔の女優を連想するのが得意なんだ。そうだな、さしずめ、白木マリ。それよりもっときれいだけどね」
「だれ、それ」
「日活の女優。知らなくていいよ。さあ、まずうなぎで腹ごしらえしてから、映画にいくぞ。それからホテルに入って」
「キャ! まだ言わないで。新しい下着が汚れちゃうから」
 二十七歳とは思えないくらい、赤みの差した膝小僧が愛らしい。もちろん娼婦にはまったく見えない。
「感動したよ。忠犬ハチ公みたいにちゃんと待ってるなんて」
「みたいじゃなく、ハチ公そのものやもの、ご主人さま」
「朝の十時からうなぎを食わせてくれる店なんかないから、瀬戸へいくよ。三十分もしないで着いちゃう。ヒツマブシじゃない、ちゃんとした鰻丼を食わせる田代って店だ。図書館の雑誌コーナーでぺらぺらやってたとき、愛知県のうなぎ百名店というパンフレットで偶然見た」
 かわいらしいポシェットを振りながら、
「なんでカバンなんか持っとるの?」
「教科書入れと貯金箱を兼ねてるんだ」
 素子はきれいな歯を出して、おかしそうに笑う。タクシーを拾い、円頓寺商店街のそばの堀川駅に出る。瀬戸線の起点だ。小さな階段口から地下へ入る。素子の白いソックスと黒いローファが跳ねる。六十円の切符を買う。緑色の電車に乗りこむ。普通も準急も特急も始点から終点まで同じ時間かかるとという名物路線のようだ。市電のように狭い、がらがらの車内の真ん中の座席に向かい合って座る。
「私、デートなんて生まれて初めてやが」
「ぼくは、何をするにも最初で最後だと思ってる」
 地下を抜けて光の中へ出る。
「……最後なん?」
「デートは最後だ。受験で忙しくなるからね。月曜日も危なくなる」
「これからも月曜日に待っとる。来年の春からは東京へいってまうんでしょ?」
「ちゃんと報せにくる。落ちるかもしれないからね」
 素子は少し思案げに、
「最初にキョウちゃんに遇ったとき、自転車のそばにいた人、だれ?」
 私はにっこり笑い、あの女と二年ぶりに巡り会って、ふたたび別れ、暗い気分で大門の辻まできたとき、素子たちに声をかけられたこと、その女の母親と関係したせいで細ぼそと縁がつながっていること、母子の生活の改善に北村席の一人娘が大いに尽力してくれたこと。
「なんや、みんな私みたいに、キョウちゃんに惚れとるだけのことやが。なんも暗い気持ちになることあれせんよ」
「一刀両断だね。気分がよくて、腹へってきた」
 大津町、大曽根、三郷と過ぎて、尾張瀬戸に到着する。ひどく小さい改札口を出る。待合室にタイル貼りの太い柱が立っている。駅舎はこじんまりとしているが、石造りの立派なものだ。飾り気のない道の上を歩く。早春の風が吹いている。澄んだ空から青みを帯びた柔らかい光が降ってくる。空へ突き立つ雑木の丘の輪郭を眺める。輪郭の先端が灰色の空に滲む。蔵所橋というアスファルトの橋を渡る。名も知らない川の水面が銀色にきらめいている。たぶん瀬戸川という名前だろう。川沿いに陶器店が並んでいる。いつの間にか素子と手を握り合っている。
 二階建ての古い民家やアパートが多い。純和風建築の立派な個人宅もある。路地にはやつれた感じの喫茶店が覗く。路端には置き捨てられた水甕やコカコーラの看板。何を作っているかわからないが、工場が建っている。トタンが具合よく錆びた事務所。
 ポリスボックスの先の末広銀座と名づけられた繁華な商店街に入る。三角旗、成人映画館ロマン中央、洋品店、クリーニング店、精肉店。商店街を抜け、深川神社と浮き彫りにしてあるコンクリートの大鳥居をくぐると、地上にあるのに宮前地下街と書いてある軒の低いさびれた小路が一筋通っている。終戦直後を思わせるバラック長屋の軒に延々と看板が連なっている。どの一軒も商店と主張するには無理があるが、この町らしさが凝縮された店舗の群れだ。その一軒が田代だった。     
 高校の部室のような店内には、持ち帰り用の窓に向かってパタパタとうなぎを焼いている禿頭の店主がいて、彼の動き回る仕事場を仕切るように長いカウンターと、それにくっつけてベンチが置いてあるきりだ。こんな辺鄙な村で、貧しい店構えで営業しているうなぎ屋なのに、なぜか満員盛況だ。みんな私たちのように電車を乗り継いでやってきたのにちがいない。黙って食ったり、うなぎが出てくるのを辛抱強く待ったりしながら、ときおりカウンターから顔を上げて店主の背中を眺めている。婆さんと二人で切り盛りしている店主のすることは、客の注文を聞いて焼き窓から奥の捌き所にいくだけで、いらっしゃいませもありがとうございましたもない。そのあいだ、婆さんがうなぎを焼く。客にはうまいものを食わせればいいという簡単明瞭な信念の持ち主には、礼儀などという時間つぶしはうるさいだけなのだろう。素子はこの雰囲気がすっかり気に入ったようで、期待に目を輝かせている。
 十分ほど待ってどうにか坐り、婆さんにうな丼と肝焼きを注文する。待つこと三十分、四、五枚うなぎの切り身が杜撰に盛られたどんぶりが出てきた。焦げている。ほかの客のうなぎも焦げているところを見ると、こういう焼き方のようだ。いち早く素子は箸をつけ、
「おいしい!」
 と叫んだ。亭主がちらりとこちらを向いて微笑む。何年ぶりかで作った表情かもしれない。婆さんも微笑みながら辞儀をした。
「ほんとだ!」
 たしかにうまい。焦げ臭くなく、濃厚な味で、噛みしめて、呑みこんだとたんに、香ばしさが鼻に昇ってくる。肝焼きも絶妙な味だ。宮宇よりも、松葉会で饗されたうなぎよりもうまい。客たちが黙々と食っているわけがわかった。キモスイを最後の一滴まで飲んで、
「ごちそうさま、おいしかった!」
 窓で仕事をしている亭主に声をかける。毎度、と小さい声で応えた。肝焼きも入れて二人分九百円。宮宇より高いが、不満はない。上機嫌で店を出る。
「そこを流れている川で獲れる天然だね。ほんとにうまかった。客たちのダンマリぶりがおもしろかった。愛知百名店か。名物にうまいものもあるんだな。さあ、今度は柳橋に戻って映画だ」
 素子が手を握ってくる。
「今度デートするときも、こういう田舎がええ」
「東京の田舎にしよう」
「東京? 私、いってええの?」
「いいに決まってるさ」
 あと先を考えずに約束する。素子は握った手をぶんぶん振る。空が青く晴れてきた。瀬戸駅の白亜の屋根の向こうに藪山が見える。その上に白雲を浮かべた青空が拡がっている。あのうなぎ屋以外は何もない町だった。
「……やっぱり、ちょっとあかんわ。私が家を出たら―」
「一家が大黒柱を失うことになる?」
「月二万でも仕送りしてあげればええかも……」
「子供じゃなく母親と兄弟だろ? 子供のためにはそばにいて働くほうが、人間として価値がある。犠牲的精神が尊い。子供に仕送りするような母親は最低だ。でも素子には子供がいない」
「うん、かあさんと、妹」
「いい大人に仕送りは不要だ。素子が東京へくるこないは別にして、おたがいに自立したほうがいい。気持ちも、ふところも」
 えらそうな発言を空しく感じる。私と同様、人には意想外の事情がある。
 帰りの車中で素子は居眠りをしていた。カズちゃんもトモヨさんも、ものを食べたあとはかならずこうなる。まるで猫だ。女から愛玩動物の要素が抜けないのはこういう愛らしさがあるからだろう。
 柳橋の東宝館で加山雄三の『南太平洋の若大将』を観る。荒唐無稽なヨモダ話。前田美波里の『忘れさせて』という歌が耳に残った。たぶんレコードになっていない。素子が楽しめるようにと思って観ることにした映画だったが、彼女もあまりに幼稚な内容に気分が乗らないらしく、ここでも私の手を握ったままうとうとしていた。正常な感覚の持ち主だ。
 映画館を出たとたん、素子は生きいきしてきた。
「もう、ぼくとセックスするだけだよ」
「顔を見るのが一番、オマンコが二番目の楽しみやった。あかん、濡れてきた」
「ぼくのぜんぶを楽しみにしてくれてたんだね。ありがとう」
「めちゃくちゃ好きな男やから、ぜんぶや。ほんとは、何もせんでキョウちゃんとこうしとるだけで、もう、うれしてたまらん気持ちになるんやけど、なんでかしらん、あそこが濡れてくるでどうもならん」
 柳橋の裏通りの、少し高級そうなホテルに入った。宿帳に、神無月郷、妻素子、と書いた。素子が強く手を握った。
 四時過ぎに部屋に入って、いっしょに風呂に入り、二度セックスをして、もう一度風呂に入って、しっかりからだを流し合ってから、六時に出た。少し腰のふらつく素子を、蜘蛛の巣通りの入口まで送っていった。
「お母さん、きょうは仕事せんでええって、気分よう送り出してくれたんよ。男はクセ者が多いから、いい口に騙されてお金巻き上げられんようにって。馬鹿みたいやろ。キョウちゃんのようなまじめな人が世の中におるなんて信じられんのや。あたしも信じられん」
「まじめじゃないよ。気の合う人間としか行動しないエゴイストだ」
「ふうん、気の合わん人間は面倒やもんね。……北村のお嬢さんはすごいなあ。キョウちゃんみたいな人に女神言われて。かなわん。立ち退き料がようけ出たら、私、この仕事やめて、山崎パンの工場にでも勤めるつもりや。定時制の高校にいくかもしれん。もう少し頭をよくせんと、キョウちゃんをガッカリさせてまう。だから、私、東京にはいかんと、いつもここで待っとることにするわ。キョウちゃん、大好きやよ。十も上で、ごめんね」
 私は思わずあふれてきた涙を手で拭った。
「泣いてくれとるん! それだけでええわ。それだけで一生、何でもがまんできるわ。好きやよ、キョウちゃん、死ぬほど好きやよ!」
 素子も私の胸にすがって泣いた。
 手を振りながら、平伏するバラック小屋の一つに素子は入っていった。うなぎを食ったバラックの長屋に似ていた。最後に手を振る彼女の姿も小屋も不思議なほど美しかった。


(つづく…)