四十

 股間をティシュで拭うと、コーラをいれてくる、と言って、法子は全裸のままキッチンへいき、小走りに戻ってきた。コップを打ち合わせ、二人で一息に飲んだ。喉がヒリヒリした。法子は腰に手を当てたお茶目な格好で、私の前に豊かな腹を突き出した。私は手を置いた。
「幸せ。私、一生、神無月くんを愛するわ」
「ありがとう。法子の都合が悪くなるまででいいよ」
「私を信じてないのね」
「人は目先の都合で生きなくちゃいけないからね。一人の女だけは、信じてる。彼女は人間じゃない。女神だ」
「うらやましい……私も女神になれないかな」
「さあ。でも、中途半端な女神なら、ぼくに嫌気を差すかもしれない。……小さいころから、とにかくいき当たりばったりに生きてきたから」
「どういうこと?」
「かなり早いうちに、生まれたことの偶然に気づいた。その偶然に心から喜びを感じることもあるけど……。喜びというより感謝というのかな。でもそれは、自分の心の中だけの話で、人に告げることはめったにない。そういう感謝の中で、いき当たりばったりに生きてきた。偶然の中にもつまらないものはある。そういうものは予定された必然だと無理に考えて、味気ない計画を立てて処理する。……でも、生まれるという一度の偶然のあとに起きることはすべて偶然だというのはすばらしいね。すべて突発事なんだよ。くどいことを言うようだけど、突発事の中でもなんだかつまらなく感じるものに対しては、意思の力で律儀な計画を立てて処理して、なんとなく整然とした気分に浸るわけだ」
「つまらない突発事って?」
「愛と友情に関わること以外のぜんぶ」
「きょうは愛と友情のために、いき当たりばったりにきてくれたのね」
「うん」
 蹂躙したくてきたとは言えなかった。蹂躙したとも思えなかった。法子の目が、遠くの山でも眺めるように暖かくなった。
「……そっか、律儀な計画が神無月くんの疫病神なのね。でも、どうせ神無月くんは成りゆきまかせの気質なんだから、つまらない偶然にも感謝しなくちゃ。感謝すれば計画も充実したものになるでしょう?」
 頭のいい女だ。
「ああ、偶然のプラス、マイナスは感謝してお受けしなくちゃね」
「一人ひとりが偶然女神でなければ、神無月くんから見捨てられることになるのね。でも私も女神になる努力をするから、見捨てないでね」
「さっきも言ったけど、中途半端な女神なら、ぼくのほうを見捨てるということだ。ぼくは見捨てない。法子がいま言ったように、どうせいき当たりばったりなら、真の女神にも中途半端な女神にも感謝するべきだものね」
「偶然は向こうからやってくるものじゃなくて、自分の意思とか感情の結果だと思う努力はしないの?」
「つまらない偶然に対してはもちろんするさ。そして、これがぼくの意思や感情の結果なんだなと考えて、さびしくなる。さびしいこと、それがぼくの感情の基本みたいだ。人に報われないさびしさじゃなく、こういう自分がいて、そういう偶然を引き起こして、それに甘んじるさびしさ」
 頭のいい法子は私の言葉の意味を考えこんだ。
「神無月くんそのものがさびしい人でないってことを、だれかが教えたり、自分で気づいたりしたら、もうさびしい人じゃなくなる?」
「なくならない。さびしさや悲しさは何かの状況で感じるものじゃなくて、生まれつきからだの中を流れている血だから、血液交換でもしないかぎり、さびしくて悲しい人間のままだろうね。ぼくは自分をそういう人間だと信じてる。それはぼくの充実のもとでもあるんだ」
「私が神無月くんに惹きつけられる原因も、それかもしれない。手を貸してあげられないさびしさっていうのかなあ。―でも、どんなにむだでも、私は手を貸しつづけるわ。神無月くんの手を握っていたいから」
 私には彼女の愛の行方を決められない。文江さんと同じように、すべて彼女の選択だ。洋箪笥の置時計を見ると三時を少し回っていた。その視線に気づいて、
「律儀な計画がくずれちゃうわ。おうちまでタクシーで送ってく」
「笹島から自転車だから、送らなくていいよ」
 船方の停留所まで法子は送ってきた。タクシーを拾って笹島まで帰った。荒々しい言葉も吐けない、だれも蹂躙できないお人好し。身の周りに純朴な人間しか現れない都合のいい男。……苛立ちの芽だけは確実に残っている。蹂躙を旨とする母のような悪人がいるかぎり、その悪人に蹂躙される私のような好人物がいるかぎり、その芽は摘み取れない。
         †
 翌二日、曇り空の日曜日の午後、カズちゃんが予想していたとおり、あの東奥日報の記者が飛島寮にやってきた。休日をノンビリすごしている社員たちは、河原の練習から図書館へ回って帰ってきた私とひさしぶりの旧交を温めていた。この半月、私が穴倉生活をしていたからだ。穴倉を抜け出して、河原の野球をしたり、女のもとにいったりしていることを彼らは知らなかった。
「東奥日報の浜中と申します。青森高校の石崎先生にここの住所を聞いてまいりました」
 食堂の入口に立ち、頭を下げる。ヒゲ剃り跡の青々とした丸顔に、きちんと背広を着こみ、重たそうなデンスケを肩から提げていた。
「やあ、神無月くん、大きくなりましたねえ」
 にこやかに笑う口から、煙草を吸いすぎて黄色くなった乱杭歯が覗いた。大沼所長が、
「キョウはだれにも会わんぞ。野球は休止期間だ。静かに放っといてやんなさい。だいたいあらかじめ伺いも立てず、失礼じゃないか。帰りたまえ」
 東奥日報と告げた浜中の声がテーブルまで届かなかったようで、撃退の姿勢に出た。佐伯さんが立ちはだかり、三木さんたちも凄みを効かせようとした。私はあわてて、
「あ、その人は野球関係者じゃないんです。東奥日報という新聞のかたです」
「なんだ、新聞記者か。突撃インタビューだな」
「いえ、何度か連絡させていただいたんですが、電話を途中で切られてしまって」
 母は台所から動かなかった。社員たちはチラッとそのほうを見たが、すぐに視線を戻した。
 ―また煩わしいことが起きようとしている。なぜ私はこんな女の勝手気ままなふるまいに気を使っているんだ。いいかげん爆発したくなるのはこっちじゃないか。
 幸い浜中は母を気にしていなかった。彼は名刺を人数宛て配り、
「昨年、神無月くんについて私が書いた記事です」
 と言って、何枚かのコピーをテーブルに置いた。みんなテーブルに居並んだ。記事を読み合い、ざわざわと和やかな雰囲気になった。シロが記者の足もとにまとわりつき、インコがうるさく鳴いた。飛島さんが所長とうなずき合い、
「これはいい記事ですね。浜中さんは郷くんに惚れこんで書いてる。未来を暖かく見守るという姿勢が通俗的じゃない」
「ありがとうございます。今回は『神無月郷のいま』という記事を書くために、取材にまいりました」
 彼は佐伯さんに椅子を勧められ、重たいデンスケを大事そうに足もとに下ろすと、マイクをテーブルに置いた。まだスイッチは入れずに、あらためて立ち上がり、
「神無月くんおひさしぶりでした。あの大選手が、ほんとにひっそりと暮らしてらっしゃるんですね。こちらでの生活は順調ですか」
「きわめて順調です」
 山崎さんが、
「一番だよ、学校の一番。毎日図書館にかよってな、まじめそのものだ」
 母が全員にコーヒーをいれて、またわざとらしい尖った態度で台所に引っこむ。浜中は腰を下ろし、テープレコーダーにスイッチを入れると手帳を取り出した。
「名古屋西高に転校なさったんでしたね。硬式野球部はないんですね」
 社員たちが緊張した面持ちになった。私は母の視線を目の隅に意識しながら、
「はい、ラッキーでした。落ち着いて勉強できます。むかしあったそうですが、いまは軟式野球部しかありません。二流の受験校なので、文武両道の気風はなく、みんなガリガリ勉強するだけの県立高校です。クラブ活動などという余技には力をこめていません」
「野球をするチャンスはない、と」
「はい、まったく遠ざかりました。勉学に好都合です。先日、なつかしくなって校内ソフトボール大会に出ました。四打席四ホームラン。ぜんぶ百メートル以上飛ばしましたよ」
 所長たちは緊張した表情のまま、思わずホーという嘆声を洩らした。浜中は社員たちの緊張顔と、私の激しい韜晦の言葉に事態を察知したらしく、悲しそうな顔をして、
「宝の持ち腐れというやつですね……。そういう坦々とした生活の中で、何か人間関係の発展といったものはありますか?」
「ありません」
 ウハハハと所長が笑い、
「俺たちとは発展してるぞ。なんせ、キョウが大好きなのは、飯場と土方だからな。変わった男だよ」
 三木さんが口をへの字に結んで遠回しに言った。
「キョウちゃんが最終的にやりたいことは胸中に秘めているとしても、いまはひたすら勉強に打ちこむ時期だと考えているようです。そのことを理解する周囲の人たちが、勉強の環境を親身になって整えています。その意味では、いい人間関係の発展を遂げつつあるということになるんじゃないかな」
 佐伯さんが、
「郷くんは、遅くまで本を読んでます。部屋は本だらけです。万能なんですよ。すごい努力家でもあるし。ぼくは強い影響を受けてます」
 山崎さんが呆れ顔で、
「とにかく、まじめだよ。色気がないのが玉に瑕だ」
「色気と申しますと?」
「女ッ気がないんだよ。もうすぐ十八歳だぜ。かわいそうになってくるよ」
「はあ、たしかに」
 ささやかな笑い声が上がった。母だけが笑わなかった。記者は熱心に手帳に鉛筆を走らせている。何を記事にするつもりなのだろうか。飛島さんが、
「あえて、いまそういうことは考えなくていいんじゃないですか。追々……」
「追々って、いつだ。自分の十八のころを考えてみろよ。遊んだ口だろ」
「それは……」
 所長が、
「ヤマ、キョウにはトラウマがあるんだ。けしかけるな」
 みんなで懸命に野球から話を逸らそうとする。浜中はトラウマの件は深追いせずに、一瞬母に強い視線を投げると、
「十一月のドラフトにかけられませんでしたが、これは、今年が卒業の年度でなかったということと、神無月くんのプロ志望届未提出の結果です。この秋には各チーム争奪戦になると思います。神無月くん、どういう心づもりでおられますか。やはりドラフトの拒否をつづけますか。もし、ドラフトを受け入れたうえで入団を断ると、そのチームにかぎり翌年以降ドラフト勧誘はできないという規則になってますが。……神無月くんがいきたい球団だった場合、残念な結果になるんじゃありませんか」
 急に話が具体的な緊迫したものになった。しかしこれが彼のメインの質問だ。母がいる。慎重に答えなければならない。母が、
「そんな具体的なところまで事態が進んでいるんですか」
「いえ、進んでいません。神無月くんがこういう状況に陥っているので、進めることができません」
「なら、荒唐無稽な話は遠慮してください。プロ野球などと、この子の分際じゃありませんよ。学問の道を進むことを決意したばかりですから」
 ツノのある鬼面の相だった。浜中は呆然とした表情になった。それから、あらためて眉を引き締め、
「何よりも、東京大学合格が先決でしたね。すべての話はそれからでした。すみません、先走ったことを言ってしまいました」
「先決も何も、そこから野球の話には発展しませんよ」
 公の報道機関に本音を語らないと、誤報されてしまう。プロ志望届は出さないがプロへいく意思はあると明言しなければ、中日ドラゴンズにも腰を引かせてしまう。そうなったら、この雌伏の意味はなくなる。しかし母の鬼面がある。根本的なじゃまを入れられないように、浜中にサインを出さなければならない。ドラゴンズを信じている。新聞記事の一つや二つで私への関心を失うはずがない。私は浜中の目をことさら強く見つめながらしゃべった。話をドラフトへ逸らす。ドラフトは最終的な野球への到達と関係ない。
「青森でお話したとおりです。野球とは縁を切りました。ドラフトは拒否します。ドラフトにかからない以上、どの球団も入団勧誘をできないわけですから、形のうえでは勧誘をお断りしたということになります。このまま学問の道に進みます」
 母をチラリと見た。鬼面の相が和らいでいる。所長が真っ赤な顔でうなずき、
「だいじょうぶ、なるようになる。少なくとも、東大は落ちないよ」
 浜中はすべてを納得したようにうなずいた。
「まだ記事として熟していないので、発表は次回に回そうと思います」
 飛島さんが私の意図を察して、浜中にあえて質問した。
「もっと、ドラフトの詳しい規則を教えてくれませんか。キョウくんの進路と関係のない雑談ならいいでしょう」
 浜中はテープを止め、手帳を閉じると、
「高校三年でドラフトにかかった場合は、いま申しあげたとおりです。大学の場合は、中退しないかぎり、四年生の卒業年度にドラフトがかかり、一位指名の球団の誘いを断って社会人野球へいった場合は、その球団から三年間ドラフトがかかりません。その後、社会人チームをやめて浪人した場合は、ドラフト、個別交渉、あらゆる手段で誘いがかかります。大学中退の場合も同じです。ドラフトの一位指名も球団の個別交渉も蹴れば、実質、その球団の勧誘は終わります」


         四十一

 ふたたびテープを回し、手帳を開く。佐伯さんが、
「郷くんはたぶん、学問をするために東大へいくでしょう。そこから先は、郷くんがみずから進路を選択するのにまかせるべきです」
 所長が、
「……キョウが、プロ野球へいける可能性があるのは、大学で野球をやり、卒業するにせよ中退するにせよ、その後ずっと野球をつづけた場合だけということなのか?」
 浜中は熱い視線で大沼所長を見つめ、
「いえ、実質、と申しあげたのであって、その後長く中断していても、たとえば東大卒業以降まで中断していても、神無月さんのような飛び抜けた大選手なら、声をかけてくるプロ球団はいくらでもあると思われます。ただ、野球をやりつづけていたほうが、勧誘されるチャンスが確実に大きいということにすぎません」
 所長はこの場の状況をすべて察したように、
「キョウ、東大で野球のクラブ活動をすればいい。プロ云々というより、周りが喜ぶし、おまえの精神にも好影響を与える気がするんだ。さ、インタビューは終わりだ」
 母が、
「人間には分があるからね……」
 そう呟いて台所へ去った。浜中は声を低め、
「すばらしい提案です。そうなると、たとえクラブ活動でも、六大学野球に確実に旋風が巻き起こるでしょう」
「そこが狙いだよ」
 所長も声を低めた。当然のことだが、だれも私に野球をやめてほしくないのだ。私は思わず湧いてきた感激の涙をこらえ、母に聞こえるようにわざとらしい大声で、
「クラブ活動だろうと何だろうと、とにかく、受かってからの話です。まず東大に受からなくちゃ。―かならず受かります」
 拍手が上がった。浜中は、台所の母に向かって、
「お母さん、とにかく大学に進学したあとは、郷くんの自由意志でクラブ活動をすることに反対なさいませんね。東大の野球部は小中学校のクラブ活動と似たり寄ったりです」
「好きにしたらいいでしょう。学問をするには、からだを鍛えることも重要ですからね。でも、その前に、ちゃんと東大に受かってみせてくださいよ。この子の頭じゃ五、六年浪人しなければ受からない大学ですよ。せいぜい発破をかけて、現役合格を狙わせます」
 彼はおそらく、前もって名古屋の押美たちにいろいろ手を回して、下調べをしたのだろう。母を見る目に敵意がこもっていた。私は額に不安の汗を滲ませた。浜中は一転して笑顔になると、デンスケを止め、手帳を勢いよく閉じた。
「西高の校長先生にアポを取って、インタビューしてから青森に帰ります。きょうはみなさん、ありがとうございました。しっかりした記事ができあがったら、十部ほど弊社の新聞をお送りします。じゃ、神無月くん、勉強がんばってください。またきます。そうですね、来年の春、東大に合格したころに、四、五日ホテルに宿泊するスケジュールでまいります。お母さん、失礼いたしました」
「佐伯、彼が泊まってる宿屋まで送ってやれ。その荷物は重たいぞ」
 浜中はデンスケを担いだ格好で深々と礼をし、
「は、畏れ入ります。ありがとうございます。みなさん、どうも失礼いたしました」
 私と社員たちはシロといっしょに門まで送っていき、佐伯さんのライトバンに乗りこんだ浜中に手を振った。母は出てこなかった。
 整備工場前の道路で三木さんや山崎さんたちと雑談をしているうちに、食堂で母に捕まっていた所長が出てきて、
「ブルーマウンテンを飲もうや」
 と言うので、みんなで八百屋の斜向かいにあるトロピカーナという喫茶店にいった。席に着くなり、所長が言った。
「クラブ活動にはまいったな。浜中氏もよく場の雰囲気を察して機転を利かせたよ。キョウの苦しい心境がよっくわかった。信ずること、望むこと、それが青年の特権だ。キョウの信じること、望むことに、俺は力を貸してやる。気持ちがどう変わっていってもな」
「気持ちは変わりません」
 意外に早く帰ってきた佐伯さんが顔を覗かせ、
「やっぱりここでしたか。いや、市電に乗ってみたいって言うんで、稲葉地車庫で降ろしてあげました。あの記者さんも、六大学が変わるって何度も言ってましたよ。郷くん、すまなかったね。大学いってからの進路は郷くんの自由裁量だなんて言って。進路はしっかり決まってるんだよね」
 所長が、
「いろいろ話したのか」
「はい、五分くらいですが。私でなく、彼がもっぱら。ひっそり暮らしてる郷くんに感激してました。彼が言うには、青森にいたころからそうだったが、たぶん郷くんは華々しく活躍することを嫌ってるわけではなくて、それに対する母親の反応に本能的な恐怖感を持っていて、なるべく自分を目立たなくしようとしてるんだろうということでした。目立とうとするのは、たとえ無意識であっても権力に近づくための野心で、かならずその野心を挫く母親とその仲間たちがいる、そういう人びとは才能や気骨に出会うと、それを殺すか、追い払うか、監禁するか、死ぬほどの苦しみを与えるものだ、郷くんはそれを直観的に見抜いて雌伏しているんじゃないかって。だから東大に受かれば、まさか野球で目立とうとして在学する人間なんかいるはずがないので、じゃまも入らずに自分の才能をあたりはばからず発揮できるし、プロにもしっかり注目されると思ってるんじゃないか、きょうの自分の行動は軽率だった、そんなふうに言ってました」
 山崎さんが、
「おお、たしかに危なかったな。飛島の切り返しがうまくいった。浜中氏もキョウちゃんとは関係のないプロ野球一般の説明に聞こえるように答えてた」
 飛島さんが、
「郷くんは野球のほかのことは何も考えてないんですよ。その道をじゃまされるのが面倒くさいだけなんだ。野球関係者からすれば謎の行動だ。なぜなんだろうって考えたくなる。浜中氏はすぐ悟ったようだったね。ぼくの質問にも無難に答えた」
 私は、
「きょうは必死でした。ここで野球が終わってしまったらたいへんだと思いましたから。野球をやめたというしかなかったんです。東大を落ちたとたんに、母はプロからの勧誘をすべてシャットアウトするでしょうからね。地獄の浪人生活です。たとえ浪人しないで飛び出しても、どこからも誘われない以上野球をするあてがない。浜中さんは、百パーセントわかってる目をしてました。と言うより、母を見て百パーセントわかったんです」
 所長が、
「野球をやめる? それが本心じゃないということは、いままでのキョウを見てればわかる。真剣さだよ、人間の格」
 飛島さんが私の肩を抱き締め、
「キョウちゃん、心配ない。東大に受かればすべて解決だ」
 三木さんがおどけて目を剥いて、
「いい男で、野球が天才で、おまけに東大か。冗談みたいだな」
 山崎さんが、
「何か一つくれよ、キョウちゃん」
 すかさず所長が、
「ないものねだりするんじゃない。ヤマは仕事ができるナンバーワンだ。出世候補だぞ」
「ほーい、せいぜい引き上げてくださいよ」
「地下鉄拡張の仕事が終わったらな」
 飛島さんがカウンターで静かにしていたマスターの顔に笑いかけ、
「ブルーマウンテン、置いてあります?」
 マスターは申しわけなさそうに笑って、
「純正のは置いてないんですよ。純正のブルマンを出すのは、詳しくは知りませんが、東京の椿屋とか、ほかに二、三軒ぐらいじゃないですかね。一杯五百円はするでしょう。うちは、三百円です。ブルマンだけだと香りが強すぎて、ほかの豆とブレンドするのがふつうなんです。それでもいい香りですよ」
「それ、六人前」
 三木さんが、
「三十年ぐらい前に日本に入ってきたときには、英国王室御用達というキャッチフレーズだったらしいな。ブルマンの産地のジャマイカがイギリス領だったからなんだよ。ブルーマウンテン山脈の標高八百メートルから千二百メートルの地域で採れる豆以外は、ブルマンと呼んじゃいけないんだ。たいていのコーヒー豆は個人経営の農園で栽培されてて質がバラバラだけど、ブルマンはジャマイカ政府が管理して栽培してるから、安定して質のいい豆が収穫できる。したがって高い。ウオッホン!」
「どうでもいい知識だ」
 山崎さんが三木さんの胸をドンとこぶしで突く。三木さんはそれをうれしそうに受け、「しかし、キョウちゃんはとんでもない有名人だったんだなあ。おばさんも何が不満なんだろう」
 所長が、
「息子が有名なことが憎いんだな。なぜかはわからん。佐藤さんは、才能というものの存在を否定したいか、信じられないかのどちらかだ。―才能イコール悪の道。そういう等式が、別れた旦那さんとの経験ででき上がっちまったんだろう。人間は一人ひとり調理ずみで生まれてくる。その味が似ることはあっても、同じにはならない。才能という味付けをまずいと感じれば、悪だと思うだろうし、無才という味付けをおいしいと感じれば、善だと思うだろう。ぜんぶ自分を楽しませる舌が感じることだ。佐藤さんは味音痴だ。俺たちでは助けられない。悪だと思われてるキョウのほうを助ける。俺たちの舌は味音痴じゃないからな」
 ありがたい励ましだが、父とは関係ないのだ。自分を尊ばない子が成功していくことが生理的に耐え難い、という母の底意を彼らは理解できない。思いのほかだからだ。私も十七年かけてようやくわかった。だから私はほとんど自力でがんばるしかないのだ。カズちゃんと山口を協力者にして。飛島さんが、
「ご主人は西松の一級建築士だったそうですからね。相当破天荒な人だったみたいだ。郷くんに重なってしまうんでしょう」
 父とは関係ない。山崎さんが憤然として、
「お父さんも、あと先考えずに没頭する優秀な人だったんだろう。破天荒だとか恥さらしだとか見かぎられなんて、父子していい面の皮だ。結果を考えずに全力投球するやつしかいい仕事はできないんだよ」
 とにかく父とは関係ない。どうしても母のルサンチマンに因果関係をつけたいようだ。因果関係のない根強い生理的嫌悪というものがこの世にあることを、当事者の私と、それに感づいた協力者だけが知っている。
 出てきたコーヒーはうまかった。佐伯さんが感激したように、
「うまいよ! マスター」
 飛島さんが、
「植えた覚えのない花が庭に育つと言いますからね。おばさんには、花が草にしか見えないのかもしれないな」
         †
 四月三日月曜日。素子との約束の日。河原の練習はお休み。シロと土手のランニングのみ。社員たちが出たあとの遅い朝めし。母は口を利かない。卵入りの味噌汁をすすり、夏の学生服に着替え、九時半にカバンを持って岩塚モータースの前からバスに乗った。自転車には乗らなかった。シロに見送られた。中村公園前で降り、大門の辻まで歩く。思ったとおり、十五分も早く素子が立っていた。白いフレアーのミニスカートに白いシャツをたくしこみ、胸前でボタンをかけるピンクのカーディガンをはおっている。
「素子!」
「キャー、キョウちゃん!」
「よし、薄化粧しかしてない。やっぱり美しい目をしてる。ぼくは、似た顔の女優を連想するのが得意なんだ。そうだな、さしずめ、白木マリ。それよりもっときれいだけどね」
「だれ、それ」
「日活の女優。知らなくていいよ。さあ、まずうなぎで腹ごしらえしてから、映画にいくぞ。それからホテルに入って」
「キャ! まだ言わないで。新しい下着が汚れちゃうから」
 二十七歳とは思えないくらい、赤みの差した膝小僧が愛らしい。もちろん娼婦にはまったく見えない。
「感動したよ。忠犬ハチ公みたいにちゃんと待ってるなんて」
「みたいじゃなく、ハチ公そのものやもの、ご主人さま」
「朝の十時からうなぎを食わせてくれる店なんかないから、瀬戸へいくよ。三十分もしないで着いちゃう。ヒツマブシじゃない、ちゃんとした鰻丼を食わせる田代って店だ。図書館の雑誌コーナーでぺらぺらやってたとき、愛知県のうなぎ百名店というパンフレットで偶然見た」
 かわいらしいポシェットを振りながら、
「なんでカバンなんか持っとるの?」
「教科書入れと貯金箱を兼ねてるんだ」
 素子はきれいな歯を出して、おかしそうに笑う。タクシーを拾い、円頓寺商店街のそばの堀川駅に出る。瀬戸線の起点だ。小さな階段口から地下へ入る。素子の白いソックスと黒いローファが跳ねる。六十円の切符を買う。緑色の電車に乗りこむ。普通も準急も特急も始点から終点まで同じ時間かかるという名物路線のようだ。市電のように狭い、がらがらの車内の真ん中の座席に向かい合って座る。
「私、デートなんて生まれて初めてやが」
「ぼくは、何をするにも最初で最後だと思ってる」
 地下を抜けて光の中へ出る。
「……最後なん?」
「デートは最後だ。受験で忙しくなるからね。月曜日も危なくなる」
「これからも月曜日に待っとる。来年の春からは東京へいってまうんでしょ?」
「ちゃんと報せにくる。落ちるかもしれないからね」
 素子は少し思案げに、
「最初にキョウちゃんに遇ったとき、自転車のそばにいた人、だれ?」
 私はにっこり笑い、あの女と二年ぶりに巡り会って、ふたたび別れ、暗い気分で大門の辻まできたとき、素子たちに声をかけられたこと、その女の母親と関係したせいで細ぼそと縁がつながっていること、母子の生活の改善に北村席の一人娘が大いに尽力してくれたこと。
「なんや、みんな私みたいに、キョウちゃんに惚れとるだけのことやが。なんも暗い気持ちになることあれせんよ」
「一刀両断だね。気分がよくて、腹へってきた」
 大津町、大曽根、三郷と過ぎて、尾張瀬戸に到着する。ひどく小さい改札口を出る。待合室にタイル貼りの太い柱が立っている。駅舎はこじんまりとしているが、石造りの立派なものだ。飾り気のない道の上を歩く。早春の風が吹いている。澄んだ空から青みを帯びた柔らかい光が降ってくる。空へ突き立つ雑木の丘の輪郭を眺める。輪郭の先端が灰色の空に滲む。蔵所橋というアスファルトの橋を渡る。名も知らない川の水面が銀色にきらめいている。たぶん瀬戸川という名前だろう。川沿いに陶器店が並んでいる。いつの間にか素子と手を握り合っている。




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