四十二

 二階建ての古い民家やアパートが多い。純和風建築の立派な個人宅もある。路地にはやつれた感じの喫茶店が覗く。路端に置き捨てられた水甕やコカコーラの看板。何を作っているかわからないが、工場が建っている。トタンが具合よく錆びた事務所。
 ポリスボックスの先の末広銀座と名づけられた繁華な商店街に入る。三角旗、成人映画館ロマン中央、洋品店、クリーニング店、精肉店。商店街を抜け、深川神社と浮き彫りにしてあるコンクリートの大鳥居をくぐると、地上にあるのに宮前地下街と書いてある軒の低いさびれた小路が一筋通っている。終戦直後を思わせるバラック長屋の軒に延々と看板が連なっている。どの一軒も商店と主張するには無理があるが、この町らしさが凝縮された店舗の群れだ。その一軒が田代だった。
 高校の部室のような店内には、持ち帰り用の窓に向かってパタパタとうなぎを焼いている禿頭の店主がいて、彼の動き回る仕事場を仕切るように長いカウンターと、それにくっつけて長い板ベンチが置いてあるきりだ。こんな辺鄙な村で、貧しい店構えで営業しているうなぎ屋なのに、なぜか満員盛況だ。みんな私たちのように電車を乗り継いでやってきたのにちがいない。黙って食ったり、うなぎが出てくるのを辛抱強く待ったりしながら、ときおりカウンターから顔を上げて店主の背中を眺めている。婆さんと二人で切り盛りしている店主のすることは、客の注文を聞いて焼き窓から奥の捌き所にいくだけで、いらっしゃいませもありがとうございましたもない。そのあいだ、婆さんがうなぎを焼く。客にはうまいものを食わせればいいという簡単明瞭な信念の持ち主には、礼儀などという時間つぶしはうるさいだけなのだろう。素子はこの雰囲気がすっかり気に入ったようで、期待に目を輝かせている。
 十分ほど待ってどうにか坐り、婆さんにうな丼と肝焼きを注文する。待つこと三十分、四、五枚うなぎの切り身が杜撰に盛られたどんぶりが出てきた。焦げている。ほかの客のうなぎも焦げているところを見ると、こういう焼き方のようだ。いち早く素子は箸をつけ、
「おいしい!」
 と声を上げた。亭主がちらりとこちらを向いて微笑む。何年ぶりかで作った表情かもしれない。婆さんも微笑みながら辞儀をした。
「ほんとだ!」
 たしかにうまい。焦げ臭くなく、濃厚な味で、噛みしめて、呑みこんだとたんに、香ばしさが鼻に昇ってくる。肝焼きも絶妙な味だ。宮宇よりも、松葉会でご馳走されたうなぎよりもうまい。客たちが黙々と食っているわけがわかった。キモスイを最後の一滴まで飲んで、
「ごちそうさま、おいしかった!」
 窓で仕事をしている亭主に声をかける。毎度、と小さい声で応えた。肝焼きも入れて二人分九百円。宮宇より高いが、不満はない。上機嫌で店を出る。
「そこを流れている川で獲れる天然だね。ほんとにうまかった。客たちのダンマリぶりがおもしろかった。愛知百名店か。名物にうまいものもあるんだな。さあ、今度は柳橋に戻って映画だ」
 素子が手を握ってくる。
「今度デートするときも、こういう田舎がええ」
「東京の田舎にしよう」
「東京? 私、いってええの?」
「いいに決まってるさ」
 あと先を考えずに約束する。素子はいっときに目を潤ませ、握った手をぶるんぶるん振る。空が青く晴れてきた。瀬戸駅の白亜の屋根の向こうに藪山が見える。その上に白雲を浮かべた青空が拡がっている。あのうなぎ屋以外は何もない町だった。
「……やっぱり、ちょっとあかんわ。私が家を出たら―」
「一家が大黒柱を失うことになる?」
「……月二万でも仕送りしてあげればええかも」
「子供じゃなく母親と兄弟だろ? 親は子供のためにそばにいて働くほうが、人間として価値がある。犠牲的精神が尊い。子供に仕送りするような母親は最低だ。でも素子には子供がいない」
「うん、かあさんと、妹」
「いい大人に仕送りは不要だ。素子が東京へくるこないは別にして、おたがいに自立したほうがいい。気持ちも、ふところも」
 えらそうな発言を空しく感じる。私と同様、人には意想外の事情がある。
 帰りの車中で素子は居眠りをしていた。カズちゃんもトモヨさんも、ものを食べたあとはかならずこうなる。まるで猫だ。女から愛玩動物の要素が抜けないのはこういう愛らしさがあるからだろう。
 柳橋の東宝館で加山雄三の『南太平洋の若大将』を観る。荒唐無稽なヨモダ話。前田美波里の『忘れさせて』という歌が耳に残った。たぶんレコードになっていない。素子が楽しめるようにと思って観ることにした映画だったが、彼女もあまりに幼稚な内容に気分が乗らないらしく、ここでも私の手を握ったままうとうとしていた。正常な感覚の持ち主だ。
 映画館を出たとたん、素子は生きいきしてきた。
「もう、ぼくとセックスするだけだよ」
「顔を見るのが一番、オマンコが二番目の楽しみやった。あかん、濡れてきた」
「ぼくのぜんぶを楽しみにしてくれてたんだね。ありがとう」
「めちゃくちゃ好きな男やから、ぜんぶや。ほんとは、何もせんでキョウちゃんとこうしとるだけで、もう、うれしてたまらん気持ちになるんやけど、なんでかしらん、あそこが濡れてくるでどうもならん」
 柳橋の裏通りの、少し高級そうなホテルに入った。宿帳に、神無月郷、妻素子、と書いた。素子が強く手を握った。
 四時過ぎに部屋に入って、いっしょに風呂に入り、二度セックスをして、もう一度風呂に入って、しっかりからだを流し合ってから、六時に出た。少し腰のふらつく素子を、蜘蛛の巣通りの入口まで送っていった。
「お母さん、きょうは仕事せんでええって、気分よう送り出してくれたんよ。男はクセ者が多いから、いい口に騙されてお金巻き上げられんようにって。馬鹿みたいやろ。キョウちゃんのようなまじめな人が世の中におるなんて信じられんのや。あたしも信じられん」
「まじめじゃないよ。気の合う人間としか行動しないエゴイストだ」
「ふうん、気の合わん人間は面倒やもんね。……北村のお嬢さんはすごいなあ。キョウちゃんみたいな人に女神言われて。かなわん。立ち退き料がようけ出たら、私、この仕事やめて、山崎パンの工場にでも勤めるつもりや。定時制の高校にいくかもしれん。もう少し頭をよくせんと、キョウちゃんをガッカリさせてまう。だから、私、東京にはいかんと、いつもここで待っとることにするわ。キョウちゃん、大好きやよ。十も上で、ごめんね」
 私は思わずあふれてきた涙を手で拭った。
「泣いてくれとるん! それだけでええわ。それだけで一生、何でもがまんできるわ。好きやよ、キョウちゃん、死ぬほど好きやよ!」
 素子も私の胸にすがって泣いた。
 手を振りながら、平伏するバラック小屋の一つに素子は入っていった。うなぎを食ったバラックの長屋に似ていた。最後に手を振る彼女の姿も小屋も不思議なほど美しかった。
         †
 四月四日火曜日。春休みもあしたで終わる。カバンを自転車の籠に放りこんで、河原の練習に向かう。高江監督に、
「きょうで春休みも終わりますから、次回からは日曜練習に出ます」
「そうですか。ありがとうございます。神無月さんがきてくださるというだけで、チーム全員が励みにしております。昭和三十三年の創部から九年、常に一回戦ボーイのわがチームでしたが、先月あの中商と練習試合で戦って、なんと六点取れました。十九対六でしたが。ハハハ―」
 部長の渋山が、
「神無月さんが練習にきてくださるようになって以来、みんなほんとにまじめに必死で練習するようになったんですよ。神無月さんは並々でなく真剣に練習なさいますからね。影響を受けない者はおりません。今後ともどうかよろしくお願いいたします」
 一時間で切り上げ、花の木のカズちゃんの家へいった。毎週土曜は鴇崎の家にいくと申告してあるので、ゆっくり帰ることができるが、ウィークデイは時間がない。有効に使わなければいけない。
「いっしょに熱田神宮を歩いてほしい。最後のセンチメンタル・ジャーニー。トモヨさんといったときに、もう二度とこないと思ってたんだけど」
「いきましょ! 何度でも」
 カズちゃんは黒のタイトスカートに穿き替え、白い毛皮の半オーバーを着た。化粧を淡くした。やはりだれも敵わない美しさだ。
 名古屋駅まで市電でいき、名鉄で神宮前に出る。神宮前商店街の古本屋を覗き、イタリアの作家アルベルト・モラビアの『誘惑』という小説を三十円で買った。上原和夫訳・昭和二十六年文藝春秋社刊。
「河原の野球、もう十回以上かよったわね」
「うん。好きなことは長つづきする。青森で買ってもらったグローブ、すごく使いやすくなってきた。プロにいってからも使うよ。バットはささくれてきた。新しいのを買わなくちゃ」
「買っとく。同じ重さと長さの」
「三本でいいよ」
「わかった。この通り、渋いわね」
「神宮小路。この裏手の通りに、いつか話した法子の母親がやってるノラというバーがある」
「今年じゅうに法子さんに会いたいわね。もう、ちゃんと抱いてあげた?」
「うん、先週やっと」
「このごろ、キョウちゃんが好きになる人って、私と顔がどういうところが似てるのかしらって興味があるの」
「うーん、唇が厚くて、目は猫目だね。カズちゃんと比べものにならない。つい比べてしまうけど、容姿もオマンコも、カズちゃんがダントツでナンバーワン」
「ありがとう。でもこれからは比べないでね。一人ひとりすばらしいって思ってあげて。私は自分に顔が似てたら少しホッとするだけ。いつもキョウちゃんといっしょにいる感じがして」
「いつも、いつまでもいっしょにいるよ。あ、ここ、蕎麦屋になっちゃったけど、むかし康男とラーメン食べた店だ」
「ふうん。大将さんか。今年の夏会えるわね」
「うん。夏休みになったら、訪ねていこう」
 入って、大盛りのザルそばを二人前頼む。カズちゃんの食べっぷりはよく、あっという間に平らげた。私は自分の分を少し分けてやった。
「うれしいな、カズちゃんが生きてるって感じ。犬でも猫でも、ものをモリモリ食べてる姿を見るのが好きだ。酒飲みがちびちびやりながら、ツマミを食ってる姿は好きじゃない」
「ほんと? 一生モリモリ食べるわよ」
「何かの映画で、吉永小百合がラーメンを二、三本ずつすすって食ってるシーンがあったけど、不潔な感じがした。精神的にね。サイドさんも、音立てずに唇でしごくように蕎麦を口に入れるんだけど、いやだったなあ。精神的にね」
「気取ってるっていうことね」
 カズちゃんが高い声で笑った。店を出て、粟田電器店を眺める。
「あの店で、カズちゃんにテープレコーダー買ってもらったね。あのときカズちゃんがおふくろに切った啖呵、いつも思い出す。―値段じゃない。必要でないものでも、買ってあげなくちゃいけない。必要なものばかり買ってたら、心が干からびてしまう。私、こう見えても、けっこうお金持ってるんです」
「ふう、よく憶えてるわねえ。あのときは私、必死だった」
「テープレコーダー、いまも机のそばに置いてるよ」
「中二の春だったわね。もう四年になるわ。まだ壊れない?」
「引越しのたびに持ち歩いてるから回転にガタがきてるけど、なんとか動くよ」
「また新しいの買いましょう。貴重なテープが多いんでしょう?」
「そうだけど、完全に壊れたら考えるよ。立派なステレオがあるから、あまり聴かなくなったし」
 東門から入り、神宮の境内へ歩みだす。見慣れた制服姿の中学生が参道を連れ立って歩いてくる。クラブ活動を終えた宮中の生徒だ。学校―と私は思った。私はもう、翅(はね)を窮屈にしまいこんでいるあのときの私ではない。狭苦しい蛹(さなぎ)から反り身になって脱皮した成虫だ。
「林に入ってみよう」
 私たちは人目につかないように、参道を逸れて道のない林の中へ入っていった。別世界だった。昼下がりのもやの中で、木々の葉が乳色の光に蒸され、強烈なにおいを発している。私は一本の樹の幹にもたれ、香り高い湿った空気を胸いっぱいに吸いこむと、午後の涼気に歯を剥き出して笑った。
「キョウちゃん、うれしそう!」
「うれしいんだ、とにかく」
 参道へ戻る。私を見上げるカズちゃんの眼が愛情にあふれている。節子やトモヨさんと二人きりで歩いた参道を、いまはカズちゃんと二人きりで歩いている。玉砂利の音が同じ響きで耳をくすぐる。献燈も、林も変わらない。真昼の参道に立ち止まってカズちゃんに唇を寄せる。彼女は人目に臆することなく応える。唇を離すと、愛らしい頭を私の胸に預ける。いつものことだ。
「すてきだわ。毎日キョウちゃんに恋をできて。生きててよかった」
 大げさな言葉に聞こえない。カズちゃんの言葉だから。
 緑に囲まれた本殿を遠くから眺めた。太鼓橋を渡り、又兵衛小屋の向こうのホンザンの勉強小屋を窺う。小屋は建っているが、人の住んでいる気配がない。トモヨさんときたときと同じだ。荒れた庭に青桐が茂っていた。
「ホンザンていう、へんなやつがいてね。あの小屋で、野球部全員にたこ焼きを振舞ってくれた。真夏だったから、汗ダクになった」
 カズちゃんは愉快そうに笑い、
「もう三度目。去年の春も、ここで同じことを言ってたわ。よほど印象的だったのね。でも、そんなことでもなければ、その人のこと思い出さないんじゃない? キョウちゃんに忘れないでいてもらえてホンザンさんも幸せね」
 何度同じことをしゃべっても、飽きない。カズちゃんは永遠の聞き役だから。臍がグチュグチュしていた粟田。口の中にこぶしを突っこむ芸を披露して甲斐和子に追っ払われた猪狩、切手マニアの石田孫一郎。だれもかれも、短い思い出の中で生き延びている。


         四十三

 賽銭を投げて型どおりの礼拝をしたあと、去年の春には立ち寄らなかった宝物館にまわって刀剣を見た。刀というものが意外と短くて重そうなのに驚いた。名古屋城でも同じようなものを見た。今度はカズちゃんとじっくり見た。
「美と実用を兼ねているバランスかもしれない。ひやりとするね」
 桑原の家の床の間に飾ってあった刀は、もっと長かった。贋物だったのだろう。
「あ、お水、飲もうっと」
 手水舎へ向かう彼女の背中についていく。太り肉(じし)の尻が、タイトスカートの下でプリプリと動く。もう柄杓が汚いなどとは言わない。カズちゃんの内臓は、すべての黴菌に抵抗力がある。私は飲まない。
 蕎麦が呼び水になって腹がへってきた。鳥居から大通りを渡って、今年もあの鰻屋に入る。相変わらずヒツマブシを勧めるので、それを食う。二段の重にまぶしたコマ切れの鰻だ。また山椒をかけずに食べてくれと女の店員が言う。二段目はお茶漬けにするようにと高圧的だ。今度は不満顔をせずに、二人無視して、山椒をたっぷりかけて食べた。お茶漬けにもしなかった。
「山椒で甘じょっぱい味が引き立つんだ。湯をかけて甘じょっぱさを消して食ったら、まずいに決まってる。想像力不足」
 カズちゃんが大声で笑った。この笑い声が好きだ。些細なことが悲しみの種になるのと同じように、些細なことが喜びの種になる。この声を聞けない人生に生きる意味はない。
 店の前から大鳥居を眺めながら伏見通りへ出る。神宮の杜の上空を見返った。この空を記憶しようとした夜の私の瞳。あの夜から二歳年をとった瞳に、空はみずみずしい灰色で応える。
「もう一度、宮中を見ておきたい」
 御陵の坂を下って白井文具店の一本前の細道を曲がる。宮中の鉄格子の裏門からグランドを眺める。バラック校舎が取り払われて、レフトの守備位置が広々としている。一塁側の桜の土手沿いで、細身の左ピッチャーが黙々と投球練習をしていた。中学生にしてはかなりのスピードボールだ。キャッチャーミットにボールが一直線に吸いこまれていく。ひょっとして野津かもしれない。いや、一年下の野津は、いまは高校二年生のはずだ。それにしてもなんと溌溂としたバッテリーだ。同好会に格落ちしたクラブとは思えない。
 校舎のたたずまいをしっかり目に収めて門を離れた。伏見通りの坂を下って、名鉄神宮前へ戻り、踏み切りに立つ。
「変わらず、残る、坂道―」
 唇だけで呟いた。手帳を出して、書き留める。四月の一日の陽ざかりが終わろうとしている。眼鏡をかける。小路を見やる。ノラの通りにまだ生活の気配はなかった。電信柱に針金でくくりつけた神宮日活の立て看板だけが呼吸している。内藤洋子の伊豆の踊子。東宝系の映画館に変わったようだ。
 神宮前のバスロータリーに大勢の人びとがたむろし、足早にいろいろな方向へ散っていく。コマ落としで撮影した映画のようにコチョコチョ動く。タクシーで千年小学校へ向かう。伝馬町から内田橋へ、宮の渡しから大瀬子橋へ。
「鶴田荘のそばだ。降りよう」
「ううん。きょうもやめましょう。改築されてたらいやだから。いつも思い出すの。……泣いてしまう」
 大瀬子橋を渡る。加藤雅江の家。カズちゃんがしみじみと見送る。平畑の家並。八百屋の店先で紺の前掛した青年が動き回っている。
「調子のいい男よ。お母さんと仲よかったけど、私は嫌いだった。もう西松の事務所はないし、このあたりはすっかり変わったわ」
「堀酒店。肘の手術が失敗して、なんとか右投げに変えようとしてたころ、東海高校にいってた息子が一日だけキャッチボールの相手をしてくれた」
「いちばん苦しんでたころね。いつも無理に明るく笑ってるキョウちゃんを見てて、胸が痛かった」
「小山田さんや吉冨さんたちが協力してくれてなかったら、いまのように希望を持って生きられなかった」
「元気でいるかしら? キョウちゃんがいなくなってから、みんな死んだみたいになってたのよ」
 曲がりこんで、新幹線の高架沿いに千年小学校へ。金を払いタクシーを降りる。ひとことも口を利かなかった運転手の白い帽子が去っていく。金網越しに校庭をじっくり見てから、千年公園のベンチに腰を下ろす。レンギョウの黄色い花が生垣いっぱいに咲いている。滑り台のそばの花壇に雛菊の薄紫の絨毯が敷きつめられている。
「なぜか横浜にはいきたいと思わないんだ。どうしてもここに戻ってくる」
「でも、いつか横浜にもいきましょうね」
「うん。もう少し歩こうか」
 正門の前の駄菓子屋の平台に、紐で十字に縛った月刊誌が、一冊ずつ名前が見えるように重ねて並べられている。しっとり落ち着いた表紙。小学一年生から小学六年生、中一時代から中三時代、中一コースから中三コース。ぜんぶお堅い本だ。
「十字紐を見るとワクワクしたっけ」
「私も。新女苑なんかよく読んだわ。少年マガジンや少年サンデーみたいな週間雑誌が出てから、月刊誌はぜんぜん売れなくなったのよ。小学何年生のような教育的な雑誌は別にして、ほとんどつぶれるんじゃないかしら」
 少年画報、冒険王、少年、日の丸、りぼん、なかよし。なんとか踏ん張って平台に乗っている。サトコの買ってくれたぼくらや幼年ブックはもちろん、漫画王や少年ブックの姿もない。
 T字路の貸本屋の前に立つ。左にいけば千年の交差点、右へいけば市電道沿いの畑。相変わらず廃棄本が積んである。
「ここからよくエロ本を抜いてきた。カズちゃんが机の下から見つけたやつ」
「へえ、ここだったの。カバンに入れて?」
「夜遅く、シャツに隠して。グラビアを見たり、記事を読んだりして、興奮すると、事務所のトイレでオナニーした。六年生から中一のころ」
「まあ、かわいそう。それから中三までよくがまんしたわね」
「カズちゃんがセックスしてくれなかったら、いまもそういう状態だったと思う。おかげで、女というものを別の視点で見られるようになった」
「どういう視点?」
「目で堪能するものじゃなく、からだで堪能するものだって。からだを無視した恋愛はマガイモノだって」
 カズちゃんはにっこり笑って、
「キョウちゃんの童貞奪っちゃって、私、宝石をもらった。……私は処女じゃなかったけど、ほんとうの悦びをもらった。それで許してくれる」
「女神のオーガズムだ。ぼくも宝石をもらったということだね」
 右折し、市電通りを渡って、守随くんの家へ。
「ここが、ぼくに勉強を教えてくれた大秀才守随洋一くんの家だ。彼がいなかったら、いまのぼくはゼロだ」
 カズちゃんはじっと玄関のヤツデの葉を見つめながら、
「いまどうしてるのかしら、その人」
「ここにはいないね。熱田高校を中退したって聞いた。信じられない」
「どこかで力を使い果たしちゃったのね。みんな人知れない事情を抱えているわ。言ってくれないかぎり、何もわからない」
 高橋弓子の家へ。
「顔の四角い、色気だけの女。オードリー・ヘップバーン。いっとき好きになって、すぐ醒めた。頭が悪かった。頭が悪い女だとわかると、突き放したい気持ちになる」
「私も頭はよくないわ」
「すごくいい。言葉がすばらしい。頭の悪い人間は、言葉に宇宙がない。あ、この新聞配達店! エロ写真の桑原に頼まれて、この新聞屋で朝早くバイトした。欠配して一日で首になった。さっきの高橋弓子の家を過ぎたあたりで、きれいな朝日を見てぼんやりしちゃった。そのせいかと思ったんだけど、じつは配達所の店主がくれた地図に、その家が書きこんでなかったんだ」
「まあ、ひどい」
 新聞店から桑原の家を無言で通り過ぎ、もう一度市電道を渡って熱田高校に出る。
「……エロ写真て、どんなだったの?」
「岸辺に引き上げた小舟に、中年のおばさんが手を突いて尻を向けてる」
「わ、恥ずかしい。もろにアワビ」
「そう。黒くてヌラヌラしたものに、男のものが突き刺さってる。それだけ」
「それで詳しく見てみたくなったのね。わかるわ。その桑原って子も、罪なことをしたわね」
 コンクリートの電柱の前に立つ。
「この電信柱のところで女に抱きついたんだ」
「後頭部にハンドバッグがゴツン」
「そう。驚いて、一目散にあっちの市電道へ走り戻って、飯場へ逃げた」
 カズちゃんが私の手を揺すって笑う。
「もう残ってるのは、クマさんの社宅の裏畑しかない。見てもしょうがない。帰ろう」
 タクシーに手を上げる。
「西区の西図書館までお願いします」
「ほーい。白鳥公園から左折して、堀川沿いをいくけど、いいですか?」
「はい、お願いします。あ、キョウちゃん、大将さんの家は?」
「もう、なくなっちゃったからなあ。センチメンタルジャーニーは、これでおしまい」
「労災病院は?」
「ダッコちゃんがいない。……平畑には酒井さんの飯場もない。おしまい。カズちゃんがいなければ、いつまでもこんなところをうろつきながら、つまらない一生をすごしてたと思う。むかしのように輝いてないものを、想像力で飾り立てて歩くような、世にも哀れな男になってた。ほんとにありがとう」
 たぶんこの感謝に似た気分は、彼らに二度と遇えないことの確認だ。カズちゃんが泣いている。
「キョウちゃんと話してると、からだじゅうが澄んでくるの。私、よくない気持ちでいたわ。キョウちゃんをどこかであきらめてたの。死ぬまでいっしょなんていつも言ってるくせに、こんなにやさしくて、美しいキョウちゃんなら、きっと私よりも若いだれかに愛されて、キョウちゃんもその人を愛するようになって、そして私を忘れるでしょう、そうなっても私は愚痴なんか言えないって。ああ、情けない。キョウちゃんにこんなに頼りに思われてることも知らないで、勝手にあきらめてたなんて」
「カズちゃんが弱音を吐いたら、ぼくという心臓の鼓動も弱くなる。それにね、頼りにしてるんじゃなくて、愛してるんだよ。だから、年なんて関係ないんだ。カズちゃんがあきらめたときに、ぼくという心臓も止まるんだ」
「私の心臓さん! 大切な心臓を止めるもんですか。私がうんと栄養つけて、どんどん血を流しこまないと、私も萎びてしまう」
「そんな努力は要らないよ。生きて、そばにいてくれるだけでいい。そうすれば、勝手に血が流れこむから」
「いい話ですなあ!」
 運転手がいたことに気づいた。カズちゃんが飛び上がるように驚いた。バックミラーから覗く顔は、まだ三十前の若々しさを保っている。
「いまの世の中に、お二人みたいな人がおるとはね。人間は捨てたもんやない。ずっと離れんと、幸せにおってくださいよ。ああ、いい話だ」
 運転手が問わず語りにしゃべりはじめた。
「私は、五年前、三重のほうから五歳年上の人妻と駆け落ちしてきましてね、すぐその女は離婚届を三重に送りましたが、ご亭主に了解してもらえませんでね。去年子供ができたのを機に、亭主と話し合いをしました。亭主にもともと女がいたこともあって、どうにか双方の親も含めて和解できました。おたがいに血を流しこんでやらないと、心臓が止まってしまうというのは、まさにこの私たちの五年間でしたよ。この話、女房にも聞かせてやります。泣いて喜ぶだろうな。お二人には私どもみたいな俗な苦労は似合わないし、先にそんな苦労もないでしょう。たぐいまれな長所がありますから」
 私は身を乗り出すようにして訊いた。
「長所というのは?」
「年齢に似つかわしくない幼なさというやつです。生きる情熱のもとです。これに勝るものはありません」
 彼はまだ走りだして十分もしないうちに、メーターをカリッと上げて戻した。
「ここまでの料金でけっこうです。この時代、感謝の気持ちを表すのも、こんなことでしかできないですからね」
 愉快そうにハンドルを切りながら、すいすい車の群れを泳ぎ渡っていった。




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