四十六

 四月六日木曜日。霧雨。食堂の気温は七・四度。きょうからあの偽善的な歌詞で歌われる〈高校三年生〉だ。三年前野辺地の田島鉄工が裏庭で唄っていた。美声だった。
 みんなといっしょの朝めしは、味噌汁に卵ポン。自分で入れた。
 母が部屋までやってきて、
「踊らされるんじゃないよ。人は騒ぎっぱなしだからね。いい陽が照ってると騒ぐけど、影が射したら別のヒナタにいってしまうんだよ」
「わかってる」
「東大に受かったら、卒業しなさいよ」
「わかってる」
 私の合格だけは信じているようだ。信頼にかこつけて無理難題を課しつづける。パタパタと去っていった。テープレコーダーでミスター・ムーンライトを聴く。
 合羽を着て登校。自転車を漕ぎながら、クマさんに出会って以来耳に親しんできた曲を、一つひとつ思い浮かべようとする。制限時間は三十五分。
 悲しき十六歳、パピー・ラブ、アイム・ソーリー、今夜はひとりかい、マイ・ホームタウン、悲しきクラウン、悲しき慕情、悲しき片思い、ボーイ・ハント、青空のデイト、涙の紅ばら、ロコモーション、シェリー、テルスター、マッシュポテト・タイム、レモンのキッス、ヴァケーション、けんかでデイト、ランブリング・ローズ、アルディラ、ティンエイジ・アイドル、ヤング・ワールド、ジョニー・エンジェル、悲しき雨音、ヘイ・ポーラ、霧のロンドンブリッジ、涙が頬を濡らすとき、内気なジョニー、テルスター、恋の売りこみ、ワン・ボーイ、涙のチャペル、サマー・ホリデイ、アイ・ウィル・フォロー・ヒム、太陽に歌って、サスピション、ラノビア、私を愛して、砂に消えた涙、ひみつ、ビコーズ、七つの水仙、涙のバースデイ・パーティ、私のボーイフレンド、ブルー・ベルベット、暑い夏を吹っ飛ばせ、けんかでデート、涙が頬を濡らす時、夢見る想い、頬にかかる涙、ネイビー・ブルー、愛なき世界、悲しきラグドール、アイ・ゲット・アラウンド、ホワイト・オン・ホワイト、十番街の殺人、ダウン・タウン、君に涙と微笑みを、そよ風にのって、恋を教えて……。百分の一も思い出せない。西高到着、時間切れ。
 二年の三学期末の自己申告どおり、理系クラスに進級した。理由は簡単で、数学が不得意だったからだ。文系科目は独学で足りるという見栄があり、自己鍛錬というよりも、自己虐待の爽快感を求めた。A組からH組までが文系クラスで、I組からL組までが理系クラス。編成員数の帳尻を合わせる都合から、文理とも末端の二クラスが五十名に満たなかった。
 三年K組。四十八名。担任は加藤信也。年は三十前後。名古屋大学の数学科を出た小肥りの短軀。桑キンタンに筋肉をつけた感じだ。蓄膿持ちらしく、授業中苦しそうにハーハー口を開けている。浅野のようにチューと鼻をすすれないほど深刻のようだ。
 自己紹介です、と笑って、ギター片手に鼻声で洋物のフォークソングを唄った。オペラふうの発声をする自慢の喉は塩辛で、ギターの腕となると、光夫さんや山口に比べるべくもなかった。とにかく鼻が詰まっているので苦しそうだった。
 理系とあって、さすがに女子生徒は二人しかいなかった。そのうちの一人が金原で、もう一人はどこにいるのかわからないくらい、ひっそりと教室の陰に潜んでいた。鷲津も理系に属したらしいが、ほかのクラスだった。彼女には申しわけないけれども、いなくなってほっとした。
 理系クラスの連中は、文系科目の不得意を大して気にしていない。と言うよりも、ハナからあきらめている。だから、二年生のときよりクラス全体に大らかな雰囲気がただよっていた。一度だけ実力試験で私を負かしたことのある加藤武士が、中心人物らしく鷹揚に構えていた。黒縁眼鏡で痩せこけた加藤は、寡黙で目立たない男だが、彼の隠然とした存在をクラスメイトのだれもが意識していた。
 信也は、将来の人生設計を含めて自己紹介するようにと言った。ほとんどの生徒が、
「まだ決まっていません」
 と答えるなかで、加藤武士は、名古屋訛りのきつい高調子な声で、
「愛知教育大学を出て、教職に就き、最終的に県内のどっかの中学か高校の校長になりたゃあと思ってます」
 と答えた。極めつけの馬鹿だと思った。こういうやつがまちがいなく出世するのだ。出世したいやつだけが出世する―曲げられないこの世の公理だ。私の番が回ってきたので、
「学校の勉強の成果が直接結びつくような人生設計は持っていません。おそらく学校を核に敷かれているレールは、ぼくの場合むだになるでしょう。自分の今後に何が控えているか知るべくもないですが、たぶん、野球を職業にすると思います」
 と答えた。紀尾井雄司という、すぐ後ろに座っている眼鏡の坊主頭が、小さな拍手をした。口内炎か歯槽膿漏を患っているらしく、たえずいやな口臭をただよわせている出っ歯の男で、青高の奥田毅に似ているが、超然とした品に欠ける。口のにおいをまともに嗅ぐのがいやなので、振り返らなかった。私の後頭部に向かってボソボソ言う。
「神無月くんの言うとおりだがや。人間は風のように生きんとあかん」
 何言ってやがると思った。
「神無月くん、数学が五番以内に入ったら、東大カクジツやね」
 風のように生きる哲学を持っているくせに、成績には相当こだわっているのだった。
「いや、本番の数学は零点で出すつもりだ。それでじゅうぶん受かる。東大は、国語百二十、英語百二十、数学八十、社会百二十、理科百二十、合計五百六十点満点。合格ラインは毎年四割五分から五割。五割五分取れば確実だ。ぼくの計画は、国語百、英語百、数学ゼロ、社会四十、理科八十で、三百二十。それで五割七分。百パーセント受かる」
「ヒェー! そんなにうまくいくかな」
「いく。数学が少しでも部分点を取れれば、一番で受かるかもしれない」
 さすがの紀尾井も呆れ、それ以上の会話を避けて教科書に目を落とした。私はあながち無謀な計画でもないと信じていた。
 進学希望アンケートに、私は《東大理Ⅲ》と書いた。文Ⅲと書くべきだが、理系クラスに属した都合上、そう書いただけだった。何にせよ、そもそもこのクラスでは東大志望者が私だけだったので、どんな大言を吐こうとかまわなかった。
         †
 八日の土曜日の一限に離任式があった。定期異動の安中はじめ数名の教師が離任、退職の挨拶をした。君が代が唄われ、校歌が斉唱され、土橋校長から感謝状が授与された。二限目から平常授業になった。
 学校にいると、教室でも、廊下でも、校庭でも、どこにいても気力を維持することができず、いつも虚脱状態になる。
 教室。英・国の授業は、内容を読み取ることよりも、懸垂分詞とか、二項対立とか、くだらない細かな読解技術にこだわっていたし、社会科の教師は、青高の石崎と同じように私たちに尻を向け、黒板にびっしり板書するだけで自得していたし、理科の教師はモルとかパスカルとか、わけのわからない単位の換算に憂き身をやつしていたし、数学の授業では、教師も生徒も何が何やらさっぱり意味のわからない公式を使って、正解を出すことだけに目くじらを立てている。
 廊下。生徒が登校し、下校し、教師が教室に入り、出ていくだけの通り道。私は壁に凭れて、長すぎるスカートを穿いた女生徒たちの硬そうなふくらはぎが通り過ぎるのをぼんやり見つめる。
 校庭。羊どもの不安と性欲を解消する遊園地。彼らはそこでうろうろと歩き回り、烏合し、体育の授業を受けたり、昼休みにソフトボールをしたり、成績や進路の不安を打ち明け合ったり、経験に基づかない猥談を交わし合ったりしている。
「処女膜は五センチあるやろ」
「二センチくらいやないか」
「一ミリぐらいやと思うぞ。でなきゃ、メンスが滲み出してこんやろ」
 彼らは処女膜をコルクか厚紙だと思っている。
 何の成果も得られない、あるいは成果を得るだけの気力を持たない日々から与えられる感懐は皆無だ。どこに座り、どこを歩き、どこでものを食っているときも、私は長くとりとめのない瞑想にふけるのが常だ。飛島寮の机でない場所で催す想念が、言葉を捉え、まとまった文章を創り上げるだけの閃きを持つことはめったにない。そんなまどろんだ精神に染みこんだひそかな自尊心、なんとも風変わりな虚栄心。私は、いつの日か詩人として孤独な部屋の机に逼塞するだろうと心の底で信じている。
         †
 ヒデさんから、青高に合格したという手紙がきた。

 ようやく一歩、神無月さんに近づきました。いつもお顔を思い浮かべて励みました。あと三年です。かならずおそばにまいります。今年から一子さんと力を合わせて勉強するチャンスが増えます。汽車通をします。クラブ活動はしません。
 お祖父さんもお祖母さんもお元気です。神無月さんのお勉強のじゃまになるといけないので、これからは手紙を書くのを極力控えようと思います。
 愛しています。秀子


 それだけ便箋一枚に書いてあった。カバンにしまった。じっちゃばっちゃの手紙以外はカバンに忍ばせる。だれもが一途に生きている。一途なものは人目を刺激する。
 夜、ヒデさんにハガキを書いた。

 おめでとう。これからの三年間、油断なく勉強し、少しずつ青高の猛者たちをなぎ倒し、自信を持って受験してください。汽車通は読書に当てるといいでしょう。ぼくもがんばって勉強しています。山口も東京でがんばってます。祖父母のことありがとう。再会を楽しみにしています。             親愛なるヒデさんへ   郷

 九日、十六日と、庄内川のグランドの練習が雨で中止になった。
 道のほとりでも、廊下でも、ふと、たまらない悲しみが押し寄せてきて、しゃがみこみたくなることが多くなった。顔がゆがんでふるえ、目が痛くなり、思い切り喉を開いて泣きたくなるのだ。得体の知れない〈勝利〉へのあこがれは止むことなくつづいていて、日に日に嵩(こう)じてくる。何に勝ちたいのか、さっぱりわからない。ノートに向かって何か書きだすけれども、それもすぐやめてしまう。勉強も読書も私を充足させなくなってきた。野球以外に何一つやりたいことのない人間―その罪悪感は私を凍りつかせた。
 それでも、世代の離れた社員たちの前では、感情を素直に表したような、生一本な意見を吐き、〈やりたいこと〉に一路邁進しているように思わせ、見方によっては、まるで世の中を全肯定しているように見えるほど明るい態度を通した。小学生のときからずっとこの種の人たちを愛してきたからだった。
 彼らはそんな私に、かつて不良だったなどという片影すら見ることができなかった。そのはずだ。私が不良であったことなど一度もなかったのだから。彼らは世間の側の人たちだった。だから、母のことも確実に〈理解〉し、保守的で心配性の彼女の先走った恐怖が息子に誤った箍(たが)を嵌めてしまったのだろうと見ていた。彼らの見方は正しくなかった。彼女は私を箍に嵌めて取りこんだのではなく、自分ではなく私が愛されることを嫌悪し、箍を外して放逐したのだ。過激な放逐の時代は過ぎ、智謀による穏やかな放逐の時代に入った。ただ、放逐が真意なら、彼女は一つのことを忘れている。このまま放っておけば、私はいずれ彼女の許を去るということだ。放っておかずに引き寄せたのは、ラクに逃がすのではなく、苦しめ絶望させて叩き出したいからだ。
 どうにか馴染んできたクラスメートに対しても、私は社員たちに対するのと同様、少しでも内面の倦怠や苛立ちをにおわせるような物言いをすることを避けた。そして、現実の自分とはまったく異なる単純な情熱家に見せようと努め、何でもないことに大笑いしてみせたり、大仰な感嘆詞を発したり、ときには脳天気な観察家を演じた。あの山口のように明るい調子で人物や社会の批評をしたり、ユーモラスに教師の物まねなどをしたりして、ことあるごとに自分以外のものに関心のあるふりをした。またときには、科学技術の世の中を讃える、几帳面で効率重視の理屈屋を気取って、詩や小説のような情緒的なものを軽蔑するふりもしてみた。
 倦怠や苛立ちの態度がまんいち教師の口から母の耳に入れば、それは彼女の思うつぼになる。―よし、苦しんでいる。
 明るく磊落な人物に振舞っていれば、母はまだ自分の打擲が足りないと誤解して焦るだろう。―どうすればもっと苦しめられるだろうか。
 私が演じようとしていたそういう実体のない人間よりも、実際の私のほうがはるかに空漠とした人間だった。それでも級友たちは、私がそう見せかけようとしている人間として私を好んだ。並外れた成績が、その信頼を裏打ちしていた。



         四十七

 その週の水曜日も雨だった。飛び飛びに二日ほど晴れた日を挟んで、もう十日も雨が降りつづいている。文江さんの休みが水曜日だったことを思い出した。学校の帰りに寄った。サイクルショップに自転車だけ預け、カバンは持った。少し彼女に援助したかったからだ。
「わあ、キョウちゃん、きてくれたん!」
 文江さんは玄関の式台に正座し両手をついて迎えた。
「白い顔!」
 文江さんの化粧っ気のない色白の顔にそう言われて、私は笑った。
「文江さんこそ白いよ。どこか悪いんじゃないの」
 私は明るく笑いながら言った。台所に新品の冷蔵庫が据えてある。
「洗濯機も買ったんよ。あとはカラーテレビだけかな」
「二十一インチがいい」
 そう言って、私はキッチンテーブルの上に、カバンの底から取り出して十万円を置いた。
「あら、どうして……」
「引越ししたばかりで、何やかや物入りだろうと思って」
「……すみません、助かります」
 文江さんは私の学生カバンを隣部屋へ持っていって、長居させる態勢をとった。私は微笑した。戻ってきた彼女はもじもじした。その様子を見て、性欲に義務感が混じった。あれから三カ月経っている。奮い立つだろうか。玄関つづきの居間でインスタントコーヒーを飲みながら、何ということもなく、山口の話をした。彼女は山口に会ったことがなかった。話は長くなったけれども、彼女はじっと聴いていた。
「ふうん、山口さんという人、キョウちゃんと同じ奇人変人やね。友情というより、恋愛に近いわ。……でも、簡単に受からないんでしょう、東大って」
「がんばるよ、全力で」
「私も全力で働きます。……こないだ節子がここにきてね。がっかりした、でもおかあさんの人生だから私は口を出さん、て言って」
「よかったね。相手がぼくだって知らないんだろう」
「もちろん。口が裂けても言わん。ちょっかい出されて、めちゃくちゃになってまう」
「男っけは?」
「ぜんぜんあれせん。キョウちゃんの思い出と心中するつもりやろ」
 文江さんは一種の自己本位から優越した気持ちで娘を眺めていた。それは、体当たりで私を愛することで、いまの自分が逃れることのできた不幸を娘の身の上に照らして閲(けみ)しているといったふうだった。彼女には晩年に手に入れた幸福以外、ほかのことを考える余裕がなかった。
 予想していたとおり、いつのころからか母が弁当を作らなくなっていたので、朝めしを一膳食ったきり、腹に何も入っていない。腹がへっている感じはしなかったが、あえて言った。
「朝から何も食ってない。何か食べにいこうか」
 文江さんはパッと明るく笑い、
「コッペパンとソーセージ買ってあるから、ホットドッグできるよ」
「あ、それもらう」
 薄茶のフレアスカートを翻して台所へいく。タイトやセミタイトを避けて、裾の広がったスカートを穿くのは、予期せず訪ねてきた私にいつ挑まれてもいいように待ち構えているからだろう。私の視線に気づき、
「出勤のとき以外は、スカートの中にパンティを穿いとらんのよ」
 うれしそうに言う。フライパンに刻んだキャベツを入れ、塩コショウで味つけをし、カレー粉をまぶして炒める。下茹でしたソーセージを脇に入れて炒める。いいにおいが立ち昇った。
「うまそうなにおいだ」
「でしょ?」
「ふだんは外食?」
「そんなもったいないことしとらん。会社にはお弁当持っていくの」
 パンを切り、からしを塗って、そこへ炒めたキャベツを敷き、ソーセージを挟んだ。斜めに切って、二切れにして出した。ほかのガスレンジで弱火にかけた鍋が湯気を立てている。
「カレーを作っとるの。トモヨさんと電話で話して、キョウちゃんには手作りのものを食べさせんとあかん言われて」
 うまいホットドッグだった。
「おいしい?」
 笑顔でうなずく。
「満点。この部屋は暑いんじゃない。夏になったら、冷房も完備しなくちゃね」
「和子さんが入れてくれるそうやわ。ええのかな、こんなにしてもらって」
「いいんだよ。遠慮できるようになったら、遠慮すればいい」
 鍋の火を止めて、抱きついてくる。三カ月間の心の準備が彼女を大胆にしている。スカートの下に手を入れると、やはり穿いていない。
「すごく濡れてる」
「はい……」
 テーブルに抱え上げ、スカートをめくって開脚させる。三カ月私を待っていた襞がぬらぬら光っている。黒いトサカのように皺の寄った小陰唇を含む。包皮を舐めたり吸ったりして、二分ほどで気をやらせる。これでしばらく落ち着くだろう。
「ありがと、キョウちゃん」
 カレーができ上がる。辛口と中辛のルーを混ぜて、刺激の強いコクのある味になっている。豚コマの風味がいい。
「うまい!」
「ありがと。……このごろ、老眼が出てきて。このあいだ眼鏡買ったんよ。なんかさびしいわァ。あそこに白毛が生えとって、びっくりして抜いたわ」
「しようか」
「お願いします。最初のとき気を失いかけたから……覚悟します」
 あれほど記憶に馴染んでいた滝澤節子は、もう母親の面影の中にいるだけだ。私はキッチンの隣の寝室へいき、文江さんを布団に横たえると何の言葉もなく挿入する。
「はああ、うれしい!」
 腹の下で文江さんが切なそうに悶えはじめる。やがて激しい高みに昇りつめる。中年女のアクメの姿態の前に、亡霊のように倦怠が甦ってくる。
「キョウちゃん、はよイッてくれんと、私、死ぬ!」
 私は文江さんの唇を吸い、腰を激しく動かす。意識を膣の緊縛にだけ集中する。機械的な快感がやってくる。吐き出す。文江さんはもんどりうつように硬直する。私の小さな快感と文江さんの高潮のあいだに深淵がある。私は機械で、彼女は機械ではない。それは私の倦怠を和らげる。機械でない人びとと関わり合う人生。そう思ったとたん、烈しい命へのあこがれが湧いてきた。
 文江さんがとろりとした目で見上げている。玄関におとないの声がした。
「おかあさん、いる?」
 文江さんは別段あわてる様子もなく、私から離れると、ティシュを股間に当て、立ち上がり、箪笥の抽斗からパンティを出して穿いた。貫頭衣のようなワンピースを被って部屋を出ていった。私は裸のままで蒲団に仰臥していた。
「贅沢に揃えたわね」
 耳慣れた声が聞こえる。胸の動悸が強くなった。文江さんが葵荘を引き揚げて以来、節子はあまりこの家を訪問していないようだ。
「あら、靴が……いらっしゃってるのね」
 履き古したものではなく、大きくなった足に合わせて先週カズちゃんにプレゼントされた高級靴だった。
「ええから上がって」
 節子がキッチンに上がった気配がした。茶の用意をする音がする。
「すぐ帰るから、おかあさん、気を使わんで。おかあさんがそのかたを好きなら、私、何も言わんわ。賛成よ」
 寝室の〈愛人〉に聞こえるように声を低めないで言った。
「ペンダントとキョウちゃんの写真をもらっていくね。またくる。都合のいい日を知らせて」
「うん、わかった」
 文江さんは細く襖を開け、すぐ閉めて、棚のトランクを下ろした。運びこんだ私のカバンが蒲団の裾に見えた。文江さんはチラと裸の私を見下ろし、もう一度襖を細く開けて出ていった。
「おまえも、ええ人を早く見つけんと。おかあさんばかり、幸せになっとれん」
「私はいいの。ずっとキョウちゃんに操を守ってきたんよ。これからも守るわ。私にはキョウちゃんしかいないもの」
「生活は困っとらん?」
「だいじょうぶ。いいお給料もらってるから。でね、知多の日赤からこっちの日赤に移れるよう転勤願いを出したの。こっちで働きながら正看の免許をとるわ。おかあさんにはこれ以上迷惑をかけません」
「なんでまた転勤願いなんか」
「……私、キョウちゃんを愛しとるって、つくづくわかったの。キョウちゃんを侮辱するようなことはもう二度とせん。そんなことするつもりなんかこれっぽっちもなかったのに……。誤解を受けたまま悪い女として去ろうなんて、女の浅知恵ね。これからずっとキョウちゃんのために生きる。大好きなキョウちゃんを失いたくないって、はっきりわかった。だから、素直に生きる」
「こっちの家は? 私といっしょに暮らすん?」
「いいえ。キョウちゃんに何カ月かにいっぺんでもきてもらえるように、日赤のそばにアパートを借ります。キョウちゃんにたとえ恋人がいても、私はそういうことと関係なくキョウちゃんのそばにいたいの。院長先生に相談したら、あの鳥居通りの日赤病院を紹介してくれたわ。五月からお勤めすることになってるの。来年の二月に正看の試験を受ける予定。ちゃんと勉強をつづけてるから、今度こそ受かるわ」
 私は蒲団の上で涙を流した。文江さんの沈黙が冷たく伝わってきた。
「じゃ、おかあさん、仲良くお幸せに。送らなくていいから、ここで。私たちの恩人にくれぐれもよろしく。さよなら」
「さよなら」
 節子が去ってしばらくしてから、文江さんと二人で表に出た。百円で請け出した自転車の荷籠にカバンを放りこみ、雨上がりの暖かい夜風に吹かれて歩いた。
「これで、二人で助け合っていけるね。意外な展開だった」
「悪い子やないとわかってホッとしたわ。親子で力を合わせて、和子さんに早くお金を返さんとあかん。けど、いまさら、私とキョウちゃんの関係は壊されん」
 女に戻っている。親から女への不思議な変わり身だ。
「いつか、節子を抱くん?」
「わからない……」
「……泣けてくるわ。でも、節子を怨まん。あの子もキョウちゃんのことほんとに好いとるから、がまんする」
 潤んだやさしい光が見上げた。
「やっぱり節子の気持ちも、受け入れてやってね―」
「うん。人はだれでも、無意識に予感しながら行動するんだよ。きょう節ちゃんが襖越しにぼくに会えたのは、ぼくに会いたかったからだ。……ぼくは沈黙していた。ぼくの憂鬱の根っこに彼女がいたから。何かが中途半端だったから。結局、自尊心を守りたかっただけだね。みんな一途に生きているというのに、つまらない男だ」
「つまらんなんて、そんなことあれせん」
「つまらない人間だという恥ずかしさだけで、生きる力になる。ぼくは何もない男だけど、こうして恥じる心が消えないうちは、人に喜ばれるようにきちんと生きられる」
 また潤んだ光が見上げた。



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