「あけましておめでとうございます。本年もよろしくお願いいたします!」
「こちらこそ、よろしく」
「さて、新作『ブルー・スノウ』も完成し、今なにか読書なさっているんですか?」
「『にんじん』を読みかえしました」
「ルナールですね。『にんじん』も奇妙な話ですよね。親に虐待されている子供の話ですよね。ルナールの日記を私も少し読んだことがありますが、ルナールの母は精神病にかかり、父は庭の井戸に身を投げて自殺したとありました。なんかお正月から暗い話題ですみません。。」
「僕は、あの作品に暗さは感じませんね。主人公にんじんが人間を愛してますからね」
「正直言って『にんじん』ってどこが名作なの?って思っていましたが、『にんじん』の魅力ってそういうところにあったんですね。すごくよく分かります」
「にんじんの神経の枝向きが愛を目指しているんだけど、その太い根元に愛が溜まってて、ないものを目指しているんではなく、溜まっている愛を枝の先から放水しているような感じに打たれて・・・。実に充実した読後感でした」
「にんじんのそんなはがゆい感情をまわりの家族や友人がまったく理解してない。それどころかにんじんに眼を向けようとしないというところが実に寂しいというか残酷な感じがしました。でも最後ににんじんの自殺を止めた父・ルピックさんの様子で読み手はやっと安心するというか・・・。でも私は先生のような感受性で読めなかったのが残念です」
「すべてのページで彼(にんじん)に救われる思いがしました」
「どうしてですか?」
「つい最近テレビで見たんですが、盲目のテノール歌手「新垣勉」という人が言ってました。『人を変えようとしてはいけない。自分が変わればいい。すべてそういうものじゃないでしょうか』という言葉そのものが、にんじんの心魂です。彼は変わろうとする。人を変えようとしない。それが人を打つんです」
「んんー。何歳になっても変わらない人間って素晴らしいと思っているんですが、先生がおっしゃっている「変わる」というのはまた別な意味のようですね。『変わる』とは一体どういう事なんでしょうか」
「変わらない自分を、それを受け入れない周囲へ溶け込ませるということでしょう。シェークスピアはそれを「円熟」と呼んでます。アイデンティティーを保ちながら他へ融解していくということです。これは、資質みたいなもので、幼い頃からその資質のある人間はこの困難を克服してしまうんです。にんじんみたいに・・・。つまりにんじんは全く変わっていないんです。変わろうとするだけです。愛がなければできない事業です」
「なるほど・・・。安っぽいプライドをもっていたらとても他に融解することなんかできませんね。それでいて真のプライドがなければそのような事業もきっと起こせないんでしょうね」
「まさにその通りです。悪しきプライドというのは学術的にも大変研究されているところです。つい最近も英文で読んだばかりです。それがあると融解が果たせない。つまり円熟できないわけです。それを『円環』と言います」
「『円環』?」
「他を受け入れる入り口がない、閉環状態のことです。自己変容が遂げられません。変容というのはアイデンティティーの基本水量を変えないまま、他からの刺激で水量を増やしていくことです」
「先生はいい文章とは、どのようなものだと思われますか?」
「胸躍る文章でしょう」
「それはストーリーとももちろん関係してくるんでしょうね」
「ストーリーは付属物です!」
「えぇー!!」
「『書く』という作業は病気なので、病気を癒す薬がほしいわけです。その薬がストーリーです。それがないと単なる独白に終わります」
「それというのはストーリーのことですか、文章のことですか?」
「もちろん、ストーリーのことです」
「わかりました。書きたいから書くという衝動が病気で、その言い訳がストーリーということですね。つまり、何かの『話』を書きたいからとか、伝えたいとかそういうことではないということですね。それではもっと具体的に胸躍る文章とは?」
「まず思い浮かぶのは『ヨブ記』です。神への疑惑がストーリーになってます。そして文章は独白です。神への疑惑がなければ単なるわが身を憐れむ独白になってしまいます。つまり、疑惑が独白という病気を癒そうとするヨブの薬になっているわけです。それは読者の胸を躍らせます」
「そうですか、つまり読者の胸を躍らせる文章というのは、書き手の包み隠さない素直なことば、汚い言い方をすれば嘔吐した吐瀉物とでもいったものでしょうか」
「そう、それに整合性があればいい。吐瀉物を吐かなければならなかった整合性です。僕が言いたかった付属物とはそういう意味です」
「いやー、新年からいい話をお聞きできてよかったです。それではまた」
「また」
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