2003年インタビュー

テーマ「味覚」


「こんにちは。このインタビューを心待ちにしている人も多いようなので、張り切ってインタビューさせていただきますと思います」

「そうですか。それは嬉しいですね」

「今日のテーマは味覚なんてどうでしょうか?先生は5年ほど前からご病気のせいで味覚を失ったと聞いておりますが、味覚を失ってからどういう気持ちでお過ごしなのか、残酷な質問かもしれませんが、お聞かせください」

「はい。周りからだいぶ同情されるのですが、正直言って何ということはありません。一つの感覚を失ったことが人生に与える影響など微々たるものです。他の感覚が残っている喜びを知ってその感覚を慈しむ。実は、味覚だけでなく臭覚も失ったのですか、最終的に脳が残って思索できればありがたいという感謝の念がわいてきました」

「思索と感覚はまた別のものだと思います。一度感覚を失ったことが思索というものへ転化され得るとは考えづらいです。もっと突っ込んで言うと、味覚という快楽は人間にとって理屈ぬきで生活するうえで重要な要素を占めているはずです。どうして精神的に耐えられるのかお聞きしたいです」

「はい、おっしゃるとおり確かに耐えてはいるんですね。だから、なぜ耐えられるのかという方向で考えなくてはいけませんね。恐らく、連続性の問題だと思います。感情を含めた思考の快楽は、目覚めているあいだは四六時中意識されるものです。ところが、味覚や嗅覚は間欠的にその意識のなかに紛れ込む異次元の快楽です。一種、人間の身に備わっている麻薬的に快楽といっていいでしょう。それが絶たれた当座は禁断的な症状が出ましたが、ついにそれが克服できたということです。克服できた以上は、耐えるという感覚ではなくなっているわけです。むかしあった快楽として懐かしく思い出すことがあるばかりです。でも実はどういう神経系の作用かはわかりませんが、新鮮なものや、うまく調理されたものを食べると「おいしい」という感覚が昇ってくるようになりました。そのときには必ず、同席しているひとの顔を見ます。そしてかれらの顔から「おいしさ」を確認するのです。そしてそれがまた一つの喜びになりました」

「ちょっと信じられまん。私などすぐに不足を悲しんでしまう性質なので、人がおいしいと言ったら深く傷ついて身の不幸を嘆いてしまいそうです」

「きっとそうではないと思いますよ。人が喜ぶのを見ることが、自分を喜ばせるより、もっと本能的な充実を感じるように創られているはずですから。物を作るのも、会話するのも、文明を進歩させるのも、すべてその喜びがもとになっていると私は思います」

「それでは、先生にとって味覚や臭覚は、人生の大きな要素を過去に占めていましたか?」

「はい。敏感なグルメでした。粗食や豪勢な食事にかかわらず、おいしさに拘っていました。でもそれは、日常的な思索の充実の間にある、ある種の娯楽でした。本能の至福というのは、失ったら失ったですぐに諦めのつくものです。精神の至福は失えば死に直結します。思索できる精力と健康な器官を失わないかぎり、私は生きていけます。悩んだり、喜んだり、怒ったり、悲しんだり、その精力の連続こそ人生です。突発的な感覚の喜びも確かに人生の一部ではあるので、あるに越したことはありませんが、なくても落胆するには及びません」

「先生には不満というものはないのですか」

「不満だらけです。身近な人間も含めて、書いたものを読んでくれる人が少ないこと、押しの弱いせいで人から意地悪い揶揄を受けること、生活が苦しいこと、皮膚が弱いこと、教養がないこと・・・・。これはかなり純粋な不満です。そのほとんどが改善の余地のないもので、諦めに近いものがあります」

「これだけは失いたくないという感覚はありますか」

「連続的な感覚として視覚と聴覚がありますが、とりわけ聴覚は生涯保ちたいですね。人の声色(こわいろ)と音楽は私の生活の重大な部位を占めています。映画ですら目を瞑って聞くことがあるくらいです。声色と音楽をどちらを取るかと言われれば声色です。それは人との会話が私にとってのすべての基本だからです」

「と言いますと?」

「音楽より、会話に思索の泉を見出せるからです。ぼくは小説を書く時も、会話をもっとも重視します」

「話を戻して、どうしても食べられないものってありますか?」

「肉の脂身です。くしゃっとつぶれて、ぬめりのあるものが沁み出してくる感覚がどうしても耐えられません。小さい頃からカレーライスの豚肉の脂身を取り除いて捨てていました(笑)」

「それでは逆に味覚を失っても、今思い出せるもので、好きな食べ物はありますか」

「キャベツの油炒め、大根と豆腐の炒め物、焼き油揚げ、けんちん汁です。果物では、柿、桃、未熟なりんごなどです」

「健康にいいものばかりで安心しました。また、思ったほど先生が悩んでいないので、そのことにも安心しました(笑)」

「はい、ご心配おかけしました(笑)」

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