2003年2月



「ブルー・スノウ」出版決定おめでとうございます!

「ありがとうございます」

「さて、今日は『文体』ということについてお話を聞けたらと思いやってきました。『文体』の良し悪しの判断基準は大変あいまいで、客観的に語るのは難しいと思っています。ショーペンハウエルは、簡潔な文章と書いていましたよね。川田先生も、よい文体の判断基準というものはお持ちですか?また、文体を意識した作品づくりをなさっているのでしょうか?」

「何かの作品に書きましたが、語るように書いている文体、すなわちもっともよく伝達できる文体だと思っています」

「『風と喧噪』で明美の部屋で話している場面でしたね」

「そうでした。上手下手ではなく、伝わるスピードです」

「それでは、そのスピードが速ければ速いほどいいということですか?」

「そうです。ショーペンハウエルのいう簡潔さとはそのことです。豊かなスピードを完遂するためには、描写力が必要になります。心理、風景、事実、といったものを十全の技術(アート)で描き出さなければなりません。簡潔と言うのは、短いとか語彙が簡単だとかいうことではないのです。その描写力によって著者の伝えたいことがどれだけすばやく読者に伝わるか、ということです。例えば、ドストエフスキーの描写は、まわりくどく、遠まわしで、一文一文が長いですが、彼の言いたいことが猛烈なスピードでこちらに伝わります。その秘密は、彼に描写力があるということです。どうして描写力があると言えるのかというと、彼が胸のうちにあることを無駄なく的確に伝える才能があるからです。この無駄のない的確さこそ文体なのです。つまり文体とは、才能の変形物です。僕の言いたいのはこの一言で、文体とは才能(個性)だという事です」

「才能や個性というのは非常に主観的な意見に聞こえてしまいますが、やはり、このようなテーマは客観的に述べるのは不可能でしょうか?」

「そうですね。個性については客観的に語れません。あなたの第二の質問。文体を意識しているかどうか、という点ですが、今,言ったことからすると、意識しないではいられません。自分の才能に関わることですから。才能と言うと、非常にがさつなイメージをもって聞こえるかもしれませんが、知能に近いイメージではなく、芸術家としての資質を問われるといったような恐怖に近いイメージなのです。音楽も絵画も文章も、それを作成する人は、常にこのイメージに冒されています。自分に資格があるか、ということなのです。その資格の基準はきわめて主観的なので、各々の芸術家が彼の感覚に響く才能の定義を持っていて、そこに近づこうと努力しています。つまり、文体は常に理想のかなたにあり、つねに未完成なのです。・・・ところで、あなたつまり読み手の観点から、どのような文体がいい文体だと思いますか?」

「そうですね・・・。このあいだ話したことに戻りますが、胸躍る<部分>にぶち当たると、それが文章であることを忘れさせるものですね。どうして心躍るのか、わくわくするのか、また落涙するのか、その理由さえも探りたくない、という文章です」

「それが描写の成功というものです。あなたにとってその作家は才能があり、文体を持っているということになります」

「そんな一部分にぶち当たると、一瞬、時間を忘れてしまっていた、という感覚があって、そんな感覚を求めて読み進められるというところがあります。そして、その本を読了したあとその内容云々ではなく、その部分を思い出してまた、感慨に浸るということがあります。文章と言う記号的描写が、読み手の頭の中で鮮やかなイメージに変換され、記憶される・・・」

「読者を真剣さの中に引きずり込む理想的な文体のことをあなたは今言ったんです。僕が目指しているのもそれです。永遠の戦いですが常にそれが目標です」

「『風と喧噪』の最終章、横山が霧雨の降る夜中、会津を捜すと場面で、オートバイのヘッドライトに電車に飛び込む会津が浮かび上がるところ、ゾクゾクしました。あそこで会津は「さようなら」って大きく腕をふるんですよね。その顔は絶対横山には見えないはずなんです。でも私には、見たこともない会津の笑顔がアップで見えるんです。・・・・・きっとそれが描写力なんですね。そして横山は「知り合いですか?」という駅員を押しのけて「関係ない、関係ない」といって走り去ってしまう。霧雨はいつのまにか上がっていて群青の空が横山の頭上に広がっている。そのイメージが一瞬のうちに私の頭の中で、私の「死」という感覚と「生」という感覚に結びついて、なんともいえない充実感が襲ってくるんです。深い悲しみであるはずの場面なのに・・・」

「ありがとうございます」

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