2003年4月インタビュー



「先生、こんにちは」

「こんにちは」

「最近、お忙しいですか?」

「仕事準備の忙しさはもう越えました。最新作の念校確認も終わり、ほっとしています」

「それでは、お時間があるときはどのようにして過ごしているんですか?」

「家での映画鑑賞が中心ですね。それと多少の読書と音楽。ジャズを聴くことぐらいかな・・・」

「最近いい映画ありました?」

「ありません。ただ、昭和30年代の児童映画を観返して、『おっ』と思うものはありました。『女中っ子』や『カラス物語』です」

「東映映画ですか?」

「『女中っ子』は日活で、『カラス物語』は東映です。しみじみと胸に触れてくるものがあります。僕はこれまで映画を観過ぎたところがあってか、こういう単純なものに胸打たれます。とは言っても、もっとも自分の好みに合うものは複雑な魂を描いたものですけどね」

「複雑な魂を描いた映画って例えばどういうものですか?」

「『鬼火』、『泳ぐ人』、『質屋』、『冬の猿』、『愛に関する短いフィルム』といったところ・・・」

「またまた渋いところついてきますね(笑)。『質屋』・・・。非常に何て言ったらいいか・・・。この5本に共通する点をひとつあげることができます」

「へぇー。それはどういうところかな・・・。是非聞きたいなぁ」

「孤独な男が主人公である点。そして少し悪い言葉になるかもしれませんが、周りの人間から阻害されているような一種アブノーマルな人間が主人公になっている点です」

「そうですね。そして、そのアブノーマルさが理解されずに、誰ともアウフヘーベンしないという点ですね。そこに深い悲しみがあります。僕だけが泣いてあげて、彼らのアブノーマルな精神とアウフヘーベンしなければならないという使命感が湧きます。それは製作者に対しての共感の涙とも言えます」

「先生は常々、『【私が棄てた女】の主人公ミツの死は、まさしく自殺であり、従容と笑いながら死んでいく』とおっしゃっていましたよね」

「はい」

「2,3年前に浦山桐郎監督の特集番組を夜中に放映してたことがあって、『私が棄てた女』の出演者たちの回顧談をしていたんです。そこでの話題の中心は、ミツの死の場面を何度も何度も撮りなおした、ということでした。ミツが従容として笑いながら、アパートの窓から落ちなくてはならないと浦山監督が非常にこだわって、ミツ役の小林トシエさんが全身痣だらけになった、と言っていました。『従容として笑いながら』という言葉一字一句、先生が言っていたことと同じだったんで、びっくりしたんです。正直言って私は、あの場面は、ミツの自殺なのか、事故なのか区別つかなかったんです。ましてや、笑っていることにも気付きませんでした」

「それはそうですよ。ヤクザに追い詰められて窓から落ちるんですから・・。でもね、ミツは1分1秒たりとも吉岡のことを忘れたことはなく、吉岡の邪魔にならないように身を処さねばならないと思いつめているわけですから、どんなことがきっかけであれ、わが身を消せる場面にぶつかれば微笑みながら死んでいけるわけです。あれは、実に一世一代の名演技だったと思います」

「・・・小林トシエも同じこと言っていましたよ。先生は人の魂が揺れたり、凝縮したりする瞬間を見抜く力があるんですね。まあ、だからこそいい作品が書けるんでしょうね」

「ありがとうございます」

「最近いい映画がないとおっしゃっておりましたが、私も同感です。最近の映画では『スパイダーマン』なんかは面白かったですけど、ただ単にエンターテイメント性ばかりが際立っていて、心をえぐられる作品になかなか巡り会えません」

「んん・・。映画自体はエンターテイメント性が豊かでなければいけないと思いますが、その求められる質が急激に変わってきたんでしょうね」

「そうでしょうか?」

「そうです。間違いないところです。魂を深くえぐられることで傷つけられたり、内省したりする享受者側の自己というものが、極論すれば消滅したと言う事でしょう。原体験の不足です。つまり魂を深くえぐられることで傷つけられたりしたことがないという事です。人は自分の歴史の跡をたどることを求めますが、魂を辿る歴史がないわけです」

「なるほど・・・。さすが『あれあ寂たえ』を書いた人ですね・・・。誰からも聞いたことのない意見を聞けます。。。」

「かつての素晴らしい映画の製作者は、魂の軌跡を失った現代においては徒労に陥るわけです。僕の涙もその徒労に対して流すことが多いのです」

「つまり、初めてそれらの映画を観た時と涙の質が変わってきたということですね」

「はい、まさにそうです。登場人物と製作者をひっくるめての共感と同情の涙になったという事です。涙は僕の心を浄化するので、結局、観ている映画の7,8割方は過去の映画ということになります。それもかなり遠い過去です。書物もそうですね」

「先生は【今】の絶対性を信じますか?」

「過去を見つめる自分が属している【今】の絶対的価値は認められます。僕を存在させてくれる【今】に時間的な価値は認めます。でもそれは存在している『場』であるだけで、場そのものが持っている価値は認めません。つまり、現代にはかなり関心が薄いのです。魂の揺れを価値と認めない現代に関心は持てません。個人が魂の軌跡を失った場所にいのちの運命としては属しているが、価値を認めて参加しようとは思いません。僕の作品が広く受け入れられない所以でしょう。恐らくその一点でしょう」

「それでは現代は何を価値としているとお考えですか?」

「揺れたり、傷ついたりするものの反対物、物質です。つまり、蓄えられるもの、価値評価が単純なものです。『物質』という言い方はあまりにも簡単かもしれません。『物質』で悪ければ、不安定な基盤で生きる『心』の反対物、つまり安定の基盤で生きる『安逸』というものかもしれません」

「もっと具体的に言えますか?」

「言えます。努力の可否に関わらず、僥倖でも努力でも手に入れられる財物です。それが最終目標です。要するに使い道のあるものですね。八木重吉は『役立たぬものに憧れよ』と言いました。くどく言えばその反対物、『役立つもの』です」

「・・・・人間自体は、必ず死ぬものだし、実はその死は明日おとずれてもおかしくない。つまり、自分という人間そのものの生物学的摂理は非常に不安定なものですよね。人が、いや自分が生きるとか死ぬといった不安定な摂理に眼を伏せてしまっているとも言えますね。
 先ほど先生は、【今】の絶対性について、自分を存在させている場としての【今】を第一義としていましたよね。私が思うに普通は、先生のおっしゃったことと、全く正反対の感覚でいる人が多いように感じるんです。つまり自分の所在場所が中心になって、自分そのものがなにか浮遊物のように、くらげのようにふわふわ浮いているというか・・・。周りに作り上げられた【今】に追いつこうと強迫観念に駆られている様に見えんです。笑われないように、目立たないように、場になじむように・・・。一見奇抜に見える服装、髪型。アクセサリー。その本人は『これが自分の個性だ』とか、『人より目立ちたい』なんていう人が多いですが、悲しいことに、その意見自体が一様で、私には非常に月並みで、かえって目立たくするための必死の努力に見えて、痛々しくも見えるんです。つまり、場に非常になじんでいるんです」

「そうですね。テトラポットのそばにいれば、そばにいるように。深海にいれば深海にいるように。養魚場にいれば養魚場にいるように、なじんでいるわけですね(笑)。魚や動物はそれで済みますけど、人間はね・・・」

「なんでも手に入る時代、何でも好きなものを食べられる時代、その現代に不足しているのは『場』を離れた独自の体験だけですね。非常に皮肉です。
 今日は、ありがとうございした。最後に『ブルー・スノウ』の宣伝をしてください!」

「今日の言葉の総まとめとして言えば、『場』を離れての回遊の途上での一冒険という小説です。僕の『場』はいつも人を想う魂の中にありますから。環境を無視して、主人公や彼の周りの人々の魂を見つめてください」


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