2003年6月インタビュー
「2ヶ月ぶりのインタビューです。まずは最新作の出版おめでとうございます」
「ありがとうございます」
「前回は映画の話を中心にインタビューしましたが、最近、A級映画を観ましたよ。『グリーン・マイル』よかったです。テーマは『チャンス』と同じようでしたが、先生はご覧になられましたか?」
「もちろん。数回観直しました。よい意味での現人神がテーマでしたね。よい意味と言うのは、人心を悪の方向へ撹乱しないという意味ですが・・・。『チャンス』の場合、最後まで主人公が神と見破られませんが、『グリーン・マイル』では、主人公が天使であることを彼に関係した人々が認識するという点が違っています。いずれにしてもテーマは善人の救済です。人が善人を目指している以上は救済される映画ですね」
「アメリカはキリスト教圏である影響のせいで、アメリカ映画には頻繁に「神」や「天使」が登場し、無垢の魂や無償の愛の狂言まわしになることが多いですね。『素晴らしきかな人生!』や『ハーヴェイ』なんかもそれにあたる思います。『ベルリン・天使の詩』では、天使のほうが逆に救済される側にまわりたい、つまり苦しみや喜びで自分の感情を彩りたいと願う、また違った意味での救済の作品ですね・・・。
きょうも映画の話から始まってしまいましたが、それはこれぐらいにして・・・。今、ヘルマン・ヘッセの『春の嵐』を読んでるのですが、衝撃を受けたことがありました」
「何ですか? 僕はその『ゲルトルート』という作品は、17歳の時、名古屋に転校したばかりのころ読んだきりだな・・・。確か、足の悪いバイオリニストの話だったような」
「そうです。その主人公が周囲の反対を押し切って音楽学校に入学するのですが、まわりが難なくこなしてしまう学科をクリアできず、また、作曲をしようとしてもごくありきたりなメロディーラインしか浮かばない。音楽に対する情熱も薄れ、そんな自分にやけになってしまうのですが、雪の夜に悪友たちとソリすべりをしている時に、事故にあって足を生涯ひきずるような体になってしまうんです。入院中、眠れない夜を過ごしていたある晩、突如、うつくしいメロディーが頭の中に浮かび、それをきっかけにすっかり主人公は急に明るい気持ちが湧いてくる。見舞いにきた教授にそのことを話すと、その教授は『何だって!君は作曲家になりたいのかね。作曲家になりたいなんていう学生はきまって怠け者ばかりだよ』というのです。結局、主人公はバイオリニストになるために鍛錬をすることを決心するのですが・・・。この教授の言葉がとても、『芸術と学問』の関係性と示す、意味深いものだと思ったんです」
「芸術と学問は双子なんです。芸術は奔放な感覚に溺れる人間の所作で、学問は理性に凝る人間の所作というとても素朴な分類が昔から大勢の人々の心にあります。典型的なのがあなたの読んだヘッセの『知と愛』です。この両者は元来相容れないものとされています。つまり片方が片方の嫉妬の対象となるのです。結局は、あなたの疑問もそういうところに帰結すると思います」
「でも、芸術は学問の対象物ですよね。一人の人間が作り出す作品があるからこそ、その周辺の学問が成立するはずです。それともその芸術家や作品が風化して神聖化されるのを待たなければいけないということなんでしょうか?」
「嫉妬というのはそういう事です。鍛錬の質が違うのです。芸術は恣意的な感性をもとにし、学問は論理的な体系をもとにします。どちらの側もこの鍛錬の仕組みに嫉妬し、憧れるのです。叶わない所作なので、とりわけ学問をする側は芸術作品に権威が添付されないと手が出せないのです。それをあなたは神聖化といったようです。芸術家の側は、学者ほどは権威に憧れることはなく、作品を生み出すことに熱中しているだけのことなのですが、権威によって生きやすくなる状況を嫉妬することはあります。したがって学問の方が一方的に芸術に関係することが多いと言えます」
「私は、キリスト教信者ではありませんが、キリストの磔を芸術と関連させて、非常に象徴的なものと感じる時があるんです。人類の罪を背負って殺されたと言われますが、無垢のキリストに精神的に救済されたということは黙殺される運命にあるというか・・・。よくキリストは赦すために生まれてきたという解釈をされます。その存在自体が見返りのない愛の塊で、見返りがないどころか、大抵のひとには毒され、蔑まれる。真の芸術家も、神聖化される、つまり権威化する(いつ、どんな時をきっかけに権威化されるのかは謎ですが)まで、同じ運命を辿っているように思われるのです。無視され、黙殺されながら、その作品だけは創造者を乖離して生き続け、嫉妬の対象になりえない遠い過去になったとき、権威化するのかもしれません。それを研究する遠い未来の人たちは、あたかもそれをつくり出したかように、その作品名や詳しい内容を口にすること自体が尊敬の対象になりえてしまうのだから不思議です。不思議を通り過ぎて、悪い言葉ですが、非常におろかで、人間として恥ずべきことだと思います」
「真の芸術は現世では罪を背負って、殺される運命にあるという事ですね。それを学問が救ってくれるわけです。恥ずべき行為ではないのです。恥ずべきなのは、研究する自分が神聖になったと錯覚する精神です。その精神を回避できるかぎりは、その学者は立派な芸術家の双子と言えるでしょう。双子の意味がわかってくれましたね。お互いの救済の行為に感動するからこそ、嫉妬しあうわけです。嫉妬が互いを励ますエネルギーになればいいのですがね」
「『人間が神の御手におちるのは恐ろしいことである』という旧約聖書の言葉はまさにその通りですね。感動しました。先生は言葉に対して、非常に自由ですね。そして人間信頼がとても深いことを痛感させられます。
先生の作品で特に「あれあ寂たえ」はとても毒舌な作品として誤解されやすいですが、言葉に対して固定観念に捉われて、がんじがらめにならずに、自由な色眼鏡のない発想で読んでもらうといいなと思います。
また、先生はよく『芸術はうんこだ』とおっしゃっていましたよね。それを聞いたとき私はとても理解できなかったんです。でも、最近その言葉の意味がよくわかるようになりました。同じようなことばがヴェルレーヌの『グロテスクな人々』の中にもありました。『子供にも石を投げつけられ、放つ異臭でみんな避けて通る。その死体は犬も食わない』というような内容です。そんな自分を救済してもらうための、将来の双子に向かっての必死の叫びとも言えますね」
「うれしい言葉です。これからも深い話をしていきましょうね」
「はい」
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