2003年8月インタビュー
「最近、読んだ本の中にこんなフレーズをみつけました。アナトオル・フランスという人が『エピキユウルの園』という作品のなかで次のようなことをいったそうです。
≪自分がある芸術作品を喜ぶのは、その作品の生活に対する関係を発見した時に限る。13世紀におけるフィレンツェの生活を知らなかったら、自分はダンテの 『神曲』を今日のごとくに鑑賞することはできなかったろう。けだしあらゆる芸術作品はその作られた場所と時代とを知ってはじめて正当に愛し、かつ理解できるのである・・・≫
というものです。この文章を読んだ時、私自身は、本当にそうだろうかと疑問に思いました。しかし文学にとって、その作品の時代性の有無は、非常に重要視されているようです。大学の授業などでも必ずといっていいほど、対象作品の書かれた、または扱われている時代性、歴史性というものに着目して講義が展開されます。でも、いろいろな作品を読んできて、その時代性は、書き割り以上の重要性をもたないと感じます。
今日は、このようなことを中心にお話をお伺いできたらと思います。また、HPの訪問者から、【すぐれた文章とは何か?ぜひ先生にインタビューしてほしい】という質問がきていました。それもお話をきかせてください!」
「奇しくも、その訪問者の質問への答えが、あなたの質問への答えです。優れた文章というのは、時代性を感じさせない文章のことです。永遠に新しいとはそういう意味なのです。つまり、文章に永遠性がなければならない。時代性があってはならないのです。あなたが、アナトオル・フランスの言葉に疑問を感じたのは正しい感性です。ことばが織り成される時代的背景に関心がいくというのは、分類学的な興味であって、学問的興味に指先を触れているだけで、人間の精神という重大な解決事に二の腕までを突っ込んでいません。それこそ片手落ちです。あなたの言うとおり、あくまでも時代は書き割りであって、描写の〈ついで〉です。描写すべき対象は人間の精神です。万古不易のものです。それを描ききる人間を天才といいます。私が『あれあ寂たえ』で、≪芸術の遂行は天才以外が成してはならない≫と書いたのは、まさにそのことだったのです」
「それでは、アナトオル・フランスが≪・・・を知って正当に愛し、・・・≫といったのはどういうことなのでしょうか?」
「彼は、生活や社会の枠組みのなかで人間や事象を観察することを愛する人だったのでしょう。その保証を得られた喜びを愛といっているのだと思います。一種の環境論ですね。環境が人を作るという考え方を環境論といいます。私は、その考えを楽観と捉えています。素質は枠組みに影響は受けますが、枠組みよりも確固としたものです。それはとても悲しい事実です。環境を頼む楽観に溺れられないので、辛いことになります。その悲しみを信じるならば、彼は、よき意味での悲観主義者と言えるでしょう。その悲観主義者からのみ芸術は生み出されます」
「わかりやすい説明でした。私はダンテの「神曲」をまだ読んでいませんが、どういうものなのですか?詩ですよね」
「長編詩です。日本でいうと「十便十宜図」のようなものでしょう。「十便十宜図」は、隠遁の便を説いたもので、純粋に宗教的な戒律に従う生活の発展を描いたものではないのですが、人間の精神的な成長を描いたものではあります。ただ、キリスト教的な原罪の観念は、そこにはありません。「神曲」は原罪の追求です。のちの、ゲーテの『ファウスト』に繋がります。苦難の中での魂の成長を描いています。基本的に悲観主義文学です。ワーグナーやニーチェにまでつながります」
「そのような究極的かつ抽象的内容はどちらも「詩」でしか表現できないものなのでしょうか」
「もちろん、そんなことはありません。長年かけて書けるという利点があるだけです。『神曲』はわかりませんが、『ファウスト』の制作には40年かかっています。散文には論理性の破綻が許されないので、長年かけて書くことが苦しくなります。また、韻文の伝統が根強かったせいでもあるでしょう」
「はなしを戻します。思い切っていいますが、つまり、『生活や社会の枠組みの中で人間や事象を観察することを愛するひと』に、苦しみの中で原罪を追求していく姿勢を直感的に理解するのは難しいということなのでしょうか?」
「残念ながら、その通りです。なぜなら、生活や社会の意識は後天的なものだからです。魂に濁りがない時代にその意識は芽生えません。芸術は濁りのない魂で遂行せねばなりません。濁りを拒絶する先天的な、強靭な才能が必要です。私たちはその才能に安心して初めて作品が読めるのです」
「率直なご意見ですね」
「愚直ということです。愚直でないかぎり、人間を背景抜きでまっすぐ見つめることはできません」
「たしかに、隣の人間をまっすぐ見つめることは、私は皆無に等しいですね。初対面の人間は特にそうかもしれません。その人間の背景、つまり、肩書き、地位、生育環境・・・」
「初対面の人間は見つめなくていいんです。印象の蓄積があれば、それが自然と観察に繋がります。精神が見えてきます。そこから、じっくり見つめれば済むことです」
「先生は、そういう観察を作品に反映させていると思うのですが、実生活の人間づきあいが、小説に反映させたいゆえになにか熱が入らず、観察の対象になってしまうということはありませんか?つくり出さない人間にとって、いまの現実しかそのひとには存在していません。そのため、悲しみも喜びも、衝突も交誼も無意識という意味で、純粋に謳歌していると思うんです。でも、作り出す人間は、現実を経験して、さらにもう一度作品を作り出す過程で、二次的な体験をすることができるわけです。いい作品を描くことがいつも念頭にあると、現実での人間関係を冷静に客観視してしまうという事はないものでしょうか?」
「ありません。客観的になったときには、もう、作品は書けません。現実に十分没頭し、挫折し、成功し、喜び、悲しみ、その経験が重層的に体内で再経験されないかぎり、作品には結びつかないのです。作品は主観で書きます。環境のなかの一機能として自分を客観視した時、すべての芸術は死にます。おそらく作品を書く人間は、自分の機能を知らず、誰よりもまじめに現実に没入しているはずです。そうでないかぎり、現実からのリアクションは期待できないし、現実から、なんの実りも得られません。そのHPの訪問者の作品を生み出すための神秘に対する質問の答えは、この愚直なまでの現実没入が解答だと思います」
「作品は、没入した過去やそのまわりにいた人たちへのメランコリーの表現なんですね」
「はい、現実は描きません。単なるトレースはしません。没入した現実の中で、印象が積み重なり、印象の積み重ねが新しく編み直され、作り出すべき人物や環境の下地になります。ここで<観察>がなされます。彼の理想とする人物や風景を観察し直すのです。現実生活でもその観察がなされています。なされ続けています」
「つまり、その現実生活での<観察>というのは、相手が自分にとっての理想の人間だろうという人間信頼をもった目で観察するという意味ですね。理想といっても善人だけといった意味ではないのでしょうが・・・。だからこそ、自分の意に反して、人間が善人や悪人に色変化すると、強烈なインパクトでメランコリーが形づくられるんでしょうね。そのメランコリーを自分のなかでとどまらせるのではなく、作品に残そうという思いはどこからくるもでしょうか?」
「それこそ、アナトオル・フランスとは逆に、絶えず変化する社会の中で、不変の感情的動物である人間に興味があるからです。私は社会には興味はありません。不変の人間を取り囲む現瞬という意味でなら、その意味だけの環境を描きたいとは思います」
「義務感や使命感は感じますか?」
「とても難しい質問です。私が何かを担っている神がかりな人間だとある一瞬高揚することはありますが、作品を書いている時にはその痕跡もありません。何かに憑かれて書いているだけです。私にも結局わからないのです。なぜ自分が書いているのか。ただ、作品を書き上げた時の浮揚感を一度でも多く、経験して死にたいということなのでしょうか」
「先生にとって、書くことが生きることなんですね」
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