2004年7月インタビュー


「青山書店という大きな本屋の倒産が話題になっていますが、ある本によると、出版不況の煽りをうけて、年間千店を越える書店が廃業に追い込まれているということです。そこで今日は、「活字離れ・本離れ」をテーマにお話を伺えたらと思います」

「面白い話題ですね。というよりも常づね頭にあったテーマです。いいタイミングだったと思います」

「どうしていいタイミングだったんですか」

「授業でしゃべったばかりでしたから。活字離れなどない、ということを」

「えっ? どういうことですか?」

「活字離れなど、これから何千年経ってもあり得ません。教育機関も永遠に活字で知識の伝達をするし、庶民の日常生活も日々、新聞で始まるでしょう。また、芸能人の駄本も売れているわけだから、本離れもありません。正確な意味での、知的な『書物』離れがあるだけです。問題は、活字ではなく『知的書物』離れをどう解決するかということです。方策は唯一つ、芸能人など、文章に技量と輝きのない人々が本を書かなくなれば済むことなのです。それが『書物』の信頼回復です。結局、『書物』に対する信頼が消えかかっているわけです。読後に人生を反省したり、希望をもったり、つまりは、生きるエネルギーとなりうる書物が、あまりにも少なくなった。エネルギーにならないとわかっているものを人は食べません。人間は知性のグルメなのです。グルメの舌を満足させない限り、『書物』は売れないでしょう。昔のプロ野球のように打者のすべてにホームランの可能性があるような、そういった信頼が回復すれば、人は『書物』を買うようになります。買った本にハズレがないからです。出版社が目先の金儲けを諦めて、ホームランだけを売る、庶民はそれを買うしかなく、その上、ホームランを手に出来るのだから、結局出版社の経営はうまく立ち行くというわけです」

「んー。結局、『読み手』の好みを深読みし過ぎて、出版界が自分で自分の首を締めた形になってしまったんですね」

「僕は、こういう風潮に切り替わる過渡期に、青春時代を送りました。こんなことがあったんです。書店の店頭に突然、郷ひろみの日記と浅田美代子の詩集が横積みになりました。友人とそれを見かけ、僕は、『ああ、これからは芸能人の本が出版界を牛耳るだろう』と言いました。すると友人はバカにしたような笑いを浮べて、『そんなばかな事が起こるわけがないだろ。芸能人は文章の素人だぞ。素人が玄人の世界を牛耳れる訳がない。杞憂だよ』と言いました。僕は『素人が求められているんだ。みんな玄人には飽き飽きしてるんだよ。十年後を見てみろ。芸能人と五十歩百歩の素人の作家も続出するぞ』と予言したのです。その予言は当たりました」

「それは何年前の話ですか?」

「三十七、八年前の話です。才能のない者に対して、物わかりが良過ぎるようになる時代が訪れると予言したわけです。簡単なことで、大衆社会の爛熟ということを言っただけなんです。その当時は、高校生は年間200冊は本を読んだでしょうし、しかも出版物も本屋も少なかったです。だから、貸し本屋や古本屋が栄えたんです。好況か不況かで言えば、出版界は不況だったはずです。それなのに人は本を読んだし、出版不況などと言われたこともなかったし、どんな小さな本屋も潰れませんでした。これだけ本がある世の中で本当に今、出版不況なんですか? 流通機構の魑魅魍魎(ちみもうりょう)がさまよってるだけなんじゃないですか。独占形態の中で一部の出版社と書店が大儲けしてるんでしょう。本屋が潰れようと潰れまいと僕には関心のない問題ですね」

「大宅壮一の『一億総白痴化』ですね・・・。素人が歓迎されると思い込んでいるのは、一部のインテリ層だと実は私は思っているんです。結局、そういう一部の層が風潮を先導するんじゃないかと思うので・・・。よく、『今、これが求められてる』とか、『今の若者はこういうモノが読みたいんだ』なんて言いますが、正直言って購入層は何でもいいんじゃないかなって思うんですよね。面白ければ・・。ここで『面白さ』とは何だ?ということになると思うんですが、世相を動かしうる熟年世代の実力者たちは、若い購入層、性別の違う女性層、と自分との『面白さ』のギャップを異常に恐怖しているように思えてならないんです。本屋で面白さを求めて買う購入層は、これだけ大たい的に本屋に展開している本なら、今、流行っているんだろう、みんなが支持してるんだから、ハズレる確率は少ないだろうなと思って買う。結局、お互いに恐怖し合っているわけです。でも、結局、面白くなかった。の繰り返しで、がっかりして段々買わなくなり、ある一部の本は一時的に何万部も売れるけれども、永遠性のある本が少ないので、全体の本の購買量は減っていく・・・という仕組みじゃないかと」

「なるほど。恐怖の仕かけ合いか・・・。でも、それは卵が先か、にわとりが先かですね。本質はもっと別のところにある。僕の観た限りでは、卵も鶏もつまり、庶民もインテリも、精神的な深みや綾(ホームラン)を描写したものより、風俗の表層を引掻いたもの(内野安打)により重点を置いているように思われます。これは捻じ曲がった風潮です。その風潮が、変わらない限り、駄本が売れ続けることになる。その大いなる誤謬の風潮が正しい方向に戻らない限り『書物』は売れないでしょう。それを一番よく知っている企業体が利益を予想できる表層操作に対する欲望を捨てない限り事態は全く改善されませんね。思うに、出版企業体の人材改革、これが看過されている最も重要な問題です。なぜなら、その人材によって庶民のものの考え方が方向を定められてしまうから。内野安打を打つ人間が、大居張りに胸を張っている。内野安打を打つにはそれなりの技術がいるのでしょうが、私たちはそんなものに感動してはいけない。ホームランに感動しなければいけない。そんなものは個人の勝手だ、という反駁がすぐに飛んできますが、捻じ曲がっている心持です。彼はホームランを目撃した時、落胆したという経験を持っているのでしょうか。持っていないはずです。ホームランに対する感動を隠すと言うのは、優れた個人否定の危うい考え方です」

「はい。昔はこういう風潮じゃなかったと言えますか? 」

「深みのあるもの、ないもの、どちらを売っても、企業側は儲かるわけです。その企業側が精神の深みや綾に富んだものを売ろうとしていただけのことで、そこから結果される物質的な利潤追求は変わらなかったと思いますね。その利潤によいものを出版したという達成感が伴っていたということです。購入者側も企業側の達成感を信頼して、安心して書物を購入できたし、購入者同士の、流行とは無縁な知識の競争というものもあったんです。出版者、購入者、両者相まって、素敵な回転をしていたんじゃないでしょうか」

「売り手と買い手との信頼回復。なるほど、そうなれば恐怖感は存在しませんね。これしかないですね。究極の解答です。私もそう思います」

「1970年以降から、現代の本はほとんど読まなくなりました。薦められても読みません。出版界とはちがった意味での、幻滅に対する恐怖感が芽生えてしまったからです」

「。。。。」







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