六十

 光夫さんが康男のそばに寄ってきて耳打ちした。
「ゆっくり食っとってくれ。俺、ちょっと若頭と話してくるわ」
 康男はカズちゃんに辞儀をして、光夫さんといっしょにワカのそばへいった。ワカは康男に何やら話しかけられながら、私に向かってうなずいた。私は頭を下げた。権力者である日常をどれほど温かい好意のヴェールで包み隠しても、頭目とされる異形の者を包む冷気を和らげることはできない。氷のようなものがヴェールを貫いてくる。私は深い尊敬の念に打たれざるを得なかった。男たちの何人かが私にビールをつぎにきた。
「ドラゴンズにいったってくださいや。ダフ券しっかり売りますよって」
「お二人、ようお似合いですよ。北村さん貫禄ありますなあ。あご外れるくらいきれいやし。店は継がれるんですか」
 カズちゃんは美しい。どんなにカズちゃんに揶揄されようと、どんなに鼻であしらわれようと、面と向かう男は彼女の美しさにはお手上げだろう。
「継ぎません。一代で終わりです」
「もったいない」
「店そのものがですか? 私の稼ぎがですか?」
「いや、ハハハ、こりゃどうも。その両方ですわ」
「神無月さん、勉強もできて、野球もできるというのは、どういうこって?」
「それは好意的な錯覚です。野球は本能みたいなものでどうにかこなせますが、勉強は努力しつづけないとどうにもなりません。頭が悪いんです。だから、ちょっとサボるとてきめんに成績が落ちます。いまは野球を休んでるので、どうにか形になってますが、それは学校の学科が〈お勉強〉程度のものだからで、この先、大学の学問となるともうさっぱりでしょう。勉強も学問も、ぼくの領分じゃないですね」
「はァ! ミツさんの言うとおり、常人やないわ」
 彼らは愉快がって手を叩き、カズちゃんはいつものとおり私の言葉を韜晦と受け取らずに、やさしい微笑を浮かべた。
 男たちは盛んにグラスを重ね、杯を重ねている。食欲も旺盛で、若衆たちが何度も皿に盛った料理を運びこむ。厨房から出てきた女たちが、ちらほら、夫である男のそばに侍りはじめた。ワカと話を終えた康男は、テーブルの後ろを膝摺りながら移動し、ビールをついで回っている。
 光夫さんがギターを持ち出して、ワカの隣で酒席のバックグラウンドのように弾きはじめた。ワカが私とカズちゃんを手招きした。二人で立っていった。康男が長卓の座に戻った。カズちゃんがかしこまってワカの杯に徳利を傾けようすると、
「北村さんに酒をついでもらう分際じゃありません。酌を要求したんじゃなく、二人の行く末を知っておきたくてね。神無月くんが大学を出られるなり、プロの道に進まれるなりした暁には、北村さんはどういうご予定でおりますか」
「キョウちゃんを型に嵌める気はありません。いつまでもこのままです」
「死ぬまでということですな。それはちと長すぎるな。北村さんがそう思ってあげるだけで、神無月くんはじゅうぶんじゃないかな」
「思うだけではだめです。キョウちゃんは、自由気ままに、枠組にこだわらないで生きていくことにあこがれる人なので、大学も野球も、最後まで全うするかどうかわかりません。そのときに、私がそばについているということが大事なんです。基本的にキョウちゃんは、グランドよりも、机にいることでくつろぐ人です。ある意味、とても利己的で、勉強とか学問のためではなく、考えるという趣味をいきつくところまで推し進めていこうとする人です。考えというのはのべつ幕なしですから、どんな仕事とも両立できないものでしょう。それに徹して生きるには、生活のための仕事をしてはいけません。生活の方便など考えてたら、思索ができなくなります」
 ワカはうなずき、
「思索のいき着く先は、おそらく芸術というものでしょう。それなら、他人の生活の彩りはきちんと描かなくちゃならない。とんでもない観察力が必要になる。無から有は創り出せっこないから、できるかぎりたくさん他人の生活を見聞しなくちゃいけないね。壮大な生き方だ。持てる才能のかぎり生きて、最後は芸術で総まとめするというわけだ」
 ワカはけっして私たちを持ち上げたり見下したりするような態度で接しない。理を立てて、自分が思ったとおりの受け応えをする。カズちゃんが、
「そのとおりです。キョウちゃんにとっては、野球も、勉強も、そして女も、ぜんぶその芸術的な経験の一つなんです。他人の経験を自分の経験と別物として記憶するだけじゃなく、自分を感動させる経験をどんどん血肉にしていきます」
 ワカはキッとまじめな眼つきでカズちゃんを見つめ、
「とりあえず私は、神無月くんの勉強と野球を応援しましょう。北村さん、あんたは神無月くんと心中するつもりだね」
「はい」
「いま康さんにもそれを確かめたところだ。康さんは、神無月くんにもしものことが出来(しゅったい)したら、そのときは命を懸ける気でいるので、会に迷惑がかからんように、杯を返すとまで言った。返させん。神無月くんも殺さん。会が全力で止める。そのためには神無月くんを窮地に陥らせないようにすることが先決だが、どういう理由で神無月くんが窮地に陥ることになるのか忖度は難しい。とりあえず一つひとつ、神無月くんの身の周りの安定と安全を図ることから始めましょう。まずは安定の方面ですが、お約束どおり、微力ながら神無月くんのタニマチである北村席さんの商売が滞らないよう手を尽くします。北村席は神無月くんの先々の大きな城ですからね。区画整理にはいろいろな利権が絡んでくる。自治体や、企業や、商売敵や、ほかの暴力組織といったものに、せっかく北村さんが得た利益を細かくカッ攫(さら)われたのではたまらないでしょう。大門は、うちのシマとして統一しましょう。そのための危ないことは、静かにやりますからご心配なく。あるところにある金というのは悪いものじゃない。有効利用すればすばらしいものになります。神無月くん、きみが社会的に出世してしまえば、経済的な支援なんてものは大して重要ではなくなるんだが、破天荒なきみは出世を棒に振らんともかぎらないからね。次に安全の方面だが、これからきみがどんどん有名になっていくにつれて、マスコミやファンが牙を剥くようになる。直接的な身の危険もあるかもしれない。警固を組織的に行なうとともに、マスコミにも隠然と力を及ぼす必要がある。うちには有力政治家のバックもあるので、それについては安心しなさい。まあ、好きなように生きていけばいい」
 酌をしにきて聞き耳を立てていた一文字眉が、
「駅裏は、××と戦争ですか」
「戦争はしない。鶴舞のほうのシマを多少譲れば納得するだろう」
 私は、われ関せずという様子でギターを弾いている光夫さんに声をかけた。
「光夫さん、小林旭の十字路という歌を知ってますか。むかし康男がよく唄ってたんです」
 長卓にいた康男が、何だという顔で目を挙げた。男たちもいっせいに注目する。光夫さんは、すまなさそうに、
「知らないな。弾いてやりたいがね」
「唄いたいんです。一番を唄うので、二番から伴奏をつけてください」
「やってみよう」
 康男が、
「よう覚えとったな! 神無月」
「康男に聴いてほしいんだ」
 笑いかけ、あぐらをかいたまま唄いだす。

  あきらめて あきらめて
  もう泣かないで
  お別れの お別れの
  口づけしようよ

 ほう! 男たちが感嘆の声を上げた。光夫さんがギターを抱えたまま、驚いた目で私を見た。康男の顔が紅潮し、目に涙がふくらんだ。ワカがカズちゃんと顔を見合わせ、微笑し合った。

  ああ 深い 深い 深い霧の中
  スミレの色の灯が一つ ともる十字路

「人間の声じゃないな!」
 ワカがひとこと言ったとたん、やんやの喝采になった。光夫さんがすぐにギターにうつむいて、奏ではじめた。アドリブを入れたみごとな和音だ。私は立ち上がり、全力を振り絞ることにした。
「俺がうなずいたら、唄いだしてくれ」
「はい」
 美しい調べの切れ目でうなずいたので、深く息を吸った。

  振り向いて 振り向いて
  もう逢えないね
  さようなら さようなら
  枯葉が落ちるよ
  ああ そっと そっと そっとうなずいた
  愛しいあの娘が消えてゆく 霧の十字路

 光夫さんが絃を爪弾きながら、山口のように涙を目に溜めている。男たちのあいだに坐っている女房たちも目頭を押さえた。男たちは私を注視したまま身動きしない。カズちゃんは気丈に微笑んでいたが、ポケットのハンカチを探る仕草をした。ワカは白皙の顔にかすかな驚嘆の色を浮かべ、私に強い視線を注いでいる。康男はしきりに掌で頬を拭っていた。光夫さんがうなずいて、ふたたび歌を誘った。

  夢だもの 夢だもの
  もう帰らない
  幸せに 幸せに
  暮らしておくれよ
  ああ 涙 涙 涙見せまいと
  唇固く噛みしめる 暗い十字路

 じっと男たちが聴き入る中、締めくくりの伴奏が静かに終わった。われに返ったように割れんばかりの拍手が起こった。カズちゃんがハンカチを顔に押し当てた。
「神無月くん、二人といない声だ。すばらしい美声に恵まれたね。利己的な人間、か。聡明な利己主義というやつだ。北村さんの言った意味がよくわかったよ。きみが好きなように生きれば、それだけで周囲の人間は充足する……そんな人間もいるんだな」
 そう言ってうなずくワカに、光夫さんがうなずき返し、
「私が神仙譚と言ったのもそれです。周囲の人間に幸福を与えることで、周囲から守られる。そういう宿命とともに生きないと、あっという間にこの世から姿を消してしまう。神無月さんが、小学校で北村さんや弟に遇ったのも、ひいてはこうしてわれわれに遇っているのも、奇遇と言うよりは必然だと思っとります。ひたすら守られるために生まれてきた人間というんですかね、こういうおかたは、その存在をありがたがらない人間どもにいじめられますから」
「しかし……守ると言っても、どうにも」
「受け入れるだけでいいんですよ。存在を喜んでいるということを見せるだけで、神無月さんは生きつづけるでしょうな。あとは、神無月さんを守っている人たちを援護してやるということですかね」
 康男が長卓からやってきて私の肩を抱いた。
「ありがとな、神無月、ありがとな。見てみ、みんな驚いとるぜ。俺も顔が立ったわ」
 鯛の吸い物が運ばれてきた。私はカズちゃんと席に戻り、急に空腹を覚えてめしを掻きこみはじめた。温かい笑い声が上がった。
 写真屋が入ってきた。奥のテーブルが片づけられ、一同がゾロゾロ移動した。ワカと光夫さんを前列の真ん中にあぐらをかかせて据え、私と康男とカズちゃんがその後ろに膝を立て、男と女房たちが畳に立った。若衆のビデオが回りつづけている。男たちの一人ひとりが火柱であることをやめ、にこやかで平凡な立木になった。
 庭に降りてもう一枚撮った。こんな光景を信じる者はだれ一人いないだろう。しかしまぎれもない事実なのだ。信じる者だけに与えられた夢のような現実だ。撮影が終わると、ワカがやさしく私と康男の肩を抱いた。
「さ、あまり長居しないでお帰りなさい。とりわけ神無月くんは有名人だ。どこから刺さってくるかもしれない人目がある。あなたがたに不都合が起きると、私たちは心苦しい」
 タクシーが待機していた。運転手の硬直した姿勢から、一時間も待っていたのではないかと思われた。ふたたび表の道に勢揃いして男たちが見送る態勢をとった。康男も列の一員になった。光夫さんがワカから封筒を受け取り、列から離れ、
「いらっしゃってくださったお礼です」
 と言ってカズちゃんに手渡した。
「突き返しちゃいけませんよ。今度お越しになるときの足代になさってください」
 私たちはタクシーに乗りこんだ。
「お気をつけて」
 ワカが声を上げると、
「お気をつけて!」
 男たちが一斉に声を揃えて、きびきびと頭を下げた。辻を曲がるとき、康男が一人大きく手を振った。


         六十一
  
「帯つきだわ」
 神宮の森をタクシーの窓から見上げていた私の耳に、カズちゃんの声が聞こえた。目を丸くして封筒を覗きこんでいる。
「帯って?」
「百万円。……キョウちゃんの学費にしてくれって意味ね。足代だなんてしゃれてる。これはこれで貯金しておくわね」
「国立大学の学費は、年間一万二千円だよ。多すぎる。カズちゃんのくれたお金と、飛島の人たちがくれたお金で、四年間、じゅうぶん足りる」
「このひと月、ふた月で、使っちゃったじゃないの」
「と思ったらまた増えた。どうしようかな」
「大学にいったら、物入りよ。いくらあっても何カ月もしないうちに使ってしまうわ。でも、お金のことは心配しないで。私がたくさん持ってるから。それより、このお金、あの人たちにあまり近づいちゃいけないという最後通告みたいなものかもしれないわ。キョウちゃんの身を案じてるのよ。将来に傷がつかないようにって。こんなにたくさんのお金を渡しておけば、気の毒してあまり訪ねてこなくなるだろうと思ってるのね。親切な人たちだわ。今度何かの連絡をするときは、電話だけにしましょう」
「そこまで考えてくれてるんだね。……むかし、病院のロビーで光夫さんが、ヤクザなんてのは、引込み線に隠れてるような存在だと言ったことがあったけど、やっぱり本気でそう思ってるんだ」
「どこかキョウちゃんの〈引いた〉気質と似てる。だから引き合うのね」
「でも、ときどき訪ねないわけにはいかないよ。康男は心の拠りどころだから」
「わかってる。またいきましょう」
 花の木の家まで戻り、学生カバンを持った。
「お金はあとどのくらいあるの?」
「さあ、何十万円―」
「しばらくだいじょうぶね。じゃ、きょうはさようなら。あしたからここに素ちゃんもいるから、安心してね。ときどき北村席に寄って、トモヨさんのことも気遣ってあげて。あと二週間ぐらいだと思うわ」
「お産のときは、病院につめるべきかな」
「テレビドラマじゃないのよ。ふだんどおり勉強したり、本を読んだりしてればいいの。じゃ、あしたは、河原で練習。図書館でしっかり勉強してここにきたら、素ちゃんもいっしょにテレビ塔に出かけるわよ。文江さんを誘って四人で食事をしたあと、うちに寄ってコーヒーを飲んで帰ってね。あさっては練習のあと、図書館帰りに文江さんの家に寄って、しっかりかわいがってあげて」
「わかった」
         †
「きょうは鴇崎の家庭教師の日だから、遅くなるよ」
 鴇崎の家にいく日などない。家庭教師自体が架空の存在だ。母の返事を待たずに自転車に飛び乗る。シロに手を振り、庄内川の河原へ。すでにカズちゃんと菅野がきている。ユニフォームに着替え、一日の日課が始まる。十九日に一回戦を突破した名城大付属高校はきのうの二回戦で敗退していた。選手たちにしおれている様子はなく、いつもより元気なくらいだった。それでも、残念でしたね、とランニングやキャッチボールで顔を合わせる一人ひとりに声をかけた。彼らはいちいち、ありがとうございます、と帽子を取った。
 練習後、中村図書館へ。四時まで古文研究法、赤摂也数ⅡBのベクトル、梶木隆一英語難問集。
 四時半にカズちゃんの家にいき、素子も連れてタクシーでテレビ塔の裾までいく。裾まできたのは英夫兄さん一家ときて以来だ。八年ぶり。七十円を払い、閉店十分前の客のまばらな売店に上がった。文江さんはピョンと跳び上がって喜んだ。
「手相見てください」
「はーい、ここに手を載せてくださーい」
 シンプルな機械に一人ずつ手を載せると、カタカタと掌の形を複写した一枚の紙が出てきた。写し取った掌に重ねて、既成の矢印と説明が刷りこんであるものだった。矢印の先はほとんど皺に一致していなかった。
「コピー紙にもともと書いてあるんよ」
 四人で笑った。
「ごはん食べましょ。どて焼き」
 素子が、
「わあ、一度食べてみたかったんよ」
 文江さんは地上の守衛室に電話をして、閉店後の受け継ぎをした。更衣室で制服を私服に着替えて出てくる。カズちゃんよりよほど質素な身なりだ。エレベーターで降りる。美しい夕陽が鉄格子越しに明滅する。
「あしたの夕方に、文江さんの家にいくよ」
「ほんと! うれしいわ。たまには節子のところにもいったげて。先週、中村公園のそばにアパートを借りたんよ。六畳一間やけど、建てたばっかできれいやよ。あした教えたげる」
「…………」
 カズちゃんが、
「いってあげなさい、何もかも忘れて。文江さん、節子さんの予定を尋いて、キョウちゃんに教えてあげてね」
「はい。ふた月み月に一回でも、節子は大喜びやろ」
 栄の島正という店にいった。
「いつかカズちゃんの言ってた柳橋の屋台だった店?」
「そう。新規開店したみたい」
 涼しげな麻暖簾が垂れ、軒看板に《どて焼き島正》と書いてある。長いカウンターだけの店だ。八丁味噌のにおいが店内にただよっている。
「盛り合わせ二盛り、瓶ビール二本、イカげその塩焼きとレバー炒め。ごはんは、私はどてオムライス。キョウちゃんと文江さんはどうする? オムレツが載ってるのがいいか、載ってないのがいいか」
「ぼくは、牛スジは苦手だから、ソースだれの串カツと、それからオムレツだけ」
「私は、和子さんと同じどてオムライス」
「うちもどてオムライス」
 素子がみんなにビールをつぎながら言う。
「乾杯!」
 グラスを打ち合わせる。四人、一気に飲み干す。
「おいしい! 文江さん、きれいになったわね」
「和子さんにそんなこと言われると、穴があったら入りたなるがね」
 素子が、
「うちはむかしを知らんけど、きれいな人やが」
「ほんとにきれいになったわ。ね、キョウちゃん」
「ああ。出会ったころの節ちゃんみたいだ」
「そんなこと言ったら失礼よ。文江さんは文江さんでしょ」
「いいえ、うれしいです。最近では、節子にもきれいになったってよう褒められます」
 盛り合わせが二皿出てくる。豆腐、こんにゃく、大根、サトイモ、玉子、牛スジ。じゅうぶん四人分ある。彼女たちはまずこんにゃくに手をつける。私は八丁味噌が苦手なことは黙っている。
「うわあ、おいし!」
「ほんと!」
 カズちゃんが文江さんと私にビールをつぐ。イカげそ、レバーが出てきたので、味噌のついていないイカげそを食べる。
「こりゃ、いける」
「でしょ、おいしいものを食べることはとても大事なことよ」
 どてオムライスが三人前出てくる。つづいて私にソースダレの串カツとオムレツ。私は一口頬張ったとたん、箸が止まらなくなった。串カツの肉は柔らかく、オムレツは香ばしかった。
「……節子はいざ知らず、私はキョウちゃんに会わんかったら、このまま年取っていくだけの人生やった。ほんとうに感謝してます。これから、たとえ二年、三年に一ぺんしか会えなくても、死ぬまで別れたくないんです。ええやろか」
 私の目を真っすぐ見る。
「はい」
 カズちゃんがキリリとした表情で、
「文江さん、よく聞いてね。あなたの言うとおり、女はいつも待つしかないの。それを許してもらえたというのは、それで満点ということよ」
「わかってます。幸せですから、それ以上何も望んでません」
「キョウちゃんの人生にタッチはできないし、もちろん変えることはできないわ。節子さんはある意味、変えたと言えるけど、悪い方向へだった。きっと彼女がキョウちゃんのそばにいたい気持ちになったのは、罪滅ぼしをしたいと思ったからね。去るのは自由。キョウちゃんはあなたたちをこれっぽっちも拘束してないんだもの。でも、キョウちゃんを待つだけの努力をすればとんでもない幸福が手に入ることがわかってるから、去ることは無理よね。待つというのがいちばん正しい生き方だと思う。だから、けっして不幸そうにしちゃだめ。不都合なことを要求してもだめ。キョウちゃんがいろいろ考えてしまう。私とも一生付き合いましょう。私だってそばに寄り添うだけの女よ。いつも待ってるの。弓道や水泳にかよったりしてね。キョウちゃんはふだん、女のことなんて思い出しもしない。そういう人。でも、私はつらいなんて思ったことはないの。愛してるから。愛する人には自由にしていてほしいでしょ。それでなくてもキョウちゃんには、これからいろいろな問題が待ち構えてるわ。ただ見守るだけでなく、そのつど力を貸してあげるつもり。精神的にも、物質的にも。それは愛した者の義務。ただできるだけのことをすればいいのよ。待つだけの人生。それでも、一生別れない?」
「はい。いままで死んでたようなものやったから、キョウちゃんが生きてるあいだだけ生きとれば、じゅうぶんやわ」
 カズちゃんはにっこり笑った。
「ごちそうさま」
 みんな満腹になった。もう一度、少しぬるくなったビールで乾杯する。
 タクシーで文江さんの家の表通りまで送っていく。
「きょうはごちそうさまでした。キョウちゃん、あした待っとってええ?」
「うん、かならずいくよ」
 文江さんがタクシーの窓に手を振った。私たち三人も振り返した。
「このまま押切の電停へ回してちょうだい」
「はい」
 タクシーは太閤通から名駅通へ出た。名駅通から那古野に向かう名無しの道へ。素子が、
「ねえ、お嬢さん」
「それやめて」
「―お姉さん」
「何?」
「うち、東京へいって、足手まといにならんかな」
「ならないわよ。私の右腕になるわ。期待してるわよ」
「はい」
 カズちゃんが私に、
「文江さん、書道ができるのに、テレビ塔のお仕事なんかして」
「書道?」
「そうよ。有段者なのよ。知多から出てくるまで、自宅で書道の先生をしてたの。人間と付き合うのが怖いのね。いつもじっと私の話を聴いてるだけ。まじめにね。年を取って生きる手段を持ってないと、人はさびしく見える。文江さんはさびしそうに見えない。からだの底に自信がある。かならず書道を復活してもらうわ。私も東京へいったら、コーヒーの資格を持とうと思ってるの」
「コーヒー?」
「バリスタっていうんだけど、お料理が得意だから、それも生かして、将来、少し本格的な喫茶店を営業しようと思って」
「へえ、いいね!」
「栄養士ぐらいだと、仕事がかぎられてしまうのよね。少し楽しそうな、広がりを持った仕事のほうがいいわ。三年計画ぐらいでいくつもり」


         六十二

 押切で降りて、とっぷり暮れた名無しの市電道を歩いた。郵便局、歯医者、理髪店、蕎麦屋があるくらいで、めぼしい建物のない薄明るい通りだ。
「春日井製菓本社工場。危うくこんなところに勤めて、キョウちゃんとの大切な時間を奪われるところだったわ。おかあさんに止められてよかった」
 辻を曲がって、小振りな林に囲まれた地蔵寺の境内を横目に過ぎる。
「西区にはお寺が多いんだけど、こんなのばかり。東京に出たら、浅草の仲店を歩きましょうね」
「わあ、浅草、いってみたい!」
「どんなところか知らないけど歩こう。曹洞宗地蔵寺か。曹洞宗の開祖はだれだったっけ」
 カズちゃんは呆れたように、
「こら、受験生、道元よ」
「そうだった。鎌倉時代、正法眼蔵、永平寺、シカンタザ。何だっけ、シカンタザって」
 仏教史。受験の重要なポイントなのに、断片的な単語が浮かぶぐらいで、何一つ知らない。
「ひたすら座禅をすること、でしょ。ほんとに社会科が弱いのね」
 カズちゃんには驚かされてばかりだ。彼女に馥郁と備わっている知性は優雅だ。紋切り型の言葉を言ったことがない。
「まるっきり無知だね。中学校のとき平均点以下の点を取って、フランケンシュタインというあだ名の先生にビンの毛を引っぱり上げられた。カズちゃんがテープレコーダーを買ってくれたのも社会科が不得意だったせいなんだよ」
「そうだったわね。教科書一冊吹きこむなんて言ってね。結局音楽用になっちゃった」
「うん。こりゃあと半年くらいじゃ、社会科は、にっちも、さっちも、サッチモオジサン」
 カズちゃんはプッと吹き出した。
「だれ、サッチモオジサンて」
「ルイ・アームストロング。しかし、カズちゃんは何でも知ってるね。才色兼備というやつだ。東大も軽いな」
「雑学じゃ、東大には受からないわよ。受かるには雑学がないほうが有利ね。ものごとを根本的に考えられるから」 
「サンキュー、その言葉、信用しとく。それにしても、お寺は趣味に合わないな。どれほど歴史的に意義があるか知らないけど、神社仏閣、仏像なんか巡ったって楽しくない。まるで修業みたいに巡り歩く人が多いよね」
「ほんと。修学旅行なんか、うんざりしちゃった」
「リアルタイムの生活に目が閉ざされてしまうと、くだらない夢や幻のほうへ目を向けちゃうんだよ。歴史という夢幻にね。生活を忘れて夢を見ることに疑いや苦しみがない。崇拝が勝ってるせいで、からりとして悩みがないんだ。参詣して、賽銭投げて、手をパンパン叩いて、アアヨカッタ」
「きたきた、キョウちゃんの舌。楽しい! でも、人は人よ。それが基本」
 古風な民家の塀の上に、刃物のような忍び返しが植えこまれている。
「こうまでして、盗まれて惜しいものがあるのかな」
 キャハハと素子が笑った。
「キョウちゃんとお姉さんの話、楽しい。あたしもこういう話に参加できるようにしたい」
「思ったとおりしゃべればいいのよ。ちゃんとキョウちゃんは合わせてくれるから」
 夜はすっかり暗いのに、白んだ空に紫がかった雲が一片浮かんでいる。
「あの雲、死体に浮き出した死斑みたいだね。不吉な気分になる」
「こら、〈病気〉が出かかってる」
「ごめん。しつこいよね。われながらイヤ気が差すよ」
「今度きたとき、泳ぎ納めにプールにいきましょ。キョウちゃんと素ちゃんの水着買ってあるの」
「カズちゃんの水着姿、見たいな」
「今度見せてあげる。素ちゃんも見せてあげて。キョウちゃんも穿いてみてね」
 三人おのずと手をつなぎ合って歩いた。
         †
 笈瀬通の薄暗くて辛気くさい家で文江さんを抱く気にならなかった。それなら葵荘の六畳一間のほうがマシだった。それでも玄関の戸を引いた。
 走るように迎えに出た文江さんさんと口づけをする。
「も、だめ、がまんできん、すぐしてくれますか」
 スカートをまくり上げ、下着をつけていない腹部をさらした。ころんとした下半身に縦長の陰毛が貼りついている。私は上がり框に立ってズボンを脱ぎ、萎れた性器を突き出した。文江さんは膝を突いて、飲みこむように含むと、私の尻をつかんで口を前後させた。
「ああ、大きなってきた、うれしい」
「その柱つかんで、後ろ向いて」
「はい。後ろは気持ちよすぎるから、すぐイッてまう」
 びっしょり濡れた性器に挿入し、こじり上げるように往復する。
「あああ! 気持ちいい! いい、いい、あ、イク、イッてまう、イク、イクイクイク、イク!」
 ストンと腰が落ちそうになるのをこらえ、爪先を立てて尻を押しつけてくる。私を呑みこもうとでもするように痙攣する。私も急いで射精し、律動を最後まで伝えて引き抜くと、薄っすらと陰茎に血の筋がついている。板の間に丸くなっている文江さんを見下ろし、
「生理なの?」
 文江さんはふるえながら答える。
「もう生理はあれせんわ。このごろ、よう出血するんよ。更年期やないかねェ。でも、ちゃんとイケるし、キョウちゃんも気持ちええでしょ」
「うん、とても」
 このひと月、かすかによぎっていた不吉な感覚が思い出された。文江さんの顔が青白すぎるのだ。抱き起こし、蒲団へ運んで横にする。
「からだの具合は」
「どこも悪くないんよ。心配せんでもええわ」
 私はティシューで血を拭うと、
「きょうは文江さんの体調が悪そうだから、これ以上長居はしないね。文江さんに積もり積もった疲れがあるみたいだ。きょうは早く休んだほうがいい。また来週くるから」
「そうしてください。なんだか強くイケん気がするし」
 胸が痛んだが、しばらく彼女に寄り添い、最近の節子の近況などを語らせ、気持ちを明るく落ち着いたものに変えてから、蒲団を離れた。
「節ちゃんの住所と電話番号、教えてくれる?」
 文江さんは下着をつけ、箪笥の引き出しを探って紙切れを差し出した。手帳に書き取る。私が押し止めるのも聞かず、文江さんは大通りまで送って出た。白い顔が蒼みを増している。山田三樹夫の顔が閃いた。笈瀬通の停留所からカバンを脇籠に入れ、自転車から文江さんに手を振った。節子によく似た姿がいつまでも手を振っているのを見て、こみ上げてくるものがあった。
 ―生理の血でないような気がする。
 晩年になってからの慣れないセックスで、からだを痛めてしまったのではないだろうか。娘に隠れて、娘のかつての恋人と密通しているという、そして、それを隠し通さなければならないという罪の意識で、心もからだもおかしくなってしまったのではないだろうか。
 中村公園前で自転車を停め、電話ボックスに入る。節子に電話をかける。ちょうど仕事から帰ったばかりのようで、一回のコールで出た。
「あ、節ちゃん」
「わあ、キョウちゃん! うれしい! おかあさんに聞いたのね」
「うん、いまいってきた。中村公園前の停留所にいる。この、コーポ八木というのは、ここからすぐ?」
「ええ、そこを真っすぐ渡って、二分も歩けば右手に村上病院という個人病院があるから、そこの脇道を入った突き当たり」
「いまからいく」
 自転車を漕ぎ出して三十秒もしないうちに、病院の看板が見え、その下からデニムスカートの節子が走り出してきた。胸に抱きつく。
「うれしい! もう会えないと思ってた。私を許してね。もうぜったいあんなことはしません。うれしい、死にそう!」
 手をつないで歩きだす。私は気もそぞろに、節子に導かれるとおりに病院の玄関前の隘路を通って、裏手へ回った。裏は小庭になっていて、その向こうに小ぎれいな二階建てのモルタル造りのアパートがあった。階段を上りながら頭に文江さんの顔を思い浮かべ、口実の言葉を蓄える。
 二階のいちばん奥の室だった。葵荘の部屋とちがって調度が清潔に整っていた。六畳と四畳半。靴脱ぎの両側に小ぶりな流しとトイレもついている。奥の四畳半の窓辺に机と書棚が並んでいた。
「いい部屋だ。勉強がはかどりそうだね」
「ええ、がんばってるわ。ぜったい受かってみせる」
 六畳のテーブルにあぐらをかいて、節子と向き合う。節子は微笑み、
「もう離れない、ぜったい。長いあいだ、ほんとうにごめんなさい。もう一生、キョウちゃんのそばを離れません。もちろんご迷惑がかからないようにします」
 私は節子の手をとり、
「ショックを受けないで聞いてね。じつはぼく……お母さんと」
 節子は明るく忍び笑いをし、
「気づいてました。おかあさんは一所懸命隠そうとしてたけど、キョウちゃんて名前を出しただけで、女の顔になったから。……いつからですか?」
 肩すかしを食った思いだった。
「節ちゃんが知多にいってから」
「そう、よかった。……おかあさん、長いあいだ独りでいたから、とてもさびしい思いをしてきたでしょう。キョウちゃんに救われたんです。そして、そんなつもりはなかったでしょうけど、私のためにキョウちゃんを引き留めてくれることになった。おかげで、いつかキョウちゃんが私のところへきてくれるという希望が持てたの」
 私は節子の手を強く握り直し、
「お母さん、からだの調子悪いって言ってなかった?」
「別に。どうして?」
「出血したんだ」
「出血って……」
「杞憂かもしれないけど、お母さん、悪い病気じゃないかって心配なんだ」
「どういう感じの出血でした?」
「糸状の血がぼくのものにまとわりついた。それから、少し異臭がした」
「においが! ……わかりました」
「どうわかったの」
「膿ね。進行性の子宮癌だって気がします。自覚症状がほとんどない癌だから、長いあいだほっといたんだわ」
「どのくらい」
「癌が膿を持っちゃってるから、二、三年かしら。閉経前後の人がとくに罹りやすい癌だから。でも、膀胱や腸に転移してなければ、子宮摘出だけで助かるわ。おかあさん、かわいそうに。せっかくキョウちゃんに愛してもらえるようになった矢先に」
 テンイという言葉をひさしぶりに聞いた。
「死ぬことは?」
「転移してるかどうか……それから、転移してる場所の危険度にもよるけど、きっと助かります。そう信じるわ」
「ぼくも信じる」
「あした、病院を休んで、おかあさんを日赤に連れていきます」
 節子はすぐに受話器を取り、文江さんに電話をした。キョウちゃんに聞いた、何でもないとは思うけど、あした仕事を休んで検査を受けてほしい、ついていくから、と語りかける。
「ううん、おかあさん、謝らないで。私、喜んでるの。キョウちゃんみたいな人に愛してもらって、これ以上の幸せはなかったでしょう。おかげで病気も見つけられたのよ。まず病気を治さないとだめ。じゃ、あした十時ね」
 節子はテーブルに落ち着き、ようやくホッとため息をついた。
「おかあさんのことは安心して。きょうは抱いてください」
「うん」
 私は素直にうなずいた。三年間の暗鬼の奇妙な総決算だった。
 節子に感じる危うさが確かなものになってからひさしい。その危うさから私は逃げつづけてきた。逃げることは癖になる。逃げることに何の違和感も覚えなくなる。この女はいずれ、母親からも離れるだろうと確信していた。しかし、彼女が知多へ去って以来、私は憎むことをやめ、信頼する心の回復を願うようになった。その隙間に文江さんが入りこんできた。
「お風呂にいきましょう。十分くらい歩くけど、タイル貼りのきれいな銭湯よ」
 風呂道具を持ち、日赤病院のすぐ東にある寿湯という銭湯にいった。住宅地の中に煙突がそびえていた。
「あの角の小さい赤い看板が目印」
 瓦屋根の年季の入った建物だ。木造の正面玄関の壁をアーチ型のコンクリ壁が飾っている。遊郭街らしい造りだった。夕方七時。ほかの客は、時分どきのせいか老人が五、六人。からだを洗う所作に活気がある。
 いつもだれかと歩いてきた。ばっちゃと、柴山くんと、康男と、クマさんと、節子と、カズちゃんと、山口と……。独りで歩いたのは? 工場へ母を迎えにいった道、父を訪ねていった道、堤川の暗い森へ歩いた道……。



(次へ)