六十六 

 信号を渡ったところに『やま』という喫茶店があった。
「ここの鉄板スパゲティおいしいのよ。食べていきましょ」
 しっとり古びた店内だった。冷コーを飲みながら、焦げ茶色の店内を見回す。カズちゃんが腕をこまねきながら、
「すごすぎるわ、キョウちゃんの野球。東大、優勝するかもしれない」
「楽しみだ。一球一球集中して打つとくたくたになるけど、緊張感が解けたときのくつろぎは口じゃ言い表せない。この落差が生命感だと思う。ホームランは射精だね」
「うれしい。いつもあんな緊張感の中で私を抱いてくれてるのね」
「もちろん。カズちゃんも命懸けでくるから」
 また、アハハ、オホホと笑い合う。木枠に鉄板を載せたスパゲティが出てくる。目玉焼で覆い、ミートソースがかけてある。
「ああ、うまいな」
 カズちゃんはスパゲティをフォークに巻いてもりもり食べる。
「あの水着姿の美しさはとんでもないね。カズちゃんを女の基準にしちゃいけないとは思うけど、ついほかの女と比べてしまう」
「恵まれたのね。うれしいことだわ。それ以上に、キョウちゃんの好みの顔とからだに生まれてラッキーだった」
 眉や額の形、目、鼻、唇、頬からあごの線、それをじっと見つめてから私は言った。
「またけいこちゃんの話をするけど」
「けいこちゃんと聞くだけで胸が痛むわ」
「頬が豊かで、二重の目が吊っていて、歯が濡れていれば、だれだってけいこちゃんの要素を持ってることになる。自分の好みがけいこちゃんの面影に支配されているというのは、たぶん考えすぎだ。きっとそこまでこだわったのは、思い出が肉体の秘密の部分から始まったからだと思う。そう思うとちょっとさびしくなる」
 カズちゃんはフォークを置いて、静かに微笑んだ。
「じゃ、ぼく、図書館へいくよ。毎日電話入れる。トモヨさんをよろしく」
「安心して。文江さんの手術の時間も確かめとく。あ、そうだ、これ」
 大バッグから白い封筒を取り出して差し出す。
「三学期の分。五十万円入ってる。大学に入ったら、三カ月ごとにするわ」
「これで一年もつよ。でも、大学にいったら、お父さんお母さんが毎月送ると言ってたよ」
「それはそれ。私は私。お金で自由を奪われるのは切ないことよ。あげるというものは遠慮なくもらっておきなさい」
「わかった。もらっとく。じゃ、さよなら」
 カバンの底に忍ばせる。喫茶店のドアの前で右と左に別れた。
         †
 壁に古文の助動詞表を貼って、三日間でしっかり暗記した。頭の奥にくすぶっていた国語辞典の再暗記の計画は没にした。弛(たゆ)まずつづけてきた言葉ノートの作成でじゅうぶんだ。
 図書館の帰りに、稲葉地の書店の平台に積んであった森一郎の試験に出る英単語、試験に出る英熟語を買ってきてぺらぺらやったが、接頭辞、接尾辞で単語を覚えるという項目があるのが気に食わなかったし、単語そのものもほとんど知っていたので、クズ籠に捨てた。単語は接頭辞や接尾辞と関係なく、ひたすら単語そのものを覚えなければならない。
 赤摂也の数Ⅰ、数ⅡBをこつこつ〈読み〉進めた。来月からは、解の分離と、正四面体の問題に絞ってヤマをかけるつもりなので、数学的な思考鍛錬のためにのみ読む。目標はどちらかの問題の一問完答だ。その他の問題はすべて捨てる。
 八月五日の土曜日に、東京の丸善から段ボール箱が届いた。リクエストした家永三郎の新講日本史のほかに、所長みずから選択したらしい、見たこともない社会科や理科の参考書が七冊も追加してあった。中でも『世界の歩み』というシンプルな名前の岩波新書は教科書よりもはるかに読み応えがあった。私は新本の香りを楽しみながら、少しずつ、そして機械的に、それらを消化していった。
 ほかに大沼所長の買ってくれた参考書は、生物精義、チャート式地学、日栄社三十日完成漢文、大判の英単語トレーニングペーパー全三冊。すべて集中して読んだ。ただ、集中しすぎるせいで歩みはノロかった。たとえば新講日本史に、(出典・鈴木尚著日本人の骨)などと括弧つきで書いてあると、その本を買ってきて克明に読んだ。それでも東大の社会科の論文は十全に書けるはずがないので、部分点で二割を狙うと決めている。地学と生物は、地学七割、生物四割で、五分五割を目標とする。これも自信がある。もう一度計算すると、国語百から百十点、英語百から百十点、数学二十から二十五点、社会二科目で二十五点前後、理科二科目で六十点前後。五百六十点満点中、最低三百十点。五割五分は取れる。確実に合格する。
 毎日カズちゃんに電話した。まだ子供の生まれる気配はなかった。トモヨさんがふうふう言っているという話ばかりする。文江さんの手術は、八月七日の月曜日、午後一時からに延期された。
 男、女、誕生、死、無限。どうしても、馬鹿みたいに、ベン・ケーシーのオープニングのナレーションが頭から去らない。輪廻などという必然をにおわせる常套文句で、人間の偶発的な世界を一からげにすることなどしたくない。トモヨさんの出産と、文江さんの死は宗教的な摂理の環に捉えられるものではない。
「文江さんの生まれ変わりだとすると、トモヨさんは女の赤ん坊を産むね」
 あえて口に出してみた。カズちゃんは私を睨みつけ、
「文江さんは死なないわよ。キョウちゃんもそう思ってるんでしょう」
「うん、強く思ってる。輪廻なんてものにやられてたまるものか。けど、なんか怖いんだ」
「人は一人ひとり完結。死のうと生きようと、ただうなずけばいいことで、怖がることじゃないわ。文江さんには未練がある。未練は〈気〉のようなものよ。エネルギーよ。死ぬはずがないわ」
         †
 手術の日がやってきた。カズちゃんと節子と三人、日赤の玄関に十二時半に待ち合わせて、文江さんの病室へいった。紐で前を縛った緑色の簡易服を着た文江さんが、ベッドの上から手を振った。
「キョウちゃん! 私、がんばるからね」
 私はベッドに寄り、文江さんの手を握った。不吉な思いでいっぱいだったので、微笑しながらその顔のすべてを記憶しようとした。そうして、唇にキスをした。
「体力勝負だぞ。太ってるからだいじょうぶだね」
「うん、だいじょうぶ。ちょっと眠って、さっさと帰ってくるわ」
「待ってるよ。目覚めて最初に、ぼくの顔を見られるようにね」
 節子とカズちゃんが枕頭に寄って、一方ずつ手を握った。
「それほど難しくない手術だから安心して。リハビリのひと月が大事よ」
 うん、うん、と文江さんは節子にうなずく。カズちゃんが握る掌に力をこめ、
「要らないものを取って、早く元気になってね。こんなきれいな人をキョウちゃんが抱くのかと思うと、妬けちゃうわ」
 文江さんはほんとうにうれしそうににっこり笑った。そして簡易服の前をめくって見せた。ふくよかな腹の下に縦長の陰毛が幸福そうに呼吸していた。
「そうそう、その意気よ」
 二人の看護婦がストレッチャーを押して入ってきて、文江さんを台に移した。三人で手術室の前までついていった。ドアが開き、みんなで手を握りながら、がんばって、と声をかけた。文江さんはもう一度にっこり笑って、ドアの向こうへ消えた。節子が不安そうな顔をしていた。
「どうしたの、節子さん。心配なの?」
「子宮と腎臓の一つは摘出が決まってるんですけど、担当医の話だと、子宮体癌は全身に転移しやすい特徴があるということなので、膀胱や直腸、特に肝臓や脳に転移していたら、もう……」
「心配しすぎ。まず楽観しておくのよ。それでだめなときは、悲観するんじゃなくて、〈お受け〉するの。じたばたしてもだめ。ノンシャランと生きるの」
「はい」
「この病院、レストランはないの」
「ほとんどの設備が整ってます。レストランは品目が少ないですけど……。売店でお弁当を買って、別テーブルで食べるということもできます。喫茶店はきちんとした店が開いてます」
「まずレストランね。カレーやスパゲティがあればじゅうぶん。とにかくお腹に何か入れないと。それから喫茶店へいって、コーヒーを飲みながら待ちましょ。手術時間はどれくらいかしら」
「二時間半から、三時間半」
「あっという間ね」
 一階のレストランへいく。かなり品目は揃っていた。カズちゃんはビーフカレー、節子はナポリタン、私はきしめんを注文した。カレー、ナポリタンは百五十円、きしめんが九十円という値段を考え、五十万円という金額の異様さに思い当たった。国立大学の年間の学費は、一万二千円、私大は五万円から八万円、それと比べてもいかに大きな金額か。たしかに適度の金がなければ生命活動の自由が奪われる。意思や思索の自由は残っているとはいっても、健康な命がなければそれも享受できない。健康な命がすべての基盤だ。健康な命を維持するためには金が要る。
「複雑な手術にはお金がかかるね」
 カズちゃんは口に指を当て、
「キョウちゃん、シッ! そんなことは私にまかせておけばいいの」
「あの、それは保険で……」
 節子がフォークを止める。カズちゃんは、
「基本的な手術はそれでいいでしょうけど、そうでない場合は月賦にしなくちゃいけないほどお金がかかるのよ。キョウちゃんも節子さんも、くだらない心配しないの。キョウちゃんを愛してくれる人に、そんな苦労をかけるもんですか。節子さんは、試験が来年に迫ってるんでしょう? 必ず受からなくちゃだめ。うちはね、たまたまお金があるの。私は半年にいっぺん、二百万もお小遣いもらうおバカさんよ。実家があんな商売してるからノホホンとしていられるの。父や母にはもうこのことは言ってあるわ。何も心配しないで。文江さんの手術の成功と、快復だけを祈りましょう」
「すみません……なんとお礼を言っていいか」
「お礼を言う暇があったら、毎日お母さんを見舞うことだけを考えてあげて。キョウちゃんもこれからは勉強で忙しくなるから、毎日はこれないでしょう」
 節子は涙に濡れた目でカズちゃんを見ていた。胸がふさがって何も言えないようだった。
「さ、待つ体力はできたから、ケーキでも食べながらコーヒー飲みましょ。よければ、節子さんの昔話を聞きたいわ。私、裸の人間が大好き。キョウちゃんに遠慮して、一度離れたということは、何か引け目があったということでしょう?」
「はい。私も話してスッキリしたいと思います」
 並びの喫茶店に入って、カズちゃんは節子を私の隣に座らせ、テーブルに着いた。チーズケーキと冷コーを頼んだ。
「いま、お母さんががんばってる最中ね。私たちもがんばって実りのあるお話をしなくちゃ」
 自分の話をまずしなければ失礼だと言って、カズちゃんは、西松の飯場に入るまでのあらましを三十分もかけて語った。とりわけ家業を恥じていたころのヤケな行動について、諄々と語った。
「愛する男がいなければ、ああいうふうに身を売ってしか生きられない人たちもいるってわかるまで、だいぶ時間がかかったわ。でも、たとえ身を売っても、主婦の形だけとって愛してもいない男を虐待している女よりはズッとマシってこともわかった。トモヨさんみたいに、愛する人にめぐり会って、徹底的に救われて、人生を変えてしまう人もいるし。彼女、もうすぐキョウちゃんの子供を産むのよ」
「え! キョウちゃんの……」
 私はうなずいた。カズちゃんがつづけた。
「驚くほどのことじゃないわ。入籍しないから、テテなし児になるけど」
「その人は、どうやってその子を育てて……」
「何のためにこの世の中に、こんなに大勢の人がいると思ってるの。みんなで助け合うの」
「……でも、キョウちゃんの親としての責任は」
「そういう杓子定規な考えに囚われてたら、死んでしまう人もいるのよ。あなたにはキョウちゃんが見えてないの? 子供を望んだのはトモヨさんよ。キョウちゃんはそれに応えただけ。責任はトモヨさんとその周囲の人がとらなければいけないわ。私の父がトモヨさんを養子に採ったから、子供の将来はまったく心配いらないの。トモヨさんの苗字も赤ちゃんの苗字も北村になるのよ。出産も、この日赤ですることになってるの。すごいことだと思わない? こうして愛し合う人間の輪がドンドン拡がっていくの。どう、キョウちゃんのこと嫌いになった?」
 節子はゆるゆると首を横に振った。
「かえって愛情が強くなったでしょう」
 今度はうなずいた。


         六十七

「節子さん、こういうことも思ってない? 高校を出て、そのままプロ野球の選手になれば、キョウちゃんも社会的に自立できるし、はたの者に対しても責任がとれる。なぜ、それを遅らせて、わざわざ大学にいって野球をするんだろう、結局はプロ野球へいくことになるのに、って」
「ええ、ずっと疑問に思ってました……」
「お母さんがそれを許さないの。親が許さないと、未成年者はプロ野球チームには入団できないことになってるの。小学生のころからの、これでもかというほどの残酷な仕打ちよ。でもいまのキョウちゃんは、あのころのキョウちゃんじゃない。これっぽっちも反抗せずに、近道をすっぱりあきらめて、高校の勉強、受験、大学野球、プロ野球と、その一つひとつをできるかぎりぜんぶ受け入れようとしてるの。豊かな経験だと明るく構えてね。経験し、その一つひとつに夢中になろうとしてるの。そういうことってひどく非現実的よね。じゃまされて回り道をする人生を明るく受け入れるなんて。……キョウちゃんは幸せをレールの外に求めてるのよ」
 そう言ってカズちゃんは涙を流した。
「レールの外……」
 と節子は呟いた。
「栄光や成功とは無関係の静かな世界。野球や学歴というのは、キョウちゃんにとってはトロフィーじゃなくて、旅行のパスポートみたいなものかしら。それを見せてスムーズに通過するだけのもの。このパスポートでこういう危険な国を通過してきました、効力あるパスポートです、だからこの危険な国もこれで通っていいでしょうかって。でも、そういう生き方をすることで、キョウちゃんは目的地にしっかりたどりつくことができるの。出世欲や名誉欲にまみれていない、とても清浄な目的地を選んだのよ。そこへ向かうために、キョウちゃんは一つひとつの関門をクリアしようとしてるの。プロ野球でお金儲けをする才覚もあるというところを見せながらね。私はキョウちゃんといっしょに、一生旅をするわ」
 節子はもうまったく驚いた表情や疑惑の表情を見せなかった。
「なんだか、とてもうれしい。そういう人を愛したということが、とてもうれしい。……和子さんやトモヨさんが、キョウちゃんから特別に扱われるのは当然です。でも、きっと和子さんもトモヨさんも、心の底ではいろいろな女の人とキョウちゃんを共有するのはつらいことだと思います。和子さんやトモヨさんが耐えてるなら、私はもっと耐えなくちゃいけない。私もキョウちゃんを心から愛してるから」
 カズちゃんは節子の手をとって、
「嘘だと思うかもしれないけど、私は、つらいとか、耐えてるとか、そういう気持ちになったことはないのよ。考えるのは、キョウちゃんの幸せだけ。あなたも耐えることなんかしないで、ただキョウちゃんを愛すればいいわ。さ、あなたの番よ。聞かせて。私は、キョウちゃんと結ばれるまでのことは、かいつまんで話したわ」
 節子は深く息を吸いこんで語りはじめた。
「いつか康男さんに言われたことがありました。私がキョウちゃんに近づくのを彼が嫌って、しきりに私を説得しようとしてたころです。……神無月はハナからちがうんだよ、勇気とか八方破れとかそんな簡単なもんやない、あいつはふつうでないんや、おまえの好みと、神無月の異常な性格はぜんぜんちがうわ、あいつの命ひとつに、おまえの人生をいくつくれてやっても釣り合わんで、って。……見抜かれてたんです。高校を中退して、名古屋へ出て、勉強して准看になったばかりのころ、昭和区の総合病院に勤めました。そこに通院していた進行性の筋ジストロフィーの患者さんに同情して、旅館に泊まって男女の関係を持ちました」
「初めての男ってこと?」
「はい」
「女ってそういうものよね。初めての男はたいていそういう人なのよ」
「いっしょに死んでくれって言われて、いやだって断ったんですけど、朝起きるとその人、薬飲んで自殺してました。幸い死ななかったんですけど、噂になって、私は病院にいられなくなって、そのことを隠して牛巻に勤めたんです」
 頬が不規則にふるえはじめ、また深く呼吸した。
「それからも、お勤めはまじめにやってました。でも、心の底に、もうどうでもいいみたいな気持が残ってて、勉強する気もなくなってしまって、よくお医者さんと付き合いました。そんなとき、とつぜんキョウちゃんが現れたんです、きらきらした小川みたいに」
「びっくりしたでしょうね。中学生のころのキョウちゃんて、お人形みたいだったから」
「ええ、年の差を忘れて夢中になりました。でも、どこかで道徳心みたいなものがいつもじゃましてて。その中途半端な気持ちのせいで、とうとうあんなことになって……。もう一度偶然遇えたのに、私、二度ともキョウちゃんを振り切りました。正しいと思いこんでた自分の道徳心のせいです。振り切った自分をむごいと思いながら、逃げるように離れていったんです」
「私は、あなたが振り切った一度目のキョウちゃんを追っていったのよ。それからいままでずっと、そばで暮らしてるの」
「すごいことだと思います。私もいまならできるでしょうけど……。こういう言い方も卑怯です。……キョウちゃんが青森へいってから、悲しくて、空しくて、神宮の森を何度も歩きました。冷たい陽が木のあいだから射してきて、えぐられるみたいに胸が後悔でいっぱいになりました。それでも私は自分を正当化するために、遠くへいってしまったキョウちゃんのアラを探そうとしたんです。キョウちゃんがベッドで私のことを、上から見下ろしていた視線を思い出しました。醒めた目でした。すべてを見透かすような目でした」
「キョウちゃんがそんな目をするはずがないでしょう!」
「はい、いまではまったくの誤解だったとわかっています。ただ澄みわたっているだけの目だったんです。それでも私は、何かキョウちゃんの瑕(きず)を捜そうとしました。……あの言葉。いつだったか、中途半端な気持ちでいっしょに歩いていたとき、キョウちゃんは、ぼくとグズグズ付き合わずに安心してもとに戻ればいい、と言いました。一瞬、キョウちゃんが卑怯な私を見抜いてガッカリしたんだと怖くなりました。でも、私はそれを認めたくなくて、その代わり、そんなことを言うあなたがどこかへいってしまえばいいのにって思ったんです。そして実際遠くへいってしまうと、どこかでホッとした気持ちになって、今度はキョウちゃんのことをかわいそうな人間だと思おうとしました。送られる前にいい目を見させてあげてよかったって思いました。たかがからだを与えたことぐらいで……馬鹿な女です」
「ほんとに、馬鹿じゃないの―」
 とカズちゃんが呟いた。
「馬鹿だと気づかない女だったんです。なぜって、康男さんが言ったとおり、この先ずっとキョウちゃんの面倒を見ていけるはずがないし、そんなことをしたら自分の将来はひどく不安定なものになってしまうと思ったからなんです。重たい責任と将来の不都合を私一人ではとても背負い切れない、そんなふうに考えたんです。ほんとに馬鹿でした。いい目を見させてもらったのは私だったのに」
 カズちゃんは節子の手の甲をピシャリとやった。
「面倒くさい人ね。そういう面倒くさい気持ちを向けていい人と、悪い人がいるのよ」
 節子はその手の甲をもう一つの手でくるみながら、
「いまならほんとうにわかるんです。おまえみたいなやつとはハナからちがう、と言った康男さんの言葉の意味も。……とにかく、私は自分なりに精いっぱいだったんです。きれいで、単純で、それでいて難しい心には未練はありましたけど、たとえ未練はあっても、オトナの男を愛するという気持ちからは遠いものでした。そのくせ私は、六歳も年下の中学生にのぼせ上がってしまったんです。そして、私のいいかげんな行動のせいでキョウちゃんを遠くへ追いやってしまった。私は自分の取り返しのつかない行動を棚に上げて、これはおたがいに災難だったと思うしかない、私も遠くへ逃げて姿を消してしまおう、これは裏切りじゃない、私にとってもキョウちゃんにとってもよいことなのだ、キョウちゃんを名古屋に戻してくれるようにお母さんに直訴して助け船なんか出すのは、私の役目じゃない。キョウちゃんは、いずれかならず、寄ってたかってみんなから手を差し伸べられて、何ほどもしないうちに立ち直るだろう、そうなるためにも私は去らなければいけない、いまののままでは、私もキョウちゃんも終わりだ、そう思いました」
 カズちゃんは少し真剣みを増したきつい顔つきになった。
「あなたが去ったから立ち直ったんじゃないわ。だれにもまねのできないやり方で、だれの助けも借りずにしっかり復活して、こうして名古屋に戻ってきたのよ。そうして、たまたま、あなたを見つけた……。そこまで思っていた人とせっかく再会したのに、あなたっていう人は」
 節子は顔にハンカチを当て、喉を鳴らした。
「ごめんなさい、キョウちゃん! 私にしてみれば、母のアパートにあのまま暮らしつづけて、あなたと顔を合わせているうちに、またきっと夢中になって、あなたのそばに長くいすぎることになるだろうって心配になったんです。そのうえ、母が目の色を変えてキョウちゃんの後押しをしているんだもの」
 カズちゃんまでがハンカチで目を押さえ、
「文江さんの情熱は、人間としてまっとうなものよ。キョウちゃんのような人間に愛されることは、とんでもない幸運なの。でもあなたは、幸運より平凡な毎日を取った。きっとあなたには、キョウちゃんのまじめさがどうにも息苦しかったのよ。その苦しい気持ちこそ、愛情なんだって気づかなかったんでしょう。でも、そういう気持ちとは関係なく、キョウちゃんの関心を自分に引きつけておきたいという、自分本位の小ずるい気持ちがなかったとは言わせないわ。……でも、それはずるさじゃないのよ。未練からくる自然な駆け引きなの。あなたはキョウちゃんを、すっぱりあきらめられなかったのよ」
「そうだと思います。家を出ていく前の晩まで、しょっちゅう母に、キョウちゃんのことをどうしようもなく愛してるんだって話しました。思い出のペンダントと写真は、持っていかないことに決めました。いずれ、正看の資格を取って大きな病院に勤め、だれか適当な人と結婚し、子供でも生まれて落ち着いた生活が始まったら、それを手もとに置いて、さびしくなったり悲しくなったりしたときに、いつでも取り出して眺めながら生きる支えにしようと思ってたんです。じつは、キョウちゃんに再会する前からそう思ってたんです」
「どうして置いてったかわかる? 形見なんかじゃなく、ほんとうのキョウちゃんがほしかったからよ。もう一度会いたいっていう思いがあったからよ。お母さんがキョウちゃんとデキてよかったわね。じゃなかったら、それっきりだったわよ。どういう形にせよ、こうして戻ってこれたんだから、めでたしめでたしじゃない。ペンダントや写真よりも、もっと温かい、しゃべって動く、ホンモノとヨリが戻せたんだもの」
「はい。……じつは、母のことは最近知ったんです。最初は少し母に不潔感を覚えましたけど、キョウちゃんのやさしさと母の様子を見ているうちに、人間として、心の底から共感するようになりました」
 ようやくカズちゃんがにっこり笑った。
「心とからだをいっしょに考えられるようになったのね。さっき、お母さんが下半身を見せたときのあなたの微笑み、温かかったわ。―仲良くしましょう」
「はい。もったいないです。和子さんは、女というより、人間の理想です」
「女の理想と言ってもらいたかったわ。土偶みたいなキョウちゃんに比べたら、飾り気の多いチャラチャラ人間よ」
 私にしてみれば、あのころの滝澤節子という女は、自分が欲しいだけの玩具を借りて遊んでしまったあとは、所有欲を隠してもとの持ち主へ戻す律儀な子供に見え、物足りないものを感じていた。考えてみれば、自制や分別に長けた大人の女が、十五歳の少年を人生の道連れにすることなどあり得なかった。私自身のことを考えても、あの恋焦がれていた時期でさえ、欲しいだけのものを彼女から吸い取って、内心では自由になりたがっていたことにあらためて気づいた。彼女には彼女の本領があり、私には私の天地があったことをしみじみと知った。それは私の理性ではなく、生まれながらに私の中にあるすがすがしいほどの絶望感だった。
「ぼくも勝手に節ちゃんを見かぎってたんだ。子供の未熟な考えでね。これからはどんなこともあきらめずに、いつまでもいっしょに暮らしていこう」
「はい。死ぬまで」
「さ、心の底から死にたくないって叫んでがんばってる人のそばにいってあげましょ」
 三人で椅子を鳴らして立ち上がった。
 三時半に手術室前のベンチに座った。二十分ほどしてドアが開き、ゆっくりと搬送車が出てきた。吸入器をテープで口に固定された文江さんが横たわっている。少し眉根にシワを寄せ、咥えた吸入器のせいで間が抜けたふうに口を開けている。マスクを外した医者が、近寄る節子に向かって言った。
「滝澤くん、心配しただろ。手術はうまくいったよ。大腸のほうにも、粘膜内に転移が見られたけど、二ミリ程度の腫瘍だったから、内視鏡切除をしておいた。大腸にほかの転移の心配はないよ。他の部位に転移があるかどうかは、術後の精密検査を経ないとわからないが、患部である子宮頸部、子宮本体、右腎臓の摘出は成功した。その付近に転移は見られなかった。夜半に目覚めて痛みを訴えると思うけど、付き添いが連絡をして痛み止めを打ってもらえるからだいじょうぶ」
 それだけ言うと、私たちにも礼をし、看護婦の押すストレッチャーを黙殺して去った。不吉な気分がようやく融けていった。
「よかったわね、節子さん」
「はい! 腎臓が片方残ったのがいちばんうれしい。子宮はホルモンに関わってませんけど、卵巣や副腎は女性ホルモンのカナメなので、取ってしまうと女でなくなってしまうんです」
 病室に入ることは看護婦に禁じられた。除菌のためだという。
「七時を過ぎたら、付き添いさんといっしょに入ってけっこうです。ビニールの覆いはあした取ります。よかったですね、手術がうまくいって」
 節子は文江さんが目覚めるまで廊下のベンチで待つと言う。節子の唇にキスをして、カズちゃんと玄関を出た。
「いろいろ迷惑かけたね」
「何言ってるの。迷惑かけられたのはキョウちゃんよ。さあ、家に帰って勉強ね。十三日の模擬試験、がんばって」
「文Ⅲ志望者のトップを狙うよ。全国順位がパンフレットに名前付きで発表されるから、そのときは見せてあげるね」
「はい、期待してます」
 かしこまって言った。
「あしたの帰りに、トモヨさんの様子を見に寄ってみる」
「私はずっと北村席に待機するわ。いつ陣痛がくるかわからないから。キョウちゃんのアパートは、菅野さんも手伝わせて、いい物件を見つけておくわね」
 そのままカズちゃんは、病院前にたむろしているタクシーに乗って帰っていった。


         六十八

 八月八日にトモヨさんは出産しなかった。一週間ほど遅れるということだった。ぞろ目の夢が消えた。
 十二日土曜日。小雨と雷鳴で練習中止。図書館。ドラゴンズメモつづき。ついにリアルタイムの人たちに追いついた。
 小川健太郎―右投げ右打ち。百七十二センチ、六十六キロ。福岡明善高校から昭和二十九年東映フライヤーズにテスト入団。肩を痛めて二年で自由契約(クビ)。社会人野球に移り、その後一時野球をやめてサラリーマンを経験。ふたたび社会人野球へ。昭和三十三年から立正佼成会に所属して、さまざまな社会人チームの補強選手となる。昭和三十九年三十歳で中日ドラゴンズ入団。すでに三人の子持ちだった。初年度杉浦監督と気が合わず二軍暮らし。翌年西沢監督に一軍に抜擢され、十七勝九敗、一躍エースになる。去年十七勝十一敗。三年目の今年ここまで十九勝七敗。あらゆるタイトルを独り占めするだろうと言われている。現在三十三歳、四人の子持ち。おもしろい人そうだ。
 中山俊丈―記憶にないのではなく、知らない。左投げ左打ち。百七十六センチ、六十六キロ。甲子園の常連。中商から昭和三十年、左の本格派として中日ドラゴンズ入団。一年目から一軍。三十一年、三十二年と二十勝。防御率一・六二、一・八二。二年連続完封王。その後サイドスローに転向。三十九年、ノーヒットノーラン。翌年引退。生涯肩や肘を痛めたことがなかった。八十三勝九十敗。現在中日ピッチングコーチ。三十二歳。
 大矢根博臣―この名前はハッキリ憶えている。たしか肘の手術のときにも部長先生から耳にした。肘が曲がったまま投げつづけたというピッチャーだ。何度か中日球場でも背番号19を目にしている。右投げ右打ち。百七十四センチ、六十九キロ。観音寺一高から昭和二十九年中日ドラゴンズ入団。三十一年二十勝、三十三年二十四勝。三十二年にはノーヒットノーラン。肘が〈くの字〉に曲がってからのするどく落ちるシュートは有名。三十五年、交通事故で頭蓋骨骨折。三十六年西鉄移籍。三十八年引退。八十六勝五十六敗。現在東海ラジオ解説者。三十二歳。
 江藤慎一―ついにこの男だ。鮮やかな記憶。中日のエイトマン。右投げ右打ち。百七十八センチ、八十キロ。熊本商業、社会人日鉄二瀬、昭和三十四年、わが名古屋にきた年中日ドラゴンズ入団。因縁を感じる。森徹移籍のあと、三十七年から四番に座る。同年巨人戦で審判殴打。気が合いそうだ。去年まで六年連続二十本以上の本塁打。三十九年、四十年、二年連続首位打者。ベストナイン五回。オールスター出場九回。今年九年目。いまのところ十九本塁打。現在三十歳。
 本多逸郎―まったく記憶になし。左投げ左打ち。百七十五センチ、六十七キロ。犬山高校から昭和二十五年投手として中日ドラゴンズ入団。二十七年外野手転向。翌年から一番センターに固定。華麗な守備と俊足。一番センター中の先輩だ。顔もよく似ている。美男子で女子親衛隊につきまとわれた。二十九年優勝の年に二割九分七厘。三十年盗塁王。三十七年退団。三十九年復帰。四十年退団。現在中日二軍監督。三十六歳。
 中利夫―これまたついにきた。《一番センター中、背番号3》。左投げ左打ち。百六十八センチ、七十三キロ。受験校前橋高校から昭和三十年中日ドラゴンズ入団。俊足、疾風。足を挙げないホーバークラフトのような走法が目に残っている。三塁打王四回。昭和三五年盗塁王。ホームランもけっこう打つ。今年いまのところ七本塁打。首位打者を囁かれている。ベストナイン三回。オールスター出場四回。十三年目。現在三十一歳。
 権藤博―天才。雨雨権藤雨権藤。右投げ右打ち。百七十七センチ、七十三キロ。佐賀鳥栖高校、ブリジストンタイヤ、昭和三十六年中日ドラゴンズ入団。新人で開幕第二戦の巨人戦に投げ、四対一で完投勝利。この年三十五勝、防御率一・七〇、奪三振三百十、完投三十二、完封十二、無四球八。新人王、最優秀投手、沢村賞と投手の賞を総なめした。翌年三十勝、防御率二・三三。二年連続三十勝はセリーグ記録。それで彼の投手生命は花と散った。浮き上がる速球は百五十キロ以上あったと木俣達彦が証言している。四十年から三塁手に転向するも、泣かず飛ばず今年に至る。悲しきかな。ベストナイン一回。オールスター出場三回。現在二十九歳。
 高木守道―これまた鮮やかな記憶。背番号1。球団史を通じて名実ともにピカイチの二塁手。右投げ右打ち。百七十四センチ、七十二キロ。岐阜商業から昭和三十五年中日ドラゴンズ入団。五月大洋戦に代走で出場。初盗塁、初打席初本塁打。三十八年から二塁手レギュラー。盗塁王二回。ベストナイン四回。オールスター出場二回。今年八年目。かなり長打力もあり、いまのところ十二本塁打。現在二十六歳。
 メモがすべて終わった。石川啄木の歌集を借りて帰る。世に聞こえた歌人だが、私はこれまで教科書に載っている歌以外は読んだことがなかった。母親をおぶったり、蟹と泣きながら戯れたりするイメージしかなかった。嘘くさい駄作だと思っていたので、傑作を発見しようという心意気だった。
 寮に帰ると、まだ明るいのに、庄内川の土手の草むらにすだく虫の声がはっきり聞こえた。ときどき聞こえる耳鳴りに似ていた。実際の耳鳴りかもしれないと思った。腹がへっていなかったので、食堂にいかずに勉強部屋に戻った。背の高い扇風機が置いてある。所長かだれかのプレゼントだろう。スイッチを入れ、しばらくのあいだ汗をかいた胸に当てた。
 ―カズちゃん。
 感動がせり上げてきた。なんという女だろう。この世の人びとの大半は、目先のことにはこまごまと根気よく心を配るけれども、何か異常なことをやり遂げる信念に欠けている。かつての節子もそうした人間の一人だった。異常なことをやり遂げるためには、カズちゃんのように、自分が実現しようと思う多くのことを生きいきと心に描き出す想像力が必要なのだ。この地上のどこで、いつまで、カズちゃんと二人で時間を忘れていられるだろう。母が部屋にやってきて、
「ごはんは?」
「食べてきた」
「その扇風機、三木さんのお下がり」
「これで夏を乗り切れる。お礼を言いにいってくる」
 みんなでわいわいめしを食っていた。
「三木さん、扇風機ありがとう。助かりました。毎日図書館にいかなくてもすみます」
「首振りの角度を調節できるから便利だぞ」
 飛島さんが、
「寮を出て、半年ヤマゴモリだって?」
「はい、西高のそばにアパートを見つけて、半年猛勉強します」
 所長がさびしげに笑っている。山崎さんが、
「そろそろプロ野球関係者が押し寄せるんじゃねえか。ここは防波堤にしてやるけどさ。俺たちには住所を知らせろよ」
「はい。すみません。プロ入りを拒否しているのでドラフト騒ぎはないし、好意的に手を引く球団も多いでしょうが、ちらほらプロ関係者は様子見にくると思います。アパートにいれば厄介がありません」
 飛島さんが、
「プロじゃなく大学関係者がきたらどうする? 東大はこないと思うけど」
「同じように防波堤になってください。東大に受からないかぎり、何も始まりませんから」
 母がそっぽを向いている。所長が、
「そのことを新聞社が書き立ててくれれば、面倒はないんだけどな」
 母が平身低頭して、
「すみません、くだらないことでお心を煩わせてしまって」
「何がくだらないの。プロ球団が押し寄せるなんて名誉なことじゃないか。佐藤さんには、ことのすごさがどうしてもわからないんだな」
「七面倒くさくさせてるのはおばさんだぜ。東大なんてこだわるから。このままプロにいけば何の問題もない。青森から連れ戻す必要なんかぜんぜんなかったんじゃないの。野球をさせたくなかったんだな。―キョウちゃんの野球の腕がどれほどのものか、目の前で見れば一瞬のうちに解決だがなあ」
「東大なんかにこだわってませんよ。ただ、名門大学の大船に乗らないと、海路は安全でないと言いたいだけでしてね」
「だから、青森高校でよかったって……トップクラスだったんだから」
「野球にかまけてたでしょう。いずれ成績は落ちてましたよ。名門と言っても、東大級でないと、確実な出世は到底望めません。高卒でプロ野球にいって、一年でクビになったらどうします? もう東大になんか受かりませんよ。ふつうの大学にすら受からない。悲惨の極みでしょう? 郷にしても、ほんとにやりたいものなら、走ったり、バット振ったりだけじゃなく、草野球でも何でもやりたがるはずですよ。もうすっかり野球を忘れたみたいじゃないですか。その程度のものだったんですよ。私には見えてましたけどね」
 山崎さんはそれ以上のことを言い出せず、やるせなさそうにカハハハと笑った。佐伯さんは箸を止めてただ神妙に私を見つめ、所長以下三人はわざとらしくテレビに視線をねじ向けていた。そのほかの社員は、いつものようにそそくさとめしを終えると、コンクリートの建物へ引っこんでしまった。
「じゃ、あした模擬試験だから」
「このあいだ全国二番だったんだから、狙うのは一番だな」
 三木さんが目をクリクリ動かす。
 所長が、
「千番でも、二千番でもいい。じゅうぶん受かる」
 飛島さんが、
「そうですよ、百五十万人も高卒者がいて、四十万人が大学へいく時代ですよ。大手の模試なら二十万人は集まる。一番も千番も変わりはないでしょう」
「そりゃそうだけど、キョウちゃんて、夢みたいなことやっちゃうからさあ」
「郷くんはサーカスのオートバイ乗りじゃないですよ。しっかり勉強しろって励ましてあげればじゅうぶんじゃないですか」
 佐伯さんが声を高める。所長が大きくうなずき、
「そうだ、キョウ、しっかり勉強しろ」
「はい!」
「いや、少なくとも狙いは一番だ、キョウちゃん」
 三木さんは私に向かってピースサインを出した。山崎さんが、
「いったいキョウちゃんはこんなとこで何やってんだかなあ。いっしょにいられるのはうれしいけどさ。まだるっこいぜ」
         †
 啄木の一握の砂を開く。前書きから、この歌集が二人の友人に捧げられたもので、病気で死んだわが子を荼毘に付した夜にゲラを受け取ったことがわかる。痛ましい気分になる。
 五章立て。それぞれの章に題名がつけてある。三行書きが新鮮だ。
 名作の発見にかかる。例の蟹の駄作が一首目だ。気持ちを挫かれる。十四首目に母親を背負った歌。だめかもしれない。読み進む。見つけた! 赤丸を打つ。

  
いと暗き
  穴に心を吸はれゆくごとく思ひて
  つかれて眠る


 
ポツリポツリと見つかりはじめた。

  浅草の夜のにぎはひに
  まぎれ入り
  まぎれ出で来しさびしき心

  非凡なる人のごとくにふるまへる
  後のさびしさは
  何にかたぐへむ


 はたらけどはたらけど、の歌もあったが感興が湧かず、とばす。第一章は以上三首。気持ちに勢いが乗ってくる。傑作と駄作がハッキリしているので、読み進めるのがラクだ。



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